第七章 「とけあう心」


 葵たちは、辰己の知人だという女性、佐崎奈緒(ささきなお)のマンションにいた。
 葵たちを匿ってくれるかどうか心配ではあったが、辰己はどうやら自分たちのことは話してあったらしい。
 群雲や政府が動いているのなら、ホテルなどの施設には既に手が回っているだろう。かと言って、今までいた山の近辺は捜索が行われるはずだ。翔子の戦闘による火災自体は、彼女の死によって消えた。だが、街からも火災は見えていた可能性は高い。洞窟が隠れ家として使いものにならなくなったことで、葵たちは潜伏場所を変えるしかなかった。
 朱莉たちが今まで使っていたマンションも、既に組織が押さえているはずだ。
 どこへ行くべきか、葵には判らなかった。群雲への襲撃を考えるなら、今の街の付近からはあまり遠くへ行くことはできない。
 辰己の提案に、葵は乗らざるを得なかった。辰己の知り合いの家に上がり込むという提案に戸惑いはしたものの、他に選択肢が浮かばなかったのだから。
 何より、朱莉を休ませてやりたかった。翔子の死で一番ショックを受けているのが朱莉なのだから。
 葵たちは二部屋あるうちの一つを使わせてもらっている。玄関から直通のリビングではなく、奥にある寝室だ。
 朱莉は床に寝転んでいる。右腕を額に乗せたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
 まだ、あれから六時間ほどしか経っていない。
 守り切ることができなかった。葵は床に座り込んだまま、壁に背を預けて俯いている。掌には、翔子が身に着けていた青いヘアピンがある。翔子が身に着けていたものの中で、唯一、燃えずに残っていたものだ。微かに溶けた先端のみが尖っているものの、原型は留めている。
 翔子の亡骸と共に埋めても良かったのだが、朱莉が拒んだ。
 葵に持っていて欲しいと、朱莉は言った。翔夜が贈ったものだから、と葵に告げて。
「ただいま」
 声がして、買出しに行っていた辰己と奈緒が帰ってきた。
 葵はヘアピンをジャケットの内ポケットの中へしまい込み、立ち上がった。寝室を出てリビングに入り、辰己たちと合流する。買ってきたものの整理を手伝うために。
「朱莉さんは?」
 小声で様子を尋ねる辰己に、葵は首を横に振った。
「あの調子では、連れて行くのは無理かもしれないな」
 戦うと決めた時から、葵は仲間が死ぬことを覚悟している。少人数で大きな組織と戦うのだから、全滅する可能性も十分にあるのだ。誰が死んでもおかしくないとさえ思っている。
 群雲にいた時のクセだろう。元々、葵一人でも戦うつもりだったのだ。可能なら、葵一人でケリを着けたいとすら思っている。
「俺のせいだな」
 葵は小さく溜め息をついた。口に出さずにはいられなかった。
 いや、朱莉の前で言わなかっただけでも我慢した方かもしれない。朱莉が聞けば、きっと否定するだろうから。翔子が自分の意思で戦った結果だから、と葵を庇うだろう。だが、仕方が無いことだったと言うのと同じだ。
 今の葵では、何を言っても朱莉を慰められない。だから、口を噤むしかなかった。
「私も、朱莉もそう思ってますよ」
 辰己が苦笑する。
 自分が戦っていれば良かった。翔子と肩を並べて戦うこともできた。だが、二人以上で戦うことはしなかったのは自分たちだ。今後の戦闘のためにと、力を使わないようにしていたのだから。
 だが、いざとなったら朱莉たち三人のうちの一人だけが戦う、と決めたのは葵だった。
「夕飯は食べて行きますよね?」
「うん」
 奈緒の言葉に、辰己は彼女の方を向いて頷いた。
 髪の長い女性だ。たれ目がちな瞳を常に少し細めている。おっとりとした雰囲気で、物腰も柔らかい。葵とは正反対のタイプだろう。
「そうだ、奈緒さん、少しキッチン使わせて貰えますか?」
「ええ、どうぞ」
 辰己の問いに、奈緒は微笑んで答える。
「朱莉さん、いつものやつ、頼めますか?」
 葵には何のことだか判らなかった。だが、辰己の言葉に朱莉は反応した。
 少しだけ目を見開いて、身を起こす。
「……こんな時だからこそ、お願いします。材料は買ってきましたから」
 促されて、朱莉はゆっくりと立ち上がった。
 奈緒はリビングのソファーに腰を下ろしている。辰己は彼女の隣に座った。
 葵は立ったまま、朱莉を見つめている。
 朱莉は雪平鍋を取り出し、買い物袋の中から牛乳を取り出し、鍋に注いで火にかけていた。同様に、紅茶のティーパックを鍋の中に入れ、エバミルクと少量の砂糖を加える。
 葵は目を見開いた。
 翔夜の手順と同じだった。
「僕は、翔夜さんからミルクティーの淹れ方を教わりました」
 少しずつ、朱莉の表情が変化していくのが判った。
 落ち込んで沈んでいた瞳に、光が戻ってくる。
「やっぱり、翔夜から教わったんだな」
「はい。葵さんには、直ぐに見破られてしまいましたね」
 朱莉が微笑む。まだ、どこか痛々しく感じられる笑みではあったが。
「……私たちが朱莉の家に行った時、必ずそのミルクティーを淹れてくれたんですよ」
 辰己が言った。
 最初は、翔夜が群雲から盗んだ薬を届ける際、朱莉の家で皆にミルクティーを振る舞っていたらしい。やがて、朱莉が翔夜を手伝うようになり、自分がいなくなっても皆に振る舞えるように、と翔夜が作り方を教えたようだ。
「あの人には珍しく、特別だ、って言ってました」
 四つのカップにミルクティーを注ぎ、朱莉は呟いた。
 葵は辰己と奈緒の向かいのソファに腰を下ろした。朱莉はやや小さめのテーブルにカップを置いて、葵の隣に座る。
「いただきます」
 奈緒は丁寧に言うと、カップを手にとって口に運んだ。
 葵と辰己もミルクティーに口をつける。少し遅れて、朱莉も飲んだ。
 濃厚な甘さと、芳醇な紅茶の風味が口の中で溶けて行く。翔夜の淹れたものと、全く同じ味と香りのミルクティーに、葵は心が落ち着いていくのが解った。
「わぁ、すっごく美味しい!」
 奈緒が絶賛する。
 暖かいうちに、葵はミルクティーを飲み干した。もしかしたら、翔夜のミルクティーを飲むのもこれが最後かもしれない。
「世界で一番好きな人のために作った、と翔夜さんは言っていました」
 朱莉の言葉に、葵は目を見開いた。
 言わなくても解る。世界で一番好きな人、というのは葵だ。
「翔子は、戦いには向いていなかった」
 ぽつりと、朱莉が呟いた。
 確かに、翔子は戦闘には不向きな性格をしていた。戦闘のために与えられた能力は、破壊力や攻撃範囲共に最高クラスのものだったかもしれない。しかし、彼女の臆病な性格は長所を殺してしまいかねない部分があるのも確かだった。
「やっぱり、翔夜さんにはまだ力があるね」
 辰己が小さく笑った。
 ミルクティーを作るだけで、朱莉はもうほとんど立ち直っている。葵の気分も落ち着いていた。確かに、既に翔夜という存在はこの世にはいない。だが、彼の残したものが葵たちを手助けしているような気がする。
「今夜、仕掛けよう」
 葵の言葉に、朱莉と辰己は静かに頷いた。奈緒は、ただ辰己を見つめている。
 本来なら、来週を想定していた。今夜を逃せば来週になる、ということでもある。
 群雲では定期的に重役の会議が行われている。群雲という組織の人間だけでなく、生命兵器を研究している機関や施設の役員や、政府の要職たちによる集まりだ。大体の内容は、現時点での世界のパワーバランスや、生命兵器による力関係の確認である。もちろん、新型生命兵器の研究や、新たな開発計画の提案なども行っている。
 葵たちの目的は、彼らを殲滅することにある。研究機関と群雲、政府の重役を抹殺することで三つの組織に壊滅的な打撃を与えることができるはずだ。会議は、誰もが代役を用意せずに必ず同じ人間たちが集まっている。つまり、代役を用意できないほどの重要性があるということだ。
 会議が行われるのは月に一度だった。だが、翔夜が離反したことで急遽会議が行われることになっていたのだ。足りなくなった戦力の補充に関する話か、新型の実戦投入に関するものかは知らない。ただ、今日の夜に行われるということだけは知っていた。これを逃せば、来週に行われる定期会議まで待つ必要がある。
 本来は来週まで待つつもりだったが、葵は今夜、襲撃することを決めた。今朝、殲滅した由梨の部隊の損失があるうちに攻撃する。
 飲み終え、空になったカップを奈緒が片付け始めた。朱莉が席を立とうとするのを止めて、辰己が奈緒を手伝うためにキッチンへと向かう。
「彼女は、本当に大丈夫なのか?」
 キッチンの二人に聞こえないように、葵は小声で朱莉に尋ねた。
「婚約者だって言ってましたから、いいんじゃないですか?」
 朱莉が答える。
「婚約者、か……。俺たちには必要ないものだと思っていたな」
 葵は小さく呟いた。
 生命兵器は子孫を残すことができない。生命体としての設計図である遺伝子が改変された存在であるが故に、生殖能力に欠陥があると組織からは説明されている。自然に誕生した存在とは違うのだ。見た目は人間でも、中身は同じとは言えない。
「生命兵器でも、子孫は残せますよ」
 朱莉が放った言葉に、葵は目を見開いた。
「現に、妊娠した仲間を見たことがあります」
 言って、朱莉は目を細めた。
 三年前の一件で、翔夜が逃がした試作型の生命兵器たちは一般人に紛れ込んだ。生命兵器同士で恋仲になった者もいれば、一般人を好きになった者もいたらしい。結果から言えば、生命兵器同士での生殖は、可能だったと朱莉は語った。
「ただ、出産までできた人はいませんでしたけれど」
 残念そうに目を伏せて、朱莉は告げた。
 出産に至る前に群雲の追っ手に見つかり、殺されたのだ。
「戦うために全身を変化させた時、子供に悪影響が出たりもしたみたいです」
 自己防衛のために、力を使うとすれば身体を変化させるしかない。腕や脚だけの変化では特性を十分に発揮できない試作型が戦うには、全身を変化させるしかなかった。結果、胎内の子供にも変化の影響が及んでしまったと言うのだ。どんな悪影響なのかは、朱莉は口にしなかったが。
「結局、戦った者たちも死んでしまいました」
 生き残っている者は朱莉と辰己だけだ。この状況が全てを物語っている。
 もしも可能性があるとすれば、試作型生命兵器の男性が、殺される前に一般人の女性を妊娠させた場合ぐらいだろう。可能性としてはかなり低い。いたとしても、葵たちにはどうすることもできない。
 産まれてくる子供が正常とは限らない。前例が無いのだから、こればかりは実際にどうなるかを見てみなければ判らない。もしかしたら外国では例のあることかもしれないが、だとしても最重要機密だろう。情報は他国に渡らぬように管理されているに違いない。
「僕は、群雲を許さない」
 朱莉が呟いた。
 今までのような、優しい目は無かった。鋭い刃のような、確かな決意を秘めた瞳がある。まるで、翔夜のような目だった。
「……本当は、最初からこうしたかったのかもしれない」
 三年前、翔夜によって群雲から逃れた朱莉はひたすら隠れる生活をしてきた。仲間が殺されていくのを見ながら、知りながら、堪え続ける日々を送ってきたのだろう。
 だが、これから朱莉は戦うのだ。今まで仲間たち殺してきた組織を相手に。
「命を弄ぶなんて、僕は許せない」
 生命兵器を生み出し、研究し、更に発展させようとする群雲が葵や朱莉たちを生み出した。命を兵器として扱い、邪魔になれば処分する。実験のために生み出して、酷使しては平気で使い捨てる。都合が悪いからと、意思を奪った者を大量に生み出す。
 命というものに対する侮辱ではないか。
「……そうだな」
 鋭い目つきのまま、静かに涙を流す朱莉を、葵はそっと抱き寄せる。
 世界のパワーバランスだとか、国内の情勢だとかは葵たちには関係無い。自分たちの生きる場所を得るために、これから弄ばれる命を無くすために、群雲を潰す。

 早めの夕食を終えた葵は、マンションの屋上に佇んでいた。傍らには朱莉がいる。
 辰己が屋上へと上がってきた。
「もう、いいんだな?」
「はい」
 葵の問いに、辰己は小さく笑みを浮かべて答える。
 奈緒との別れは済ませたらしい。いや、必ず帰ってくると約束していたのかもしれない。
「必ず、勝って生き残るぞ」
 葵の言葉に、二人は静かに頷いた。
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