第三章 「リクロア山の出会い」


 ドルク城の一室で一夜を明かし、ヴァンは朝食を取った。
「ここにも本棚があったのか……」
 昨夜は気が付かなかったが、部屋の隅に本棚があった。
 近付いて調べてみると、研究ノートなる書物を見つけた。
「やはり、報告は正しかった。『獣(セル)』を身に着けて『霧』に触れれば、人は人でなくなる。しかし、いかなる力の働きか、発狂した『獣(セル)』のお 陰で人は老いることがなくなる。つまり、『霧』の中で『獣(セル)』を着ければ百年、千年……いや、永遠に生きられる。しかし、人でなくなってまでそんな 命が必要なのか。私には分からない……。とりあえず、ドルク王に報告せねば」
 書かれていた内容を見て、納得がいった。
 『霧』の中で『獣(セル)』に取り付かれて怪物化すると、装着している人間の時が止まってしまうらしい。ドルク王が全員に『獣(セル)』を着けさせたの は、これが理由だったのだ。『獣(セル)』に殺されてしまうよりも、いつか『霧』が晴れることを信じて生き延びることを選んだのだ。
 ヴァンはノートを本棚にしまうと、荷物袋を肩に引っ掛けて部屋を出た。昨日、王の部屋で手に入れた鍵を手に、格子扉を開けて奥へと進む。
 洞窟のような通路を抜けた先には、平原が広がっていた。遠くに、高い山が見える。
 地図と照らし合わせ、あの山がリクロア山であることを確かめる。
「あの山頂に創世樹が……」
 気を引き締めて、ヴァンは歩き出した。
「ヴァン、そのままで聞いて下さい」
 リクロア山へ向かう途中、メータが語りかけてきた。
「昨日、私なりに怪物となった人たちを見て、伝えておきたいことがあります」
 メータは『聖獣(ラ・セル)』としての力を使って、『獣(セル)』の怪物となった人たちを探ったようだった。人と『獣(セル)』の精神、心を覗くことで状態を確かめようとしたらしい。
「『獣(セル)』の怪物は確かに恐ろしい存在です。しかし、『獣(セル)』そのものに罪はありません」
「どういうこと?」
「全ては『霧』の影響です」
 ヴァンの問いに、メータが答える。
 『獣(セル)』自体に悪意があるわけではなく、『霧』の作用によって発狂しているだけである、と。
「私のような『聖獣(ラ・セル)』は『獣(セル)』に対して上位の存在と言えます。従って、『獣(セル)』の力を取り込み、利用することも可能です」
「つまり?」
「先日、リム・エルムで戦った『獣(セル)』を憶えていますか?」
 ヴァンは頷いた。
 リム・エルムで戦った『獣(セル)』は細い体に爪のような尻尾と大きな頭に嘴を持ち、火を放つ力があった。
「あれは火獣ギマードと言い、名前の通り火の力を持った『獣(セル)』です。あの時の戦いで既に私はギマードの力を取り込んでいます」
「その力が利用できる?」
「そうです。状況に応じて、取り込んだ『獣(セル)』の力の一部を使えると思って下さい」
 メータの話を要約すると、戦った『獣(セル)』の持つ力をヴァンが利用できるらしい。
「確か、メータも火の『聖獣(ラ・セル)』だって言ってたよな?」
「はい。ですので、同じ火の力を持つ火獣ギマードを取り込んだからと言って、私にできることが増えているわけではありません。ただ、これから先、他の『獣(セル)』の力が必要な場面も出てくるかもしれません。頭の隅にでも留めておいて下さい」
「ああ、分かった」
 やろうと思えば、メータに火をおこして貰うこともできるということだ。これから先、野宿するようなことがあれば焚き火をするのにも手間が省ける。他の『獣(セル)』の力を得ていれば、この旅も少しは楽になるかもしれない。
 そして、『獣(セル)』の存在自体は悪ではないことも、メータはヴァンに伝えておきたかったようだ。自分も『獣(セル)』であるから、なのかもしれない。
 ただ、『霧』が現れるまでの『獣(セル)』は人間の良きパートナーだったという。だとすれば問題なのは『獣(セル)』ではなく、『霧』であるというのは間違っていない。これまで頼り、利用してきた『獣(セル)』を一方的に否定するのも、おこがましい話ではある。
「ヴァン!」
 山道の入り口に差し掛かったところで、メータが声を上げた。
「感じます! 私と同じ『聖獣(ラ・セル)』の存在を感じます!」
「本当か!?」
 メータの言葉に、ヴァンは驚いた。
「間違いありません! これは『聖獣(ラ・セル)』です」
「どこにいるんだ? 近いのか?」
 一度足を止め、ヴァンは周囲を見回した。
 山道の左右には岩肌が見え始めている。ドルク王領で最も高い山だけあって、斜面も途中から急になっていそうだ。リクロア山は頂上に行くほど樹木が少なくなっているようだ。
「山頂に向かっているようです。私たちも急ぎましょう!」
「その『聖獣(ラ・セル)』も創世樹を目指してるのか……?」
 メータの声に後押しされて、ヴァンは再び歩き出した。
 もし、『聖獣(ラ・セル)』のすべてがメータと同じ使命を持っているのだとしたら、味方なのだろうか。
「そうです。私の仲間です。恐らくは、その『聖獣(ラ・セル)』を身に着けた人も……」
 メータの感情がヴァンにも伝わってきていた。驚きと、喜び、そして安堵。それはきっと、仲間が同じ目的地へと向かっている驚きと、仲間がいるという喜び、そしてこの『霧』の中生き延びていたという安堵なのだろう。
 そして、『聖獣(ラ・セル)』が移動しているということは、そのメータの仲間である『聖獣(ラ・セル)』を身に着けた人間が、山頂に向かっているということだ。
「きっと、私たちの仲間となってくれるはず……急ぎましょう、ヴァン!」
 メータの言葉に背中を押されて、ヴァンは走り出していた。
 どんな人なのだろう。どんな『聖獣(ラ・セル)』なのだろう。
 仲間ということは、共に旅をしてくれるということだろうか。だとしたら、心強い。
 険しくなる山道を、ヴァンは駆け抜けた。目の前に現れるモンスターや『獣(セル)』を、時に薙ぎ倒し、時に振り払い、全速力で山頂を目指した。
「向こうは山頂に着いたようですが、何だか様子がおかしいですね……?」
「何かあったのか?」
 メータの困惑が聞こえて、ヴァンは足を止めずにたずねた。
「何かと戦っている……?」
「敵か!?」
 ヴァンの脳裏に浮かんだのは、リム・エルムで見たゼトーの姿だった。首筋に鳥肌が立つような感覚と共にヴァンの心に湧いたのは、怒りの感情だった。
 リム・エルムで壁が破壊された時の絶望感、『霧』が村に流れ込んできた時の恐怖感、逃げ惑い襲われる人々の姿が脳裏に蘇る。
 好きにはさせない。今のヴァンには、『聖獣(ラ・セル)』のメータがいる。あの時のように、何もできずに見逃したりはしない。
 足に力を込める。
 常人では飛び越えられないような段差を一息に飛び越え、薄暗い洞窟を迷うことなく抜け、岩肌を駆け上がる。
 山頂に辿り着くと、そこには一人の少女が『獣(セル)』の化け物に襲われていた。
「ヴァン!」
「メータ!」
 メータの言いたいことは分かっていた。だから、ヴァンもメータを呼んだ。力を貸してくれ、と思いを込めて。
 荷物を放り出す。左手で短剣を抜き放ち、駆け出す。メータが刃を伸ばす微かな金属音が聞こえた。
 獅子のような『獣(セル)』と対峙する少女は防戦一方だった。敵の攻撃を素早い動きでかわしているが、反撃できていない。追い込まれ、背後の岩に気付いた少女が一瞬動きを止めた。爪を振りかぶる『獣(セル)』が見えた。
 間に合え、と思う程に、ヴァンの体が前に進んだ。それまでよりも速く、力強く。
 思い切り握り締めたヴァンの右拳が熱を帯びる。
「おりゃああああっ!」
 腹の底から吼えて、ヴァンは炎に包まれた右拳を、メータの刃を、『獣(セル)』の横っ腹に叩き付けた。
 瞬間、爆音と共に『獣(セル)』が大きく吹き飛んだ。
 凄まじい熱と衝撃だったが、火を操るメータを身に着けているヴァンにダメージはなかった。熱さや衝撃の強さは感じても、不思議と体は何ともない。メータの加護によるものだろう。これが、メータの力なのだ。
「大丈夫か!?」
 ヴァンは岩に背中を押し付けて目を丸くしている少女に呼び掛けた。
 鮮やかな紅い髪を頭の後ろで縛った、ポニーテールの少女だった。ぱっちりした大きな翡翠色の瞳に、幼さの残る可愛らしい顔立ちの少女だ。紺色の薄い毛皮の服を着ている。良く見れば、靴も皮を継ぎ接ぎしたようなものだった。
 目をぱちくりさせて、少女がヴァンを見つめる。
「メータ……? メータだね……メータが、そこにいるんだね……?」
 弱々しい声が聞こえて、ヴァンは声のした方へ目を向けた。
 額に碧色の宝石のようなものを着けた狼が、倒れている。
「テルマ!?」
 狼に気付いて、メータが驚いたように名を呼んだ。
 メータを身に着けたヴァンには分かった。狼の額にある碧色の宝石のようなものこそが『聖獣(ラ・セル)』だ。はっとして振り向いて少女を見れば、彼女は丸腰だった。『聖獣(ラ・セル)』どころか武器になるようなものを持っていない。
「いい子を見つけたようだね……。すまないが、まずはあれを何とかしておくれ……」
 途切れ途切れだったが、その声音には喜びが混じっていた。
 あれ、と言われてヴァンはさっき殴り飛ばした『獣(セル)』に目を向けた。かなり効いているようだったが、倒し切れていなかった。地面を転がり、大きく 吹き飛ばされた『獣(セル)』が、身を起こそうとしていた。まるで、翼の生えた大柄な獅子のようだ。岩や鉱物のような赤茶けた肌に、青いたてがみの『獣 (セル)』の化け物がヴァンを睨み付け、唸り声をあげる。
「あいつかたいんだ!」
 少女が声をあげた。
 鈴の音のような、綺麗な可愛らしい声だった。
「大丈夫、俺とメータならやれる! そうだろ、メータ!」
「ええ、ヴァン!」
 握り締めた右手が炎を纏う。
 向かってくる『獣(セル)』の爪を、ヴァンは左手の短剣で受けた。金属音が響き、重い衝撃が左腕に伝わる。しかし、ヴァンはそれに耐えることができた。
 体の芯から力が湧き上がってくる。燃え盛る炎のような熱が体中を駆け巡り、芯から溢れる力を全身に伝えていく。
「うおおおおおっ!」
 力の限り叫び、ヴァンは短剣を握る左手に力を込める。
 受け止めた『獣(セル)』の爪を押しやり、弾く。体勢を崩し、うろたえたように唸り声を上げる獅子の化け物へ、ヴァンは右拳を思い切り叩き付けた。
 爆音と衝撃に、獅子の体が傾ぐ。返す短剣の刃で切り付ける。岩に刃を当てたような感触はあったが、メータの加護を受けた短剣は『獣(セル)』の体に傷をつけていた。
 野獣のような咆哮と共に、獅子が爪を薙ぐ。
 ヴァンは腰を低く落とし、身を屈めて爪をかわす。同時に、大きく後方へ引いていた右拳を握り締めた。その右腕が、炎に包まれる。
「喰らえぇっ!」
 右の拳を、下方から思い切り、『獣(セル)』の顎目掛けて振り上げる。炎は螺旋を描くようにヴァンの右腕に渦を巻き、叩き付けた拳から『獣(セル)』へと流れ込むように伝わった。
 竜巻のように炎と衝撃が『獣(セル)』を打ち上げ、焼き尽くした。
 空中で『獣(セル)』が弾けるようにして消える。
「ふぅ……!」
 それを見届けて、ヴァンは大きく息を吐いた。
「おおおおお! すごい! すごいよ! あいつつよいのに、たおしちゃった!」
 少女が目を見開いて、声をあげた。
 どこか言葉がたどたどしい印象があったのは、ヴァンの気のせいではないようだ。はしゃぎぶりを見ても、背格好から推測できる年齢より幼く見える。
「そっちは、大丈夫そうだな」
 はしゃぐ少女を見て、ヴァンは小さく笑みを見せた。
 これだけ元気なら怪我もないだろう。実際、見たところ彼女の体は土や砂で汚れてはいたが、傷はないようだった。かわすのに専念していたとはいえ、あの『獣(セル)』の猛攻を良く一人で耐えたものだ。
「テルマ、その体は……」
 メータの意識がテルマに向いたのを感じ取って、ヴァンは地面に倒れている狼の方へと目を向けた。
「そうだ、テルマ!」
 ヴァンの見た方向にいる狼に気付いて、少女が弾かれたように飛び出した。
 狼の横に座り込んで、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ノア……よく頑張ったね。お願いだ、私を、創世樹の傍へ……」
 弱々しい声の狼に、ノアと呼ばれた少女は不安そうな表情のまま頷いた。
「手伝うよ」
 ヴァンは狼に駆け寄って、少女が狼を運ぶのを手伝った。
 創世樹の根元に寝かされた狼が、ヴァンの右手、メータを見る。
「すまないが、メータ……」
「分かりました」
 言いたいことを察したのか、メータが答えた。
「ヴァン、創世樹に力を注ぎましょう」
「俺一人でも、大丈夫なのか?」
 創世樹の前に立ち、ヴァンはメータに問う。
 リム・エルムでは村中の人の祈りが必要だった。ヴァン一人で、この創世樹を目覚めさせることができるのだろうか。
 リクロア山の創世樹も、見た目はリム・エルムにあったものとほとんど同じだった。緑がかった不思議な樹皮の、小さな葉の落ちた落葉樹だ。
「大丈夫、リム・エルムの創世樹で私の力も強くなっています」
 メータが笑った気がした。
 ヴァンは創世樹の幹にそっと手を伸ばし、触れた。
 優しい温もりが手のひらに伝わってくる。
「目覚めよ、創世樹!」
 メータが唱える。
 ヴァンは真っ直ぐに創世樹を見つめ、願う。
 『霧』が晴れることを。
 ドルク城と城下町の人たちが、元に戻ることを。
 彼らが、笑い合える、穏やかな日々に戻れることを。
 メータから光が空中に溢れ、創世樹に吸い込まれていく。
 一瞬の静寂の後、強烈な光が辺りに溢れた。創世樹が眩い光に包まれ、成長していく。ヴァンの手のひらを押し返して、幹が太く、枝が長く伸び、葉が茂って いく。同時に、周りに立ち込めていた『霧』が晴れていく。溢れた光が『霧』を押しのけるように広がっていく。重苦しかった空気が、澄んでいく。
 心地良い柔らかな風が、光に包まれた創世樹から波紋のように広がっていく。
 光が収まった時、創世樹は巨大な樹に成長していた。
 茂った葉が清涼な風に揺れる心地良い音が耳を撫でる。気持ちの良い空気が辺りに満ちていた。
 それを少女、ノアが呆然と見上げていた。
「この力が必要だったんだ……ノア、行くよ!」
 ゆっくりと、狼が身を起こした。その声には、力が溢れている。
 狼の額から、碧の宝石が外れ、浮き上がる。碧の中心に紅の宝石がついたような『聖獣(ラ・セル)』は、創世樹へと伸ばしていたノアの左手に吸い付くように触れた。
 次の瞬間には、ノアの左手を碧色の『聖獣(ラ・セル)』が覆っていた。手首から指先まで碧の装甲に覆われていて、手の甲の部分にはまるで瞳のように紅の宝石が埋め込まれているような見た目だ。
 自分の左手を見てノアが目を丸くする。
「ノア、良くお聞き」
 テルマが優しい声音でノアに語り掛ける。
「私とお前は今、一つになった。お前はこれから、彼と一緒に創世樹を探す旅に出るんだ。辛い旅になるかもしれない……でも、忘れないでおくれ。私はいつもお前と共にいるよ」
 優しく言い聞かせるようなテルマの声が響く。
 ノアは驚いたように自分の左手を見つめていた。
 ヴァンは何も言わず、ノアと『聖獣(ラ・セル)』のテルマを見守っていた。
 ふと、身を起こした狼がゆっくりと動き出していた。創世樹を見上げ、一瞥すると静かにその場から去ろうとする。
「テルマ?」
「ノア、追ってはいけないよ!」
 思わず狼を追おうとするノアを、テルマがやや強い口調で制止した。
「狼は誇り高い動物なんだ。あの狼は誰にも知られず死ねる場所を探しに行ったんだよ。だから……」
 テルマがノアに言い聞かせる。
 去って行く狼の後姿を、ヴァンとノアは見送った。歩き方から、かなり弱っているように見えた。ヴァンがきた時、狼が倒れていたところを見ると、『獣(セル)』の化け物と戦っていたのだろう。戦闘のダメージもあるのかもしれない。
「私は、テルマは、ここにいるから……あの狼は、体を借りていただけなんだよ」
 ノアの左手が僅かに光を帯びて、テルマが存在を主張する。
「これ、テルマなのか?」
「そうだよ、ノア」
 自分の左手を見て呼び掛けるノアに、テルマが優しく答える。
「そっか、ノア、ひとりじゃないんだね」
 寂しそうだった表情から、一転して笑顔になる。
「……メータ、ヴァン。ノアと共に行ってくれるかい?」
 テルマの意識がヴァンとメータの方へ向いたのが分かった。それに気付いたのか、ノアもヴァンを見る。
 まじまじとヴァンを見つめてそれから少し躊躇いがちに口を開く。
「ヴァンはノアをいっしょにつれていってくれるのか?」
「目的が一緒なら、仲間だ」
 ヴァンはそう言って、微笑みかけた。
「私たちは『霧』を晴らすため、創世樹を探し、目覚めさせる旅をしています」
 メータが言った。
 テルマを身に着けたことで、ノアにもメータの声が届くようになっていた。
「きりはなくさなきゃいけないってテルマがいってた」
 テルマを見て、ノアが呟く。
「いっしょにいっていいのか?」
「ああ、これからよろしくな、ノア」
 上目がちに顔を上げ、見上げてくるノアに、ヴァンは頷いて手を差し出した。
「うん!」
 ぱぁっと明るい笑顔を見せて、ノアはヴァンの手を両手で掴んだ。
 表情がころころと変わる少女だ。言葉使いや仕草から幼く見えるが、こちらの言っていることはしっかり理解しているように見える。思っていたよりも随分と可愛らしい仲間だが、旅に同行者ができたことはヴァンも純粋に嬉しかった。
「お互い詳しいことは道中で話すことにして、まずは日が暮れる前にドルク城に戻りましょう。ドルク城の人たちも元に戻っているはずです」
 メータの提案に頷いて、ヴァンは山頂の隅の方に転がっていた荷物を拾い上げた。肩に引っ掛けるようにして背負い、振り向く。
 目を合わせると、ノアが駆け寄ってきた。
 山道を下りながら、ヴァンはメータと代わる代わる自分たちのことを話し始めた。
 ヴァンはリム・エルムという海に面した村で育ち、そこにある創世樹でメータが眠っていたこと。つい先日、村を守る壁が壊されて『霧』がリム・エルムに満 ちたこと。ヴァンがメータの声に応えて、村の皆を集めて創世樹を目覚めさせ、『霧』を晴らしたこと。それからメータと共に『霧』を払う旅に出て、ドルク城 を経てここに来たことを話していった。
「ゼトー……なるほどね、合点がいったよ」
 ヴァンとメータの話を聞いて、テルマが言った。
「恐らくそいつだね、山頂にあの『獣(セル)』を寄越したのは」
「見かけたのか?」
 反射的に、ヴァンは聞いていた。
 あの獅子のような『獣(セル)』がゼトーの手下だとしたら、テルマもゼトーたちを見ているかもしれない。
「いや、見てはいないね。ただ、何か邪悪な気配は遠くに感じたよ。直ぐに消えたけどね」
「そうか……じゃあ次はノアとテルマのことを教えてくれよ」
 ゼトーについて手がかりがなかったのは残念だが仕方ない。気を取り直して、ヴァンはノアとテルマについて聞くことにした。
「ノアとテルマはね、リクロアさんのむこうにあるどうくつにいたんだ」
「さっき見ていた通り、私が狼に取り付いていたのには訳があるんだ」
 二人が語り出す。
 ヴァンは地図を片手に、ノアとテルマの話から彼女たちが住んでいた場所を推測した。
 リクロア山の北にある山岳地帯は険しい岩山が多く、人が住むには適していない。その一部に、奇跡的に『霧』が入ってこない洞窟があったらしい。『霧』の ない上空に穴が開いていて、そこから雨水や綺麗な空気が入ってきていたようだ。お陰で、凶暴化した『獣(セル)』もおらず、比較的安全な場所だったらし い。
 ノアは十年ほど前、リクロア山の山頂でテルマと出会ったとのことだった。
「ノアがどこからきたのかは知らないんだ。ただ、創世樹の中で眠っていた私を、ノアの泣き声が呼び起こしたんだよ」
 傍らにはノアを運んできたと思われる男が倒れて、力尽きて亡くなっていた。上等な毛布で包まれ、丁寧に扱われていたのが見てとれたとのことで、どうやら誘拐や捨て子の類とも違うのではないかとテルマは考えているようだった。
「私が取り付くにはあの時のノアは幼過ぎてね……近くにやってきていた狼の体を借りたのさ」
 ノアの泣き声に引き寄せられたのか、若い狼が山頂に現れた。赤ん坊のノアに取り付いたところで、テルマは『聖獣(ラ・セル)』としての力も活かせず、使 命を全うすることもできない。しかし、ノアに何か惹かれるものを感じたテルマは、狼に取り付き、自分を身に着け、旅に出ることができるようになるまで、ノ アを育てることにしたのだ。
 メータの時のことを考えて、ヴァンは納得した。
 目覚めたばかりの『聖獣(ラ・セル)』は力が弱く、それでいて『聖獣(ラ・セル)』単体で創世樹を目覚めさせることもできない。人に取り付いた上で、複数の人間の祈りがなければ創世樹を目覚めさせることができないのだ。
 赤子に取り付いたとしても、言葉や自我がなければ祈ることも、周りに助けを求めることもできない。
 テルマがノアを装着者として選ぶなら、どうにかしてノアを育てる必要があったのだ。
「狼の体を借りて、ノアをあの洞窟まで運んで、それからは大変だったけど楽しくもあったよ」
 テルマは懐かしむような声音で語った。
 洞窟の中で、テルマは来るべき時に備えてノアを育てた。戦い方を教え、それに耐えられるよう体を鍛えさせ、食事の取り方や言葉を教えた。
「小さい頃は食べるものに苦労したよ。狼の食べ物をそのまま与えるわけにもいかないからねぇ」
 テルマはそう言って笑った。
 どうにか工夫して、赤子でも食べられるものを作っていたようだ。今ノアが身に着けている服も、テルマの手作りらしい。
「狼の体で作るのはちょっと無理があったけどね」
 そういうテルマの声からは、苦笑いの感情が伝わってきた。
「むしろ良く出来たと思うよ」
 ヴァンは感心していた。
「私なりに知識は教えてきたつもりだけど、狼に無理矢理喋らせてもいたからね……まだ知らないことも沢山あるんだ」
「ヴァンはノアとちがうもんね?」
 テルマの言葉を肯定するように、ノアがヴァンを下から覗き込むように見てくる。
 体格や顔の違いなどがノアには不思議なようだ。ノアにとってはヴァンが始めて出会う人間なのだ。
 リム・エルムで人に囲まれて育ったヴァンと違い、洞窟の中で狼に育てられたノアには分からないことが多いのだろう。
 言葉がたどたどしく拙いのも、テルマとしか会話していなかったからなのだろう。それも、人間ではなく狼の体だ。
 どうやら、リクロア山の山頂を目指す道中で、本来なら狼が喋らないことや、自分が『聖獣(ラ・セル)』という特殊な存在であることはノアに説明していたようだ。
「その辺は旅をしながら知っていけばいいんじゃないかな。俺に分かることなら教えるからさ」
 ヴァンはそう言って小さく笑った。
「ともかく、そうやって暮らしてはきたんだけど、私たちが暮らしていた洞窟にも『霧』が入ってきてね……」
 テルマの話では、今日の朝、日が昇る前ぐらいに洞窟を地震が襲ったとのことだった。それにより閉鎖されていた洞窟の一部が崩れ、穴が開いて内部に『霧』が入り込んできたのだ。
 いくらテルマが傍にいるとはいえ、狼の体では『聖獣(ラ・セル)』としての力も十分に発揮できない。加えて、生身のノアでは『獣(セル)』の相手も楽ではない。『霧』が入り込んでしまっては、洞窟の中も安全とは言い難い。
 創世樹の下へ行き、狼からノアに移ることを第一に、テルマはノアを連れてリクロア山の頂上へ向かったのだった。
「これがここまでのいきさつだね」
 テルマはそう言って話を締め括った。
 ノアの手に移った後は、ヴァンとメータのように一人でも創世樹を目覚めさせることができるようになる条件を満たすために旅をする予定だったらしい。まだ正常な人たちを探し、その近くの創世樹を目覚めさせ、テルマの力を高めるのが第一目標になっていたのだろう。
「何だか、壮絶だな……」
 話を聞いて、ヴァンが抱いたのはそんな感想だった。
 自分の出生を知らず、狼に取り付いた『聖獣(ラ・セル)』に暗い洞窟の中で育てられた少女。『霧』を払う旅に出るために、テルマはノアを育てたようなものだ。赤子だったノアは生きたいという本能は強かったかもしれない。
 ただ、だからと言って赤子だったノアはそのままだったら死んでしまっていただろう。テルマも苦労したはずだ。
 自分が恵まれていることを、ヴァンは実感していた。ヴァンの周りには、父親や妹、幼馴染みや面倒見の良い大人たちがいた。対するノアは、ヴァンが始めて出会い、話をした人ということになる。
 そう思うと、自分がしっかりしなければ、と思えてしまう。テルマの話を聞くに、妹のネネよりは年上だろうが、間違いなくノアはヴァンより年下だ。
「ヴァンはこれからどこにいくんだ?」
「俺は頼まれたことがあって、バイロン寺院に寄らなきゃいけないんだ」
 ノアの疑問に、ヴァンは地図を見せて行き先を指でなぞって見せた。
 今向かっているドルク城を経由して、東の方角にあるバイロン寺院を目指す。
「そこで情報を集めて、創世樹を探そうと思ってる。その後は、また手探りだけど」
 ドルク城とバイロン寺院で情報を集め、創世樹を探し、目覚めさせる。まずはそれが今の目的だ。
 創世樹の手がかりが途切れてしまった時は、また他の村や町を探して情報を集めるところから始めなければいけない。となれば、ドルク城かバイロン寺院辺りで他の地方の地図も手に入れる必要がありそうだ。
「たのまれたこと?」
「俺の友達のお母さん、俺から見たらおばさんなんだけど、その人がバイロン寺院にいるかもしれないんだ」
 首を傾げるノアに、ヴァンは説明した。
 父親を亡くしたメイの母親がバイロン寺院にいるかもしれない。旅の途中でバイロン寺院に寄って安否を確認をして欲しいと頼まれていることを話した。
「……ノアはヴァンのともだちになるのか?」
「え? まぁ、そうなることもできるかな、仲間なんだし」
 ふと急に真顔でそんなことを聞かれて、ヴァンは少し驚きながらもそう答えていた。
「じゃあ、ともだちになろう! ヴァンはなかまで、ノアのはじめてのともだちだ!」
「ああ、分かったよ」
 ぱっと目を輝かせるノアを見て、ヴァンは柔らかい笑みを返す。
 無邪気にはしゃぐノアが微笑ましい。自然と、ヴァンも笑っている。これからは賑やかな旅になりそうだ。
「あ、そろそろドルク城に着くぞ」
 見れば、前方にドルク城の山門が見えてきていた。
 山門の外部扉を開けて中に入り、進んでいく。洞窟のようだった通路が石造りのものに変わり、階段に差し掛かったところでヴァンは気付いた。
 格子扉の向こうが明るい。
「ヴァン! こえだよ! いっぱいこえがきこえるよ!」
 びっくりした表情で、ノアが戸惑った声をあげた。
 確かに耳を澄ませば、微かに人の話し声が聞こえてくる。何を喋っているのかまでは判別できない。だが、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているとはいえ、意識していない状態で自然にこの小さな音に気付いたノアにヴァンも驚いていた。
「だいじょうぶ!? だいじょうぶかな!?」
「大丈夫、ここに住んでる人たちが元に戻ってるんだ」
 不安そうな顔を見せるノアに微笑んで、ヴァンは手を差し出した。
「俺もいるから」
「うん、ヴァンがいるからノアはこわくないよ!」
 ノアがヴァンの手を取って、力強く言った。
 ヴァンはノアを連れて階段を降り、格子扉を開けてドルク城の中へと足を踏み入れた。
 正面に、甲冑鎧を身に着け槍を手にした兵士を何人か従えた男が立っていた。豪華な鎧のような服装から、それがドルク王なのだとヴァンは何となく気付いた。オールバックの黒髪に、口髭を蓄えた精悍な顔立ちの男だ。
「旅人よ、お二人があの『霧』を晴らしてくれたのだな?」
「はい」
 前に歩み出て、確かめるような問いに、ヴァンは静かに頷いた。
「そうか……私はこの城の王、ドルク三世だ。お二人に心から感謝する」
 ドルク三世はそう言うと、静かに頭を下げた。
「あのね……ノアは、ドルクにきいていい?」
 顔を上げたドルク三世の顔をじっと見ていたノアがおずおずと言った。
「何かな、お嬢さん?」
 ドルク三世は優しく微笑んで、ノアを見つめる。
「ドルクはおはなのしたにおかしなけがはえてるよ……?」
 不思議そうに首を傾げて、ノアは言った。
「なんと! ははははは……お嬢さん、これは髭、お髭というものだよ」
 ヴァンはぎょっとしたものの、ドルク三世は驚いた後に声を上げて大笑いしてノアにそう説明した。
「おひげ! へんなの……」
 丁寧に整えられた口髭を指でなぞるドルク三世を見て、ノアは不思議そうに呟いた。
「うーむ……私はこの髭を気に入っておるのだが……」
「すみません、ノアはちょっと知らないことが多くて……」
 苦笑するドルク三世に、ヴァンは申し訳なさそうに言った。
「良い良い、それより、詳しい話を聞かせて欲しいのだが、良いかな?」
「はい」
「では、こちらへこられよ」
 ドルク三世の言葉にヴァンが応じると、ドルク三世が歩き出した。
「案内致します」
 脇で控えていた兵士たちがそう言って歩き出し、ヴァンとノアは彼らの後をついて玉座へと向かった。
 玉座に座ったドルク三世の前に立ち、ヴァンはこれまでのことを簡単に説明した。ドルク三世はヴァンの話に時折相槌を打ちながらも、最後まで口を挟まずに聞いていた。
「なるほど……まさに数奇な運命!」
 ヴァンの話を聞き終えるとドルク三世は感激したように声をあげた。
「お二人が身に着けている『獣(セル)』が普通の『獣(セル)』でないことは一目で分かったが、『聖獣(ラ・セル)』というのか」
 この地方の王だけあって、ドルク三世はメータとテルマがただの『獣(セル)』でないことに気付いていたようだった。
「そうだ、ドルク王、聞きたいことがあります」
 話し終え、説明に満足したドルク三世に、ヴァンは疑問をぶつけることにした。
「『霧』の発生源と創世樹の位置について何か知っていることがあれば教えてください」
 ヴァンの言葉に、ドルク三世の目が僅かに細められた。
 このドルク王領を治めるドルク三世ならば、何かしら知っているはずだ。少なくとも、城内に詳しいことを知る者がいるはずだ。『霧』が晴れる前に見た資料や日記では、『霧』の研究者がいたのは間違いないのだから。
「ふむ……『霧』については詳しいことは分かっておらん。お二人が知っているように、『獣(セル)』を狂わすことや、人に取り付き、『霧』の中でなら永遠に生きられることぐらいだ」
 ドルク三世は顎に手を当てて考える仕草をしながら、そう答えた。
「ただ、ここから北東にある盆地に奇妙な建物ができてからだな、このドルク王領に『霧』が現れたのは」
「そこが発生源であると?」
「調査に行った者が帰らなかったため、断言はできんが、恐らくは……」
 ヴァンの言葉に、ドルク三世は苦い表情で答えた。帰ってこなかった兵士たちのことを悔いているように見えた。
「では、創世樹は?」
「このドルク王領には四本あることが確認されておる。二本は既に見つけておるだろうから、残りの二本だが、バイロン寺院の北の森にあるはずだ」
「バイロン寺院の方角に……?」
 ヴァンは思わず聞き返していた。
 バイロン寺院の方角にも創世樹があるというのなら、一石二鳥だ。バイロン寺院に立ち寄って創世樹の位置を確かめつつ、エイミの安否も知ることができるかもしれない。
「む、バイロンに何か?」
「実は、俺の幼馴染みの母親がバイロン寺院で働いていたんです。俺は『霧』の中を動き回れるから、安否を確かめて欲しいと頼まれていて……」
 ヴァンは説明した。
 旅立つ前日、『霧』で狂った『獣(セル)』によって父を失った幼馴染みの母が、『霧』が現れる前にバイロン寺院に働きに出ていたことを。旅の途中で安否を確かめて欲しいと頼まれていたことを。
「そうだったか……。ならば水門を開き、川に水を流したままにした私の命令で難儀をかけてしまったことになるな……」
 話を聞いたドルク三世はすまなそうに言った。
 ドルク城周辺に『霧』が現れる前、水門を閉める指示を出していなかったことを詫びられた。
「水門を閉じるよう命を出しておこう。明日の朝には渡れるようになっているはずだ」
「ありがとうございます!」
 ドルク三世が近くの兵士に合図を出し、兵士が敬礼して玉座の間から出て行く。ヴァンはお礼を言い、ドルク三世は満足そうに頷いた。
「水門が閉まり切るまでには少し時間がかかる。水が抜けきるのを待てば夜になってしまうだろう。今日は遠慮せず一泊していってくれ」
 そう言って、ドルク三世は昨夜ヴァンが眠った部屋を目線で示した。
「いいんですか?」
「お二人は我々を救ってくれた英雄だ。皆が話をしたがっている。城下町にも顔を見せてやってくれないか」
 緊急時ではなく、正式にヴァンとノアを客人扱いするという申し出に驚きつつも、二人はその申し出をありがたく受けることにした。
 リクロア山の頂上で『獣(セル)』の化け物と戦い、ノアやテルマと話をしながら降りてきたせいで、昼食を取るのをすっかり忘れていた。このままバイロン 寺院に向かって途中で野宿するよりは、まともな食事と寝床にありつけるここで一泊する方が健康的だ。それに、保存食はいざという時のために残して置いた方 がいい。
「本当は会食でもしたいところなのだが、まだ掃除も終わっておらず、城の備蓄も足りなくてな」
 ドルク三世はそう言って笑った。
 創世樹の覚醒によって『霧』が晴れて、まだ間もない。いくら人手のある王城とは言え、十年分の埃や汚れが溜まっている。それに、十年も保存が効く備蓄というのも少ないだろう。大掃除や必要なものの準備などで忙しいようだ。
「だが、城下町が祭りのようになっているのだ。出店もたくさん出ていると聞いておる。会食は明日の朝ということにして、夕食は城下町で存分に堪能してもらいたい」
 城内が慌しいのだから、城下町も騒ぎになっているのだろう。お祭り騒ぎで色々な店が開いているらしい。
 一泊する部屋は城内の一室を用意するから、町の方にも顔を出して欲しいということらしかった。
 ドルク三世に一礼して、ヴァンはノアと共に玉座を出た。
 初めて見るものばかりで目を輝かせるノアを連れて城を出る。
 城門の前は既に人が沢山集まっていた。
 出店も多く出ていたが、それよりも皆、ヴァンとノアを一目見に集まってきていたようだった。
「勇者様が出てこられたぞ!」
 誰かがヴァンとノアに気付き、声をあげた。その途端、町の人たちの視線が一斉にヴァンとノアに向いた。
 ノアはびっくりしてヴァンの背後に隠れてしまった。ヴァン自身も、驚いていた。まさかこれほどまでに注目されるとは思っていなかったのだ。
「たくさんのひとがいる……!」
 背後からそっと覗くノアに、ヴァンは苦笑した。
「大丈夫だって」
 町の人たちはヴァンとノアを見て歓声をあげていた。口々に感謝の言葉を言って、再びお祭り騒ぎの中に戻っていく。視線は感じるが、ヴァンたちを取り囲んだり、質問攻めにはしてこない。
「民には王からお二人の迷惑にならぬよう振舞うよう伝えてあります。どうぞご自由にドルクの町を楽しんで下さい」
 城門の前にいた兵士はそう言って笑いかけた。
 ドルク三世の配慮だろう。ノアが人に慣れていないという点でもありがかった。
「みんなたのしそう……」
 町の人たちを見て、ノアが呟いた。
 見れば、行き交う人たちはほとんどが笑顔を浮かべていた。そうでない者たちも、決して悪い表情をしていない。ほっとしているような、安堵の表情をしている者もいる。
「いいにおいがするよ、ヴァン」
「んじゃ何か食べるか」
 出店から漂ってくる食欲をそそる匂いに、ノアがそわそわしている。ヴァンも空腹だ。
 城門を抜けて、城下町に入る。城門前の広場には簡易の出店が立ち並び、色々なものが売買されていた。食べ物だけでなく、服や武具や道具なども売られているようだ。
 これからの旅に備えて、役に立ちそうなものがあれば買った方がいいかもしれない。そんなことを考えながら、ヴァンは食べ物の店を見て回る。
 ふと、目を離した隙に、ノアがいなくなっていた。
 慌てて見回すと、食べ物の出店の前にいるノアを見つけた。
「これ、なんだ?」
 ノアが出店の主に聞く。
 鉄板の上で、肉が焼けている。
「ん? これかい? こいつはこうやって……」
 厳つい顔をした中年の店主はにやりと笑い、鉄板の上の肉に何か液体をかける。
 音を立てて、液体が鉄板の上で一気に熱せられて踊るように跳ねる。何とも言えない香ばしい匂いが鉄板から立ち上り、食欲を刺激する。
「こうするのさ!」
 店主は肉にタレを手早く絡めると、切れ目の入った細長いパンで軽く鉄板を撫でて焦げ目をつけ、その切れ目に肉を挟んだ。
「おお! すごい! なんだそれ!?」
 目を輝かせて興奮するノアを見て、店主は笑みを浮かべると、更に野菜を挟んだパンを差し出した。
「食ってみな!」
 ノアは店主からパンを受け取り、まじまじとそれを見つめた後、齧り付いた。
「あふ、はふ!」
 肉がまだ熱かったようだ。はふはふ言いながら、ノアはパンと肉と野菜を咀嚼する。そうして、口の中にあったものを飲み込んだノアは目を丸くして店主の方に身を乗り出した。
「おいしい! すごいおいしいよ!」
 飛び跳ねんばかりの勢いではしゃぐノアを見て、店主は満足気に笑みを浮かべている。
「ヴァン! これおいしいよ! すごいよ!」
 隣にやってきたヴァンに気付いたノアがまくしたてる。
「えっと、いくら?」
 ヴァンは苦笑しながら、店主に聞いた。
「あんたらがドルクの町を救ってくれたんだろ? サービスだ、二人とも一食分はタダでいい」
 店主はそう言って笑うと、ヴァンにも同じようにして作ったパンを差し出した。
「え、いいのか?」
「あんなに喜ばれたらこっちも嬉しくなっちまうのさ。若いもんが遠慮すんな!」
 驚くヴァンにそう言って、店主は豪快に笑った。
「ありがとう、じゃあ一つ頂くよ」
 折角なのでヴァンは礼を言ってパンを受け取った。
 齧ってみると、野菜のシャキシャキ感と、良く火の通った肉の柔らかさ、甘辛いタレが焼けた香ばしい風味が口の中に広がる。肉汁がタレと絡まって、口の中で味わいが少し変化するのも絶品だった。焦げ目が付く程度に炙られたパンも丁度良い。
「うん、これは美味しい」
 何とも後を引く味だ。ヴァンの感想に、店主も満足気だ。
 ノアは夢中で食べている。
「もうないのか?」
「ノア、これ以上食べるならお金を払わないといけないんだ」
 食べ終えたノアがまだ欲しそうにしているのを見て、ヴァンは言った。
「おかね?」
「店で物を売り買いするのに使うんだ。普通は欲しいものにはそれに見合うだけのお金が要るんだよ」
 首を傾げるノアに、ヴァンが説明する。
 金を使った売買というものに触れたことがないノアにはまだ分かり難いことのようで、難しい顔をしながらヴァンの言葉を聞いていた。
「ノアにはまだよくわからないや……」
「少しずつ覚えていけばいいよ」
 しょんぼりするノアを見て、ヴァンは小さく笑った。
「とりあえず、欲しい物があったら俺に言うこと。買えるかどうか、買っても良さそうかは俺が判断してあげるから」
「うん、わかった!」
 ヴァンの言葉に、ノアは元気良く返事をする。
 ノアにいくらか資金を渡すことも最初は考えていたが、暫くはヴァンが財布の管理をした方が良さそうだ。確かに、学んでいなければ金の計算や売り買いは難しいかもしれない。
 旅の途中でまた教えていこう。
「ヴァン、あれはなんだ?」
 ふと、ノアが何かを指差して言った。
 ヴァンがその方向を見れば、道行く人が食べているもののことを聞いているようだった。何やらクリームやフルーツをパンケーキで包んだもののようだ。
「あれは……あの屋台で売ってるみたいだな」
 周りを見回して、ヴァンはそれらしい出店を見つけた。
 ノアを見ると、うずうずしているのが見て取れた。
「行ってみるか」
「うん!」
 ヴァンの言葉に、ノアが駆け出す。
 人の間を易々とすり抜けて、ノアが屋台の前に辿り着く。ノアはこれにも目を輝かせて、物が出来上がる過程を見つめていた。
「それ、一つください」
 追いついたヴァンは、値段を見てからそう言った。
「はいよ」
 こちらの店主は恰幅の良い中年の女性だった。
 鉄板の上に、卵と小麦粉とミルクで作ったと思われる生地を流し込み、それを程好い厚みに伸ばし、ひっくり返して両面を適度に焼く。そこに生クリームとフルーツを乗せ、円錐形になるように包む。最後に上から蜂蜜をかけて完成のようだ。
「食べてみなよ」
 差し出された品を見て、ヴァンはノアを促す。
「いいのか?」
 頷くヴァンを見て、ノアが目をキラキラさせて店主からパンケーキを受け取った。
 ノアが勢い良く齧り付く。
「あまい! おいしい!」
 ノアの顔が見る見る笑顔になっていく。
 それを見ているだけで、ヴァンも自然と頬が緩む。店主の女性もニコニコしながらノアが食べるのを見ていた。
「ノア、頬についてるぞ」
 ヴァンはそう言って、ノアの頬についたクリームを指で拭い取った。
「ほら」
 クリームのついた指をノアに見せると、ノアはすかさずヴァンの指についたクリームを舐め取った。まさかそれまで食べるとは思っていなかったヴァンは目を丸くするしかなかった。
「おいしかった!」
 ぺろりと唇を舌で舐め、ノアが笑った。
 ヴァンは苦笑して、ノアを連れて他の出店を回ることにした。
 出店を覗く度に、ノアは何を売っているのか、どんなものなのかをヴァンに聞く。ヴァンはできるだけ簡単な言葉を探してノアに説明していった。店主たちや通り掛かった町の人たちも、説明するのを手伝ってくれた。
 初めて見るものや人だらけで、ノアははしゃぎ通しだった。彼女にとっては全てが新鮮で、知らないことばかりだ。それを知っていくのが楽しくて仕方がないようだ。
 一通り町を回り、ヴァンとノアは城に戻ってきた。
 玉座の間の、王の私室とは反対側にある客間に入ると、侍女がベッドの支度を終えたところのようだった。
「あ、あの、ヴァン様……」
 おずおずと、侍女がヴァンに声をかけてきた。
「『霧』が晴れる前、この城の中で色々と調べ物をしたと聞きました。それで、その……私の日記などもご覧になられたのでしょうか?」
「あー……その、何か手掛かりがないかと思って」
 不安げな侍女に、ヴァンは申し訳なさそうに頭を掻きながら答えた。
 あの時は少しでも多くの情報が欲しかった。必要な情報はドルク王の私室にあった手紙で十分だったのだが、それに気付くまでに書物や文献を探して回ったのは事実だ。
 誰も知らないことなのだから、見ていないことにもできた。だが、ヴァンは正直に答えた。
「お恥ずかしい……ですがあの状況では確かに仕方のないことですものね。ただ、せめて、そのことは誰にも言わないで下さいね……」
「ああ、うん。何か、ごめんね……」
 顔を真っ赤にして俯く侍女に、ヴァンは何のことは良く分からなかったが謝るしかなかった。
「朝食の準備ができましたらお声をかけさせて頂きますので、それまでごゆっくりとお休み下さい」
 気を取り直して、そう言うと、侍女は一礼して部屋を後にした。
 ヴァンは荷物袋を机の上に乗せると、出店で買ってきたものを整理して袋に入れていった。
 一般的には回復の葉と呼ばれている薬草を使った傷薬や痛み止めはこれからの度には必要になるだろう。出店で安く売っていたのを少し買い込んだ。それから保存が効く食料も少し買い足した。
 ノアは隣で興味津々な様子でヴァンの荷袋の整理を見ている。
「あ、そうそう、ノアにはこれな」
 そう言って、ヴァンは買ってきたもののいくつかをノアに渡した。
「これ、なんだ?」
「服と靴だよ。ちゃんとしたのを買っておいたんだ」
 ノアが買ってきたものを広げるのを見て、ヴァンは言った。
 これから先、ノアは人と触れ合う機会も増える。テルマの手作りとはいえ、身なりはしっかりしたものの方がいい。道中でテルマにも頼まれていたことだった。
 旅に耐えられるよう、靴は動き易くそれでいて丈夫そうなものを選んだ。
 衣服はノアの経緯を考えて、こちらも動き易さを重視した。肩が出る形の紺色の服だ。胸元には金色の糸による刺繍が施された白い布の装飾があり、肘から手 首までの長さの金色の刺繍で縁取られた白を基調とした袖と、同じデザインの膝から足首までの裾がついている。旅人用に、丈夫に作られていることは店主に確 認済みだ。
「ありがとう、ヴァン!」
 ノアはさっそく靴と服を脱いで着替え出した。
 ヴァンはそこで下着の存在を忘れていたことに気付き、ノアに背を向けて荷造りを続けた。どうにかしなければと思ったが、女性ものの下着をヴァンが買う姿を想像して、複雑な気分になった。
 荷物の準備を終えたヴァンは、ベッドに寝転がった。着替え終えたノアはベッドの存在に興味を持ち、思い切り飛び込んで跳ねた後、テルマに諌められていた。
「ふかふかでやわらかくてあったかい……」
 寝るためにベッドに横になると、ヴァンの真似をして隣のベッドに入ったノアが呟いた。
「……ヴァン」
「ん?」
 ふと、真面目そうな声でノアがヴァンを呼んだ。
「みんながしってることでも、ノアはしらないことばっかりだし、ノアはばかだからまだよくわからないこともたくさんあるけど……」
 ノアは天井を見つめながら、言った。
 リクロア山でヴァンと出会ってから、ノアには初めて経験することばかりだったのだ。自分以外の人間と話をして、町の中を見て周り、知らなかったことを知っていく。
「あんなにおいしいごはん、はじめてだった」
 ずっと洞窟の中で暮らしてきたノアがどんな食生活を送ってきたのかは分からないが、人間が料理したものを食べるのは初めてなはずだ。
「お店の人も喜んでたな」
 ヴァンは思い出して、笑った。あれだけ美味しそうに食べれば作った側も悪い気はしないだろう。
「きょうはすごくたのしかった。みんなたのしそうにしてた。ノアもたのしくなった」
 顔をヴァンの方へ向けて、ノアが笑う。
「ヴァンが、みんなをえがおにしたんだね」
 そう言われて、ヴァンは何故か言葉に詰まった。
「きりがなくなると、みんなうれしいんだね……」
 『霧』が晴れて、『獣(セル)』から解放された人々は、皆が生きる喜びに湧いていた。町の人たちに英雄視されるのは少しむず痒いところもあったが、それだけ皆がヴァンたちに感謝しているのは間違いない。
 そうだ、ヴァンが助けたのだ。今更ながら、それを実感した。ヴァンの行動で、救われた人たちがいる。
 ヴァンは救うことができたのだ。心の奥がじわりと温かくなる。
「ヴァン……ノア、がんばるよ……」
 はしゃぎ過ぎて疲れていたのだろう。段々と声が小さくなっていって、最後の方はほとんど寝息になっていた。
「こんな子だけど、良い子だろ?」
「ええ、とても……」
 テルマの言葉に、メータが同意する。二人の声は慈愛に満ちていた。
「私からも改めてよろしく頼むよ、ヴァン、メータ」
「ああ、こちらこそ、よろしくな」
 ヴァンもテルマに笑顔で答えて、目を閉じた。
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