第三章 「翔ける夜」


 月明かりが部屋の中に差し込んでくる。月光の陰影が対峙する者たちの輪郭を描き出し、どこか神秘的なものにしていた。
 葵と同じように、黒髪を後ろ髪で纏めた青年が由梨と対峙している。
 逸軌翔夜だ。
 見間違うはずがない。
「あなた、どうして……!」
 由梨は絶句していた。
 葵もまた、言葉を失っていた。
 何故、この場に翔夜が現れたのだろう。どうして翔夜の気配が察知できなかったのだろうか。翔夜の目的は何なのか。葵へ投げ掛けた言葉が意味するものは、何なのだろうか。
 様々な思いが駆け巡り、言葉が出てこない。何と声をかけるべきなのか、判らない。
 聞きたいことは山ほどある。
 しかし、翔夜が纏う雰囲気は鋭いものだった。まるで、この場の空気を支配しているかのように、冷たさと鋭さを感じる。威圧的なまでに研ぎ澄まされた翔夜の存在感は、葵を凍り付かせるには十分だった。
 翔夜が戦いに臨む時、彼は己の全てを極限まで研ぎ澄ます。故に、彼は今、由梨に対して戦うだけの心構えをしている。
「由梨、お前はどこまで知っている?」
 隙を見せることなく、翔夜は問いを投げた。
「どういう意味かしら?」
 由梨も警戒を解かずに返した。
「お前が追ってきた者たちについてだ」
 翔夜の言葉に、由梨は眉根を寄せる。
「私たちとは違う、というのは知っているわ」
 由梨は翔夜の目を見つめたまま答えた。
 どちらかが一歩でも動いた瞬間に戦いへ突入するだろうと思えるほど、空気が張り詰めている。言葉を交わし、情報を引き出しあいながら相手の様子を窺っている。
「葵、あなたはどうするつもり?」
 由梨が問う。
 翔夜から視線は外さない。外した瞬間、翔夜が動くかもしれない。一瞬でも隙を見せた方が負ける。翔夜の力を知っているから、由梨は葵へ疑問を投げるとしても視線を動かそうとはしなかった。
「今は、由梨の味方にはなれない」
 張り詰めた空気の中に、葵の言葉が響く。
 由梨の、組織の生命兵器として翔夜を殺すことは、できそうになかった。まだ、葵は何も知らない。翔夜の本音を聞き出すまでは諦めたくない。だから、この場で由梨と共闘はできないだろう。
「なら、手は出さないでね」
 視線や表情こそ臨戦態勢だったが、優しい口調で由梨は言った。
 直立していた翔夜が、いつの間にか腰を落として身構えていた。半開きの右手を前に、左手をやや後ろに引いている。
「退くなら、追わない」
「何が言いたいのかしら?」
 翔夜の言葉に、由梨は問いを返した。
 ここで由梨を逃がす意味はあるのだろうか。追ってくる敵を見逃しても、何も変わらないのではないだろうか。翔夜の実力を知っているとはいえ、由梨は生命兵器であり、組織を構成する一人だ。殺されない限り、組織が下す指示に従う。
 戦力を削がなくても良いのだろうか。
「俺は、俺の意思を遺したいだけだ」
 翔夜の言葉に、葵は無意識のうちに眉根を寄せていた。
「翔夜……!」
 葵が声をかけようとした瞬間、二人が動いていた。
 翔夜はロングコートを脱ぎ捨て、駆け出す。ロングコートの下は、薄手のランニングシャツとズボンだけだった。露出した翔夜の両手が変化する。
 灰色の毛並みが全ての指を覆い、先端に鋭い爪が伸びる。
 遺伝子操作により、生命兵器は体組織を意図的に変化させることができた。変化が可能なのは、配合された他の動物の遺伝子だ。遺伝子の一部を自らの意思で組み替えることで、掛け合わされた動物の能力を得る。
 第二世代型の生体兵器と違い、自分の身体ならどの部分でも変化させることができる。身体自体を変化させ、武器にできるのだ。
 翔夜の爪が横薙ぎに払われる。
 攻撃が届く前に、由梨は後方へ飛び退いていた。人間を遥かに凌ぐ脚力が由梨の身体を天井すれすれまで持ち上げる。由梨の着地点を目で測り、翔夜は止まることなく足を進めている。
 由梨は天井に手をついて、落下場所をずらした。丁度、翔夜の真正面から逃れるように。
 翔夜が制動をかけ、身体の向きを由梨へと向ける。翔夜の足が床を蹴るより早く、由梨が駆け出した。
 加速力が段違いだった。
 翔夜も常人を凌ぐ脚力を持っているが、由梨ほどの速度は出ない。彼女と翔夜では、遺伝子に織り込まれた生命体のモデルが違うのだ。
 葵は動き出しそうになる衝動を堪えていた。
 隣に立つ朱莉は、微かに目を細めている。どこか、辛そうな目で、二人の戦いを見つめていた。
「何故?」
 葵は問いを、口に出せなかった。
 朱莉が、視線を翔夜たちから逸らしていた。翔夜と由梨を無視して、翔子を探そうというのだ。
 どうして、朱莉は何も言わないのだろう。何故、戦っている二人から簡単に視線を外して、翔子という知り合いを探そうとしているのだろうか。翔子が大切なだけならば、最初から翔夜たちの戦いに目は向けない。逆に、何も知らなかったら二人の戦いに目が釘付けになっているはずだ。
 目の前で行われている戦いは、一般人が目にできる光景ではない。
 だが、朱莉は驚いた様子もなく、常軌を逸した戦いを見るよりも翔子を探すことを選んだ。
 葵は翔夜と由梨の戦いに意識を向けながらも、朱莉を追って部屋の壁際を歩き出した。
 由梨の回し蹴りを、翔夜が屈んで回避する。下方から振り上げられる爪を、由梨は跳躍してかわす。天井で両手を突いて勢いをつけ、翔夜の真上に飛び降りた。
 後方へ飛び退いた翔夜を、由梨が追撃する。
 由梨の遺伝子には、ウサギが混じっている。身体の大きさや体重に対して極めて高い脚力を持つウサギの生命情報を、由梨は使役できるのだ。身体内部の構造を改変し、脚力の増強を行う。また、聴力の拡張もでき、索敵能力が高い。
 対する翔夜の爪は、狼のものだ。鋭い嗅覚による索敵力と、バランスの取れた攻撃性を兼ね備えた生命情報が、翔夜の遺伝子には織り込まれていた。
 戦っている翔夜の横顔に迷いはない。ただ、ひたすらに前だけを見つめている。倒すべき敵だと判断した、由梨を。
「翔子!」
 朱莉の声で、葵は視線を二人から外していた。
 部屋の中に残された備え付けの大机の下に、少女が身体を丸めて隠れている。朱莉の差し出した手に掴まって、翔子と呼ばれた少女が机の下から出て来た。
 ロングの黒髪と、左こめかみにつけたヘアピンが目に入った。確かに、朱莉の口にした特徴だけでも少女を特定できそうだ。こめかみのヘアピンは青い羽根が端に象られている。聞いていた通り、珍しいデザインだ。
 朱莉と違い、少女は怯えていた。
 眦は下がり、弱気になっているのが判別できた。穏和そうな顔立ちだ。華奢で、強く抱き締めたら壊れてしまいそうな、儚い雰囲気を放っている。身に着けていたシャツやスカートは埃だらけで、逃げ回って来たのが見て取れる。
「もう、大丈夫だから」
 朱莉は彼女の肩に手を置いて、優しく声をかけた。
「その子が?」
「はい、日坂(ひざか)翔子。僕にとって、大切な人です」
 葵の言葉に、朱莉は頷いた。少女の前で大切な人だと言い切った朱莉の顔に迷いはない。
 恐らく、翔子は葵の名前は知っているだろう。翔夜が現れる前の、由梨との会話は聞こえていたはずだ。
「お前は、知っていたのか?」
 葵は聞かずにはいられなかった。
 生命兵器の存在を知っていたように見えたのも、葵の手当てを自宅で行ったのも、回復力に驚かなかったのも、彼の近くに生命兵器がいたからなのだろうか。だとしたら、翔子の存在は何だというのだろうか。三年前、流出した生命兵器を、ここまで隠し通せるものだろうか。
 組織は大きく、様々な機関への影響力ある。流出した生命兵器を三年近く経った今になっても全て処理できずにいるのは妙だ。
 朱莉の協力はあったのだろう。しかし、だとしても限度があるはずだ。朱莉一人の力で三年間も隠し通すのは難しい。
 次々と疑問が浮かんでくる。
 朱莉は、何も答えない。葵の問いを無視して、翔子を心配そうに見つめている。
「どうして、お前は……」
 彼女はどうして、組織に戻ろうとしなかったのだろうか。生命兵器は組織にとって貴重な人材だ。立場や権限は優遇されている。働いた仕事に対しての見返りも決して小さいわけではない。不本意な形で流出してしまった生命兵器が自ら組織に戻れば、最低限以上の生活は保障されるはずだ。一般人に紛れて暮らすことに、メリットは少ない。
 自分が生命兵器だと知っていれば、一般人との違いをはっきりと認識してしまう。同じ生き方はできない、別の存在なのだと、既に人間という種ではないのだと、自覚してしまう。
 ならば、組織に仕えるべきではないだろうか。あの場所ならば、同じ生命兵器もいる。自分たちにしかできないこともある。生命兵器であることを捨ててしまったら、葵たちの存在意義は皆無に等しい。
 葵が訪ねようとした瞬間、背後で壁の崩れる音が響いた。
 三人が振り返る。
 埃が舞い散る中で、翔夜の手が由梨の首の付け根を押さえていた。背後の壁に由梨が叩き付けられたらしく、壁が減り込むように損壊している。由梨を中心として放射状に罅が伸びていた。
 由梨の足が跳ね上がる瞬間、翔夜は首を掴んだまま腕を横へと振り払った。窓の方へ、由梨が投げ出される。窓枠に背中をぶつけ、由梨は接点を中心にバランスを崩していた。放り投げられたために、身体の上下は逆転するほど傾いている。窓枠を中心に、腰から下が外へと引っ張られるようにベクトルが変わっていく。
 窓枠を掴み、落ちまいとする由梨へ、翔夜は駆け出していた。窓枠を掴んだ両手を伸ばし、由梨は強引に背面蹴りを繰り出した。蹴りと同時に、部屋の中へ戻るつもりなのだ。振り下ろされる踵を、翔夜は半身になってかわした。円を描く蹴りの軌跡の内側へと滑り込み、腕を一閃する。
「うくっ!」
 由梨の口から呻き声が漏れた。
 叩き付けられた腕に押し出されるように、由梨の身体が外へと流れていく。翔夜は腕で由梨の身体を押さえたまま、自らも窓から外へ飛び出すように床を蹴った。
 手を伸ばす由梨の手を蹴り上げ、翔夜は窓枠に両脚を乗せる。
 窓枠を蹴り、外へ飛び出す翔夜の腕には、翼が生えていた。上腕の付け根付近から、鳥を思わせる翼が伸びている。身長の二倍近くの翼が広げられていた。
 翔夜が与えられた力は、二つある。狼と、鷹だ。他の生命兵器と違い、翔夜は二つの生命情報を遺伝子に織り込まれている。二種類の生物の遺伝子を、状況に応じて使い分けることが可能なのだ。
 ほぼ垂直に滑空し、翔夜は由梨を追って行く。
 脚力強化が特性である由梨ならば、四階から落下しても致命傷にはならないだろう。よほど体勢が崩れていない限り、無傷ということも考えられる。
 葵は窓に駆け寄り、身を乗り出して下へ視線を向けた。
 眼下では二人の戦いが続いている。
 由梨は着地後に直ぐ跳躍したらしい。向かいのビルと葵がいる廃屋の壁を交互に蹴るようにして高度を上げている。翔夜は肩に生やした翼で速度と方向を調節し、由梨へと接近していく。
 壁を蹴った由梨が跳び蹴りを放ち、翔夜は翼をはためかせて彼女を飛び越えた。由梨は廃ビルの壁に蹴りを突き刺し、もう一方の足で強引に壁を破壊する。翔夜が追いつくよりも早く、由梨の身体が建物の中へと消えた。
 葵のいる真下の階だろうか。
「葵さんっ!」
 朱莉の存在を忘れて、葵は窓から飛び降りていた。窓枠を掴んで身体の向きを反転させ、落下する。落下しながら、由梨が壊した壁へと手を伸ばした。破損した壁の縁を両手で掴み強引に身体を持ち上げて中へと突入する。掴みにくく砕けた壁も、生命兵器として強化された葵の手なら怪我を負うことはない。
 破片が散らばった部屋の中に人影はなかった。開け放たれたドアの向こうに翔夜の気配がある。葵は廊下を挟んだ向かいの部屋へと足を進めた。
 部屋には翔夜しかいなかった。由梨の気配は既になく、翔夜も翼を消している。指先も人間に戻っていた。
「由梨は?」
 葵の言葉に翔夜が振り返る。彼の向こうに、穴の開いた壁が見えた。
 勝ち目がないと悟った由梨は逃げたのだ。
 組織にいた頃から翔夜の実力はトップクラスだった。由梨も生命兵器としては優秀だが、翔夜との模擬戦で勝ったことはない。
「翔夜、お前の目的は何だ?」
 葵は問う。
「何故、裏切った?」
 今まで、共に信頼し合っていた葵にすら傷を負わせるほどの決意が知りたい。
「そこまでして遺したい意思とは何なんだ!」
 葵は叫んでいた。
 翔夜は何も答えない。無表情とも思える冷めた視線で葵を見つめている。
「俺にも、教えてくれないのか……?」
 葵は翔夜から視線を外していた。
 この場に彼が現れた理由も、反逆の理由も、全てが解らない。翔夜は何がしたいのだろうか。葵が組織にいるから言えないのだろうか。もし、葵が組織を抜けるとしたら、翔夜は答えを教えてくれるのだろうか。
 彼の考えていることが解らない。組織の中では葵が一番、彼の傍にいたというのに。
「お前の信じるものは、何だ?」 
 翔夜が呟いた。ただ一言だけ、葵に投げかけて口を噤む。
「俺の質問には答えてくれないんだな?」
 葵は翔夜の問いを突っぱねた。自分の問いばかり口にして、葵の質問には答えない。
 身勝手過ぎる。今までは、共に肩を並べて戦っていた頃は誰よりも仲間との連携を重要視していたというのに。何故、翔夜はこれほどまで変わってしまったのだろうか。
 もう、言葉では何も変えることはできないのかもしれない。
「……俺は答えが聞きたいわけじゃない」
 翔夜はゆっくりと言葉を紡いだ。
 答えを欲しているわけではない。葵の言葉を返して欲しいわけではないというのだ。ただ、考えて欲しい。答えを出すことではなく、考えるという部分が重要なのだと、翔夜の言葉から察した。
 しかし、だとしても葵には翔夜の望むことが見えなかった。不明瞭な部分が多過ぎて、考えることさえままならない。葵は翔夜に答えを返して欲しかった。
「俺は、答えが聞きたい」
 葵は言った。
「……俺が死んだとしたら、お前はその後どうする?」
 ほんの少しの間、翔夜は沈黙し、告げた。
 もし、翔夜という存在がいなくなったとしたら、葵はどうするのか。この場で葵が翔夜を殺すことも、組織の仲間が彼を殺してしまう可能性もある。
 事実だけを考えるなら、葵が単独行動をしていた理由が無くなり、組織の仲間と合流することになるだろう。今までと同じように組織の指令で動くことになる。もっとも、翔夜の存在を忘れて生きることができるかどうかは解らない。生命兵器の仲間たちはいざという時のために死を覚悟している。組織に属する者たちは仲間の死に対しても覚悟をしている。
 しかし、葵にとって翔夜の存在は大きくなりすぎている。他の仲間が死んだ時と同じように、忘れることはできないかもしれない。何も無かったかのように過ごすことは無理だ。
 翔夜の考えを理解できないまま、彼が死んだとしたら、葵は組織に戻るしかない。だが、もし翔夜の思想に葵が呼応したとすれば、また違った状況になる可能性も十分にある。
 どちらにせよ、今この場で判断はできない。
「……俺が勝てば、教えてくれるんだったな」
 葵は翔夜に視線を向けた。
 朱莉に助けられる前、葵は翔夜と戦い、敗北した。翔夜は、自分に勝てたなら知っていること、やろうとしていることの全てを話すと言ったのだ。しかし、あの時の葵はただ翔夜の裏切りに混乱していた。精神的に不安定な葵では翔夜に歯が立たなかった。葵は攻撃を躊躇い、迷いなく攻撃を叩き付けてくる翔夜に困惑した。
 戦う心構えすらできていなかったのだ。
 だが、今なら完璧とは言わないまでも、以前よりはまともに戦えるはずだ。彼の考えを知るために、彼と戦うのもやむをえない。相手が本気なのなら、葵も全力で翔夜に意思を示さなければならない。
 もう、引き返すことはできなかった。
 両手の組織を改変し、虎の爪を自身の武器として形作る。踏み出した足が床を蹴り、葵の身体を翔夜へ傾けさせた。重心を前に、姿勢を低くして、真正面から翔夜へぶつかっていく。
 すぅっと、翔夜の目が刃のように細められる。彼の爪は狼のものに変化し、葵の攻撃に備えていた。
 後方に大きく右腕を引き、体重をかけて翔夜へと振るう。風を裂き、迫り来る鋭利な爪を、翔夜は大きく跳躍してかわしていた。葵を飛び越え、背後に回るように、空中で身体を水平に捻る。
 着地の瞬間を狙い、葵は自分の上体を強引に捻った。振るった右腕に身体の動きを預けるように身を反転させ、翔夜と向き合う。空中で翼を広げて襲い掛かる翔夜の動きに意識を集中させた。
 攻撃をかわすため、葵は後方へと大きく跳躍する。同時に、左右の上腕に翼を形作らせた。翔夜のものと似た翼だ。
 葵も翔夜と同じように二つの生命情報を持たせられていた。虎と隼の二つの遺伝子を。
 翼の角度を調節し、低空を滑るように移動し、壁際ギリギリに足を着ける。だが、距離はあまり変わっていない。翔夜もまた葵を追って滑空していたのだ。しかし、僅かでも距離は開いた。翔夜の爪が届かない範囲だ。
 葵は直ぐに床を蹴り、走り出す。着地は葵の方が早かった翔夜が次の行動に移るまでの一瞬の時間に攻撃へ転じる。
 虎の爪を左右交互に突き出す。翔夜は狼の爪で葵の攻撃を捌き、蹴りを放った。命中する直前に葵の肘が翔夜の足を叩き落す。翔夜はもう一方の足で床を蹴って身体を浮かし、左右の翼をはためかせる。翼が翔夜の身体を回転させ、葵に風を叩き付けた。一瞬吹き付けた突風の直後、翔夜の回し蹴りが葵を捉える。風に逆らわずに後方へ逃れようと跳んだものの、一瞬遅かった。翔夜の蹴りは葵の下腹部に突き刺さっていた。吹き飛ばされた葵が地面に背中を叩き付け、床に転がる。
「ぇはっ……」
 風と衝撃で舞い上がった埃が気管に入り、葵は噎せた。
 後方へと逃れたはずだったが、翔夜の起こした風にバランスを崩された。思ったよりも深く入ったらしい。
 起き上がろうとした葵へ、翔夜が一直線に突っ込んでくる。翼で滑空しながら鋭利な爪を突き出す翔夜から逃れるように葵は床を転がった。着地した次の瞬間には、翔夜は既にもう一度跳躍している。葵は翔夜の正面から逃れるように駆け出す。
 だが、翔夜は翼を一度はためかせると旋回するように葵を追う。
 彼の持つ鷹の遺伝子はオオタカ類のものだ。主に林の中など遮蔽物のある場所での狩りを得意としている。狭い場所での移動に適しているとも言える。
 対する隼は逆だ。生物の分類としては同じタカ目だが、翼の形状から頻繁な旋回、方向転換などは不得意である。速度だけなら隼の方が上だが、狭い空間での戦闘には適さない。
 空中からの蹴りを、葵は咄嗟に左手で受け止めていた。まだ完治していない左腕を突き抜けた衝撃が痛みとなって駆け抜ける。
「ぎ、ぃ……っ!」
 歯を食い縛り、激痛に耐える。
 痛みを無視して翔夜の足首を思い切り握り締めた。左腕の神経が悲鳴を挙げる。翔夜は掴まれた左脚を軸に身体を捻り、右脚で回し蹴りを放った。葵は右手で翔夜の蹴りを掴み、強引に床へと叩き付けた。
 背中から叩き付けられた翔夜の口元には微かな笑みが浮かんでいた。だが、彼の目に嘲笑や敵意といったものは無い。優しげな瞳に、葵は目を見開いた。
「何が、嬉しい……?」
 体重をかけて翔夜の胸元へと爪を突きつける。
 翔夜は何も言わずに葵の爪を自分の爪で弾いた。もう一方の手を伸ばす葵へ、翔夜は翼を動かして風を叩き付ける。一瞬の圧力に動きが遅れ、翔夜は葵を下方から蹴り上げる。
 葵は寸前で身を反らしてかわした。
 答えが欲しければ倒してみせろとでも言うように、翔夜は葵へと攻撃を繰り出し続ける。
 左右の爪がタイミングを一瞬ずらして振るわれた。葵は肩からぶつかっていくように翔夜の懐に飛び込んだ。肩が翔夜の胸に触れる瞬間を見計らい、葵は至近距離から掌底を鳩尾目掛けて繰り出した。回転を加えた右手首に左手を添え、威力の増加を図る。翔夜は翼をはためかせ、強引に後方へと飛ぼうとする。距離が離れ始めるのと同時に、葵の掌底が翔夜の鳩尾に触れた。
 威力は減殺されていたが、確かな手応えを感じた。掌底が翔夜を大きく吹き飛ばす。
 壁に背中を打ち付けた翔夜の表情が一瞬歪んだように見えた。だが、直ぐに動き出している。
 背後の壁を蹴飛ばして跳躍し、空中で翼を広げる。滑空してくる翔夜へと、葵も駆け出した。強化された脚力で床を蹴り、空中の翔夜へと真っ向から飛び掛る。
 翔夜が突き出した爪に自分の爪を絡ませ、葵は強引に腕を引く。組み合った手を引き寄せられた翔夜に右膝を叩き込み、そのまま空中で投げ飛ばす。蹴り上げた足に勢いを乗せて後転するように、翔夜を持ち上げて真後ろへ回し、床に叩き付けた。
「ぐっ……」
 床に背中を強打した翔夜の口から呻き声が漏れる。
 葵は投げ飛ばした反動で逆に浮き上がった自分の身体を翼で制御し、翔夜からやや離れた位置に両足を着けた。
 身を起こす翔夜の手が狼のままであることを見て、葵は確信した。彼はまだ戦うつもりでいる。翔夜はまだ負けを認めてはいない。なら、葵も攻撃の手を緩めるわけにはいかない。
 これは訓練や模擬線とは違う。左腕の痛みに、実践であることを再認識する。相手の怪我に配慮をしてはならない。
 翔夜を殺してしまうかもしれない。いや、生半可な心構えでは組織から一人抜け出した翔夜には勝てないだろう。一度、実戦で葵は翔夜に負けているのだ。翔夜は手加減をして葵に行動力を残しもした。
 覚悟を決めなければならない。翔夜が負けを認めるとしたら、全力を捻じ伏せられた時ぐらいだろう。
 恐らく、翔夜は葵の覚悟が見たいのだ。
 抑えろと訴えてくる自制心を解き放ち、葵は全身に殺気をみなぎらせる。相手が翔夜であることを意識の中から外し、今まで葬ってきたものと同じ、敵との認識に変えた。
 大きく息を吸い込み、一度全て吐き出す。もう一度息を吸い込んでから、葵は駆け出した。
 身を起こした翔夜へと右の爪を突き出す。翔夜はすぐさま後方へ跳び退り、斬撃にも似た一撃をかわす。葵の爪が床に突き刺さる。床が裂けるのも構わずに強引に爪を振り上げ、葵は歩みを止めずに翔夜へと真っ直ぐに向かって行った。
 翔夜は翼をはためかせて突風を浴びせてくる。葵は向かい風に構うことなく突き進んだ。
「おおおおおっ!」
 咆哮し、葵は右の爪をもう一度突き出す。
 翔夜の爪が斬撃を受け止める。だが、次の瞬間には、葵は左手を一閃させていた。痛みなど、忘れていた。痛覚が脳を刺激してくるが、耐える。今は、痛みを無視しなければならないのだから。
 翔夜は咄嗟に左腕で身を庇う。鋭利な爪が庇った腕を裂いた。紅い血が弧を描くように宙を舞う。
 後退しようとする翔夜の方へ右脚を踏み込んで、葵は左脚で回し蹴りを放った。翔夜は右腕で蹴りを受け止める。葵は翼をはためかせて身体を持ち上げ、翔夜の腕を蹴飛ばしてベクトルの方向を強制的に変更した。空中で身体を斜めに一回転させるように、葵は自分の身体を空中で制御する。
 翔夜に蹴りを放つ。葵が攻めてきたことを悟り、翔夜は退くのではなく踏み込んで来ていた。蹴りの勢いが乗り切る前に力の方向を腕で弾いてずらし、受け流す。
 葵は右腕を引いて身体を捻り、反動で前へ出る左腕に勢いを乗せて振るった。翔夜は掌で葵の腕を掴み、受け止める。葵の攻撃を受け止めた翔夜の左腕から血が流れ落ちる。翔夜もまた、傷など眼中になかった。まるでダメージなど受けていないかのように身体を動かす。どんなに傷を負っていても、動きを鈍らせてはならない。身体に無理をさせていることは承知の上だ。一瞬の隙が命取りになると知っているから、葵も翔夜も傷を無視して戦っていた。
 もう、何も考えていなかった。ただ、目の前にいる相手を倒すことだけを考えている。翔夜の考えや、自分の意思、今後のこと、朱莉や翔子のこと、全て頭の中にはない。
 翔夜の腕の動きに脊髄反射的に身体を反応させる。振るわれた腕を受け止め、いなし、距離を詰める。近距離からの反撃で膝を跳ね上げ、防がれた瞬間には腕を薙いでいる。
 どうすれば倒せるか、出し抜けるか、漠然と考えていた。
 研ぎ澄まされていく感覚と意識は、ただ相手を超えることだけに集中していく。
 身体能力的には二人は互角だ。与えられた生命モデルも対になっていると呼べるほど似通っている。細かな違いはあるものの、可能な動きはほぼ同じだ。組織にいる間は訓練も、実戦も、鍛錬も、同じだけこなしてきた。違いがあるとすれば、精神力だろうか。
 翔夜が放った左の拳を寸前で右手の甲でいなし、手首を回して彼の腕を掴む。翔夜は掴まれた腕を引き寄せて葵との距離をゼロにする。引き寄せられる勢いで葵は膝を蹴り上げた。翔夜は葵の右脇に右手を滑り込ませ、掴まれた腕を下方へ、差し込んだ右腕を上方へと引き裂くように動かした。
 葵の身体が右脇を中心に回転し、視界が回る。バランスを取るために大きく広げた翼の一方を、翔夜の爪が切り裂いた。右腕の半ばに生えた翼が、腕から数センチのところで引き裂かれる。
「ぐあぁ……っ!」
 切断面から血が溢れ出す。部位を欠損した激痛が脳を貫く。
 体勢を立て直すことができずに葵は背中から地面に叩き付けられた。
「ぁは……っ!」
 衝撃で肺の中にあった空気が押し出される。
 視界には翔夜の爪が見えた。真っ直ぐ首へ目掛けて突き出される爪を、葵は右の掌で受け止めた。翔夜の爪が葵の掌を貫く。中ほどまで貫通した翔夜の手を、葵は貫かれた右手で掴んでいた。
 激痛が葵の右腕の中で跳ね回る。感覚が失せかけた右手へ強引に力を込める。
 跳ね上げた左膝を翔夜の右手が押さえ込んだ。
 次の瞬間、葵の爪が閃いた。左手の爪が、翔夜の左手を肘の直ぐ下で両断していた。葵は右手に掴んだままの翔夜の左手を振り払うように真横に投げ捨てた。
 紅い血がぶちまけられる。
 翔夜の左腕から流れ出した鮮血は倒れた葵の胸や頬を紅く濡らし、貫かれた掌からも血が溢れ出している。翔夜の左手が宙を舞い、血を撒き散らしながら床に転がった。
「翔夜さん! 葵さん! 何してるんですか!」
 叫び声が室内に響き渡った。
 朱莉の声だと気付くのに、ほんの数瞬だが時間がかかった。
 見れば、部屋の入り口に朱莉が立っている。信じられないものを見るかのように、辛そうな表情で葵と翔夜を見つめている。彼の直ぐ背後では、翔子が青褪めた表情で口元を両手で覆っている。
 朱莉と翔子に向けていた視線を翔夜に戻した時、彼も同じように葵へと視線を戻すところだった。目が合った瞬間、葵の右手が跳ねる。
 風穴の開いた右手が、翔夜の頬を打っていた。
 葵を見下ろす翔夜の目が、戦闘の終了を告げている。満足げな表情の翔夜を見て、頬を叩かずにはいられなかった。
「お前は、馬鹿だ……!」
 言って、葵はようやく自分が涙を流していることに気付いた。頬を濡らしていたのは翔夜の腕から滴り落ちた血だけではなかった。
 何時から泣いていたのだろう。戦っている時も、涙を流していたのだろうか。戦いに集中し過ぎて、泣いていることに気が付かなかった。無表情で、涙を流しながら葵は翔夜と戦っていたのだ。
「……やはり、互角か」
 翔夜は大きく息を吐いて呟くと、ゆっくりと身を退いた。
 葵は傷む右手を床について、身体を起こした。右腕に力が入らず、葵は涙と頬の血を拭った左手で身を支える。
 戦いという、意識を集中する対象がなくなったことで、今まで無視していた痛みが身体の中で暴れ回り始める。葵は乱れた呼吸を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「もういい、翔夜。全て教えろ」
 葵は翔夜を睨みつける。
「……翔夜さん、葵さんなら、話してもいいんじゃないですか?」
 黙り込む翔夜を見て口を開いたのは、朱莉だった。
 翔夜はゆっくりと歩き出した。葵とすれ違い、背後の壁に開いた穴の縁で足を止める。
「俺は、解らなくなったんだ」
 破壊された壁の縁に右手をかけて、翔夜はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
BACK     目次     NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送