第八章 「向日葵」


 群雲本部の敷地は大きく別けて三つの区画がある。実働部隊の編成、任務の指示などの作戦行動に関する部分を主に担い、生命兵器の宿舎を擁する実働区画。生命兵器の研究、開発、調整などを行う研究区画。敷地の最奥部に位置し、研究員や重役などの宿舎と複数の会議室を持つ集会区画。
 広い敷地の中で、実働区画と研究区画、集会区画は正三角形の配置になっている。もちろん、細かな施設や建物は他にもあるが、主となる建物は互いに隣接し合っている。
 夜、日が沈み、月が昇り始めた頃、群雲では会議が始まって少し経った頃合だろう。
 群雲の研究区画の屋上に、葵たち三人の姿があった。
 両手には鋭利な爪、肩からは巨大な隼の翼を広げた葵を中心に、右には六枚の白い翼を生やした朱莉が、左には蝙蝠のような黒い翼を広げた辰己が立っている。朱莉の瞳は白銀に輝き、辰己は対照的に真紅の光を放っていた。
 辰己の空間歪曲を用いた瞬間移動により、葵たちは奈緒のマンション屋上からここまで数秒で辿り着いた。群雲本部のセキュリティは強固なものだが、辰己の前には無力だ。本部敷地を見張る警備員も、監視カメラも、辰己を捉えることはできない。
「打ち合わせの通りに行くぞ」
 葵は呟いて、ゆっくりと床を蹴った。
 軽い跳躍の後、翼をはためかせての滑空を始める。遅れて、朱莉と辰己が後を追う。
 不意に、辰己の姿が消えた。空間歪曲を発動させたのだ。朱莉は葵の後に続いている。白い翼が光の霧を辺りに撒き散らす。光学迷彩と同様の効果をもたらす、朱莉の能力だ。可視光線を葵と朱莉の周囲のみ歪曲させて逸らすことで、二人の存在は他者には視認できなくなる。
 群雲の警備も厳重だが、朱莉と辰己の存在がかなり助けになっている。二人がいなければ、葵はここまで辿り着くことすらできていないかもしれないのだから。
「その窓から突入する、いいな?」
「はい」
 朱莉の返事を聞いて、葵は研究区画の窓の一つへと加速する。
 葵と朱莉の二人は研究区画の中を通って集会区画へ向かう。辰己は単独で実働区画を突破し、集会区画で落ち合うことになっている。
 会議区画のセキュリティは他の二区画と比べても極めて高いレベルにある。重役を迎える場所であるが故の対策だ。朱莉も辰己も、能力としては高い力を持っているが、あまり破壊的なものではない。分厚い金属で固められた集会区画の壁を破壊するのは困難だ。故に、葵は二手に別れての作戦を提案した。
 葵は朱莉と共に研究区画にて機密情報の破壊を行い、辰己は実働区画にある警備システムを叩く。警備システムを破壊すれば、集会区画への侵入も比較的容易になる。後は強引に突破していくしかない。
 窓を突き破って屋内に突入し、葵は通路を駆け出した。破壊された窓に設置されていた防犯システムが作動し、区画内に警報が鳴り響く。
 部屋から飛び出してくる研究員に葵は飛び掛かり、首筋を爪で切り裂いた。
 可視光操作によるステルス効果で、葵の姿は周りの誰にも見られていない。いきなり首を引き裂かれた研究員を見て、他の研究員がパニックを起こして逃げ惑う。
 葵は容赦なく研究員を爪で引き裂いて行く。
 朱莉も、葵が取り逃した研究員の首筋に手刀を叩き込んでいた。冷ややかな目で、首の骨を砕いている。研究員たちこそ、実際に命を弄んでいる者たちだから、朱莉にとっては復讐対象だ。
 部屋の中の研究員を皆殺しにして、室内の機材を片っ端から破壊していく。一通り破壊し終えたところで部屋を出て次の部屋へ。
 長髪を翻し、研究区画を駆け抜ける。研究員たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、血を撒き散らして朽ち果てて行く。機器は煙を吹いて動かなくなり、物理的にデータを破壊させて行く。
「新型か。な……っ!」
 大きな部屋に突入した葵は、目を見開いた。
 目に入ったのは、大きなシリンダーケースと、何人もの少女の姿だ。彼女たちの多くは既にシリンダーケースから外に出ており、目を覚ましている。シリンダーケースの約五分の一には少女が入ったままだ。少女たちは裸だった。今まさに目覚めさせられたとでも言わんばかりに、無色透明の培養液を身体に付着させた状態だ。
「そんな、翔子……!」
 いや、違う。朱莉も直ぐに理解できただろう。
 翔子のデータを基に創り出された、新型の生命兵器なのだ。恐らく、炎を操る力を与えられたタイプの。
 最も葵の近くにいた少女が右手を伸ばす。葵はすぐさま飛び退いた。少女の右手から炎が噴き出し、葵の脇を掠める。熱が周囲を赤く照らし出し、床と壁、天井を焦がした。
「サラマンダータイプを全て起こせ! 侵入者を排除させろ!」
 部屋の最奥部で機器を操作している研究員が叫ぶ。
 葵は歯噛みしながら、駆け出した。
「朱莉」
「大丈夫です」
 葵の言葉に、朱莉が可視光を操作する。
 朱莉の力で他者から姿の見えなくなっているはずの葵が攻撃されたのは、恐らく朱莉が翔子そっくりの少女を見て動揺したせいだろう。無意識のうちに能力を解いてしまっていたに違いない。
 再び力を張り巡らせた朱莉により、葵たちは姿を消した。
 見当違いの方向へ炎を放つ少女を見て、葵は顔を顰める。
 研究員たちは気付いているのだろうか。ここで戦うということは、研究区画自体にも少なからず損害を広げるのと同じだ。恐らくは気付いていないのだろう。気が動転し過ぎている。戦闘のための力も持たず、訓練を受けていない人間はこの程度なのだろう。
 葵はサラマンダータイプと呼ばれた少女の首を爪で切り裂いた。血を撒き散らしながら少女が倒れ、赤い水溜りを作る。葵は翼をはためかせると同時に軽く跳躍し、立て続けに敵の頭部に爪を突き刺した。強引に腕を引き上げて頭部を破裂させ、血を浴びるのも構わずに突き進む。
 朱莉はシリンダーケースの機器を操作していた。中で眠っている少女たちの生命維持装置をカットし、抹消の処理を選択していた。培養液の性質が変化し、緑色に濁っていく。恐らく、数分と経たぬうちに息絶えるだろう。自らが生まれたことすら知らないで。
 シリンダーケースへ注意を向けたために、朱莉の光学迷彩効果が消える。葵は更に加速して、勢いに任せて部屋の際奥部までを突き抜けた。活動していた少女の首を撥ねながら、研究員の背中に強烈な蹴りを見舞った。加速され、威力の強化された蹴りが研究員の背骨を粉砕する。凄まじい勢いで壁に激突し、崩れ落ちる研究員を無視して、葵はコンピュータに視線を向けた。
 どれだけの新型がいるのか、把握の必要性を感じた。
 葵の目的は群雲の壊滅だけではなくなっていた。個別の意思を持たない新型の生命兵器を全て殺そうと考えていた。個々の意識を持たず、道具として扱われ続けるのはあまりにも酷だ。葵たちが彼らを殺すことで、少なくともものとして扱われることはなくなる。
 葵はついさっき蹴りを見舞った研究員のアクセス権限を用いてデーターベースに接続した。
「……サラマンダー、翔子の量産型か」
 葵は忌々しげに呟いた。
 朱雀を生命モデルとする翔子を基に生み出されたのは、火の精霊をモデルとする新型だったということだ。翔子は全身を炎に包むことで自在に火炎を操ることができたが、現在の新型は少し違うらしい。
 以前戦った、ウンディーネタイプや麒麟型も同様に、量産型なのだ。量産型は個々の意識を抑制され、力も腕部と脚部以外からは発生できないようだ。どうやら、完全に支配下における新型生命兵器を造るための意識の抑制に合わせて、特殊能力の発生部位を限定しているらしい。量産のためのコストパフォーマンスの向上や、教育プロセスの短縮や単純化などを図った結果だろう。
 弘人がいきなり多数の麒麟タイプを率いていたのも、由梨が二種類の新型で部隊を編成してきたのも頷ける。既に新型の多くは実戦投入できるレベルに達していたということだ。
「精霊型、か。こんなものを……」
 麒麟、ウンディーネ、サラマンダーの他にも二種類の新型が計画されていた。すなわち、風を操るシルフと土を司るノームの二つだ。まだシルフとノームは調整研究段階のようだが、ウンディーネとサラマンダーは既に実用段階に入っている。
「これは……」
 不意に、一つのファイルが葵の目に止まった。
 画面を流れていくファイル名の中に気になるものがあったのだ。
「不老不死、だと……!」
 ファイルを展開した葵は目を見開いた。
 生命兵器は基本的に寿命が短い。始めからテロメアが短く創られているわけではない。一般人に比べ、生命兵器は倍以上の細胞分裂を行う。身体の構造を変化させたり、元に戻したりする際に行われる細胞分裂の他に、受けたダメージの回復にもテロメアは消費されている。
 研究区画での治療は、自然治癒力の強制促進でしかない。失ったパーツを復元して移植するなどの方法ではないのだ。理由は、生命兵器の存在がデリケートであることが大きい。後から取り付けられる再生部位を上手く制御できないのだ。自分自身の延長であると認識できないとでもいうべきか。制御可能な再生部位を復元するのも手間が多く、断念されている。
 故に、生命兵器は重傷を負った場合、研究区画での集中治療に入る。細胞分裂を促す培養液に浸され、強制的な回復を待つのだ。治療によってテロメアを消費するため、生命兵器の寿命は一般人の半分以下だ。
 朱莉たち試作型は葵たちの世代よりも更にテロメア消費が激しいのだろう。作り出さなければならない部位が多く、強い力を使う度に反動で身体にもダメージがある。能力使用と強制回復を繰り返さなければならない試作型は寿命が極端に短くなるのは必然だった
 現在、量産されつつある新型はある程度改善されているらしい。今、葵が見ていた資料によれば、新型は能力の発動器官を特定の場所に限定させることでテロメア消費を抑えているようだ。腕と脚部に力の発動器官を創り、個別の意思を奪うことで人間形態の必要性を排除し、身体変化を不要とする。
 人形同然の新型には人間形態は必要なく、ただ戦力としての有用性さえあればいいのだ。身体の変化を排除したことで、テロメア消費は減少する。能力の発動器官が体内に構築されているため、新たに作り出す必要もない。試作型のデータから、能力発動の反動もかなり軽減できるようになっている。
 計算上では、新型の寿命は葵と同世代の生命兵器と同等以上らしい。
 だが、ここまでは生命兵器の概念や設計思想、説明に過ぎない。葵が見つけたのは全く別の計画書だった。ただし、生命兵器と直接関わりのある計画だ。
「なんなんだ、これは……!」
 生命兵器研究による細胞分裂の無尽蔵化、と題された文章がある。
 基本的に、細胞分裂は本人の意思では操作できない。怪我の自然治癒や身体の成長といった、自然の反応の一つだ。だが、葵たちは身体構造の変化という点において細胞分裂をある程度制御している。
 不老不死とは、つまるところテロメアが消費されない状態を創り出すという計画だ。
 生命兵器の技術には、テロメアの消費を抑える研究も含まれている。同時に、テロメアを増加させる、もしくは復元させるなどの研究も進められていたのだ。
 朱莉たち試作型はテロメアの消費が凄まじく早い生命兵器であった。だが、今量産されている新型では、テロメア消費の点はかなり改善されている。恐らく、ここが不老不死計画にとっては重要なポイントになったのだ。
「葵さん?」
 朱莉の言葉に、葵は我に返った。
 湧き上がる怒りを堪え、葵はデータベースのセキュリティを確認する。
「よし、辰己は上手くやっているようだな」
 セキュリティレベルが著しく低下しているのを確認し、葵は上着の外ポケットから一枚のディスクを取り出した。群雲が保有する全てのデータを破壊するためのウィルスプログラムの記録されたディスクだ。奈緒の家にいる間に、葵が用意したものでもある。奈緒の持つパソコンを借りて、ウィルスプログラムを葵が組んだのである。
 もちろん、急ごしらえのウィルスプログラムでは直ぐに駆除されてしまう。だから、別行動を取る辰己がセキュリティシステムを破壊する点に便乗しているのだ。セキュリティシステムを破壊することで、葵たちの侵入が集会区画へ伝達されるのを遅らせると同時に、コンピュータのセキュリティレベルを低下させる。
 群雲は膨大な量の情報を保有しているため、コンピュータ一台一台のセキュリティを向上させるよりも、全ての機器をネットワークで接続して管理する方が手間が少ない。外界に対して厳重な警備故に、内側からの攻撃には弱い。並列管理しているネットワークのセキュリティシステムが消えた状態なら、葵が組んだ簡単なウィルスプログラムでも十分な力を発揮する。
 コンピュータにディスクを入れ、ウィルスプログラムを注入させる。これで群雲のデータベースに壊滅的な打撃を与えられるはずだ。
 正常にウィルスプログラムが作動していることを確認し、葵はコンピュータを爪で貫いた。ネットワーク上へ溢れ出したプログラムは、このコンピュータを破壊しても動き続ける。
「これでいい、先に進むぞ」
 言って、葵は駆け出した。
 朱莉には不老不死計画のことは話さない方がいいかもしれない。自分たちがごく一部の身勝手な者たちのための実験材料でしかないことを知れば、少なからずショックを受けるだろうから。関係性が最も薄いと思われる葵ですら衝撃的だったのだ。朱莉にはキツい話だろう。
 データベースへのアクセス時に、新型生命兵器の調整室を確認していた。まずは全ての新型を排除しなければならない。辰己も実働区画で暴れているはずだ。
 通路で見かける研究員と襲いくる新型生命兵器を薙ぎ倒しながら、葵と朱莉は研究区画を突き進んで行く。飛び散る血が通路を汚し、絶叫と警報が響き渡る。
「朱莉、使え!」
 葵は今しがた仕留めた研究員が護身用に持っていた拳銃を足で弾いた。
 物理的な攻撃能力が低い朱莉は銃火器を使った方がいい。研究区画ではまともな銃火器を手に入れるのは難しいが、時折、護身用に銃を携帯している研究員もいる。彼らから奪いながら戦うしかない。
「はい!」
 朱莉は空中に跳ね上げられた拳銃を受け取ると、グリップを握り締めて銃口を敵に向けた。躊躇うことなく引き金を引き、放たれる銃弾を可視光操作で隠す。見えない銃弾を眉間の真ん中に浴びた新型が仰け反って倒れる。
 葵は朱莉の銃弾の援護を受けながら通路を駆け抜けて行った。
 調整室があるせいか、新型の生命兵器が多い。場所が狭いためか、今のところ新型もまともには力を発揮できないようだった。通路に現れる敵を次々に葬りながら、葵は集会区画を目指す。
 朱莉は見かけた銃器を片っ端から手に入れている。現地調達ゆえにマガジン交換ができず、弾丸を撃ち尽くした銃は直ぐに破棄して次の武器を使うしかない。
「集会区画の入り口が見えた、このまま行くぞ!」
 区画間の渡り廊下に着き、葵は朱莉に目配せする。朱莉は頷き、走る速度を上げた。
 渡り廊下を駆け抜け、集会区画へと続くゲートを強引に突き破る。葵の爪が壁を切り裂き、ガラスを砕く。奥にあるセキュリティゲートは既に開いていた。
 辰己も反対側から侵入している可能性が高い。
 葵たちが走り出した直後、通路の奥から何かが飛んで来た。何であるかに気付いた葵は、飛来してきたものを受け止める。広げた翼で勢いを殺し、どうにか吹き飛ばされずに受け止めた。
「辰己!」
 朱莉が声を上げた。
「葵さん……予定外の敵です」
 顔を顰めながら、辰己はどうにか立ち上がった。服のところどころが破れているが、重傷は負っていない。どうにか掠り傷程度に留めているといった印象だった。
「予定外、だと?」
「俺のことさ」
 葵の問いに答えたのは辰己ではなかった。
 通路の奥から、ゆっくりと弘人が姿を現す。翔夜が切り落としたはずの両腕は、人間のものではなくなっていた。長さは人間のものとほぼ同じだったが、肌は紫色に染まり、紋様のように血管が浮き出ている。指の付け根は外骨格で覆われ、爪はまるでナイフのように金属光沢を持っている。両肩も大きくせり出した外骨格に包まれていた。
「弘人、お前……!」
 葵の言葉を制するように、弘人は首を振った。
 生命兵器の腕ではない。第二世代型の生体兵器と呼ぶべきだろうか。生物兵器の腕を移植することで戦闘能力の向上を図ったに違いない。
「葵、俺を説得しようなんて思うなよ?」
 言って、弘人が右手を突き出した。拳を覆う外骨格が赤く染まり、炎を放つ。
「なにっ!」
 飛び退いた葵の脇を、火球が通過した。
 生体兵器ではない。葵は確信した。弘人は全く新しいタイプの生命兵器に改造されている。
 第一世代型を参考にした強力な物理攻撃力を備えた化け物の腕を、第二世代型を参考に生体パーツとして身に着け、第三世代型の変化能力も備えている。しかも、移植された腕は新型の生命兵器を参考に、特殊な能力を操ることができるタイプのものだ。
「これだけじゃねぇぜ!」
 左手から高圧水流を放ち、弘人が口元に笑みを浮かべる。放たれた水流を雷撃が走り、火花を散らす。見れば、弘人の左肩が帯電し、腕を経由して水流に電撃を流していた。
「集大成って感じだな」
 弘人は呟いた。
 まさに、生物兵器の集大成だ。
 新型の持つ特殊能力を、左右の手と肩の計四箇所に持たせているのである。
「この腕は変化させらねぇが、俺の生命モデルを考えれば問題はねぇな」
 弘人が床を蹴る。
 瞬発力はウサギである由梨を超え、一瞬のうちに葵との距離を詰める。弘人の生命モデルは地上最速を誇るチーターだ。本来なら爪での攻撃を行うものだが、今の弘人には爪よりも攻撃能力の高い腕がある。チーターの特性を殺すことなく、強化されていた。
 葵は翼をはためかせて大きく後退し、弘人の拳をかわした。赤熱する外骨格が陽炎を振り撒いている。
「援護を頼む!」
 叫ぶように言って、葵は床を蹴った。天井近くまで飛び上がり、翼を羽ばたかせて加速、滑空しながら突撃する。
 弘人の右拳を、翼をはためかせて高度を上げてかわし喉目掛けて蹴りを放つ。弘人は仰け反るようにして蹴りをかわし、左手から高圧水流を放出する。天井に爪を突き刺して強引に向きを変え、葵は弘人の攻撃をかわした。爪を引き抜いて弘人へと向き直り、高度を落として爪を振るう。
 弘人が右手の外骨格で葵の爪を受け止めた。勢いを殺され、葵の体勢が崩れる。
「食らえ!」
 放たれた左拳が命中する瞬間、葵の姿消える。
 辰己が空間を捻じ曲げ、朱莉が葵の腕を引いて弘人から距離を取っていた。
「すまない、助かった」
「慎重に戦った方がいいですよ」
 葵の言葉に、辰己が告げる。
 基本的な戦闘能力に差があり過ぎるのを痛感した。単純に戦ったのでは、葵に勝ち目はない。援護ではなく、朱莉と辰己との共闘は必須だ。
 朱莉の翼が白く輝く。辰己の瞳が真紅の光を帯びる。葵は翼を広げ、駆け出した。
 可視光操作により、葵たちの姿が弘人の視界から消える。空間歪曲が葵の移動距離を短縮させる。
「ちっ!」
 弘人の舌打ちが聞こえた。
 何も無い場所に拳を振るっている。恐らく、可視光操作で作り出された幻を攻撃しているのだ。朱莉が弘人を撹乱するために力を使っているに違いない。
 葵が爪を振るい、弘人の背中を切り裂いた。振り返り様に弘人が裏拳を放つが、既に葵は弘人の真上を飛び越えている。辰己の力で再び弘人の背後に周っていた。葵が爪を突き出そうとするよりも早く、弘人が自分の身体を帯電させる。左手を振るい、弘人は辺りに水滴を撒き散らした。
「これは避けられまい!」
 弘人が雷撃を周囲に放つ。飛び散っていた水滴が雷撃を周囲に拡散させていく。
 気付いた時には遅かった。光に近い速度で流れる電撃に対応できず、葵たちはまともに雷撃を浴びた。歯を食い縛り、耐える。
 朱莉の持っていた銃が雷撃により暴発し、床に穴を開けた。弘人が銃弾に気付き、弾痕から朱莉の位置を推測して右の拳を突き出す。
「朱莉っ!」
 咄嗟に、葵は弘人の右腕へと爪を突き出した。
 刹那、弘人の左手が葵の手首を掴んでいた。
「な……!」
「甘いな、俺は風の動きの読めるんだぜ」
 驚愕に目を見開く葵に、弘人は笑みを浮かべて告げた。
 朱莉が可視光操作で作り出した幻影に気付いた時から、弘人は風の動きを読んでいたのだ。つまり、弘人の右肩は風を操る力が与えられているのである。四つ目は、風だったのだ。
 大気の動きを正確に捉えることができるなら、葵たちの姿が見えなくとも、居場所を知ることはできる。だから、葵の攻撃が判ったのだ。今までの、見えないふりは囮だったということか。
「葵さん!」
 朱莉にも、辰己にも、物理的な特殊能力はない。掴まれた葵を助けるのは難しい。何より、弘人の動きが速い。
 左手で捉えた葵を壁の前に突き出すようにして、弘人は右拳を大きく引いた。火炎を外骨格に纏わせ、風を操って腕を加速させ、葵の腹に右拳を撃ち込んだ。同時に、弘人は左手を離している。
「ぅが……ぁっ!」
 葵の身体が壁に減り込んだ。翼が千切れて血が噴き出し、一瞬遅れて衝撃波が叩き付けられる。壁に押し付けられた身体が更に減り込み、突き刺さった弘人の拳が葵を押し込んで行く。拳との接点に溜め込まれた熱量が爆発し、葵は壁を突き破って吹き飛んだ。
 分厚い金属の壁を突き抜けて、会議室のど真ん中に葵が転がった。盛大に机と椅子を破壊して、仰向けに倒れる。
「ぐ……ぅ」
 震える腕で腹を押さえ、首を起こす。
 視界に、混乱した様子の人間たちが見えた。会議室の中に放り出されたのだと気付くのに、一瞬だが時間を要した。一度翼を消して、葵は腹の傷を見る。内臓へのダメージがある。骨にも罅が入っているのが判った。皮膚は重度の火傷を負っている。
 荒い息のまま、葵は腹部に意識を向けた。意図的に身体を再構築し、大きな傷を回復する。火傷の皮膚を自分で剥ぎ取り、再構成した。疲労は大きいが、あれだけの傷を負ったまま戦うのは得策ではない。寿命を削る行為だが、止むを得ない処置だ。
 会議室にいるのは、葵の敵だ。弘人が壁の穴から中に乗り込んでくる。
「朱莉、辰己」
「判ってます!」
 葵の言葉に、朱莉が答えた。弘人が会議室に入るよりも早く、ほんの一瞬の間に朱莉と弘人は葵の傍に立っていた。空間を歪曲させ先回りしたのである。
 辰己の力は障害物を擦り抜けることはできない。だが、障害物さえなければかなりの距離を移動できる。壁に穴が開いたことで、辰己はこの会議室に侵入できるようになったのである。
 朱莉は既に銃の引き金を引いていた。
 周囲の要人たちに銃弾を浴びせている。
 この場にいる全員を、逃がすわけにはいかない。辰己は逃げようとする重役の周囲の空間を捻じ曲げ、移動を妨げる。方向感覚の狂った男が足をもつれさせて転倒し、朱莉の銃弾が脳を撃ち抜いている。
 血が飛び散り、会議の書類が赤く染まる。密室だった部屋に血の臭いが充満していく。
 葵は、弘人と向き合っていた。
「群雲も終わりかねぇ」
 さして困ったふうでもなく、弘人が呟いた。
「お前は、気楽そうだな」
 弘人の生き方は、葵や翔夜に比べると気楽に見えた。
 群雲の言いなりになることを受け入れ、道具であるという身分をわきまえて生きる。翔夜とは正反対かもしれない。上からの指示に従って生きるのは、生き方としては簡単なことだ。弘人の生き方を否定するわけではない。葵から見ても弘人の考え方は羨ましいとさえ思う部分がある。
 だが、葵は楽な生き方を選ばなかった。
「面倒なのは、向いてないって自覚してるんでね」
 弘人が苦笑した。
 どこか満たされない部分があるのを承知で、弘人は楽な生き方を選んだのだ。
「説得は無理だと言っていたな」
「俺はあんたらと行くつもりはない」
「群雲が消えたら、お前の居場所は無くなるぞ」
「そうなったら考えるさ。これだけの力があれば優遇してくれそうな組織は色々ありそうだしな」
 冗談めかして答える弘人を、葵は無表情で見つめていた。
 確かに、弘人ような存在なら、技術を欲している組織は国内外問わずに多いだろう。身を隠す生活はしたくないということだろうか。
「なら、お前は俺にとっては敵だな」
 葵の告げた言葉に、弘人が少しだけ目を見開いた。
 命を弄ぶ組織に加担する限り、弘人は葵たちにとっては敵だ。弘人の身体は既にかなり手を加えられているが、彼が納得している限り被害者とは呼べない。自ら進んで改造を受けた可能性すらある。
 ここで弘人は殺しておかなければならない。
 もしこの後、弘人が生き残ったとして、彼が別の組織に身を置いた際、葵や朱莉たちが狙われる可能性もある。再び弘人が敵として現れる可能性があるのだ。加えて、弘人のような生命兵器が量産される可能性もありうる。
 だから、この場で弘人とは決着をつけなければならない。
 葵が話をしている間に、会議室内の人間は朱莉と辰己が全て始末していた。逃げ切った者は一人もいない。後は、弘人を倒して逃げ延びるだけだ。
「俺にとっても、お前らは邪魔になるかもしれないな」
 弘人が小さく呟いた。
 彼にとって、葵たちは面倒な障害の一つに過ぎない。弘人が気楽に生きる上で邪魔になるなら、この場で片付けてしまうべきだと考えるのも当然だ。
 互いに敵同士だと判断したのなら、戦うしかない。
「朱莉、辰己、力を貸してくれ」
 二人は、葵に笑みを返した。
 葵は二人に頷いて、駆け出した。
 突風が室内に吹き荒れ、葵の身体が煽られる。吹き飛ばされた葵が辰己の力で床に屈んだ体勢で下ろされる。朱莉は両手に銃を握り締め、可視光操作で銃弾と自分自身を増加させて攻撃する。
 弘人は銃弾を炎で蒸発させて防ぐ。葵の爪を自らの爪で受け止め、腕力に任せて振り払う。爪が砕け、葵は顔を顰めた。
 朱莉から銃の予備を受け取った辰己が引き金を引く。空間歪曲を用いて銃弾の軌道を変化させる。軌道を読み切れず、弘人の背中に銃弾が命中した。
 弘人が咆哮し、炎をぶちまけた。風が酸素を送り込み、凄まじい勢いで部屋の中を炎が吹き荒れる。辰己が空間を捻じ曲げ、会議室の外へと葵たちを誘導した。集会区画の天井が崩れ始め、葵たちは背後から弘人が追ってくるのを確認しながら渡り廊下まで後退する。
「二人とも、大丈夫か?」
「少し、厳しいですね……」
 葵の問いに、辰己が答えた。
 この中で最も疲弊しているのは辰己だろう。先に弘人とも戦っていたのだから、無理もない。一人で相手にできるレベルではなかった。
「ここで、終わらせよう」
 渡り廊下から外へと出て、葵は二人に告げた。
 高圧水流で壁を切り裂いて、弘人が現れる。放たれる雷撃を、腕の向きを見て予測し、葵は大きく跳躍した。翼を広げて大きく旋回し、葵は弘人へと突撃する。弘人が左手を伸ばすのを見て、葵は身体を傾けて腕の延長線上から逃れた。一瞬遅れて、突風が突き抜ける。
 腕を移植された弘人は、新型と同じだ。遠くへ攻撃するためには腕の向きで能力を導かなければならない。狭い場所では直ぐに誘導が利くが、遠くなればなるほど難しくなるようだ。ならば、葵にも攻撃を避けることはできる。
 風が葵の後ろ髪を掴む。葵は迷うことなく爪で髪を切断し、翼をはためかせて再び加速した。
 辰己の空間歪曲が弘人の攻撃を逸らし、朱莉が弘人の視界を奪う。強烈な発光を弘人の網膜に叩き付け、失明させていた。与えられた四つの力を辺りに撒き散らす弘人から、朱莉と辰己が距離を取る。
「葵さん! 駄目だ!」
 弘人へと急降下する葵を見て、朱莉が叫んだ。
 接近しては弘人の力に飲み込まれてしまう。触れることができたとしても、一撃しか身体が持たない。火炎や高圧水流、かまいたち、雷撃で身体をバラバラにされてしまう。
「辰己、頼む!」
 葵は弘人の攻撃範囲ギリギリまで滑空して、ジャケットの内ポケットから取り出したヘアピンを投げた。辰己は葵がヘアピンを投擲したのを見て空間を捻じ曲げた。
 葵は地面を削って着地する。朱莉と辰己が、直ぐ傍にいた。
 青いヘアピンは弘人の攻撃を掻い潜って真っ直ぐに進み、眉間を貫いた。
「……すまない、翔夜」
 今は亡き想い人に詫びて、葵は立ち上がった。
「さぁ、逃げるぞ!」
「はい!」
 葵の言葉に、朱莉と辰己ははっきりと答えた。
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