第一章 「刻まれた痛み」 身体を包む心地良い暖かさの中、葵(あおい)は目を覚ました。 陽の光が顔を照らし、さきほど開いたばかりの目を細める。程好く柔らかなベッドの中で身を捩る。 が、次の瞬間、葵の右脇腹を激痛が貫いた。 声も出せずに目を見開き、苦痛に身悶える。 「くっそ……」 毒づいてから、葵は今いる状況に気付いた。 普段から生活している部屋ではない。右脇腹にはガーゼが当てられ、腹部に巻かれた包帯で固定されている。左肩にも包帯が巻かれ、上腕には添え木が当てられていた。左の掌にも包帯が巻かれている。右の腿にも包帯が巻かれているようだった。 受けた傷の手当が施されている。 痛みを堪え、ゆっくり慎重に身体を起こしていく。 ベッドから上体を起こしたところで、大きく息を吐いた。 痛みが強く残っているのは左肩と脇腹だ。左の掌を胸の高ささまで持ってきてで握ってみる。軽い痛みはあるが、動かすだけなら問題はなさそうだった。 やや大きめな男物のシャツに、ゆったりしたズボンを穿いている。上は下着のようだが、下はパジャマだろうか。葵が着込んだ覚えの無い服装だ。手当てをした者が着替えさせたのだろうか。 背の中ほどまである黒髪が揺れる。整った鼻筋に、やや鋭さのある目つき。 凛とした顔立ちを歪め、葵は部屋を見回した。 今、葵がいるベッドの他に、テーブルが一つと壁掛けテレビがある。テレビは今では一般的な薄型のものだ。一人暮らしの部屋なのか、あまり大きなものではない。安物だろう。 テーブルの端にはノートパソコンが置かれていた。サイズはさほど大きくなく、こちらも安価なものに思える。閉じた状態で、電源は入っていないようだ。 他に目に留まったのは本棚だった。いくつか参考書が並んでいる。一部が抜かれているらしく、傾いでいるものが見受けられた。この部屋に住んでいるのは学生ということだろうか。 全体的に簡素な部屋だ。窓の位置を考えれば、ベッドの頭は南に向いている。西側の壁にテレビと本棚、部屋の中央にテーブルが配置されていた。入り口は北にある。 薄い緑色のカーテンの隙間から陽光が差し込んできていた。 小さく息を吐いて、葵は左肩に触れた。 辛うじて動かせるが、激しい運動には耐えられそうにない。慎重に動かさなければ針で貫かれたように鋭い痛みが走る。身を起こす前に動かした時の痛みがまだ残っていた。鈍い痛みに変わり、傷の内部で拍動するように疼いている。 「はぁ……」 溜め息をついた。 ここはどこだろうか。今の日付と時間はどうなっているのだろう。あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。 本棚の上に時計を見つけた。時間は午後の一時になるところだ。 ベッドから降りようとしたところでドアが開く音が聞こえた。 「あ、気が付いたんですね」 ドアを開けて一人の少年が入って来る。手にはビニール袋を提げていた。 無地のシャツを着込んだ細身の少年だった。穏和そうな目をしている。髪は適当な長さで切られており、どこにでもいるような人物に見えた。歳は、十七、十八ぐらいだろうか。別段、一般人と変わった様子はない。 開いたドアの奥には小さくキッチンが見えた。更に奥には、金属でできているらしいドアが見える。玄関だろうか。だとしたら、ここはマンションかアパートの一室ということになる。 「手当てをしたのは、お前か?」 予想はしていたが念のために尋ねる。 「はい。失礼かとは思いましたけど、着替えさせてもらいました。服も汚れてましたし、破けたりもしてましたから」 少年は頷いた。 「今日は、何日だ?」 「五月の十四日ですよ」 葵の言葉に、少年が答える。葵が気を失ったのは十二日の夜だったはずだ。だとしたら、丸一日は眠っていたことになる。 少年はビニール袋をテーブルの上におくと、中に手を入れた。 「お腹、空いてません?」 言って、彼はビニール袋の中からサンドイッチを取り出した。ビニールで包装された、コンビニエンスストアで売っているものだ。 葵が何か言うよりも早く、少年はサンドイッチをベッドの上へと放り投げた。丁度、葵が右手で受け止められる位置へ。葵は反射的にサンドイッチを右手で受け取っていた。 「安心して下さい。後で代金は貰うつもりですから」 「タダじゃないのか」 少年の言葉に葵は苦笑した。あまり動かせない左手に乗せ、右手で開いていく。完全に開いたら右手でサンドイッチを一つ取り出し、口へ運んだ。 ポテトサラダを挟んだパンを咀嚼し、飲み込む。 「ここはどこだ?」 「僕のマンションです。あなたが倒れていた場所から百メートルぐらい離れたところですよ」 気を失う前、葵がいた場所は人気の無い路地裏だった。普段なら誰も通らないような、建物の背面が密集しているような場所だ。 「……何故、ここにいる?」 「僕の家ですから」 「そうじゃない」 不思議そうに首を傾げる少年に、葵は苛立ったように首を振った。 「何で俺がここにいるのか、と聞いているんだ」 怪我人を見たら通報するのが普通だろう。本来なら、葵は病院のベッドの上で目を覚ますべきだ。だが、葵は少年の部屋にいる。手当てをしたのもの彼だ。だとしたら、少年は葵が軽傷とは呼べない傷を負っていたと知っているはずだ。ならば何故、彼は葵を病院ではなく自分の部屋に運んだのだろうか。 「珍しいんですね」 驚いたように目を見開く。 「何が?」 「女性で俺って言うのは珍しいじゃないですか」 苛立つ葵とは対照的に、少年は穏やかな口調だった。 「俺の勝手だろうが」 「悪いとは言ってませんよ」 葵は女性だが、一人称は俺を使っている。 「何か、事情がありそうだったので公の場所には行かない方がいいかな、って思ったんです」 少年の答えに、葵は少し驚いた。 人気の無い路地裏で傷付いて倒れていたら誰でも不審に思うものだ。何か問題を抱えていても不思議ではない。いや、特別な事情を持っている方が自然だ。 助けるにしても、問題を引き込みたくないが故に病院に預けるのが普通だ。しかし、彼はあえて自分の部屋に連れ込んだ。 何か事情があるかもしれない。公的な場所では困るかもしれない。考えを巡らせて結論を出したのだろう。だが、簡単に出せる結論ではない。 「病院のが良かったですか?」 「そっちでも特に問題は無かったな」 少年の問いに、葵は素っ気無く答えた。 葵の立場は公的機関に放り込まれても特に問題は無い。一般には公にされていないが、公的機関に顔が利く組織に葵はいた。病院に送られても、情報統制でどうにでもなる。 「まぁ、面倒は少なくていいが」 葵の言葉に、少年は小さく笑みを浮かべて見せた。良かった、とでも言いたげに。 パンを食べ終えた葵は包みをテーブルの脇に置かれていたゴミ箱に入れた。 「そういえば、お前は寝る時どうしたんだ?」 ふと、ベッドが一つしかないと気付いた葵は少年に問いを投げた。 「ベッドで一緒に寝させて貰いました」 「……そうか」 返答に困り、葵は溜め息をついた。 確かに、部屋もベッドも彼のものだ。文句は言えない。手当てをする際に裸ぐらいは見られているだろうが、仕方がない。服を脱がなければ傷の手当はできないのだから。 「変なところは触ってませんよ。胸はちょっと揉ませて貰いましたけど」 少年の顔面に葵の右ストレートが突き刺さった。 拳を突き出された方向に一直線に吹き飛ばされ、背後の壁に後頭部をぶつけて少年が倒れる。 「さすがに怒るぞ」 「もう殴ってるじゃないですか」 顔を押さえながら少年が起き上がる。涙目になっていた。加減はしたため、鼻血が出たり骨が折れたりといったことはない。 「包帯とか薬代の代わりにって思って」 「口に出さなかったら気付かなかったぞ」 「僕、正直なんで」 笑う少年を見て、葵はまた溜め息をついた。 「意外と小ぶりでしたけど、案外柔らかかったですよ」 少年の頬に葵の右拳が減り込んだ。吹き飛ばされた少年は盛大に床へ身体を叩き付ける。 確かに、葵は巨乳と呼べるレベルにはない。平均よりは小さいだろう。 「礼を言う気が失せた」 「痛みが割りに合いません」 右頬を押さえながら、少年が身を起こす。 「黙ってりゃいいだろうが」 「黙ってるのも辛いですよ。いつ気付かれるのかびくびくしながら生活するんですから」 軽い口調だったが、少年の言葉に何か引っ掛かるものを感じた。葵はもう一度溜め息をついた。葵を見透かしているのだろうか。他の人間とは違う、異質なものを持つ葵に、彼は気付いているのだろうか。 「あ、僕、朱莉(あかり)って言います」 「あかり?」 頭文字の「あ」にアクセントを置く独特な発音だった。普通なら、平坦に読んでしまうだろう。 「はい。月霜(つきしも)朱莉です」 珍しい名前だと思った。発音も珍しいが、男で朱莉と言う名前は多くないだろう。 「あまり見ない名前だと思いますが、気に入ってるんですよ、この名前」 確かに、記憶には残りそうだ。 「俺は葵だ。向日(むこう)、葵」 「日向、葵……。ひまわり、ですか?」 朱莉の頭に葵の拳が振り下ろされた。ごっ、という鈍い音が部屋に響く。 「いったぁ……!」 朱莉は頭を両手で押さえ、悶えている。 「二度と言うな」 睨みを利かせる葵に、朱莉は頭を押さえたまま頷いた。 葵は息を吐くと、改めて自分の状況を確認した。 「このシャツ、お前のじゃないよな?」 葵の身長は百七十二センチある。朱莉よりも数センチ高いように思えた。葵が身に着けてゆったりしていると感じたぐらいだ。朱莉にはぶかぶかだろう。 「直ぐ近くで買ってきたんですよ。僕のじゃ小さいかと思って」 「俺の持ち物は?」 「そこです。本棚の隣」 朱莉の指差した場所には、小さなウェストポーチと袖無しのジャケットが置かれていた。 血が付いているかと思ったが、丁寧に拭き取られていた。ジャケットは一部に小さな穴や切り傷が開いていたが、目立つものではない。着込むのに支障はないようだった。 「他の服は?」 「ぼろぼろだったので捨てました」 きっぱりと言い放つ朱莉に、葵は溜め息をついた。 「とりあえず、服を貸してくれ。自分の服を買ってくる」 ウェストポーチの中に入れておいた財布の存在を確認して、葵は言った。 朱莉がクローゼットを開ける。葵は朱莉が許可を出した服の中からいくつか選んで身に付けると、ウェストポーチを腰に巻いて部屋を出た。 朱莉の部屋に戻って来た葵の服装は既に変わっていた。 デニム生地のワイシャツに、下はジーンズを穿いている。髪も首の後ろで纏めていた。 「一応、女ものですよね?」 「当たり前だ」 朱莉の問いに素っ気無く答え、葵はこの部屋に残してきていたジャケットに腕を通した。 「これから、どうするんですか?」 葵は何も答えなかった。 ウェストポーチの中から財布を取り出し、昼食の代金を朱莉に差し出す。 「傷、治ってませんよね?」 「直ぐに出て行く」 心配そうな目をする朱莉に、葵は言い放った。 葵にはやらなければならないことがある。立ち止まっている暇はない。直ぐにでも動かなければならなかった。葵の使命を全うするまでは休んでなどいられない。 「でも……」 代金を受け取りながら、朱莉は食い下がった。納得し切れないといった様子で、葵を見上げている。 「お前には言えない理由がある」 葵は朱莉に背を向けた。 何も言わず、部屋を出る。マンションのドアを閉めて外に出ると、葵は大きく息を吐いた。 まだ力の入らない左手を胸の高さまで持ち上げる。拳を握り、開く。徐々にではあるが、力が入るようになってきていた。痛みもだいぶ薄れている。目が覚めた直後は酷く痛んだが、傷自体はもうほとんど治りつつあった。 明日には完治しているはずだ。 もちろん、常人を逸した治癒力であるとは葵も知っている。だが、不自然だとは思っていない。葵は普通の人間とは違うのだから。 「どこにいるんだ、翔夜(しょうや)……!」 葵は小さく呟いた。 マンションの入り口に面した路地裏を歩いていく。途中、脇道から大通りへと出た。 左手の包帯を隠すために、両手をジャケットのポケットへと突っ込んだ。 一人で目的の人物、翔夜を探し出すのは難しい。だが、仲間の力を借りるつもりはなかった。 どうしても確かめたいことがある。何故、翔夜が組織を裏切り、反乱まで起こしたのか。葵には解らなかった。だから、聞き出さなければならない。 仲間の力を借りてしまえば、葵の目的は果たせないかもしれない。葵が翔夜に接触できなければ意味がないのだ。もし、先に仲間が翔夜を見つけてしまったら、戦闘へ発展してしまうだろう。仲間たちは葵の言葉よりも組織の意向を優先する。翔夜と話したいと仲間に言っても、組織が彼を殺せと命じていたら、葵には止められない。 故に、葵は独力で翔夜を探す決意をした。 組織からも許可を貰っている。ただし、組織は葵の単独行動を許したに過ぎない。反乱の首謀者である翔夜の抹殺は決定事項であり、葵にはどうしようもない。他の仲間たちは組織の指示で動いているはずだ。 仲間から情報を貰うぐらいはできるかもしれない。だが、葵は仲間に頼ろうとは思わなかった。組織の方も葵への情報提供は許していないはずだ。 葵と翔夜の関係を知っていたからこそ、組織は単独行動を許したのだから。 大通りを歩く人は多くなかった。道路は車が数多く走っているが、歩道には人が少ない。もちろん、他の通りに比べて少ないだけで、一般的には多い部類だ。 当然ながら、通行人の中に翔夜はいない。 緩やかな風が頬を撫でる。心地良いと感じられるほど、葵の心は晴れていなかった。 組織としては、葵が接触するより早く、翔夜を消したいところだろう。葵は翔夜に賛同する可能性があると判断されている。だからこそ、葵の単独行動を許可することで、一時的に組織から切り離しているのだ。 「葵」 不意に、背後から呼び止められた。 振り返ってみれば、葵から二・三メートルの位置に一人の男が立っている。 茶色く染めた短髪に、緑のトレーナーを着込んだ青年だ。一言でいうなら、人受けの良い爽やかな好青年といったところだろうか。 「弘人(ひろと)?」 葵は目を見開いた。 南條(なんじょう)弘人。葵と同じ組織に身を置いている、仲間の一人だ。 「こうも簡単に接近を許すとは、たるんでやしないか?」 弘人はどこか咎めるような口調で溜め息をついた。 葵は黙り込んだ。 普段なら、弘人が声を掛ける前に葵が口を開いていただろう。自分の間合いに入った瞬間には、存在を察知できていたはずだ。しかし、葵は弘人の気配に気付かなかった。 考えに集中し過ぎていたのかもしれない。傷が完治していないのも影響している可能性はある。 「場所を移して、茶でも飲みながら話さないか?」 腰の左右に両手を当てて、弘人が言った。 「長い話になるのか?」 「いや、そうとも限らんけど」 葵の返した言葉に、弘人は苦笑した。 「要件は何だ?」 葵は問う。 単独行動をしている葵に接触したのだから、何か理由や意図があるに違いない。 「忠告、かな?」 弘人がどこか苦い表情を浮かべる。葵は眉根を寄せた。 「お前、翔夜に会ったらしいな」 「……ああ」 少しだけ考えて、葵は肯定した。否定すべきか、一瞬だが迷った。だが、伝聞系だとしても弘人が知っているのなら、隠しても意味が無いように思える。 「まぁ、お前なら言わなくても解ってるだろうけど、危険視されてんだよ」 弘人は頭を掻きながら、言い難そうに告げた。 今の言葉で葵にも察しがついた。 大方、翔夜と接触して生きているというのが原因だろう。これまで、翔夜と対峙した者はことごとく殺されていた。今まで仲間だった者を、あっさりと殺しているのだ。翔夜らしいと言えば、翔夜らしいのだが。 だが、葵は生きている。翔夜と対峙して、殺されずに済んだのは葵だけだ。 「そんなことをわざわざ言いに来たのか?」 葵は溜め息をついた。 組織は、翔夜に殺されなかったとして、葵を危険視しているに違いない。葵に何かを渡したのではないか、話したのではないか、結果として葵が翔夜の側に寝返るのではないか、と。 「そんなことって、せっかく人が心配して伝えに来たってのに……」 葵はポケットに突っ込んでいた左手を弘人に差し出して見せた。 「あいつから受けた傷だ」 弘人が目を見開いた。葵の顔と、左手に巻かれた包帯を交互に見る。 葵は手をポケットの中へと戻した。 翔夜が葵に傷を負わせたのは、初めてだった。今まで、葵は何度か翔夜と戦った経験がある。だが、翔夜は葵に傷を負わせることは一切無かった。もちろん、全て模擬戦ではあったが、出血するようなダメージを与えようとはしていなかったのだ。 「あの翔夜が?」 弘人も意外に感じていたのかもしれない。 「あいつは、本気なんだ」 葵は呟いた。 翔夜は心の底から組織に離反したのだ。でなければ、組織に身を置く葵に傷を負わせはしなかっただろう。もちろん、翔夜は今までにも組織の人間を葬っている。 だが、葵には実感できなかったのだ。実際に翔夜の攻撃で傷を負って、葵が実感できたに過ぎない。 「……俺は、何であいつが裏切ったのか、知りたい」 葵は空を見上げた。 多くの建物に囲まれた空は、半分近くが雲に覆われている。ゆっくりと流れていく雲の隙間から、青空が見えた。 「それを知って、お前はどうするんだ?」 弘人が言う。葵が視線を戻せば、弘人の顔には真剣な表情が浮かんでいた。 もしかしたら、葵まで裏切るかもしれない。翔夜が組織を離反した理由は、葵をも突き動かしてしまう可能性を秘めている。危険視されている大きな理由だ。 信頼し合っていた相手の言葉で、葵が組織を敵に回すかもしれない。 だから、葵は翔夜を追うチームから外された。組織からも、仲間からも、情報を得られない。葵が翔夜を追うためには、全て自分一人の力で動かなければならなかったのだ。 「納得できないんだ」 考えるだけなら、いくらでもできる。だが、考えが纏まらない。何を考えればいいのかも解らない。どうすればいいのか組織に問えば、ゆっくり休んでいろと返された。 有り余る時間の中で、延々と思考を巡らせる。何もできないのは、辛かった。 「傷を受けたとはいえ、殺されてないんだ。動き回るのもまずいだろ?」 弘人の言葉に、葵は首を横へ振った。 「何かしている方が気が楽なんだ」 放っておいてくれと、言外に含ませる。 葵は弘人に背を向けた。話はここで終わりだと、弘人に教えるように。 「……お前を殺せと命令されるのは勘弁してくれよ?」 弘人が小さく呟いたのを、葵は聞き逃さなかった。 葵は何も言わずに歩き出した。弘人の気配が遠ざかっていくのを感じながら、心配してくれる彼に感謝する。葵の身を案じてくれているのだろう。だが、葵は翔夜が殺されるのを何もせずに待つことはできなかった。 大通りの景色に目を走らせていると、病院が視界の中に入った。 傷を連想させるものを見たせいか、左手が疼いた。 もし、朱莉に見つかっていなかったとしたら、葵は病室で目覚めていたのだろうか。裏通りで倒れていた朱莉を見つけたのが一般人だったら、病院か警察に通報していたに違いない。 普通なら、怪我人をわざわざ自宅へ運ぶような真似はしないだろう。 「しまった……」 葵は眉根を寄せた。 朱莉の行動は妙にな点があったのを忘れていた。部屋にいた時は状況確認や自分のことで頭が一杯で、考えるのを後回しにし過ぎた。 怪我をして倒れていた葵に応急処置をするだけならともかく、自宅で看病するというのは変だ。何か事情があるかもしれないと、誰でも思うかもしれない。だが、だからといって病院へ通報しないのもおかしい。 加えて、葵の回復力に何も言わなかった。 普通なら、一週間以上は左腕をまともに動かせない傷だった。たった一日で、軽くではあるが動かせるようになった葵を不審には思わなかったのだろうか。 人気が無い路地裏に、どうして朱莉は通りがかったのだろう。服を買うため一度外へ出てみて解ったが、葵が倒れていた場所は大通りに出るには遠回りだ。しかも、時間は夜だった。 朱莉が学生なら、外出はしていない時間帯のはずである。 翔夜は、葵を人気の無い路地裏へと引き込んだ。葵は人目を避けるため、翔夜の誘いに乗って路地裏へと足を進めていた。戦ったとしても、怪しまれずに済む場所だったはずだ。 葵は来た道を引き返した。 もしかしたら、朱莉は葵と翔夜の戦いを見ていたのかもしれない。いや、葵が翔夜と戦う前から見つけていたのかもしれない。 だとすれば、朱莉は翔夜がどこへ向かったのか、方角ぐらいは知っている可能性がある。考え過ぎかもしれないが、朱莉が翔夜と繋がっている可能性すらあるように思えた。 もう一度、朱莉に会わなければならない。 納得できるまで疑問をぶつけてみよう。疑念が消えるまで、答えを求めよう。 可能性があるのなら、朱莉を問い詰める価値はある。限りなくゼロに近い可能性でも、ゼロではないのだから。 |
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