第五章 「決まってるだろ」


 学校での生活に大きな変化があったとすれば、武人との関係だろう。
 遼司が武人と戦ったことは、翌日にはもう噂になっていた。しかも、遼司がたった一人で総勢三十名の不良たちを蹴散らし、武人をも屈服させたことになっている。
「無茶苦茶だろう」
 遼司は机に突っ伏して目の前の席で昼食を取っている幸太を疲れた表情で睨んだ。
 普段は持ってきていない弁当を嬉しそうにつついている。
 噂の発信源の一つは、幸太だった。
 遼司が武人の下へ向かって走り出すまでの一部始終を見ていたのだから、そう考えるのは不自然ではない。普通に考えればあの騒動は遼司が片付けたと見られてもおかしくはない。
 事実、恵子が途中で干渉しただけで、戦ったのは実質的に遼司一人だ。
「いやぁ、だって恵子さんの言葉は信じるしかないでしょ〜」
 幸太は幸せそうな表情で弁当の中身を口に運んでいる。
 彼が食べている弁当を作ったのは、恵子だった。
 遼司が展望室へ向かうために駆け出した後、恵子が幸太と接触したらしい。恵子は幸太から遼司が武人の下に向かったことを聞き、香奈を探したようだ。上手く幸太を出し抜いて香奈を捕まえ、遼司の下へと向かったのである。幸太が遼司の戦闘を見ないよう、撹乱のためにキャリアを使っていたのは間違いない。展望室までの道順に辿り着けないように迷わせたのか、時間感覚が狂うような幻でも見せたのか。どんな方法かは遼司には思い付かないし、考えたくもなかった。
 一般人の幸太には、全てが終わってから恵子が適当に尾鰭をつけて話したのだ。
 つまり、噂の出所のもう一つは恵子である。
 恵子は協力料、情報料、感謝料と称して弁当を作ったのだった。実質的には恵子の言葉を信用させて詮索を防ぐための目くらましなのだろうが、効果は絶大だ。
 恵子の手作り弁当が食べられると聞いて、幸太は浮かれていた。恵子の言葉を鵜呑みにして、真実のぼかされた情報を振り撒いている。事後処理としては都合の悪い部分が綺麗に差し替えられた武勇伝になっていたのは遼司にしてみればあまり気持ちの良いものではないが。
 戦いぶりだけが強調されており、武人の下に着いていた不良グループは遼司を一目置くようになった。というより、実質的に遼司が頂点に立つ形となっていた。正気に戻った武人は大人しくなり、グループを解散させたのだ。
「あんまり良い気はしないな」
 遼司は溜め息をついた。
 頭に巻いていた包帯は通学前に外してきた。さほど重傷ではなかったというのもあるが、何度もビジターと戦わされていた遼司の回復力は普通の人間よりも少し高い。血が出ないレベルならとりあえず問題はなかった。
 あからさまに怪我をしていると学校での居心地が悪い。喧嘩については恵子が根回ししたようで、教師陣からは何も言われていない。一体どんな根回しをしたのか、気にはなるが知るのも少し恐ろしい。
「ていうか、何か違うだろ……」
 遼司はバッグからビニール袋を取り出し、机の上に中身を並べた。
 途中のコンビニで買ってきたパンの類が遼司の今日の昼食だ。目の前では恵子手作りの弁当を幸太が食べている。本来なら遼司が持つべき弁当のはずだ。
 何故、息子であるはずの遼司の分の弁当が無いのか理解できない。朝、恵子が弁当を作っていると思ったら、遼司に渡されたのは昼飯代の五百円玉が一つだけだったのだ。
 腑に落ちないものを感じながら、遼司はパンの包みを開ける。
「うめぇー」
「うるせぇこの野郎!」
 嫌味のように声を上げる幸太に返し、遼司はパンを齧る。
「でも、凄いよね……」
 女子の方から声が聞こえた。
「御守君、香奈を守るために戦ったんでしょ?」
 遼司は思わず噎せそうになった。
 表向き、というか恵子の情報では香奈を守るという名目で遼司は武人と戦ったことになっている。似たような噂は学年中、もしかしたら学校中に広まっているかもしれない。だとしても、実際に会話が耳に入ってくると聞き流したりはできなかった。あまり気持ちの良いものではないが。
「格好良いよねぇ〜」
 女子の視線が痛い。遼司は気付いていないフリをするために窓の外へ顔を向けた。
 暫くは噂にされるのだろう。解っていても、こういうのには慣れない。
「大人気だな、勇者様」
「ぶっ殺すぞお前」
 幸太の軽口に、遼司は引き攣った笑みを返した。
 こうやってネタにされるのか、と遼司は大きく溜め息を漏らした。恵子もわざと話を大きくしているに違いない。新手の嫌がらせかと思ってしまう。
 やがて、下校時刻になると遼司は香奈と正門の前に立っていた。
 少し遅れて武人がやってくる。
「すまん、遅くなった」
「よし、行くか」
 武人の言葉に、遼司は駅へと足を向けた。
 他から見れば少し異様な光景だっただろう。香奈の隣に遼司がいるのはいつもの帰宅風景ではあったが、今日は遼司の隣に武人がいる。三角関係と思われていた三人が仲良さそうに歩いているのは見ようによってはかなり異質だ。
 武人が遼司の下っ端になったと噂されそうな構図でもあったが。
 実際は、三人で一緒に帰るように恵子から指示されていただけだ。武人は一時的に遼司の家に居候となっているせいだ。まだ力を使いこなす訓練を受けていない武人が暴走しないよう、香奈を傍に置いておこうという考えなのだろう。学校にいる間は恵子が対処できるが、通学中はそうもいかない。
「訓練って、具体的にどうするんだ?」
 電車を降りて、家に向かう途中で武人が疑問を口にした。
「簡単なことさ」
 次の瞬間には、匠が武人の隣に立っていた。
 武人が驚いて目を見開いたと思ったら、匠は武人の背後に移動している。その足元が僅かに光の軌跡を残していることには、まだ武人では気付けないだろう。
「香奈ちゃんにビジターを召喚してもらって、自分に憑依させるんだ」
 背後から告げられ、武人は驚いたようにまた振り返る。
「素人相手にからかうなよ、親父……」
 遼司は額に手を当てて溜め息をついた。
「荷物を貸して」 
 三人から荷物を受け取り、匠はすぐさま消してしまった。
 跡形も残さずに消失した荷物を見て、武人が目を白黒させる。
 普通、キャリアが力を発現させるためには精神を集中させなければならない。力が発動する際には特有の光が生じる。それが力を発生させるための足掛かりとなる。だが、匠はキャリアの光を極力出さずに力を発動させていた。無駄な消耗を避け、相手に位置を気取られぬように、匠は移動術を極めている。
 恵子とはまた違った方法で、相手に触れることを許さない。匠の恐ろしいところだ。
 遼司と香奈は匠の力を実際に目で見て知っているから驚かないが、初見の武人には驚くことばかりだろう。荷物はそれぞれの部屋に転送されているはずだ。
「じゃ、ちょっと人のいないところへ行こうか」
 そう言って、匠は香奈と武人の肩に手を置いた。すかさず香奈が遼司の手を掴む。
 匠が転送できるのは、自分が触れているものだけだ。本来は自分自身だけを移動させる能力を拡張させて使っているのだが、それができるのも匠の力が尋常ではないレベルに達しているからだった。
 人気のない山奥に移動したところで、特訓が始まった。周り建物はない。確かに、人に見られる心配はなさそうだ。
 香奈は後ろ髪をリボンで縛り、邪魔にならぬようにポニーテールにしていた。
「行くよ〜!」
 目を閉じた香奈の髪が軽く靡いて、右腕を水平に薙ぐ。続いて左手を反対の方向へと開くように薙いだ。香奈の背後に二つの円陣が横並びに出現する。光で描かれた円陣が回転しながら、幾何学文様の密度を増していく。
 円陣に光が満ちた瞬間、左側の召喚陣からはミアが、右側からは三つの首を持った狼のようなビジターが飛び出してきた。
 三つ首の狼、ケルベロスはアウターに存在する獣の中でもかなり獰猛だと言われている。大きさは後ろ足の長さだけで香奈の身長とほぼ同じぐらいだ。人間など一口で飲み込まれてしまいそうな印象を受ける。三つの首は三角形を描くように配置され、上の頭は雷を、右は炎、左は氷のエネルギーを吐き出すことができる。
 ケルベロスはミアの隣で立ち止まり、じっと香奈を見つめている。まるで、命令を待つ忠実な僕のように。
「ミアは私の護衛をお願い。ガルフはあの人の相手になってあげて」
 香奈が左手を差し出すと、ミアは定位置である彼女の肩へと駆け上る。
 ケルベロスのガルフは唸り声を上げることもなく、香奈に小さく頷いて見せた。三つの視線が香奈から武人に移る。
「手加減はするなよ」
 匠が言い放つ。
 手加減をすればキャリアの特訓としては効果が期待できない。匠の育成方針は、常に千尋の谷に突き落とし続ける、というものだ。這い上がってきた子を蹴落とし、匠自身に匹敵するまで繰り返す。短時間の特訓で効果を挙げるための考えだが、される側は常に命懸けになる。
「遼司、お前は武人が憑依に成功したらガルフを引き離してみろ」
 匠の言葉に、遼司は何も答えられなかった。
 課題がいきなり難題過ぎる。
 手加減をするな、ということは、ガルフは殺す気で武人に襲い掛かるはずだ。ケルベロスのガルフは香奈が呼び出すビジターの中では最も匠の言うことを聞く。何の関係もない初対面の相手には獰猛な厳しい態度を取るが、ガルフは自分より上の存在だと認め、仲間だと判断した者に対しては友好的だ。
 死に物狂いで憑依に成功したとして、武人はガルフの力を制御できるだろうか。ケルベロスは三つの力を操るビジターだ。それぞれの力を操ることができて初めて制御に成功したと言える。
「えっと、殺さない程度にお願いね」
 苦笑して告げる香奈を安心させるようにガルフは頷いて、駆け出した。
「ガァァァアアア!」
 三つの口が咆哮を上げ、遼司の真横を一瞬で通り過ぎて武人へと突き進む。ガルフの三つの口の端に、三種類のエネルギーが溢れ出す。上の頭部では口の端から電撃の火花が散り、右では火の粉と陽炎が、左では冷気を帯びた白い空気が揺れる。
 武人の表情が引き攣る。それでも歯を食い縛り、目を見開いて真正面から突撃してくるケルベロスに身構えていた。
 力の使い方自体は昨日のうちに説明されていたらしい。武人はいとも簡単にキャリアの力を発動できていた。
「うおおおおおっ!」
 武人が両腕を顔の前で交差させる。そこから一メートルほど前方の空間に、香奈が呼び出すものと良く似た円陣が浮かび上がる。違っているのは、円陣の中を駆け巡る光の方向性だった。
 外側から内側へと収束するように幾何学文様を描きながらいくつもの光が流れて行く。中心と外縁に縁取られた二つの円は互いに逆の方向へと回転し、流れ込む光の量が急速に増加してゆく。
 両腕の交差を左右に開くのと、ガルフが円陣に突っ込むのとは同時だった。円陣に頭から飛び込んだガルフは、光の粒子に分解されていた。フィルターによって光の粒子に変えられたかのように、円陣の向こう側では光の粒子が武人へと叩き付けられる。ガルフだった光の粒子は武人の身体に吸い込まれるように雪崩れ込んでいき、やがてガルフの身体が全て光に分解されるのと同時に円陣は消失した。
「ぐ……ぅ!」 
 ガルフを取り込んだ武人が胸を押さえて呻き声を挙げる。
「憑依自体は問題なさそうだな」
 匠は腕組みをして頷いている。
 遼司は嫌な予感がした。
 武人の目が血走ったものに変わり、異様な気迫を纏って遼司を睨み付ける。
「制御には時間がかかりそうだな」
 声が聞こえた時には、既に匠の姿は消えていた。
 武人の後方に位置する木の上に香奈と共に移動している。香奈は太い枝に座るように、匠は足場の不安定さを全く感じさせずに立っていた。
「え、あの?」
「次は遼司の番だから、俺たちは邪魔しない」
 驚いたように匠の顔を見上げる香奈へ、遼司の父はにっこりと笑って見せる。
 冷や汗が遼司の頬を伝う。
 目の前では武人の肩が震え始めていた。恐らく、ガルフの力を上手く制御できていないのだ。自分から憑依の力を使ったことで、悪魔に取り憑かれた時よりも自我は保っているようだが、あの悪魔に比べたらガルフの力は大き過ぎる。暴れ出しそうになるガルフの野生を抑え込むことができれば、遼司の安全も確保できるのだが。
「すまん、遼司ぃぃぃイイイイ!」
 最後は絶叫になり、武人はガルフの憑依に失敗した。
 地を蹴り、遼司へと突撃してくる武人の速度は、悪魔に憑依されていた時よりも格段に速い。遼司が武人の動きを認識した時には、既に拳は目の前に迫っていた。
 間一髪のところで直撃はかわしたが、頬を掠めた一撃に遼司は口元が引き攣るのを感じた。
 武人の左手が下方から斜めに振り上げられる。開かれた爪で引き裂こうとするが、遼司は飛び退いて交わした。これもギリギリだ。着地した瞬間には、武人の拳がまた目の前まで迫っている。遼司は身を屈めて拳の下をすり抜け、肩から武人に突進する。だが、横合いから振るわれたもう一方の腕が遼司の首を捉える。
「うぉあ!」
 咄嗟に腕を挟んだが、受け止めきれずに吹き飛ばされた。背中から木に叩き付けられ、幹を圧し折って遼司は地面に転がる。身体が地面に着いた瞬間には、武人は攻撃の射程範囲に遼司を引き込んでいる。
 両手だけしか使わない、単純な戦い方ではあるものの、武人の身体能力は凄まじいまでに向上していた。ケルベロスが戦っている時の速度に匹敵するほどの身体能力で追ってくる。
 三つ首がそれぞれに持つ特殊能力が使われていないだけまだマシだ。もしも、特殊能力まで使われていたら、ケルベロス相手に遼司が敵う道理は無い。ケルベロスは自分の力を応用することで様々な恩恵を行動にもたらせるのだから。
「力使わないと死ぬぞー」
「うっさいわ!」
 遠くから匠が口を挟むが、当の遼司には余裕が無い。
 拳をギリギリでもかわせるのは、動きが単純だからだ。どこか一度でもタイミングがずれてしまえば、遼司もかわし切れない。
「が、頑張って!」
「いや、無茶言うな!」
 それでも精一杯の応援をしてくれる香奈に苦笑いを返しつつ、遼司は武人の拳をかわす。
 前に踏み込んで行けず、どんどん後ろへと下がってしまっていた。まだ両脚で立ってはいたが、かわしきれなかった殴打を何発も全身に貰っている。全身に打ち身を負いながら、遼司は必死に生き残る術を探していた。
 キャリアとしての力を使えばいい。頭では解っていても、どうすれば使えるのかが遼司には解らない。両手を握り締めて、武人に応戦したところで何の意味も成さない。そもそも、ケルベロスの力を得ている武人には当たらない。
 握り締めた拳に燐光が散る気配はなかった。腕には拳を受け止めた痛みしか感じない。
「しっかりしやがれ馬鹿野郎!」
 いつの間にか、武人へと叫んでいた。
 武人が自我を取り戻してくれれば、とりあえずは助かる。たとえ自分がキャリアだとしても、今この場で力を発揮できそうにはなかった。どうにか、武人が憑依の力を身に着けてくれれば、この場を乗り切ることには繋がる。
「なんか、つくづく上手くいかないな……」
 匠は遼司と武人の戦いを追って移動しながら小さく呟いていた。
「あの、そろそろ助けた方が……」
 抱きかかえられるようにして運ばれていた香奈がぽつりと言った。
 香奈からしてみれば、見ていて気分の良いものではない。冷や汗ものだ。ガルフの身も気がかりだが、何より遼司のことが心配だった。
「確かに、今日はこれ以上やっても進展なさそうだな」
 冷静な目で、匠は分析していた。
 憑依の力自体は発動できる武人はもう少し言葉での説明を受けて、心構えを掴んだ方がいいかもしれない。今回、ケルベロスを憑依したことでその瞬間の感覚は掴んだはずだ。後は制御できるかどうかだ。一旦訓練を切り上げて、また明日もう一度試した方が効果的にも思える。
「あの、それは……?」
 香奈の視線の先、匠の手には何故か猪が一頭、ぶら下がっていた。
「ああ、戦利品」
 どうやら、戦闘に巻き込まれて絶命した野生動物らしい。
 と、注意が一瞬逸れた瞬間だった。
「匠さん!」
 香奈の言葉に視線を戻した匠の目に飛び込んできたのは、道路に飛び出す遼司の姿だった。
「やば!」
 匠は両脚に力を込めた。
 いつの間にか、道路のある場所まで後退していたらしい。遼司が道路に着地した瞬間、大型トラックの姿が見えた。
「な!」
 言葉を失う。やばい、と思いその場から飛び退こうとして、遼司は真正面から突撃してくる武人の姿を目にした。
 もしかしたらトラック以上の速度で突き込まれる拳を、注意が逸れていた遼司はかわし切れない。腹に思い切り喰らって、身体をくの字に折り曲げて吹き飛んだ。ガードレールに背中から激突し、派手に折り曲げて向こう側の林の中へと転げ落ちる。
 同時に、遼司がいた場所に到達したトラックが横合いから武人に激突。
 轟音が響き渡り、派手にトラックが吹き飛んで横転する。武人は無防備にトラックの衝撃を全身に浴びて木の葉のように宙を舞った。
 匠の足が空間を切り裂き、空中で錐揉み回転をしている武人の襟首を捕まえた次の瞬間には林の中に転がる遼司の隣へと移動している。
「ずらかるぞ!」
 真面目な顔で冗談のような言葉を吐く匠を見上げて、遼司は軽口の一つでも叩いてやりたかった。
 だが、思いのほか身に受けたダメージが大きくて、口を開くことすらままならない。遼司は右手で腹を押さえて蹲ったまま、左手で香奈が差し伸べてくれた手を掴んだ。
 匠がその場から空間を跳躍し、見慣れた風景、遼司の家の前へと移動する。
「手軽な練習相手ができたから行けると思ったんだけどなぁ……」
 疲労と眠気で遼司が意識を失う直前に聞こえたのは、残念そうな匠のぼやきだった。
 因みに、翌日の朝食はぼたん鍋だった。朝っぱらから鍋を食べるというのもおかしな話だったが、遼司には突っ込む気力も無かった。
「居眠り運転で事故だとさ」
 新聞を広げながら、匠が別段気にした風もなく呟く。
 遼司は噴きそうになったが、溜め息とともに文句は全て外に吐き出した。一応、運転手は無事だったらしい。死亡でなくて良かったと遼司は胸を撫で下ろしていた。
 打ち身だらけでぼろぼろの身体を包帯と衣服で隠して、学校へ通わなければならない。盛大に撥ねられた武人は、しかしガルフを憑依させていたためか掠り傷と少しの打撲程度という軽傷で済んだ。
 これから暫く、こんな毎日が続くと思うと憂鬱だった。

 *

 訓練が始まってから一週間、昼は学校、夜は特訓と慌しい日々を過ごした。武人はキャリアとしての力をほぼ完璧なまでに扱えるようになり、憑依させたビジターが持つ全ての力を使うことができるようになっていた。もう暴走することもないだろう。勝手に憑依されてしまったとしても、自我に影響を与えられることもなさそうだ。
 一方の遼司は、全く進展していなかった。
 訓練の中でたったの一度もキャリアの力を発動することはできなかった。最初の頃はビジター側に引っ張られて暴走しかけた武人から逃げるのに必死だったが、やがて制御ができるようになると遼司の存在は動く標的としての意味合いが強くなっていた。武人は憑依させたビジターの力を駆使して動き回る遼司を追い詰めるというのが練習内容になっていたのだ。
 毎回の練習で負った傷は香奈に治療系の能力を持つビジターを召喚してもらって治してもらっていた。
 それでも、何一つ進歩していないことは遼司にとってもあまり良い気分ではない。キャリアであることがはっきりした分、両親からの期待は大きい。確実に力を持っていることが判ったため、遼司に課題を与える意味ができてしまった。早くキャリアに覚醒しなければ、恐らくは形を変えて永遠に特訓は続くのだろう。
 どうして、匠や恵子は遼司をキャリアにしたがっているのだろうか。
 自分たちがキャリアだから、息子である遼司にもそうあって欲しいと思う気持ちも解らないわけではない。キャリアである香奈の許嫁として吊り合わせるためなのだろうか。大智と鏡子への対抗心かもしれない。
 今まで、決して口にはしなかった疑問だ。
 ここまで進歩がないと、遼司には才能が無いのではないかとも思えてしまう。
「……はぁ」
 大きく息をついて、遼司はベッドに倒れ込んだ。
 今日は特訓がない。
 近くの公園にビジターの気配を察知した恵子が、香奈に対処を命じたためだ。召喚能力でビジターをアウターへ送り返すこともできる香奈が対処に適任なのは間違いない。
 香奈が仕事に駆り出されたため、武人の特訓ができなくなったのである。武人が特訓で憑依させるビジターは香奈に召喚してもらっている。彼女がいなければ武人は憑依能力を使うことができない。同時に、武人の練習相手となる遼司もすることがなくなる。
 久しぶりにゆっくりできる時間だった。ここ一週間は特訓続きで遼司も疲労が溜まっている。いつもなら香奈と共にビジターの対処へ駆り出されているのだが、今日は珍しく外されていた。
 武人との特訓よりもこういったビジターの方が力の訓練にはなりそうなものだ。だが、今回特訓の休止を呼び掛けたのは香奈だった。
 たまには休んだ方がいい。
 香奈は匠にそんな旨のことを訴えたらしかった。気分転換や休息も必要だと、香奈は進言したのだ。
 キャリアとして覚醒するため、精神的に追い詰めるという理屈は解る。それでも、同じ方法を繰り返して追い詰めても慣れてしまうのではないか。
 もっと別の方法を探すべきだ、と香奈は告げた。
「これでもっと面倒なことになったらどうすんだ……?」
 遼司は苦笑した。
 きっと、香奈は遼司の身を案じて休止を申し出たのだろう。匠を納得させるための言葉だろうが、本当に新しい方法を思いついてしまったら、それはそれで困る。簡単なものならいいのだが。
 何の効果も得られないことに匠も考えていたらしく、今日は休憩という結論になったのだった。
 何故、自分だけが覚醒できないのだろう。
 遼司はベッドに寝転んで、ぼんやりと考えていた。
 どうやってみんなは覚醒したのだろう。
 薄っすらと覚えているのは、初めてビジターの存在と対峙した時に香奈が覚醒したということだけだ。近くに両親はおらず、二人だけの時だった。
 得体の知れない化け物を見て、香奈は泣き出した。いつもはその辺の男子よりも活発な香奈が泣いていた。
 周りには誰もいない。匠も、恵子も、大智も、鏡子も。頼れる人が誰もいない中で、香奈はビジターに襲われそうになっていた。明らかな敵意と殺気を放つビジター相手に、まだ子供だった二人になす術はない。
 それでも、遼司は香奈を庇おうとした。
 そして、失敗した。
 気がついた時には、香奈は覚醒していて、召喚されたカーバンクルがビジターを打ち負かしていた。遼司が見たのは、涙を流して喜ぶ香奈と、後にミアと名付けられるビジターの姿だった。
「気持ちの問題、なのか……?」
 日の沈みかけた、紅い光が開け放った窓から差し込んでくる。遼司は眩しさに目を細めて、小さく呟いた。
 匠や恵子たちは気持ち次第だと言って参考になるような意見は何も教えてくれない。両親に覚醒した時の状況を尋ねても、いつのまにかのろけ話になっている。
 言葉では説明し難いのだと香奈も苦笑いを浮かべていた。
 覚醒した者にしか解らないものがあるらしい。
 遼司は目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
 そうして、いつの間にか眠っていた。
 目が覚めたのは、頬に衝撃を感じたからだった。断続的に、軽く叩かれているような感触だ。痛いと感じるほどではない。ただ、焦りだけは感じられた。
 既に日は落ち、暗くなっている。
 遼司の顔の直ぐ隣に、ミアがいた。遼司を起こそうとしているかのように、頬を叩いていた。遼司が目を覚ましたことに気付いて、ミアは両手を引っ込める。
「ミア……?」
 違和感があった。
 だが、直ぐに気付く。
「香奈は、どうした?」
 ミアはじっと、何かを訴えかけるかのような目で、身を起こした遼司を見上げている。
 僅かに吊り上ったその瞳には、遼司ではない別の誰かへの敵意が揺らめいている。
「まさか、香奈に何かあったのか?」
 遼司の言葉を肯定するかのように、ミアは窓の枠へと飛び乗った。遼司に方角を示唆するかのように、ミアが振り返る。
 こちらの世界でミアが単独で行動することはまずない。直ぐ傍には必ず召喚者である香奈がいた。香奈と遼司にしか懐いていないミアが、香奈の傍から離れることなど滅多にない。
「香奈は……!」
 遼司の言葉に、ミアは視線を外へ向けた。鋭く目を細めて、一定の方角だけを見つめている。毛が逆立ちそうなほどに、ミアは敵意を窓の外へ向けていた。それを抑えているのが、遼司にも解るほどに。
 香奈の身に何かが起きた。彼女自身では切り抜けられないような事態が。
 だから、ミアが遼司にそれを伝えに来たのだ。
 一瞬で遼司の表情が引き締まる。
「遼司! 大変だ!」
 勢い良くドアが開き、武人が部屋に入って来る。
「解ってる……ミア!」
 遼司は窓を閉め、ミアに右手を差し出した。ミアはすぐさま遼司の腕を駆け上り、肩に乗る。
 武人が何か言うよりも早く、遼司は歩き出していた。
「香奈に何かあったんだろ?」
 驚く武人の前を横切って部屋を出る。武人を連れて階段を下りてリビングへ向かうと、匠と恵子が待ち受けていた。
「その顔だと、もう気付いたみたいね」
「ミアが教えてくれた。香奈に何が?」
 恵子の言葉に、遼司は肩に留まっているミアを見て、問う。
「エノシス」
 匠が口を開いた。
「奴らが、香奈ちゃんを連れ去った」
 いつにも増して鋭い目付きで、匠は告げる。
「明日は無断欠席になるかもしれないけど、どうする?」
「決まってるだろ」
 飄々とした様子で問いを投げる恵子に、遼司は即答していた。
「助けに行くさ……!」

 *

 アウターやビジターを利用しようと企む者たちは多い。アウターにしか存在しない物質や、ビジターが持つ特異な力に目を付ける者は後を絶たない。そういった者たちはやがて集まり、組織を結成していた。異界に存在するものを使い、今の世界に広がっている様々な問題を解決し、世界を自分たちの都合の良いように彩る。エゴの強い組織だ。
 エノシス。
 ギリシャ語で統一を意味する組織の名は、いずれアウターですらこの世界の一部のようにしようという思想から来ている。
 もちろん、異を唱える者はいる。
 元々違う世界であるのだから、越えるべきではないとする者たちも少なくはない。異世界に存在する生物、物質を持ち込んでもこの世界にとっては異物、害にしかならないと考える者たちもいたのだ。この世界の問題は自分たちで解決するべき、と言えば聞こえは良い。だが、その実態は得体の知れない異界の存在を排除し続けるというものだ。
 タイオス。
 組織にはギリシャ語で伝説を意味する名が付けられた。伝説は伝説のまま、人目に触れぬようにするための組織として。
 だが、遼司たちはどちらとも違う。
「これを渡しておく」
 出発の直前、匠は大智に大きな包みを手渡した。
 開いてみると、見たことも無い金属で作られた一組の籠手が入っていた。腕を覆う白銀色の金属は、見た目以上に軽い。表面は僅かに光を極彩色に反射している。手首から指の第二間接までを包む手甲にも同じ金属の装甲が施されていた。
「これ……?」
「ミスリル製の籠手だ。それがあれば身を守るぐらいはできるだろ」
 匠は小さく呟くように言った。
 異界にしか存在しない金属で作られた防具だ、と。
「ま、念のためだ」
 匠は歩いてくる大智と鏡子に視線を向けながら、遼司に告げた。
 ミスリルは超硬質でありながら軽量の金属だ。だが、特筆すべきは、あらゆるエネルギーに対しての抵抗力の高さにある。ビジターやキャリアが操る特異な力を受け止め、反射すらできる特性を持つ物質はミスリル以外に存在しない。同じミスリルで作られた武器でもなければ、破壊は難しいとさえ言われるほどの防御能力を有した物質なのだ。
 もちろん、稀少などという言葉では足りないほどの価値を持っている。アウターですら見つけるのが困難なほどだ。
 何故、ミスリルが使われている防具を匠が持っているのだろう。疑問を口にする前に、恵子が口を開いた。
「揃ったわね」
 ミアを肩に乗せた遼司の他に、匠、恵子、大智、鏡子の四人がいる。
 実戦経験の無い武人は留守番がいい。そう言ったのは匠だった。
 香奈を助けに行くということは、エノシスと一戦交えることになる。ビジターならともかく、相手のほとんどがキャリアという状況では武人の力も存分には発揮できない。何より、喧嘩とは違うのだ。
 一歩間違えれば命を落としかねない。遼司たちだけではなく、敵も。
「こんなに早く来るとはな」
 大智が小さく呟いた。大智の表情はいつもと変わらない。だが、直ぐ下にはどこか煮え滾るマグマのような闘志に溢れているような気がした。
「遅いほうだと思うけどな」
 匠が苦笑する。
 まるで、香奈が攫われることを予想していたかのような口ぶりだ。いや、予想していたのだ。大智や鏡子だけでなく、匠や恵子も。
 エノシスは、彼らの目的のためにアウターとの接触を好む。そのために、異界へのゲートとなる力を持った香奈は狙われていてもおかしくはない。むしろ、召喚能力を持ったキャリアはエノシスにとっては喉から手が出るほど欲しい人材だ。
 言い換えれば、覚醒してから今まで、エノシスが香奈を狙わなかったことが不思議なほどなのだ。
「私たちに勝つ算段でもついたってところかしら?」
 恵子が軽い口調で呟く。
「香奈ちゃんがエノシスの味方になるとは思えないけれど……」
「何か策を見い出したのかもしれないわねぇ」
 小さく息を吐く恵子に、鏡子が言った。
 鏡子の表情はいつもと変わらない笑顔のはずなのに、今はやけに冷たさを感じる。
「それに、あの子を攫っていいのは遼ちゃんだけなんだから〜」
 かと思えば、打って変わって明るい笑みを見せて冗談なのか本気なのか良く解らないことを言い出す。
 親たちは爆笑している。
「緊張感がなくなるな……」
 遼司は苦笑していた。
 かつてない事態であるというのに、匠を始めとする大人たちには随分と余裕がある。こんな時に緊張感を崩す彼らに不安はある。だが、その中に安心感があるのも確かだ。
「場所は解るの?」
 自分の腕にミスリルの籠手を嵌めながら、遼司は匠に問いかけた。
 方角はミアが示してくれる。だが、それは恐らくミアが解る範囲での方角だろう。香奈が攫われた時、傍にいたミアが誘拐犯の逃げた方角を示しているだけに過ぎない。正確な場所が解らなければ、道に迷っておしまいだ。
「安心しろ、香奈ちゃんのリボンには小型の発信機を縫い込んであるから」
 場所は把握しているという匠の返事に、遼司は目を丸くした。
 いつの間に、とも思ったが、エノシスに狙われる可能性を既に把握していた匠が見逃すはずはない。防ぐ以外の対処法の一つとして、香奈が行方不明になった際にも居場所が判るように発信機付きのリボンを持たせていたのだ。
 戦う時、香奈はいつも長い髪が邪魔にならぬようリボンで束ねている。同時に、そのリボンを香奈はファッション用のものとは別にして常に持ち歩いている。いつ、どんな場所でビジターと接触しても直ぐ戦いに移れるように。リボンで髪を結うことが彼女なりの戦う前の儀式のようなものになっていた。
「そろそろ、行くか?」
 口元に笑みを浮かべる匠を見上げて、遼司は頷いた。丁度、左手の籠手を嵌め終えたところだった。
 超長距離の空間跳躍のために、匠が細く息を吐き出して精神を集中させる。足元に光が走り、円陣が描かれていく。幾何学文様に光が描く円陣の中で、匠が右手を差し出した。
 遼司が真っ先に匠の右手に手を乗せる。続いて恵子、大智、鏡子が続く。
「場所は中国の西部、準備はいいな?」
 匠の言葉に全員が頷いた直後だった。
「やっぱり俺も連れてってくれぇー!」
 空間跳躍の瞬間、家から飛び出して来た武人が遼司に跳び付いた。
 反応する間もなく、匠の力が発動し、六人は一息の間に海を越えていた。視界が真っ白な光に包まれた感覚がほんの一瞬だけあって、次に目に飛び込んできたのは見慣れぬ景色だ。
 走行中の列車の上に六人は立っていた。風に煽られ、武人に跳び付かれた衝撃でバランスを崩した遼司は倒れかけた。慌てて屋根の出っ張りを掴んで落下を免れたが、速度に頬が引き攣る。
 背中を冷や汗が伝い、遼司は喉を鳴らして唾を呑み込んだ。
「危ねぇだろ馬鹿野郎!」
「す、すまん……」
 移動先の状況に、武人の顔も恐怖で強張っていた。
「何だかもう始まってるみたいだな」
 突風を浴びながらも微動だにせず、大智は目を細めて一点を見つめていた。
 見れば、遠くでいくつもの光が明滅しているのが判る。直ぐにキャリア同士の戦闘だと気付いた。
 エノシスと戦っているのだから、恐らくタイオスだ。二つの組織は極端に互いを嫌い合っている。真逆とも言える思想を持っているのだから、当然と言えば当然ではあるのだが。
「香奈ちゃんもモテるわねぇ」
 涼しい顔で恵子が呟いた。
 タイオスも、異界との接点を持つキャリアを集めている。エノシスと戦うための力としてだけではなく、彼らの目的である、異界との接点を無くすために。
 ビジターを召喚できる香奈のようなキャリアは、タイオスにとっては毒にも薬にもなる存在なのだ。エノシスとはまた違った意味で、タイオスも香奈の動向については注意深く観察していたのかもしれない。エノシスが香奈を攫った情報を得て、タイオスも動いたと考えるべきだろう。
「あの中に、香奈が……」
 遼司はミアと共に、戦場の光を見つめていた。
「んー……ま、こうなったらしゃあないな」
 隣で思案を巡らせていた匠が小さく息を吐く。
「二人で頑張れ」
「は?」
 唐突な匠の言葉に、遼司は思わず間抜けな声で聞き返していた。驚いた顔で匠を見る。
「ちょっとタイオスの指揮者に話つけてくる」
 にこやかに言って、匠は遼司の肩に手を置いた。
 一瞬、言っている意味がわからなかった。匠たちがタイオスに対して共同戦線を張る旨を伝えに行くということだろうか。エノシスでもタイオスでもない遼司たちが介入すれば三つ巴の戦いになりかねない。遼司たちの目的はあくまでも香奈の救出だ。戦うことが目的ではないこと、香奈を助け出したら直ぐに離脱することを伝えた方が後々問題は少ないのかもしれない。
「好きな女ぐらい助け出して来い」
 遼司に反論をさせる隙も与えず、匠は一方的に言い放って力を使った。
 視界が白に染まり、次の瞬間には、遼司と武人は戦場のど真ん中に放り込まれていた。
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