序 「霧の中を駆ける少女」


 白く靄がかかった平原を、一人と一匹が駆けていく。
 鮮やかな紅い髪を頭の後ろで束ねた少女と、額に碧色の宝石のようなものが埋め込まれた狼だった。
 ぱっちりした大きな翡翠色の瞳は活気に満ち溢れている。幼さの残る可愛らしい顔立ちの少女だ。華奢そうな背格好とは裏腹に、前傾姿勢で走るその速度は前を走る野生動物にも引けを取らない。
 時折背後の少女を首だけで振り返り、狼が先行している。少女を誘導しているようで、彼女を気にかけているようにも見える。
「大丈夫かい、ノア」
 狼が喋った。
「うん、だいじょうぶだよ、テルマ」
 少女は真っ直ぐに前を見つめたまま、答える。
「私の教えたこと、ちゃんと憶えているね?」
「うん、おぼえてるよ」
 走りながら、ノアと呼ばれた少女が大きく頷く。
 世界は『霧』に包まれている。その『霧』は、人類がこれまでに築きあげてきた文明を滅ぼした。
 人間は『獣(セル)』の力によって文明を発展させてきた。鉱物のような姿をした生命体『獣(セル)』は、人が触れることによりその姿を変え、人に力を与えた。岩を砕き、樹を薙ぎ、自らよりも重きを運ぶことを可能とした。
 だが、およそ十年ほど前にどこからか流れ出した『霧』が世界を覆った。
 『霧』は『獣(セル)』を狂わせた。『霧』に触れた『獣(セル)』は人を襲い、人に取り憑き、人を狂わせた。
 人は『霧』と『獣(セル)』に怯えながら暮らすようになった。
「きり、なくす!」
 ノアはテルマからそう教わった。
 そして、同時に『霧』を払う術があることも、『霧』の中を生き抜くための力も、テルマから教わっている。
「十年、早かったのか短かったのか……」
 小さく、テルマが呟く。
 ノアたちの遥か後ろの方には、岩山があった。ノアはその岩山の中にある洞窟でテルマと暮らしていた。洞窟には外への出口がなかった。だから『霧』も入ってこなかった。
 だが、ついさきほど、地震が起きて洞窟は崩れ落ちた。ノアとテルマは地震によってできた出口から外へ抜け出したのだ。『霧』が入ってきて、安全ではなくなってしまったから。
「けどまぁ、仕方がないね」
 テルマの声には強い意志が感じられた。
「ノア、目の前の山は?」
「リクロアさん!」
「正解、じゃあその山頂には?」
「そうせいじゅがある!」
「その通り、最後にどうするんだい?」
「そうせいじゅできり、なくす!」
「よし、ちゃんと憶えてるね、良い子だ」
 テルマの優しい声に、ノアが嬉しそうに笑みを浮かべる。
「一気に山頂まで行くよ! しっかりついておいで!」
「うんっ!」
 加速するテルマに大きく答えて、ノアが足に力を込める。思い切り地面を蹴飛ばして、山頂への獣道を突き進む。
 モンスターや野生生物がノアとテルマに反応する。『霧』で視界が悪く、ある程度まで近付かないと見分けがつかない。モンスターの間を縫うように、テルマは速度を落とさずに駆け抜ける。
「いちいち相手にしなくていいからね!」
 ノアはモンスターを跳び越え、かわしながらテルマを追い掛ける。
 目の前に鉱物的な質感の異形が飛び出してきた。『獣(セル)』だ。甲殻に覆われたクラゲのような『獣(セル)』が、体の左右から伸びた細い触手をテルマに向ける。
 テルマは四つの足を踏ん張って急停止し、直角に横へ跳ぶと着地点で体を捻り、『獣(セル)』へと飛び掛かった。前足の爪で捉え、浮遊している『獣(セル)』を強引に地面に押し倒す。
 その脇をノアが駆け抜けた。
 次の瞬間にはテルマも『獣(セル)』を放り出して走り出す。
 斜面を駆け昇って行くノアを見て、テルマは岩肌を跳びついで彼女に追い付いた。
 走り通してきたこともあって、ノアの呼吸が乱れ始めている。
「もう少しだよ、ノア!」
「うん!」
 励ますテルマに、ノアは力強く頷く。
 辿り着いた山頂には、小さな樹が生えていた。緑がかった樹皮は透き通っているかのような不思議な色合いをしている。葉は一枚もなく、枝もあるが短く、幹の太さも人ひとり分ぐらいしかない。それでも、枯れているというわけでもなかった。不思議と、生命力を感じさせる。
「これが、そうせいじゅ?」
 呼吸を整えながら、ノアが樹に歩み寄る。
「そうだよ、これが創世樹だよ」
 テルマがノアの隣で頷いた。
「テルマ、どうすれば――」
 ノアが言いかけた時、急に影が落ちた。
「危ない!」
 テルマが体当たりをするようにしてノアを押し退ける。
「わっ!」
 弾き飛ばされたノアが尻餅をつく。
 その目の前で、テルマの真上に大きな影が落下してきた。テルマがとっさに横へと跳んで逃れる。直後、鋭利な爪がテルマのいた地面に突き立てられていた。
 上から降ってきたのは、背中に翼を生やした獅子のような『獣(セル)』の怪物だった。赤みを帯びた岩のような体に、青いたてがみが特徴的だ。
 雄叫びをあげる『獣(セル)』の怪物に、ノアは本能的に身構えていた。
「ちっ、こいつを先に何とかしないといけないね……」
 テルマが苛立たしげに呟いた。
 『獣(セル)』の怪物が爪を振るう。テルマが左右にステップを踏んでかわす。テルマに気を取られている怪物に、ノアは左拳で殴り付けた。
「いったぁーい!」
 岩を殴り付けたような感触に、ノアが右手で左手を押さえて声をあげる。
 思い切り殴り付けたせいか、かなり痛かった。涙目になりつつ、怪物を睨み付ける。
「こんのっ!」
 腰を捻って力いっぱい回し蹴りを放つ。
 怪物が僅かに体勢を崩したぐらいで、効いているようには見えない。
 怪物の注意がテルマからノアに向いた。怪物の爪が振り下ろされ、ノアはそれを横に跳んでかわす。続く噛みつきを、後ろへ跳ねて避ける。突進を横に身を投げ出して逃れる。
「どうしようテルマ、こいつつよいよ!」
 攻めあぐねるノアの横を、狼が駆け抜ける。突進後の隙に、首筋へとテルマが噛みついた。
 振り払おうと身を捩る怪物に、テルマは食い付き続ける。
 だが、翼で何度も打ちつけられ、大きく身を震わせた拍子に弾き飛ばされた。
「テルマ!」
 地面に叩き付けられたテルマにノアが駆け寄ろうとする。そのノアの背後に怪物が迫る。
「ノア、後ろ!」
 苦しげなテルマの声に、ノアが振り返る。
 振り下ろされた爪を、間一髪のところで身を逸らしてかわした。続く爪の攻撃を、右へ左へ転がるようにして避ける。
「う、く……まずいね、体が……もうダメかね」
 テルマが身を起こそうとして、できないようだった。呻き声にも似た呟きを漏らす。
 ノアは攻撃をかわすのに必死で、テルマに駆け寄ることも、反撃することもできない。それでも、逃げたり、諦めたりするつもりはなかった。どうすればいいのかを必死に考えながら、ノアは怪物に向き合う。
 いつの間にか、ノアの背後に岩があった。
「あ……!」
 追い詰められた。逃げられない。岩が邪魔で、かわせない。
 思わず、声が漏れた。
 怪物が勝ち誇ったかのように唸りを上げながら、爪を振りかぶる。
「おりゃああああっ!」
 誰かの雄叫びが聞こえた。
 その刹那、爆音が響き渡り、怪物が横に吹き飛ばされた。
 そして、右手に燃え盛る炎のような真紅の腕輪を着けた蒼い髪の少年が、ノアの前に立っていた。
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