第一章 「目覚め」


 天を生み、地を生み、海を生み、森羅万象を生み出した神は最後に、この世界を支配するものとして人間を生み出した。
 しかし、神の知恵を授かった人間といえども、その肉体は野獣より弱く、その心はうつろいやすく、いくたびも滅びの危機を迎えた。
 人間の未来を案じた神は、かれらを補うために、大いなる力を与えた。
 『獣(セル)』であった。
 歴史と言われる記憶の黎明期から、人類は『獣(セル)』と共にあった。
 『獣(セル)』とは、人間と共にあり、人間の意志により、人間の能力を飛躍的に高める生物。
 人間が身に着ける前の『獣(セル)』は鉱物と見まがうような存在。
 だが、人間に触れた『獣(セル)』は姿を変え、秘められた能力を人間に与える。
 『獣(セル)』さえあれば、人間は自身より重いものを持ち上げ、大空を自由に飛翔できた。
 しかし、その時代は幕を閉じた。
 どこからか流れ出した『霧』が世界を覆った時、『獣(セル)』と共に繁栄した世界は変貌した。
 濃密な霧に包まれた時、従順にしたがっていた『獣(セル)』が人間に反旗を翻したのだ。
 『獣(セル)』は意志を持ち、単独で人を襲った。
 人に装着した『獣(セル)』は人の心を支配し、邪悪な獣にした。
 神は人を見捨てたのか。
 文明は崩壊した。
 人類は黄昏の時代を迎えた。
 『霧』から逃げ延びた人間たちは辺境の地で身を寄せあうようにして生きていた。
 希望の残り火をわずかな心の支えとして。


 心地良い日の光が窓から差し込んでくる。
 ヴァンはベッドから身を起こして、背伸びをした。
「あ、おはようお兄ちゃん」
 ベッドの脇に、小さな女の子がいた。ぱっちりした目と紺色の髪に大きなリボンが特徴的な妹のネネだ。
 丁度ヴァンを起こそうとしていたらしい。
「ん……ああ、おはよう」
「珍しいね、いつもは起こすまで寝てるのに」
 蒼い髪をかきながらヴァンが答えると、ネネがくすりと笑った。
 ヴァンは頬をかいてベッドから降りた。早起きの理由はヴァン自身分かっている。ネネも気付いているから笑ったのだろう。
 やはり、少し緊張しているのだろう。今日はヴァンの十四歳の誕生日だ。
 このリム・エルムでは十四歳になると大人として認められる。そして、大人の男は外へ狩りに出て、村の食糧を取ってこなければならない。
 大人の男達だけが、村の外に出ることができる。
「父さん、広場に行ってくる」
 家の奥で机に向かって書物を手に難しい顔をしている父親にそう告げて、ヴァンはテーブルの上のパンを一つ手に取って歩き出した。
「ああ、分かった」
 父、ヴァルの声を背に、ヴァンはパンを齧りながらドアを開けて、外へ出た。
 ヴァンの家はリム・エルムでは一般的な平屋で、部屋が一つしかない簡素な造りのものだ。屋根は木で、壁は石でできている。リム・エルム自体、かなり小さな村だ。家もそう多くない。
 海に面している方角以外、三方を高く分厚い石壁で覆っている。この石壁と、海から吹く風が村を『霧』から守ってくれている。
 村の中央には窪んだ広場があり、そこには一本の木があった。緑がかった不思議な色の樹皮をした、創世樹と呼ばれている木だ。枝はあるが葉はなく、そこまで大きい木でもない。葉の落ちた落葉樹のような印象だ。
 ヴァンは創世樹にそっと手を触れた。触った感触としては、普通の木とあまり変わらない。ただ、この創世樹の近くにいると心が安らぐ。不思議と、気持ちが落ち着いてくる。この広場の中だけが、時間がゆっくりと流れているような、穏やかな雰囲気に包まれている。
 ヴァンには、そんな気がする。
 創世樹から手を離して、ヴァンは木の幹に背中を預けるようにして地面に座り込んだ。そのまま空を見上げて、ぼーっとしているだけで、何故だか心地良い。
 だから、ヴァンは創世樹が好きだった。
「今朝は早いな、ヴァン」
 不意に声が聞こえて、ヴァンは空を見上げていた顔を声の方へ向けた。
「トッド」
 胴着を着込んだ坊主頭の温和そうな顔立ちの男が広場の入り口の方から歩いてきていた。頭頂部から一房だけ髪を伸ばし、動物の尻尾のように後ろへ垂らしているのが特徴的だ。
「何か、早く目が覚めちゃってさ」
 ヴァンは苦笑を浮かべた。
「明日から、ヴァンも大人の仲間入りか」
 トッドはそう言って、創世樹を見上げる。
 『霧』が現れる直前にリム・エルムから北にある川の更に向こうのバイロン寺院というところから、力と愛の神バイロンの教えを広めるためにやってきた僧兵がトッドだ。
 バイロンの教えは『獣(セル)』に頼ることを否定し、自身の力と技を磨くというものだ。トッドの他にもバイロン寺院は世界各地に僧兵を派遣し、教えを広めているらしい。
「早いものじゃな……」
 トッドの後ろの方から、紫色の小さな帽子を頭に乗せた老人がやってきた。禿げた頭に白い髭をたくわえ、杖を手に歩いてくる温和そうな老人がこの村の長だ。
「これは村長」
 一礼するトッドに笑みを返し、村長はヴァンの前に立つ。
 ヴァンは立ち上がる。やや腰の曲がった村長と比べると、ヴァンの方がやや目線が高くなっているだろうか。
「ふふ……お前さんなら立派な狩人になれそうじゃな」
「そうかな……?」
 微笑む村長に、ヴァンは頬を掻きながら苦笑を返す。
「緊張しているかと思って励ましにきたが、その必要もなさそうじゃ」
「狩りをするのに十分な腕を持っていますからね、ヴァンは」
 そう言ってトッドがにっと笑う。
「トッドのお陰さ」
 今日まで、ヴァンは毎日のようにトッドからバイロンの武術を教わっていた。狩人として村の外に一歩踏み出せば危険も少なくない。外の世界の魔物や動物だけでなく、『獣(セル)』と対峙しても生き延びられるようにと、ヴァンは自分を鍛えてきた。
 この村で最も強いと思えたのが、トッドだったから。実際、村の大人たちは誰もトッドに敵わない。
 もちろん、戦う強さと狩りの腕前は必ずしも同じではない。道具を使って食料となる動物を仕留めるのは人同士が取っ組み合うのとはわけが違う。
 それでも、壁の外に出られないまだ子供のヴァンが体を鍛えるには、トッドから武術を教わるのが最適だと思えたのだ。心身を鍛えるという武術を身に付けておくことは、マイナスにはならないだろう、と。
「そう言えばヴァン、メイが探しておったぞ」
「メイが?」
 思い出したように村長が言い、ヴァンは首を傾げた。
「やっぱりここにいたのね!」
 丁度良いタイミングでそのメイの声が響いた。
 ヴァンの前に早足で駆け寄ってくる少女がメイだ。赤いヘアバンドを付けた緑のロングヘアの少女だ。ヴァンと同じぐらいの背格好の少し大人びた女の子だ。優しそうな素朴な顔立ちをしている。ヴァンより一つ年上の幼馴染だ。
「どうしたんだ?」
「明日、あなたが着ていく狩り装束のことなんだけど……」
 ヴァンが明日、大人の男たちと共に行く際の狩り装束を、メイは自分が作ると言い出したのだ。
「何か問題でもあったのか?」
「もうほとんどできてるんだけど、ちょっと寸法で忘れちゃったところがあって……もう一度測らせてもらえないかしら?」
「ああ、いいよ」
「ありがとう、じゃああなたの家で待ってるわ」
 ヴァンの返事に微笑んで、メイは広場から出て行った。
「ふむ、ならば今日の稽古はその後にしようか」
「終わったら砂浜に行くよ」
 トッドにそう答えて、ヴァンは広場を後にする。
 家の扉を開けて中に入ると、メイとネネが談笑していた。
「ただいま」
「おかえり、ヴァン」
 椅子に座ったまま振り返り、父親がヴァンに微笑みかける。
「じゃあ、直ぐに測るわね」
 そう言って、メイは印のついた長い糸をいくつか手に歩み寄ってくる。
 メイの指示に従って、ヴァンは背筋を伸ばした。メイは慣れた手付きで糸でヴァンの体の各部を測り始めた。両手で糸を持ち、ヴァンの肩幅などに合わせて絵筆で印を付ける。
「やっぱり、前に測った時より大きくなってる。肩幅なんて私のお父さんより大きいかも……」
「そんなに伸びてるか?」
 さすがに言い過ぎだろうとヴァンは笑った。
「男の子ってこんなにあっという間に大きくなるのね……」
 感慨深そうにメイが呟く。
「うん、これでおしまい。ありがとう、ヴァン」
「作ってもらってるのは俺なのに、お礼を言われるのは変な気がするなぁ」
 測り終えたメイが糸をまとめるのを眺めて、ヴァンは小さく呟いた。
「ほんと、お礼を言うのはこっちなんだから」
 ネネはメイの隣で道具をまとめるのを手伝っている。
 本来なら、ヴァンの家族であるネネが狩り装束を作るはずだった。それをメイがヴァンを祝いたいからと半ば強引に引き受けていた。
「じゃあ私は家に帰って仕上げるわね」
「分かった、俺はトッドに稽古をつけてもらってくるよ」
 道具の入った袋を抱えるメイを見送って、ヴァンは家を出た。
 ヴァンの家から少し歩いて海側の小高い土手を越えれば砂浜がある。そこがトッドとヴァンがいつも稽古をしている場所だった。砂の地面では効率良く足腰が鍛えられる、とトッドはヴァンに教えていた。
 砂浜では準備運動をしながらトッドが待っていた。
「明日のこともあるからな、今日は軽く済ませようか」
「じゃあ、お願いします!」
 身構えるトッドに頷いて、ヴァンも構えた。
 足を開いてやや腰を落とし体の正面は相手に対してずらしつつ、左拳を前に、右拳は腰ぐらいの高さでやや後方に置く。トッドとほぼ同じ構えだ。
 ヴァンが拳を振るえばトッドはそれをいなし、反撃を繰り出す。それを今度はヴァンが受け、対応する。手解きを受けただけあって、やはりトッドの方が実力は上だ。何度か繰り返して先に呼吸が乱れたのはヴァンの方だった。
「よし、このぐらいにしておこうか」
「ありがとうございました……!」
 少し汗をかいたヴァンに対して、トッドはまだ余裕そうだった。
「結局、俺が狩りに行くようになるまでにトッドに一泡吹かせることはできなかったな……」
 少しだけ残念そうに、ヴァンは苦笑いを浮かべる。
 トッドを追い越すとまではいかなくとも、彼が本気で驚くような一撃を見舞えるようにはなりたかった。
「そうでもないさ」
 トッドは笑った。
「私に教えられることはほとんど吸収できている。自分で思っている以上にヴァンは強くなっているよ」
 自信を持て、とトッドが背中を叩く。
「いいよな、ヴァンは……」
 ふと見ると、土手と砂浜の境に一人の少年が腰を下ろしていた。
 ヴァンと同じぐらいの背格好の緑色の髪の少年だ。ヴァンを好青年と呼ぶなら、彼は悪ガキと呼ぶのがしっくりくるように、対照的な雰囲気がある。
「しょうがないだろ、イクシス」
 むすっとした顔でぼやく幼馴染にヴァンは苦笑する。
 一つ年下の幼馴染のイクシスはこの村では数少ないヴァンの同年代の男友達だった。
 イクシスが狩りに出られるようになるのは翌年ということになる。仲の良いヴァンが一足早く大人の仲間入りを果たし、狩りに出るのが羨ましいのだ。
「お前も稽古つけてもらえよ」
 シャツの襟元で首筋の汗を拭いながら、ヴァンは言った。
 イクシスもヴァンと同じくトッドにバイロン僧術を教わっている。純粋に強くなりたいと思って始めたヴァンと違って、イクシスはヴァンに負けたくないとい う対抗心から体を鍛え始めた。一歳年下であるのがコンプレックスなのは誰の目から見ても明らかだったが、向上心があるのは悪いことではない。
 それに、ヴァンとしても競争相手がいるのは張り合いがあった。
「ヴァンはどうするんだ?」
「また広場に行こうかな」
 立ち上がりながら聞くイクシスにヴァンはそう答えた。のんびりとリラックスするには広場にいくのが一番だ。
「……来年は俺もメイに作ってもらえるんかな?」
「メイなら作ってくれるよ」
 少し不安げに呟くイクシスの肩を軽く叩いてすれ違う。
 トッドとイクシスが向き合い、身構えるのを肩越しに見てから、ヴァンは歩き出した。
 ヴァンとメイ、イクシスの三人は幼馴染だ。よく三人で遊んでいたものだが、昨年のメイに続いて今日からはヴァンも大人として認められる。一人取り残され たような気持ちもあるのだろう。イクシスが人一倍負けず嫌いなのも、ヴァンやメイに置いて行かれたくないからだ。ヴァンやメイにその気がなくとも、イクシ スには一歩先を歩く存在なのだろう。
 だが、こればかりはどうにかできるものではない。
 イクシスとトッドが組み手をする音を背に、ヴァンは広場へ向かう。
 ヴァンもイクシスを置いて行いくとは思っていない。ヴァンにしてみれば、壁の外へ狩りに出る大人になるということにはヴァンなりの意味がある。だから今日という日は嬉しくもあり、落ち着かなくもあり、複雑な心境だ。
 近所の住人たちから声をかけられながら、ヴァンは広場に向かった。
 皆、ヴァンの誕生日を祝い、明日からの狩りの成功を祈ると言ってくれる。プレッシャーを感じないわけではなかったが、それも広場で創世樹の傍にいると和らぐ気がした。
 流れる雲を、創世樹に背中を預けて見上げる。ずーっと、こうしていたいと思えるほどに心地が良かった。
 どれぐらい時間が経っただろうか。
 そろそろ家に戻ろうかと思った時だ。
 広場の向こう、正面に見える大きな扉が開く重苦しい音が聞こえた。
 海側以外の三方を高く分厚い壁で囲んだリム・エルム唯一の出入り口の扉だ。狩りに行く時と帰ってきた時にしか、あの扉は開かない。
「おとうさんが帰ってきたんだ!」
 そう言って、近くで遊んでいた子供たちが扉の方へと走り出した。
 子供たちだけでなく、手の空いている者が狩りに出た者たちを迎えるために集まっていく。ヴァンも明日からは出迎えられる側になる。そう思うと、自然と壁の方へと足が向いていた。
 人が一人通れるぐらいに扉が開くと、狩りに出ていた大人の一人が深刻な表情で飛び込んできた。周りの人たちが声をかけるよりも早く、真っ直ぐにメイの家へと走って行った。
 扉の前で父親を待つ子供たちが声をかけるのを躊躇うほど、硬い表情をしていた。
 ヴァンは、嫌な予感がした。
 メイが真っ青な顔で家から飛び出して、扉の方へと向かう。ヴァンはメイとほぼ同じタイミングで扉の前に辿り着いた。扉は既に閉じられ、狩りに出ていた大人たちが仕留めた獲物と、担架に乗せられて横になっている男を地面に下ろしていた。
「リブロ……」
 集まっていた人の中から、その名前が漏れた。
「お父さんっ!?」
 担架の上にいたのは、メイの父親のリブロだった。
「すまない……メイ」
 狩りに出ていた大人たちを率いていたリーダー格の男が苦い表情で歩み出る。
「あっという間だったんだ……本当に、あっという間だった……」
 担架を抱えていた男が悔しそうに呟いた。
「いつもより早く『霧』が現れて、『獣(セル)』の化け物がリブロを……」
「俺たちは何もできなかった……」
 唇を噛み、男たちが顔を伏せる。皆、握り締めた拳が震えていた。
「お父さん、起きてよ……お願いだから、目を覚ましてよ……!」
 メイが両膝を着き、リブロの肩に触れる。
「嫌だよ! 私を一人ぼっちにしないでよ! お願いだから……! お願いだから……っ」
 冷たくなったリブロに触れて、メイの瞳から涙が溢れた。メイの肩が震えて、ぼろぼろと涙がリブロの胸に落ちる。
「メイ……」
 ヴァンには、かける言葉がなかった。震えるメイの肩にそっと手を乗せることしか、ヴァンにはできなかった。
 ぐっと奥歯を噛んで、リブロを見る。彼はメイの父親であり、ヴァンの父ヴァルの親友でもあった。家族ぐるみの付き合いをしていたから、ヴァンにとってもリブロは親しい大人の一人だった。狩りに出たら色々教えてもらうことになっていた。
 それなのに、ヴァンが狩りに出る前日に死んでしまった。
 知らせを受けて、村の者たちが集まってくる。
 ヴァルが杖を手に片足を引き摺りながらメイと一緒にやってきた。トッドとイクシスも少し遅れてやってきて、物言わぬリブロを見て言葉を失っていた。誰もがその事実を受け止め切れず、重苦しい空気だけが積み重なっていく。
「リブロおじさん……」
 イクシスが信じられないといったように、呆然と呟いた。
 メイの嗚咽だけが、重苦しい空気を揺らしていた。
 暫くして、ヴァンはメイをゆっくりと立ち上がらせた。大人たちがリブロをメイの家に運び、ヴァンは父と妹と一緒にメイに付き添った。
 ベッドにリブロを寝かせ、泣き腫らした顔のメイがその傍に立ち尽くす。
 狩りが安全なものではないとは知っていた。狩りに事故はつきものだ。これまでに命を落とした者がいないわけではない。
 だが、いつもそうだ。死者が出る時は決まって、『霧』が『獣(セル)』を連れてくる。『獣(セル)』が狩人の命を奪う。
 ヴァンは奥歯を噛み締めたまま、リブロを見るメイの背中を見つめていた。
「ヴァン……メイもだいぶ落ち着いてきた」
 静かな声音で、近所に住む老婆がヴァンに声をかけた。
「もうすぐ夜になる。わしらがメイと一緒にいるから、お前も家に帰りなさい……」
 ヴァルとネネは先に自宅に向かっている。ヴァンだけが、ここに残っていた。
「でも……」
「ヴァルとネネが待っておる。一度帰りなさい」
 老婆は優しい声でヴァンの背中に触れた。ここにいても、自分にできることはない。リブロの死にショックを受けているのは、メイだけではない。ヴァンだけでもない。ヴァルも、ネネもそうだ。
「メイ……」
「ヴァン……お父さんね、約束したんだよ」
 メイに声をかけると、ヴァンの方を振り向くこともせず、彼女はぽつりと呟いた。
「いつか、『霧』が晴れたら、私を色んなところに連れていってくれるって……」
 静かな、落ち着いた口調ではあった。けれど、無理をしているのは、誰の目にも明らかだった。
 胸が痛い。ヴァンがそうなのだから、メイはもっと痛いはずだ。張り裂けそうなはずだ。
「俺、帰るよ」
 それだけを言うのが、やっとだった。また泣きそうなメイを見ていられなかった。ヴァンも、何と言ってやればいいのか分からない。明日からは、自分もそうなるかもしれない。
 葬式は明日の朝に行われることになっている。今夜一晩で、メイはリブロに別れを済ませなければならない。
 メイの家を出ると、イクシスが家の壁に背中を預けるように膝を抱えて座り込んでいた。
 眉間に皺を寄せて、何かを堪えているかのようだった。
「俺が一緒に行っていれば、『獣(セル)』の化け物なんてぶっ飛ばしてやるのに……!」
 悔しそうに、イクシスが声を絞り出す。
「イクシス……」
「分かってるよ……俺なんかがいたってどうにもならなかったことぐらい……でもよ!」
 顔を上げたイクシスの目尻には、涙が溜まっていた。
「あのリブロおじさんが死んだなんて、俺には信じられねぇんだよ……!」
「俺だってそうだ」
 鼻を啜るイクシスに、ヴァンも苦い表情で呟いた。
 リブロは村の狩人の中でも強い方だった。
「明日、色々教えてもらう約束だったんだ……」
「リブロおじさんの二の舞になんてなるんじゃねぇぞ……! そんなことになったら、許さねぇからな……!」
 目尻の涙を腕で拭って、イクシスは立ち上がり、ヴァンに噛み付くように言い放った。
 ヴァンが何か言うよりも早く、イクシスは自分の家へと走って行ってしまった。約束なんて、しても無意味なのかもしれないと、そう思ってしまったのだろうか。
 ヴァンは重い足取りで家に向かった。
 家のドアを開けようと手をかけた時、中からネネの声が聞こえてきた。
「『霧』はいつも私たちから大切なものを奪っていく……私、『霧』が憎いよ……!」
 声が震えていた。
「ねぇ、お父さん……私たち、いつまで『霧』に怯えなきゃならないの……?」
 ヴァルの声は聞こえない。ネネだけが、一方的に喋っているようだった。
「いつになったら、安心して外に出られるの……?」
 声は段々と小さくなって、最後には嗚咽になっていた。
「ネネ……」
 父が娘の名前を呼んだのが、ヴァンには確かに聞こえた。
「ただいま……」
 一呼吸置いて、ヴァンは家に入った。
 ネネは夕食を机に並べていた。
 言葉少なに食事を終え、ヴァンはベッドに横になった。
 ネネは早々に眠りについていた。目尻に涙が浮かんでいるのにヴァンは気付いた。眠る前に少し泣いたのか、それとも夢の中で今日のことを思い返しているのか。
 一方ヴァルは、珍しく酒を飲んでいた。仕事机の上の本を端に寄せて、グラスに注いだ酒を寂しげに見つめながら、ちびちびと飲んでいる。良く見れば、その酒は良くリブロと飲んでいる種類のものだった。
 窓から差し込む月明かりが翳る。雲が、夜空を覆うかのように流れていた。
(『霧』さえ、無ければ……)
 これまでに何度、そう思っただろう。そう思う度に、何度歯痒い思いをしたのだろう。
 ヴァンにはどうにもできない。ヴァン一人の力でどうこうできるものではない。それは分かっている。それでも、ヴァンは『霧』をなくしたかった。
 考えているうちに、いつの間にかヴァンは眠っていた。
 どん、と重く、鈍い音が遠くで聞こえた気がした。
 地面が僅かに揺れたような気がした。
「ヴァン」
 父親が呼ぶ声に、ヴァンは目を開いた。
 すっきりしない頭とはっきりしない目で身を起こしてヴァルを見た。ネネがヴァルの隣で不安そうな顔をしている。
 また、音が、した。
 低い音だ。重い音でもある。腹の底に響くような音がする。
「壁の方から音がしている。私の足ではこの時間に出歩くのは辛い、見に行ってくれないか」
「分かった」
「危ないようなら、急いで戻ってくるんだぞ」
 ヴァンは上着を羽織って家を飛び出した。
 扉のある壁の方へ向かうと、同じように起き出した住人たちが何事かと集まってきていた。
「トッド!」
 ヴァンはその中にトッドの姿を見つけると、駆け寄っていた。
「壁の外に邪悪な存在を感じる……何だ、これは……?」
 トッドは険しい表情をしていた。
「この壁は十年以上もリム・エルムを『霧』から守ってくれたもの……まさか、壊れることはないと思うが……」
 トッドの隣で、村長も表情を強張らせている。
 その中に、メイの姿はないようだった。
 ただ、集まってきた人たちは皆、不安そうだ。
 音は、扉のある壁を何かが叩いているようにも聞こえる。空気が震え、地面が揺れている気がする。壁に近づくほど、音は大きくなる。
 音がする度に、ヴァンの背筋を嫌な空気が撫でた。
「ほう……たいしたものだ」
 突然、声が聞こえた。村人のものではないと、はっきり判るほど異質な声だった。
「人間どもが随分と生き残っている」
 村人たちの中にどよめきが走る。声の主を探して辺りを見回すが、それらしい者はいない。
「な、なんじゃ、あれは……」
 村長の目の前に、いつの間にか光の円が水平に描き出されていた。
「全く、憐れな……」
 蔑むかのような声と共に、複雑な紋様が円の中に書き込まれていく。そして、円の縁から光が柱のように伸び、円陣の上に何者かの姿が現れた。
 赤いローブで全身覆った人ように見えた。だが、異様だったのは肩から頭を覆う暗い紫色の鎧のようなものだ。尖った三角錐のような兜はむしろ帽子のように も見える。顔の部分には緑色の奇妙な装飾が施されていて、表情はわからない。袖の先に見える手も、紫色の籠手のようなものに包まれているようだった。
 一見すると司祭のようにも見える。
 だが、それはただならぬ禍々しさを持っていた。
「『霧』に怯え、『獣(セル)』の影に悲鳴を挙げる……人間とはなんと憐れな存在か」
 ゆっくりと、その禍々しい司祭のような何者かが浮かび上がる。元々浮いていること自体が驚くべきことだったが、誰もが状況を理解できずに言葉を発せずにいた。
「こんな辺境に薄っぺらな壁を経て、『霧』から身を隠せると思ったか!」
 人間を嘲笑うかのような口調と、蔑みに満ちた声が、今も続く何かの音を背景に響く。
「人間よ! 虫けらのごとき存在よ! 浅はかなその考えを改める時が来たのだ!」
 高らかに、上から人を見下して、それは告げた。
「我が名はゼトー。貴様ら人間に福音を伝えよう……」
 愉快そうに、それはゼトーと名乗った。
 ヴァンの隣を、弾かれたようにトッドが駆け抜けた。
 誰かが何を言うよりも早く、トッドは地を蹴り、ゼトーへと飛びかかった。
 だが、トッドの拳はゼトーには届かず、その手前で押し留められた。紫の光が波紋のように広がり、まるでそこに壁があるかのように、トッドは弾かれた。
「な、何だと……!?」
 受身を取って地面を転がったトッドが、身を起こしながらゼトーを見上げ、睨む。
「人間よ! 今こそ『霧』を受け入れるのだ!」
 ゼトーの宣言と共に、壁の向こうが明るく光った。まるで、壁の向こうに太陽があるかのような明るさだった。
「皆、伏せろ!」
 トッドが叫び、ヴァンは咄嗟に身を屈めた。
 刹那、凄まじい轟音と衝撃がリム・エルムを襲った。
 何か硬いものが飛び散る音と、細かな何かが体にぶつかって、ヴァンは顔を上げた。
 そして、見た。
 大きく抉られるように吹き飛んだ壁を。
 その向こうにいた、壁よりも大きな体の、化け物を。
 悪魔のような、禍々しいその頭を。
 大きく裂け、鋭い牙が並んだ口を。
「き、『霧』が……!」
 誰かが、引き攣った声をあげた。
 破壊された壁から、リム・エルムの中に『霧』が流れ込んでくる。
「リム・エルムに『霧』が……!」
 上擦った声と共に、何人かが家に向かって駆け出した。
「さあ、準備はできた! 『獣(セル)』よ! 『霧』に帰依するものよ! お前たちの出番だ!」
 ゼトーの声は、笑っていた。
「『獣(セル)』よ! あの目障りな老いぼれの樹を始末するのだ!」
 村を見渡して、ゼトーが叫ぶ。
「お前たちも抵抗せずに『霧』の安らぎを受け入れるが身のためだ」
 破壊された壁を乗り越えて、『獣(セル)』の化け物が村の中へと入ってきていた。
 細長い枝のような体に、上には鳥の嘴のようなものを持つ頭に、下は大きな二つに分かれた爪のような尻尾を持つ『獣(セル)』だった。
 村の女性に襲い掛かろうとする『獣(セル)』に、ヴァンは飛び掛かっていた。
 ほとんど無意識だった。ただ、助けなければと、それだけで体が動いた。
「あああああっ!」
 自分自身を奮い立たせるかのように、雄叫びをあげて、ヴァンは『獣(セル)』の頭を殴り飛ばしていた。
 石を殴ったかのような硬い手応えだったが、『獣(セル)』は仰け反った。ヴァンは細い体に回し蹴りを浴びせて『獣(セル)』を吹き飛ばす。
「あ、ありがとうヴァンちゃん……」
 腰を抜かして震える女性を強引に立ち上がらせ、家の方へと背中を押した。
「早く近くの家に!」
 覚束ないながらも、家へ向かって走る女性の背中を見て、ヴァンは壁の方へ向き直った。
 いつの間にか、巨大な『獣(セル)』の化け物は姿を消していた。
「ヴァン! イクシス! 私はここで『獣(セル)』を食い止める! お前たちは安全なところへ!」
 壁に一番近いところで、トッドが叫んだ。
 トッドの前には『獣(セル)』が三匹も迫っている。だが、トッドは気合と共に蹴りを放ち、一匹を大きく吹き飛ばす。迫る『獣(セル)』の嘴を、頭の付け根を腕で払うようにして防ぎ、そのまま脇に抱えると別の『獣(セル)』へと投げ飛ばした。
 その表情に、ヴァンと稽古していた時のような余裕はない。気を抜けば命を落とす。そういう顔をしていた。
 集まってきていた人たちはどうにか近くの家に逃げ込めたようだった。だが、『獣(セル)』が家の方に向かえばどうなるか分からない。
「皆早く近くの家に逃げろ!」
 半ばパニックになりながらも、イクシスは大声で叫び、皆を誘導していた。
 朝になれば海からの風が『霧』を流してくれるだろう。だが、家の方が朝までもつか分からない。
「ぬぅっ!」
 トッドの呻き声が聞こえた。
 見れば、『獣(セル)』の尻尾が燃えていた。まるで投げ付けるかのように尻尾が振るわれ、火の玉が放たれる。トッドはそれを飛び退いてかわした。
「くそっ……!」
 ヴァンは思わず毒づいた。
 きっと、朝まではもたない。そう、確信してしまった。あの『獣(セル)』は火を出せる。
 リム・エルムの家は石造りだが、ドアは木でできているものが多い。火をぶつけられた、ドアは燃えてしまう。それに、石造りだからといって火が全く効かないわけでもない。
「そうだ、メイ!」
 ヴァンは駆け出した。
 この状況を、メイは知らないはずだ。メイの家に泊まると言っていた老婆は、壁を見にきていた。壁が壊れた後、近くの家に逃げ込んだのをヴァンは見ている。なら、メイは今一人でいるに違いない。
 下手に外に出たらまずい。
 『霧』の中を走り、ヴァンはメイの家へと走った。
 ――ン……。
 微かに、何かが聞こえたような気がした。
 周りには誰もいない。ヴァンはメイの家のドアを開けて、中に入った。
「ヴァン!」
 入ってきたヴァンを見て、メイが不安げに駆け寄ってきた。
「壁の様子を見に行った人たちが帰ってこないの……あの音は? 何があったの?」
「壁が壊されて、『霧』が入ってきたんだ」
 荒くなった呼吸を整えながら、ヴァンはメイにそう答えた。
 メイが絶句する。
「一緒に俺の家に行こう、こんな中、一人にはしておけない」
「う、うん……」
 ヴァンが差し出した手を、メイは握り締めた。
 メイの手を引いて、ヴァンは外に出た。辺りを包む『霧』を見て、メイの表情が恐怖に歪む。
 この『霧』が、リブロの命を奪ったのだ。メイにとって、見たくないものなのは間違いない。それでも、一人にしておけなかった。
 ――ァン……。
 『霧』の中をメイを気遣いながら、『獣(セル)』を振り解きながら、ヴァンは自分の家へと向かう。
 目の前に飛び出してきた『獣(セル)』に、ヴァンはメイを背後に庇うようにして足を止めた。身構えようとするヴァンだったが、『獣(セル)』は二人の方を見ていなかった。
 素通りする『獣(セル)』の行き先を見て、ヴァンは違和感を覚えた。
 創世樹のある広場の周りに、『獣(セル)』が集まっているように見えた。微かに、広場の方が明るくなっている気がした。もしかしたら誰かいるのかもしれない。だが、メイを連れて『霧』の中を動き回るのは危険だ。
 ヴァンは自分の家にメイを連れて飛び込んだ。
「ヴァン!」
「メイさん!」
 ヴァルとネネがヴァンとメイを見て駆け寄ってくる。
「父さん、壁が壊されて『霧』が!」
「ああ、そのようだな……『霧』と『獣(セル)』が入ってきたのは窓から見えた」
 ヴァンの言葉に、ヴァルも険しい表情を見せる。
「こんな時に何もできない自分の体が悔しいな……」
 自分の不自由な片足に目を落とし、ヴァルは小さく呟いた。
「だが、メイを連れてきたのは良くやった。一人でいるよりはいいはずだ」
 ヴァンが苦い表情をするのを見て、ヴァルは優しい声でそう言った。
「そうだ、父さん、広場に誰かいるみたいなんだ」
 ヴァンはそう言って、また外へ出ようとドアの方へ体を向けた。
「危ないわ、ヴァン……!」
「でも、放ってはおけない」
 不安そうなメイに、ヴァンははっきりとそう言った。
 確かに危ないことをしようとしている。『霧』の中に長時間いればいるほど危険なのは誰もが知っている。『霧』自体は毒ではなく、呼吸をすることも、普通に生きていくこともできる。ただ、『霧』の中にいる凶暴化した『獣(セル)』が危険なのだ。
 トッドですら、『獣(セル)』を食い止めることはできても中々倒すことはできずにいる。住人が家の中に逃げ込んだのを確認してから、注意を引き付けるだ けで戦うことよりも逃げ回り、時間を稼ぐことを重視していた。単体ならともかく、この場には多くの『獣(セル)』がいる。
 まして、トッドの足元にも及ばないヴァンでは、『獣(セル)』のいる『霧』の中で生き延びられる保障はない。
 明かりが見えた、そう言って助けに行こうとするヴァンを、しかしヴァルは引き止めなかった。
「くれぐれも、無茶をするんじゃないぞ」
 引き止めても無駄だと、ヴァルは知っていた。
 言い出したら聞かないのがヴァンだ。まして、今のような状況ならなおさらだ。
 ヴァンは頷いて、家を飛び出した。
 広場の方は、やはり明るくなっているように見えた。ただ、火の灯りとは違うような気がした。
 窪地になっている広場を囲う柵の周りに、『獣(セル)』が集まっている。だが、不思議なことにどの『獣(セル)』も広場には入ろうとしていない。広場の方を向いているのに、近寄れずにいるかのようだった。
 ――ヴァン……。
 澄んだ声が、響いた。
 ヴァンの名を呼ぶ、誰かの声が。頭の中に、直接入り込んでくる。
「誰だ?」
 思わず辺りを見回す。誰もいない。遠くで、トッドが『獣(セル)』と戦っているだけだ。
 ――私の声が聞こえるなら、創世樹の下へ……。
 ヴァンは『獣(セル)』の脇をすり抜けて柵を飛び越え、広場の斜面を駆け下りた。
 見れば、創世樹が僅かに光を帯びていた。今にも消えそうなほど弱く、淡い光だった。明滅する創世樹を見て、ヴァンは目を見開いた。
 気付けば、創世樹のある広場には『霧』がない。創世樹が放つ光が、『霧』を押し留めているかのようだった。『獣(セル)』も、創世樹が淡く光る度に動きを止めている。
「何が……?」
 ヴァンは創世樹に歩み寄る。
 光は、暖かく感じた。優しい光だと思えた。呼び掛ける声も、創世樹の中から聞こえたのだと、確信めいた思いがあった。
 そっと、手を創世樹に伸ばす。
 手のひらが幹に触れた瞬間、一際大きく創世樹が光を放った。脈打つかのような、鼓動のような光が、ヴァンの手のひらには優しい暖かさとして伝わった。
 そして、目の前が真っ暗になった。
「ヴァン……あなたを、待っていました」
 暗闇の中、今度ははっきりと、声が聞こえた。
 ヴァンの目の前に、真紅の存在が浮いていた。鉱物のような、無機質な真紅の中央に、美しい翡翠の紋様が刻まれている。いや、翡翠色の部分は別の鉱物なのかもしれない。まるで、目のようにも見える。
「あんたは……?」
 ヴァンはそれに話し掛けていた。
「私はメータ。『聖獣(ラ・セル)』のメータ。私は今、あなたの心に話しかけています」
「『聖獣(ラ・セル)』……?」
 ただの『獣(セル)』ではないのだと、メータは主張した。
「ヴァン、あなたは――」
 メータが告げる。
 ――『霧』を、払いたいですか?
 その言葉に、ヴァンの背筋が震えた。悪寒などでは、なかった。
「俺は……『霧』を、なくしたい!」
 迷うことなく、真っ直ぐにメータを見据えて、ヴァンははっきりと言い切った。
 『霧』を払う。皆を救う。ヴァンが今、心の底から一番望んでいることだ。
「それができるとしたら、力を貸してくれますか?」
 メータが何者なのかは分からない。『聖獣(ラ・セル)』というものを、ヴァンは知らない。それでも、メータにその力があるというのなら。
「俺にできるなら……!」
 無意識のうちに、ヴァンはメータへ右手を伸ばしていた。
「ならば、あなたと私の運命を、重ねましょう」
 メータの声が優しさを帯びる。まるで、微笑んだかのようだった。
 ヴァンの右手がメータに触れる。
 その瞬間、メータが光を放った。暗闇を光が塗り替える。前も見えないほどの光が視界に溢れ、ヴァンは目を閉じた。
 そして目を開けた時、創世樹に触れたままのヴァンの右手に真紅の腕輪があった。暗闇の中で見た、メータの色をした、真紅の腕輪だ。甲の部分に翡翠の結晶が埋め込まれている。
「詳しいことは後にしましょう。まずはこの『霧』をなんとかしなければ」
 メータの静かで優しい声がヴァンの中に響く。
 この腕輪がメータなのだと、ヴァンには直ぐに理解できた。
「どうすればいい?」
「『霧』が迫ってきたために、創世樹が弱っています」
 ヴァンの問いに、メータが答える。
「私の力もまだ弱い……創世樹を守るだけで精一杯でした」
 あの光の正体はメータのようだった。メータが『聖獣(ラ・セル)』としての力を使って、『霧』を押さえていたのだ。
「強くなるためには、『霧』を払うためには、創世樹を目覚めさせる必要があります」
「創世樹を目覚めさせる……?」
「運命を創る力……人の心の力が必要です」
「村の人をここに集めればいい?」
 ヴァンの言葉を、メータは肯定の意思を伝えることで答えてきた。
 メータの言う通り、本当に『霧』を払うことができるのかは分からない。もしかしたら、メータも敵で、この広場に村人全員を集めて一網打尽にするつもりなのかもしれない。
 ただ、ヴァンの右腕に納まったメータからはゼトーのような邪悪さは感じられなかった。
 むしろ、心地良い熱を感じる。心強い、暖かさを感じる。
 だから、信じても良いのではないかと思えた。
 右手を握り締めると、体の芯が熱くなった。体の奥から力が湧いてくる。
 メータは己を『聖獣(ラ・セル)』だと言った。
 今の世界では、『獣(セル)』を身に着けるのは禁忌とも言える。『獣(セル)』を身に着ければ、人は大きな力を手に入れられる。だが、『獣(セル)』を身に着けたまま『霧』に包まれてしまえば凶暴化した『獣(セル)』に体を乗っ取られて自我を失い化け物となる。
 広場を出て『霧』の中に向かうのを、一瞬だけ躊躇した。
「大丈夫、私たち『聖獣(ラ・セル)』には『霧』への抵抗力があります」
 ヴァンの思いに気付いたのか、メータが言った。
 意を決して、ヴァンは『霧』の中へと踏み出した。少しだけ緊張したが、何も変化はなかった。
 ヴァンは広場を抜けて、トッドを探した。
 トッドはまだ『獣(セル)』と戦っていた。だが、かなりの時間本気で戦い続けているせいか、目に見えて疲労していた。まだ目には強い光があったが、動きが最初の頃よりも鈍い。全身に汗が浮いている。
 囲まれ、前後から飛びかかられていた。トッドは前方の『獣(セル)』しか見えていないようだった。
 まだ距離がある。
 間に合わない。
 ヴァンが足に力を込める。
 瞬間、体が一気に前に跳んだ。もっと早く走れると、体の奥底から湧き上がる熱が教えてくれているようだった。
「トッド!」
 ヴァンは叫びながら、振り被った右手をトッドの背後に迫る『獣(セル)』へと叩き付けた。
 右手を突き出す瞬間に、腕輪の甲の部分から真っ直ぐに刃が伸びた。拳が『獣(セル)』に届くと同時に、刃が頭に食い込んだ。そのまま殴り抜けると、『獣(セル)』は大きく吹き飛び、動かなくなった。
 『獣(セル)』を倒した。
 ヴァンは自分でも驚いていた。
「ヴァン!?」
 目の前にいた『獣(セル)』を蹴飛ばしたトッドは振り向いて驚き、そしてヴァンの右腕に気付いて目を見開いた。
「その右手は……」
「大丈夫、これはただの『獣(セル)』じゃないみたいなんだ」
 ヴァンはトッドが誤解しないように慌てて説明した。
 ただでさえ、バイロンの教えは『獣(セル)』の装着を禁じている。『霧』の中で『獣(セル)』を装着している者がいれば警戒するのは当然だ。
「詳しいことは俺もまだ分からないけど、創世樹の下に皆を集めたいんだ」
「どういうことだ?」
 まともに会話ができ正気を保っているヴァンを、トッドはひとまず信じてくれた。
「それで、この『霧』をどうにかできるって、メータが……」
「会話ができるのか?」
 ヴァンは自分の右手のメータを見つめる。トッドは驚いているようだった。
 普通、『獣(セル)』は人間と会話ができない。
「すみません。私の声は、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けた人にしか聞こえないのです」
「会話できるのは俺だけみたいだ」
 メータの声を聞いて、ヴァンはトッドにそう答えた。
「……他にできることもない、か」
 トッドは考え、そう結論を出した。
 にわかには信じがたい。それはヴァンも同じだ。ただ、だからといってこのまま何もしなくとも村は朝までもたないだろう。ならば、やってみる価値はある。
「ヴァン、私はお前を信じよう」
 真っ直ぐにヴァンの目を見つめて、トッドは言った。
「創世樹の下まで皆を誘導する。手分けして全員に声をかけ、護衛しよう」
 ヴァンもトッドの目を正面から見返して、頷いた。
 トッドが近くの家のドアを叩き、声をかける。ヴァンは自分の家に急いだ。
 家に辿り着き、ドアを叩いてから中に入る。
「ヴァン、無事だったか!」
 入ってきたヴァンを、ヴァルが出迎えた。
「父さん、ネネ、メイ、聞いてくれ」
 ヴァンは家の中にいる三人を見渡して、言った。
「俺と一緒に創世樹の広場に行ってくれ。『霧』をなんとかできるかもしれない!」
「どういうこと?」
 首を傾げるメイに、ヴァンは右手を見せた。
「お兄ちゃん、それ……!」
「これは『聖獣(ラ・セル)』のメータ。俺に力を貸してくれている」
 驚くネネに、ヴァンはそう言って説明した。
 創世樹の中で『聖獣(ラ・セル)』のメータが眠っていたこと。『霧』が迫ってきたことで目覚めたこと。創世樹を覚醒させることで『霧』を払えること。そのために、村の全員の力が必要なこと。
「なるほど……現にお前は正気を保ったまま『霧』の中ここまで戻ってきた。私はヴァンを信じよう」
「私も、ヴァンなら信じられる」
「私も!」
 ヴァル、メイに続いてネネが力強く声をあげた。
「皆……ありがとう」
 ヴァンは笑みを返して、三人を連れて家を出た。
 広場まで三人を護衛するのも、苦にならなかった。
 メータの力だろう。
 ヴァンはトッドとの稽古で自分の身体能力は把握している。だが、メータが右腕に宿ってからは明らかに自分の限界を超えた力が発揮できていた。脚力だけ じゃなく、腕力も、視覚も、聴力も、全てが今までの自分を上回っている。意識を集中すれば遠くを見ることもできた。周囲の気配を探ろうとすれば、物音を聞 き分けられ、それがどこをどう動いているのかまで把握できた。
 何より、『獣(セル)』を倒すことができた。
 それだけの動きをしていながら、疲労の蓄積も普段と比べると遅い。
 ヴァンは三人を広場まで連れてくると、トッドと協力して村中の人を広場まで護衛した。
「ヴァン……『霧』に包まれたリム・エルムにとって、お前と『聖獣(ラ・セル)』がたった一つの希望。お前に我らの未来を託そう」
 集まった者たちを前に、村長が宣言する。
「我らは祈ればいいのじゃな?」
 村長の言葉に、ヴァンは頷いた。
「それを信じても本当に大丈夫なのか?」
 イクシスが不安げな声をあげた。
「分からない……でも、俺は信じても良いと思ってる。信じられるって、思えるんだ」
 ヴァンは自分の右手のメータに視線を落とした。
 創世樹の光は今にも消えそうで、力が弱まっているのが見て取れた。『獣(セル)』が広場の中央にかなり近付けるようになっている。広場の入り口ではトッドが近付いてきた『獣(セル)』を押し留めている。
「私はお兄ちゃんを信じてる……だから!」
 ネネが目を閉じ、両手を顔の前で組んだ。
 メイ、ヴァルとそれに続き、村の者たちが祈り始める。イクシスも、腹を括った様に目をきつく閉じて手を合わせた。
「心の力が高まっています……ヴァン、創世樹へ」
 メータに促され、ヴァンは創世樹の前に立った。
 『聖獣(ラ・セル)』が宿った右手を、そっと創世樹へと伸ばす。
 明滅する光が、ヴァンに反応するように明るさを増した。
 暖かさが手のひらを伝って流れ込んでくる。
「目覚めよ創世樹……天が生まれ、地が生じた、その瞬間の記憶を取り戻すのです!」
 メータが叫んだ。
 村人たちから淡い光が溢れ、ヴァンの右手の『聖獣(ラ・セル)』に吸い込まれていく。
「どうかリム・エルムを救って下さい……」
「『霧』を払って……」
「皆が無事に朝日を拝めますように……」
「俺たちの明日を……」
「まだ死にたくない……!」
「生きたい……!」
 祈りの声が、聞こえてくるようだった。
 声ではなく、感情が流れ込んでくる。
 ヴァンは創世樹を見上げ、目を閉じた。
「皆を、リム・エルムを、救いたい……『霧』をなくしたい!」
 そう、願った。
 右手に集った光が、一際強い輝きを放つ。目を閉じていても、眩しいと感じるほどの光が溢れ、ヴァンは瞼を開いていた。
 閃光がヴァンの右手から弾かれるように上空へ飛び出し、創世樹へと真っ直ぐに飛び込んだ。
 創世樹の明滅が止んだ。
 その瞬間。
 眩い光が広場を満たした。
 ヴァンの右手に、押し返されるような感触が伝わってくる。
 強烈な光を放ちながら、創世樹は急激な成長を始めていた。
 幹が太くなり、枝が伸びる。枝はさらに分かれ、葉が茂る。光は溢れ続け、幹は更に太く、枝は更に長く、葉は更に増え、優しい暖かな波動が光と共に広がっていく。
 波動はリム・エルムから『霧』を払い、『獣(セル)』を消滅させていった。
 心地良い光の中、ヴァンは押し寄せた疲労と、安堵感から眠りに落ちていった。
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