第二章 「月下の灯り」


 葵はマンションの前に立っていた。朱莉のいた部屋の前にいる。
 迷わずに呼び鈴を押した。
 ドア越しに、小さくチャイムの音が聞こえてくる。中に朱莉がいれば出てくるはずだ。
 今日は日曜日、休日である。もし、葵が出て行った後で朱莉が外出していなければ部屋の中にいるはずだ。
「あれ? どうしたんですか?」
 驚いた様子で、朱莉がドアを開けた。
 ドアの覗き窓から誰がいるのかを確認していたのだろう。葵が戻ってきたのを知って、驚いたに違いない。
「お前に聞いておきたいことがある」
 葵は鋭く言い放った。
「じゃあ、とりあえず中へどうぞ」
 朱莉はにっこりと微笑んで、葵を部屋へ招き入れた。
 葵は彼の態度に気勢を削がれつつも、素直に部屋の中へと入った。これから朱莉を問い質す際、人に聞かれるのはまずい内容を喋る必要が出てくるかもしれない。部屋の中で一対一で話ができる方が面倒は少ない。
 一度、周囲の気配を探ってから、葵は部屋のドアを閉めた。弘人や他の仲間の気配はない。
「ミルクティー作っていたんですが、飲みますか?」
 朱莉は雪平鍋でミルクティーを作っていた。
 ドアから二、三メートルの廊下には小さなキッチンが設置されている。コンロと流し台というシンプルなものだが、一人暮らしには十分なのだろう。
 葵が答える前に、朱莉はカップを二つ取り出してミルクティーを淹れていた。
 二人は奥の、葵が目覚めた部屋へと入った。葵は壁を背にして座り、朱莉はテーブルを挟んで向かい合うように腰を下ろす。葵の前にミルクティーの入ったカップを置き、小さく微笑む。
 黙り込んだままの葵を余所に、朱莉はカップに口をつけた。静かに一口飲んで、カップを置く。
「冷めないうちにどうぞ」
 朱莉に促されて、葵はカップを手に取った。
 ミルクティーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。どこか懐かしく感じて、葵はミルクティーを口にした。
 絶妙な甘さが口一杯に広がる。濃厚だが、しつこい甘さではない。まろやかな甘さに負けず、紅茶の風味も良く出ている。暖かさが身体の内側に染み込んで行くかのように、甘さと風味が心地良く溶けていく。
「美味しいでしょう?」
「……ああ」
 笑みを深める朱莉に、葵は少し遅れて頷いた。
「ミルクティーには拘りがあるんです」
 朱莉がカップに口をつける。
 葵はミルクティーに視線を落としていた。薄茶色をしたクリームのようなミルクティーから湯気が立っている。
 一度、目を閉じる。ゆっくりとミルクティーを一口含み、飲み込んで息を吐いた。葵は目を開けた。目を鋭く細め、朱莉へと向ける。
「翔夜という男を、知っているな?」
 朱莉は翔夜を知っている。少なくとも、翔夜と繋がるであろう人物との接点はあるはずだ。
 葵には確信があった。
 朱莉は少しだけ目を見開いた。驚いた、というよりは不思議そうな表情だ。何を聞かれたのか、理解できなかったとでも言いたげに首を傾げている。
「逸軌(いつき)翔夜だ」
 視線を逸らさない。朱莉を真っ直ぐに見据え、葵は再び彼の名前を口にした。
 朱莉はミルクティーを飲んだ。正面から葵の視線を見返しながら、ゆっくりと一口、喉へ流し込む。
「お前は最初から不自然だったんだ」
 何も言わない朱莉を見て、葵は口を開いた。
「何故、お前は俺を見つけた? 何故、病院に通報しなかった?」
 疑問をぶつける。朱莉はミルクティーをゆっくりと消費しているだけだ。何も答える様子はない。
 だが、葵の目を見つめている。思いや疑問は朱莉に通じているはずだ。
「俺の回復力に、驚くこともなかった」
 葵は視線をミルクティーに落とした。
 ゆれる紅茶を煽る。少しだけ冷めてしまったミルクティーを一気に喉へ流し込んで、葵は空のカップをテーブルに置いた。朱莉の目を見て、葵は言葉を続ける。
「俺は、第三世代型の生命兵器だ」
 人間離れした回復力は、葵が人ではないという証拠になる。
 朱莉は何も言わない。ただ、葵の瞳を見返している。何も言わず、驚いた様子もなく、ただ単純に事実を受け止めているだけのように見えた。
「生命兵器については、知っているよな?」
 生物兵器ではなく、生命兵器だ。遺伝子を人為的に改造し、望むままの力を持った存在を生み出す。最先端技術の結晶の一つが、葵だった。
「一般に知られている程度は知っています」
 葵の問いに、朱莉は頷いた。
 第三次世界大戦が終結して十年以上が経っている。
 世界大戦とは呼ばれているものの、規模だけ見れば前の二度の大戦と比べれば小さなものだ。しかし、問題だったのは大戦に用いられた兵器だった。
 生物兵器の投入である。
 細菌兵器や化学物質を用いるものではない。人為的に化け物を造り出し、戦争に使用したのだ。
 当時、人類が研究を続けてきたナノテクノロジーは遺伝子を改造する段階にまで踏み込んでいた。
 医療面や他の分野で活用が期待されていた技術だった。全ての細胞へと分化する幹細胞の人為的な操作を行える可能性があったからだ。幹細胞を遺伝子操作によって望むままに臓器や身体の一部を培養できるとされていた。幹細胞の遺伝子さえ希望者から採取しておけば、臓器移植で問題となる拒絶反応も起こらない。
 他にも、植物の遺伝子を操作して穀物の収穫量を増やしたり、地球温暖化や砂漠化などの環境問題にも対応していける見込みもあった。
 また、遺伝子構造を改変して造った人工バクテリアやウィルスなども開発された。これは、治療法の確立されていない、もしくは存在しなかった病を癒す可能性を秘めていた。病巣や病原体などに直接的な影響を及ぼせるような特性を、遺伝子配列でプログラムできるようになったのである。
 だが、遺伝子改造という技術の副産物として生物兵器が誕生した。
 理想的な技術や結果を数多く示した技術だったが、負の面も研究されてしまったのだ。当時、技術の最先端だったアメリカ軍の一部が遺伝子に目を付けていたのである。いち早く兵器への転用を画策したのが、研究の最先端に立っていたアメリカだった。
 現存する様々な生物の遺伝子を組み合わせ、含ませた生物全ての部分や特性を持つ動物が誕生した。
 最終的に、攻撃的な動物の遺伝子を組み合わせた生物が生み出された。人間を超越した身体能力と肉体強度、回復力を誇る、まさに化け物と呼ぶに相応しい存在だった。また、遺伝子配列によって特定の指示で動くよう、化け物を操る技術も同時に確立された。
 新たな戦力として投入された生物兵器は軍の予想以上の戦火を挙げた。身体能力や肉体の強靭さは敵に対して恐怖感や威圧感を植え付け、高い回復力や生命力は敵を混乱させる。唯一の難点は、知性が低いという点だった。敵の排除を主眼に置いて生み出された生物兵器は殲滅以外の任務を遂行する能力に欠けていた。
 第三次世界大戦に投入された化け物こそ、生命兵器の元祖、第一世代型、生物兵器である。
 戦争を傍観していた国々は危機感を覚えた。水面下で対抗できる技術の研究に奔走していた。
 次に開発されたのが、第二世代型の生体兵器だった。
 ある者は生物兵器のパーツを武器として操り、ある者は自分自身の身体に生物兵器のパーツを移植し、ある者は身体の一部の遺伝子を改造して強化した。様々な手法がとられた第二世代型は生物兵器と呼ぶには生物らしさがなかった。一部分を生物兵器並にするという手法から、生体兵器と呼ばれるようになったのである。
 現在の最終形態は、第三世代型、生命兵器だ。
 倫理問題によって遅れを取っていた日本でも、極秘裏に技術を発展させていた。開発されていたあらゆる技術を様々な方法で寄せ集め、他の国が作り出した兵器を更に上の段階へと進めたのである。
 第一世代型は細かな目的やデリケートな任務をこなせない。第二世代型では目的に応じて特徴の違うバリエーションが用意できたが、同じ数の生物兵器には劣勢になる。だから、第三世代として、生物兵器である人間を生み出した。
 これまでの欠点だった、任務途中の状況変化にも、人間の思考力があれば対応できる可能性は高い。第二世代型では、一部分だけの強化がネックとなり、逆に対応し切れない場合が多々あったのである。
 一部ではなく、存在そのものが既に強化されているのなら、後は思考力や知能で臨機応変に対応できると考えたのだ。
 事実、第三世代型はこれまでの兵器を圧倒する戦果や可能性を示した。
 唯一の誤算があるとすれば、生命兵器が人間であるという点だろう。
 葵たちを裏切った翔夜も、第三世代型・生命兵器なのだから。
「驚かないんだな?」
 葵は問う。
 生命兵器というものが現れてから、二十年ほどが経っただろうか。公表されたのはほんの四、五年前だ。まだまだ一般人には雲の上の存在のようなものだ。実際に戦う姿を見ていなくとも、生命兵器だと知らされて平静を保てる者がいるだろうか。冗談だと笑うか、半信半疑ながらも恐怖を抱くかのどちらかだろう。
 隠された、水面下での駆け引きはほんの一握りの者たちしか知らない。
「僕にも色々事情があるんです」
 朱莉の答えに、葵は眉根を寄せた。
「その事情を知りたい」
「言いたくありません」
 朱莉はきっぱりと言い放った。
 確固たる意志を持った目をしていた。今まではどこか微笑んだような、穏やかな目をしていた。だが、葵の言葉へ答えを返した朱莉の表情は全く違う。真剣で、真っ直ぐに物事を見据えるような目をしていた。
 口は堅いだろうと、葵にも容易に想像できる。
「なら、俺の質問に可能な範囲でいいから答えてくれ」
 溜め息をついて、葵は質問を変えた。
 彼の事情とやらが翔夜に結び付いている可能性はあった。しかし、翔夜と全く無関係な事情である可能性も十分に考えられる。ならば、別の部分から聞き出していく方が手っ取り早いかもしれない。
「何故、あの夜、俺を見つけた?」
「葵さんが人気のない路地裏に入って行くのが見えました」
「一部始終を見たのか?」
 朱莉の返答を聞いて、葵は質問を重ねた。
 一部始終を見ていたのなら、翔夜がどの方角へ向かったかだけでも判るかもしれない。
「いえ、見かけたのは入って行くところと、倒れているところだけです」
「どういうことだ?」
「夕飯を買うために外出して、葵さんが路地裏に入って行くのを見かけました。その帰り、気になって路地裏を覗きに行って、倒れているのを見つけたんです」
 朱莉はすらすらと答えを述べた。
「何で通報しなかった?」
「人気のない路地裏でしたから、何か事情があるかと思ったんです」
 言葉や理屈だけなら、筋は通っている。
 朱莉自身が人に言えぬ事情を抱えているために、葵を匿うことにしたのかもしれない。わざわざ人気のない場所へ入って行ったのだから、何か事情があるのではないか、と。逆に、事情があるから人気のない場所へ入らざるをえなかったと考えたのかもしれない。どちらにせよ、事情があるのならば大事にすべきではないと思ったに違いない。
 病院に通報すれば、警察や野次馬が現れる。報道される可能性も大いにある。
「納得していただけましたか?」
 朱莉の問いに、葵は黙り込んだ。
 全て的確な答えだ。
 だが、葵は釈然としなかった。疑念は消えない。納得し切れるはずもない。
 朱莉が普通とは変わった感性や思考を持っていると結論付けるのは簡単だ。見ず知らずの負傷した人間を自分の住処へと連れ帰り、手当てを施すなど、簡単にできることではない。
「最後に一つだけ聞きたい」
 だから、葵は質問を続けた。
「何でしょう?」
 朱莉は真剣な表情のまま、葵の問いを待っていた。
 恐らく、朱莉もどのような質問がなされるのか気付いているだろう。どう答えるか、考えてあるのだろうか。
「お前の言った事情は、翔夜と関わりがあるか?」
 朱莉は何も答えない。
 考えているのか、答えるつもりがないのか、葵には判断できなかった。ただ、朱莉の目を真っ直ぐに見つめ、返答を待つ。
「葵さんにとって、翔夜さんは大切な人なんですね」
 朱莉の言葉に、葵はテーブルに両手を叩き付けた。身を乗り出し、朱莉に顔を近づける。
「頼む、答えてくれ! 俺は翔夜に会わなきゃならないんだ!」
 語気を強める葵にも、朱莉は動じなかった。
「残念ですが、僕は知りません」
 目を閉じる朱莉を見て、葵は身を引いた。
「そんなはずはない」
 葵の言葉に、朱莉はゆっくりと目を開く。
 テーブルの隅に置いたカップを、葵は手に取った。
「このミルクティーは、あいつが淹れたものと同じ味だった」
 朱莉が僅かに目を細める。
 彼が淹れてくれたミルクティーは、かつて翔夜が葵のために作ってくれたものと同じだった。あの絶妙な味わいは忘れられない。他の誰にも、翔夜と同じミルクティーは作れなかった。
「誰に教わった?」
 朱莉は答えない。
 何を考えているのだろうか。はぐらかすための言葉を考えているのか、返答に迷っているのか、判断できない。
「確かにお前は正直だな。翔夜に関わる質問には、少しズレた答えを返してる」
「僕だって、嘘ぐらいつきますよ」
 葵の言葉に、朱莉はどこか寂しげに呟いた。
「大切なことや、知られたくないこと、隠しておきたいことのためには、ね」
 朱莉の言葉が嘘なのか、真実なのか、葵には判別できなかった。
 口調や声のトーン、話し方や雰囲気など、色んな部分で真偽が掴めない。平坦なようでいて、どこか褪めた感情のようなものもある。どこまで信じて良いのだろうか。
 二人とも、黙り込んでしまった。
 沈黙を破ったのは、テーブルの端に置かれた、携帯電話だった。静かな音楽が流れる。
「すみません」
 一言謝って、朱莉は電話を取った。
 ディスプレイを見た朱莉の目が僅かに見開かれる。驚くような相手からの電話なのだろうか。
「どうしたの?」
 朱莉の第一声に、相手や自分の名前はなかった。既知の相手なのだろう。親密な人物なら、わざわざ本人かどうか確認する必要もない。
「え……?」
 絶句する朱莉の顔から血の気が引いた。
「そんな! 今どこ!」
 言いながら、朱莉は立ち上がる。
「分かった、直ぐ行くから!」
 電話を切った朱莉の表情は一変していた。引き締まった目つきや口元は凛々しく、鋭い。葵には、彼の顔付きがどこか翔夜に似ているようにすら見えた。
「すみません、急用ができました」
 緊迫した様子の朱莉に、葵は立ち上がった。
「荒事なら、俺も行くぞ?」
 もし、命の危険に晒されるような事件に朱莉が巻き込まれそうになっているのなら、助けなければならない。翔夜への手がかりを失うわけにはいかない。本人は否定していても、朱莉と翔夜にはどこかで繋がりがある。葵は確信していた。
 だから、朱莉の力になろうと思った。
 見返りに情報が貰えれば好都合だ。どうあっても、翔夜の情報が欲しい。
「……あなたを、信じます」
 少しだけ考えて、朱莉は葵の申し出を受けた。
 葵は朱莉を追ってマンションの外へと飛び出した。走り出す朱莉を追って、葵も駆け出す。
「信じる……?」
 不可解な応答に疑念を抱きつつも、葵は口に出さなかった。
 朱莉は詳細を省いたのだ。これまでの会話から考えても、朱莉がはっきりと説明しないのなら聞いても無駄だろう。だから、葵はあえて問い質すようなことはしなかった。
 どの道、行動しなければ始まらない。説明が必要だと判断した時に求めればいい。
 朱莉の誘導で葵は進んでいく。
 辿り着いたのは取り壊しの決定しているビルだった。大通りからは少し離れており、取り壊しが間近という点も相まって人気はない。
「ここか?」
 葵の問いに、朱莉はビルを見上げる。外観の高さから察するに、五階建てだろうか。
「危険はあるのか?」
「はい。僕にとって大切な人が今、ここに逃げ込んでいます」
 朱莉は静かに答えると、ビルの中へと足を踏み入れた。
 危険があると言った朱莉は、ゆっくりと慎重に進んでいく。足音を極力消して、周囲を確認しながら。
 廃ビルというだけあって、中は閑散としている。壁や床には埃や壁、天井から剥がれ落ちた屑などが散らばっている。ところどころに穴が開いて内部の建築素材の見える壁と同様に天井も配管などが丸見えな場所がある。床のタイルも剥がれ、抜けてしまうのではないかと思う部分さえあった。
「どんな奴がいるんだ? 特徴を教えろ」
 葵は朱莉に囁いた。声が漏れぬよう、静かに。
「どうするつもりですか?」
「俺が先行する」
 朱莉の問いに、葵は即答した。
 危険な人物がいるのなら、生命兵器である葵が先頭に立って進んだ方がいい。何者かと遭遇した際、朱莉の知り合いだと判断できないのはまずい。
「髪は黒のロングで、左のこめかみに青いヘアピンをしています」
 一瞬、間を置いてから、朱莉は囁いた。
「ヘアピンが特徴か?」
 葵は不審げに問いを返した。
 服装やアクセサリーは日によって違うものだ。人にもよるが、毎日同じ服装というわけにはいかないだろう。だが、本人に会ったことのない葵への説明としてアクセサリーを挙げても意味がないのではないだろうか。
「小さな、青い羽根が端に象られたヘアピンです。いつも身につけています」
 朱莉は真剣な表情だった。
 葵は頷いて、朱莉の前に出た。壁に身を隠しながら、奥へと進んでいく。階段を上り、一階ずつ調べて行った。
 四階へ上る階段へ差し掛かったところで、葵は何者かの気配を感じた。朱莉にも気取られぬよう、ゆっくりと階段を上る。足音を立てぬように慎重に足を進めながら、葵は左手を握り締めた。
 葵が目覚めてから時間も経っている。階段の窓から景色が見えた。既に日は傾き、雲の多い空が朱色に染まりつつあった。
 握り締めた左手に痛みが走る。左肩の間接が痛んだ。針が突き抜けたような、鋭い痛みが肩の中を突き抜ける。後に残った鈍痛に、葵は表情を歪めた。朱莉には顔を見られていない。葵が左腕の調子を確かめたことに気付いていないだろう。
「厳しいか……?」
 声に出さず、葵は自問する。
 左腕は動く。動かすだけならばほとんど問題はない。だが、力を込めた時に患部が傷む。当然だが、まだ完治していない。戦うような状況になった場合、耐えられるだろうか。
 万全の状態でなければ、どのように足元を掬われるか判らない。左腕を庇いながら戦うのも難しいだろう。
 静かに息を吐き出し、気分を切り替える。
 四階にある気配へと意識を集中させた。階段があるのは外周に最も近い、隅の方だ。一直線に通路が続き、ドアがいくつか見受けられる。突き当たりは曲がり角になっているようだ。
 気配は二つある。一つは息を潜めているらしく、ぼんやりとしていて把握しきれない。もう一方はゆっくりと移動しているように思えた。
 朱莉の話を信じるなら、動いている方は敵だろう。
「この気配……」
 口に出さず、葵は眉根を寄せた。
 知っている気配だった。だが、誰だっただろうか。
 だが、翔夜でないのは確実だ。
 葵は足を速めた。葵が知っている相手だとしたら、仲間の生命兵器かもしれない。もし、相手が生命兵器なら葵の存在は察知されている可能性がある。
 ドアを調べずに通路を真っ直ぐに進む。突き当たりの曲がり角で左折し、通路の中程にあるドアへと直行した。
「どうしたんですか?」
 ドアの前で立ち止まった葵を見て、朱莉は問う。朱莉はドアノブにかけられた葵の手を押さえ、落ち着いてくれと懇願するように首を横に振る。
 止めようとする朱莉に構わず、葵はドアを開けた。
 危険は承知だ。大切な人が隠れている朱莉は慎重になりたいだろうが、葵の推測が正しければ手遅れになる可能性が高い。
「そこにいるのは、誰だ」
 開口一番、葵は部屋の中にいた人物に言葉を投げていた。
 中にいたのは、袖の無い灰色のコートを身につけた女性だった。胸の辺りまで届く左右の揉み上げを縛り、纏めている。後ろ髪はさほど長くない、セミロングよりやや短いといったところだ。
 優しげな瞳を大きく見開いて、葵を見つめている。背後には割れた窓があり、外の景色が見えた。もう、日は半分以上沈んでいる。
「葵じゃない?」
 女性が驚いた様子で言った。
「由梨(ゆり)?」
 葵は不可解とでも言わんばかりに眉根を寄せる。
 北里(きたざと)由梨。弘人と同じく、葵が身を置く組織に所属している仲間だ。無論、葵と同様に彼女も生命兵器だ。
「なんでお前がここに?」
 葵は問いを投げた。葵の記憶が正しければ、由梨は特別な任務を受けていたはずだ。つまり、翔夜の抹殺という任務を帯びているわけではない。弘人や他の仲間たちとは別行動をしているはずだった。
「それは……」
 由梨が言いよどんだ。
 極秘任務を彼女が受けているのだとしたら、たとえ相手が仲間でも話すべきではない。葵に言うべきなのか迷っているのだろうか。
「後ろの子は?」
 朱莉の気配を察知したのか、由梨が問う。
「お前が追いかけている奴の知り合いだ」
 葵は朱莉に一度だけ視線を向けてから答えた。
 不安げな表情だったが、どこか険しくも見えた。この部屋の中に朱莉の知り合いがいるのだろうか。
「……あなたは、彼女のことを知っているの?」
 由梨の問いが向けられたのは、葵ではなかった。問い質されたのは、朱莉だ。
 葵は眉根を寄せる。
 彼女という言葉を使ったことから、由梨が追いかけていた朱莉の知り合いとは女なのだろう。だとすると、青い羽根のアクセサリがついたヘアピンを身につけた女を助ければいい。
 だが、由梨の質問は不可解だった。何故、由梨は朱莉の知り合いを追いかけているのだろう。どうして、朱莉に問いを投げたのだろうか。
「どういう、意味ですか?」
 朱莉は言葉を返した。
 彼はさきほどの問いの真意を察したのだろうか。当事者でなければ理解できない内容なのだろうか。葵はただ、二人の次の言葉を待っていた。
 状況が掴めない。
 朱莉と由梨が敵対関係にあるのだとしたら、葵はどちら側につくべきだろうか。同じ組織にいるのだから、普通に考えたら由梨に協力すべきなのだろう。だが、彼女に手を貸した結果、翔夜の手掛かりである朱莉と別れなければならなくなるかもしれない。まだ由梨が敵と決まったわけではないが、葵には二人の言葉や態度が友好的には思えなかった。
「どうしてあなたがここにいるの?」
 今度は葵へと、由梨は問いを投げた。
「成り行きだ」
 葵は一言だけ告げた。
 成り行き、としか言えなかった。
 朱莉が翔夜と繋がりがあるかもしれない、と口走ってしまえば、由梨は首を突っ込んでくる。別の任務を帯びているとはいえ、翔夜の排除は組織の優先事項でもある。由梨自身が動かずとも、弘人などの仲間に連絡をとる可能性は高い。
 翔夜に会う時は、自分一人だけで対峙したい。仲間がいれば問答無用で翔夜と戦いを始めかねない。葵が会話をする余裕はないだろう。
 だから、朱莉の詳細は伏せた。朱莉が自ら言うならともかく、葵が口にするべきではないと考えていた。
「私が追っているのは、三年前のテロで流出した生命兵器よ」
 躊躇いがちに、由梨は告げた。
 葵は大きく目を見開いた。由梨の言葉で、何かが繋がった気がしていた。
 三年前、葵が身を置く組織に対するテロが起こった。狙われたのは、生命兵器の研究部署だ。テロによって複数の生命兵器が外部に流出してしまったのである。
 表向きは、政府の管理する孤児施設がテロの被害にあったとされている。流出したのは孤児である、という情報操作が行われていた。
 もし、由梨が追っているのがテロで流出した生命兵器だとすれば、辻褄が合う。
 朱莉が、葵の回復力や正体を知って驚かなかったのは、身近に生命兵器がいたからに違いない。生命兵器という、一般人が触れる機会の無いに等しい存在が近くにいればちょっとやそっとのことでは驚かないだろう。
 だが、朱莉は今この部屋で身を隠しているであろう女が生命兵器だと知っていたのだろうか。もし、知っていたとしても、解消されるのは朱莉の落ち着きようだけだ。翔夜との繋がりは判然としない。
「抵抗するようなら殺せ、と言われているわ」
 由梨が告げる。
 流出した生命兵器が組織に戻らないようであれば、排除しなければならない。生命兵器はたった一人でも大きな戦力になる。組織の外部に生命兵器がいるのはまずい。他の組織や国に渡ってしまう事態だけは避けねばならないのだ。
 葵は何も言えなかった。
 今まで、葵自身も似たような任務を受けてきたのだ。文句を言えるはずがない。強力な力を手にした組織なのだから、当然のことだ。力を制御できなければ組織は崩壊し、存在意義も失う。
「それを俺に話して、良かったのか?」
「バレたら始末書ものよ」
 葵の言葉に、由梨は肩を竦めて見せた。
「あなたは口が堅いし、頑固だから」
 教えないと納得しないでしょ、と由梨は苦笑する。
 葵は小さく息をついた。
「それで、葵はどうするつもりなの?」
 由梨の問いに、葵は即答できなかった。
 翔夜を探し出し、全てを聞きたい。何があったのか、どうして組織を裏切ったのか、何故、敵対するのか。理由、経緯、意志、全てを聞き出さなければ落ち着かないのだ。
「判らない」
 考えた末に、葵は告げた。
 何をすればいいのだろうか。どうしたいのだろうか。
 目的はある。だが、目的を達成するためにどう行動すれば良いのかが判断できない。手掛かりも少なく、暗闇を手探りで歩き回っているようなものだ。
 ただ、今目の前にある手掛かりを失いたくはない。
「じゃあ、あなたは?」
 由梨の問いが朱莉に向けられる。
「僕は、翔子(しょうこ)を助けたい」
 迷わず、朱莉は答えを返していた。翔子というのが朱莉の知り合いなのだろう。
 いつの間にか、日は沈んでいた。暗い夜空が部屋に影を落としている。薄い月明かりに照らされた、朱莉の横顔に、葵はどこか懐かしさを感じていた。
「ごめんなさい。もし、私の邪魔をするのなら排除しなければならないの」
 由梨が目を伏せた。
 組織としても、国としても、生命兵器が外部に流出するのは急事態だ。どのような手段を使っても、管理外に溢れてしまったイレギュラーは排除しなければならないのだ。たとえ、関係の無い者を巻き込んでしまうとしても。
 翔子を庇うために由梨を妨害するのであれば、朱莉は組織の敵にされてしまうのだ。
「それでも、諦められないよ」
 朱莉は真っ直ぐに由梨を見つめていた。
 彼の言葉に、葵は心臓が跳ねるのを感じていた。
 葵も、諦められない。どうしても、妥協できないものがある。胸の中で燻っている想いを、捨て去ることなどできない。だから、翔夜を追っていたのではなかったのか。納得したいだけではない。翔夜の存在を、諦めきれないだけだ。
 葵が一歩、踏み出そうとした時だった。
 後ろから肩を掴まれ、押し止められる。突然現れた気配に、葵は目を見開き、身体を強張らせた。一体誰が、振り返ろうとした瞬間、小さな呟きが聞こえた。
「ここは、お前の戦場じゃない」
 聞きなれた声に、葵の身体は固まった。心臓を鷲掴みにされたかのように、息が詰まる。
 歩み出たのは、ロングコートを身に着けた一人の男だった。長い黒髪を首の後ろで纏め、背に垂らしている。黒髪と、コートの裾が揺れる。背の高い青年だった。研ぎ澄まされたような刃のような切れ長の双眸に、整った鼻梁。長い前髪が時折、目を隠すように揺れている。漆黒の瞳は澄んだ光を湛えていた。
 ゆっくりと、葵の目は大きく見開かれていく。
 由梨が言葉を失う。
 葵と朱莉の前へと足を進め、青年は由梨と向き合っている。
「翔夜……っ!」
 葵はただ呆然と、翔夜の背中を見つめることしかできなかった。
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