第二章




 あれは確か、中学2年生の秋だったかな。
 その日は文化際の直前、あと二日くらいっていう時だった。クラスの準備の為に、残って展示会の準備をしていたの。他の友達はクラブや委員会の準備で忙しかったから、私一人で教室に残ってた。こういう時、クラス委員長って損だなぁ、て思ってたの。本当なら私も合唱部の練習に参加してたのに。
 でもしょうがない。引き受けた以上は責任があるし、先生だって、頼んだって言ってくれた。ここは一人でも頑張んなきゃ、て気合を入れなおしたの。
 時刻は7時を過ぎて、外の景色も真っ暗だった。クラス展の準備は大体が終わっていて、あとは研究とか論文(大袈裟かな?)が書かれた画用紙を、それぞれ壁とかに貼り付けるだけ。これくらいの作業なら一人でも大丈夫かな、と思って、近くの椅子を手に持った時だった。
『あれ? 大幡さん?』
 ガラッ、とドアが開いて男の子の声がした。振り返ると、そこには同じクラスの中村 聖杜くんが居たの。彼はあんまり自己主張が無くて、いつも友達と一緒の、目立たないタイプの子だった。体格もそんなにガッチリしてなくて、背も小さい方なの。ただ顔立ちは結構、綺麗で、先輩たちや年上の女の人なんかにはそれなりに人気がある。今年から同じクラスになったんだけど、少し恥ずかしがり屋さんなのかな、話しかけてもあまり顔を見てくれないんだ。
 そんな彼がこんな時間に教室に来て、しかも声をかけてきたのには、私も驚いちゃったの。
『なにやってるの?』
 と聞いてくる彼に質問し返しちゃった。
『中村くんこそ……どうしたの?』
『俺は委員会の打ち合わせとかが長引いちゃって……。鞄取りに来たんだけど』
 そこまで言った中村くんが、床に置いてある画用紙と、私が手にしてる画鋲、持ち出そうとしてる椅子に目を留めた。それらを見て状況を理解したのか、
『それは……明日でも良いんじゃないのかな?』
 と言ってきた。
『ダメだよ。明日は教室のデコレーションとか、当日の確認とか、やることは色々あるんだよ。それに明日は部活を優先したいから、できることは終わらせておきたいの』
『別に大幡さんがやること無いんじゃないかな。また明日、暇な人にやらせるとか』
『忙しいのは誰も一緒だよ。だから明日はクラスの時間を早く終わらせなきゃ。それに私は、先生にクラスを任されてるんだから』
 なんだか意固地になって反論する私。いま思えば、何であんなに固執したんだろ? て疑問がある。
 でも中村くんは、そんな私を見て、呆れるどころか思わぬ行動に出たんだ。数回だけ頷くと、私の方に近づいて来て、正面から目を合わせてきたの。彼がそんなことしたのは初めてだから少し怯えちゃった。
 すると彼は、私が持っていた椅子を手に取ると、
『一人でやろうとしてたの?』
 と聞いてきた。
 その質問の意図が掴めなかった私は少し困惑したけど、うん、て頷いた。すると彼は、やっぱり、と溜息交じりに呟いた後で、
『手伝うよ。俺が画用紙を貼り付けるから、大幡さんは画鋲を渡して』
 と言った。それに驚いた私は、え? と困惑しながら、
『い、いいよ! 私だけで大丈夫だから!』
 慌てて手を振ったんだ。だけど中村くんは頑としてそれを聞き入れなかった。
『女の子が危ない事しちゃダメだよ。それに一人なんて、何かあった時にどうしようもないじゃないか』
 私はその言葉に気圧されて、彼に反論できなくなっちゃった。今まで見たことも無いほど強引で、ちょっぴり饒舌な彼にトキメキを覚えたのも、多分これが最初。
 その後、窓の上とか高いところに画鋲を刺す作業に手間取ったりしたけど(二人とも背が低いからね)、すごくスムーズに終わらせることができたの。帰り支度や戸締りの確認も彼が手伝ってくれて、なんとか玄関が施錠される8時に間に合ったんだ。帰宅の道中は、途中まで道が同じだったから一緒に帰ったんだけど、なんだか凄く楽しかった。いつもとは全然違う、彼の明るい雰囲気が見れて、話も弾んでた。正直、別れるのが辛いくらいだったもん。
 あの時から、私は中村くんを意識するようになった。変な話だよね。今までは私の理想って、強引でクールで、どんどん先に行くような、何でもできるカッコ良い男の人だったんだよ。それが、背は小っちゃいし成績もあんまり良くない、内気で目立たないその他大勢的な中村くんに恋するようになったんだもん。
 それからは日増しに彼への思いが強くなっていった。いつも気にするようになって、どんどん彼のことが知りたくなって、どんどん彼を好きになってく自分がわかるんだもん。あれはホント、不思議な感じだったな。

 だからね、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんのことが大好きなんだよ。お母さんがお父さんと結婚するって聞いたとき、ホントのホントに嬉しかった。離れ離れになっちゃうって思ってたお兄ちゃんの、一番近くにいられるようになったんだもん。
 この想い、お兄ちゃんは分かってくれてるのかな。最近、積極的にアプローチしてるんだけど、お兄ちゃんってば全然なんだもん。なんだか自信なくしちゃうなぁ。
 でも良いの。わたくしこと中村 由梨花は、必ずこの想いを成就させて見せるんだから。今もどんどん強くなっていくこの恋心をエネルギーに変えて、精一杯、お兄ちゃんにアタックしちゃいます。
 だからお兄ちゃん。これからの生活、覚悟しておいてね!



 私立赤ノ森高等学校にて。
 5月8日火曜日の授業開始前、1年2組の教室で由梨花は、友人の田中 有理(たなか ゆうり)、坪井 久実(つぼい くみ)、川崎 真樹(かわさき まき)の三人を前に、ホニャラケ顔で昨夜の報告をしているのであった。
「昨日ね、お兄ちゃんと一緒に夜遅くまで起きてたの。だから寝不足だよ〜」
 寝不足な様子など全く垣間見せない、幸せそうで元気いっぱいのヲノロケ笑顔で由梨花がそう言うと、
「えっ!」
「えっ!?」
「ええっ!?」
 三人の顔色と空気が一変した。
「ついにアンタに手を出したのか、あのオタク兄貴!」
「中村くんにもそんな度胸があったのね〜。ビックリだわ」
「ああ、こうして由梨花ちゃんの可憐な純潔が散らされてしまったのね……」
 とそれぞれに好き勝手な感想を漏らす三人組。真樹なぞは、よよよ…と泣き出す真似までしてみせる芸達者ぶりを披露していた。
 だがその後で飛び出す三人の意見は一致したもので、
「にしても意外と早かったわね、煩悩が勝るの」
「も少し我慢が効くと思ったんだけどな〜」
「中村くん、根性が足りないわね」
 聖杜はヒドイ言われようである。それもそのはず、彼女たちは由梨花と中学時代からの友人で、聖杜の目立たないぶりも良く良く理解しているのだ。しかも聖杜は、目立たないだけでなくヘタレで根性無しで何をやっても失敗ばかりのダメ人間と捉えられているのである。しかもしかも。学校のマドンナ・大幡 由梨花(旧姓)の親友たち、その選球眼も厳しく、ほぼ落選決定だった聖杜が由梨花の近くにいることに納得していない節もある。
 何よりも、中2の秋にいきなり、由梨花が「好きな人ができたの」と言ってきて、そんな彼女から出た名前が「中村 聖杜」であったことに違和感バリバリな三人なのだ。
 だが由梨花にはそんな事など関係なく、ノロケ話を最後まで聞いてくれる(と思ってる)三人に、早く続きを喋りたくてしょうがないのであった。
「ねーねー、聞いてよー」
 手をパタパタさせながら、無邪気な笑顔で友人を呼ぶ由梨花の姿に、溜息を吐きながらも向き直る少女たち。
「あー、はいはい。で、初体験はどうだった? やっぱり痛かった?」
 投げやりで問いかける有理に、
「なに言ってるの?」
 と由梨花が怪訝顔をするも、すぐにそんな事は飛ばして、
「あのねー。昨日、お兄ちゃんが録画したサッカーの試合を一緒に見たんだ。すっごかったよー」
『さっかぁー?』
 今度は三人が怪訝顔である。
「うん、チャンピオンズリーグって言うのの準決勝戦だって。なんだか見たことも無いような技がバンバン飛び出してね、ビックリの連続だよー」
「は、はぁ……サイですか」
 有理たちは怪訝を通り越して呆れ顔だ。
 と、その隙に蚊帳の外からサッカー部の西山が割り込んできて、
「へぇ、中村さんも欧州CLに興味があるの。良かったら俺が、この間の試合を解説してあげるよ」
「え? で、でも、今は有理ちゃんたちと……」
「いいからいいから。で、どうだった? 試合は」
「う、うん。白いユニフォームの人たちが綺麗に攻めてったなぁー、って」
「中村さんって、ヨーロッパサッカーはエル・ブランコを応援してるんだ。それでどういう所が気に入ったの?」
「な、7番の人や17番の人が点を入れてて……」
「おお、ゴンサレスとルートだね。彼らは生粋のゴールハンターで――」
 ドゲシ!
「おおうっ!?」
 西山を背後から蹴り倒す三つの影。
「ええい、邪魔だ邪魔だ!」
「なに勝手に話しに入り込もうとしてんのよ」
「非常識この上ないわね」
 溜息と共に、尻餅ついた少年に冷ややかな視線を向ける少女たち。
「な、なに言ってんだ! 俺は中村さんに、親切心で……」
 ギロリ。
 ビクッ。
「ええい、うるさいうるさい! あんたなんか由梨花とぜんっぜん釣り合ってないのよ! 迷惑だからここから立ち去れい!」
「お、横暴だー!」
 と言いつつ足早に逃げ去る西山少年。
「なんだか、あれはあれで可哀想ね……」
 走り去る彼の背中に向けて、久実がポツリと哀愁の一言。
 まぁそれは良いとして。
 真樹がクルリと由梨花に向き直ると、
「どうしたの? 今までサッカーの試合なんて見てなかったでしょ?」
 そう聞いた。すると由梨花は微かに頬を染めて、
「うん。でも、お兄ちゃんが真剣に見てたから、私も一緒に見たいなって」
 なんだかその場に甘酸っぱい空気が充満した。ような気がした。
「あ、そ」
 もう良いや、て感じで有理が後ろを向くが、由梨花の話は止まらないのである。
「それにね。一緒に見てるとき、お兄ちゃんに寄り添ってたの。すぐ近くにお兄ちゃんの匂いがあって、すごく、すごーっく、ドキドキしたなぁ」
 ハホォ、て感じで相好を崩す、ちょこっと乙女チックな表情の少女。
 そんな由梨花の様子を見て、結局はそこなんかい、と小さくつっこむ三人の少女。
「今度の決勝戦も、一緒に見ようねって約束したんだー」
 えへへー、と物凄く幸せそうな顔で三人の様子を無視する由梨花。
 1年2組の授業開始は、このような教室風景の中で、さりげなく行われていくのであった。



 その日、由梨花は帰宅してみると、ドアノブに手を伸ばして回そうとした。
 開かない。
(お兄ちゃんは帰ってないのか……)
 そう頷くと、鞄から鍵を取り出して開ける。玄関を覗くと、案の定、聖杜の靴は無かった。
「ただいまー」
 習慣的に声を出すも、広々とした一軒家に僅かな余韻が広がるだけ。その響きが由梨花の心の中に染み入った。
 少し前までは当然だった事だけれど、ここ二ヶ月の間にその慣れも消えてしまった。しん、と静まり返った屋内に寂しさを感じてしまい、それを慌てて振り払う。
「ただいま……」
 もう一度、今度は呟くように搾り出した。その後でローファーを脱いで揃え、家の中に入る。
 部屋へと向かう前にリビングに寄って、ソファーに鞄を置いてみると、そのまま反転して洗面所へと向かった。日課になってるうがいと手洗いをするためだ。
 カラッ、と扉を開いて中に入ると、洗面台の鏡が目に入る。それを真正面から見据えると、赤ノ森高校の制服に身を包んだ自分がいる。茶を貴重としたシックなセーラーカラーが可愛い制服は、由梨花にとってお気に入りだ。へへーっ、と胸元のリボンを弄ってみたりする。ちょっとした遊び心だ。すると由梨花の後頭部でも、赤くて少し大き目のリボンが小さく踊って、なんだか可愛げだった。だからそっちにも手を伸ばして、曲がってないかとかを確認してしまう。
 去年までは、髪の毛はカチューシャで留めていた。でも、なんだかアクセントとしては弱い気がして、他のものに変えることにしたのだ。その時に有理が言ってくれた一言が、
「あんた童顔だからリボンのほうが似合うよ」
 と言うものであったのだ。その時はなんだかバカにされたように感じたけれど、今となってはこっちの方が可愛いと思える。ありがとね有理ちゃん、と小さく微笑んだ。
「さて、と」
 リボンや制服を愛でるのはこれくらいにして、由梨花は照明のスイッチを入れた。あまり暗いという訳ではないけれど、微妙な明るさなので点けておくのだ。
 すぐさま、パッ、と明るくなって、パッ、と消える。かと思いきやまたパッ、と灯が入ってすぐに消える。照明はそんな明滅を繰り返し始めた。
「パルックが切れてる?」
 すごく目に悪そうな明かりを振りまく天井を仰いで、由梨花は少し考えた。
 とりあえずハンドソープの泡で手を洗い、うがいも済ませてしまう。その後で階段下の物置に入って、新品のパルックを探した。
(これから暗くなったら、付け替えるの大変だもんね。明るい内にやっておかなきゃ)
 と、早めに結論を出したのだ。
 そうと決まれば話は簡単。積んであった幾つかを取り出して、その後にリビングから椅子を取ってくると、早速、そこに上って照明のカバーを外しにかかった。
「えっと……こうかな?」
 外してみて、明滅しているのが上の大きな方である事を確認する。一旦、椅子から降りて電気を消すと、パルックを外す作業に取り掛かった。
 すると玄関の扉が開く音がして、
「ただいまー」
 聖杜が帰ってきたのである。
「あ、お帰りなさーい」
 両手を上げている少し窮屈な体勢ながらも返事をして、パルックの接続端子を外した。ふう、と息をついた時、扉から聖杜が顔を覗かせる。
「何かやってるの? 由梨花」
「うん。パルックが切れちゃって、付け替えてるの」
 と言いながら振り向くと、なぜか聖杜がギョッとした表情をしている。
「あ、危ないよ。そういうのは俺がやるから、由梨花はそこから降りて」
「危なくなんかないよ。大丈夫、私だってこれくらいできるんだから」
 由梨花は笑いながらパルックの固定を解いた。が、そのとき手が滑って、それは由梨花の肩に小さく撥ねると、気付いた時には床に接触していた。
「きゃっ……!」
 パリンッ
 蛍光灯が割れて、辺りに飛び散る。
「あ……ど、どうしよ?」
 慌てて破片を拾おうと、由梨花が椅子の上でしゃがむ。そんな彼女を、サッと左腕で止めさせたのは聖杜だった。
「素手で触っちゃダメ。たしか箒とちりとりはあったはず。それを持ってくるから、由梨花は雑巾を濡らしておいて」
 聖杜は非常に冷静に見えた。そんな彼に見つめられて、うん、分かった、と思わず頷いてしまう。それくらい説得力があったのだ。
「あと、続きは俺がやるよ。由梨花は無理しないで良いからね」
「無理なんてしてないよ!」
「でも少し高かったでしょ。辛そうだったよ」
「あぅ……」
 爪先立ちだったのがバレていた。確かに少し辛かったのだ。
「とりあえず片付けよう。これくらいだったらすぐに済むよ」
 そう言って後ろを向いた聖杜の背中。その姿がカッコよくて、由梨花は心の中で、やっぱりお兄ちゃんには敵わないなぁ、と思っていた。
 ただ、それと同時に浮かんでしまう自分の笑顔には、少し気付かなかったのだ。



 青木島高校は、中村家から徒歩15分ほどの比較的近い場所に位置している。その途中に駅があり、そこから三つ目の駅で降りると、赤ノ森高校へと行き着くのである。
 だから由梨花と聖杜は、同じ時間に家を出て、同じ道を途中まで一緒に登校する。それがこの春からの、二人の朝の週間であった。
「お兄ちゃーん。大丈夫ー?」
 由梨花が階段を覗き込むようにして、二階の聖杜へと呼びかけると、大丈夫だよーっ、という返事が来た。続いてトイレの水を流す音がして、聖杜が姿を現すのだ。
「時間、まだ良いよね?」
 聖杜が腕時計を確認しながら尋ねてくるので、
「うん、まだ大丈夫だよ」
 と答える。
「窓は閉まってる?」
「全部、確認したよ」
「じゃあ鞄とって来るね」
 いつも通りの言葉を交わすと、聖杜はリビングへと入って行った。その後姿を少しだけ見つめてから、由梨花は玄関へ行ってローファーを履いている。いつも通りの光景だった。聖杜はお腹が少し弱いから、登校前には毎朝トイレに行っておく。そして少し慌てながら降りてきて、由梨花と一緒に家を出るのだ。そんな彼を待つ時間を、由梨花は少し楽しみにしながら迎えていた。
 ただ、朝に強くなくて寝坊癖のある聖杜に早起きをさせている事に、由梨花は少しだけ引け目を感じてもいる。授業の始業時刻は同じくらいだから、距離の近い聖杜の方がもう少しゆっくりできているはずなのだ。それを、自分のワガママで一緒に家を出ているのだから。
 だから、聖杜が玄関に来て靴を履いているときに、由梨花はこう言ってしまうことがある。
「ごめんね、お兄ちゃん。もっとゆっくりしてられるのに、私に付き合ってもらっちゃって」
 時々、この言葉が由梨花の口をついて出る。今日もそうだが、その度に聖杜はこう答えるのだ。
「俺一人で行ってたら、ゆっくりし過ぎてもっと余裕ないもん。これくらいで丁度良いから、由梨花には感謝してるんだよ」
 よっ、と立ち上がりながら聖杜がこう言ってくれるのを、由梨花は毎回、嬉しく感じてしまうのであった。
 二人一緒に家を出て、ドアを閉めると由梨花が鍵をかける。なんだかいつの間にかそうなっていたけれど、それはもう自然なこと。二人は並んで歩き出して、約10分ほどの距離を一緒に過ごす。その時間は掛け替えのない物なんだと、由梨花はそう思っているのだ。
「それじゃあね、お兄ちゃん」
 駅が見えて、その前の交差点を由梨花は真っ直ぐ行く。聖杜は右に折れて行くので、二人っきりの登校時間はこれで終わりだ。
「うん、それじゃ。今日も頑張ってね」
「お兄ちゃんも。ね!」
 信号が青くなって、由梨花は聖杜に手を振りながら横断歩道を渡って、それから駅の入り口に向かう。そこではいつものように、有理、久実、真樹の三人と合流するのだ。
「おはよー」
「っはよー」
「はよ〜」
「おはよ」
 挨拶を交わして構内に入り、改札へと向かおうとしたところで、異変に気付いた。南青木島駅はそんなに大きくない。ホームも一、二番線の上下しかないくらいだから、構内もけっこう狭いのだ。だがその場所は、いつも以上の狭さで人がいるのである。
「なんか、人が多いね」
「うーん、狭っ苦しいなぁ……げ、どーりで。中学生の集団じゃん」
「大きな荷物を背負ってるわね。林間学校かしら」
「この時期はキャンプじゃん? 構内でバラバラに喋ってるから、まだ集まってる段階じゃないかな」
「それじゃ、私たちの電車には乗らないわね。良かったー」
「同じ車両になったら人口密度が凄そうだもんね」
 四人で言葉を交わしながら、いつもより騒がしい構内を抜けていく。すると、ふと視線を向けた先に元クラスメートがいた。
(あれ? 鈴木くんだ)
 聖杜の親友でもある、鈴木 重成であった。青木島高校のはずだから、なんで駅なんかにいるんだろうと思ったら、彼は大きなバックを背負った女の子と話しているではないか。
(妹さんかな。……可愛い子だなぁ)
 失礼な話、重成とは全然似ていない。小顔でパッチリとした目と、重成の胸くらいまでしかない身長。オドオドした感じの雰囲気と併せて、小動物のような、思わず抱きしめたくなってしまうようなキュートな女の子だ。
 重成は女の子に真剣な面持ちで何かを喋っていて、それに女の子はウンウンと頷いている。かと思うと重成は急に満面の笑みを浮かべると、満足そうに少女の頭を撫でている。その様子が凄く幸せそうで、溺愛ぶりが窺える一コマだ。
(なんだか微笑ましい。すごく大切にしてるんだなぁ〜)
 そんな風に思いながら二人の様子を見ていると、後ろから肩を叩かれて、
「何やってんの。早くここ抜けよ」
 と有理に急かされた。
「あ、うん。そだね」
 と答えて改札を抜けるも、何だか意外なものを見たな、という気持ちがしていたのである。



 その日の帰り。青木島駅を出て帰路の途中、有理たちと別れてから少しして、帰宅路を左に折れた。そこから暫く進むと大型のスーパーマーケットへと行き着くのである。そこは県内ローカルながら中々に大規模で、日常雑貨すら網羅している店なのだ。それと頻繁にバーゲンセールとかタイムサービスとかを行ってくれるので、ここら辺の主婦が通い詰めるお得なお店なのである。
 だから由梨花も、今日のご飯は何にしようかなー、なんて考えながらスーパーへと急ぐのだ。両親が旅行でいない状態で二週間も経っているのだ、その間に中村家の台所はすっかり由梨花のものになってしまったのである。
(あと今日は、お一人様二つ限りでティッシュペーパーが安いのよね。トイレットペーパーの予備も買い足したいし、パルックも買わなきゃ。そういえばお兄ちゃんの歯磨き粉も少なくなってたなぁ)
 事前に朝刊に挟んであったチラシに目を配っておいたので、大抵のお買い得品はチェックしてある。あとはもう少しで行われるであろうタイムサービスの品を見て、夕飯の献立を考えることにしよう。由梨花はそう結論付けた。
「よーし、じゃあ負けないぞ!」
 由梨花は鞄を片手にガッツ・ポーズで気合を入れる。この後に予想される、タイムサービス時の壮絶なおばちゃん軍団との戦いに向けての神聖な儀式だ。
 と、そんな事をしていると、視線の先に聖杜が立っているのが見えた。なにやら道端で袋を持っており、それをバックの中に仕舞おうとしている様子だ。傍らには書店の看板が見えるので、恐らくはそこから出てきて何かを買った後なのだろう。
「おにーいちゃーん!」
 由梨花が聖杜に呼びかけてみると、彼はビクリと驚いてこっちを振り返る。
 その間に由梨花は彼の方へと駆け寄って、「何か買ったの?」と聞いてみた。
「え? う〜……あー」
 狼狽して目線を逸らす聖杜。その様子に怪しいものを感じた由梨花は思わず、
「……エッチな本?」
 と聞いてしまったのだが。
「ち、違うよ! これはサッカー雑誌! そう言えば今日が発売日だったなぁ〜、て思って立ち寄ったんだ」
 大慌てで否定する聖杜。その間にバックの口を閉めてしまったので中身は結局わからなかった。由梨花はそれに興味を持ったが、見せて、と言うわけにもいかないので、そーなんだー、と納得した素振りをしておくことにする。
「由梨花こそどうしたのさ。こんな所で」
 深く追求されるのを恐れるように、今度は聖杜が疑問を投げる。
「私はね、スーパーに買い物だよ。夕飯のおかずと、あと日用品の補充。そろそろ身の回りのものも足りなくなってきたしね」
「ふぇ〜……よく気が付くね。俺なんか、今まで親父にまかせっきりで、気が回った事なんてなかったよ」
「そ、そうかな……」
 真顔で感心させられたので、ちょっと嬉し恥ずかしい気分になって照れてしまう。母子家庭だったので家のことは昔からやっていた由梨花にとって、そんな事は当然のことだったのだ。
「ついでだし、俺も買い物、付き合うよ。少しくらいなら力になれるはずだし」
「え、ホント! 助かるなぁ、今日はティッシュとか嵩張るものを買う予定だったから、一人で持って帰るの辛いな、て思ってたんだ〜」
 聖杜の申し出に由梨花は、わぁーい、と諸手を挙げて喜んだ。確かに、女の子一人で持って帰るには少し厳しい量を想定していたからだ。
「それじゃ決まりだね。行こう、タイムサービス始まっちゃうよ」
「うん。ありがとね、お兄ちゃん」
 こうして二人は、並んでスーパーへと買い物をすることとなったのである。

 中略。

 そしてその帰り。ボックスティッシュだのトイレットペーパーだの蛍光灯だのお掃除用具の交換品だの、更には食料品として野菜だの肉だの魚だのを買い込んだ二人は、その余りの多さに持ってきたエコバックでは収まりきらず、店の空段ボール箱に詰め込んで家まで運ぶ事になったのであった。タイムサービスでカボチャやキャベツなどの大型野菜や安売りだったのでその箱はかなり重くなっている。なので段ボールは聖杜が持ってくれているのだが、かなり大きくて大変そうだった。
「大丈夫? お兄ちゃん」
 スーパーを出て少ししてから、由梨花は二度目の質問をした。ちなみに一度目はこの段ボールを聖杜が持ち上げた時だ。
「ん、大丈夫だよ」
 聖杜は事も無げに笑顔で頷く。小柄でひ弱な感じの聖杜だが、こういう所はとても力強い。やっぱりお兄ちゃんは頼りになるなぁ、と由梨花は感嘆しっぱなしだ。
「ごめんね、荷物もちになんて付き合わせちゃって」
 由梨花は、自分の手にあるエコバックの中がお菓子とかインスタント食品とか、そういう軽いものしか入っていないことを意識しているのだ。
「んーん。だって俺は男手だもん、これ位は任せてもらわなきゃ。いつも由梨花には、色んなことをやって貰ってるんだからね、こういう事は俺が手伝わなきゃ」
 聖杜がそう言ってくれたのが凄く嬉しかった。もっと頼って良いんだよ、て。もっと甘えて良いんだよ、て優しく言われたような気がして、本当の家族になっているんだって実感できるのだ。
「それに由梨花には、親父たちが帰ってくるまで、家のお財布を守ってもらってるんだから。むしろ由梨花の方が偉いよ」
「えへへー。褒められちゃった」
 由梨花はふざけた調子でそう言ったが、実際は頬が火照って顔が赤くなるのが分かった。なんだが凄く幸せで、でもくすぐったくなる様に照れくさい。
 良いなぁ、こういうの。そう思った。本当の兄妹みたいだ、と感じたからだ。
 ただ、同時に一瞬だけ浮かんだ、新婚さんみたいだ、という考えはすぐに仕舞いこんでしまった。
(だって、なんだか恥ずかしい……)
 もう少しだけ顔が熱くなる。
 本物の兄妹、かぁ――
 ふと、そんな物思いに耽ると、
「あっ!」
 不意に今朝の光景を思い出した。
「お兄ちゃん。鈴木くんって妹さん居るの?」
「ふぇ?」
 聖杜は虚を付かれたような表情をして、
「重成? うん、いるよ。でもなんで?」
「今朝ね、駅で中学生の女の子と話してる姿を見かけたんだ。仲良くしてたから、妹さんなのかな、て思って」
「あー、うん。杏子って言うんだけどね。可愛い子だったでしょ」
「うん。鈴木くんに失礼だけど、全然、似てなかった。すごく可愛い娘だったよ」
「駅に居たの? なんで……ってキャンプか。そういや重成が言ってたな」
「そうそう、キャンプだよ。おっきい荷物を背負ってたもん。あとすごい大切そうだった」
「ははは、あいつ過保護だから。一緒に駅に行ってたんなら、未だに妹離れできてないって証拠だね。杏子の事になったら目の色変えるんだよな、普段は良い奴なのにさ」
「そーなんだ。なんか意外だったよ、鈴木くんって硬派なイメージだったんだよね」
「んー、そりゃあ無い無い。重成はすっごい心配性でね。妹にベッタリなんだよ。んで杏子の方も内気で人見知りだから、兄貴離れができてないんだ。二人とも大丈夫なのかな、て周りが心配になるぐらいだもん」
 聖杜が話しながら苦笑する。それほど兄妹仲が良いんだろうな、と由梨花には映った。
「でも大丈夫だよ、二人ともあんなに仲が良いんだもん。楽しそうな家族だし、将来も明るそうだよね」
 由梨花はそう言ってニッコリと笑った。
「うん……、そうだね」
 聖杜も同意するように笑顔を返してくれたので、由梨花は幸せな気分で家路につくことができた。
 家の中に入ると、まず買ったものを整理してそれぞれの場所に置き、その後で少し遅くなったけれど夕飯の用意だ。献立はお買い得品の豚肉を使って生姜焼きにすることに決めて、手馴れた作業で調理していく。聖杜にも準備を手伝ってもらって、二人でご飯を作っていくのだ。
 こうして、中村家の夜は更けて行くのである。
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