第三章




 5月14日、月曜日の放課後。聖杜は友人連中と教室で意味もなくダベッた後、学校近くのゲームセンターに寄った。といっても、みんな金がそうあるわけでもなし。特に気になるゲームもないので、適当に300円くらい使ったところで、その場でお開きとなったのである。
 そして、今。6時を回ったくらいの、日が沈んで薄暗くなり始めた道を、彼は重成と一緒に歩いていた。これから重成の家へ行くのだ。
 だが重成家は聖杜の通学路とは外れている。徒歩で10〜15分ほど遠回りになってしまうコースにある重成邸へと歩を向けているのか。時間的な制約も考慮に入れれば、普通なら理解しがたい行動である。
 もちろん、これにはちゃんと意味がある。重成に貸していた本を返してもらう為だ。とても平凡な理由だが、それは彼らにとって非常に重要な任務なのであった。「本」というのが、先日の買い物の時に由梨花に目撃された、例のブツだからだ。
 その時に聖杜は、「ただのサッカー雑誌だよ」と誤魔化した。しかし真実は違う。サッカー雑誌2冊に挟んでレジに出し、そこはかとない店主の疑惑の視線を、「二十歳の兄貴に頼まれたんです」という白々しい嘘で切り抜けた、18歳未満は購入してはいけない類の雑誌なのである。綺麗な身体のお姉さんが裸で卑猥なポーズを決めてる写真集なのである。率直に言うとエロい本なのである。
「そ、そんな強調せんでも……」
 呆れた聖杜の声も虚空に響く。
 実は聖杜たちは、月に一度、皆で一冊のそういう本を買うのが習慣となっていた。毎月、買い担当をローテーションで代えて、一日ずつ回していくのだ。お金は無いし年齢的にもあれだし彼女も居ないけど、煩悩と情欲だけは有り余っている思春期の少年たちが、自分の暴走する性欲を慰める為に知恵を振り絞って出した答えがこれだった訳である。
 ある意味でとても情けない光景ではあるが、本当に性欲が暴走してしまったらヤバい事になる聖杜などは、この方法はとても重宝しているのだった。
「んで、どうだった?」
 聖杜は周囲に人気がないことを挙動不審気味に確認してから、尚も声を潜めて重成に質問をぶつけるのだ。
「ん〜? どう、て何が?」
 分かっている態度で問い返してくる重成。何を余裕綽々にしているのか知らないが、明らかに上から目線であった。
「何が、て……ブツの中身だよ。凄かったのか? そりゃあもうエロかったのか?」
 ソワソワとしながら答えを急かす聖杜。今月の担当だった彼だが、購入当日には帰って何だかんだしてたらバタンキューしてしまい、中身を見るどころか包装すら外さないまま、次の日に高村に渡してしまったのである。それから五日間、その事に対する後悔で頭の中がジリジリしてしまい、ようやく自分に回ってくる今日と言う日を今か今かと待ち焦がれていたのである。
 そんな聖杜の様子をフフン、と嘲るように鼻で笑う重成。特に優越感を感じるべきものではないはずなのに。
 彼は勿体つけるようにゆっくりと口を開き、
「んー……。まぁ、今回はハズレだったかな。いつもよりはエロのクオリティが落ちてたぜ。ヌードルのグラビアとかも、目玉になるような美人はいなかったしな。企画もいまいちだし、AV論評でも大型のものは無くて肩透かしだ」
 そこまで言って、フゥーウ、と大袈裟に溜息を吐く。
「でもま、一応ヌけたけどねー」
 したり顔で肩を竦めてエロ本の評論をまとめた鈴木重成、15歳であった。
「んんぅ、そっか……」
 明らかに残念そうに肩を落とす中村聖杜(15)。エロ本相手にそこまで落胆してしまう、悲しい少年なのである。
「悪い内容ではなかったが、やはり先々月のアレに比べるとなぁー」
「あー、そうだよな。ありゃ凄かった。壮絶にエロかったもんな」
「っくしょー、失敗したなぁー。今でも悔しいんだよな、あれだったら何ヶ月でもオカズになんのによー」
「秀行のヤローが持ってっちまったからなぁ。今でも、あの時は俺が買っとくべきだった、て思うよな」
 エロ本ルールでは、月の購入者がその雑誌を引き取ることができるのだ。なので上物に当たった時には、周囲は心底から悔しがり、本人は人目も憚らず大喜びするという、一見して奇特な光景になるのである。
「しかしな、聖杜。そう後悔ばかりではいかんぞ。よし、俺がいい事を教えてやろう」
「なに? なんかあんの?」
「ああ、今月号の唯一の当たりだけどな、大間 加絵のヌードグラビアがあるんだ」
「え、マジで?」
「そうさ。大きなヌき所の一つだ」
 大間 加絵とは、153センチの小さな身体と、ハイトーンで嗜虐心をそそる様なアニメ声で人気のロリータ系女優だ。その可愛らしい見た目とは裏腹に、87センチの巨乳と激しい内容の作品をリリースし、一躍トップスターとしてそういう世界で絶大な支持を受けている女性である。雑誌のレビューの高評価に魅かれて、聖杜も思わず父親のコレクションから拝借して視聴し、あどけない造りの容姿で余りに過激なことをする姿に失神寸前になり、思わず隠れファンになってしまったほどである。ちなみに聖杜の父・正孝は、日本野球界の至宝と謳われ東京にあるドームやニューヨークにあるスタジアムをホームにするビックチームで背番号55番を背負うゴジラのニックネームで知られるあの人、と比較できるほどのアダルトビデオマニアとして(一部で)知られている。
 そんな話を聞いたものだから、聖杜は俄然、元気になってしまうのだ。心もウキウキと躍りだし、会話も自然と熱が入る。彼ら二人は閑静な住宅街を、迷惑になるのではないかと心配するくらい大きな声でエロ談義に花を咲かせながら歩いていった。


 そうこうしている内に重成の家に到着する。聖杜は期待にソワソワしながら、重成の横で扉が開くのを待っていた。
「おいおい聖杜、落ち着けって。――ただいまー!」
 苦笑しながらもドアノブを廻す重成。ガチャリと音がして扉が開き、ドアを引いて屋内の空気が流れてきた。
 ――え?
 空気が違った。
 ふわり、とドアから流れ出た匂いが、余りにも重かった。それに一瞬だけ思考を走らせると、目の前の重成は目を見開いていた。
 彼の開け放たれた唇が、小さく息を飲み込んだ。視線の先は玄関の奥。喉が動いて、何事かを喋ろうとして――
 ヒュッ
 影が通った。黒い何かが重成に触れ、ズヌッ、と音がして突き立った。玄関には知らない男が立っていて、重成の喉に何かを押し込んでいる。黒く見えたのは皮手袋で、そこから伝って垂れ落ちてるのは血液だった。
 男の手と重成の首の間に、鈍く光る銀色の刃が見えた。男が手を引くと10cmくらいの刀身が出てきて、それが傷つけた頚動脈が、派手に鮮血を撒き散らした。
 全てはスローモーションだ。ゆっくりと知覚できる速度で進み、でも決して反応できない速度で過ぎ去ってゆく。
 男は聖杜を一瞥した。しかし何もせずに立ち去ったのだ。重成を押しのけて玄関を出て、正門から道を左に折れて消えた。
「……っ! し、――、?!」
 青褪めた重成の顔。首を押さえて、必死に足掻いている彼を見て、聖杜は反射的に彼を抱かかえたのだ。どうなっているのか分からず、状況を探ろうと辺りを見回し、そして玄関に、先程から立ち込めていた濃密な血の匂いを目にする。
 廊下に広がる凄惨な血の海と。
 転がっている無機質な遺体と。
 腕の中で親友が無くして行く身体の力と。
 助からない彼らを見つめて――
 聖杜はもう、何も考えられなかった。



 住宅街を足早に駆ける異邦人の姿。
 浅黒い肌と彫りの深い顔立ちを、目深に被った帽子で隠し、しかしそのつばから覗く目つきは鋭い光を周囲に走らせている。
 茶色のロングコートに血臭を纏い、黒の皮手袋には渇いてどす黒く変色した液体が張り付いている。平穏な日本人の一家を惨殺した直後の彼の表情は、ギラギラとした仄暗い興奮を必死に抑えた、鋭利な喜びに満ちていた。
 殺しは彼にとって、快感だった。生活の糧として、以上に純粋な悦楽を得るために、人を切り刻むのだ。
 だが今日の仕事は目的が違っていた。そのはずだった。子供を一人、攫って来なければならなかったのだが、複数人の生を絶つ悦びに我を忘れ、ターゲットを見付けられなかった。途中で気配が近づいてきたので、彼は逃げることにしたのだ。手前の一人を殺して、もう一人は構っていられなかった。計画を変更し、次のチャンスに備えることにする。そのためには合流ポイントへ行き失敗を伝え、非常時のプランを聞き出さなければならない。
 夕暮れ時の時間帯、道端に人影は無い。誰かがいれば消さねばならない。その事に注意して、素早く道を進んでいく。
 と。
 ガッ、と何かに当たる感触がして、彼は背を仰け反らせた。前に壁があるように思えたのだ。しかし目に映る範囲に、道路を妨げるものは存在しない。だが、確実に前進を阻む何かがあることを、彼の体は伝えている。
「…………?」
 手を伸ばすと、目前で何かに触れた。硬い、まさしく壁のようなものだ。透明な壁がそこにあるのだ。まるで空気が固まっているかのように。
 不思議に思い右を向いて、そこにも同様の壁があることに気付いた。自分が、とてつもなく窮屈な場所に居ることを思い知ったのだ。四方を壁に囲まれて、動けない状態に居る。
(どうなっている……?)
 背後を向いて、ふと気付く。人が居る。いや、近づいてきている。それも物凄いスピードで。
「…………!?」
 なぜ気付かなかった――?
 急ぎ懐に手を入れ、獲物を掴む。刃渡り20センチにも及ぶ大型のコンバット・ナイフ。順手に持って刺突の構えを取り、そこで初めて、相手の足音が極端に小さいことに気付いた。
 洗練された、美しい足運び。流れるような所作で移動した相手は、気付いた時にはすぐ近くにいた。
「クッ……!」
 呻き、突く。正面から飛び込んできた相手は、瞬時に身を屈めると、左手側に潜り込んだ。一歩下がって間合いを測り、そこで先程の『壁』が消えていることを知る。
 ハッ、と息を吐いて、再びナイフを抉り込む。するりと入り込んだ、はずの刀身は、空を切る。腕を掴まれる。手首を捻り上げられると同時に親指が潰された。激痛に思考が空白になり、視界が戻った時には敵の右手にコンバット・ナイフが奪われていた。
 左手をポケットに突っ込んだ。小さな柄を掴んで、引き出そうとする。その瞬間に軸足が蹴られ、同時に額を押さえ込まれた。無理矢理に仰け反らされた首ががら空きになり、逆手に構えられたナイフが喉に滑り込むさまを瞼に焼き付けた。
 あとは何も、見れなかった。


 横向きで押し込んだ刃、その隙間から鮮血が噴出したのを見た。頚動脈が切れたのだろう、鮮やかな紅が一瞬で男を染めて、そのまま仰向けに倒れ伏す。
 ビク、ビククッ、と痙攣したそいつの身体が動かなくなり、瞳の奥がギョロリと濁る。その姿を眺めた後で、聖杜は以上にクリアーな頭の中をリセットした。
 フッ、と全身の力を抜いて溜息を吐き、中東系の男の死体を一瞥してから、後ろを振り向いて歩き出した。
 空虚な気持ちだ。今は何も感じない。倦怠感に支配されながら、聖杜はヨロヨロと歩を進める。
(重成……)
 親友の死を目前にした。急速に衰えていく生命機能を肌で感じ取った。そして、彼の家族は悲惨な姿で地を転がり、飛沫した血液が濃密な死を訴えかけてきたのだ。
 地獄絵図を、見た。
 ほんのついさっきまで、バカな話をして、いつものように帰路についていたのに。信じられないようなことが起きてしまった。そして、取り返しのつかない恐ろしい事態を体感してしまった。
「ちくしょう……、チクショウぉ――、!」
 涙に声が嗄れた。視界が霞み、頭の奥が訳も分からないほど熱くなる。人の死を多く知ってきた聖杜にとって、誰かがいなくなる事は、実感を伴った現実になってしまう。
 聖杜は嗚咽しながら、トボトボと重成のところへ向かった。
 ――ダ、レ、カ
「…………、っ」
 何かが、聴こえた。ハッとして顔を挙げ、呆然と立ち尽くす。
 ――助けて……恐いよ、誰かぁ
 聴こえたのではない。頭の中に、直接、響いている。その事に気付いた瞬間、聖杜は全速力で走り出していた。
 ――恐い、恐いよ、助けてよ……
 切実な声に急かされながらも、聖杜は、淡い希望に胸を震わせていたのだ。
「杏子、……杏子だ――! いま、行くからな!」



 恐くて、狭くて、暗い場所。
 鈴木 杏子は、クローゼットの中で、ガタガタブルブルと震えていた。
 膝を抱えて、その中に顔を埋めて、ひたすら恐れていたのだ。


 始めは、何が何だか分からなかった。いつものように居間にいて、お父さんとお婆ちゃんがテレビを見てて、お母さんが夕飯の支度をしようとしていた。
 私が席を立って自分の部屋に行こうとすると、お婆ちゃんも上に行くと言って、一緒に階段まで向かった。すると玄関でチャイムが鳴って、お母さんが迎えようと廊下に出てきたのだ。それを横目に上に向かおうとしたところで、お母さんの物凄い悲鳴が聞こえてきた。
 キャー! って声が耳を劈いて、私とお婆ちゃんがそっちに顔を向けて、お父さんが廊下に出てくると、玄関には知らない外国人の男の人が立ってた。その人が光るものを持ってて、お母さんの手から血が出てるのを見て、自分の目を疑った。
 玄関の男の人がもう一度、動いたときに、お婆ちゃんが私を押して二階に上がった。その直前に、お母さんが何か刃物で斬り付けられるところが見えて、お父さんの怒鳴り声が聞こえた。
 なにがなんだか分からないまま、私はお婆ちゃんに押されて階段を上り、手近なお父さんたちの部屋に入って、クローゼットに押し込まれた。
 お婆ちゃんは階下の喧騒に顔を強張らせながら、精一杯の優しい声で、私に話しかけてきた。
『いいかい、ここで、ジッ……、と動かないで、大人しくしてるんだよ』
 私は何も考えられない頭を必死に働かせようとしながら、夢中でブンブンと頷いた。
『大丈夫だよ。杏子はお婆ちゃんが守ってあげるからね、心配しないで。だから少しの間だけ、ここでジッと隠れてるんだよ』
 青褪めた顔で、それでも優しい笑顔を浮かべて、お婆ちゃんが語りかけてくる。それに茫然と頷くと、お婆ちゃんはもう一度だけ微笑んで、クローゼットのドアを閉めた。
 ドタバタと騒がしい音がして、そのすぐ後にお父さんの悲鳴が上がって、お婆ちゃんの悲鳴も聞こえてきた。
 恐かった。
 恐くて恐くて、怖ろしかった。
 ガチガチと歯が鳴って身体が震えて、どうしようもなく不安なまま、暗いクローゼットの中に閉じ込められていた。下から音がしなくなって、私は膝に顔を押し付けてギュッと目を閉じた。
 涙が顔を濡らして、喉が引っ掛かってしゃくり上げるのを、必死に堪えて、押し潰されそうなくらい恐いのを我慢していた。
 すると玄関が開く音がして、男の人が出て行く気配がして、誰もいなくなったのが分かった。
 家の中に、誰もいなくなったのが、分かった。
 今度はどうしようもないくらいに寂しくなった。切なくなった。そして、恐かった。不安で不安で、一人だって知っちゃって、ボロボロ涙が止まらなくなって、必死に膝を掻き抱いた。
 恐いよ、寂しいよ、誰か助けて、て何度も願った。イヤだよ、嫌だよぉ、助けてよ、って必死に思った。お母さん、お父さん、お婆ちゃん、お兄ちゃん、助けてって、ずっとずっと、泣いてた。
 もうどれくらいそうしていたかも分からなくなった、その時に――


 杏子は、涙でグシャグシャになった顔を、上げた。
 クローゼットは開いていた。そしてその先に、柔らかな笑顔があったのだ。
 中村 聖杜の、穏やかな微笑み。杏子は胸が詰まり、また涙が溢れてくるのを感じた。
「うえ、ぇ……」
 嗚咽が漏れる、その瞬間に、抱き締められる。聖杜の胸に顔を埋める。彼の胸を掻き抱く。力いっぱいに、押し付ける。
 今、最も会いたかった人。それが目の前にいる。全身でその存在を感じられる。杏子の不安が彼に吸収されていっている。
「え、うぇぇ……、あうぅぁあ……!」
 しゃくり上げながら、嗚咽しながら、少女は泣き始めた。少年の温かさに包まれながら、杏子は寂しさを忘れるため、恐ろしさを忘れるために、泣き続けた。
 少女の頭を抱える腕が、優しく撫でられる。静かに背中を擦られる。あやすように、落ち着けるように、彼は優しさを注いでくれた。
「大丈夫だよ」
 静かな声が鼓膜に響く。
「もう、大丈夫だよ。杏子。安心して。もう恐くない。寂しくもないよ。もう大丈夫だよ」
 いま、彼女が最も必要としている言葉だった。聖杜の声はどこまでも優しく、そして温かい。その温もりを浴びながら、杏子はいつまでも、泣き続けた。



 広くはない灰色の部屋。目の前の机の上をジッ、と見つめたまま、聖杜は黙って座っている。
 簡素な椅子は硬い。ずっと座ったまま視線を逸らさず、静かに呼気だけが彼の胸を上下動させる。何も言わず、何もしない。虚ろな瞳で、灰色の壁に反射した白色灯の光に照らされ続ける。
 ずっとここにいる。苛立った男の乱暴な声を耳にしながら。叩きつけられる掌が机と空気を振動させて。よれた背広が視界の隅を往復するのを感知せずに。ただただ呆然と俯くだけ。
 身体がまるで凍ったように。軋んだ心を押さえつけて。聖杜はじっと、何もしない。
 彼にはそれしか、思いつかなかった。


「お手上げだな」
 溜息混じりに呟いた言葉。大橋は同僚の田島にタバコを渡して、再び視線をガラスの向こうへと移動させた。
 そこにいるのは一人の少年。学生証には一年とあった。誕生日は一月だったから、まだ15歳。子供だ。
 マジックミラーで、少年からはこちらが見えない。だがそんな必要は無いように思えた。彼がこちらに視線を移したことなどないのだ。取調室の中に入れられてから、ずっと机の一点を凝視している。
 年端も行かぬ、幼さを残した少年。それが、昨日の夕刻に起きた一家惨殺事件の容疑者とは、今の姿からは想像もつかない。末の娘以外、四人の家族が殺された。離れたところでもう一人、外国籍の男が発見されたが、犯人はこいつで間違いないだろう。
 問題は、その男がすでに死んでいたことだ。しかも自殺ではない。何の躊躇もなく一突きで喉を突き破られた姿は、どう考えても手練の行いである。
 府に落ちない。
 大橋はタバコに口をつけ、吸った。フィルターを通して煙が入り込み、肺からゆっくりと紫煙を吐き出す。血中にニコチンが満ちるのを感じながらも、それでも考えはまとまらなかった。
「どう思う?」
 田島が聞いてきた。これで何回目だろう、この質問は。お互いにそればかりを口に出している気さえする。
「どう、て?」
「あんなガキが、大柄の男を本当に殺したのか、だ。それに一家の殺害容疑までかかってるなんて、信じられない」
「今更、なにを難癖つけてんだよ。鑑識の仕事が雑だったってか?」
「そんな風に疑っちまうよ。今のあいつを見てたらな」
 まぁ、そうだな。大橋は心の中で田島に同意する。警視庁捜査一課に配属されてから十年以上。地方警察の殺人課勤務も合わせて二十年を超える刑事キャリアの中でも、最も悲惨な現場だった。それは、目の前の小さな少年とはどうやっても重ならない出来事に思えてならないのだ。
 だが――
「考えたってどうしようもない。男の喉に刺さっていたナイフから、中村 聖杜の指紋が検出された。それに鈴木家に上がりこんだのだって、現場を汚染したことになる。そのせいで血痕に足跡、至る所に指紋や髪の毛をばら撒いた。両方の犯人と疑われても仕方がない」
「しかし……生き残りの少女を助けたのは事実だ。それに、犯人なら自ら通報したりはしないだろう」
「何があろうと、あいつは訴追されるだろうな。まずは捜査妨害、次に殺人だ。少女を発見したのは偶然か、もしくは知っていたかだ。現場に入って証拠を汚染する為だったとも考えられる」
 言っていて、大橋本人は自分自身に矛盾を感じていた。田島と同じ気持ちなのだ。こんな少年が、あんな大それたことができるものか、と。
「動機がない」
 田島は違和感を隠そうとはない。そういう真っ直ぐなところは、彼にとって長所であり、短所だ。
「弁護士は?」
 大橋は話を逸らした。
「……容疑者の両親が旅行中だそうだ。保護者と連絡がとれず、弁護士を勝手に決めて良いかどうかで揉めてるよ」
「連絡がつかないのか?」
「どうなってんだかな。まぁ、家族は来てるよ。義理の妹だって娘が、ロビーで待ってる」
「そうか……」
 大橋はちらりと腕時計に目を落とした。もうすぐ夜が明ける時間だ。
 聖杜の義妹、由梨花は確か、午後十一時にこちらに来たはず。それから四半日近く待っているというのか。
「兄妹そろって、意地は強いらしいな」
 大橋は再び、視線を上向けた。そこには未だ俯いたまま、水にすら手をつけない少年の姿。
 もう一度、行くか。大橋は田島と目を合わせ、取調べ再開のためにドアノブに手をかける。
 カチャ。
「!」
 開いたのは別のドアだった。
 そこから顔を出したのは、捜査一課長の平岡であった。彼は見張りの警官に返礼すると、大橋の前に来てこう言い放った。
「釈放だ。中村 聖杜を容疑者から外せ」
「えっ?」
 それは意外な言葉だった。事件の幕引きのために聖杜への容疑を固めに動くだろうと思っていたのだ。それが官僚的なやり方のはずである。
「聖杜の容疑は晴れた。一家惨殺の犯人はアルゼンチン国籍のホセ・アントニオ・マルチネス。聖杜は鈴木 重成と下校していた。アリバイはある。ホセは死亡、書類送検に回す」
「奴の死因はどうするつもりだ?」
「正当防衛だ。現場の汚染も、鈴木 杏子の救出を目的としたものだ」
「疑問は片付いていない。正当防衛にしては現場と離れすぎている。それに杏子を助けたというが、なぜ分かったのか」
「それについては答えられない。……あー、今から独り言を言う。他言はするな、とくにマスコミには流すなよ」
 念を押すような言葉。大橋は平岡のヒゲ面を見つめ、静かに頷いた。
「大使館から使者が来た。なんらかの圧力があったらしく、上は直後に今回の釈放を決めたんだ。もう俺の力ではどうにもできん」
「大使館? アルゼンチンか?」
「……いや、アメリカだよ」
 愕然とした。大橋だけではない、その場にいた全員が、だ。
(アメリカだと? あいつはあの国と、どんな関係があるというのだ? 一体、どんな秘密が隠されている?)
 混乱に満ちたまま、次々と浮かび上がる疑問に言葉が閊える。そんな様子を察したのだろう、平岡が先に口を開いた。
「詳しいことは俺にも分からん。聖杜の経歴を調べたが、何も出てこなかった。ただアメリカ政府からの圧力があった、としか言えんのだ」
 平岡も首を横に振るだけ。
 それで納得しろ、ということだ。
 大橋は口を噤んだ。田島も黙っている。その様子を確認した後、少しだけ沈黙が降りて、彼は観念したかのように呟いた。
「……釈放しろ」


 ロビーの中に金属音が響き渡る。ドアが開いたのだ。次に甲高い靴音が聞こえてきた時には、由梨花はパッ、と顔を上げて、音の先へと視線を向けていた。
 もう何度目になるかわからない確認作業。不安だらけのちっぽけな身体は、その重圧に押し潰されそうだ。さっきまでカタカタと震えていた肩を竦ませながら、広いロビーに一人だけ居る寂しさに耐えていた彼女は、立ち上がって様子を窺う。
 そして次の瞬間には、喜びに顔を綻ばせ、求めていた少年へと駆け寄っていた。
「お兄ちゃん!」
 フラフラと、おぼつかない足取りで近づいてきた小柄な少年。彼が憔悴しきった顔を上げた時には、由梨花の身体は直前で止まっていた。
「ゆり……」
 聖杜の唇が動いた。少しクシャ、となって、すぐにそれを隠すように表情を戻す。その後で倒れこむようにして、聖杜の腕は由梨花を包み込んでいた。
「お兄ちゃん……?」
 聖杜は、震えていた。
「ごめんな。ごめんな、由梨花……」
「お兄ちゃん……」
 ギュッ、と。首に回った聖杜の腕に、力が篭る。
「ごめんな、ごめんな、由梨花……」
 彼はただ、そう呟いて、震えていた。押し付けられた胸から聞こえる鼓動は、トントントン、と速いペースで鳴っている。
 由梨花は聖杜の背中から手を廻して、彼の頭に置いた。落ち着かせるように撫でて、抱くように力を込めて。
 彼の様子に、涙が零れてきてしまう。それでも構わない。由梨花はゆっくりと聖杜を撫でる。
「いいの。大丈夫だよ、お兄ちゃん。なにも怒ってない、なにも心配しなくて良い。私はここに居るんだから――」
 二人の慟哭は静かに響く。まだまだ続く嗚咽を、ゆっくりと、確実に落ち着けよう。
 由梨花は聖杜の震える背中に、静かに愛情を込めていった。



 公式発表では、犯人であるホセ・アントニオ・マルチネスは自殺として報告された。聖杜は、「偶然、事件現場に居合わせてしまった、被害者の友人」としか紹介されず、取調べについては何も触れられはしなかった。それが圧力とやらの影響と関係があるのかどうかは分からないが、世間一般はそんなことを何も知らずに、平日に起きた外国人により猟奇的な殺人事件をセンセーショナルに騒ぎ立てるだけだ。
 鈴木家のある住宅街は混乱し、青木島高校は生徒の殺害に深い衝撃が走った。重成の死は校内に暗い影を落とし、彼の両親の職場でも冥福を祈る黙祷が捧げられた。祖母の所属して居た老人会も慟哭に包まれ、愛された一家は大きな悲しみの一報を関係者に知らせることになる。
 マス・メディアは外国人犯罪の増加を嘆き、悲劇の舞台となった家族に同情を送る。その中で最も注目を集めたのは、たった一人の生き残り、まだ中学生の女の子のことだ。彼女の動向に逐一反応し、その悲哀に満ちた姿を格好の材料とする彼らには、まるで品格と言うものが欠けていたであろう。
 多数の報道陣に囲まれる中で、現場となった家は清掃され、検死解剖の済んだ遺体が綺麗に布団の上に寝かされる。四人の一家の通夜がしめやかに行われ、彼らの親族は表の注目に辟易としていたのだ。


 居間に静かに横たわる四つの遺体。その前で膝を抱えながら、杏子は、ジッと彼らを見つめている。
 杏子の後ろには、親類縁者がテーブルを囲み、一様に顔を曇らせているのだ。それは疲労ではなく苛立ちである。ピリピリした空気に耐えられなくなって、少女は家族の傍へとやってきていた。
 弔問客も一段落した時分である。タバコの煙が家中を満たしているような錯覚さえ覚える、いやな空気。普段は人当たりのよかったオジサンもオバサンも、皆が不機嫌そうな態度で、今まででは考えられなかったような言葉を吐き出していた。
『こんな大変な時期に死んじゃうなんて、信じられないわね』
『俺は出張を蹴ってまで来たんだ。まとまりそうだった商談を広瀬の奴に奪われた。これで昇進できなかったら、母さんたちのせいだ』
『せめて一人ずつ死んでくれれば良いのに、四人も一気になんて。苦労も重なるわ』
『それを言うなら全員死んでくれればよかった、よ。どうするのよあの子。私はこれ以上、面倒見切れませんからね』
『なに言ってんのよ、姉さんが預からなきゃどうすんのよ。長男の家が育てるべきでしょう』
『そうそ。どうせ義兄さんは三人もいるんだ、一人増えても変わらないだろ』
『冗談じゃない! ウチは切迫してヒイヒイ言ってんだ。おい、靖宏。お前は事業を起こしたらしいじゃないか、余裕があるだろ』
『おい! なんで俺に振るんだよ! ようやく独立したんだ、そんな時期にガキなんて構ってられないよ!』
『高志、お前は株で儲けたって喜んでたじゃないか。杏子を預かっても良いだろう』
『ふざけんな! こないだようやく縁談がまとまったんだぞ、子持ちになったら御破算だぜ』
『もう、ケンカしないでよ。本人が聞いてるかもしれないじゃない』
『へぇ。そう言うんならお前が育てるか?』
『ちょっ、それとこれとは話が別でしょ! 最初から義兄さんが預かれば済む話じゃない! どうせ遺産配分は一番多いんだからさ!』
『おい、それはどういう意味だよ! お前らだって婆さんの貯金目当てでここに来たんだろ!』
『なんですって!』
『ちょっと、どういう意味だよ!』
『自分と一緒にすんなよ!』
『全く、冗談じゃないわよ。なんでこんなことで言い争わなきゃいけないわけ!』
 杏子は、ギュッ、と足を抱えた。一体、この言葉が出るのは何度目だろう。目を瞑って、膝に頭を押し付けて、必死に震えを抑えようとする。それでも聴こえてきてしまう言葉に、杏子はどうしようもない虚無感を覚える。
『なんであの子だけが生き残ったのよ』
 全員の溜息が聞こえて、杏子はもう我慢ができなかった。溢れ出す涙を止められない。スカートの生地にじわりと染み込み、紺の色がわずかに滲む。
「うぅ……!」
 嗚咽が口をついて出た。それに気付いてさらに強く膝を抱き込む。絶望にも似た悲しみが全身に広がるのを止められない。
(私は邪魔なんだ。私なんて邪魔なんだ。私がいるから、生き残っちゃったから、みんなケンカしてるんだ。私が嫌いだから、みんな怒鳴りあってるんだ)
 涙はもう、収まらなかった。ガタガタと肩を震わせ、背中を丸めて膝に顔を押し付けて、杏子は必死に声を抑えながら、泣いていた。
(私がいるからダメなんだ。私はいちゃいけない人間なんだ。私は死ななきゃいけない人間だったんだ!)
 ぎゅっ、と自分を抱え込んで。涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら。杏子は必死になって自分自身を呪っていた。
(なんで? なんで私、死ななかったの? ねぇ、お婆ちゃん、お母さん、お父さん、お兄ちゃん。なんで私は死なないで、ここで生きてしまっているの? 辛いよ、恐いよ、悲しいよ。ヤダよ、もう生きたくないよ……助けてよぉ)
 助けて――
 そう、
 助けて
(助けてよ、誰か――。聖杜くん……)
 あの時のように――
 聖杜の柔らかい笑みを求めながら、杏子はまた、泣いていた。


 夜の10時を回ったころ。聖杜はようやく、現場となった鈴木家へと足を向けていた。
 こんな遅い時間に忍びない、という気持ちはもちろん、ある。しかし、どうしても早い時間に行くことはできなかった。
 決心がつかなかったのだ。思い出してしまうのである、あの惨状を。喉に刃物を突き立てられた重成の顔と、家中に巻き散らかされた黒ずんだ血液が。
 四つの死体が、知っている人がゴロリと転がっている様が、どうしても浮かんできてしまって、聖杜の心が拒否し続けたのだ。
 それでも、ようやく腰を上げることができたのは、やはり親友に対する義理であろう。最期を看取った者としての責任感であり、また彼らの死を信じられない気持ちに決着をつけるためでもある。
 隣に由梨花がついて来てくれているのは、余計にありがたかった。一人では足が竦んでしまいそうなのだ。その弱い心を支えてくれる彼女がいなければ、今頃はすでに引き返していただろう。
 二人は言葉を交わさぬまま、正門前に張り込むようにしていたテレビ局のスタッフたちを押し退けて、玄関まで歩を進めた。
 その時、一度だけ由梨花の顔を振り返る。少女は静かに頷いてくれた。聖杜は震える指先を制しながら、チャイムを押し込もうとする。
「?」
 ふと、気がついた。
 表のリポーターたちが一瞬だけ静まり返った時に、その声は聞こえたのだ。怒鳴り声。言い争いをする複数人の声である。
「なんだろう?」
 気になった。由梨花が不思議そうに首を傾げるが、その手を引っ張って左へと歩き、聖杜は庭へとやってきた。
 そこには茶の間があった。
 喪服を着た十数人が、真っ赤に興奮して怒鳴りあっている。多分、親戚なのだろう。その人たちが我を忘れて言い争っている姿に違和感を覚えた。が、その会話内容を理解した時に、違和感は大いなる疑問に変わったのだ。
「おい! 俺たちに押し付けようとするな!」
「なんだよ! いいじゃねぇか、子供一人を育てるだけだ!」
「そうよ! それに義兄さん、いつも杏子のこと可愛がってたじゃない!」
「それを言うならお前らだってそうだろ! 大体、自分で預かるとなると話は別じゃねぇか!」
 杏子のこと――!?
 聖杜は頭を殴られたような衝撃を覚えた。足元がグラついて、眉を顰め、踏ん張るようにしてようやくバランスを維持する。
 それでも頭が痛くなり、思わず掌で押さえてしまう。信じられない気分だった。少女一人を預かるのに、ここまでいがみ合うなんてことに。
「非道い……!」
 隣で由梨花が唇を噛んだ。彼女の表情には、明らかな怒りが浮かんでいる。
 半ば呆然として、聖杜は視線を巡らせた。すると、茶の間の隣で、膝を抱えて小さくなった杏子を見つけた。
 彼女は膝に頭を押し付けていた。全身が震えているのを見て、聖杜は頭に血が上るのを抑えられなくなった。
「すいません!」
 足を一歩、踏み出して。聖杜はどなるように声を出す。
 その唐突な行為に、その場の全員が一斉に聖杜を見た。驚きの表情で、一瞬の静寂が流れたのを了解し、次の言葉を吐き出す。
「杏子を、俺に預からせてください」
 突然のことに全員が呆然としていた。お兄ちゃん!? と由梨花が袖を引っ張るが、それを振り払う。えっ? という疑問に満ちた、全ての視線を受けながら、聖杜はもう一度、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「杏子を、俺の家で、育てさせてください」
「き、キミは?」
 最も縁側に近い、初老の男性がそう聞いてきた。
「あ、俺は……」
「私たちは、重成くんと中学生時代にクラスメートだった者です」
 由梨花がスッ、と前に出る。
「私は中村 由梨花。こちらが義兄の聖杜です」
 由梨花は、すでに同様を抑えていた。凛、とした声で、視線を真っ直ぐに伸ばし、大人たちの目を受け止めている。
 その姿は美しい強さに満ちていた。
「中村、聖杜? じゃあキミが第一発見者の?」 
「はい、重成の親友です」
「いや、しかしだね、きみ……。えっと、見ず知らずのキミが預かるといっても」
 しどろもどろで、最年長と思われる男性が何かを言おうとする。が、その横をすり抜ける様にして、影が聖杜に近づいてきた。
「聖杜くん!」
 杏子の、涙に掠れた声が響く。次の瞬間には、少女の体は聖杜の胸にぶつかり、抱きついていた。
 聖杜のブレザーに涙の跡が染み込んだ。
 そっ、と抱き締めてやる。震える背中を撫でて、その後で顔を上げ、
「お願いします。この子の面倒は、ウチで見させてください」
 頭を下げた。ポカーンとした様子の大人たちに、最大の誠意を込めて。
「私からも、お願いします。両親には話をつけますから」
 由梨花もそろって頭を下げてくれる。その場に満ちた戸惑いがさらに広がるのを感じながら、二人は頭を下げ続けた。
 困惑と好奇の視線に曝されながら、これが重成にできる、友人としての最大の行為だろう、と確信しながら。
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