終章 「明日の向こう」


 ミルクティーの甘い香りが部屋の中に広がっていく。
 葵は雪平鍋から二つのカップにミルクティーを注ぐ。また伸びてきた髪を揺らしながら、カップを手に奥の部屋へと足を運んだ。部屋の中では、朱莉がテーブルの前に座ってノートパソコンを操作していた。
「朱莉、できたぞ」
 言って、カップをテーブルに置いた。
 朱莉の向かい側に腰を下ろし、葵はカップに口を付ける。
 まろやかで濃厚な甘みと、紅茶の風味が絶妙なバランスのミルクティーだ。
「うん、美味しい」
 パソコンを操作する手を休め、カップに口を付けた朱莉が満足そうに呟いた。
 二人は現在、都心からは離れた街のマンションを借りて暮らしている。あれから、戸籍なども偽造して身を隠した。だから、公には葵、朱莉という人物は存在しない。二人っきりの時に呼び合うぐらいだ。
「辰己も元気みたいだよ」
 言って、朱莉はミルクティーに口を付ける。
「メールか?」
 葵は朱莉の隣に移動してノートパソコンのディスプレイを覗き込んだ。
「子供も無事に生まれたみたいです」
 朱莉の言う通り、メールの内容は子供が生まれたというものだった。
 あの後、辰己は奈緒と結婚していた。つい先日、無事に子供が生まれたと書かれている。写真の画像が二つ、メールに添付されていた。写真の中では、奈緒が生まれたばかりの子供を抱いて幸せそうに微笑んでいる。辰己が写っていなかったのは、彼が撮影したからなのだろう。二枚目は辰己が子供を抱いている写真だった。照れたような笑顔を浮かべて、自分の子供を見つめている。二枚目は奈緒が撮影したらしく、彼女は写っていなかった。
「名前は、空也(くうや)だそうです」
 朱莉がメールの本文を見て言った。
 葵は一通りメールを見終えると、また椅子に腰を下ろした。ミルクティーを飲んで、小さく息を吐いた。
 今のところ、辰己の子供には異常な点は見られないようだ。生命兵器である部分が悪影響にならないか心配していたが、大丈夫なようで安心していた。
「名前か……」
 不意に、朱莉が呟いた。
「そういえば、葵さんってちょっと名前が独特ですよね。あ、いえ、変というわけじゃなくて、あまりにもできすぎてるって言うか……」
 眉根を寄せる葵を見て、朱莉は慌てたように訂正した。
「何だ、聞いていないのか?」
「え?」
 葵の言葉に、朱莉が首を傾げる。
「俺の名前は翔夜が付けたんだ」
 向日葵、という名前は翔夜が付けたものだった。逆に、逸軌翔夜という名前は葵が付けたものだ。正確には、生命兵器の仲間たちで名前を付け合ったというべきか。
「最初は気恥ずかしくて嫌っていたがな」
 ひまわり、とも読める名前に抵抗感はあった。だが、いつも太陽の方を向いている花であることに気付いてからは名前が気に入っていた。他人にひまわりと呼ばれるのは嫌いだったが。
「なら、僕たちと同じだったんですね」
 朱莉が呟いた。
「そうなのか?」
「はい、僕らの名前も、翔夜さんから貰ったものです」
 実験体として生み出された朱莉たちに、名前は無かったのだ。翔夜は、朱莉たちを逃がして戸籍や住居と共に名前を与えていたのだ。
「そうか、だから……」
 葵ははっとした。
「え?」
「いや、何でもない。もう過ぎたことだ」
 不思議そうな表情をする朱莉に、苦笑して、葵は言った。
 初めて朱莉と会った時、彼は自分の名前が気に入っていると口にしたのを覚えている。今やっと理由が判った気がした。翔夜から貰ったから、というのもあるのだろうが、今まで与えられなかった名前を貰えたことが嬉しかったに違いない。
「考えなければいけませんよね、そろそろ」
 ミルクティーを飲み終えた朱莉が言った。
 一瞬、何のことか判らなかった。
 葵は自分のカップのミルクティーを飲み干して、朱莉に視線を向ける。
「子供の名前ですよ」
「ああ、そうか。そうだな……」
 朱莉に言われて、葵は思い出した。
 自分の腹に視線を落とす。もう六ヶ月ほど経つだろうか。
 辰己と比べれば、葵たちは少し出遅れていた。葵は翔夜を失い、朱莉は翔子を失った。決して浅くない傷だ。今でも完全に癒えているわけではない。
 ただ、自然と距離は縮まって行った。
 今では、二人とも確かに愛情を持っている。
「……もう一杯、飲むか?」
「はい」
 葵の問いに、朱莉は頷いた。
 二つのカップを手に、席を立つ。
 朱莉も、辰己も、長くはない。あの日、戦ったことで朱莉と辰己は大きく消耗した。薬も十分ではない。戦いを極力避けて五年ほどと見積もっていたのだから、二年もしくは三年程度だろう。
 子供と共に過ごせる時間は短い。だからこそ、生きている間に子供と過ごしたい。
 葵も、奈緒も、必ず訪れる別れだというのは判っているのだ。悔やんだり、呪ったりはしない。避けられないのなら、朱莉と辰己が生きている間にどう過ごすかを考えるべきだ。
 少なくとも、今は幸せだ。追っ手の心配をすることもなく、平穏に暮らしている。
 この一時の幸せのために戦い、葵たちは勝利したのだ。後悔するよりも、前を見て生きる。翔夜が目指した生き方を、葵たちが継いで、伝えていかなければならない。
 葵は雪平鍋に残っているミルクティーを、二つのカップに分けた。
 まだ、ミルクティーは暖かい。

 ――完
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