第一章




  五月三日、木曜日。ゴールデンウィーク初日の朝7時頃。五月病的にウッダリしながら眠りこけている聖杜が、カーテンの奥から入り込んでくる朝日に目を細めて寝返りを打ったその時である。
 ダダダダダダッ。
 バタン!
「へーいベイベー! 熟睡中かーい!?」
 ………………。
 …………。
 ……。
 微妙な空気が室内に満ちた。
「んあ?」
 聖杜がドア付近の人影に気付いて、ノソリ、と起き上がる。
 寝足りない、ショボついた目を擦りながらピントを合わせて見るとそこには、
「……親父じゃん」
「オー、グッヅゥモニング、我が息子よ! 気分はどうだーい、晴れ晴れか〜い?」
 父、中村 正孝(なかむら まさたか)42歳が、目を引く派手なシャツではしゃいでいる所だった。
 その姿は年甲斐も無い。物凄く年甲斐もなく浮かれている父を見ると、聖杜はやけに冷静になってしまうのだった。
「気分はどんよりだよ、一ヵ月後の梅雨期の曇り空よりも真っ黒さ」
 そう言いながら再び枕に沈む息子の姿。しかし父は安眠を許してはくれないのである。
「oh〜、どうしたんだい息子よ? こんな晴れに晴れた、待ち焦がれし記念日にドンヨリなんて。そんなお前の姿を見たら、ユァファーザー、とっても悲しいよ? これから行き着く数々の難題を達成できずに、我らの愛もここまでにょ〜」
 とてつもなく饒舌に、とてつもなく上機嫌に、自らの演技に酔いしれる父の姿。ある意味カッコいい、でも決して見せて欲しくはなかったそんな憲法記念日の朝であった。聖杜がそのあまりのウザったさに、枕もとのCDプレイヤーを起動させそうになったほどである。
 無視する息子のそんな姿にも、正孝はまったく機嫌を損ねる様子は無い。まったくぅ〜この息子ふぁ〜、と訳の分からないテンション維持で騒ぎ続ける中年オヤジに聖杜もキレ気味だ。
「オイ親父。出て行きなさい」
「ヘイヘイヘイヘイ、そんな口を聞いても良いと思ってるのかい、ムッシュ〜」
「用も無いんだろ、どうせ。朝っぱらから騒々しい。何の嫌がらせだよこれは」
「嫌がらせなんてとんでもないぜぃ、ムッシュ〜、セニョリータ。そんなこと言ってるとお土産買ってきてあげないよん」
「ムッシュの次になんでセニョリータやねん! 俺は男! もう、どっか行くならとっとと行っちまえや」
「オ〜、マイ、サァーン。何でそんなに冷たいこと言うの〜? これから暫く会えなくなるのyo〜? お父さん寂しいから、息子から労わりのキスが欲しいわぁ〜」
「丁重にお断り申し上げる。とっとと消えてくれ」
「酷いこと言うね〜。良いもん良いもん、旅先でママンに慰めてもらうもの!」
 正孝は結局、謎の高テンションを維持し続けたままドアを閉めた。
 台風一過、ようやく静かになったと聖杜は瞳を閉じる。ふうっ、と息を吐き出して、眠りの世界に集中しようとした時だ。
『あなたぁ〜、早くしないと遅れちゃうわよー』
『はいはいはいは〜い、いっま行っくよー、み〜わちゃーん!』
 と、廊下から母と父の会話が聞こえてきたではないか。
 ……………………。
 疑問。
 今日、なんかあったっけ。
(……………………)
 父は言った。「これから暫く会えなくなる」、と。
「ど、どういうこと!?」
 ガバチョと布団を剥いで起き上がり、スリッパも履かずに扉を開ける。すると玄関から、「じゃあ行って来るぞー」、と父の声が聞こえてきたではないか。
「ま、待てー!」
 ダッシュで階段に取り付いて手摺を引っつかむ。そのまま大急ぎで階段を駆け下りると、正孝が扉を開けているのが目に入った。
「ま、待てぇい、親父! 待ってくれ!」
 もうほとんど転げ落ちるかのように階段を下ると、必死の形相で出発しようとする父を呼び止めるのであった。
「おう、なんだなんだ。やっぱりファーザーにキスしたくなったかぁ〜?」
 と締まりの無いニヤケ顔で振り返った正孝。その横で、外行きのおめかし衣装に身を包んだ母・美和(みわ)
と妹になってしまった由梨花はニッコリと、
「聖杜ちゃん、おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
 優しい挨拶をしてくれるのだった。
「あ、おはよう……ございます」
 そんな二人に思わず丁寧な挨拶を返してしまう聖杜少年であった。
 ちょこっと照れくさい朝の雰囲気が玄関に流れる。
「じゃあ、行って来るわね」
 美和がそう言って扉を開けようとすると、
「あー! スト、ストップ!」
 聖杜は慌てて二人を呼び止める。
「なんだぁー? さっきから。どうしたんだ聖杜」
「どこ行くのさ! 暫く会えなくなるってどういうことよ!?」
「んあ? 新婚旅行だ。言ってなかったっけか」
 し、しんこんりょこお?
 聖杜は呆気にとられた表情になっていた。
「新婚旅行って、今から? どれくらい?」
「期間? 今から2ヶ月くらいだな」
「に、二ヶ月……。その間、家は?」
「大丈夫だ、聖杜。由梨花がいる!」
 正孝は力強く言った。
「だってなぁ、由梨花ってばこの歳で、すっごい料理も上手いし洗濯もできるし、家事は何でもオッケーなんだぞ? 俺はこんな娘が欲しかったんだ〜!」
 感涙の涙を流す正孝。褒められた張本人の由梨花は、「えへへ、頑張りまーす」、と照れているのだが、聖杜の耳には残念ながら、届いてはいなかった。
 聖杜は現在、余りの事態に放心状態なのだ。しかしテンションの上がった夫婦はそんな事など気付きもしないのである。
「だから安心だぞぉ、聖杜。由梨花を信頼してもいい。だから俺たちも心配せずに家を空けられるんだ、ガハハハハ!」
「でもね。どうしても困ったことがあったら、お父さんの携帯電話に連絡するのよ? ほとんどの場合は通じると思うから。良い、由梨花?」
「はーい、分かりました。お母さんたちも楽しんできてね!」
「オーウ、もちろんさマイドーター! 父さんたちはこの長い旅行で、二人の愛を確かめ合い、深め合い、それはもう有意義なものにしてくるのさ」
「うふふ、あなたったら。そんなにはしゃいじゃったら目的地に着く前に疲れちゃいますよ」
「ふふふ。大丈夫さ、ハニー。モルディブのホテルに着いたらスグにでも君を愛してあげることができる、それだけの準備をして来たのさ」
「もおー、イヤだわ、あなたったら! 子供たちの前で恥ずかしいことを言わないで!」
「ハハハハハハッ、帰ってくる頃にはもう一人、兄弟が増えてるかもな! ガハハハハハハ!」
「うふふふふっ、まったくもう、あなたったら! それじゃ二人とも、行ってくるわね」
「それじゃあステキなお土産(赤ちゃん)を期待してるんだぞー!」
 いやんもう、バッカーん! ガーハッハッハッハッ! と陽気な笑い声を残して、両親は子作り行脚の旅もとい新婚旅行へと出かけて行ったのであった。
 そんな二人に笑顔で、「いってらっしゃーい」と手を振る由梨花。しかし聖杜にそんな余裕は無い。過ぎ去った嵐の被害状況を確かめるかのごとく、聖杜は必死で今の状況を整理しようとしているのである。だからさっきから黙ったままだったのである。
「行っちゃったねー。二人とも、楽しんできてくれると良いなぁ」
 と由梨花が言っている横で、聖杜は必死になって、
(ど、どういうこと? どゆことなの? いま現在、どうなってるの?)
 頭の中で同じ質問を繰り返しているのだ。答えの見つからない、堂々巡りでしかないが。
 しかしそんな意味のない行為も、由梨花の澄んだ声にすぐに現実に引き戻されてしまう。
「お兄ちゃん」
「は、ハイ!」
 こんな風に。
 呼びかけられて横を向くと、由梨花のカワイイ顔がすぐそこにあって、ドッキリビックリしてしまうのである。
「お兄ちゃん。朝ごはん食べよ」
 由梨花はなんら気にかけることなくそう言うと、ごく自然に聖杜の手をとって歩き出してしまう。一方の聖杜の少女のそんな行為に、
(う、うわぁぁぁ、柔らかい手だ〜!)
 とカチンコチンに緊張してしまうのであった。



(どうなっている……?)
 聖杜は真剣に考えていた。
(どうなっているんだ?)
 今の状況がまるで飲み込めない。だから必死に頭を捻るが、そんなことは全く無意味な結果に終わることもまた、目に見えていることではある。
 何故ならすでに、聖杜は朝ごはんを食べて部屋着に着替え、自室のベットの上で盛大に頭を悩ませているからだ。つまり、もう過ぎ去ってしまった時間を受け入れているといっても過言ではないわけである。しかし未だに、一時間も経っていないような時間を振り返って首を傾げているのは、本末転倒と言っても相違ない。
 それが事実なのではあるが、それでも聖杜には気がかりなことがある。
「なぜに新婚旅行が今なのだろう?」
 時は五月、季節はすでに初夏の暦。正孝と美和が再婚してから、もう一ヶ月以上も経っている。その間、確かにドタバタしてたとはいえ、美和と由梨花はかなり早い時期から中村家の生活にフィットしていたし、引越しの準備も再婚からそんなにかからなかった(っていうか気付いたら荷物が全部整理されていた。聖杜が気付かなかっただけ)ので、旅行に行くとしたら三月でも四月でも大丈夫だったはずなのだ。
「それに……二ヶ月って」
 長すぎる。時期をゴールデンウィークに合わせたとしても、その期間を余裕で通り越している。仕事は大丈夫なのだろうか。海外で遊び呆けてたせいで学費も生活費も払えなくなって一家離散なんて、想像もしたくないほど勘弁してもらいたいシナリオである。
「大体、事前に知らせなかったって言うのが解せない」
 聖杜はこの事実を知らなかった。二ヶ月にも及ぶ長期旅行なら、必ず綿密な計画を立てて、事前に準備を済ませていたはずである。それならば聖杜に伝える機会も少なくなかったはずだから、なぜ教えなかったのかが謎なのだ。自分の子供に内緒で当日を迎えるなど、絶対にオカシイのである。
 まぁ由梨花の方は知っていたみたいだが。
「って言うか二人っきりじゃーん!」
 そうなのだ。これが一番の問題なのだ。二ヶ月の長きに渡って、あの可愛い由梨花と二人きり。四人でいる時でも緊張で脚がガクガクというザマだったにも関わらず、突然、彼女と一つ屋根の下で二人きり。同じ家にいるというのが今でも信じられないのに、それがいきなり二人きり。これは色んな意味でオイシイ展開だし、場合によってはとてつもないチャンスだが、そんなプラスに考えられるほど聖杜は根性が座っていないのである。
「どど、ど、ど、どっしよおおおおー! 困った、参った、どうしようもない! ボクは一体、どうするのが一番なんだー!?」
 うわぁぁぁぁぁっ、と身悶えしながら。ベットの上でゴロゴロゴロゴロと転がる少年が一人。一番の苦悩がここにある。正直、二人きりになったと実感した途端に、心臓は弾けそうなほどバクバクと鼓動を刻んでいる。血流が激しく回って顔中が熱くて、でもそれは嬉しさよりも不安の方が大きいのだ。普通に生活しているだけで、いくらでも彼女に嫌われてしまう要素が散らばっている聖杜である。そんなのがより注視される二人だけの二ヶ月間など、聖杜にしては地獄に等しい。
(それに……問題は他にもあるんだ!)
 それは理性の問題である。いくら腰抜けといえども、聖杜は思春期真っ盛りの健全な男の子。一つ屋根の下で思いを寄せる可愛い女の子が暮らしているのだ、いつ暴走するかと、自分自身に気が気ではない。そんな不安定な日々を二月も過ごすなど、聖杜には拷問に近いような気さえする。現に先程の朝食時ですら、由梨花の可憐な表情に魅かれてろくにご飯の味も残っていない。
「うおー、うー! ボクは、ボクは一体、どうすればぁぁぁぁ!」
 再びゴロンゴロンとのた打ち回り始めた聖杜。そんな彼の耳に、一瞬で自我を取り戻す魔法の呪文が聴こえてくる。
「お兄ちゃん?」
 ハッ、として扉を見ると、由梨花がドアを開けてこちらを見ていた。その真っ直ぐな瞳と視線が合うと、途端に恥ずかしくなって慌てて身を起こしてしまう。
「な、なに?」
「ううん。さっき、なんだか元気なかったように見えたから……。入って、良い?」
「え? あ、うん。良いよ」
「えへへ。おじゃましまーす」
 由梨花はすぐにニッコリとして、部屋の中に入ってくる。そして徐にベットに近づくと、聖哉の隣に腰を下ろした。
「行っちゃったねー、二人とも。二ヶ月も家空けちゃうなんてビックリだよね」
「う、うん。そうだね」
 ドギマギしながらも、なんとか返事だけは返す。しかしすぐ隣に由梨花がいて、しかも甘酸っぱくて凄くクラクラするような良い匂いまで感じられるほど近くに座っているという事実に、聖哉の頭は爆発寸前だった。
「でも良かったなぁ。二人とも、凄く楽しそうで。私、なんだか嬉しくなっちゃった」
「…………えっ」
 楽しそう。
 そういえばそうだ。
 今まで、親父があんなにはしゃいで嬉しそうなところは見たことが無い。
 確かに凄く楽しそうで、それだけ幸せそうにしている姿など、聖杜は始めて見たのだ。
(楽しそうだった……か)
 そうだ、何故その事に気付かなかったのか。二人はとても幸せそうだった。その事が重要なのだ。
 自分が思い浮かべていた疑問が、どれだけ器の小さな考えだったのか。聖杜はその事に思い至って、恥ずかしさに頬を染めた。同時にその事に気付かせてくれた由梨花に、感謝の気持ちが湧いたのだ。
「そうだね……。俺も、二人の幸せそうな姿を見れて、凄く嬉しいよ」
 静かにそう紡げたことが嬉しかった。それが自信になって、聖哉は俯けていた視線を由梨花の顔に合わせる。
 そして、ドキッ、と胸が高鳴った。由梨花が聖杜を見つめて微笑んでいたのだ。その余りの美しさに慌てて眼を逸らしてしまい、しまった、と思った。
 しかし由梨花は気にしなかったようで、彼女はそっ、と目を閉じると一瞬だけ空気を堪能するように沈黙した後に、
「いい曲だね」
 と言った。
「え?」
 思わずそう言った後で、聖杜はCDを起動していたことを思い出した。
「この曲、お兄ちゃんに貸してもらったCDに入ってたよね。私ね、凄く気に入っちゃったな。毎日聞いてるんだよ」
 聖杜が由梨花に貸したCDは一つしかない。二週間ほど前に由梨花が部屋に訪れたときに、今と同じように流れていたものだ。「ザ・ビートルズ1」。1960年代を代表するイギリスのロックバンド、ザ・ビートルズのナンバー1ヒットチャートを集めたアルバムであり、いまプレイヤーに入っているものもそれのコピーCDである。
 曲名は「ヘイ・ジュード」。励ましの意味を込めた歌だ。7分という長い曲の中で、今は後半の「da」の部分が流れているのである。
「そ、そう。喜んでもらえて、嬉しいよ」
 貸すならもう少し女の子の趣味に合ったものを渡せよ、とも思ったが、生憎、聖哉はこれくらいしかCDを持っていない。それに由梨花から貸して欲しいと頼まれたのだから、断れるはずも無かったのである。
 それから少しだけ、両者の間に沈黙が降りた。
「ね、お兄ちゃん。もっと近くに寄っていい?」
 唐突に、由梨花がそう言った。それに、へっ? と思ったが、聖杜は慌てて、
「い、良いよ」
 と搾り出すように答える。
「えへへ、やったぁ」
 由梨花は嬉しそうに腰を浮かせて、まるで擦り寄ってくるかのように聖哉の真横に身体を落ち着かせる。その、ほとんど服を通して肌が密着してしまっている状況に、再び聖杜の鼓動が跳ね上がった。衣服越しに、微かではあるが体温を感じられる距離。そんな状況に内面でパニックを起こすが、どこかで冷静に、今の体勢を受け入れている自分がいることに不思議な感覚を憶えた。
 そのまま二人は、暫く往年の名曲の旋律に酔いしれる。ランダム再生に設定されたプレイヤーはすでに次の曲、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の美しいバラード音楽を流していた。



 5月7日、月曜日。大安吉日のこの日、日本列島はゴールデンウィークと呼ばれる大型連休が終息してしまった寂しさと、各々の仕事に向かわねばいけない侘しさに全ての人々が溜息交じりの疲労を抱え込んでいた。楽しかった休暇を終えて、また希望も無い労働に勤しむことになる悲しみに全ての国民が打ちひしがれているのだ。
 だがそんな中に、一人だけ意味の違った溜息を吐く少年がいた。中村 聖杜(15歳)。公立青木島高等学校の屋上で、世界で最も疲れたような顔をして町並みを見下ろす一年生である。
「はあっ……」
 と思わず出てしまう溜息にいい加減、うんざりしながらも、聖杜は昼休みの喧騒とは無縁にどんよりな空気を纏っていた。
 全身から滲み出るのは疲労感である。そしてその疲労は全て、連休中の家庭内が原因であった。
(なぜ……なぜこんなことに……)
 ガックリ、と頭を垂れてフェンスに突っ伏す姿は、とてつもない哀愁を誘うものがあった。
(もうボロボロだよぉ……)
 じわりと目尻に涙が溜まる。とてつもなく悲惨な事態に、自分の不幸を嘆いているのだ。
(神様……いっそのことボクを殺してください)
 思わず天にお願いするその姿。お昼時で、周囲に和気藹々と他の学生が食事を取っている状況では全く雰囲気が出ていない願望ではあるが、今の聖杜は深刻に、本気でそう思っているのであった。
「ああ、今この場で飛び降りることができればどれほど幸せであろうか……」
 と物騒なことをポロリと漏らしてしまうが、同時に「そんなこと、できないよなぁ」と自分の腰抜けぶりに泣きたくなるほどの悲しみを覚えるのであった。
 もう一度、はぁ〜、と大きく不景気な溜息を吐く。その後で聖杜は、どれもこれも全部が親父のせいだ、と今は遠くに行ってしまった父に恨みを投げるのであった。
 よりにもよって聖杜は、ゴールデンウィークが終わったことではなく、ゴールデンウィークに起こった事態そのものを嘆いているのであった。
 日本国民全員が激怒しそうな今の気持ち、即ち「連休が終わってくれて良かったぁ〜」という考えのその意味は、当然のように義理の妹になった由梨花が関係していることであった。


 とにかく、この連休中は色々とあった。そのどれもが、聖杜としては耐え難いほどの地獄であり、死んでしまいたいほどの苦痛に塗れていたのである。
 そして同時に、なぜに自分がこんな目に遭っているのかと嘆きたくなるようなこれらの出来事は、驚くほどにベタな事件ばかりであった。こうも素直にマンガやら小説やらで描かれる定説に沿ってしまうことに、大きな不可解さを孕んでいるのだ。その余りにも従順なイベントに、これがフィクションであったのならばどれほど幸福なことか、と天を仰ぐことばかりなのである。
 これから説明するのは、それらのホンの一例である。
 まずは憲法記念日の夜だ。なんだかんだで、あのまま二人はお昼まで寄り添っていたのだが、あの時の重度の緊張で聖杜は精も根も尽き果てた状態だったのである。もう疲れた、とにかく寝ようと思い立ち、とりあえず歯だけでも磨こうと洗面所の扉を開けた時だ。
 ガラッ。
 ……………………。
「っ、きゃー!」
 と言う悲鳴と共に飛び込んできたのは、シミ一つ無い美しい絹のような柔肌であったのである。白く美しい、木目細かいそれがほんのりと桜色に火照って、汗ばんでさらに妖艶さを増しているのだ。肌に張り付いた髪の毛がひどく艶かしく、身体を伝い落ちる雫はなおも官能的であった。少女の身体から立ち上る湯気がほんのり色香を増長させて、聖杜はすっかりそんな姿に釘付けである。
 そしてなによりも極めつけは、一糸纏わぬその姿だけに、女の子の何もかもが眼前に存在するということである。幼さを残した小ぶりな乳房、ピンク色の乳輪、ちょこんとした乳首。まあるいお腹に窪んだおへそ、さらにその下には、女の子の神秘を体現する、途轍もなく神聖で、途轍もなく美しい場所が息づいていた――
 まぁ即ち、聖杜はお風呂から上がったばかりの由梨花とバッタリ遭遇してしまったわけである。運が良いんだか悪いんだか。どっちにしろ、あの時の由梨花の裸体は、今でも聖杜の記憶の中にハッキリとインプットされているのである。
 それはどうでも良いのである。
 とにかく。そんなビックリドッキリ、素敵に不敵な現場に居合わせてしまった聖杜は、由梨花の悲鳴にビクビクドキドキオロオロと混乱の極みにあった。「え? あー、その、う〜……」と全く頭が回らず、言葉すら出てこないで焦るばかりである。
「お兄ちゃん!」
 由梨花が咄嗟という感じでバスタオルを掴んで身体を隠すと、次には激昂の声が飛んだ。そこで初めて、謝らなくちゃ! と思い至った聖杜が、
「ご、ゴメン!」
 と言うも通じず。
「お兄ちゃんのバカ! エッチ! ヘンタイ! デバガメ!」
 と矢継ぎ早に罵倒、そして歯ブラシやプラスチックコップなどが飛来してくる。
 聖杜はそれを、「うわわわわぁあっ!」と言いながら全身に浴びつつも、
「ゴメン! ご、ごめんってばー!」
 腰砕けに謝り続けていた。
 しかしそんな謝罪も虚しく響くだけである。
「お兄ちゃんの、オットセイ将軍ー!」
「き、9代将軍徳川家重ー!?」
 由梨花は力の限り振りかぶって、様々な物体を投げつけてきた。
 その中で丁度、櫛の柄が聖杜の顔面に直撃し、眉間がパックリと割れる羽目になったのである。
 インパクトに尻餅をついた直後に血液が大量に眼の窪みに流れ込んできて、視界は真っ赤で何も見えないは、眼球が激痛に見舞われるわ、ついに誤解は解けないわで、散々になりながら転げまわった記憶が残っているのである。
 あれは酷い事件であった。まぁ結局、流血沙汰になったことで由梨花が落ち着いてくれて、看病されてたら仲直りできたから良かったのではあるが。
 とにかくこの事件以降、聖杜は煩悩を大いに刺激され、毎夜毎晩、更なる不眠の日々を過ごしているのである。
 他にも日常生活の中で、聖杜の神経が磨り減らされるような事態は発生し続けているのだ。
 例えば金曜日、みどりの日の昼下がり。澄み切った青空が眩しい午後のひと時である。
 お昼ごはんを食べ終えて、さて何をするかとリビングに寄った聖杜が、新聞でも読むかと窓側のソファーに腰を下ろしたのである。その後で、何とはなしに外を眺めると、由梨花が背を向けて花壇の手入れをしていたのだ。
(はぅわっ!)
 聖杜はその姿に、ズキューン! と来たのである。
 由梨花はこの時、薄手のワンピース一枚で、鼻歌交じりに如雨露で花に水をあげている所であった。しかしその、何の変哲も無い日常の光景の中に、激情を大きく揺さぶられる画が存在するのである。
 うなじ、だ。良く晴れたこの日、ポカポカと降り注ぐ陽光に照らされて草木も元気ハツラツであるが、首を俯けて機嫌よく水を撒く由梨花の首筋が妖しく揺れるのである。サラサラとした髪の毛が規則的に振動することで、白く美しい由梨花のうなじがチラチラと見え隠れする様に、聖杜はもう目が釘付け状態であった。
 実は彼はうなじフェチであった。背後を向いた女性の、衣服と髪の毛の間に現れた妖艶な首筋にトキメキを覚えてしまう種類の男子なのだ。特に手入れが整った、白くて瑞々しい肌を持って、首から肩にかけての線がほっそりとした由梨花のそれは極上なのである。中学時代は、前の方に座っている彼女の首筋に目を奪われて、授業時間を丸々費やしたことも一度や二度ではないのである。
 つまりは変態なのである。
 まぁ、それほどまでに綺麗なうなじを愛する聖杜の目の前で、それほどまでに綺麗なうなじが無防備に踊っているのを見てしまうと、彼の様々なリミッターが爆発寸前なのも頷ける話なのだ。
 なので聖杜は、しばらく固まったまま、
(あば、あがががががが……!)
 と理性と欲望で葛藤していたのであるが、何とか気持ちを丸め込んで視線を外し、下を向いて深呼吸を繰り返すことに成功したのであった。
「はぁ……。ふぅ」
 落ち着いて自分を取り戻すと、聖杜は立ち上がって、とりあえず目の毒だからどっかに行こう、と反転する。
「っ、くしゅん!」
 なんだか可愛いクシャミが聴こえたのでまた反転する。
「なにやってるの?」
 窓を開けて庭の様子を覗き見ると、鼻をクシュクシュと擦っていた由梨花が振り向いて、
「あ、お兄ちゃん」
 と言った。
「んとね。お母さんに、お花の世話を頼まれてたの。今日は天気が良くて、外にいると気持ちいいよ」
 そう笑う少女だが、聖杜としては先程のくしゃみが気がかりだった。
「確かに天気がいいけど……少し薄着過ぎないか?」
「えっへへ……そうかも」
 由梨花は苦笑して、露出させた肩を抱くように擦って見せた。聖杜はそんな様子に一つ、溜息を吐くと、
「ちょっと待ってて」
 室内を振り返り、畳まれたままの洗濯物の中から、長袖のシャツを取った。自分の奴だ。
 それを持って窓を開け、置いてあるサンダルを突っ掛けて由梨花に近づくと、
「まだまだ肌寒い季節なんだから。気をつけなよ」
 と言って、ご丁寧にも肩にかけてあげる。
「あっ……」
「ん?」
 由梨花が小さく声を上げたので、なんとはなしに自分の行動を振り返ると、あ、と思った。
(な、なにを陳腐なことやってんだ〜!)
 物凄く恥ずかしいことを、なんら躊躇することなくやってしまった自分に、途轍もなく動転してしまったのである。
「あ、いや、あの……ご、ごめん!」
 しどろもどろで弁明しようとするが、それに対して由梨花が、「ううん、良いの」と言ったので黙ってみる。
「ありがと……。嬉しいよ、お兄ちゃん」
 うっすらと頬を染めながらも、途轍もなく眩しい笑顔で、由梨花がお礼を言ってくれたのだ。
 あの時の彼女の表情は、それはもう魅力的だった。ドキリと心拍数が跳ね上がって、思わずその場で由梨花を押し倒してしまうのではないかと言うくらいに頭が沸騰したのである。聖杜としては、それはもう辛い瞬間だったのだ。
 まぁ結局、その後は何事も無く庭の手入れを終了させた由梨花が、何事も無かったかのように家事を再開して、その場は丸く収まったのではあるが。
 とにかく、このように日常の些細なことも、聖杜を苦悩させる要因となっているのである。こう、いつ何時も気を抜けない状況が続くと、聖杜の神経も大きな消耗を強いられるのだ。
 また、日常生活での困りごとというと、他にこんな事がある。
 それは今でも忘れぬ、つい昨日のことである。夕飯後に、部屋でノンビリしようと二階に上がると、階段角のところに布切れが落ちていたのである。
(あれっ?)
 何だこれ、と拾い上げてみる。くしゃくしゃした柔らかい繊維だ。そんなに厚いものではないと推測される。
 聖杜は何とはなしに布を広げて見て、ギョッとした。
「こ、これは!?」
 なんとそれは!
「ぱ、ぱぱぱ、パぱパパぱパンツ!?」
 ピンクでレースで薄手で小さくて可愛いショーツであった。由梨花のものである。当然。
 サラサラとした手触りの女の子用のパンツ。実物を見たのは初めてだ。父子家庭だったから。
 そしてそんなものを見てしまったことに、聖杜は限りないパニック状態に陥ってしまったのだ。慌てふためいて、もうどうすれば良いのかとアタフタフタアタ、右往左往して、こういう時はどうすればいいんだっけ、と考えてみる。
 1、とりあえず部屋に持って帰る。
 2、そして匂いを嗅ぐ。
 3、その後で怪しいことをする。
「って何を考えているんだー!?」
 これぐらい、混乱の極みなのである。
(ああぁー! どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
 義妹のショーツを持ったままウロウロと廊下を彷徨っている少年が一人。変態である。完全な変質者である。しかし本人は、本気でこれをどう扱うかが、全く分からないのだ。
 だから由梨花が階段を上ってきていることにも気付かなかったのである。
「お兄ちゃん?」
 と背後から声がしたときは、心臓発作が発生したかのような驚愕を経験してしまったのだ。
「えっ? あっ、ああ……」
「なにやってるの?」
 反射的に振り向いて、そのままショーツを前に掲げているのに気付く聖杜。由梨花が聖杜の掌中に視線を落として、ポッと頬を朱に染めたときなど、聖杜はこの世の終わりを予感したものだ。
(ああ、神様ぁ……!)
 多分、そのとき彼は真っ青な顔で、全身から脂汗を噴出していたことだろう。
 怒られる、そして嫌われる! と覚悟したのだ。
 しかしそんな大方の予想を裏切って。由梨花はひょい、とショーツを取り上げると、
「あははっ、ごめんね。私、お風呂行く途中で落としちゃったみたい。拾ってくれてありがと、お兄ちゃん」
 と言って身を翻すと、さっさと階下へと降りてしまったのである。
「………………」
 へたっ、と聖杜の腰が抜けた。何事も無くて良かったぁ、と言う安堵感で、膝に力が入らなくなってしまったのだ。情けない話である。
 しかし、いま冷静に振り返ってみると、由梨花の余りにも普通の対応に悲しみを覚えるのだ。何とも思われてないのかなぁ、という自信喪失の悲哀感である。
 そしてそれと同時に、洗濯したてとはいえ、ショーツから微かに香った由梨花の匂いと、あの布の滑らかな感触が掌に残ってしまったのも事実であった。それらが生々しく記憶の中に留まってしまって、それが発展して様々な妄想が聖杜の中に浮かんでは消えていった結果、一睡もできない過酷な夜を過ごしてしまったのだ。
 だから今は元気がないのだ。
 とにかく、そんなこんなで様々な事件が発生し、現在の聖杜は精神的に非常に追い詰められた状況にいるのである。


 と言う話を、後から屋上に来た鈴木 重成(すずき しげなり)に語ってみた。
 すると返事は予想通り、
「お前、死んじまえよ」
 というものであった。
「そうは言うけどさー。これはかなり辛いものよ? 俺、もうダメだもん」
「ダメなら代われよ。羨ましいことこの上ないんだよ、お前は」
 うでー、とダレたまま、屋上のフェンスに突っ伏す聖杜。
 この重成、聖杜の小学校以来の親友で、人見知りな聖杜としては重宝する、大事な気の置けない友人なのだ。なのでまぁ、大抵のことはお互いが分かり合っているのである。
 当然、聖杜が由梨花に恋してることも、なぜか彼女が義妹になってしまったことも了解しているのだ。
 そして了解しているだけに、由梨花の可愛さ加減も知ってるし、そんな娘と一つ屋根の下で暮らせるという事実を羨望の目で見てしまえるのである。
「聖杜ぉ……。お前、自分がどれだけ幸せ者か理解してるのか? 由梨花ちゃんだぞ? あんな可愛い子、お近づきになるのも難しいってのに、お前ってば同じ家で生活してるのよ? 手料理とか作ってもらっちゃったり、お風呂とか覗いちゃったり、下着を手に取っちゃったりって、何を嘆くことがあるんだよ。俺からしてみりゃ天国だね、ヘブンだよ」
 と本気で聖杜を諭そうとしてくるのがウザったい。
「その説教、26回目……」
 今年に入ってからの数である。
「えー? せいぜい、10回くらいだろー」
「あいつらと一緒になってウダウダ説教かましてただろうが。俺は覚えてるぞ、忘れるもんか」
 イジケ気味で重成を睨む聖杜の姿は、非常にガキっぽい画であるが、聖杜は至って真剣なのである。ちなみに「あいつら」と言うのは他の友人たちのことだ。
「おいお〜い」
 重成は呆れ気味であった。
「へん。お前らが羨ましかろうがそうじゃなかろーが、俺の知ったこっちゃないやい。実際に経験してる俺としては地獄なんだよ、ヘルなんだ」
「……クレスポ?」
「なんでやねん!」
「いや、いま、ヘルナンって……」
「シャレじゃないわい!」
 そんな掛け合いの後で重成が溜息を吐いて、
「ってもな、聖杜。我らが東和田中学3年A組のヤロー連中にとっては、由梨花ちゃんはマドンナなんだ、お姫様なんだプリンセスなんだ。そんな天使にも似た憧れのアイドルと、兄貴とは言え一番近い男になったんだから、これぐらいのヤッカミは当然と捉えて……」
「あ、予鈴だ」
 キーンコーンカーンコーン。
 聖杜は重成の説教を無視して、屋上出口へと歩み始めた。
「あ、待て! せめて最後まで説教を聴け! お願いします!」
「ヤだよそんなん。一人で宙に向かってブツブツしてて下さい」
「そない殺生なー!」
 二人はこうして、屋上から出て授業へと向かうのであった。



 はふぅ、と溜息を一つ吐いてみる。
 その後で、ブレザーに付着した幾らかの埃を叩き落とし、聖杜は自分の机にどっかと座るのだ。
 今は放課後、授業終わりの清掃を終了したところだ。今週は教室掃除の聖杜である、担任の目を盗んでまで帰宅するリスクは犯せず、仕方なく清掃を完了させたのだ。
 これでもう、学校内でやることは無くなった。部活も委員会も所属していない聖杜は、あとは帰宅するだけである。そして、なんだかんだ言っても聖杜は家に帰ることを苦にしてはいないのだ。確かに由梨花と二人っきりの家は恥ずかしいやら煮え滾るやらで苦悩するが、好きな女の子が同じ空間にいるという、甘酸っぱくてドキドキするシチュエーションは嫌な訳がないのである。義妹だけど。
 そんな理由で、授業中の居眠りでさりげなく疲労を回復した聖杜は、少しワクワクしながら帰り支度を進めている状況だった。
(今日は由梨花ちゃん、買い物してくるって言ってたっけ。夕飯はなんだろ?)
 なんだか新婚サラリーマンの退社風景の心境で荷物をまとめた、そんな折。廊下に出てみると、友人連中が輪になって話し合っているではないか。
 重成を初め、高村、青木、草野の四人だ。全員、中学時代からの付き合いがある人間だ。
「お前ら、なにやってんの?」
 人のクラスの前で、と訝んでの質問。実は聖杜は、クラスに友人がいないのだ。
 聖杜の声に反応して振り返る四人。全員が、ヨッ、と手を挙げて挨拶する。その中の一人、高村 裕也(こうむら ゆうや)が朗らかに笑いながら、
「昨日のチャンピオンズリーグ見た? 凄かったよなぁ、壮絶な打ち合い……」
 ゴッ!
 裕也の左側頭部に、大きく振りかぶられた聖杜のバックが直撃する。
「アボブッ!」
 裕也は奇声を発して倒れこんだ。コンクリートの廊下に。
 そして、ゴガン、とまた痛そうな音を立てて頭を撃ちつけるのだ。二次災害である。
「………………!?」
 その他の三人が驚愕の目つきでその場を見つめる中、公衆の面前で突発的な殺人を起こしてしまった聖杜本人は、
「裕也ぁ……言うんじゃねぇよ! 録ってあんだよ、まだ家だ! 見てないんだ!」
 フーフーと肩で息をしながら凄んで見せていた。
「いや、なにもそこまですることは……」
 思わず青木 秀行(あおき ひでゆき)が宥めようとするも、ギッ、と聖杜が物凄い眼光で睨んできたので押し黙った。その横では草野 卓巳(くさの たくみ)が、「おーい、大丈夫かー?」と裕也の頭を小突いている。しかし彼は反応が無かった。
「おい、裕也が死んでるぞ!」
「やばいぞ! 白目剥いてるって!」
「あれ? 傷口、陥没してない?」
 重成たちがなんだかヤバ目の会話をしている中で、当の聖杜はなんら気にするそぶりも無く、
「死んじゃいないって。そのうち目を覚ますよ」
 そんじゃバッハは〜い、と涼しい顔でその場から立ち去ってしまったではないか。
 聖杜が廊下の角、階段に突き当たったあたりで後ろから、
「うわー、裕也が泡吹いてるー!」
「き、救急車だ救急車! 急げー!」
「せんせー! たっけてー!」
 という悲痛な叫びが聞こえた気がするが、そんな事はあえて無視なのである。



 そういう訳で、夕食も宿題も、お風呂まで済んだ夜の九時過ぎ。
 聖杜はテレビをつけて、録画番組の呼び出しを行った。最近話題の、録画もできるハイテクなプラズマテレビだ。
 歩きながらリモコンで操作して、番組を見れる状態にすると、ドッカリとソファーに腰を下ろす。テレビ正面の、大きくて柔らかい最高の席だ。
 画面で再生されたのはスポーツ。昨日の深夜に再放送された欧州チャンピオンズリーグ準決勝、レアル・マドリードvsマンチェスター・ユナイテッド。まさに準決勝を飾るに相応しい名門同士の対決を迎えるのは、マドリードのホーム、サンチャゴ・ベルナベウ、そして超満員の観客だ。
 この試合は先週の水曜日(日本時間で木曜日)にすでに決着がついているものである。しかし民放で録画放送されることを知っていた聖杜は、なるべく結果を聞かないようにしながら、この日まで過ごしてきたのだ。それだけこの試合が楽しみだったのである。
 画面の中で主審の吹くキックオフのホイッスルが鳴り響き、赤と白の対照的なユニフォームが混ざり合うのを眺めながら、聖杜はゆっくりとソファーに身を沈めた。実況のアナウンサーが読み上げる両チームのスターティング・メンバーを聞きながらも、ふと遠くにいる父へと思いを馳せた。
(親父は……この試合結果を知ってるのだろうか)
 聖杜と同様、正孝もヨーロッパサッカーの大ファンである。例年通り、今季も父子二人はこのチャンピオンズリーグ結果を固唾を呑んで見守っていたものだ。
 もっとも、今年の準決勝以上は二人にとって、面白いけれども思い入れの無い顔合わせになってしまった。正孝はイタリアの老貴婦人と呼ばれるユヴェントスの大ファンで、聖杜はイングランドの名門リバプールのサポーターだ。その両チームとも準決勝までに敗退してしまったために、ついこの間まで二人は大きく肩を落としていたものである。
(ま、そのお陰で今年はリラックスして見れるんだけどね)
 聖杜はそんな風に苦笑しながら画面を見つめていた。
 それから数分が過ぎ。
 試合が立ち上がりの流動から、次第に膠着状態に入っていった辺りで、不意に室内に良い匂いが満ちた。
「あれ? お兄ちゃん」
 聖杜が振り返ると、そこにはお風呂上がりで髪をゴシゴシしている由梨花がいるではないか。
「サッカー見てるの?」
 そう言いながら近づいてくる少女。湯上りのホカホカした、しっとり汗に濡れた身体がひどく蟲惑的だ。
 ドキッ! としながらも聖杜は、
「う、うん……」と頷く。
「お茶入れてあげよっか?」
「えっ?」
「ただ見てるだけじゃ手が寂しいでしょ。なにか飲みながらの方が楽しいよ」
「でも、寝る前だし」
「おトイレ行きたくなっちゃう? そんなに飲むつもりなの?」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「大丈夫だよ。……紅茶でいいよね?」
 ここまで言われると、流石にもう返すことはできない。「う、うん、いいよ」としか言えない間に、由梨花は電気ジャーの保温マークを見て、「抜くの忘れちゃったねー」と笑いながら葉の準備を済ませていた。
 数分して。ティーカップを二つ持った由梨花が、一つを聖杜の前に置いてから、
「私も見て良い?」
 と聞いてきた。それに小さく頷くと、
「えへへ。やったぁ」
 そう言って聖哉のすぐ隣に腰を下ろす。
(そ、そこぉ!?)
 他にいくらでも開いてる場所はあるのに、よりによって身体が密着するほど近くに、ちょこんと座っているのだ。すぐそこに由梨花の小さな顔があるもんだから、聖杜としてはいきなり気が気ではない状況に追い込まれてしまったのである。
(あ、あわわわわっ! シャンプーの香りが……それに甘酸っぱい香りも!)
 男を誘惑するフェロモンたっぷりの、女の子特有の甘い香り。それがドンドコ、聖杜の思考能力を奪っていく。脳は完全にメルト・ダウン状態だ。
 そんなことを知ってか知らずか、由梨花本人はカップを持ちながらテレビを見つめ、「わっ、すごーい」と一流選手の華麗なプレーに釘付けであった。
(あ、あ、あわ、わわわ! 意識しちゃダメだ! 意識しちゃダメだー!)
 聖杜は必死になって神経を他のところに集中させた。試合を見ようと、ギラギラした目で画面に食い入ると、レアルの選手が細かいダイレクトパスを交換してシュートまで繋ぎ、零れたボールを7番の選手が押し込もうとしてキーパーに防がれているところだった。お、良いシーン、と思って前のめりになると、
「あっ……」
(……っん、げ!?)
 二人の手が触れ合ってしまう。
 手の甲に感じる柔らかな肌。温かくて、優しくしっとりとしている由梨花の手だ。聖杜の意識は、瞬時にそっちに気を取られてしまい、もう他の事は考えられない状態になっていた。
 ちょっとだけ視線をズラして由梨花の顔を盗み見る。彼女も頬をちょっぴり赤く染めていて、その小さくなった姿が物凄く愛らしかった。
(あうっ……!)
 ヤられてしまった。嗅覚で感じる由梨花の香りに、触覚で肌の温もりを知ってしまった。その上、視覚的に由梨花の可愛らしい姿を収めてしまっては、聖杜の理性はノックアウト寸前なのである。
 そして、そんなドキドキのせいでタイミングまで逸してしまった。不自然になってしまうのだ、離れようとする行動が。そんな空気を敏感に感じ取り、緊張で全身に脂汗を浮き立たせながらも、聖杜は挙動を硬直させてしまったのである。
(あああ……スゴくドキドキしてる!)
 心臓の高鳴りが本気でウルサイ。もう何も分からない、試合に集中どころではなくなってしまったのだ。
 由梨花も同じようにタイミングを逸してしまったのだろう、彼女も顔を少し俯けたまま、微動だにしなくなってしまった。そんな、二人の間に張り詰めた空気が形成され、もう何もできなくなっているのだ。
 そのため、二人はずっとドキドキしながらも、試合終了のホイッスルを待ち続けなければならなくなってしまった。当然、最後まで見ていたはずなのに試合内容は全く記憶しておらず、ドキドキガチガチのまま結果を知るという悲しい結末を迎えてしまったのである。
 だから二人は、試合途中で画面に映し出された、客席で大盛り上がりする両親の姿も記憶していないわけで。
 その事実を知るのは、後日に試合の見直しをして集中している最中であったのだ。
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