「ヴァイオレイター」


 深い森の中にある開けた一画、十字に削られた簡素な石が突き立てられただけの墓前に、一人の青年が立っていた。
 やや面長だが、切れ長の双眸にすっと通った鼻筋の、端整な顔立ちの青年だ。アッシュブロンドの髪はオールバックにかきあげられているが、クセっ毛なのか僅かに前髪の一部だけが跳ねている。
「兄さん」
 不意に、若い男の声が青年へと向けられた。
 青年は墓から目を離し、声の方へ振り返った。
「長が呼んでいるよ」
 そう告げたのは、同じアッシュブロンドの髪の青年だった。兄と呼んだ青年とは違い前髪を下ろしており、切れ長ではあるが目つきは柔らかい。
「……分かった」
 オールバックの青年は一度目を閉じてから、弟へ呟いた。
 墓のあった場から森の中を少し歩くと、村と呼ぶには少しばかり大きな集落へ出た。街、と呼べるほど大きくはない。だが、小さな村というには規模が大きい。
 行き交う人々の間を抜けて、一際大きな屋敷へと向かう。
 古めかしい空気を漂わせる木の屋敷のドアをノックしてから開け、二人は屋敷の中へと足を踏み入れた。
 入って直ぐの広間には、見慣れぬ顔がいくつかあった。
「来たか、ヴァルド」
「何用ですか」
 奥の席に腰を下ろしていた老人の声に、オールバックの青年、ヴァルドは無表情に問いを返した。
 その老人こそ、集落の長だ。深い皺の刻まれた顔に、白い髭をたくわえた老人だ。老いてはいるが、その瞳や口調はまだ衰えを感じさせないほどに活気を含んでいる。
「客人の相手を任せたい」
 長の言葉に、ヴァルドは改めて見慣れぬ人々へ目を向けた。
 中年の男と体格のいい青年に、まだ若い女性の三人だ。
「……分かりました」
 小さく溜め息をついて、ヴァルドは長の命に応じた。
「では、こちらへ」
 ヴァルドが踵を返すと同時に、彼の弟が三人を誘導する。
 屋敷を出て、ヴァルドの住む家へと三人を案内した。
「宿のような場はないのかい?」
 歩いている途中、中年の男が問う。
 民家に宿泊させられるとは思っていなかったのだろう。どこか外部からの来客に対応する施設があると思っていたのだ。
「それが、無いんですよ」
 弟が苦笑する。
「排他的だからな、ここの連中は」
 ヴァルドは振り返ることもせず、呟いた。
 この集落、というよりもヴァルドを含む人種は外界との接触を好まない。例外もいるが、極少数だ。ほとんどが同族間での交流しか持たず、外界からの接触には良い顔をしない。
「確かに、歓迎されてるようには見えないな」
 体格のいい男が肩をすくめる。
 家へと三人を招き入れ、ヴァルドは人数分の椅子を用意し、座らせた。その間に、手際良く彼の弟がお茶を淹れた。彼らの持っていた荷物は入り口の近くにまとめて置かせた。
「それで、あんたらは何しに来たんだ?」
 ヴァルドは椅子に対して斜めに腰を下ろして足を組み、左肘をついて手の甲に顎を乗せた。
「見たところ、人間のようだが?」
 来客たち三人は互いに顔を見合わせていた。
「ああ、自己紹介が遅れました。私は考古学者のサイモン・フェルマータと言います」
 中年の男は一礼してそう名乗った。
 中肉中背でくたびれた服装をしている。ボサボサの黒髪に丸い眼鏡をかけた温和そうな丸い顔立ちの男だ。
「あ、私は助手のアルティ・ファーレンフェルムです」
 続いて若い女性が名乗る。
 背の中ほどまである赤色の髪を首の後ろで一つに纏めて垂らしている。柔らかな物腰の素朴な印象の女性だ。
 彼女を見たヴァルドは微かに目を細めていた。
「こちらは今回、護衛役として御同行を依頼したイアン・ドライドさんです」
「よろしく」
 体格の良い男はイアンと言うらしい。
 がっしりと程よく引き締まった筋肉質の体をラフな服装で包んでいる。くすんだ金の短髪に、どこか野性味のある顔立ちをしていた。特徴的だったのは左の頬を縦に傷痕が走っていることだろう。
「なるほど、考古学者か」
 ヴァルドは大体の事情を察したようだった。
「僕はグレイス・ライン・ルトアレア。そして兄のヴァルド・レイル・ルトアレアです」
 ヴァルドの隣の空席に腰を下ろして、弟であるグレイスが言った。
「大体目的は分かるよ、俺たちセラフのことを調べに来たんだろ?」
 サイモンたちが何かを言うより早く、ヴァルドは告げた。
 厳密には、ヴァルドやグレイスたちこの集落の者たちは人間ではない。
 セラフと呼ばれる、人間に似て非なる種族なのだ。
「ええ、まぁそういうことになりますね」
 サイモンは苦笑した。
 セラフは人間とは異なり、様々な面で人を上回る種族として知られている。寿命は人間の三倍から四倍といわれ、肉体は見かけ以上に頑強だ。当然、成長の速度も異なっており、人間でいう青年期、最も肉体的に完成している時期が長い。
 また、そういった人間と違う肉体的特性もあってか、セラフは人間との接触を好まない。同じセラフ同士で小さな集落を形成し、セラフ以外の種族との交流を避けて生活している。
「知っての通り、僕らは排他的ですから」
 グレイスが肩をすくめる。
 歓迎されていないのは当然だ。別の集落きたセラフであればまた待遇や態度は違う。セラフでない人間だから、皆冷たい目で彼らを見ている。
「大体のセラフは人を見下してるからな」
 ヴァルドはグレイスの入れたお茶に口を付けながら呟いた。
 肉体的な優位性もそうだが、セラフは人を下等な存在として見下す傾向にある。人間から見ればセラフは長寿だが、逆にセラフから見れば人間は短命なのだ。
 アルティが首を傾げる。
「飲まないのか? グレイスの茶は美味いぞ。口に合うかは知らんが」
 ヴァルドはカップに手を付けない三人に向かって、冗談めかして言った。
「ああ、すいません、頂きます」
 サイモンは今気付いたとばかりにカップに手を伸ばし、口をつけた。
「毒とか、ないだろうな」
「俺らにはともかく、他の奴らにはその態度のがいいかもな」
 警戒するイアンに、ヴァルドは軽口を叩いた。
「とりあえず、話を進めようか」
「そうですね……」
 ヴァルドの言葉に頷いて、サイモンは語り出した。
 話によると、彼は生物の起源や歴史などを研究しているらしい。セラフにはあまり縁がないが、人間たちが暮らす多くの地域では魔獣と呼ばれる異形の化け物 が出没している。姿形はちぐはぐなのだが、魔獣という名に恥じない凶暴さを持ち合わせており、それらによって多くの人間が命を落としている。
 人間たちも武装して魔獣に抵抗しているようだが、それでも全滅を防ぐ程度だ。魔獣の襲撃によって毎回かなりの被害が出ている。
 体を鍛え、魔獣を専門に狩る者たちもいるほどだ。チームを組んだり、質の良い武器で対抗したりと、手段は様々だが、そういった者たちが多い街ほど魔獣に対する抵抗力も強い。
 同行者であるイアンもその手の人間だろう。ここまでの旅路で魔獣に襲われないとも限らない。護衛役は必要だ。
 その魔獣に対しても、人間たちは研究しているようだ。
「ただ、この魔獣って奴がまた良く分からんのですよ」
 サイモンは溜め息交じりに呟いた。
「魔獣というものが何なのか、未だに謎が多いのです」
 襲撃後に残る魔獣の死体を調べても、それが生物であるだろうということぐらいしか判別できないのだ。似たような姿形をした個体もあれば、そうでないもの もある。人やその他の生き物のように内臓らしきものはあるようだが、その形状も様々で、一定の法則のようなものがないらしい。
 魔獣からは生態系というものが感じられず、どのように生命を繋いでいるのかさえ予測できない。
「地の底の冥界から現れているのだという学者もいるくらいなんですよ」
 言って、サイモンは苦笑した。
「まぁ、セラフの考えも似たようなものだな」
 ヴァルドは気だるそうに呟いた。
 セラフの一般的な考えでは、魔獣とはこことは異なる次元に存在するより高位の存在ということになっている。当然、魔獣などという呼び方はしない。
「霊獣って呼んでるがな」
「やはり、精霊というものと何か関わりがあるのでしょうか?」
 ヴァルドの言葉に、サイモンが問う。
 セラフの者たちは、魔獣と同じ次元に存在するとされる高位生命体、すなわち精霊と呼ばれる存在を召喚し、力を借りることができる。
「俺に断言はできないな」
 ヴァルドは首を横に振った。
 精霊と霊獣が本当に同じ場に存在するものなのか確かめる術はない。単にそう言い伝えられているだけだ。
「その精霊とは、誰でも生まれながらに使えるものなのでしょうか?」
 サイモンの言葉に、ヴァルドは目を微かに細めた。
「いや……成人の儀で契約を結ぶ」
「兄さん……!」
 ヴァルドの言葉に、グレイスが声を上げた。
「成人の儀、ですか?」
 サイモンが言葉を反芻する。
「それは外部の者に漏らしては……!」
「構うものか」
 グレイスの制止に、ヴァルドは言い放った。
「……俺に面倒事を押し付けたんだ、俺の勝手にさせてもらう」
 目を鋭く細めて、忌々しそうに呟く。
 ヴァルドの苛立ちは明らかに集落の長へ向けられていた。いや、あるいはセラフ全体に向けられているのかもしれない。
「兄さん……」
 グレイスが困ったように眉根を寄せる。
「それに、いずれは知られるだろうさ」
 ヴァルドは興味がなさそうに付け加えた。
「ふむ……聞いてはまずいことでしたかな?」
「別に構わないさ。知りたいんだろ?」
 ノートに書き込む手を止めるサイモンに、ヴァルドは薄く笑みを返した。
「成人の儀ってのは、五十歳になったセラフが精霊を召喚し、契約を結ぶ儀式だ」
 ヴァルドはそう語り出した。
 セラフという種族は五十歳になると成人の儀という儀式によって精霊と契約を結ぶ。その儀式を執り行い、契約を結ぶことでセラフは成人と認められるのだ。
 召喚自体は既に成人の儀を終えているセラフが数人で行い、誰とも契約されていない精霊を召喚する。成人の儀に臨む者は召喚された精霊と契約を結ぶことで儀式は終了となる。
「精霊との契約とは具体的に何を?」
「戦って屈服させる」
 精霊との戦いで、その精霊に主と認められることが契約の条件だった。
 サイモンの言葉に、ヴァルドは即答した。
「それに失敗する場合というのは……?」
「ある」
 ヴァルドの目が鋭く細められる。
「……その場合は――」
「死ぬだけだ」
 恐る恐る口にしたサイモンに、ヴァルドは冷淡な声で答えた。
 その声に、サイモンの隣で黙々とメモを取っていたアルティがびくりと肩を震わせた。
 精霊と戦い、打ち倒さずとも主に認められることはある。だが、戦って負けた場合は命を落とすことになる。精霊に負けるということは、精霊に殺されるということなのだ。
 契約に失敗した者は召喚された精霊に殺され、その後で精霊は元いた場所へと姿を消す。
「精霊と契約できないセラフは大人になれない、と……?」
 サイモンは真剣な表情で呟いた。
「正しくは、大人にすらなることを許されない、と言うべきだな」
 ヴァルドは小さく息をついて、茶の入ったカップを手に取った。
 微かに目を伏せて、茶に口を付ける。
 精霊と契約することさえできないセラフは生きては行けない。それがセラフが一人前と認められる条件であり、しきたりだ。
「セラフという種族が少数民族である由縁はそこにも?」
「いや、成人の儀に失敗する者はそう多くない。むしろ、人に比べて長寿だが、その分、子供が出来にくいってことだろう」
 サイモンの推察を一蹴して、ヴァルドはカップをテーブルに置いた。
 長寿であるからなのか、セラフという種族は子供が出来にくい。そのためか、セラフの集落は人口が安定している。自然災害などに遭っても、ほとんどの者は強靭な肉体と精霊の力によって生き延びることができる。
「まぁ、中には精霊の力に呑まれて死ぬ者もいるが……」
 ごく稀に、精霊の力が暴走して死ぬ者がいた。セラフにとって事故による死亡というのは、むしろこちらの方が当てはまるかもしれない。
「そんなことが聞きたかったわけじゃあないんだろう?」
 腕を組んで、ヴァルドはサイモンを見つめた。
「ええ、とりあえず私の説を聞いて頂けますか?」
 サイモンはヴァルドの目を見つめ、問いを投げた。ヴァルドは腕を組んだまま、サイモンが語り出すのを待った。
「私は人とセラフが元々は同じ生物から分化したのだと考えているのです。生物としての姿形が似ているのもそうですが、人間たちの中にはむしろあなたがたセラフに近い特性を持った個体も時折発生します。彼ら、ネクストを見ていると別のものだったとは思えないのですよ」
 確かに、人間の学者の多くはそう考えているだろう。
 人間たちはセラフと違い、新しい技術を常に生み出して発展している。それは人間が精霊と契約できず、その力を借りることができないためだ。セラフは精霊 を召喚し、力を借りることで様々な恩恵を受けて暮らしている。人とセラフで最も異なるのが精霊の力を使えるか否かだ。だが、それ以外のセラフの特性は、時 折人間にも持って生まれる者がいた。ネクストと呼ばれる突然変異は、身体能力、稀に寿命など、肉体的なセラフの特徴を持って生まれる。次の世代に確実に引 き継がれるわけではないが、可能性としてはそうでない者たちから発生するよりは高いのだろう。
 ネクストであっても、精霊と契約することができたという話は聞いたことがない。人とセラフの決定的な違いがそこだ。
 セラフは神を信仰し、精霊も神の使いであるとしている。そういった考えがあるため、人間の学者とは意見が合わないだろう。
「現実的に考えて、人間、あるいはセラフからもう一方が分化したと思われるのですが、どこかにその証明となるものの手掛かりがないものか、と……」
 人間が祖だったのか、セラフが祖だったのか、それをはっきりさせるものはまだ見つかっていないのだとサイモンは言った。古代の人間たちの遺跡には、セラ フに関する何らかの情報はあっても、人とセラフの分化に関する情報はないらしい。あったとしても、得体の知れない力を操るセラフという種族が存在するとい うことぐらいだ。
「それで、実際にこの集落の付近を探索したい、ってことか」
 ヴァルドの言葉に、サイモンは頷いた。
 セラフは自分たちの領域に入る部外者を嫌う。無断で立ち入ったり、領域を超えようとする者は敵と認識し、問答無用で殺してしまうほどだ。
 それを知っているから、サイモンもこの集落に立ち寄って長と話したのだろう。
「ええ、そうなります。何せ、セラフには聖域がありますから……」
 サイモンは神妙な面持ちで視線をノートに落とした。
 ヴァルドたちの住む集落は山の麓にある。大きな円を描くように存在する山脈を守るかのように、セラフは集落を作っている。もちろん、一つの集落だけで山 脈を囲んでいるのではない。点在するようにいくつかの集落が山脈の円周上に存在し、隣接する集落同士が連携するように山脈へ向かう部外者を警戒している。
 すなわち、山脈を越えた先がセラフたちにとって聖域なのである。
 山脈を超えるにはセラフたちの警戒網を掻い潜らなければならない。だが、精霊を味方に持つセラフの目を盗むことができたものは過去に誰一人としていない。
「やはり、聖域に行くのが目的なんですね……」
 グレイスは目を伏せた。
「聖域、か……」
 鋭く目を細め、ヴァルドは小さく呟いた。
「僕らですら、聖域へ踏み込んだことはありませんよ」
 グレイスが説明する。
 セラフたち自身でさえ、山脈を越えて聖域へと踏み込んだ者はいない。聖域へ向かおうとする者は集落の者たちによって止められる。そもそも、聖域に踏み込んではならないとセラフには伝えられている。
 不可侵の領域であり、セラフは聖域を守らなければならないと教えられているのだ。その禁を破った者は精霊との契約を解かれ、精霊の力に呑まれて消滅するとされている。
「セラフが守っている聖域にこそ、長年の謎を解く鍵があると私は考えているのです」
 確かに、サイモンたち学者がその結論に至るのも頷ける。
 セラフ自らですら何も知らない場所なのだ。何かあって当然と思うのが普通だろう。
「セラフは、そこには精霊の住む領域への扉があるのと考えてるな」
 ヴァルドが言う。
 古くより、セラフたちは聖域には精霊が住まう次元へ通ずる扉があると考えている。そこへ向かう禁を破った者が契約を解かれ精霊に襲われるのも、自らの領 域へ踏み込もうとした者へ対する仕打ちなのだと考えられるからだ。その地、あるいはその地にある扉の先が精霊の住む場所であり、踏み込めば精霊たちの怒り を買うことになる。精霊たちの怒りを買ってしまえば、たとえ踏み込んだ者がセラフであろうとなかろうと、セラフをセラフたらしめている力を奪われるという 考えもある。優れた肉体的特徴も、精霊と契約できるという特殊な力も失い、ともすればセラフという種そのものが消されてしまうのだ、と。
 あるいは、精霊が住まう次元とはまた異なる、いわゆる冥界のような場所に通じていると言うセラフもいる。かつてセラフがその扉を封じ、この世に害をなす 存在が解き放たれぬようにこの地の封印を守っているのだ、とも。聖域に近付く者は精霊が世界の滅亡を止めるためにやむなく命を奪うのだ、と。
 説は様々だが、総じて聖域は誰も踏み込んではならない領域であると伝えられており、掟としても厳守されている。
 聖域に向かう者は、たとえセラフであろうとも敵である。
「まぁ、許可が下りるとは思えないな」
 ヴァルドは薄く笑みを浮かべて呟いた。
 聖域に向かい、帰ってきた者はいない。向かった者はセラフによって山脈を越える前に止められ、命を奪われる。セラフと例外ではない。
 許可が下りるはずがない。
「そこを何とかしたいのですがねぇ」
 サイモンが苦笑する。
 人間を快く思っていないセラフの集落の周りに人の街があるはずもない。サイモンたちはかなりの距離を旅していたはずだ。収穫無しで帰りたくはないだろう。
「でも、無理だと、思いますよ……」
 グレイスが諭すように呟く。
「それはそれとして、一つだけあんたらのどっちかに頼みがあるんだ」
 今まで口を開かなかったイアンが、そこでようやく口を挟んだ。
 話が一段落したと思ったのだろう。切り出すタイミングを計っていたに違いない。
「俺は今まで話には聞いていても、実際にセラフを見たのはこれが初めてなんだ。どれだけ人間離れしているのか、手合わせ願いたい」
「……ほぅ」
 イアンの言葉に、ヴァルドは目を細め、口元に笑みを浮かべる。
「いいだろう、庭に出よう」
 椅子から立ち上がり、ヴァルドはイアンを目で促して玄関とは反対の方向にあるドアへと向かった。
「あんたらも見て置くといい。いざという時、参考になると思うが?」
 ドアを開けたヴァルドは、テーブルの方へ振り返って告げた。
 サイモンはその言葉の意図を察したのか、立ち上がり駆け寄ってくる。それを見たアルティが慌てて席を立つ。
 もし、彼らが強引にでも聖域へ立ち入ろうとするのであれば、セラフを敵に回すことになる。護衛として雇ったイアンがどれだけセラフと戦えるのか知ってお くのはサイモンにとっても重要なことのはずだ。イアン自身も、どれだけ自分がセラフに通用するのか知ると同時に、サイモンが聖域に向かうと言い出した時の 判断材料にもなる。
「片付けと夕飯の用意、しておくね」
「ああ、頼む」
 グレイスの声を背に、ヴァルドは庭へ出た。
 ヴァルドの家は集落の中でも端に位置する。通りに面したドアから外へ出れば住民たちが行き交っているが、庭に面したドアから外へ出れば人目は無いと言っていい。
 通りの真ん中で手合わせするのは邪魔であると同時に、注目される。
「とりあえず、武器は無しだ」
 イアンの提案に、ヴァルドは頷いた。
 殺す気でないのだから武器は使わない、ということなのだろう。あるいは、単純に身体能力の差を知りたいのか。
 拳を軽く握り締めて、身構えるイアンに対し、ヴァルドは無防備に突っ立っているだけだった。
「いくぞ」
 イアンは目を細め、一気に踏み込んだ。
 人間としてはかなりの速度で、ヴァルドの懐へと飛び込んでいく。
 ヴァルドは無表情に、付き出された拳を払った。身構えてすらいなかったヴァルドの右手は、それでもイアンの拳を打ち払う。手首に手首を接触させ、力の向きを僅かに逸らすと同時に上体を傾けるようにして拳をかわす。そのまま手を捻り、イアンの手首を掴んで引き寄せる。
 ほぼその場に留まったままの下半身から、膝蹴りが繰り出されていた。
「っぉ!」
 イアンが左手で跳ね上げられたヴァルドの右膝を受け止める。
 ヴァルドはその接触と同時に掴んでいた手を放した。左手で止められている膝は、繰り出した勢いに任せて振り抜かれていた。
 イアンの体が浮き上がり、膝蹴りの勢いで宙を舞う。
 受け身を取って立ち上がるイアンの左手は、ヴァルドの蹴りの衝撃で痺れて震えていた。
 イアンの表情は引き締まり、戦士のそれになっていた。油断なくヴァルドを見据えるその瞳に、ヴァルドは口の片端を僅かに釣り上げて微笑を浮かべる。
 軽口を叩いて余裕を見せたり、挑発してペースに引き込んだり、今のイアンはそういったことを一切考えていない目だ。どう戦うか、イアンの頭の中では目まぐるしく演算が行われているはずだ。
 人間であることも、セラフであることも、今のイアンの頭の中にはない。ただ、自分より遥かに高い身体能力を持つ存在としてヴァルドが映っている。
 姿勢こそ自然体だったが、ヴァルドも警戒を怠ってはいない。油断こそが最大のミスであることをヴァルドは知っている。格下の相手であろうと、隙を突かれれば敗北も在り得る。
 イアンが駆け出す。その動きを見据えるヴァルドに一度急接近し、途中で踏み止まって進行方向を変える。土が抉れ、草が跳ねる。横へ回り込もうとするイア ンに対し、ヴァルドはその場から動かずに向きだけを変える。イアンはヴァルドの目をじっと見つめたまま、旋回していく。半周になろうかというところで、イ アンが地を蹴る方向を変えた。ヴァルドへと踏み込み、左の拳を大きく引く。そして、右足を地面に着けた瞬間、そのまま足を延ばすようにして身を屈める。そ のまま足払いをかけるイアンを、ヴァルドはその場で軽く跳躍してかわそうとする。左拳が弧を描くように跳ね上げられ、空中のヴァルドを捉えた。
 ヴァルドは最初の一撃と同じように右手で突きを横合いから払う。手首を掴むようにして、思い切り引き寄せる。空中に浮き上がるイアンとは対照的に、引き 寄せる力の慣性によってヴァルドは急降下していた。入れ替わるように着地したヴァルドのつま先が弧を描いて跳ね上がり、イアンの脇腹へと突き刺さる。
 宙に浮いていたイアンの体が、急に横へと吹き飛ばされた。
 地面を何度か跳ねながら転がり、それでも身を起こそうとするイアンの前にヴァルドが立つ。
「続けるか?」
 僅かな笑みを浮かべるヴァルドを見上げて、イアンは表情を緩めた。
「いや、このくらいにしとこう」
 苦笑いを浮かべるイアンは、ヴァルドが差し出した手を取って立ち上がった。
「それなりに自信はあったんだがな……」
「ま、武器を使えばまた変わってくるさ」
 服についた砂埃や草の葉を払いながら呟くイアンに、ヴァルドは笑みを浮かべたまま告げた。
 単純な身体能力だけでは、セラフの方に分がある。
「兄さんはセラフの中でも群を抜いて強いから」
 家の中に戻ると、様子を見ていたグレイスがイアンに声をかけた。
「多分、並のセラフならそれなりに張り合えるはずだよ」
 イアンは人間の中では腕が立つ方だろう。グレイスはヴァルドとイアンの手合わせを見て、セラフに近い身体能力はあると判断したようだった。
「武器を持ったら、とは言うが、そっちには精霊がいるだろう?」
 イアンが苦笑する。
 いざとなれば、セラフは精霊を召喚して戦力とする。仮に聖域を向かおうとしたなら、躊躇うことなく精霊の力も借りて全力で殺しにかかってくるはずだ。
「……まぁな」
 ヴァルドは生返事をして、椅子に腰を下ろした。
「あ、えっと、寝袋とかありますよね? 見ての通り、ベッドは僕らの分しかありませんので……」
 思い出したようにグレイスはサイモンたちに聞いた。
 基本的に、セラフの家屋には来客を想定した家財道具はない。食器などはともかく、寝具のような大きなものは家に住んでいる人数しかない。
「雨風が凌げるなら十分ありがたいさ」
 イアンが頷く。
 彼らもここまで来るのに何度か野宿しているはずだ。なら、家の中というだけでも野宿よりはかなりマシだろう。
 それから夕食を終えて寝ることになるまで、ヴァルドとグレイスはサイモンの話を聞き続けることになった。聖域に行きたいという熱意に始まり、後半はほとんど他の学者や宗教家に対する愚痴のようなもになっていたが。
「……兄さん、まさかとは思うけど」
 ヴァルドが寝室に入ろうとした時、近くを通りがかったグレイスが小声で囁いた。
「だとしたら?」
「僕を……独りにはしないで欲しいな」
 振り返らないヴァルドに、グレイスはそれだけ呟いて自分の寝室へと入って行った。
 ヴァルドは一度だけ視線を床に落とし、寝室に入った。窓際にあるベッドに寝転んで、並んで見える二つの月を見上げていた。無表情の中に、微かに影が落ちる。
 やがて、ヴァルドはゆっくりと目を閉じた。
「……何か用か?」
 目を閉じたまま、ヴァルドは寝室の入り口にいるアルティへと声をかけた。
「あ……」
 気付かれてはいないと思っていたのだろう、アルティは小さく声を上げた。
 目を開けて、ヴァルドはアルティに視線を向ける。寝室の入口の壁の影に隠れるように、アルティがヴァルドを見つめていた。寝る前だからなのか、髪を解いている。
 彼女が開けたのか、閉め忘れていたのか、僅かにドアが開いている。
「何を考えているのかな、って……」
 アルティが恐る恐るといったように呟いた。
「……聞きたいなら寝袋、持ってきな」
 ヴァルドの言葉に、アルティは目を丸くしていた。
 それは自分の寝室で寝てもいい、と言われたのと同じだ。ヴァルドの言葉に、アルティは寝袋を抱えて寝室へと入ってきた。
「あんた、何でここまで来たんだ?」
 ベッドの隣の床に寝袋を置くアルティに、ヴァルドは声をかけた。
 調査や研究のため、学者がセラフの集落に訪れることは少ないながらも確かにある。だが、その場合に助手を連れてくる者はほとんどいない。大抵はその身一つか、護衛の者と同行しているのみだ。
 助手、ましてやアルティのような若者がついてくるのは珍しい。
「……何か、あるんだろ?」
 ヴァルドの言葉に、アルティは目を伏せた。
「……私、知りたいんです」
 ぽつりと、アルティはそう漏らした。
「魔獣って何なんだろうって、ずっと考えていました。学者になって、研究すれば何か分かるかもしれない。そう思って、学者になろうとしたんです」
 アルティは遠くを見つめるように目を細めて、語り続けた。
「そんな時に、サイモン先生と出会って、先生の話を聞いたり、研究を手伝ったりするうちに、一つだけ確信が持てたんです」
 アルティはヴァルドを見上げる。ヴァルドも、アルティを見つめていた。
「――この世界に神様は、いない、って……」
 静かに、だがはっきりとその言葉を口にするアルティに、ヴァルドは僅かに目を見開く。アルティはどこか寂しそうな表情をしていた。
「……どうしてそう思った?」
 ヴァルドは静かに問う。
 セラフは神の存在を信じている。精霊との関係も、神がいるからこそのものだと教えられる。
 聖域には神のもとへ続く道があると言う者さえいる。神の領域を汚すことは許されない。だから、そこへ踏み入ろうとする者はたとえ契約を結んだ相手であろうと牙を剥くのだ、と。
「魔獣は、人間以外を襲わない。巻き込んでしまうことはあっても、人間以外の存在を狙うことはないんです」
 アルティは目を伏せる。
 魔獣の攻撃によって人間以外の動植物が巻き込まれて命を落とすことはある。巻き込むことを躊躇わない。だが、自主的に人間以外の存在を攻撃することはない。
「私には、魔獣は人を殺すための存在にしか見えない」
 視線を落としたままのアルティの表情を読み取ることは、ベッドの上から見下ろしているヴァルドにはできない。
「神様がいるとしたら、魔獣を作れるのはきっと、神様だけ……」
 アルティは胸元で手を握り締めていた。
 人間の技術力でも、セラフの知恵でも、魔獣を生み出すことはできない。
 魔獣がこの世界とは異なる場所から現れるものだとしても、不自然だ。異界の存在だとすれば、姿形や高い戦闘能力はこの世界の常識に当てはまらなくても当然だ。ただ、だとしても何故人間だけを襲うのかが分からない。
 神という存在が万能であるなら、異界や魔獣も生み出せる。人を襲うように仕向けることだってできるはずだ。
「そんなのが神様だなんて、認めない」
 襟元を掴んでいた右手が強く握り締められていた。
 たとえ全てを生み出した存在がいるとしても、それが神であるとは認めない。アルティはそう言い切った。
 神と呼ぶに値するのは、あらゆるものを祝福できる存在だ、と。人々に害をなすだけに生み出されたような魔獣が存在するのなら、この世界に神はいない。
「なら、悪魔、か」
 いつの間にか、ヴァルドはベッドに腰掛けるようにしてアルティの話を聞いていた。
「……もし、私たち人が邪魔な存在でしかないのなら、こんな回りくどいやり方する必要なんてないでしょ?」
 神が万能なら、人という存在すべてを抹消するのも容易いはずだ。一気に消してしまえばいい。そうできるはずだ。魔獣に襲わせて人が絶滅するまで待つなどという回りくどいやり方は非効率的だ。万能の存在らしくない。
 むしろ、人が苦しむ様を見て楽しむ悪魔のようだ。
「セラフなら、神の試練だ、とでも言うんだろうな」
 ヴァルドは自嘲気味な笑みを浮かべて呟いた。
 くくっ、と喉を鳴らして笑うヴァルドを、アルティは驚いたように見上げる。
「当事者じゃないから、そんなことが言えるのさ」
 ヴァルドの言葉は、明らかにアルティへ向けたものではなかった。
「ああ、すまん、話を続けてくれ」
 そう言って、ヴァルドは苦笑した。
「……私ね、人とセラフは元々同じものだったと思ってるの」
 アルティは自分の考えがサイモンに近いものだと説明した。
「けど、私はセラフや人だけじゃなくて、他の生き物も少しずつ変わっていったものなんだと思ってるの。でも、そう考えるとどうしても辻褄が合わないものがあるのよ」
 そこまで述べて、アルティはヴァルドを見上げた。
「魔獣って、何?」
 その疑問を口にするアルティに、ヴァルドは微かに目を見開いた。
「魔獣は、生命としてでたらめ過ぎるわ……調べれば調べるほど、分からなくなる」
 首を横に振る。
「私から家族を奪った魔獣のことを調べ尽くせば、納得できると思ってた……だけど、何も分からない。それどころか、魔獣の存在に悪意しか感じない!」
 アルティは今にも泣きそうな表情だった。
 彼女は魔獣によって家族を失っていたのだ。魔獣を調べ、その存在が自然発生したものだと断定できれば、魔獣の行動原理や生体などが分かれば、家族の死も自然災害として納得できるかもしれない。そう思って、彼女は学者を目指したのだ。
 だが、魔獣を調べれば調べるほど、不自然な存在としか思えなくなっていく。
 異次元や異世界の存在だから、という納得の仕方を彼女は望んでいない。そうとしか思えないという結論に至るまで、彼女は異界の存在だから、という考え方で納得はしないだろう。
 確かに、それらは推測でしかなく、証明できたものはいない。
「……それで、ここまで来たってわけか」
 ヴァルドはゆっくりと目を閉じた。
 セラフは魔獣を霊獣と呼び、本質的に同じとされる精霊の力を借り、そして聖域を守っている。セラフに会って話を聞けば、精霊を見れば、調べれば、聖域に行くことができれば、何か分かるかもしれない。
 そう考えたに違いない。
「俺もな、昔から疑問だった」
 今度はヴァルドが語る番だった。
「俺たちセラフは五十歳で精霊と契約を結ぶ。だが、精霊って奴が何なのか、疑問だったんだ」
 ヴァルドは肩越しに夜空へと目を向ける。
「セラフの連中は、考えることを放棄してやがる。何でもかんでも神様の決めたことだと言って自己完結してるのさ」
 セラフたちは宗教的な種族だ。
 神によってセラフは守護者としての使命を与えられていると本気で思っている。精霊はそのための力を貸す存在で、聖域を守ることこそがセラフの存在意義であり、世界を守護することだと考えている。
 魔獣や精霊のような、不可解な存在に対して疑問を抱きさえしない。異を唱えようものなら、セラフとしての自覚が足りないだとか、セラフの恥、面汚しなどと言われる。
「確かに、俺たちセラフは人間と比べて長寿で、成長の速度も違う。けど、それ以外に俺とお前で何が違う?」
 ヴァルドはアルティを見つめて、問う。
 肉体的な差は人間にだってある。その差が極端に大きいだけで、生き方にそれほど差はない。
「人間にも、セラフにも、心がある。言葉が通じる。感情がある。全く別の生き物には思えない」
 言葉が通じ、同じような感情を持ち合わせているのは、元々同じ存在だったからだとするのが自然なはずだ。
「……全く別の生き物だと思えるのは、俺にとってはむしろ精霊だ」
 ヴァルドは掌を見つめて、忌々しげに呟いた。
「ただ、俺は神って奴は存在すると思ってる」
 ヴァルドはアルティを見つめて、はっきりとそう言った。
「けれど、その神は万能な存在でもなければ、ましてや人を祝福するような存在でもない……」
 精霊や魔獣のことを考えれば、神のような第三者が関わっているとしか思えない。ヴァルドはそう言っているのだ。
 全知全能のいわゆる神ではなく、異世界を治める何者か、あるいはこの世界で暗躍している何者かが存在する。ヴァルドはそういう考えに至ったのだ。適当な呼び名が思い付かないから神という言葉を用いているが、その意図は他のセラフやアルティのいう神と同じではない。
「……あなたは、神を――」
「――話し過ぎた、寝よう」
 アルティの言葉を遮って、ヴァルドは大きく息をついて小さく首を横に振った。
 感情を押し殺したようなヴァルドの横顔に、アルティはそれ以上何も言うことができなかった。
「……ベッドの方がいいか?」
「ううん、大丈夫」
 ヴァルドの問いに、アルティはそう言って笑みを返した。ヴァルドを見つめるアルティの目は、眩しいものを見るような、やや苦しさの混じっているような目をしていた。
 寝袋で横になって目を閉じて眠りにつく彼女を、ヴァルドはどこか悲痛な面持ちで見つめていた。


 森の中で、多くの者が見守る中、剣を持った一人の少女が歩み出る。
 美しい長い銀の髪を首の後ろで束ねている。長い睫毛と薄い唇、透き通るような白い肌の美しい少女だ。
 緊張した面持ちの少女の前に、三人の男が立つ。
 少女に対して逆三角形を描くように距離を取って立った男たちは片膝をついて両手を地面へと触れた。地面につけられたそれぞれの両手から、隣の男へとゆるやかに白い光の線が弧を描いて伸びていく。
 神秘的な光が円を描き、次に直線で三人を結ぶ。円の中に逆三角形が描かれた直後、細い光が円陣の中を縦横無尽に駆け巡り、幾何学紋様を何重にも作り出した。円陣が光で埋まったかと思った瞬間、極彩色の輝きが円から散った。
 一瞬、目の前が真っ白になる。
 その光が止んだ時、円陣の中心には奇妙な生物が立っていた。
 暗い紺色の体毛に覆われた、狼のような姿をしていた。体は大きく、腕の最も細いところでも大人の胴回りを超すほどの太さがあり、手足の長さも人の身長より長い。尻尾は根元から五つに分かれ、顔には紅く光る目が三つある。背中には漆黒の翼が生えていた。
 男たちがそれぞれ退き、その場には少女と獣だけが残される。
 獣は少女を威嚇するように咆哮し、その荒々しい声に少女が体を震わせた。
 獣が地を蹴る。ほんの一瞬で、少女へと跳びかかる。
 少女が身を退いた。鋭く長い爪がその頬を掠め、僅かに紅い雫が舞う。
 見守る者たちの中から、大声が上がった。
 アッシュブロンドの髪をした青年が少女の下へと向かおうとして、周囲の者たちに止められていた。長い髪を振り乱し、青年が叫ぶ。
 その視線の先で、少女は獣へと手を差し伸べていた。
 彼女の手に、剣はなかった。最初の一撃をかわした際に、地面に突き立てて、そのまま手放していた。
 敵意の無い優しい笑みを浮かべて、少女は獣へと手を伸ばす。
 その手が触れようとした瞬間、獣の爪が閃いた。
 少女の右手が宙を舞い、紅い血が撒き散らされる。
 痛みに少女の表情が歪む。
 それでも、彼女は無防備にもう一方の手を獣へと伸ばしていた。血の気の失せた顔に、微笑を湛えて。
 獣が咆えた。
 制止を振り切って、青年が広場に飛び出した。
 青年が少女へと手を伸ばす。
 その、目の前で。
 彼女の小柄な体は四つに引き裂かれた。
 青年の目に映るのは、ただひたすらの真紅と――


「――ぁっ!」
 ベッドから跳ね起きたヴァルドの伸ばした右手が空を切る。
 体は変に熱を帯びていたが、ヴァルドの首筋を伝う汗は冷たかった。飛び起きてからどっと汗が吹き出し、すでにびしょ濡れのシャツが急速に冷えていく。
 荒い呼吸のままヴァルドはゆっくりと右の掌を見つめた。
「あの……大丈夫、ですか?」
 不意に横合いから声をかけられ、ヴァルドはそこでようやく我に返ったようだった。
「……ああ」
 大きく息を吐き出して、ヴァルドは右手で自分の顔を押さえた。オールバックだった前髪は寝ている間に乱れて降りていた。
 窓から差し込む柔らかな光が、朝の早い時間帯だと気付かせてくれる。
「うなされていましたけど……」
 心配そうにアルティがヴァルドの顔を覗き込む。
 ヴァルドはもう一度右手を見つめ、目を閉じて呼吸を整えていた。
「俺のせいで起こしてしまったか?」
「いえ……」
 うなされていたヴァルドの寝言で、アルティは目を覚ましてしまったのかもしれない。だが、ヴァルドの問いにアルティは首を横に振った。
「……俺には、将来を誓い合った女性がいたんだ」
「婚約者……?」
「ああ……ピウレ・マルク・シルヴァリア……優しい奴だったよ」
「まさか……」
 ヴァルドの言葉に、ルティアが息を呑んだ。
「勘がいいな。成人の儀に、あいつは戦うことを拒んだ……」
 ヴァルドの顔が悔しげに歪む。
 争いを嫌い、精霊と戦うことさえ避けようとしたピウレは、儀式に失敗した。
「止めようとしたさ……けど、制止されたのは俺の方だった」
 握り締められた拳が震えていた。
 成人の儀に、助力は認められない。たとえ、手を貸さなければ儀式に臨むセラフが命を落とすとしても。
「……精霊と魔獣の何が違うのか、俺には分からない」
 恋人の死を境に、ヴァルドの中にあった違和感が疑問に変わった。
「ただ、召喚に応じた魔獣を精霊と呼んでいるだけなんじゃないかと思うことさえある。何で、あんな儀式が必要なのか、俺には分からない。精霊なんかなくたって、俺たちは人間と同じようにだって生きられるんだ」
 セラフが盲目的に信じる神という存在に対する疑問が、ヴァルドの中で渦を巻いている。ただ生きていくだけなら、セラフが精霊の力を借りる必要など、どこにもない。
 人間たちの中に溶け込んで生きていくことだって十分できるはずだ。
「それがしきたりだとしても、命の方が大事だろう……!」
 ヴァルドの表情は怒りに変わっていた。
 握り締められた彼の拳が微かに震えていた。
「時々、夢に見るんだ……十五年前の、あの時のことを」
 左手で額を押さえ、右手を見つめて、ヴァルドは悔しそうに呟いた。
「俺は、見殺しにしたんだ……」
 あの時届かなかった右手は、助けたかった者の命の雫に濡れた。眼前で肉体を引き裂かれ、散った恋人の姿が、目に焼き付いて頭から離れない。
「ヴァルドさん……」
 アルティのか細い声に、ヴァルドは何も答えなかった。
 湧き上がる感情を抑え込むように、彼は目を閉じてきつく奥歯を噛み締めていた。今にも自分の身を引き裂いてしまいそうなほどのやり場のない怒りを、自らのうちにだけ押し留めているかのようだった。
 アルティは、ベッドに膝をついてヴァルドをそっと抱き締める。
「何を――」
「――私も、うなされて目が覚めたんです」
 驚くヴァルドの言葉を制して、アルティは囁くように呟いた。
「家族を失った時の夢を、見ていたから……」
 引き離そうとしていたヴァルドの手が、彼女の一言で止まる。
「幼かった私は、何もできなかった……目の前で、父が、母が、兄が、その体を噛み砕かれるのを、ただ見ているだけしか……」
 ヴァルドを優しく包む彼女の手は、体は、震えていた。
「いいえ、今でもきっと何もできやしない……瓦礫の隙間に押し込まれて隠されていた私だけ、逃げ延びた」
 今も昔も、アルティに魔獣をどうにかする術はなかっただろう。
「だから、か……」
 ヴァルドは小さく呟いた。
 得体の知れない魔獣を研究して、何かがわかれば、たとえ戦うだけの力はなくとも失われる命を守る手助けはできる。そう思ったのだろう。何もできなかった過去を受け止めきれず、傷痕から溢れ出る痛みを押さえるために、彼女は知ることへ意識を向けたのだ。
 ヴァルドの手がアルティの腕に触れる。ゆっくりと彼女の手を解いて、ヴァルドはベッドから立ち上がった。
「ヴァルドさん、私は……」
「……これ以上は、俺ももう限界だな」
 アルティの言葉を遮って、ヴァルドは呟いた。
 冷や汗で濡れたシャツを脱いだヴァルドの背中にはバツ字に大きな傷痕が刻まれていた。もう治癒しているようだったが、相当深い傷だったのだろう、痛々しいほどにくっきりと痕が残っている。
 アルティが口元を押さえて息を呑んだ。
「……俺の罪科だ」
 忌々しげに、ヴァルドは吐き捨てた。
 十五年前、ヴァルドが恋人を失った時、彼はセラフの掟に背いた。結果だけを見れば、ヴァルドは何もしていない。だが、セラフは彼が恋人の儀式に介入しようとした行動を咎めた。
 罰として、ヴァルドは背中に傷を刻まれた。戒めとして。
 手拭いで体の汗を拭きとり、ヴァルドは新しいシャツを着込んだ。
 寝室を出てすぐのリビングでは、サイモンとイアンが目を覚ましたところだった。
「良く眠れたか?」
「ああ、おはようございます。ええ、野宿よりは随分と」
 苦笑交じりに答えるサイモンに、ヴァルドも苦笑いを返した。
「おや、アルティはあなたの部屋に?」
 ヴァルドの寝室から出てきたアルティを見つけて、サイモンが疑問を口にした。
「ああ、まぁ、気が合ってな」
 慌てたように顔を伏せるアルティを横目に、ヴァルドは自然に受け答えていた。先ほどの会話などまるでなかったかのように振る舞うヴァルドとは対照的に、アルティは少し俯いていた。
「色々と聞かせてもらっていたんだ」
 そう言って、ヴァルドはテーブルの席についた。
 すでにグレイスが朝食の準備をほぼ済ませている。
 テーブルの上に程よく焼けたパンと細かく刻まれたベーコンの入ったスクランブルエッグ、温かいスープとミルクが並べられた。
「ああ、これはすみません、頂きます」
 サイモンはグレイスに礼を言って、テーブルについてパンを手に取った。
 イアンが続き、アルティが席につく。最後にグレイスが座り、朝食が始まった。
「それで、昨日の話の続きなのですが……」
 咀嚼していたパンを飲み込んで、サイモンが切り出す。
 今日をどうするかまず話し合う必要がある。いくらヴァルドとグレイスがサイモンたちの面倒を見ることになったとはいえ、いつまでも彼らを泊めておくわけ にもいかない。彼らも調査が目的なのだから、目的を果たすために動きたいだろう。同時に、目的が達成される、あるいは不可能と判断されれば帰路につかねば ならない。
「セラフには何か過去から伝わる文化や思想的なものはないのですか?」
 サイモンは人間とセラフが元々同一のものであった証拠を求めている。彼はセラフを含む、人という種の起源を研究している。人間にはまだ知られていないセラフが持つ独自の情報が欲しいのだ。
「そういうのは、恐らくないですね」
 グレイスが答える。
 サイモンが求めているような、セラフ独自のものというのはそもそも少ない。成人の儀という儀式がそれに当たるだろうが、それ以外には無いと言っても過言ではない。
「元々、僕らセラフはあまり物質的な文化を発展させていませんから」
 精霊の力を借りることができるためか、セラフは人間のような技術力の向上に積極的ではない。人間たちが作る神殿や祭りの場といったようなものを、セラフは持っていない。
 祭りが無い、というわけではないが人間のそれに比べると規模は小さく、華やかなものではないのだ。
 種族の起源にまつわるものがあるとすれば、言い伝えやセラフの掟に関わるような思想ぐらいだ。だが、これもサイモンが求めるような核心をつくようなものではない。
「そもそも、俺らは人間と比べて長寿だからな。命のサイクルの感性が少しズレてる」
 そう言って、ヴァルドは千切ったパンの欠片を口に放り込んだ。
 人間よりも長く生き、その知識を長期間保つことができるセラフは人間とは時間の感性が少し異なっている。書物や美術品といったものに対する意識が人間と違うのは当然だ。
「そうですか」
 サイモンは難しい表情で呟き、俯いた。
 極秘、というなら何とか聞き出そうと交渉もできるだろうが、そもそも存在しないと言われては為す術がない。サイモンが肩を落とすのも無理はない。
「まぁ、あるとすれば聖域、か?」
 フォークでスクランブルエッグをパンの切れ端の上に載せながら、イアンが口を挟んだ。
「……そうだな」
 ヴァルドは口の中にあったパンを飲み込んで、目を細めた。
「……どうしても、行くことはできませんか?」
 顔をあげたサイモンは真剣な表情でヴァルドを見つめる。
「多分、命と引き換えになるぞ」
 ヴァルドはさらりと言い放った。
 セラフが過去からずっと秘匿し続けているものがあるとすれば、聖域以外にはない。その領域に足を踏み入れることは、セラフという種をすべて敵に回すことに等しい。
 聖域に足を踏み入れることが仮にできたとして、生きて帰れる可能性は極めて低いだろう。
「……それでも、行くと言ったら?」
 サイモンの言葉に、ヴァルドは黙って湯気を立てているスープに口を付けた。
「僕としては、行かないで欲しいですね」
 グレイスが呟いた。ミルクの入ったカップを手に、表情を曇らせて。
「あなたたちを無駄に死なせたたくはない……」
 悲哀を帯びるグレイスの表情に、サイモンも押し黙る。
 たとえヴァルドたちにも無断でサイモンらが聖域へ向かったとしても、セラフは聖域周辺を交代制で常に監視している。その監視を潜るのは難しい。精霊を用いて厳重に警戒している監視を突破するのは、ほぼ不可能だ。
 サイモンたちが無駄に命を落とすだけだろう。
 ヴァルドは黙ったまま、カップをテーブルに置いた。
「案内や協力をしてくれとまでは言いません。ただ……」
 サイモンはそこで言葉を区切り、ヴァルドとグレイスを見つめた。
「……見逃して頂きたい」
 もし、ヴァルドとグレイスがサイモンたちに協力すれば、二人はセラフの掟に背いたことになる。罰を受けなければならないかもしれない。サイモンたちが勝手に行ったことにすれば、二人に与えられる罰は軽くなるかもしれない。
「そんなこと……できませんよ」
 グレイスは首を横に振った。
 もし、サイモンたちの行動を見逃してしまえば、たとえ彼らが勝手に動いたのだとしてもヴァルドとグレイスが責任を負うことになる。止められなかった、という罪を科せられるのは明白だ。
「二人はどうなんだ?」
 ヴァルドはアルティとイアンに向けて問いを投げた。
「確かに、話を聞いていると見てみたい気はしてくるな」
 イアンは肩をすくめた。
「もっとも、俺は護衛を依頼されてるからな。サイモンがどうしても行く、というのなら俺に選択肢はない」
 そうはっきりと告げるイアンの表情に迷いはなかった。
 自分の命を最優先に考えていないのは、依頼を大事にしていると見ることもできる。自分の力に絶対の自信があるのかもしれない。とはいえ、聖域に向かうことの危険性を甘く見ているかもしれない。
「……私も、知りたい」
 アルティは申し訳なさそうに俯いてそう呟いた。
「……何も無いかもしれないぞ?」
 ヴァルドは前髪をかき上げて、三人を見た。
 たとえ、聖域が守られている地であるとはいえ、そこに何があるかは分からない。古くから誰も訪れたことのない場所だ。何かあると考えるのも無理はないが、そこに何もない可能性だってある。
 無駄足に終わる可能性もゼロではない。
「それでも、確かめなければ、私は前に進めない……」
 アルティは目を伏せた。どこか苦しそうな表情を俯くことで隠して。
 食事を終えたヴァルドはテーブルに左手で頬杖をついた。黙り込むヴァルドに、誰も言葉を発することができない。
 グレイスが口を開いた瞬間、ヴァルドは大きく息を吐いた。
「ああ、もうやめだ」
 どこか苛立ったように、ヴァルドは頭を掻いてそう口にした。
「……兄さん?」
 驚くグレイスに何も言わず、ヴァルドは席を立った。
「悪いが、出て行ってくれ。考えるのが面倒になった」
 それだけ言うと、ヴァルドは自分の寝室へと足を向けた。
「ヴァルドさん……?」
 どこか不可解そうにサイモンがヴァルドを呼び止めようとする。
 ヴァルドは寝室の手前で足を止め、半身に振り返ってサイモンたちを一瞥する。
「……聖域に向かうなら、俺もお前らを追わなきゃならなくなる」
 そう言って、ヴァルドは寝室に入って行った。
 その場に残された者たちは半ば茫然とヴァルドの消えた寝室のドアを見つめていた。
 一番早く立ち直ったのはグレイスだった。兄の行動には何も言わず、冷静に食器を片づけ始める。
「はは、愛想を尽かされましたかな……」
 苦笑して、サイモンが席を立った。イアンと共に荷物をまとめ始める。
「ヴァルドさん……」
 アルティはヴァルドの部屋を見つめて、小さく呟いた。


 結局、サイモン、イアン、アルティの三人はセラフの集落を出て山を登っていた。
 ヴァルドの家を出た後、帰途につくふりをして集落を大きく迂回し、セラフに気付かれぬよう慎重に聖域を目指していた。
 山の中ほどを過ぎた頃だろうか。頂が遠くに見え始めた時だ。
 急にイアンが身構え、サイモンとアルティを手で制した。
「やっぱ、見つからずに、ってのは無理だったか……」
 唇を舐め、イアンは周囲を警戒する。背負っていた荷物をサイモンとアルティに預け、イアンは身構えた。
 周囲の木々の合間からガサガサと物音が近付いてくる。
「あいつじゃなきゃいいが……」
 緊張した面持ちでイアンは呟き、一歩前へと踏み出した。
 木々の合間から影がイアンへと飛び掛かる。
 化け物がイアンの身長よりも長い刃の腕を振り下ろす。
 イアンは咄嗟に横へ跳んで攻撃をかわした。
 赤く光る六つ目の、細い体の化け物だ。両手は鋭利な諸刃の刃のようになっている。足は四つあり、昆虫のようなシルエットをしている。ただ、その大きさは昆虫を遥かに超えていた。
「魔獣、いや、精霊か……?」
 イアンは腰に下げていた短剣を抜き放ち、飛び掛かってくるカマキリのような化け物を見据えた。
 一歩前に踏み込みながら身を屈め、水平に振るわれた腕をかわし、敵の懐へ。一息に距離を詰め、細い体へ短剣を叩き付ける。
 だが、硬い甲殻に刃は食い込まなかった。乾いた音を立てて、短剣ごとイアンの腕が大きく弾かれる。
 イアンは舌打ちして、化け物の返す刃を仰け反るように体を後ろへ投げ出してかわした。背中から地面に倒れ込み、そのまま横へと転がりながら身を起こし、素早く立ち上がる。
「貴様ら、何をしている!」
 鋭い声が辺りに響き、化け物の飛び出してきた方角から一人の男が飛び出してきた。
「見つかっちまったぞ……どうする?」
 イアンは背後のサイモンへと声を飛ばす。
 サイモンが返事をするよりも早く、三人を取り囲むように左右後方から二体の精霊が新たに現れた。
 一体は炎を纏った大きなトカゲのような化け物だった。もう一体は二対の翼を持った蛇のようだ。
「集落にいた時に警告は受けていたはずだが?」
 トカゲの後から現れたセラフが冷たく言い放つ。
「分が悪いな……お前ら、それでも先に進みたいか?」
 小声で囁くイアンに、サイモンとアルティは確かに頷いた。
「オーケー、なら、俺が引き付けてる間に先へ進むんだ。後から俺も追いかける」
 イアンは乾いた唇を舌で舐め、短剣を腰の鞘に納めた。
 アルティが持っていた荷物をひったくるように掴み、中から棒状の包みを一つ取り出した。包みを剥がす手間さえ惜しいイアンは引き裂くようにして中身を掴む。
「ここから先は誰も踏み込んではならぬ領域だ!」
 男が叫び、振り上げた右手を下ろす。
 その指示に従うかのように、動きを止めていた化け物が再び動き出した。
「さぁ、行けっ!」
 イアンは叫び、漆黒の筒を両手で抱えて巨大カマキリへと向けた。人差し指で引き金をひく。筒の先端はカマキリの頭を捉えていた。
 破裂音が響き渡り、筒の先端が一瞬小さな火を吹く。カマキリの頭が弾け飛び、イアンの両腕が衝撃に大きく跳ね上がる。
 漆黒の筒を思わせる金属の塊は、人間が生み出した銃と呼ばれる最新鋭の武器の一種だった。それも、散弾銃、ショットガンと呼ばれる、至近距離において凄まじい破壊力を発揮する新型のものだ。
「な……馬鹿な! 精霊が……!」
 驚愕に目を見開くセラフたちを余所に、サイモンとアルティは駆け出していた。
 一瞬の隙を突いて山頂へと向かう方角へと走り出す。イアンはその二人の後を追わせぬようにセラフと精霊の前に立った。
「なんとか、やり合えそうだな」
 荷物の中から、拳銃を取り出して、イアンは口元に笑みを浮かべた。
「く……」
 セラフの一人が歯噛みする。
 人間との交流を拒み、精霊の力に頼るセラフたちの多くは銃という発明を知らないだろう。火薬と簡単な機械構造によって金属の塊を射出する武器は、それま での刀剣よりも高い攻撃力を持つ。扱いの難しさや弾丸の消費、コストといったデメリットは確かにあるが、魔獣に対して有効な武器として認知されつつある。
「なるほどな……それが隠し玉か」
 新たな声に、イアンは目を見開いた。
 薄く笑みを浮かべながらその場へ歩いてきたのは、ヴァルドだった。
「良い武器だな」
 冷静なヴァルドの声に、イアンが気を引き締める。
「俺は先に行った奴らを追う。この場は、任せる」
 そう告げると、ヴァルドは大きく一歩を踏み込んだ。
 精霊たちにも引けを取らない速度で、ヴァルドが地を駆ける。ヴァルドに続いて、精霊がイアンへと迫る。イアンはヴァルドたちを行かせまいと前に立ち塞がり、ショットガンを構えた。
 二人の視線が交錯し、銃声が響いた。


 息を切らしながら、それでもサイモンとアルティは山の頂きを目指して走り続けていた。時折聞こえてくる銃声に、背中を押されて。
「はっ……はっ……はぁっ……!」
 アルティの足が次第に遅くなり、止まる。大粒の汗を流しながら、両手で膝を押さえるようにして体を支え、呼吸を整えようとする。
 サイモンも乱れた呼吸を整えながら、アルティに合わせて立ち止まる。背後を振り返れば、イアンたちはもう見えない。随分長い距離を走っていたようで、山頂もだいぶ近付いている。
「……もう、少し……です、よ……」
 荒い呼吸で途切れ途切れになりながらも、サイモンは言った。
 アルティの背中をさすりながら、サイモンが周囲を見回す。良く見れば、山頂付近には木々が生えていない。この森を抜ければ山頂と言っていいかもしれない。
 だが、木々の合間からまた精霊やセラフが飛び出してこないとは限らない。当然ながらサイモンに戦闘の知識はなかったが、警戒しないよりはマシだろう。
「は……い……!」
 完全に呼吸は整っていなかったが、歩けるまでには落ち着いたようだった。二人は呼吸を整えながら、また少しずつ歩き始めた。
 イアンのいない今、セラフに見つかれば為す術がない。聖域に辿り着いたところで、セラフたちが攻撃の手を止めないとも限らない。
 それでも、サイモンは興奮しているようだった。セラフですら見たことのない聖域を、あと少しで目にできるかもしれない。期待感に、サイモンの目は子供のように輝いていた。
 呼吸がある程度整ったアルティは周囲の静けさにどこか不安を感じ始めていた。どうしても見られたくないはずの聖域に、もう少しで辿り着いてしまう。セラフの追手がもっと激しいものだと思っていたのだ。
「恐らく、セラフたちも聖域の間近で争うのは避けたいのでしょう」
 サイモンの言葉に、アルティは納得し切れていなかった。だが、異を唱えようにもまだまともに喋れるほど呼吸は落ち着いていない。
 流れる汗を袖で拭って、アルティはサイモンの後を歩き続ける。
 確かに、セラフも聖域を汚したくはないだろう。ヴァルドたちの話を聞くだけでも、セラフがどれほど聖域という場所を神聖視しているのかは伝わってくる。その直ぐ近くで戦って、場を荒らしてしまうのは避けたいと思うのも分かる。
 だが、それだけ大事にしているのならなおさら侵入者を許さないはずだ。
 アルティにはイアンの持ってきた最新のショットガンが食い止めてくれていると考えるのも希望的観測に思えた。
 そして、アルティの予想は当たっていた。
 突如、二人の行く手を遮るように地面の一点が光を放ち、次の瞬間には巨大な円陣が広がっていた。幾何学紋様の刻まれた円陣が極彩色の光を放ち、空間を歪ませる。
 陽炎のように空間が歪んだ刹那、円陣の上にいくつもの魔獣が現れていた。
「これは……!」
 サイモンが目を見開く。
 巨大な漆黒の狼のようなもの、首の八つある蛇のようなもの、翼を持った獣、様々だ。
「そうか、だから――!」
 サイモンの言葉が途切れる。
 アルティの視界を、赤いものが舞った。
「あ……ぁ……」
 首筋が泡立ち、冷や汗が溢れ出す。体が震え、力が入らない。
 身動きができなかった。
 目の前には、サイモンの下半身だけが立っている。鮮やかな赤が、アルティの服を、肌を、濡らしている。
 サイモンの腰から下が傾いで、倒れた。
 アルティの脳裏に、家族を失った瞬間がフラッシュバックする。瓦礫の隙間から、家族の命が引き裂かれる光景に、アルティの思考はストップしていた。
 魔獣たちがゆっくりとアルティを見る。
 後ずさりしようとして、上手く足が動かずにアルティは転倒した。尻餅をついて、魔獣たちを見上げる。
「うっ」
 込み上げてくる吐き気に、口元を右手で押さえる。
 その手は、血で濡れていた。鮮やかな赤を目にした途端、急速に血の気が引いた。
「ぁが……げぇっ」
 堪え切れずに胃の中身を吐き出す。
 咳き込み、むせるアルティに影が落ちる。
 漆黒の獣が、爪を振り上げていた。
 アルティは虚ろな目で、ただ地面を見つめていた。
「こ、の、くそがぁぁぁあああああ―――――!」
 その場の空気を引き裂くように、絶叫が響いた。
 飛来した短剣が漆黒の獣の右目を貫き、獣の爪が空を切る。
 アルティの脇を、誰かが走り抜けた。
 銀の輝きを放つ長い剣を手に、アッシュブロンドの髪の男が駆け抜ける。
「もう、容赦しねぇ……!」
 吐き捨てるように言い放ち、男が剣を魔獣へと叩き付ける。
 淡く光を放つ剣は魔獣の首をいとも容易く断ち切っていた。返す刃で襲いくる魔獣の攻撃を受け止め、力任せに弾いて魔獣を突き殺す。
 鬼のような形相で、男は戦っていた。アルティの前に立ち、向かってくる魔獣を斬り伏せていく。
「ヴァルド……さん?」
 力なく、アルティは男の名を呼んだ。
 円陣から現れた魔獣がすべて倒された頃には、ヴァルドの手にしていた剣もぼろぼろになっていた。刃にはヒビが入り、刃も欠けている。
「……間に合わなかったか」
 下半身だけになって転がっているサイモンを見て、ヴァルドは歯噛みした。
 ヴァルド自身もかなり疲弊しているようだった。服は至る所が避け、致命傷ではないものの掠り傷は多い。
「どうして……」
 まだどこか我を失っているアルティを見て、ヴァルドは辛そうに目を細めた。
 ヴァルドがアルティに歩み寄ろうとした瞬間だった。
 ヴァルドの背後に光の円陣が生じ、空間が歪んだ。振り返ったヴァルドは驚愕に目を見開く。
「まさか……!」
 ヴァルドは円陣を睨み付ける。ヴァルドの右手には、光で描かれた紋様が浮かび上がっていた。
 現れたのは、三対の翼を持った漆黒の竜だった。鰐の様な頭を持ち、巨大な牙と、威圧的ですらある大きな体躯を持った魔獣だ。
 見下ろす目は金色の輝きを帯び、縦に割れたような細長い瞳がヴァルドを射抜く。
「ヴリトラ……!」
 ヴァルドは剣を構え、竜を見据えた。
 ヴリトラの口が僅かに開き、その隙間から漏れた吐息が陽炎となって大気を揺らめかせる。刹那、竜の口から炎が放たれた。巨大な炎の塊がヴァルドへ向けて吐き出される。
 ヴァルドは炎へ剣を叩き付けた。銀の光を帯びた剣が炎を両断しする。凄まじい熱気にヴァルドの髪がはためき、千切れた服の切れ端が一瞬で灰になる。左右に分かれた炎は木々を巻き込んで爆発し、生じた突風が辺りの草木を薙ぎ倒す。
 翼をはためかせ、竜が宙に浮かびあがる。ヴァルドは大きく跳躍し、剣を振り被る。
 竜が身を捻り、尻尾をヴァルドへ叩き付けた。ヴァルドはその尻尾を蹴飛ばし、足がかりにして竜の懐へと辿り着く。大きく振り被られた剣が、竜の首筋へ斜めに叩き付けられる。
 だが、刃が竜を切り裂くことはなかった。
 澄んだ音を響かせて、剣が砕け散る。竜が爪を振るい、ヴァルドはヴリトラの胸板を蹴飛ばして強引に後方へと跳んだ。辛うじて爪をかわし、空中で体を反転させて着地する。
「ちっ……」
 砕けた剣の柄を一瞥し、ヴァルドは投げ捨てた。
 肩で息をしながら、ヴァルドは翼をはためかせて宙に浮いている竜を見上げた。生身で勝てる相手ではない。何か武器がなければ、素手では竜の硬い皮膚に太刀打ちできないのは明白だった。
 ヴリトラはそれを知っているのか、行く手を阻むようにヴァルドを見下ろしているだけだ。
 ヴァルドは振りむいてアルティを見た。アルティは焦点の定まらない瞳で、ヴァルドと竜を見上げている。
 大きく息を吐き出すと、ヴァルドはヴリトラへ向き直った。腰に下げていた二つの短剣を抜き放ち、地を蹴る。
 ヴァルドは尻尾を脇に抱えるように受け止め、そのまましがみついた。衝撃で軋む体を無視して、ヴァルドは尻尾から背中へとよじ登る。振り解こうと暴れる ヴリトラの背中に短剣を突き刺そうとするが、刃が通らない。右手の刃を噛むようにして口に咥え、空いた右手で首元まで這い上がる。
 左手の刃を後ろからヴリトラの左目へと突き込んだ。眼球を貫かれ、ヴリトラがおぞましい絶叫をあげる。仰け反り、暴れる首にしがみつき、ヴァルドは口に咥えていた短剣を右手で掴み、ヴリトラの右目にも突き刺した。
 視界を失い、ヴリトラが背中から地面に墜落する。着地寸前に首筋を蹴飛ばして巻き込まれるのは防いだヴァルドだったが、それでも完全に受け身を取ることはできなかった。地面を転がり、ヴァルドは木に肩をぶつけてようやく止まった。
 ヴァルドはダメージの抜け切らない震える腕で身を起こす。
 竜は目を潰されてのたうちまわり、周囲の木々を無差別に薙ぎ倒していた。その目には短剣が突き刺さったままだ。ヴァルドにはもう武器が残されていないようだった。
「精霊と、魔獣と、何が違う……」
 途切れ途切れに、ヴァルドは呟いた。
「こんな得体の知れないものに、どうして頼れる……!」
 立ち上がり、ヴァルドは暴れる竜を睨み付ける。
 ヴァルドは座り込んだままのアルティの下まで歩み寄った。屈み込んで彼女の両肩を掴み、軽く揺する。力なく揺すられるだけの少女を見て、ヴァルドは目を細めると、平手で軽く頬を叩いた。
「しっかりしろ」
「あ、私……」
 ヴァルドの呼び掛けに、アルティの自我が戻る。
「今なら少し迂回すれば聖域に辿り着ける。歩けるか?」
 その問いかけに、アルティははっとしてヴァルドを見上げた。
「ヴァルドさん? 何で……?」
 混乱するアルティをゆっくり立たせると、ヴァルドは彼女を伴って暴れる竜から身を隠すように木々の合間へ入って行く。
「元々、俺の考えはお前らと同じだ」
 ヴァルドは慎重に周囲を警戒しながら、アルティに告げた。
 彼は初めからアルティたちに協力するつもりだったのだ。
「集落に来た時点から、お前らは監視されてたんだ。表立って協力するとは言えなかった」
 どこか悔しげに、ヴァルドは語った。
 セラフたちにとって異物であるアルティたちは監視がついていた。特に、サイモンは考古学者として聖域を調べることを強く望んでいた。警戒されないはずがない。
 ヴァルドはセラフによる監視に気付いていた。いくらヴァルドがセラフの中でも有数の実力者だったとしても、面と向かってサイモンに協力すると口にすればその場で集落にいる全てのセラフを敵に回すことになる。聖域へ向かう前に殺されてしまうのは目に見ていた。
 だから、ヴァルドはどっちとも取れる言い回しを使っていたのだ。
「……セラフがここまで追ってこないのは、ここまで来てしまうと契約が解除されるからだ」
 ヴァルドはそう言って暴れ回る竜へ視線を向けた。
「じゃあ、あれは……」
「俺が成人の儀で契約した精霊、ヴリトラだ」
 暴れ回る竜を睨むように見据えて、ヴァルドは告げた。
 竜、ヴリトラはヴァルドが契約していた精霊だった。だが、ヴァルドはヴリトラを自らの意思で召喚してはいない。ヴリトラが勝手に現れたのだ。
 その意味するところを、ヴァルドはすでに察していた。
 即ち、契約の破棄、そして聖域の守護だ。
 聖域はセラフが守っている。だが、セラフに守れなかった時は精霊たちが聖域へ向かう者たちを排除するのだ。誰であろうと例外ではない。一定範囲に踏み込 んだ瞬間、セラフは精霊との契約を解除されてしまう。そして、契約が解除された精霊は自らの意思でこの場に現れ、侵入者を阻む。
 聖域は精霊によって守られている。
「放っておけばまた精霊は現れるはずだ。その前に、聖域を確認する」
 森の終わりが見えた。
 ヴァルドはアルティの手を引いて、歩みを速めた。
「これが、聖域……?」
 山頂に足をかけた瞬間、眼前に広がった光景を見て、ヴァルドは絶句した。
 やや遅れてアルティも聖域を目にし、言葉を失った。
「そんな……」
 アルティは力なくその場に座り込む。
 蓄積された疲労とダメージが押し寄せて、ヴァルドは膝をついた。
 そこには、何もなかった。円形の山脈に囲まれた、何もない盆地だった。その内側には草木はなく、何もない土地が広がっているだけだった。
 山頂の境を越えても、異世界に足を踏み入れることもなく、盆地の中には生物はおろか何かが住んでいる形跡すらない。異世界への扉のようなものも、ましてや精霊や神さえ存在しない。人間よりも視力のいいセラフの目ですら、何も見つけることはできなかった。
「だったら、何で、こいつらは……?」
 ヴァルドは後方でのた打ち回っている竜へ振り返る。
 何故、精霊たちはこの場所を守るように現れるのだろうか。
 理解できないことばかりだった。
 ただ、振り返ったヴァルドの視線の先で、ヴリトラは確かに二人の方へと顔を向けていた。まるで気配を察知しているかのように、口の端から陽炎が漏れる。
 ヴァルドは反射的に動いていた。アルティに抱き付くようにして組み伏せ、二人を狙った火球をかわす。
「私、一体、何のために……」
 アルティの頬を涙が伝う。
 ヴァルドは身を起こし、ヴリトラへと目を向ける。潰れた二つの目は、確かにヴァルドの方へと向いていた。息を吸い込むように首を上へ逸らすヴリトラの口から陽炎が立ち昇る。
 ヴァルドはアルティを抱きかかえ、地を蹴った。木々の合間に飛び込んで、身を隠しながら山を下る方へと走り出す。
 竜が吐き出した火球がヴァルドの背後に着弾し、爆発する。アルティを抱える手に力を込め、ヴァルドはよろけながらも走り回る。
「……兄、さん……」
 必死の形相で逃げ続けるヴァルドを虚ろな目で見上げて、アルティが小さく呟いた。
 竜が炎を放射状に吐き出し、ヴァルドの行く手を遮る。その上で、火球を連続して放つ。
「くっ……!」
 ヴァルドは歯を食い縛り、強引に身を捻って走る角度を変えた。強く大地を蹴り、なんとか火球を掻い潜る。
 だが、炎と木々を吹き飛ばして、ヴリトラの尻尾が横合いから叩き付けられる。
「しまっ――」
 かわせない、そう思った瞬間だった。
 ヴァルドは何かに突き飛ばされ、足を滑らせるようにして背中から倒れていた。
 その、目の前で。
 ヴァルドを突き飛ばした少女が、ヴリトラの尾を身に受けていた。
 軽い少女の体は木の葉のように宙を舞う。
 ヴァルドの目が大きく見開かれ、全身に鳥肌が立つ。
「――アルティーっ!」
 少女の体は樹木を一本へし折って地面に転がっていた。
 ヴァルドの脳裏に、あの日の光景が甦る。血の気が引き、頭の中が真っ白になる。恋人が、目の前で引き裂かれて死ぬ光景が、重なって見えた。手が届かずに、後悔した日の記憶だ。
 そして、ヴァルドが精霊を、神を憎悪するきっかけだ。
 ヴリトラの右目から抜け落ちた短剣がヴァルドの目の前に落ちてくる。ヴァルドはそれをひったくるように掴み、ヴリトラの体に叩き付けた。腹だろうと脚だろうと、構わずに。
 二度、三度と叩き付けるうちに刃は欠け、五度目の攻撃で砕け散った。
「……認めねぇ」
 ヴァルドがぽつりと呟いた。
「認めねぇぞ……神も、精霊も……!」
 腹の底から絞り出すように、ヴァルドは憎悪の籠もった視線をヴリトラへ向けていた。
「――ヴァルド!」
 声に振り向けば、傷だらけのイアンが遠くに見えた。
「使えっ!」
 そう叫んで、イアンは手に持っていたショットガンを、ヴァルドへと放り投げた。
 イアンが膝をつき、ヴァルドはショットガンを受け止める。
「弾は、七発だ……!」
 イアンの声を背に、ヴァルドはヴリトラへ向き直る。
 ヴリトラが炎を吐き、ヴァルドが横へ跳んで逃れる。背面へと回り込んだヴァルドは、右手のショットガンの銃口を翼の付け根へと向けて引き金を引いた。
 破裂音が響き、反動でヴァルドの右腕が大きく跳ね上がる。薬莢が地面に落ちて、澄んだ音を立てた。
 六枚ある翼のうち、左側の三枚が根元から千切れ飛んだ。赤い血しぶきが舞い、ヴリトラが絶叫をあげる。
 ヴリトラが次の攻撃に移るよりも早く、ヴァルドが動いていた。銃口を竜の尾の付け根に押し付けて、引き金を引く。
 竜の尾が弾けるように千切れ飛び、仰け反るヴリトラの右足にもう一発散弾を叩き込んだ。夥しい量の出血をしながらも、ヴリトラはヴァルドへと振り返り、爪を振るう。ヴァルドはその手へと銃口を向けていた。破裂音と共に竜の手が、手首から弾け飛んでいた。
 もう一方の爪を振るうヴリトラへ、ヴァルド一歩踏み込んで竜の肩へとショットガンを撃っていた。腕が肩から千切れ飛び、仰け反る竜の腹へ銃口を押し付けて再び引き金を引く。
 おぞましい叫び声をあげながら、ヴリトラがヴァルドを噛み砕こうと口を開ける。
 ヴァルドはヴリトラを睨んだまま、眉一つ動かさずにショットガンを竜の口へと捻じ込んでいた。牙がヴァルドを貫くよりも早く、ヴァルドの指が引き金を弾く。
 竜の喉の内側から、頭部が弾け飛んだ。
 倒れるヴリトラに背を向けて、ヴァルドはアルティの下へと駆け出していた。
「アルティ!」
 名を呼んで、抱きかかえる。
「生きてる、か……?」
 痛めた左肩を右手で押さえながら、イアンが歩み寄ってくる。
「ああ、骨折か、ヒビぐらいは入っているかもしれないが、生きてるよ」
 言って、ヴァルドは心の底から安心したように大きく息を吐いた。
「サイモンは……?」
 イアンの問いに、ヴァルドは首を横に振った。
「間に合わなかった」
「そうか……」
 イアンは目を閉じて、命を落としたサイモンに黙祷を捧げていた。
「俺も、てこずっちまった」
 イアンはヴァルドからショットガンを受け取りながら、そう呟いた。
「いや、セラフ数人と精霊相手なら、いい方だろ」
 ヴァルドはアルティの傷の具合を確認しながら答えた。
 セラフたちのいる場で、ヴァルドはイアンと戦うことをしなかった。一度手合わせをしたイアンは、ヴァルドの真意に気付き、一見そうとは分からないように見逃したのだ。
「任せる、って言われたからな」
 ふっ、と笑って見せるイアンに、ヴァルドも薄く笑みを浮かべた。
「……早いとこ山を下りよう」
 ヴァルドは言って、気を失ったままのアルティを抱えて立ち上がった。
 イアンも頷いて、二人はその場に背を向けて山を下り始めた。
「兄さん、こっちに」
 ある程度山を下りたところで、茂みの間からグレイスがヴァルドを呼んだ。
「そっちはどうだ?」
「何とか撹乱できたよ。とりあえず、聖域に向かったって話は伝わってないから」
 グレイスの笑みに、ヴァルドはそうか、と安堵の息を漏らした。
「どういうことだ?」
 イアンは不思議そうに首を傾げる。
「後先考えずにまず動いてみるってのも悪いとは言わないけどな」
 ヴァルドは言って、意地悪そうな笑みを浮かべた。
 アルティたちがヴァルドの家を出た後、家の周囲を監視していたセラフがいなくなってから、ヴァルドはグレイスに情報を操作するよう頼んでいたのだった。
「聖域に何かがあったとしても、その後、セラフ全員を敵に回したんじゃどうにもならない。確証が持てるまでは、隠密にするべきだろ?」
 何もない可能性も、ヴァルドは考慮していた。少なくとも、ヴァルドが神や精霊に逆らうための手掛かりになりそうなものがなかった場合を考えていた。例え聖域に何かあったとしても、手掛かりにならなければ危険を冒す意味は薄い。
「それで、何かあった?」
 グレイスの問いに、ヴァルドは首を横に振った。
「何もなかった……」
 ヴァルドは悔しげに俯いた。
「ただ、山頂付近では確かに精霊が暴走する。サイモンもそれで死んだようだった」
「少なくとも、今回は収穫なし、か……」
 ヴァルドの言葉に、グレイスも俯いた。
 まだ、目に見えなかっただけで手掛かりはあったのかもしれない。ただ、これ以上聖域の奥へ向かうことはできなかった。
 それに、本当に関係のある何かがあるのなら、もっと多くの精霊が立ちはだかるだろう。丸腰になってしまっていたヴァルドに、戦う力の無いアルティ、傷だらけのイアンでは聖域の中央まで辿り着けない。
「う……」
 意識を取り戻したのか、アルティが呻き声をあげた。痛みに顔を歪めている。
「気がついたか。立てるか?」
 小さく頷いたのを確認して、ヴァルドはアルティを下ろした。体の節々が痛むようだったが、幸いにも大きな怪我はなく、歩くのに問題はないようだった。
「グレイス、俺は暫く外に出ようと思う」
 ヴァルドは言った。
「……世界中を回って、また手掛かりを探してみようと思う」
「え……?」
 ヴァルドの言葉に、アルティは驚いたようだった。
「聖域にも、何もなかったのに……」
「ああ、だが、何者かが、介入してるだろうことは確信が持てた」
 落ち込むアルティの言葉に答えるヴァルドの口調は、はっきりしていた。
 それが神と呼べるものなのか、ヴァルドにも分からない。だが、精霊の暴走や、出現などが自然なことだとは、ヴァルドには思えなかった。
「アルティ、お前はどうする?」
 ヴァルドは隣を歩くアルティに問いかけた。
 彼女が助手を務めていたサイモンは命を落としてしまった。イアンは元々雇われた人間だ。ヴァルドもグレイスも家がある。彼女に帰る場所はあるのだろうか。
「私は、それでも調べ続けるわ。先生の後を継ぐかどうかは分からないけれど、私一人ででも……」
 アルティは一度目を閉じてから、前を見据えてそう答えた。
「なら、俺はお前と共に行こう」
 その言葉に、アルティは目を見開いてヴァルドを見上げた。
「ヴァルド、さん……?」
「そう言うと思ったよ」
 驚くアルティを余所に、グレイスは小さく吹き出した。
「アルティさん、兄さんの好みだし、それに――」
「――危なっかしいからな」
 グレイスの頭を小突いて遮り、ヴァルドは言葉を引き継いだ。
 目を丸くするアルティの頬が薄いピンクに染まる。
「銃も気に入ったんだろ?」
「まぁな」
 イアンの軽口に、ヴァルドは笑みを見せた。
「あんたなら良い使い手になるぜ」
「得体の知れないものより、俺には人が創り出した武器のが好みだ」
 笑みを浮かべてはいたが、その言葉はヴァルドの本心だった。
「なら、僕は、僕でセラフの中から調べてみるよ。僕だって、あの時何かできたかもしれなかったんだ。この世界がおかしいって想いは、兄さんと同じだから」
 柔らかい表情ではあったが、グレイスの目には固い意志の光があった。
「ああ、たまには会いに行くさ」
 ヴァルドがそう答えたところで、開けた場所に出た。
 十字に削られた簡素な墓の前で、ヴァルドは立ち止まる。恋人の墓前で、ヴァルドは目を閉じた。
 ――アルティは、ピウレに似ているから。
 それが、ヴァルドが遮ったグレイスの言葉の先だ。もう、掟には縛られない。ヴァルドはヴァルドの意思で、これから先、この世界を歪めているものに抗う生き方を貫いていく。
 ――もう、失くさない。守ってみせる。
 口には出さず、ヴァルドは心の奥底で誓った。
 そして、ヴァルドは歩き出した。
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