第二章 「霧の中へ」


「…… そして、我らの友人、リブロ。忌まわしき『獣(セル)』の牙が彼らの命を奪い取った。わだつみの神、フェルティよ。その肉体を受け取るがいい。だが、レム よ! 偉大なる時の支配者、レムよ! 聖なる翼もて、友の気高き魂をノアルの谷にいざないたまえ! 遙かなるノアルの谷でその魂に平穏の訪れんことを!  久遠の浄福あらんことを!」
 浜辺に集った皆の前で村長が言い終えると、男たちが浮きのついた三つの棺を、海へと押して行く。
 昨日、命を落とした死者の棺だ。昨晩の『霧』と『獣(セル)』の襲撃で命を落とした二人と、狩りの時に亡くなったリブロのものだ。
 リム・エルムでは死者を水葬している。浮きのついた棺で死者の肉体を海の神フェルティの下へとかえし、魂を時の神レムにノアルの谷に運んでもらう。それが村の習慣だった。
 リブロの棺がゆっくりと海に近付いていく。
 メイが涙ぐむのを見て、隣に立っていたヴァンはそっと肩に手を乗せた。
 波打ち際まで棺が辿り着くと、メイは思わず一歩前に出ていた。波に合わせて、男たちが一気に棺を海へと押し出す。砂浜から棺の底が離れ、ゆっくりと海へと棺が遠ざかっていく。
 耐え切れず、メイが走り出す。スカートの裾が濡れるのもかまわずに、膝の上まで海へと浸かりながら、父親のいる棺を追う。
 目から溢れた涙が頬を伝い、海に落ちる。嗚咽を堪え、胸の前で両手をきつく握り締めて、メイは何も言わずにリブロを見送る。
 ヴァンも、目を細めてリブロたちを見送った。
 リブロはともかく、他の二人は自分が救えなかった命だ。いや、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けてからの死者ではない。一番最初の混乱時に命を落とした二人だ。メータの存在さえ知らなかったヴァンには、どの道どうにもできなかった。
 責任を感じる必要はない。それでも、救えなかったと思ってしまう。
 もっと早くメータの存在に、呼びかけに気付いていたら、と思ってしまう。傲慢なことかもしれない。過信かもしれない。それでも、そう思わせてしまうほどに、メータの力は強大だった。そして、メータを右腕に宿す前の自分は、無力だった。
「お母さん、リブロさんたちはどこに行っちゃうの?」
 少し離れたとこで葬儀を見ていた小さな子供が、隣に立つ母親に尋ねていた。
「遠い遠い海の彼方にあるノアルの谷というところよ……」
 母親は子供の頭を撫でながら、そう答えた。
「リブロさん、帰ってくる? また美味しいもの持ってきてくれる?」
「ノアルの谷はとても遠いところなの。だから、ね……」
 優しく言い聞かせて、母親は遠くへと流れて行く棺を見つめていた。
 葬儀が終わり、正午を過ぎた頃、ヴァンは創世樹の前に立っていた。
 見違えるように立派な大木になった創世樹は、広場を覆うほどに枝を伸ばし、葉を茂らせている。清涼な空気が広場を満たし、今まで以上に居心地が良い。
「……メータ、昨日の話だけど」
 ヴァンは創世樹を見上げながら、右腕に声をかける。
 昨晩、ヴァンが眠りに落ちた後、ヴァンはメータからある程度の説明を受けた。夢の中でメータは語りかけてきたが、その時の会話をヴァンははっきりと憶えている。
 ヴァンとリム・エルムの人々の明日を望む思いによって、創世樹は覚醒した。本来あるべき姿となった創世樹には『霧』を払う力だけでなく、『聖獣(ラ・セル)』の力をより強くする役割もあった。
 現に、最初はただの腕輪のようだったメータは、甲の部分が少し大きくなっている。ヴァンの手の甲と腕の甲を守るように、成長していた。
 『聖獣(ラ・セル)』の使命は、人と『獣(セル)』の文明に危機が訪れた時、『獣(セル)』を浄化する力を持つ『創世樹』を目覚めさせることにあると、メータは告げた。創世樹とは、この世界のバランスを取るために存在しているものらしい。
 ただ、『霧』の存在については、メータにも精確なことは分からないようだった。メータも全てを知っているわけではないらしく、『霧』が『獣(セル)』を 凶暴化させる害のあるものだということしか分かっていないようだ。『霧』が何であるのか、どのようにして生まれ、何故『獣(セル)』を凶暴化させるのか。 そして、それを探り、原因を突き止め、解決することが『聖獣(ラ・セル)』としてするべきことだと考えているようだった。
 そして、メータはヴァンに、共に『霧』を払う旅に出て欲しい、と告げた。『霧』に覆われた世界の各地に眠る創世樹を目覚めさせ、『霧』を払う旅に。
「何で、俺だったんだ?」
 それは純粋な疑問だった。
 単純な肉体の強さでも、精神力でも、トッドの方が優れているとヴァンは思っている。いくらバイロンが『獣(セル)』を拒む考えにあると言っても、昨晩の ような極限状態ではヴァンよりもトッドを選んだ方が上手くいったのではないかと思えるのだ。仮に、旅に出ることになったとしても、大人として認められたば かりのヴァンより、バイロン僧兵として実力のあるトッドの方が都合が良いのではないか。もちろん、呼びかけられたとしてバイロン僧兵であるトッドが応えた かどうかは分からないが。
「それは、思いです」
 メータは静かにそう答えた。
「あなたには、『霧』をなくしたいという強い思いがあった。この村だけではなく、世界を『霧』から救いたいと、心の底で願っていたのです。『聖獣(ラ・セル)』と創世樹にとって、最も大切なことは未来を願う思いの強さです」
「それが、俺の方が強かった?」
 メータは、無言で肯定した。姿は腕輪であるのに、頷いたような感覚が伝わってくる。
「ヴァン、あなたの思いは、あなたが思っている以上に強い」
 大人たちは、半ば『霧』を受け入れている。生きるために『霧』を避け、拒んではいるが、なくすことができないものとして心の底で諦めてしまっているのだ、と。もし、なくすことができるとしても、自分ではなく、誰かが『霧』を晴らしてくれることを願っている。
 ヴァンほど、心の底から『霧』をなくしたいと強く思っている人はこの村にはいなかった、と。
「私の声が届くほど思いが強かったのは、あなただけでした」
 それに、とメータは言葉を区切る。
「あなたの心は温かい。優しい熱がある」
 どこか嬉しそうな声だった。
「皆、私ではなく、あなたを信じた。それがあなたの人柄、心、優しさを物語っている」
 昨日のことを思い返せば、皆ヴァンの話を信じてくれた。そこに、『聖獣(ラ・セル)』であるメータを信じるという言葉はなかった。メータの声を聞き、力を借りたヴァンのことを信じると、口を揃えていた。メータは、そんなヴァンを選んだことに満足しているようだった。
 ヴァンはメータの宿る右手で頬を掻いた。
「やはりここにおったか、ヴァン」
 背後からかけられた声にヴァンは振り返った。
 村長とヴァルが歩み寄ってくる。
「これが創世樹の本来の姿……それに『聖獣(ラ・セル)』……まったく、大したものがリム・エルムにもあったもんじゃ」
 柔らかな風に枝葉を揺らす創世樹を見上げ、村長は息をついた。
「ヴァン、お前のお陰でリム・エルムは救われた……改めて感謝するよ」
「いえ、そんな……」
 優しく微笑む村長に、ヴァンは頭を掻いた。
「話はヴァルから聞いておる。旅に、出るのじゃな?」
 表情を真剣なものに変えて、村長が問う。
 今朝、目が覚めたヴァンは夢の中でメータに言われたことをヴァルとネネに話していた。ヴァンが、メータの願いに応えようと思っていることを。
「『霧』がなくなったわけじゃないから……」
 ヴァンは、風に揺れる創世樹の枝葉を見上げ、言った。
 リム・エルムから『霧』は消えたが、この世界から『霧』が全てなくなったわけではない。きっと、根本的な解決にはなっていない。どこからか流れてくる『霧』の根を断たなければ、またいつか力を増して『霧』が迫ってこないとも限らない。
「それに……敵がいるって、はっきり分かったから」
 ヴァンは鋭く目を細めた。
 昨日、リム・エルムの壁を壊した巨大な『獣(セル)』の化け物と、それを従えていたゼトーという存在。あの巨大な『獣(セル)』の化け物の方は壁を破壊 した後、いつの間にか姿を消していたが、ただの『獣(セル)』ではないと思えた。そして、ゼトーも明らかに『霧』を広げ、人間を滅ぼそうとしているように 見えた。つまり、ゼトーは『霧』について何かを知っている。
 あれらは、敵だ。
 少なくとも、ゼトーを追うことで『霧』を晴らす手がかりが得られるはずだ。
 そして、ゼトーやあの巨大な『獣(セル)』の化け物がいる限り、リム・エルムがこれから先、安全だとは言い切れない。
 『聖獣(ラ・セル)』のメータとなら、『霧』の中を生き抜くことができる。『獣(セル)』に襲われても、倒すことができる。ならば、ヴァンが行くべきだ。メータもそれを望んでいる。
「俺は、『霧』をなくしたい」
 だから、旅に出る。
 メータを頼りに創世樹を探し、目覚めさせ、『霧』の発生源を探り、叩く。
「決意は、固いようじゃな」
 真っ直ぐにヴァンの目を見つめて、村長は言った。
「言い出したら聞きませんからね、ヴァンは」
 ヴァルは複雑な心境のようだ。村を救い、これから世界を救う旅に出ようという息子を誇らしく思いながらも、心配でもある父親の顔だ。
「そこで、ヴァンに頼みがあるんじゃ」
「頼み?」
 引き止めるでもなく、村長はそう切り出した。ヴァンは少し驚きながらも、続きを促す。
「メイのことなんじゃが……あの子の母親が『霧』の彼方で生きておるかもしれんのじゃ」
 その言葉に、ヴァンは目を大きく見開いた。
「どういうことですか?」
「このことはメイも知らぬことなんじゃが……」
 村長は周囲に一度目を走らせ、人がいないことを確認しつつも声を落とした。
「メイの母親、エイミはバイロン寺院で働いておったんじゃが、十年前『霧』がきた時、当然のことながら一切の音信が途絶えてしまったんじゃ」
 リム・エルムから北に進むと大きな川があり、その更に北へと向かうとバイロン寺院がある。エイミはそこへ働きに出ていたらしい。それから『霧』が現れ、トッドと入れ替わるように取り残されてしまっている可能性がある、と。
「この『霧』の中、バイロン寺院が生き延びておるかどうかは分からん。じゃが、バイロンは『獣(セル)』を否定しておる……もしかしたら、滅びておらんかもしれん」
 それはあまりにも楽観的な推測だった。
 ただ、トッドも、『獣(セル)』を否定しているバイロン寺院ならもしかしたら滅んではいないかもしれない、と言っていた。今までは確かめようもないことだった。
 だが、ヴァンなら。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンなら、『霧』の中バイロン寺院に向かうこともできる。
「父親を亡くしたメイにとって、エイミはたった一人の肉親じゃからな……」
「その話、メイには?」
 ヴァンの問いに、村長は首を横に振った。
「話さんつもりじゃ。もし、バイロン寺院が『霧』に滅ぼされておった時、メイを悲しませたくはないんじゃ……」
 はっきりとしない、不確かな希望を持たされて、それが叶わなかった時に悲しい思いをするのはメイ自身だ。そう思ったから、村長はメイに内緒で母親の安否をヴァンに確かめて欲しいと頼みにきたのだ。
「分かりました。エイミおばさんには、俺も世話になったから……生きているかもしれないなら、探してみます」
 ヴァンは村長の頼みを引き受けることにした。
 もうおぼろげな記憶ではある。エイミがリム・エルムにいたのはヴァンが三、四歳の頃だ。『霧』が現れて、生存は絶望的だったから、ずっと考えないようにしてきた。忘れたことにしていた。
 可能性があるなら、少なくとも、どうなっているのかだけでもはっきりさせたい。もし、エイミが死んでしまっていたとしても、形見のものぐらい持ち帰ってきてあげたい。今は亡き、ヴァンの母親の友人でもあるのだから。
「引き受けてくれるか……ありがとう、そしてすまんな、ヴァン」
 村長が頭を下げた。
「メータさん、と言ったかな……ヴァンを、宜しく頼みます」
「父さん……」
 ヴァルはヴァンの右腕の『聖獣(ラ・セル)』を見て、静かに言った。
「無茶をするかもしれない。それでも、真っ直ぐで優しく強く育った自慢の息子だ。どうか、守ってやって欲しい」
「承知しました、と伝えて下さい」
 ヴァルの言葉に、メータが微笑んだような気がした。
「分かりました、ってさ」
 ヴァンは照れ臭さを隠して、肩を竦めた。
「それとヴァン、これを持っていけ」
 ヴァルが差し出したのは、やや古びた印象のある鞘に納められた短剣だった。
「私が狩りに出ていた頃使っていたものだ。いくら『聖獣(ラ・セル)』の力があるとはいえ、無いよりはマシだろう」
「ありがとう、父さん」
 ヴァンは短剣を受け取り、鞘から刃を引き抜いてみた。刃は手入れが行き届いていて、古くなっているのは鞘だけのようだ。村で売っているものの中ではかなり高価な部類の品だろう。似た意匠の短剣を以前、武具屋で見かけた憶えがある。
 鞘に刃を納め、腰のベルトに括りつける。
「じゃあ、俺、そろそろ行くよ」
 ヴァンは広場の隅に置いておいた肩掛けの荷物袋を手に取ると、広場を出て歩き出した。日持ちする数日分の食料と、寝袋、数着の着替えなどを積めた簡易的なものだ。
「村長から話は聞いている。頑張れよ、ヴァン」
「トッドも今までありがとう。バイロン寺院の安否、確かめてくるよ」
「ああ、健在なら宜しく伝えてくれ」
 通り掛かったトッドと言葉を交わして、ヴァンは村の出入り口、崩れた壁へと向かう。
 道行く人々がヴァンを応援する言葉をかけてくれる。少しむず痒い思いをしながらも、ヴァンは挨拶を返して進み、壁の下まで辿り着いた。
 崩壊した壁の瓦礫はほとんど端へと片付けられていた。狩人の出入り口でもあるのだから、早めに撤去したようだ。既に今日も狩りに出発した大人たちがいる。
「ヴァン!」
 村の外へと踏み出そうとした瞬間、背後からメイの声が聞こえた。
 振り返ると、メイとネネ、イクシスの三人が走ってくるところだった。
「良かった、間に合った!」
 息を切らして、メイが駆け寄ってくる。
「メイ?」
「はい、約束してた狩り装束、やっと完成したの」
 驚くヴァンに、メイはそう言って折り畳んだ狩り装束を差し出した。
 本来なら今日、狩りに出る時に着ていくはずのものだった。メイに頼んだまま、色々あってすっかり忘れていた。
「忘れてただろ」
 イクシスがからかうように言った。
「う……」
 返す言葉がないヴァンを見て、三人が笑った。
「でも、ありがとう」
 狩り装束を受け取り、ヴァンは荷物袋を一度地面に下ろした。革でできた袖の無いジャケットのような衣装だ。肩口のところが補強されていて、動きやすさと強度が調整されている。メイの作った服に腕を通し、荷物袋を掴む。
「丁度良いみたいね。測り直して良かった」
 メイが微笑む。
「……もう、大丈夫なのか?」
「昨日も今朝も、一杯泣いたから……」
 ヴァンの問いに、メイは目を閉じて頷いた。昨日の夜も、今朝の葬儀の時も、メイは泣いていた。思い切り泣いて、今は落ち着いているようだった。
「それに、ヴァンの狩り装束を仕上げていて、だいぶ気も紛れたから」
 顔を上げた時、メイは微笑んでいた。
「ネネちゃんから聞いたわ。これから旅に出るんでしょ?」
 ヴァンは頷いた。
「帰って、くるのよね?」
「全部終わったら、ちゃんと帰ってくるつもりだよ」
 少しだけ不安そうな顔をするメイに、ヴァンは笑って答えた。
 旅の目的を果たしたら、リム・エルムに戻ってくる。ここがヴァンの故郷で、家がある場所なのは変わらない。
「それに、機会があれば途中経過を報告しに戻ってくることもあるかもしれないし……」
 ヴァンは頬を掻いた。
 旅の予定は決まっていない。目的はあるけれど、途中でリム・エルムに戻ってくることもあるかもしれない。メイには言えないが、エイミの件もある。
「いつでも帰ってきていいからね」
 ネネが微笑む。
「私、誰かの背中を見送るのが苦手だから、これで帰るね……気をつけてね、ヴァン」
 そう言って、メイはヴァンに背を向けると家の方へ歩いて行ってしまった。
 きっと、寂しいはずだ。父親を亡くして、メイは家に一人になってしまった。その上、幼馴染であるヴァンも村を出てしまう。
「……二人とも、メイのこと、頼むな」
 ヴァンはメイの姿が見えなくなってから、ネネとイクシスに言った。
「うん。お父さんも、何かあったらうちにくるように、ってメイさんに言ってたから大丈夫だと思う」
 ヴァルもメイのことを気にかけてくれるようだ。親友の娘なのだから、当然といえば当然か。
 ネネもしっかりしている。兄であるヴァンが旅に出るというのに平然としている。ヴァンからすればそれはそれで少し寂しいような気もするが、信頼されていると思うことにした。
「言われるまでもねえ」
 イクシスは少し不機嫌そうだ。
「……俺だって『聖獣(ラ・セル)』ってのに選ばれてたら世界中の『霧』を払ってやるのによ」
 どうやらヴァンを羨ましがっているようだった。ヴァンへの対抗心も強そうだ。
 思わず、ヴァンは小さく笑っていた。
「村の方は皆で何とかするから心配すんな。いざとなったら俺が村もメイも守ってみせるからな」
 負けず嫌いなイクシスらしい言い方だ。
 ヴァンが旅に出ることを羨ましく思いながらも、寂しく思っているのが分かる。幼馴染だけあって、ヴァンもメイやイクシスを置いて一人で行くのは寂しい部 分があるのも正直なところだ。それでも、『霧』の中を歩き回らなければならないことを考えると、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていない二人を連れていく わけにもいかない。
 心細いと思うところがあるのも本心だ。
 それでも、創世樹を目覚めさせ、『霧』を払うことができる『聖獣(ラ・セル)』がヴァンの右手に宿っている。リム・エルムのように他の村や町を救う力が自分にあるのなら、放ってはおけない。
 村の大人たちから聞いた、『霧』のなかった頃の外の世界を、見てみたいとも思う。
「じゃあ、行ってくる」
 ネネとイクシスに見送られながら、ヴァンは壁の間を抜けて、リム・エルムの外へと踏み出した。
 広大な平原を、ヴァンは歩き出した。
 『霧』がなくなった平原を優しく風が撫でていく。空は気持ち良く晴れていて、心地いい。
 村で貰ったドルク王領の地図を片手に、ひとまず北へと向かう。
 リム・エルムはレガイア大陸の最南端に位置する海に面した村だ。このレガイア大陸は大きく分けて、南部のドルク王領、北西部のセブクス群島、北東部のカリスト皇国と三つの地方がある。
 ドルク王領はなだらかな大地が多く、他の地方に比べると発展途上ではあるが、平和を尊ぶドルク王が治めていることもあり、穏やかな地域でもある。
 ドルク城はリム・エルムから西の方角だが、まずは北にある川が渡れるか調べることにした。
「メータ、川を泳ぐってのは現実的かな?」
 地図と現在地を照らし合わせながら、ヴァンはメータに話しかけた。
「どうでしょう……『霧』の有無と川の流れの速さ次第かと思います」
 メータの返答は曖昧だった。
 『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたことで強化された身体能力を活かして、川を泳いで渡ることができればバイロン寺院までは近道だ。川幅や流れの速さを考 えれば、あまり現実的ではないかもしれない。水中に住むモンスターや凶暴な魚に襲われた時の対処も泳いでる途中ならば地上よりも不利だ。
「ごく私的な意見ですが、私は火の『聖獣(ラ・セル)』なので水中は苦手です」
「じゃあ川を渡るのは現実的じゃないのかな」
 メータの言葉にヴァンは小さく笑った。
 やがて、川が見えてきた。川幅はかなりありそうだ。流れも急というほどではないが、真っ直ぐに泳いで渡るとしたらかなり流されてしまいそうだ。深さもそれなりにありそうで、水中戦になると厄介そうだった。
 それに、川の向こう岸に、微かにではあるが『霧』が見えた。川を泳いで渡り切ったとして、そこを『獣(セル)』に襲われる危険性もある。咄嗟に対処できる自信もない。
「ここから創世樹の位置は分かる?」
「すみません、私が察知できる範囲にはないようです」
 ヴァンの問いに、メータは申し訳なさそうに答える。
 『聖獣(ラ・セル)』が創世樹を察知できる距離は、創世樹が『霧』を払える距離とほとんど同じらしい。他の創世樹がリム・エルムの創世樹の影響範囲内にあれば良かったのだが、そう簡単にはいかないようだ。
「恐らく、創世樹をすべて覚醒させることができれば、世界中の『霧』を払えるはずです」
 創世樹は何らかの要因で凶悪になった『獣(セル)』を正常化するためのものだとメータは言っていた。何故最初から創世樹が覚醒した状態で存在しないのか はメータにも分からないようだった。ただ、世界中の創世樹を覚醒させた時、その影響範囲は世界のすべてに及ぶようにはなっているはずだとメータは言った。
「川に橋がかかってる、って話も聞いたことがないし、とりあえず川沿いに西に向かってみようか」
 ヴァンはメータと進む方角を決めて、また歩き出した。
 西に少し進めば、リム・エルムの大人たちがよく休憩に使っている泉の湧いている地点が地図に手書きで記されている。とりあえず向こう岸に渡れそうな場所がないか確認しながら、そこを目指すことにした。
 泉が見えてくると、狩りに出ていたリム・エルムの大人たちがいるのに気付いた。
 どうやら狩りに出ていた人たちは泉に集まっているようだ。
「お、ヴァンじゃないか。良くきたな!」
 泉に辿り着くと、ヴァンに気付いた大人たちが何人かやってきた。
「一人でここまできたのか?」
「いや、メータがいるから一人じゃないよ」
 一人旅ではない。メータがいる。
 メータを一人、と数えていいのかは少々疑問だったが。
「それでも大したもんだ。お前も立派な大人になったな」
 本来なら、今日の狩りにはヴァンも同行しているはずだった。改めて大人として認められたのだと、ヴァンは実感した。
「ところでヴァン、あの人をごらん……」
 男たちの一人が僅かに場所を動いて、ヴァンに奥の方を見せる。
 そこでは、やや派手な身なりの男が村の大人たちと話をしていた。赤い帽子を被り、紫色の小奇麗な服を着た男だ。リム・エルムでは見かけない服装をしている。
「ここは良く使う泉だが、俺たちも会うのは初めてだ。レザムさんと言ってな。色々と興味深い話をしてくれていたところだ」
「興味深い話?」
 ヴァンがそう問い返したところで、そのレザムがこちらに気付いた。
「あなたがヴァンさんですか!」
 レザムという男はヴァンに気付くと小走りに駆け寄ってきた。
「私はレザムと申します。このドルク王領を治めるドルク王にお仕えする者です」
 レザムはそう言って、丁寧にお辞儀した。
 それにつられて、ヴァンもお辞儀を返す。
「あなたのことは狩人たちから聞きました。大変なご活躍をなさったそうで……私からも感謝いたします」
「いやそんな……。でも、感謝って……?」
 やや興奮気味なレザムに少し驚きつつ、ヴァンは首を傾げた。
 リム・エルムの人たちはともかく、何故レザムはヴァンに感謝するのだろう。そう思ったからだ。
「忌まわしい『霧』が到来する直前のことです。私はドルク王の命で『霧』の来襲を知らせるため、リム・エルムに向かいました」
 レザムは真剣な表情で語りだした。
「しかし、私は『霧』に追いつかれ、『獣(セル)』の怪物となってしまったのです」
 普通、『霧』の中で凶悪化した『獣(セル)』は、人を襲うと言われている。実際、リム・エルムでも狩人の死因の多くは『獣(セル)』だった。だが、人に 取り付き、暴走する『獣(セル)』の怪物になるものもいるようだ。レザムは『獣(セル)』に襲われた際、殺されることなく取り付かれてしまったらしかっ た。
「そんな私が人間に戻れたのは、あなたのお陰だと聞きました。だから感謝するのです。本当にありがとうございます!」
 レザムは大袈裟に頭を下げた。
「そうか、リム・エルムの創世樹で『霧』が晴れて……」
 ヴァンは得心が言った。
 リム・エルムの創世樹の影響範囲内まで、レザムは来ていたのだ。だから、『霧』が晴れたことで『獣(セル)』が正常化されて外れ、元に戻った。そういう意味では、確かにリム・エルムの創世樹を覚醒させたヴァンのお陰だと言える。
「今頃、ドルク王は『霧』に包まれ、あなたの助けを待っていることと思います。私が出発する前、王は何か決断をされたようでした。ご無事であれば良いのですが……。あなたの力をお借りできれば、ドルク城は救えるはずです。お願いできるでしょうか?」
 顔を上げたレザムは、不安そうな表情をしていた。主君を案じているのだ。
 地図を見てメータに確認した限りでは、ドルク城まではリム・エルムの創世樹の力は届いていない。となれば、ドルク城は『霧』に包まれたままのはずだ。
「俺は『霧』を払う旅に出ました。ドルク城の『霧』も晴らすつもりでいます」
 ヴァンはそう答えた。
「あ、ありがとうございます! ドルク城を、ドルク王を、宜しくお願いします」
 レザムは喜び、深々と頭を下げる。
「それで、ドルク城の近くに創世樹はありませんか?」
 ヴァンはレザムに聞いてみることにした。
 ドルク城が影響範囲に入る創世樹がどこかにあるはずだ。その位置さえ分かれば、ドルク城の『霧』も晴らすことができる。ドルク城にいたのなら、その周辺の地理にはリム・エルムの人たちより詳しいはずだ。
「創世樹、ですか……。申し訳ありませんが、私には分かりません」
 レザムは少し考えた後、申し訳なさそうに首を横に振った。
「しかし、ドルク城内の書物なら、それらしいものについて載っているかもしれません」
 落胆しそうになったヴァンに、レザムはそう言った。
 確かに、ドルク城や城下町なら何か分かるかもしれない。城内の書類や資料を漁れば創世樹の場所が載っているものがあるかもしれない。それに、ドルク城まで行けばメータが創世樹の存在をキャッチしてくれる可能性もある。
「そういえば、ドルク城には北の川の水門があったはずだ。昔は定期的に水門が開け閉めされて、狩場が広がったりしたもんだが……」
「ドルク城の『霧』が晴れて、正常に戻れば水門の操作も始まるかもしれないな」
 大人たちの会話が耳に入ってきた。
 水門が閉められて水が抜かれれば川を渡るのは容易だ。バイロン寺院にも向かい易くなる。
「メータ、ドルク城に向かってみよう」
「私もそれに賛成です、ヴァン」
 右手のメータと言葉を交わして、ヴァンは頷いた。
「じゃあ、俺はこれで出発するよ。レザムさんも、『霧』が晴れたらドルク城に向かってみて下さい」
 周りの大人たちとレザムにそう言って、ヴァンは歩き出した。
「ありがとう、宜しくお願いします、ヴァンさん」
「凄いな、ヴァンは」
 レザムと、周りで話を聞いていた大人たちが呟いた。
「頑張れよ、ヴァン」
「皆も、リム・エルムを頼むよ」
 激励してくれる大人たちにヴァンは力強く答えて、泉を後にした。
 地図を見る。ドルク城は泉から北西の方角だ。このまま川沿いに行けば、夕方にはドルク城に着けそうだった。
 歩きながら、ヴァンの中にはいくつか疑問が浮かんでいた。
 泉では口に出さなかったものだ。
 ドルク城や城下町の人たちが『霧』の中、生き延びているだろうか。十年間も『霧』にさらされ続けて、無事に生きている可能性はどれだけあるのだろう。もし、ドルク城に着いた時、そこが滅んでしまっていたとしたら、『霧』を晴らしたところで意味はあるのだろうか。
 いや、もしかしたら、リム・エルム以外の集落はもうすでに滅んでいて、『獣(セル)』に取り付かれた僅かな人を元に戻すことしかできないのではないだろうか。だとしたら、世界中から『霧』を払ったとしても、人のいない廃墟だけが残されてしまわないだろうか。
 恐ろしい考えに、ヴァンは身震いしていた。
 『霧』を払い、世界を救う。ヴァンはそれができる力を手に入れた。だが、救った世界に人がいなかったとしたら、それは救えたと言えるのだろうか。
 リム・エルムから人が各地に散って行って栄える可能性もある。そう考えれば、人類が滅びるのは防げていることになる。
「ヴァン、あなたの心配も最もです」
 メータがヴァンを落ち着かせるように、静かに語りかけてきた。
「私も世界が今どうなっているのか分かりません。それを調べ、確認するための旅でもあるのです」
 今の世界の状況を把握することもメータの使命には含まれているかのような言い方だった。恐らく、メータ自身が確認したいというのもあるのだろう。
「私たちは手探りで進まなければなりません。最悪の状況を覚悟しておくことが悪いことだとは言いません」
 ヴァンが考えてしまった状況が、これから目の前に広がる可能性は十二分にある。実際に直面した時、取り乱してしまわぬように想像しておくことは決して間違いではない。
 創世樹を探し、目覚めさせ、『霧』を払う。明確な目的はあっても、そこに至るまでの道筋や手がかりはほとんどない。いくら『聖獣(ラ・セル)』のメータがいるとはいえ、ヴァンの旅はほとんど手探りだ。そう言う意味では、レザムの話は手がかりになった。
「ただ、いくら世界が滅んでしまっていても、『霧』をそのままにはしてはおけません」
 メータの言葉には、強い意志があった。
 たとえこれから進む先に生きている人がいなくても、世界中に満ちる『霧』を放置することが最善だとは思えない。人が生きられる場所が創世樹のあるリム・ エルム周辺だけでは、いずれ限界がくる。『霧』が力を増して創世樹を上回る、あるいは『霧』に組する者がまたリム・エルムを襲い創世樹に危害を加えて無力 化しようとするかもしれない。
「『霧』を払うことで、未来は開けるはずです」
 少なくとも、『霧』を払うことは無駄じゃない。メータはそう言っていた。
「……ごめん、少し弱気になったみたいだ」
 励ましてくれたメータにお礼を言って、ヴァンは歩みを速めた。
 やがて、前方が白み始めた。
 リム・エルムの創世樹の力の範囲から出ようとしている。『霧』の中へ、足を踏み入れることになる。
 地図を見れば、ドルク城まであと少しだ。
「ヴァン、気を引き締めて行きましょう」
 メータに頷いて、ヴァンは『霧』の中へと進んで行く。
 心地良かった穏やかな空気が、重苦しくなった気がした。不安感を駆り立てるように、視界が制限される。遠くが白くぼやけ、見通しが悪い。
 メータが周囲に意識を向けて警戒してくれている。ヴァンも自分にできる限り周りに注意を払いながら、地図を頼りに足を進める。『霧』の影響で現在地を確認し難い。方角を見失わないように目印になる川を常に視界に捉えて上流へ向かう。
「ヴァン、モンスターです!」
 メータの声に、ヴァンは咄嗟に一歩後ろへ下がった。左手で腰に括りつけた鞘から短剣を引き抜き、前方に構える。
 現れたのは、グリーンゼリーというモンスターだった。緑がかった半透明の粘性のある液体に核が浮いている。その見た目に対しては意外と素早く、液状の体 を引き摺るようにヴァンへと向かってくる。餌になりうるものを液状の体に取り込み、消化することで栄養を得ているのだ。どうやら、ヴァンを食料と認識して いるらしい。
 モンスターが触手のように体を細長くしてヴァンへと伸ばす。ヴァンはそれを短剣で切り払いながら間合いを詰め、右手を握り締めた。ヴァンに応えるかのようにメータが刃を伸ばし、それを核目掛けて突き込んだ。
 液状の体にほとんど抵抗もなく拳が減り込み、本体である核をあっさりと貫かれ、モンスターが絶命する。体を維持できなくなり、溶けるように崩れ、やや緑がかった水溜りだけが残った。
「ふぅ」
 ヴァンは右手を払ってグリーンゼリーの体液を振り落とし、息をついた。
 いとも簡単に倒せてしまったが、それもメータのお陰だろう。
 モンスターが集まってきても厄介だ。足早にその場を立ち去り、ドルク城を目指す。
 やがて、城下町と水門がおぼろげながら見えてきた。
 はっきりと視認できる距離まで近付くと、山に面して作られたドルク城も見えてきた。ドルク城は小さな山に減り込むように作られているようだ。
「メータ、創世樹の存在を感じるか?」
「すみません、『霧』のせいで認識範囲が狭まっているようです」
「ドルク城の近くにはないってことか?」
 メータの言葉に、ヴァンは歩きながら地図に目を落とした。
 地図を見る限りでは、ドルク城から山の裏側に抜けられるらしい。ドルク城の先には大きく開けた盆地があり、その中央にドルク王領で最も高い山であるリクロア山がある。
 『霧』に抵抗力のある『聖獣(ラ・セル)』でも完全に影響がないわけではないようだ。メータ自身も困惑しているようで、感情がヴァンにも伝わってくる。
「やっぱり調べる必要がありそうだな」
 意を決して、ヴァンは城下町に足を踏み入れた。
 白い『霧』に包まれた城下町は閑散としていて、人の気配がない。物音を立てているのはヴァンだけだ。土の道を進みながら、ヴァンは周りを見回した。
 建物はあるが、どれも扉は閉まっている。試しにドアを開けてみようとしたが、鍵がかかっていて入れない。
「……無理に押し入ってみるべきかな?」
 ヴァンはメータに問う。メータの力があれば、ドアを壊して中に入ることも不可能ではない。
 誰か生きている人はいるだろうか。十年間も『霧』の中、家に閉じこもって生き延びられるものだろうか。もしかしたら、鍵は外に出る時だけ開けているかもしれない。
 家の中の人間が生きているのか、死んでいるのかだけでも確認した方がいいだろうか。
 人の気配がないのが不気味で仕方が無かった。
「どうでしょう……もし、中に人がいたとしたら、強引に出入り口を作っては家の中が安全ではなくなってしまうかもしれません」
「あ、そうか……」
 メータの言葉で、ヴァンは気付いた。
 もし、家の鍵を閉めて中に篭城しているのだとしたら、強引に開け放つのは危険かもしれない。
 中に人がいれば、と思いドアをノックしてみたが、反応はない。
「城下町全体に『獣(セル)』の気配を感じます。気をつけて進んでください」
 メータに頷いて、ヴァンは周りの家を調べて回った。
 どこもドアには鍵がかけられている。窓も板のようなもので内側から打ち付けられていた。中に人の気配は感じられないが、強引に中を調べる気にはならなかった。
 開いているドアを探して町を見回ってみたが、どこも厳重に閉ざされていた。
 ただ、町を調べ回っている間、メータが考え込んでいるような感情が何度か伝わってきていた。
「メータ、何か分かったのか?」
 それを問い質してみる。
「……ほとんどの家の中に、『獣(セル)』の気配があります」
 言うべきかどうか悩んだような感情と共に、メータが呟いた。
「家の中に?」
 ヴァンは眉根を寄せた。
 城下町を調べている間、町中を徘徊する『獣(セル)』を何度か見かけている。メータのお陰でヴァンの方が先に位置を知ることができたため、身を隠して戦闘は避けることができた。
 ヴァンはてっきり、家の中に人が隠れて閉じこもっているのではないかと思っていたのだが、中に『獣(セル)』が入り込んでいるとなれば家の中に人はいないということなのだろうか。
「……ただ、この気配は普通の『獣(セル)』ではありませんね」
「どういうことだ?」
 普通でないということはどういうことだろう。
「まだ確証が持てません、しかし無闇に建物の中で入るのは避けた方が良さそうです」
 メータが言い淀んだのが気になったが、建物に入れないとなると城下町で調べられることはもうなさそうだった。
「図書館もなさそうだし、ドルク城に向かうしかないか……」
 城下町を抜け、ヴァンはドルク城へ足を向けた。
 日が沈みかけている。薄く夕日の色に染まる『霧』の中、ヴァンはドルク城へ急いだ。
 小さな山の一部を利用して造られたドルク城は、城下町と同じように静かだった。大きな城門を潜って中に入る。石造りの壁や床に、高級そうな絨毯が部分的に敷かれている。
 山を越えればリクロア山に向かうことができ、水門を閉じて山脈に沿って東へ進めばバイロン寺院に辿り着く。そうな位置にドルク城はあった。
 明かりもなければ人の気配もない城内を、ヴァンは慎重に進む。日が沈み切ってしまえば、城内は真っ暗になってしまいそうだ。
「私が敵を呼び寄せない程度に周囲を照らしましょう」
 その言葉と共にメータが光を帯び、ヴァンの周囲が仄かに明るくなった。松明よりも暗い程度だったが、メータを身に着けたことで向上しているヴァンの視力 には十分だった。元々、『霧』のせいで視界はあまり良くない。明るくし過ぎても周りにいるモンスターや『獣(セル)』を引き寄せるだけだ。
「ありがとう、メータ」
 礼を言って、ヴァンはドルク城の探索を開始した。
 入って直ぐの広間から階段を上ると、三つの扉があった。
 右の扉を開けると、牢屋のようだった。暗くなってきて内部が見えないが、人影があることに気付いたヴァンは牢に近付いた。
「……っ!?」
 思わず、息を呑んだ。
 頑丈そうな牢の中には、人の姿をした化け物が何人もひしめいていた。鉱石のような鎧を纏い、肌は青白く生気が感じられない。目は虚ろで、口から漏れるのは呻き声とも唸り声ともつかないようなものばかりだった。
 ヴァンに気付いた『獣(セル)』の化け物と目が合った。
 小さくうなり声を上げるその瞳の奥に、悲しみが見えたような気がした。
「やはり……」
 メータがぽつりと呟いた。
「ヴァン、これが『霧』によって『獣(セル)』に支配された人間です」
「大丈夫なのか……?」
 ヴァンは一歩後ずさる。牢の中をうろつく『獣(セル)』の怪物から目が離せなかった。
「取り付いた『獣(セル)』の力が強過ぎて、本人の意思を読み取れません」
「メータ、もしかして……」
「ええ、恐らく、町の人ほぼ全員がこの状態です」
 メータが、静かに告げた。
 ヴァンはゆっくりと後ずさり、壁に背中を押し付けるようにして立ち尽くしていた。何か支えがなければ、立っていられないような気がした。
 町の人全てが『獣(セル)』に取り付かれて怪物になっている。誰一人として正常な状態ではない。
 危険を感じることこそなかったが、虚ろな目で自我を失っている様にはおぞましさを感じる。まるで、物語に出てくるゾンビや亡者のようだ。
 牢の中だからまだいいものの、これが町の中を徘徊して人を襲っていたらと考えるとぞっとした。
「ただ、不自然なのは全員が閉じ込められた形になっていることですね……」
 メータの言葉で、気付いた。
 町の建物も、目の前の牢も、まるで『獣(セル)』の怪物が外に出ないようにしているかのようだ。牢の鍵も、部屋の中には見当たらず、化け物となった人間が鍵を開けるという動作ができるのかすら怪しいように思える。
 意図的に牢の中に『獣(セル)』の怪物化した人を集めたということだろうか。
「ですが、幸いなことに『獣(セル)』に取り付かれた者同士は傷つけ合わないようです」
 怪物化した者同士は仲間だと認識するのか、争うことはないようだ。
「ヴァン、『霧』を払えば、彼らも元に戻るはずです」
 恐らく、泉で出会ったレザムもこの状態だったのだ。『霧』が晴れたことで、元に戻った。
 だとすれば、ドルク城の近くにある創世樹を目覚めさせれば皆正常に戻るはずだ。
 ヴァンは一度大きく息を吐いて、牢を後にした。
 左側の部屋も、同じように牢となっていた。多くの人が怪物となって中で蠢いている。死者が出たような形跡がないことを確認して、ヴァンは三つ目の中央の扉を開けた。
 長く緩い階段を上る。
 二階には前後に扉のある大きな部屋が一つあった。端に寄せられた机や椅子、床に敷かれた豪華な絨毯を見る限り、食事を取る場所だったようだ。開けられた 中央の空間は牢のように床から天井まで届く鉄の柵で仕切られ、中に怪物となった人々が閉じ込められていた。机も椅子も埃を被っていて、長い間このままだっ たのが見て取れる。
「本棚があるな……何か分かるかもしれない」
 部屋の隅にある本棚に駆け寄り、ヴァンは何か有益な情報が無いか調べることにした。
 背表紙や本の題名から関係のなさそうなものは除外する。
「これは……日記かな?」
 薄汚れた日記が出てきた。
「みのり月二日、もうすぐ収穫祭。とっても楽しみ……。でも、ドルク様は不安そう」
 ページをめくる。
「みのり月四日、北から使者が到着。ジェレミを『霧』が覆ったそうだ。ドルク様の顔色が悪い。みのり月五日、北東の盆地に奇妙な建物ができたそうだ。しか し、ドルク様に命じられ、建物を調査に行った兵士が帰ってこない……。みのり月七日、外出禁止令が出された。城の科学者は『霧』の成分を研究している。い い解決策を見つけて欲しい! そうすれば、愛するドルク様の苦悩も……。みのり月十日、ドルク王領にも『霧』が現れた。東の平原が霞んでいる。物見の話に よれば、『霧』は盆地の建物から流れているそうだ……。みのり月十三日、ドルク様は『獣(セル)』の使用を禁じられた。収穫祭も中止になった。『霧』と 『獣(セル)』の関係を考えれば、無理のないことかもしれない……。でも……。みのり月十四日、信じられない! しかし、これはドルク様の命令。受け入れ るしか……。ただ、そのまま受け入れることが、陰ながらドルク様をお慕いする私の務め」
 書かれているのはここまでだった。十年前に書かれたもののようだ。
「やはり、この状況は意図的なもの、ということでしょうか」
 メータが呟いた。
 そうとしか考えられなかった。牢の中にいる人全てが罪人だとは思えない。怪物化しているとはいえ、身なりの整っている者も見受けられたからだ。
「こっちの本は……風土記か?」
 近くにあった本の背表紙には、ドルク王領風土記、と書かれていた。
 ドルク王領がレガイア南部の辺境であること、山と盆地からなる起伏に富んだ半島であることが詳しく記されていた。また、領主ドルクの統治下、治安の良さと豊富な資源は特筆に値することも記されている。
 そして、リクロア山についての記述もあった。
「ドルク城を訪れた旅人は是非、リクロア山を訪れると良い。ドルク城を抜け、北に進めばリクロア山。その山頂には神々の時代より人間を見守っていたと言われる創世樹なる巨木がある……!」
 ヴァンは、思わず声に出していた。
「リクロア山の山頂に創世樹……ヴァン、次の目的地はそこですね」
「ああ」
 メータに頷いて、ヴァンはドルク王領風土記を本棚に戻した。
 部屋を出て、ドルク城を更に奥へと進む。緩やかな階段を上り、三階に着くと石造りだった二階までとはうって変わって地面や岩肌が見える洞窟のようになっていた。柱は人工的だが、山をくりぬいて造った城なのだと改めて感じさせる。
「鍵がかかってる?」
 中央にある、山の裏側へと抜けるであろう通路の格子扉には鍵がかかっていた。頑丈そうな格子扉だ。
 周囲を見回せば、入ってきたものの他にもドアがある。最終手段として扉の破壊を考慮するとして、ひとまずはそちらを調べることにした。
 ドアを開けた先はまた石造りの通路になっている。
 その先にあった少し大きいドアを開けると、大広間になっていた。入り口から一直線に赤を貴重に金の刺繍が施された豪華な絨毯が敷かれている。絨毯の先には三段ほどの小さな階段があり、高台となっている部分には天蓋の着いた玉座が置かれていた。
 少し圧倒されながら、ヴァンはゆっくりと部屋の中を進んだ。
 ここもやはり『霧』に覆われてから使われていないのだろう。玉座にも埃が積もっている。
 見れば、玉座の左右に一つずつ扉がある。
 左の扉を開けて中に入る。
「ここにも……?」
 その部屋も鉄格子の牢が造られていた。ただ、この部屋はかなり造りがしっかりしている。端にどかされてはいたが、置かれているベッドや調度品の類を見るに、王の私室のようだった。
 そして、牢の中には『獣(セル)』の怪物がいた。
 王族だと一目で分かる、これまでに見てきた者とは明らかに違う衣装と、マントを身に着けている。王だったらしい怪物は、牢の隅でヴァンの方を見ていた。
「これは……?」
 部屋を見回すと、テーブルの上に置かれている手紙が目に入った。
 近付いて手に取ってみると、人の心を持つ旅人へ、と書かれていた。ヴァンは、迷うことなくその手紙を開け、中身を読み始めた。
「私はドルク王領の王、ドルク三世。この手紙をどんな人が読んでいるのかは分からない。しかし、『霧』の中を旅し、この城に辿り着いたのであれば『霧』に 打ち勝つ力をお持ちであろう。この城の至るところにある牢。その中にいる『獣(セル)』の怪物をご覧になったことと思う。あの怪物こそ、私であり、親愛な る我が家臣と領民なのだ。『霧』が近付いてきた時、我らは様々なことを試みた。北のリクロア山に行き、人々の危機を救うという伝説の創世樹に祈りを捧げも した。だが、最後の結論は……、自身に『獣(セル)』を着け、牢の中で『霧』に身を委ねることだった。『獣(セル)』の怪物になれば、いつの日か、『霧』 が晴れる時までドルクの水で生き延びられるはず。牢を作り、中に入ったのは、『獣(セル)』の狂気で、自身と他人を傷付けぬためだ。だから、旅人よ。力な き我らに代わり、『霧』を晴らして欲しい。あなたは未来へと旅立った我らの希望であり、心の灯し火なのだ」
 ヴァンは、手紙に書かれていた内容を小さな声で読み上げていた。包みの中には、手紙と共に鍵が入っていた。鍵には、山門の鍵、と書かれたプレートが括りつけられていた。
「『獣(セル)』の怪物となれば、仲間同士で傷付けあうこともないから、いつか『霧』が晴れることを願って……」
 メータが呟く。
 自ら怪物となり、牢に封印することで、ドルク城の人々は生き延びることを選んだのだ。いつか元に戻れる日が来ることに望みを賭けて。
 確かに、ドルク水と呼ばれるこのドルク城周辺の湧き水は栄養価が高く、病に効き、作物にも良いとされている。それだけで生き延びられるかどうかヴァンには分からないが、現に怪物化した人たちはまだ生きている。食事自体が必要なかったのかもしれない。
 鍵を握り締め、ヴァンは牢の中にいる王に視線を向けた。怪物と化した王は、じっとヴァンの方を見ている。何を考えているのかは分からない。ただ、いつか人間に戻れると信じてそうしているのだということだけは、手紙から伝わってきた。
 ヴァンは手紙を机の上に置き、鍵を手に部屋を出た。
 王のいた部屋から玉座を挟んで反対側の部屋に入る。
 こちらもかなりしっかりした造りの部屋だった。
「この部屋の扉もかなり頑丈に造られているようです。鍵をかけておけば休息が取れそうですね」
 もう日も沈みきった頃だろう。これ以上動き回るのはヴァンの健康面にも悪影響だ。
「なら、今日はここで休んだ方が良さそうだね」
 メータの言葉に、ヴァンは扉を閉めて鍵をかけた。
 ベッドと机の埃を払い落として、荷物を机の上に置いた。
「寝ている間は私が周囲を警戒しておきます。何かあったら起こしますから、体を休めて下さい」
「ありがとう、メータ」
 荷物袋の中から干し肉と、穀物で作ったクッキーのような保存食をいくつか取り出し、食事を取る。部屋の端の水路に流れるドルクの水で喉を潤し、ヴァンはベッドに寝転がった。
 ここの『霧』を晴らすことで、救われる人がいる。『霧』を晴らす者が現れることに望みを懸けた人がいる。
 ヴァンには、それができる。『霧』に包まれ、人がすべて怪物となり、モンスターや『獣(セル)』が徘徊する城の中で夜を明かす不安はある。けれど、ヴァンは一人ではない。メータがいる。
 これからは、メータと力を合わせて世界から『霧』を払って行くのだ。この程度のことで不安を感じているようではダメだ。もっと気を強く持たなければ。
「……俺が、助けるんだ」
 噛み締めるように呟いて、ヴァンは目を閉じた。
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