第四章 0 やれやれ。 その場の空気を満たしているのは、そんな溜息交じりの倦怠感であった。 『……です。また今回の事件の容疑者であるマルチネス被告は、過去にコロンビアの反政府組織に属していたという情報もあり、国際指名手配されていた同容疑者が日本に入国できたことに対して、外務省の入国管理体制が見直されることになりそうです』 テレビ画面から流れてくる情報に、その場にいる全員が失笑しているのだ。 「まさか失敗するだなんて思わなかったな」 ソファーに深く身を預け、マルコが見下すように画面をアゴでさす。面長の頭が少し揺れ、長めの髪の毛が首筋に触れていた。ラテン系特有の彫りの深い顔立ちに納められた端整な各パーツは、どこか楽しげに笑みを浮かべている。しかしその中身は嘲弄なのだ、と誰もが理解していた。 「所詮はゴロツキだったってことだ。俺たちプロに任せればこんな事にはならなかっただろうな」 シンプリシオがそう言うと、彼の連れが何人か、忍び笑いを漏らした。それは自信の表れなのだろうが、少々ばかり下品だっただろう。 「家族四人を殺したんだっけか? 娘一人を攫うだけでよかったのにな」 カタン、と椅子に腰掛けたサンチェスの確認の声。仲間だった者への同情は無い。あるのは心底から見下したような響きだけ。 つい先日から合流したばかりだというのに、この連中は溶け込みすぎているような気がする。同じ匂いを持つ男たちの集団が、怠惰な空気を発しながら、互いに探り合っている状況。異質なものだ。 皆が同じ画面を見つめながら、似たような表情をしているのは奇妙だった。ホセ・マルチネスの失敗を蔑視しながら、心底からそれを楽しむ下卑た習性。室内に漂う少しだけの緊張感に安心しているような素振りも気に食わない。 『外相は今回の事件を受けアルゼンチン大使を召還し、事件の完全な解決と再発防止を要請したということです。なお本日、殺害された四人の告別式が行われ……』 画面が切り替わって、現場のリポーターが顔を出す。何事かを捲くし立てるその後ろに、チラリと喪服を纏った少女が見えた。小柄で短い髪の女の子が、俯きながらマイクロバスへと向かっている。焦点が合っていない背景の映像では確認しづらいが、彼女の可愛らしい顔は曇っているように見えた。寂しそうな姿だな、と思う。 可哀想に、という感想だ。だがそれ以上は考えてはいけないだろう。ターゲットであるこの娘に同情することはできない。 「あんたはどう思う?」 マルコの声に、フッと視線を外す。真正面を向くと、彼の視線とぶつかった。 「あんただよ、ベント」 ライアン・ウィルソンは、それが自分への質問だと気付いて、少しだけ考えを巡らせた。 「ホセのことか? ……余り死人を悪く言うのは好かんな」 「悪口を考えてたって事だろ。本人は地獄にいるんだ、言っちまえよ」 「なぜ四人を殺したのか、それだけは本人に聞いてみたい」 「へっ、つまんね。そんなのぁあいつの趣味だろ」 マルコは興味を失したようだ。大袈裟に視線を外して天を仰ぐと、周りの男たちの苦笑が響いた。 「じゃあ自殺もあいつの趣味なのか?」 ふざけたように訛りの強い英語が飛んだ。サンチェスの取り巻きの一人だ。 「ハッ、大方、任務失敗で下げる面がなかったんだろ。ま、あのまま帰ってきても俺らがぶっ殺してただろうがな」 「お前らホントにそう思ってんのか」 呆れたようにマルコが首を振ると、は? と言うようにその場の空気が固まる。その様子では、本当に自殺を信じ込んでいたのだな、とライアンも溜息を吐いていた。 「ありゃ殺しだよ。ホセは失敗したから自分で死ぬような殊勝な奴じゃねぇ。それにあんな離れたところで死んでたってんだ、誰かがホセを刺したんだろうぜ」 「な、……誰がそんな? あれでも一端の殺し屋だぜ?」 「知らねぇよ。んなことまで分かるか、俺が」 投げやりに答えるマルコだが、そんな彼に反して、部屋の雰囲気は固まっていた。先程までの倦怠感ではなく、明らかに緊張感が充満している。 その様子を見てライアンは口を開いた。 「何者かは分からんが、ホセを殺せるだけの力量を持った人間が邪魔をしたと考えるのが妥当だろうな」 「そんな事があるのかよ? ここは日本だぞ?」 「日本人でも優秀な傭兵や殺し屋だっているさ。それにお前が言ったとおり、ホセは一端の殺し屋だった。偶然で殺されるとは思えん」 彼の言葉が終わると、ゴクリと生唾を飲む音がそこかしこで聞こえた。唖然としている男たちに呆れながらも、これくらいの緊張感があるほうが良いな、とも思っていた。 そんな沈黙を破るように、階段の方から怒鳴り声が聞こえてくる。 「チェーザレ、ウィルソン! シェーファーが呼んでるぞ!」 ライアンは一つ頷き、立ち上がる。その後でマルコに、行くぞ、と促した。面倒くさそうに動き出す彼と共に部屋を出ると、残った男たちは未だに言葉を発せずに考え込んでいるようだった。 再び沈黙の降りた室内で、他の話題に変わったテレビが、能天気なニュースを流しているのが印象に残った。 1 プシュー。 ガタ、ン。 車体が小さく揺れて、ゆっくりと静止する。プラット・ホームに特急電車が収まって、一瞬の沈黙の後に、スッとドアが開いた。そうしたら、先程までゆったり寛いでいた人々が、今度は我先にと急ぐように車内から降り始めるのだ。まるで突進するかのような勢いで出て行く人をやり過ごすようにして、聖杜たちは一番最後に駅へと降り立った。 「大丈夫?」 自分たちが降りたその瞬間に、今度は我先にと車内へ入り込んでいく乗客に少しだけ気圧されながら、由梨花が聖杜に聞いてくる。ただその質問の趣旨が分からずに、聖杜は、え? と聞き返していた。 「荷物。重くない?」 「ああ、大丈夫。平気だよ。むしろ軽いくらいだ」 笑って、聖杜は、よっ、と身体を揺らした。その背中には、安らかな寝息を立てる杏子の姿があるのだ。電車での移動中に寝入ってしまった杏子は、結局、駅に到着しても起きなかったのである。 聖杜は杏子の荷物も手に持っているので、両手がいっぱいの状態だった。そのせいで体勢がずれて、頻繁に身体を揺する様にして杏子を抱え直している。その様子を見て由梨花が、大丈夫かと尋ねたのだ。 そっか、と由梨花は一つ、頷いた。その後で杏子の可愛らしい寝顔に笑みを浮かべて、そっ、と撫でてあげる。 「よく寝てるね」 んぅ、と杏子が身じろぎした。 「疲れてるんだよ。……色々あったんだから、ね」 聖杜は言ってから、そうだよな、と改めて気付かされた。この小さな身体は、押し潰されそうな多忙の中で、一人で苦渋に耐えてきたのだ。それを考えると心が痛む。 「行こう。まだ少し時間あるけど、早めに席とっとかないと」 気を取り直したように前を向いて、聖杜は階段へと歩を進めた。うん、と由梨花が頷いたのを感じながら。 ふと周りを見回すと、何本もホームがある広大な駅の姿に気付いて、少し不思議な感じがした。 重成たち杏子の家族が殺されてしまってから、もう一週間近くの時間が経過していた。 その期間、杏子は本当に頑張ったのだ。一人きりの寂しさに耐えながら、四人の御通夜や葬式に出席し、その度に世間の容赦ない視線へとその身を曝してきたのだ。好奇と同情がマスコミを通して日本中へと配信され、悲劇はまるでエンターテイメントのように人々を熱狂させ、興奮は鋭い矢のように杏子の姿に集中した。小さな少女は、絶望のような悲哀の中で、多くの一般人が持つ狂気のような力に心を引き裂かれてきたのだ。 マス・メディアの仕事は徹底していた。日がな一日、家の前を取り囲み、その周囲の家々をも巻き込んでいく。それどころか子供の通っていた学校、親の勤め先の企業、良く行く店の店員や友人関係まで、何も漏らすまいとプライバシーを食い荒らし、また本人の哀愁を映しながらも、スキャンダル性を追い求めて嗅ぎ回り続ける。近しい人の死を悲しむ者たちにも容赦なくマイクを向ける姿は、さながらハイエナを思い起こさせるものであった。 そこに、個人的人権などという概念は、存在しない。 あるのはただ、自分勝手な正義感と、好奇心と言う名の本性だけである。 彼らは常に大勢になる。そうなると、配慮という言葉自体が、無くなってしまうのだ。エキサイトした干渉は、傷付いた人間を一蹴するほどの破壊力を持つ。 杏子は、その小さな身体で、幼い心で、熱狂した暴力に耐え続けた。 目の前にある四つの遺体が火葬され、もはや元の姿さえ亡くなってしまった家族を見て、それでも少女は耐え続けたのだ。 家族の死と、それに群がる世間の態度。二つの呪縛に挟まれながら、杏子は現実に目を背けることなく、埋葬までを全て見届けた。 それは、とても凄いことなのだ。 事件の翌日に杏子に対して暴言を吐いていた親族たちも、負い目は感じているらしい。 彼らは一度、冷静になった時には、とても堅実に全ての過程を遂行してくれた。それに自分たちが酷い事を口にしたことも分かっていたのだろう、彼らは別々にではあるが、杏子に対しての謝罪もしてはいるのだ。 だが、やはり積極的に杏子を引き取ろうという者は、いなかった。結局、彼らは聖杜たちの説得に応じて、杏子を中村家に預けることにしたのだ。 聖杜は両親にその事を伝えた。電話越しになってしまったのは残念だったが、正孝は話を聞き終えるとすぐにこう言ってくれた。 『お前の思ったとおりにすればいい』 お前は正しいんだ、と言われた気がして、聖杜は凄く嬉しかったのだ。 役所への申請やら手続きやらは、いつの間にか完了していた。外国にいるはずの両親がどのようにしてそれらを済ませたのかは判らないが、聖杜は本当に、頭の下がる思いだったのだ。 その後は、遺品の片付けや土地の権利の譲渡、杏子の引越しなど、様々なことをせねばならなかった。休む暇も無いほど忙しかったのである。色々とあって疲れただろうに、それでも杏子は弱音を吐かなかった。 聖杜たちは、学校側に事情を説明して、休みを取ることにした。杏子の疲れを取ってあげたかったし、家族を失った悲しみを紛らす手助けになれば、とも思ったのだ。それに、これから新しい家族となるのだから、しばらく一緒に過ごしても良いだろうと考えたのである。 その為には、田舎の祖父を訪ねるのが一番だった。家族として、宗家の祖父に紹介することも重要だし、それに地元から離れた場所の方が落ち着くだろう。そう思って、電車でここまで来たのである。 特急で二時間ほど揺られたら、山に囲まれた中部地方の都市に出る。大きな駅からさらに電車を乗り継いで二駅ほど外縁に行った新興住宅地に、その家はあるはずだ。 2 田舎、と一口に言っても、そこはもう随分と開発された土地にあった。 流石に人口が減少している地方都市ではあるが、そこの自治体行政はコンパクト・シティ構想を掲げ、駅前や都市周辺への住民の移住を促してきたのである。その場所は活気に溢れ、人々が互いに支えあって暮らしあう、明るい街であった。 聖杜の祖父・寿重(とししげ)は、二年前に伴侶の和子を亡くしてから一人暮らしを続けている。山の中にある広い屋敷で余生を寂しく過ごすのに耐えられなくなって、市の政策に促されて中心部へと移り住んできたのだ。ただし、老人介護システムを備えた最新設備のマンションに入るのだけはプライドが許さないと駄々をこねて、比較的新しい住宅地の家を買うことになったのは、聖杜には些か予想外のことではあった。よもやあの歳になって家を買うとは、と驚いたのである。 その、少しこじんまりとはしているものの、一人暮らしには大きすぎるであろう一軒家を目の前にして。長旅の軽い疲労感を自覚しつつ、聖杜は呼び鈴を押し込んだ。 ピンポーン。 標準的な呼び出し音が小さく聴こえてくる。それから程なくして。 ドタドタドタ。ガチャリ。 なんだか老人には似合わない喧騒と共にドアが開き、そこには生え際が大きく後退した白髪頭の、ひょろりと痩せたお爺さんが姿を現した。寿重その人である。 「あ、やあ祖父ちゃん」 息せき切った感じの寿重に、軽く手を挙げる聖杜。 ニッコリ。老人はヘニャリと相好を崩した。 「おお、おぉ。よく来たのぉ。待っとったんじゃぞえ〜」 だらしない――と言ったら失礼だが、それぐらいクシャリとした笑顔を浮かべて、寿重は聖杜たちに相対する。普段は厳格な頑固ジジイで知られるこの人物も、可愛い孫の前では、ただの翁だ。 「こんにちは、お祖父ちゃん。お久しぶりです」 「こ、こんにちわ……」 由梨花の挨拶に促されるように、杏子がオドオドと頭を下げる。 「おお、そっちの子が、杏子ちゃんかの。ええのぉええのぉ、可愛いのぉ。ささ、早く上がるんじゃ」 思いっきり眼を細めて、もう待ちきれないって感じでソワソワしながら招き入れる寿重。そんな祖父に促されながら、お邪魔しまーす、と一声かけて三人は家の中に上がり込んだ。 普通に玄関から靴を脱いで上がって、寿重に先導されてリビングに入ろうとする。そこで何とはなしに後ろを振り向いて、ポケー、としながら玄関に立っている杏子に気付いた。 「どうしたの?」 杏子に声をかけたのは由梨花だ。スッ、と近づいて顔を覗きんだら、杏子は気付いたように靴を脱いだ。 「は、始めて来たお家だから……」 そう言って、杏子は眼を伏せるように家の中に入る。まだ由梨花に慣れていないのだろう。それを由梨花も分かっているから、視線を外されたことを気にもせずに、少女の背中にそっ、と手を添える。 「そうだね。初めての家って、少し珍しい気分になるもんね」 まだぎこちない感じはある。でもこの様子を見ていると、二人はすぐに姉妹になれるだろう。杏子が少し恥ずかしがりながら目を細めたのを認めて、聖杜はそう思った。 「さ、二人とも。早く入って、皆で一緒にお茶を飲もう」 聖杜はテーブルの上に置いてある急須や茶菓子を認めて、笑いながらそう言った。 その日は、何だか時が少し慌しく進んだような気がした。荷物を置いてからお茶を飲んで、ちょっとまったりしたら夕飯の準備。お祖父ちゃんがはりきってヤケに豪勢な食材を買い込んでいたので、皆で楽しく(たまに大変な事になりながら)料理を作って、四人では多すぎるくらいのご飯をゆっくりと食べた。その後でまた、まったりとお茶を飲んで、お風呂に入って、テレビなんかを見たりして、一日を終えることにしたのだ。 いつもと余り変わらないようなことでも、場所が違うだけで随分と新鮮な気分になる。 ただ、それが杏子にとっていい方向にばかり働いたかは、判断しかねることであった。忙しさの続いた後で、いきなり慣れない環境に放り込んでおいて、リラックスしろと言うのは無理な話である。お茶の時も夕食の席でも、彼女は会話に加わって、ときおり笑顔も見せるほど積極的ではあった。しかしそれが虚勢を張っている状態であることは、見ていれば分かってしまうのだ。疲れたような溜息や、一瞬見せる暗い表情、笑顔にちらつく陰も、所々で気付いてしまう。それでも杏子は、辛い気持ちを見せまいと、精一杯に明るく振舞っている。 これは彼女の強さだ。杏子は今、必死に悲しい気持ちと戦っているのだ。その事を意識してしまって、少しぎこちない雰囲気が自分の中にあるのを、情けなく思ってしまう。 せめて杏子に無理だけはさせたくない。寂しくは無いんだよ、て。それだけは伝えてあげたい。 そう思いながらも、聖杜は何もできない自分に歯痒い気持ちだった。 時刻はすでに深夜の域に達している。聖杜は二階の部屋の一つで、暗がりの中ベットに寝転んでいた。普段は使っていない部屋だから、少し空気が埃っぽい。カーテンから僅かに透ける街灯が、闇に慣れた目と相俟って、自分の部屋とは異なる天井を視認させる。 半ば、寝ることは諦めているのだ。目を閉じても眠気が無い。だから開いたままにしている。 ふうっ、と。知らず知らずのうちに溜息が零れた。 このとき聖杜は、自分の判断が正しかったのかどうか、分からなくなっていたのだ。 (杏子を悲しませたくないって思ったのに……預かっておいて、その杏子に無理をさせてる。本当はそっとして置いてあげるべきだったのかもしれない。他人の俺が出しゃばる事で、皆に迷惑をかけたんじゃないかって、そんなことばかり考えてる) そんな自分に、嫌気がさしているのだ。杏子のためだと言って置きながら、結局は杏子のために何もできていない。 チクショウ、と思う。 (もしかして……俺はあの時、自惚れてたのかな。杏子が泣いてたのを見て、泣かせている人たちを見て、それを軽蔑した。俺なら大丈夫だって、俺が杏子を預かることで重成を安心させてやれるって、――その考え自体が的外れだったのかもしれない) 考えれば考えるほど、良い方向には行かない。結論が全く見えない堂々巡りの思考に、聖杜自身が追い詰められている。 「なぁ、重成。ホントにこれで良かったのかな……」 宙に向かって、ポツリと一言、呟いた。どうやっても答えの聞けない問いに、聖杜は情けなくなって、眉根を寄せる。 思い出してしまう、あの瞬間を。 それは、聖杜自身が、未だに吹っ切れていないことを意味した。 (もしかして……俺はあの時の贖罪がしたかっただけなんじゃ、無いのか?) なるべく避けてきた考えだった。何もできずに親友を失った悲しみを忘れたかったから、あの時の償いに置き換えたかったから、だから杏子を引き取ったんだ、と。そんな自分本意な行動ではなかったか。聖杜がもっとも恐れていた帰結が、これだったのだ。 違う、と思いたい。自分はそんな身勝手な気持ちで杏子の人生を弄んでるんじゃない、そう言い聞かせたい。 でも聖杜には、もうその考えを明確に否定できる自信が無かった。 コロ、と寝返りを打つ。壁の方に視線を向けて、頭を抱えるように身体を丸めた。 もう止めよう、考えるのは。今はただ眠るだけ。それだけを優先するべきなんだ。聖杜はゆっくりと目を閉じた。一番辛いのは杏子なんだ、その結論だけを頭の中に残して。 朝になって、自分が疲れていてはどうしようもない。杏子を安心させるためにも、今は眠って精神を休めるべきなんだ。 聖杜はただただ、それだけを言い聞かせた。だがそれは、自分が考えたくないだけなのだ。 でも、今はそれが、もっとも必要なことなのかもしれない。 由梨花もまた、眠れない自分に苛立っている所だった。 ここは一階の客間、比較的広い畳部屋であった。そこに杏子と二人、布団を並べて寝ているのだ。 杏子はもう、寝てしまっただろうか。時計が針を動かす規則的な音だけが響く室内で、まるで寝ていない自分を隠すかのように息を潜める由梨花は、目を閉じたまま周囲を気にする。 罪悪感、とは違うだろう。とにかく考えていたのは、余所余所しいような感じになってしまう自分の態度のことだった。 由梨花もまた、自分自身に苛立ちを募らせているのだ。杏子に対して、未だに戸惑いがあることを、自覚している。だがその戸惑いの正体が分からない。 何かは分からないが、違和感があるのだ。 杏子の健気さには胸が打たれる。それに、お通夜で泣いていた姿を見て、聖杜に縋るように抱きついた姿を見て、由梨花は決心したのだ。この子を家族に迎え入れよう、その涙を拭ってあげたいんだ、と。それは決して、同情だけではない。 だがいざとなると、どう接すればいいのか分からなくなってしまう。混乱する、という表現がいいのだろうか。距離感が見えなくなって、逡巡してしまう。 断っておくが、杏子のことが嫌いなのではない。まだ良く知らないが、むしろ好きだと言える。嫌いになる要素が無い、と言ってもいい。 きっと、これからお互いを知ることで、もっと好きになっていく。そういう確信はある。でも、そこに行くまでの道のりが、まだ掴めない。そんなもどかしい思いである。 (どうすれば良いのかな、私……) 自己嫌悪にも似た思いが、心の中に広がってくる。小さく息を吐き出して、そっと隣を覗き見た。 ――ウ、……クッ…… (………………!) 杏子はこちらに背中を見せていた。その丸まった背が微かに震え、頭が不規則に揺れているのが分かった。 ――ウウッ……グスッ、スン…… 泣いて、いた。 杏子は由梨花に背を向けて、必死に、何かに耐えるように、涙を拭っているのだ。 その姿はとても小さくて、震える肩は何よりも儚く映る。 (あ、……そうか) 由梨花は理解した。 自分はこの子とどういう関係になるのか、それが分からなかったのだ。立ち位置が分からなくなったから、どう接していいのか、戸惑っていたのだ。 それと同時に、自分が今まで、どれほど独り善がりな悩み事を考えていたのだろう、と思った。 由梨花は、そっ、と布団の中から出た。 「杏子ちゃん」 静かに声をかける。杏子の肩が、びくり、と揺れた。 「一緒に、寝よ」 そうっと杏子の布団の中に入る。そして、そっ、と杏子の身体を抱き締める。 小さな背中を抱き寄せて、静かに、フワフワした髪の毛に頬を寄せた。 「あっ……」 涙混じりの吐息が、杏子の口から空気へと、拡散していく。 キュッ、と背中が密着する。 「辛いよね……。頑張れば頑張るほど、悲しくなっちゃうんだよね」 ゆっくりと、由梨花は少女の頭を撫でてあげる。うあっ、とまた、杏子が嗚咽の声を上げた。 「偉いよ。だって皆のことを、あんなに気遣ってるんだもん。辛くても、悲しくても、苦しくても、全部を自分で抑え込んでたんだもん。杏子ちゃんは凄く偉い」 「お、おねぇ、ちゃん……?」 グスッ、と啜り上げる音がする。杏子の涙は、まだ止まらない。 由梨花は、自分の心に温かいものが広がっていくのを感じた。慈しみが溢れてくる。 「大丈夫だよ。杏子ちゃん、今は恐いけど、苦しいけど、でも寂しくは無いからね。私たちが一緒にいるもの。だから、大丈夫だよ」 ふる、と杏子の身体が大きく震えた。ふえ……、と呟いて、ギュッ、と縮こまる。 「ふ、、うわーん!」 杏子の体が反転した。顔を由梨花の胸に押し付けて、背中に手を廻してギュッ、と抱きついてくる。 「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」 由梨花を呼ぶ声が胸に染み渡る。より一層、杏子のことが愛おしくなり、少女の頭を抱え込んだ。 杏子の嗚咽が大きくなる。辛い悲しみを解き放とうと、慟哭が溢れて、吐き出される。由梨花の胸に杏子の涙が吸い込まれて、それは溶けて行くような温かさで透き通っていった。 「杏子ちゃん……私ね、杏子ちゃんのこと、大好きだよ」 心から、その言葉が自然に出てきた。サァ、と溢れて、その響きは包み込むように二人の身体に入っていく。時間なんか関係ない、いま二人は、確かに家族なのだ。 「お姉ちゃん……お姉ちゃん、お姉ちゃん!」 泣きじゃくる杏子を抱き締めて。 由梨花は自分が、杏子にとってどんな存在なのかを、噛み締めた。 (ああ、私、この子のお姉ちゃんなんだなぁ……) それはとても、温かい気持ちだ。 由梨花は杏子を大切にする。 杏子もまた、由梨花を大切にする。 家族、なのだ。二人は家族であり、姉妹である。 それが、その絆がどれほど素晴らしいものか。どれほど大切なものなのか。由梨花は小さな女の子を抱き締めて、その事をゆっくりと確認した。 だって今は、杏子の全てが愛しく、儚い。 この大切な存在を大事にしなければならい。震える杏子を胸に抱きながら、由梨花はとても優しい気持ちの中にいる。 きっとこうして、私たちは家族になっていくんだ。その思いは確信だった。 夜の静寂が心地よく染み込むこの日、二人は静かに眠りへと落ちていく。 3 翌朝、聖杜が浅い睡眠に頭をガンガン痛めながら降りてくると、居間には穏やかにお茶を飲む三人の姿があった。 「あ、おはよ。お兄ちゃん」 一番最初に気付いた由梨花が、ニッコリしながら聖杜の分のお茶を用意する。その間に杏子と寿重がこちらに振り向き、 「おはよー」 「おう、聖杜、おはよう。……なんじゃ、不景気なツラじゃの」 それぞれに挨拶を返してくれる。皆の表情が昨日よりも晴れやかな気がして、聖杜は自分が一人だけ気分が悪いのが、バカらしくなってきた。 「うん、おはよ、みんな。ちょっと眠りが浅くてね」 ハハハ、と照れ笑いのように目を細めてから、よし、と小さく気合を入れる。それだけで気分を立て直そうとしたのだ。 よいしょ、と座布団に座ると、さっそく目の前にお茶が差し出された。ありがと、と由梨花に礼を一つ。 「どういたしまして」 ニコ、とした由梨花の細かい気遣いには、聖杜はいつも感心させられる。 それにその時の表情は、とても魅力的なのだ。 「大丈夫? 聖杜くん」 「ん? ああ、大丈夫だよ。寝足りないだけだしね」 杏子に苦笑を返して、とりあえずお茶を一口。香ばしい風味が口の中に広がった。番茶なんだ、と思いながらも杏子と由梨花を観察する。 「俺よりも、二人の方が大丈夫なの? なんだか目、赤いけど……」 彼女たちは充血した目を見合わせた。杏子に至っては少し腫れぼったい。 「あー……ははは。ちょっと寝不足かな」 由梨花が少し頬を掻く。その後で二人は笑って、仲良さそうに見詰め合った。 「そうなんだ」 と、言いつつお茶を飲む。熱いとまでは行かない緑茶が、香味と共に喉の奥へと染み渡っていった。 なんだか昨日までとは違う。杏子と由梨花の間にあった、ギクシャクとした雰囲気がなくなっているのだ。気持ちの中にあった、柵のような小さな垣根が取り除かれたように、晴れ晴れとした空気で通じ合っている。 それは、信頼感だ。まるで本当の姉妹のように、仲良くお互いを信じ合っている。 聖杜は驚いていた。昨日まで余所余所しさが残っていたのに、今日になっていきなり親友のような仲睦まじさを見せるなんて。 確かに信頼感を共有する関係は理想であった。二人がこれから家族となる上で、欠かせない要素になるからだ。でも正直、こんなに早くそれが形成されるとは思っていなかったのである。もっと時間をかけて醸成されると思っていた連帯感が、予想以上に強固な絆となって、目の前に存在している。 (……そっか) 驚きはしたけれど、それはとても喜ばしい事態だ。由梨花と杏子の間に、姉妹としての絆ができた。これで二人は、家族になったのだ。 むしろ聖杜としては、置いてかれたなぁ、という気持ちの方が出てきてしまうのだ。 (俺も早く、二人の『お兄ちゃん』にならなきゃな……) 頼りない自分を自覚しているからこそ、その決意はより大きな波紋になって、心の中に響き渡る。 兄、という存在をさらに意識した。 ゆっくりと、深呼吸するように緑茶に口をつけて、飲み干す。ふう、と溜息を吐くと、寿重の視線に気付いて顔を向けた。 優しい笑みの刻まれた祖父の表情に、なに? と目で問いかける。彼はそれには答えずに、 「さあ、そろそろご飯にしようか。二人とも、料理は手伝ってくれるね?」 由梨花と杏子にそう言った。「うん、いいよ」と二人が頷いたのを見て寿重が立ち上がる。 「お祖父ちゃん、俺には何も言わないの?」 「お前は料理なんかできんからの。そこで座って、大人しく待っとれ」 「そんな言い草、ないよぉ」 聖杜が困ったように情けない声を出すと、杏子と由梨花がクスクスと笑っているのが聴こえた。 4 その日は朝から曇りがちだったが、ふと気が付くと外には雨粒がカーテンのように降り注ぐ光景があった。いつの間に降り始めたんだろう、と聖杜は不思議な気持ちで窓を見詰め、見てないと気付かないくらい静かな雨音を噛み締める。 なんだか時間が止まっているような気分だ。そんな風に感じて、思わず苦笑いを漏らしてしまう。縁側に腰を下ろして眺める外は、雲に覆われた空とビルなんかが小さく見える街並みの灰色の中に、松の木だけが際立った色合いで雨粒を見せる、少し不思議な画になっていた。 見ている庭は、芝生や盆栽が雨の恵みにのびのびしている様な気がして、なんともゆったりしているのだ。 聖杜は、自分の心が感傷的な気分を求めているようで、それを打ち払おうと目を瞑った。そうすると自然と溜息が出て、ちょっとだけ安らいだ。 そんな折、自分のことを呼ぶ声に聖杜は振り向いた。 「おにーいちゃーん!」 由梨花の声だ。なんだろう、と腰を上げて、座敷へと足を向ける。 「なに?」 と言って襖の奥を覗いてみると、そこには開け放たれた押入れと、そこから引っ張り出されたであろう様々な品物が畳みの上に散乱している状態であった。 「……どしたの、これ」 聖杜は呆れ半分にその様子を見詰めた。 「あー……ははは。ちょっと探検したいな、て思って」 杏子が頭を掻きながらそう言った。彼女は少し大人しいように見えるが、その実は好奇心旺盛な少女である。新しく訪れた家の中に興味を引かれ、何か面白いものはないかと引っ掻き回していたのだろう。 その様子に溜息を吐きながらも、聖杜はそれに安心を覚える。杏子がそこまで回復してくれた、ということだからだ。 由梨花が浮かべる苦笑いも、恐らくそういう思いを抱いてくれているからだろう。聖杜としては、ここまで元気にしてくれた由梨花に感謝の言葉を述べたいくらいである。 ふと、聖杜はそんな事を考えてしまったが、流石にそれを実行に移すのは恥ずかしい。それでどうしてここに来たんだったかな、と考えたところで、由梨花がニコッと笑った。 「お兄ちゃん、こんなの見つかったんだけど、なにか知らないかな?」 由梨花は持っている本を広げた。それは随分と古いものだ。茶色に変色した紙を何枚か、ただ束ねただけのような江戸時代に作られたようなもの。書いてある字も、達筆すぎる筆字で昔の漢字が連ねてあるだけの、聖杜には読めるわけもない物である。 それについての質問なのか、と聖杜は少しギョッとした。そんなの知るわけもないし、中身がなんなのかも分かる訳ないのである。 だがその心配は無用であった。由梨花はその本に挟まれていた物を取り出したのだ。それをかざして、 「見たこともない花だから、どんなのだろうって気になったんだ」 「は、花?」 なるほど、そこには押し花にされてなお美しい、赤と青の二つの花が1輪ずつ。乾いているのに可憐な花びらを纏ったそれは、確かに見たことのない物であった。 「……う〜ん、分かんないな。っていうか、別に花に詳しくないんだけど」 マジマジと見てから、聖杜は頭を掻いた。それでも内心、心配していた質問ではなくてホッとしているのである。 そんな聖杜を見て二人は、ニヘッて感じで笑って、 「でもでも、お兄ちゃんってば庭の花壇のお世話してるから、花に詳しいと思ったんだもん」 「からかってるでしょ……」 ハァ、と聖杜は溜息を吐く。庭の花壇なんて、父・正孝が町内会の何かで貰ってきたものを押し付けられて育てただけで、名前も何も知らない花々でしかない。そういう事情も事前に話しているから、由梨花たちはふざけてるだけなのだ、と感づいたのである。 案の定とでも言うべきか、彼女たちの目は完全に笑っているのだ。 「ごめんね。でもでも、綺麗な花だから、聖杜くんにも見せてあげたいな、て思ったんだよ。ホントだよ」 杏子がフォローを入れるようにそういうが、クスクス忍び笑いを交えての弁明に信憑性は薄い。 聖杜は眉を顰めるようにして二人の顔を覗き込み、 「ホントかなぁ?」 「あ、疑ってる。むぅ、ヒドイなぁ、私たちはお兄ちゃんだけ除け者じゃ可哀想だから見せてあげたのにー」 やや芝居がかった感じで由梨花が頬を膨らませる。その仕草に、聖杜も元々薄かった毒気を抜かれて、素直に笑うことにした。 「ごめんごめん。でもそんな風にからかわれたら、そりゃ少しは覗き込むようにしちゃうよ」 そこでようやく、三人は声を上げて笑った。なんだか一連の流れが演技のように胡散臭かったからである。 「でもこれ、不思議な花だね。なんだか吸い込まれそう……二つとも正反対の色合いなのに、対になってることで表情が出るっていうか、なんだか気持ちがざわめくような気分になってくる」 「ホント、そう……。ちょっと悲しいような、でも笑ってもいいような――分かんない気持ち」 女の子たちはそういって、ジッと二つの押し花を見詰めた。その様はまるで見惚れているかのようだ。 二人のその言葉を聞いてから、聖杜も花を観察してみる。大きな花弁の、深く鮮やかな色合いは、確かに見る者の心を風が吹き抜けていくようだ。ただその風は、ひどく穏やかなのに、冷たくもあり温かくもある、不思議な二面性を持っている。 サアアアア――、と雨の音が静かに響く中、まるで時が止まっているのではないか、と錯覚してしまうほど奇妙な気分が支配する。三人は花の魔力に心を奪われてしまったのだ。 だから、すぐ近くに影が落ちても、気付かなかった。 「ほっほ、賑やかだったのが急に静かになって……どうしたんじゃ?」 ビクッ! と三人が一斉に顔を上げる。聖杜だけは後ろを向かなければならなかったので、少しだけ二人に遅れてしまった。 襖の前に立っていた寿重は、なんだか傷付いたような表情でこっちを見ていた。聖杜たちが予想以上に驚いたことにショックを受けたのだ。 「な、なんだお祖父ちゃんか。脅かさないでよ!」 由梨花たちもホッとしたように笑って口々に、ビックリしたー、と言っている。そんな孫たちの様子に寿重は少し目を伏せて、何もそんなに驚かなくても……といじける様に人差し指を突き合わせていたが、すぐに気を取り直して聖杜たちを見据えると、 「ほっほ、またお店を広げて……。なにやっとったんじゃ、お前たち」 いつも通りの柔和な笑みで尋ねてきた。 「ん〜……探検?」 だったよね? と聖杜が振り返ると、そうだね、と苦笑気味の由梨花が頷く。散らかした事にちょっとした罪悪感を覚えているのかもしれない。 もっとも、当事者の杏子はそんな事にまで気が回っていない様子である。彼女は寿重に向き直ると、 「ねぇね、お祖父ちゃん、こんなのが見つかったよ。なにか知らない?」 と質問していた。意外と神経は図太いのだ。 「んん? どれどれ」 差し出された本を見て、フッ、と小さく、寿重が眉間に皺を作る。それは本当に小さく、僅かな動きでしかなかったのだが、聖杜はその動きを捉えた。同時に、えっ? と思う。寿重が僅かでも動揺するなんて、珍しいことだからだ。 「その本に押し花が挟んであったの。綺麗な花だから、どういうのなのかな、て見てたんだ」 由梨花がそう言うと、寿重はすぐに普段の笑みを浮かべた。それで聖杜の疑問も消えた。 「おお、おお。これか。これを見つけたのか。確かに綺麗な花じゃろ。押し花にしとくのは勿体ないわな。でも残念ながら、この花は貴重での。売られているものじゃないんじゃよ」 「なにか知ってるの?」 「ああ。この花はな、この本と関係あるんじゃ」 ニヤリ、とでも言わんばかりに寿重の瞳が光る。それはまるで、自慢話を披露したくてウズウズしている少年のような表情だ。 「その本、読めるの?」 少し怪訝顔で聖杜が聞くと、失礼な、という表情をする寿重。 「読んだとも。これはちょっとした昔話での。とある伝説が書いてあるんじゃよ」 「わあ、聞きた〜い!」 由梨花が、ぱん、と胸の前で手を合わせた。その横では杏子も興味を魅かれたようで、目をキラキラさせながら身を乗り出している。 そんな子供たちの様子に満足気に頷くと、寿重はゆっくりと後ろを向いた。 「茶の間に行こ。簡単にじゃが、話してやろう」 なんだか勿体つけた感じで笑った。 わぁい、と二人が手を挙げて喜ぶ。その姿を見て、聖杜もなんだか楽しみになった。それで四人は、とりあえず散らかった部屋を出て茶の間に来ると、座布団に座った。 由梨花と杏子は、目を爛々と輝かせながら寿重が話し出すのを待っている。その様子に、お祖父ちゃんは責任重大だな、と苦笑した。 当の寿重は、三人の顔をゆっくりと見回すと、本と二つの花を静かに見下ろし、その後で口を開いた。 「むかーし、むかしにな。人里離れた山奥に、小さな村があっての。その村の近くには、小さな泉があった」 すでに内容は暗記しているのだろう、本を開けずともスラスラと、寿重は語っていく。その口調は静かで、慣れを感じさせるものだった。 「泉には美しい女神が住んでおった。女神は村に生まれた男の子に懐かれて、よく遊んでおった。その男の子が成長し、立派な青年に成長すると、二人は静かに恋に落ちたんじゃ。毎日のように逢瀬を繰り返し、ドンドンと関係を深めていく二人のことを村の人間が気付かんはずもない。だが村人は、驚きこそすれど、仲睦まじい彼らの様子を受け入れ、優しく見守ることにしたんじゃ」 その情景が浮かんだのか、由梨花たちは幸せそうな笑みを浮かべた。 「だが、な。しばらくして、都の貴族が村を訪れた時じゃ。村の中でも最も端整で有能な青年を、貴族はいたく気に入ってしまってな、貴族の娘と青年を結婚させようとしたんじゃ。村の者は反対したが、田舎の小さな村では反抗できるわけもなかった。その貴族は強引に話を進め、縁談を強要したんじゃ」 寿重の、抑揚を抑えた静かな声が三人を引き込んだ。物語が佳境を迎えている。それを感じ取って、ゴクリ、と聖杜の喉が鳴った。 「青年は絶望した。彼は都に上る前日に泉を訪れたんじゃ。そして……刃物で自害してしまったんじゃよ」 聖杜は息を呑んだ。望まぬ結婚に生の希望すら失うなんて。それほど女神と離れるのが嫌だったのだろう。 由梨花が小さく、死んじゃうことないのにね、と呟いた。 「異常を感じて姿を現した女神が目にしたのは、愛する青年の亡骸じゃった。彼を失った悲しみに慟哭し、女神は青年の遺体を泉の中に引き込んで、そして自らも青年の刃物で命を絶ったんじゃ。そして二人は共に泉の底で眠りに付いた。死んでしまいはしたが、二人は永遠に一緒になったんじゃ」 そっ、と寿重は二つの押し花を掲げた。 「それ以来、泉の周りには赤い色と青い色の二種類の花が咲き乱れた。それが、この花じゃよ。赤は二人の流した血の色、青は泉に染み込んだ二人の涙の色なんじゃ」 ニッコリ、と笑って寿重が話を切り上げた。これで終わったんだな、と思った瞬間に、何だか分からないけど大きな溜息が出た。隣では由梨花も杏子も、ハー、と同じように大きく溜息を吐いている。仲間だ、と思った。 「そうなんだ。なんだか、悲しい話だね」 「ほっほ、そうじゃの。余り面白い話ではなかったかな?」 「ううん、そんなことない!」 杏子が盛大に首を横に振る。かぶりつく様にして聞いていたから、よほど共感したのだろう。 「凄くステキなお話だったよ。なんだか……純粋で、とても綺麗だった。このお花も、二人の澄んだ心が綺麗な色を咲かせたんだろうな、て思ったもん!」 未だ興奮冷めやらず、そんな雰囲気で乗り出してくるように感想を述べる杏子の様子に、寿重も満足気だ。 「良い話だよね。この花の色彩も、そういう神秘的な魅力が、私たちを吸い込んじゃうんだろうな」 由梨花もニコニコしながら、余韻を楽しむように押し花を見詰めた。そして寿重に向き直ると、 「この花って、なんていう名前なの? 売られてないって言ってたけど、それって一般には出廻ってないっていうことだよね」 と質問する。 「名前は……分からん。その花はどこに咲いているのかも、知られてはいないんじゃ。世界中を探しても、その花が発見された、という事例はないじゃろうな」 「それって、確認されていない植物ってことなの?」 聖杜が驚いて尋ねると、そうじゃ、と寿重は頷いた。 「えー!? それじゃあ、お祖父ちゃんはどうやってこれを手に入れたのさ?」 「さぁのお。それはワシの祖父さんが持ってたものじゃからの。ワシはどこにあったのかなんて、皆目見当もつかないんじゃ」 そう言って、ハッハッハッ、と愉快そうに笑う寿重。そんな祖父を、聖杜は少し呆然とした目で見ていた。しかし横から杏子が突っついてきて、 「分からないんじゃ仕方ないよ。それより、ステキなお話を反芻しよう。私、すごく感動しちゃったもん」 彼女の笑顔は、とても澄んだ美しい輝きを持っていた。聖杜はそれを見ただけで些細な疑問を振り払うと、くしゃくしゃ、と少女の頭を撫でて、そうだね、と笑った。 「クスクス……。それじゃ、さっきのお話をおつまみに、またお茶にしましょうか」 由梨花がそう言って、急須に茶葉を入れ始めた。聖杜も今はそういう気分だったので、その提案に賛成する。 勢いを弱めてきた雨が静かに降り続ける午後のひと時を、ゆったりと過ごすこの時間。これは、とても良いものだ。 聖杜は小さな幸せを感じながら、ゆっくりと笑顔を浮かべたのだ。 5 「それじゃあ、お祖父ちゃん。ありがとね」 聖杜がそう言うと、由梨花と杏子も寿重に頭を下げた。ありがとうございました、と三人が言うと、寿重はニコニコしながら、 「礼には及ばんよ。ワシも随分と、楽しませてもらったんじゃからな」 なんてことを返してくる。そんな祖父の姿には、聖杜も感謝しきりである。 「お祖父ちゃん、私ね、すごく楽しかったよ。この三日間、本当にありがとう」 杏子が元気に言葉を発する。彼女がここまで気を持ち直してくれたことが、聖杜にとって、また由梨花や寿重にとっても最も嬉しい事だった。ここに来るまでは気持ちを押し込めて、必要なこと以外は会話に参加することのなかった杏子が、完全とは言わないが調子を取り戻し始めている。以前のように明るく好奇心旺盛な少女に戻るのも、時間の問題だろう。 払拭はできていない。が、気持ちの整理がつき始めた。今回の目的の一つである、杏子の精神的療養は、その意味では大きな成果を得た。それが、聖杜が寿重に最も感謝しているところなのである。 そして、もう一人。杏子の回復に大きく寄与した由梨花にも、聖杜は非常に感謝していた。家族として、杏子の心に安心感を与えたのだ。彼女がいてくれたから、回復への糸口を見付ける事ができたのだろう。 聖杜はチラッ、と由梨花の方を振り向いた。彼女は優しい笑顔を浮かべながら、杏子と実の姉妹のようにじゃれあっている。その微笑ましい光景に、ジワリと心の中に温かいものが広がるのを感じていた。 「おい、聖杜」 少女たちに見惚れていた聖杜に、寿重の声がかかる。なに? と振り向くと、ちょいちょい、と手招きしていたので、近くに寄ってみる。すると寿重は肩を組んできて、 「由梨花のことじゃがの。兄妹だからって気にするでないぞ。男だったら一つ、腹を括って自分のものにしちまうんじゃ」 「――、なっ!?」 「大丈夫じゃ、お前さんならな。と言うよりも、好きな女を前に尻込みするようになぞ育てとらんはずじゃしの」 「ちょっ、ち、ちょっ、……お祖父ちゃん!」 聖杜が慌てて声を発するが、その後に続く言葉が全く見つからず、顔を赤くしたままパクパクと口だけ動かす。そんな孫息子の様子に、ニヒヒ、と寿重が笑うと、なんだか物凄く恥ずかしくなって、思わず額に手を当てていた。 その後で、俺だってできればそうしたいよ、と心の中で呟いていた。 「お兄ちゃん!」 少し落ち込んでいたところに、由梨花の声が掛かる。そちらを向くと、もう行かないと、と怒られてしまった。 「お祖父ちゃん、本当にお世話になりました。ご迷惑をおかけしてばかりだったけど、とても有意義でした。ありがとうございます」 由梨花が丁寧に頭を下げると、なんだかこちらも恐縮した気分になって一緒に頭を下げてしまった。そんな彼らを寿重は苦笑しつつ見詰め、 「ええんじゃよ、孫に迷惑かけてもらうほうが、一人よりもずっと面白い。また迷惑かけに来なさい」 と優しく声をかける。 「うん、また来るよ。次はお母さんとお父さんも連れて」 由梨花も笑いながら返すと、今度は一転して渋い表情になって、 「んむむ、正孝か……あいつが来ると騒がしいからのぅ」 「あはは、そうだよね。俺たち以上に迷惑だよ」 今度は三人が苦笑する番だった。 「それじゃあ、お祖父ちゃん。また今度ね」 「ばいばーい!」 聖杜はドアを開けて、ゆっくりと外に出た。杏子が寿重に手を振り、由梨花は静かに会釈を一つ。寿重は優しく笑ったまま、孫たちを見送ってくれる。そっ、と家を振り仰ぐと、小さくはあるが綺麗な一軒家もまた、彼らを見守ってくれているようだった。 来て良かったな、と小さく呟く。 少女たちの横顔を見ると、二人にもゆったりとした笑顔が浮かんでいた。それは、とても嬉しいことである。 「さ、帰ろっか」 聖杜が言うと、 「うん!」 由梨花と杏子の声が重なった。その光景にまた微笑を深くしながら、聖杜はゆっくりと、女の子の歩調に合わせて、帰路へとつくのである。 寿重の家の近くにある駅でローカル線に乗って、市中心部の大きな駅へと移動する。電光掲示板を確認すると、特急電車の発車時間にはまだ少し間があったので、改札を出て構内を散策することにした。 地方とは言え、地理的に恵まれたその場所は内陸経済の要衝である。物流の中継地点として栄えた街は発展しており、とても賑やかな場所だ。都内とは言え郊外にある青木島町よりも活気があり、駅の中にある店舗なんかも少なくない。丁度いい暇つぶしになる。 その中の一つでファーストフードなんかをつまんで、小腹を満足させる。それでもまだ少し時間があったので、今度は駅の出口の横、駅前を展望できる場所に来た。 「わー、こうなってたんだ!」 杏子が感嘆の声を上げた。そこは、都内の主要駅の前に比べると随分と貧相だが、それでも色々なビルやデパートやらが並び、車なんかが混雑している、賑わいに溢れる場所なのである。やはり新しい街の様子を見た時は、新鮮な気持ちになるものなのだ。 興味深げにキョロキョロと目を配る杏子の姿に、街の中を探索させてあげれば良かったかな、と思った。次は一旦、この駅で降りよう、と考えたのである。 同時に、来た時はそんな考えがちっとも過ぎらなかった事に思いを巡らせて、改めてこの三日間が有意義であったことを再確認する。 チラッと由梨花の方を見ると、彼女は目を細めながら、あんまりはしゃいじゃダメだよ、と杏子に声をかけていた。 「……ありがとね」 聖杜は声に出していた。 「え?」 由梨花が振り返る。いきなり出た謝意に、少しキョトンとしているようだった。 「杏子のこと。由梨花があの子を、あんなに元気にしてくれたんでしょ」 「そんなことないよ! 杏子ちゃんは、自分で悲しいことを乗り越えたんだもん。私は何もしてない」 「ううん。やっぱり、由梨花が居てくれたからだよ。だって杏子は、由梨花のことを心から信頼してるんだから」 聖杜の言葉に、由梨花は少し考える風にする。ただ、やはり彼女は首を横に振った。 「ん〜……、やっぱり、それでありがとうは、オカシイよ。だって私は、杏子ちゃんのお姉ちゃんになったんだもの。杏子ちゃんの家族になりたくて、そして仲良くなれたのはすごく嬉しいけど、だから感謝されるって言うのは違う気がするもん」 「そう……かな? うーん、そうかも。でも、言いたかったんだ。ありがとうって」 聖杜は素直にそう答えた。前から考えていたことを、その感謝を、本人にちゃんと言いたかったのは事実だから。 由梨花が居てくれたことで、どれだけ助かったのか。その事を伝えたかったのだ。 聖杜のその言葉に、ちょっと照れたような困ったような表情をした由梨花。少女は腕時計を確認して、 「そろそろ行かなきゃ」 と言った。 「そうだね。――杏子、行こう」 下の方を一生懸命に覗いていた杏子は、聖杜の声に反転して近づいてくると、 「もう行くの?」 ちょっと不満そうな声を出した。見てたら街に下りたくなったのかもしれない。 「うん。電車きちゃうからね」 「え〜っ……」 「まぁまぁ。次に来た時は下りよう。親父も連れてくれば、好きなもの買ってもらえるよ」 「ん〜。うん、わかった」 渋々といった感じで杏子が頷く。確かに少し残念だが、街に出て買い物ができるほどお金は残っていないのだ。こればっかりは、しょうがないのである。 さ、行こう。そう促して後ろを振り向いて、すぐ目の前に人が居ることに気付いた。 (ん?) 見上げると、そこにはガッシリした体格の外国人男性が立っていた。身長も高い。深い彫りの顔立ちで、クセのある短い黒髪。ラテン系のその男が、聖杜を見据えて、黒い瞳にニヤついた笑みを浮かべていた。 (なんだ――?) ゾクリ 「!?」 悪寒が、全身を走り抜けた。 背筋が凍るような、悪寒だ。だがその原因がなんだか、聖杜には特定できなかった。研ぎ澄まされた殺気が皮膚に当たった時に似ているが、特定の方向から何かを感じるとか、そういう感覚ではない。 なんだ――!? 疑問が危機感を呼ぶ。急いで首を巡らそうとして、その行為に失敗した。 身体が上手く、動かないのだ。 (――寒、い?) 全身を支配するのは、正しく悪寒だったのだ。梅雨に入り暑いくらいの日差しが照りつける五月下旬の真昼間に、まるで吹雪の只中にいるかのような強烈な寒さが、聖杜の身体を襲っている。 ありえない――なのに、起こっている。いつの間にか全身がガタガタと凄い勢いで震え出し、力の入らなくなった指からカバンが落ちて、乾いた音を立てた。 「な……、にが……?」 猛烈な勢いで体温が奪われていく。視線を下にやると、両手の皮膚が青白く血色を失い、小刻みにブルブルと揺れているのが見えた。 そうなってようやく、自分の口からガチガチと凄い音がしているのに気付いた。歯の根も合っていないのだ、もはやまともに声を出すことすら間々ならない。 全身の筋肉が収縮していく。寒さに耐え切れず膝がガクガクと笑っていた。体重を支えきれない状態で、大きく背筋が曲がって、聖杜は全身を掻き抱いた。 (なんで……? 一体、何が起きてる?) もう、まともに思考が働かなかった。ただただ寒さに震え、自身の冷たさに驚愕し、崩れ落ちそうな自分を必死に耐える。 その中で、ボウッと頭を痺れさせながらも、何とか背後へと視線を向ける。由梨花と杏子の無事を確認したかったのだ。だが振り向いた先、霞む視界の中で二人は、グッタリと身体の力を抜いて、大柄な男に掴まれていた。暗くなり始めた視線の中で男の顔は確認できなかったが、由梨花の顔が不自然に青褪めているのを認めて、なにか薬品を嗅がされたのだ、と思った。それだけ確認できたのが、なんだか酷く滑稽に感じられた。 あとはもう、ダメだった。意識が朦朧として、暗転した視界の中では上下の感覚すら分からなくなる。ふっ、と身体が軽くなったと思ったら、ガンッ、と頭に衝撃がして、ああ、倒れたんだな、と分かった。 スマンな、という声が聞こえた気がしたが、それはもう確認のしようがなかった。 聖杜はもう、気を失っていたのだ。 |
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