第四章 「バイロン寺院」


 ドルクの『霧』を晴らした翌朝、侍女に起こされるよりも早く目が覚めたヴァンはリム・エルムにいた頃からトッドに稽古をつけてもらう前にいつもやっていた簡単なトレーニングをこなしてから、部屋の隅にある水路で顔を洗っていた。
 ノアはまだ眠っている。
「……おかあ……さん?」
 不意にノアの声が聞こえて、ヴァンは振り返った。
 寝言のようで、ノアが仰向けに寝返りを打って空中に手を伸ばしていた。
「どこ……いった……? どこだ……?」
 あてもなく宙を彷徨う手のひらと、小さな声。
 夢を見ているようだった。
 突然のことに声をかけることもできず、ヴァンはただノアを見守るしかなかった。
「ん……んん?」
 と、ノアの目が開いた。
 ベッドから身を起こして、伸ばしていた自分の手を不思議そうに見つめている。まだ寝ぼけているのだろうか。
「おはよう、ノア」
 そんな仕草に小さく笑って、ヴァンはノアに声をかけた。
 顔を上げてヴァンの方を見たノアは、目をぱちくりさせてから、周囲を見回し、自分の体を見て、状況を把握したようだった。
「おはよう! ヴァン!」
 ベッドから勢いよく飛び降りて、背伸びする。
「良く眠れたか?」
「うん……なんか、だれかによばれるゆめをみてたきがする」
 ヴァンの言葉にノアは頷いた後、少しだけ真剣な表情でそう呟いた。
「どんな夢か憶えてる?」
「うーん……?」
 試に聞いてみると、ノアは考えるように首を傾げて思い出そうとする。
「まっくらなところにノアがいて、こえがするんだ」
「声?」
「ノアにあいたい、どこにいるの、って」
 ノア自身もあまりはっきり憶えてはいないようで、かなり夢の説明も曖昧だった。ただ、洞窟で暮らしていた頃から時折、似たような夢を見たことがあるとノアは言った。
 何かの暗示だろうか。母親を知らないノアが潜在的に母を求めていても不思議はない。
「夢は未来を教えてくれるものだから、憶えておくんだよ。いつか、分かるかもしれないからね」
 テルマが言った。
 夢が未来を示す、という考え方もこの世界では一般的だ。
 とはいえ、今の時点ではノアの見ている夢が何を示すのかは分からない。
「いちばんふかいきりのところにおかあさんいるって……」
 思い出したように、ぽつりとノアが呟いた。
「じゃあ、ノアの両親も、この旅で探せばいい」
 どこか寂しそうなノアを見て、ヴァンは言った。
「これから『霧』を晴らして進むんだ。ついでに探せばいいだろ?」
 顔を上げるノアに、ヴァンは微笑んだ。
 『霧』を払う旅を続けていけば、必然的に『霧』の深い場所にも向かうことになるだろう。『霧』の中を旅していけば、ノアの両親の手がかりも見つかるかもしれない。
 元々があまりあてのない旅だ。目的が一つ増えたところでどうってことはない。
「ヴァンありがとう! だいすき!」
 ぱっと明るい顔になったノアは勢い良くヴァンに抱きついた。勢いが良過ぎて危うく後ろに倒れそうになったが、何とか堪えた。
 と、そんなことをしているとドアをノックする音が聞こえた。
「お食事の準備が整いました」
「分かりました、直ぐに行きます」
 ドアの向こうから侍女の声がして、ヴァンは答えた。
「さ、朝ごはんだ」
「うん!」
 抱きついたままのノアに言うと、元気良く返事をしてノアが離れた。食事が楽しみなようで、目を輝かせている。
 ヴァンはメイ手製のジャケットを着込むと荷物袋を手に、部屋を出て食堂へと向かった。
 長いテーブルにはドルク三世と兵士たちが既に座って待っていた。ドルク三世の隣の空いている席へ案内され、ヴァンとノアが椅子に座ると、食事が運ばれてきた。
 湯気を立てる暖かいスープと、いくつかの料理が盛られた小皿とパンが並べられた。
「では、いただくとしよう」
 ドルク三世の言葉と共に、食事が始まった。
 ノアは初めて扱うナイフとフォークに四苦八苦している様子で、テルマが何とかテーブルマナーを指導しようとしていた。ヴァンや他の人たちの持ち方などを真似ていたが、苦戦していた。
「慣れてないうちはフォークとスプーンでいいと思うよ」
 ヴァンは苦笑して、フォークとスプーンの持ち方を実践して見せた。ノアはそれを見よう見真似で何とか覚え、少しぎこちないながらも小皿に盛られたサラダや肉料理を口に運ぶ。皆がそれに注目し、ノアが料理を食べるのを見つめていた。
「おいしい!」
 さきほどまでの真剣な表情から一転して笑顔になるノアを見て、皆が笑みを浮かべる。
 王城の食事だけあって、昨夜の町で食べたものよりも上品な味付けのものばかりだ。クリーミーな味わいのスープも口当たりが良く、サラダにかかっているド レッシングもやや酸味がありさっぱりしていて食べ易い。少量の肉料理も、良く仕込まれていて口の中に入れると溶けるような柔らかさだ。
「領地の王としては、危機を救ってくれたお二人に褒美を取らせたいところなのだが、何がいいかな?」
 食事中、ドルク三世がそんなことを言い出した。
「いや、そんな……」
 大袈裟な、とヴァンは思った。
 だが、十年間も死んだように『獣(セル)』に取り付かれて過ごしていた城や町の者からしてみれば、それだけのことなのだ。気が付いたら十年が過ぎていて、『獣(セル)』の怪物となっていた時のことは覚えていなくても、何かしらの悪寒や絶望感は残っているようだった。
「少なくとも、私はそれに値することをお二人は為したのだと思っているのだよ」
 ドルク三世が笑う。周りの兵士たちも頷いていた。
「……では、レガイア大陸の地図はありませんか?」
 少し考えて、ヴァンはそう告げた。
 戦うための武器なども考えたが、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンとノアには並大抵の武器は必要ない。むしろ、使い慣れない武器を持つことの方が 荷物もかさばって、戦いに置いてもマイナスになりそうだ。必要になりそうな道具は昨夜のうちにある程度買い込んでいたから、道具の類は暫く心配する必要も ない。
 そこで思い付いたのが、このレガイア大陸全土の地図だった。今持っている地図はドルク王領のものしかなく、セブクス群島やカリスト皇国の地図がない。いずれ行くであろう地方の地図がないのには不安がある。
「ふむ……良かろう、用意させよう」
 ドルク三世は頷いて、背後に控えていた侍女に合図を送る。
「しかしその程度のものでいいのかね?」
「感謝して頂けるのは正直嬉しいですが、身に余ります」
 ヴァンはそう言って頬を掻いた。
 宝飾品の類を持っていても、『霧』の中を旅するのに役立つとは思えない。高価な品を貰ったところで、持て余すのは目に見えていた。
「謙虚なのだな」
 ドルク三世はそう言って優しく目を細めた。
 皆が食べ終えた頃、一人の男が地図と小さな袋を手に現れた。
「レザムさん!」
 男を見て、ヴァンは驚いた。一昨日、泉で出会ったレザムだ。
「昨日、ドルクの『霧』が晴れたことを伝令がリム・エルムにも伝えてくれたのです。私はいてもたってもいられず、急ぎ戻り、ヴァンさんにお礼を言いたくて……!」
 感極まったという表情でレザムは捲くし立てた。
 ドルクの町の『霧』が晴れた直後、解放されたドルク三世はリム・エルムに派遣したレザムにそれを伝えるため伝令を派遣していたようだ。
 レザムは礼を言い、持ってきたものをヴァンに差し出した。
 地図と共に渡されたのは、少し多めの貨幣だった。
「お二人の旅の資金にして欲しい。これから先、解放した町で必要になることもあるだろう」
「ありがとうございます」
 ドルク三世の計らいに、ヴァンは礼を言って頭を下げた。
 これはありがたかった。リム・エルムを出る際に村の皆から少しずつ出し合ってもらった資金はあったが、レガイア大陸中を巡るにはやはり心許ないものだった。節約して行くつもりではあったが、不安がないわけではなかった。
「地上から『霧』が消えない限り、真の救済はなく、世界から悲劇が消えることもない……」
 ドルク三世が遠くを見つめるように呟く。
「私にはお二人こそ、救済者になるべく選ばれた者だと思えてしまうのだ」
 そう言って、ドルク三世は柔らかな笑みを浮かべた。
「ドルク、ひげきってなに? おひげでできたきのこと?」
 それまで黙って聞いていたノアが、そんなことをたずねた。
「ははは……悲劇とは、悲しい出来事のことだよ」
「ひげきはかなしいできごと……」
 ドルク三世の答えに、ノアは噛み締めるように呟いた。
「いやだ! ノアはいやだ! かなしいできごとはきらいだ! ひげきはきらいだ!」
 ノアが強い口調で言った。
「ヴァン、きりをやっつけよう! やっつけたら、ひげきなくなるよね?」
「ノア、言っただろ。俺は『霧』をなくすために旅に出たんだ、って」
 そう言って、ヴァンはノアに笑いかけた。
 世界中の村や町が、ドルク城のような対策を取っているとは思えない。ドルク三世の機転があったから、ドルクの町はこうしてほとんど被害を出すことなく元に戻ることができた。だが、これから訪れるであろう他の町や村はもっと悲惨なことになっているかもしれない。
 ヴァンやノアが想像すらしていない事態になっていることも十分にありうる話なのだ。それでも、『霧』を払わなければ、そこから立ち直ることだってできない。
「俺たちで、これから『霧』をなくしていくんだ」
「うん!」
 ヴァンの言葉に、ノアは力強く頷いた。
「心より旅の無事を祈っておる。くれぐれも気を付けられよ」
 ドルク三世の言葉で会食はお開きとなり、ヴァンとノアは皆に見送られながら町を後にした。
 昨日のうちに閉じられた水門により、川の水が引いている。これなら歩いて渡るのに問題はなさそうだ。
 ヴァンはノアを連れて地図を片手に東へと歩き出した。
 今までのペースを考えると、日が沈むまでにはバイロン寺院に辿り着ける目算だ。
 ドルク王領の北にある盆地を囲うように山が連なっているが、地図を見る限りでは平地から盆地に繋がっているところもいくつか存在する。『霧』はそこからドルク王領全体に流れてきているようだった。
 その辺りに差し掛かると、辺りに『霧』が立ち込め始めた。
「この先から『霧』が流れてきてるっていうのは、間違いないみたいだな……」
 ヴァンは盆地の方を見つめて、呟いた。
 盆地の方角は一層濃い『霧』に満たされていて、見通しが悪いどころの話ではない。
「まっしろ……」
 ノアも『霧』の方を見て呟く。
「メータ、あの先に何があるか、分かるか?」
 盆地に足を踏み入れるべきか迷い、ヴァンはメータに聞いてみることにした。
 確かに、ただならぬものを感じる。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたことでメータたちと一部の感覚を共有できているのかもしれない。一際濃い『霧』の中には何かがあるはずだ。
 ドルク三世の話では、奇妙な建物があると聞いている。
「……ヴァン、今の私たちの力ではあの中を進むのは困難です」
「そうだね……『霧』の力が濃すぎる」
 メータに続いて、テルマが言った。
「すすめないのか?」
「いくら『聖獣(ラ・セル)』とは言っても、私たちも『獣(セル)』ではあるからね……全く影響を受けない訳じゃないんだ。あれだけ力が強いと今の私たちでは正気を保てないかもしれない」
 ノアの言葉に、テルマが答える。
 そう言えば、創世樹の中で眠っていたメータも、『霧』から創世樹を守るのに手一杯だと言っていたことをヴァンは思い出した。
 『聖獣(ラ・セル)』が『獣(セル)』とは一線を画す存在だとしても、『獣(セル)』であることに変わりはない。普通の『獣(セル)』と違い、人と言葉 を交わし、人以上に知性のある高位存在ではあり、『霧』に対しても抵抗力を持っている。だが、抵抗力があるとはいえ全く影響を受けないわけではないよう だ。
 事実、『霧』の中ではメータたち『聖獣(ラ・セル)』の認識可能な距離は短くなっていた。創世樹の探知も、かなり近付かなければはっきり分からないほどだったのはヴァンとメータが経験済みだ。
 あまりにも強過ぎる『霧』の影響下では、『聖獣(ラ・セル)』といえど力が弱ければ発狂してしまうかもしれない。そうなっては元も子もない。
「バイロン寺院の北に創世樹があるということは、この盆地を三方から囲うことができます。創世樹の力でこの盆地の『霧』が薄まり、私たち『聖獣(ラ・セル)』の力も強まれば探索もできるはずです」
 メータが言った。
 創世樹には『聖獣(ラ・セル)』を強くする力がある。それによってメータとテルマが成長し、力を増すことで『霧』への抵抗力を高めることができる。同時に、リム・エルム、リクロア山、バイロン寺院の北の創世樹は盆地を三方から囲む位置にある。
「創世樹の力を重ねれば、『霧』を無力化できるかもしれないね」
 テルマが呟いた。
 三方の創世樹が覚醒すれば、影響範囲が丁度盆地で重なることになる。そうなれば、ヴァンたちが乗り込むまでもなく『霧』をなくすことができるかもしれない。
「じゃあ、まずは創世樹の覚醒が先決ってことか」
 ヴァンは納得し、ノアと共にバイロン寺院へ向けて歩き出した。
 『霧』に対して『聖獣(ラ・セル)』は無敵ではない。他の『獣(セル)』と違い、発狂することはないようだが、『聖獣(ラ・セル)』としての力に影響がないわけではないようだ。
 確かに、『霧』の中に入ると空気が重く苦しい。どこか圧迫感がある。それももしかするとメータやテルマが『霧』に対して影響を受けているせいなのかもし れない。ヴァンやノアにしてみれば凄まじい力を発揮できているが、『霧』の影響で本来の力を発揮できてはいないのかもしれない。
「ノア、敵だよ!」
 やがて、『霧』の中を進んでいると、テルマが声をあげた。
 ヴァンにもメータが教えてくれている。『聖獣(ラ・セル)』が感覚で示す先に、オストリーグと呼ばれるモンスターがいた。モンスターとは言うが、獰猛な鳥類の一種だ。空は飛べないが、発達した足と筋力、硬い嘴を持っている。
 ヴァンが左手で短剣を抜くよりも早く、ノアが飛び出していた。
「からだがかるい!」
 自分でも驚いているようだったが、ノアの速度はヴァンのトップスピードを超えていた。
 オストリーグがノアへと突撃するのを、ノアは風に舞うように易々とかわす。交差する瞬間に水平に回し蹴りを叩き込み、オストリーグが吹き飛ばされる。地 面に倒れたところに、ノアはテルマが装着された左手を叩き付けていた。衝撃にオストリーグの体がへこんだのが分かるほどに強烈な一撃だった。
「すごい……ノアつよくなった?」
「これが私の力なのさ」
 目をぱちくりさせるノアに、テルマが少し自慢気に言った。
 ヴァンは短剣を鞘に納め、オストリーグの死骸に歩み寄った。
「オストリーグなら、焼けば食べられるな……昼飯はこれでいいか」
 ヴァンはメータを装着した右手をかざした。
 意思を汲み取って、メータがヴァンの手に炎を灯す。その火炎でオストリーグを丸焼きにして、荷袋に入れておいた塩で簡単に味付けして昼食とした。
 ノアは美味しいと言ってくれたが、ドルクの町で食べたものに比べると流石に粗野な食事だ。とはいえ、こうして食糧になりうるものを狩れた時はそれを食べ ていかなければ保存食もあっという間に尽きてしまう。旅をするのも楽ではないと改めて実感しつつ、ノアがいることで寂しさや心細さがなくなっていることに も気付いた。
 骨と食べられそうにない部位だけになったオストリーグを土に埋めて、ヴァンたちは再び歩き出した。
「私は風の『聖獣(ラ・セル)』だからね」
 道中でテルマは自分の持つ力についても話をしてくれた。
 メータが火なら、テルマは風を操ることができる。元々、身軽さを重視して鍛えていたようで、ノアとテルマとの相性も良いようだ。実際、テルマは自分を身に着けさせることを考えて、自分の力を最大限活かせるようにノアを鍛えていたのだろう。
 純粋で、清らかな風のような印象もあるノアにはぴったりだとヴァンには思えた。
 そのノアの身体能力は、こと俊敏さにおいてはヴァンを上回っていた。トッドに稽古をつけてもらい、体を鍛えていたヴァンも身体能力は決して低くない。単純な筋力に関してはヴァンの方が上だろう。
 総合戦闘能力は、ノアと変わらないぐらいだろうとメータやテルマも言っていた。ただ、動物的な勘の鋭さという点ではノアの方が優秀なのは間違いないが。
 北の盆地を囲う山を迂回するように東へ進んでいくと、北から南へ流れる川が見えてきた。その川は途中でドルク城の方から流れる川と合流して東へ流れ、そのまま海へと繋がっている。
 川を北へ遡ると、東西に山で挟まれた場所がある。川が山と交差する場所にバイロン寺院はあった。川の上にある建物で、左右を山で挟まれている。
 日が傾いてきた頃、バイロン寺院の入り口が見えてきた。
「あそこだな」
 地図と照らし合わせ、ヴァンは呟いた。
「あそこにもひといるのかな?」
「行ってみないと分からないな……」
 ノアの問いに、ヴァンは気を引き締めた。
 バイロン寺院がどうなっているのかは行ってみなければ分からない。ドルク城や町のような策が取られている可能性も皆無ではないだろうが、高いとも思えない。最悪、滅びているかもしれない。
 建物の前に辿り着くと、しっかしりた造りの扉が入り口を閉じている。
 扉を開けると、石造りの床と木材の壁に包まれたやや広い部屋に出た。地面に鉄格子がはめ込まれた大きな窓のようなものが四つあり、その下には何やら羽の ようなものが着いたオブジェが見える。部屋の中まで『霧』は入り込んでいるが、『獣(セル)』やモンスターの類は見かけない。そして、部屋の中央には何か の装置と思われるものがあった。
「何だこれ?」
 近付いて見ると、地面に設置された何かから木の棒が伸びている。どうやら特定の方向にだけ動かせるレバーのようだ。
「ヴァン、ここどうやってあけるの?」
 ノアが不思議そうな声でヴァンを呼んだ。
 部屋の最奥部には扉らしきものがあったが、持ち手にあたる部分がなく、開けることができない。
「うーん、動かしてみるか?」
 試に、ヴァンはレバーを動かしてみることにした。木の棒を持って、動く方向に止まるまで動かす。
 すると、ヴァンの背後で勢い良く扉が閉じた。音に驚いて振り返ると、入ってきた方向にあった扉が閉まっていた。
「なんだ!? なんだ!?」
 ノアがびっくりして辺りを見回している。
 地鳴りとは何か違う音が、床の方から聞こえてきていた。
 そして、部屋の中を漂っていた『霧』が晴れていく。
 床にあった大窓の下に見えていたオブジェが回転し、角度のついた羽が風を起こして『霧』を天井に空けられた細かい穴から外へ押し出しているようだった。
「これは……?」
 ヴァンが驚いていると、奥の扉が開いた。
「なんてこった!」
 驚きに満ちた男の声にヴァンとノアの視線が扉から出てきた男に向いた。
「『獣(セル)』の怪物が悪さをしてると思って飛び出してみたら人間のお客さんじゃないか!」
 そこにいたのは、トッドと同じ坊主頭に一房だけ髪を後ろへ垂らし、胴着を着込んだバイロン僧兵と思しき男だった。
「さ、まずは中に入ってくれ。それは長い間は動かないんだ」
 バイロン僧兵の男はそう言ってヴァンとノアを開いた扉の奥へと案内した。
 ヴァンはノアと顔を見合わせて、ひとまず彼の言うことに従って扉の奥へと進む。
 入って直ぐの部屋は大広間になっていた。中には多くのバイロン僧兵が整列し、修行に励んでいた。
「このバイロン寺院に真っ当な人間が訪ねてくるなんて久しぶりだ。俺も門番をやってて、まさか誰か来るなんて思ってなかったから驚いたよ」
 門番の僧兵はそう言って笑顔でヴァンたちを迎え入れた。
「待ってな、今は修行の真っ最中だ。修行が済んだら長老のゾッブ様に紹介してやるからな」
 門番の言葉を聞きながら、ヴァンは部屋の中央で修行している僧兵たちを見つめていた。
 ヴァンたちに背中を向けて並んでいる僧兵たちは、奥にある壇上に立つ一人の老人の号令で修行しているようだった。白髪で立派な髭を蓄えた、紫色をした眼 光の鋭い老人だ。真紅に金の刺繍で装飾が施された法衣を着ている。老人と言えど、その背筋は曲がっておらず、指示を出す声にも衰えを感じない。良く通る力 強い声だ。
 僧兵たちも返事をしながら体を動かしている。その光景は圧巻だった。
「ここが、バイロン寺院……」
 ヴァンはぽつりと呟いた。
 我流にアレンジしてはいるが、ヴァンの戦い方の基礎になっているのはバイロンの武術だ。その総本山をこの目で見ることができたことを嬉しく思っていることに、ヴァンは気付いた。
 ヴァンの視線に気付いていたのか、老人がこちらを見た。
「そこまで!」
 彼の言葉で僧兵たちが一斉に動きを止め、姿勢を正す。
「良かろう。どうやら、珍しい客人も来たようだ。修行はこれまでとする。各々は勤めに励むように」
「はい!」
 老人の言葉に全員が声を揃えて返事をする。
 列が崩れ、僧兵たちが散っていく。老人は壇上から真っ直ぐにヴァンたちの方へと向かってくる。老人の左右に二人の青年が付き従っていた。
 一人は青色の胴着を着込んだ逆立つような茶色の短髪が特徴的なやや面長の男で、もう一人は対照的に赤茶色の胴着に赤黒い短髪を後ろに流したような髪型の 男だ。二人ともまだ若いが、筋肉質で大柄だ。青い胴着の男は生真面目そうな仏頂面をしていて、赤い胴着の男は品定めするかのような表情をしている。
「これはこれは、よくぞこのバイロン寺院においでになられた」
 修行していた時とは一転して、老人は穏やかな表情を見せる。
「この爺にお前さんたちの姿を良く見せてくれんかの……」
「わたし、ノアだよ! こっちにいるのがヴァン! よろしくね、じじい!」
 ヴァンが止める間もなく、ノアが一歩前に出て言い放った。
「ゾ、ゾッブ様に爺などと……」
 青い胴着の男が顔を引き攣らせて一歩前に出た。
「良い、大禅師。このお嬢さんに悪意はない」
 老人は青い胴着の男を視線で制止する。
「すみません、ノアは育ちが特殊なので言葉が上手くないんです」
 ヴァンは申し訳なさそうにそう言って頭を掻いた。
「なるほど、ヴァン殿にノア殿か……。わしはゾッブ。このバイロンの長老をしておる」
 顎鬚を手でさすりながら、老人、ゾッブ老はヴァンとノアを見つめる。頭から足先までを眺め、二人の手に着いている『聖獣(ラ・セル)』を見、目を覗き込むように見る。
 その仕草は自然な流れで、ほんの一瞬だった。
「ふむ……お前さんたち、良い目をしておる。それに、その『獣(セル)』……」
「あ、これは……」
 ゾッブ老の言葉に、ヴァンは自分の右手に宿るメータに目を向ける。
「ただの『獣(セル)』ではないようじゃな」
 思わず、ヴァンはゾッブ老を見返していた。
 まだ何も言っていない。ゾッブ老は僅かに笑みを浮かべ、口を開いた。
「良かろう、お前さんたちを歓迎しよう。今宵、歓迎の宴を催すことにする」
「宜しいのですか? 彼らは『獣(セル)』を……!」
 大禅師と呼ばれた青い胴着の男がゾッブ老に問う。
 確かに、このバイロンは『獣(セル)』を禁じている場所だ。ヴァンも簡単に受け入れて貰えるとは思っていなかった。だが、ゾッブ老はそんな大禅師の言葉を目で遮った。
「外は『霧』が満ちておる。そんな中やってきたことから察するに、色々と事情がありそうじゃ」
「ですが……」
「大禅師よ、皆に宴を催す旨を伝えてきなさい。それともわしの判断が信用ならんか?」
「……分かりました」
 まだ納得できていない様子ではあったが、ゾッブ老に諭され、大禅師が広間の奥にある扉から出ていった。
「では、わしは奥にあるわしの部屋で待っておる。そこで詳しい話を聞こう」
 ゾッブ老はそう言うと、広間を出て行く。
 残ったのは赤い胴着の男だった。
「お前ら……その手にくっ付けてるのは『獣(セル)』じゃないのか?」
「いや、『獣(セル)』とはちょっと違う」
 少し高圧的な口調だった。
 『獣(セル)』を身に着けていれば、バイロンでの風当たりは強いかもしれない。もう少し考えてから入るべきだったかもしれない。
「おいおい、じゃあ何だってんだ?」
「ただのセルじゃないよ! ラ・セルだよ!」
 肩を竦めておどけてみせる男に、ノアが答えた。
「ほう、『聖獣(ラ・セル)』ってか? 俺もそんな『獣(セル)』が欲しいもんだぜ」
 鼻で笑って、男が言った。
 ヴァンは眉根を寄せた。思っていた反応と違う。
 普通のバイロン僧兵なら、『獣(セル)』が欲しいとは言い出さない。バイロンでは『獣(セル)』の装着を禁じているはずだ。ということは、彼はバイロン僧兵ではないのだろうか。
「俺はソンギだ。『獣(セル)』が余ってたら俺にも分けてくれよ」
「バイロンの教えに背くんじゃないのか?」
 ソンギと名乗る赤い胴着の男に、ヴァンは怪訝そうな表情をする。
「真に受けるなよ、冗談だって」
 笑いながらそう言って手をひらひらさせ、ソンギもその場を後にする。
「へんなやつ……」
 ぽつりと、ノアが呟いた。
 バイロン寺院と言えど、不真面目なお調子者はいるということだろうか。いまいちソンギという人物について良く分からないが、とりあえずはゾッブ老の部屋に向かうべきだろう。
 広間の扉から奥へ進むと、巨大な石像が正面に置かれていた。頭の頂点部分で髪を丸くまとめた巨大な人の顔の石像だ。台座に首から上だけで、丸く縛った髪の頂点が天井に着く程に大きい。額の中央に赤い宝石があり、顔の作りは優しくもどこか力強い印象を受ける。
「なんだこれ? すごくおおきいかおがあるよ」
「ここを象徴するバイロン像さ」
 興味津々といった様子で石像の前に駆け寄るノアに、近くにいた僧兵が教えてくれた。
「これがバイロン像……」
 ヴァンもノアの隣に並んで、バイロン像を見上げた。
「ヴァン……? ヴァンなの?」
 ふと、女性の声がヴァンを呼んだ。
 見れば、そこには長い緑の髪の女性が階段を駆け下りてくるところだった。
「……エイミおばさん?」
 ヴァンの口から、自然とその名が出た。
 彼女の姿は、メイに似ていた。髪の色も、顔立ちも、カチューシャの位置や色も、雰囲気さえも、メイが大人になったらこうなるだろうと思えるものだった。だから、直ぐに分かった。
「憶えててくれたの? 私が村を出たのはあなたが小さい頃なのに……」
 名前を呼ばれて、エイミは驚いたようだった。
「だって、メイにそっくりだから……」
「そっか……。私も、ゾッブ様からヴァンという若者が来てるって聞いたから急いで来たんだけど、あなたも若い頃のヴァルにそっくりだから直ぐ分かったわ」
 胸の前で両手を合わせて、エイミは笑った。
「嬉しいわ。『霧』のお陰でリム・エルムの人とはもう二度と会えないと思っていたのに……あなたたち偉いわ、こんな所まで来るのは大変だったでしょ?」
 昔を懐かしむように遠い目をして、エイミが言う。
「あ!」
 そこまで言って、エイミははっとして小さく声をあげた。
「ごめんなさい。私、ゾッブ様に宴の準備するように言われてるのよ。だからもう行かないと……」
 そう言ってエイミは一歩身を引いた。
「おばさんもいっぱいお話したいんだけど、それは今夜のお楽しみね。あなたのことや村のこと、後でゆっくり聞かせてね」
 それじゃ、と言ってエイミはばたばたと階段を駆け上がって行った。
「ヴァンのさがしてたエイミってあのひとなんだ……」
 目を丸くさせて、ノアが呟いた。
「すごいげんき……ノアなにもいえなかったよ」
 ほとんどエイミが捲くし立てるように喋っていただけだった。ヴァンもノアも、口を挟めなかった。
「無事だったんだ……良かった」
 ぽつりと、ヴァンは呟いた。知らないうちに、笑みが浮かんでいる。
 生きていてくれた。元気そうだった。今はそれが分かっただけで良かった。
「よかったね、ヴァン。エイミとあえてよかったよ! エイミげんきでよかった!」
「ああ、本当に良かった」
 笑顔を見せるノアに、ヴァンは頷いた。
 不安だったことの一つが消えた。リム・エルムに戻った時、これなら安心して話すことができる。エイミが生きていれば、メイも喜ぶはずだ。良い報告ができる。それが分かっただけでも、ここまで来た甲斐があった。
 ヴァンはノアと共にエイミが上った階段を上がった。
 通路を進んで行くと、門番のように僧兵が一人立っているドアがあった。
「ここは?」
 ノアが首を傾げた。
「ここは女性の寝室です。男子禁制であります」
「じゃあエイミおばさんもここに?」
「はい、確かにエイミさんはこの部屋にいらっしゃいます。今は部屋の女性たちと宴の準備をしております」
 ヴァンの問いに、僧兵が頷く。
「ノアはおんなだよ! おんなだからはいっていい?」
「ノアさんなら構いませんが、ヴァンさんはこちらでお待ち頂くことになります」
「いってもいい?」
 僧兵の言葉に、ノアがヴァンの方を見る。
「あんまり長話はするなよ」
「うん! ノア、エイミとはなししてくる!」
 ヴァンが笑顔で頷くと、ノアは元気良く返事して寝室に入って行った。
 中に入ったノアの良く通る声がして、他の女性たちの声がそれに混じる。何を言っているのかまでは聞き取れないが、盛り上がっているようだった。
「エイミおばさんはここではどんな感じなんです?」
「そうですね、エイミさんは良く気が付くし、まめだし、とても陽気で明るい人ですよ」
 ヴァンの問いに、僧兵は笑顔で答えてくれた。
「バイロンの僧兵たちは皆エイミさんを母親のように慕っています。故郷のリム・エルムのことも良く話していましたよ」
「リム・エルムのことも?」
「ええ、娘さんのことや、その友達の話とかですね」
 ノアが中で話をしている間、ヴァンは僧兵にバイロン寺院について話を聞くことにした。
 それで分かったことは、『霧』が来た際に近くにいた者たちをバイロン寺院が避難民として受け入れたということだった。
 バイロン寺院と外との間には換気室が設けられ、プロペラを回すことで『霧』を排気し、寺院内に『霧』を入れぬようにしているようだ。換気室は外から来る 際には寺院側の扉が締め切られ、装置を動かすことで外側の扉が閉まりプロペラが回り出す。一定時間プロペラを回して『霧』が排出されたところで寺院側の扉 が開く。寺院側の扉を閉めることで装置が止まるようになっているらしい。
 装置の動力はバイロン寺院の真下を流れる川のようで、レバーを動かすことで動力への接続を入れたり切ったりしているようだ。
「なるほど、それで『霧』が入ってこないようにしてるのか」
 ヴァンは感心した。
「元々はバイロン寺院の換気のために作られたものだったんですが、『霧』に対して有効だったのも幸いでしたね」
 何にせよ、バイロン寺院が無事だったのは良い報せだ。
 バイロンの戒律により『獣(セル)』を身に着けている人がいないのも大きい。換気が完全ではなかったとしても、『獣(セル)』を身に着けていなければ 『霧』があっても影響はない。寺院内には未装着の『獣(セル)』でさえないのだから、『獣(セル)』の怪物が現れることもない。
 『霧』に満ちた世界の中で、まだ平穏を保てている。
「でも、俺たちは……」
 ヴァンは自分の右手に目を落とした。
「確かに、バイロンには『獣(セル)』を禁ずる戒律があります。ただ、それは僧兵やバイロンの教えに従う者たちのもの。布教はしても強要はできません」
 それに、と僧兵は苦笑して続ける。
「こんな時代ですからね。ゾッブ老も希望を求め、信じています」
「それが俺たちかもしれない?」
「ゾッブ老はそうお考えなのかもしれません」
 ヴァンの言葉に、僧兵が言った。
 世界が『霧』で覆われ、危険に満たされた中、『獣(セル)』を身に着けていても正気を保っているヴァンたちに何かを感じたのだという。
 確かに、入れて貰えなければ話をすることもできない。
 と、ドアが勢い良く開いてノアが飛び出してきた。
「ノア、エイミ、だいすき! エイミ、いいひと!」
 手をばたばたさせて、ノアが言った。
「そっか、良かったな」
「うん! ノア、エイミのおはなしいっぱいきいたよ! じゅんびがあるからいそがしい、ヴァンによろしくだって!」
 ヴァンが微笑むと、ノアは元気良く頷いた。
 門の前の僧兵に一言礼を言って、ヴァンはノアを連れてゾッブ老の部屋へ向かった。宴の準備のために慌しく動き回る女性たちや、それを手伝う僧兵たちがバイロン寺院内を動き回っている。時折、僧兵の胴着を着ていない男や子供も見かけた。
 ゾッブ老の部屋の近くでは大禅師が一人自主鍛錬に励んでいた。
「ゾッブ様も一体何を考えていらっしゃるのか……このバイロンの聖地で『獣(セル)』の使徒を歓迎するとは……」
 大禅師はヴァンとノアに目もくれずにぶつぶつ言いながら体を動かしている。
 部屋にはゾッブ老の他にもう一人男が待っていた。灰色の髪を頭の後ろで丸く纏めた、バイロン像のような髪型の男だ。年齢的に五十歳ぐらいだろうか。紫色の胴着を着ており、筋肉質な体付きをしている。
「彼はハイアムと言い、師範代をしておる」
 ゾッブ老はそう言って男を紹介した。
 ハイアムの会釈にヴァンも会釈を返す。
「そこで大禅師が何か言っていなかったかね?」
 ハイアムの問いに、ヴァンは返答に迷った。
「恐らく、『獣(セル)』を身に着けたお前たちを受け入れたことに不満を言っていただろう?」
 ハイアムは苦笑して、そう言った。
「大禅師は『獣(セル)』の怪物に両親を殺されていてな……『獣(セル)』を憎むようになってしまったのだ」
 腕を組み、少し難しい顔をしてハイアムが言った。
「根は真面目で誠実な男なのだ。許してやって欲しい」
「俺たちは気にしませんよ」
 すまなさそうに言うハイアムに、ヴァンも苦笑した。
 事情が事情だけに、許すも許さないもない。そもそも、ヴァンたちが大禅師に恨みを持っているわけでもないのだ。
「では、本題に入ろうか」
 ゾッブ老が口を開いた。
「宴が始まる前にわしにお二人のことやその『獣(セル)』のことを聞かせてくれんか」
「はい」
 ヴァンは頷いた。
 バイロン寺院が健在なら、協力を得たいところだ。申し出を断る理由もない。
 ドルク三世の時のように、ヴァンはこれまでのことを語った。
 リム・エルムで過ごしていたこと、壁が壊されて『霧』が村に入り、その混乱の中で創世樹の中で眠っていた『聖獣(ラ・セル)』が目覚め、ヴァンを選んだ こと。創世樹を覚醒させて『霧』を払い、『聖獣(ラ・セル)』と共に『霧』を払う旅に出てリクロア山でノアと出会ったこと。ドルク城と町が既に救われてい ること。
 バイロン寺院の長老であるゾッブ老は、『聖獣(ラ・セル)』の話を特に真剣に聞いていた。
「でも、バイロン寺院が健在で良かった。トッドには世話になったんです。バイロンが健在なら宜しく伝えて欲しいと」
「なんと、ヴァン殿はトッドの教え子であったか!」
 思わず笑みがこぼれたヴァンの言葉に、ゾッブ老は嬉しそうに笑った。
 ゾッブ老はトッドのことを憶えていたようだった。トッドに鍛えてもらっていたことを話すと、ゾッブ老は顔の皺を深くして優しい笑みを見せた。音信不通 だった同胞が生きていたことを純粋に嬉しく思っているようでもあり、自分の子供が健在であることを安堵しているようでもあった。
「だから、俺もバイロン寺院には一度寄ってみたかったんです」
 師匠であるトッドの修行した場を見てみたかったのはヴァンの本音だ。滅んでいなくて本当に良かった。
「トッドも健在なら、わしにとっても朗報じゃ」
 ゾッブ老が髭を撫でながら小さく頷いた。
「ドルク王から、バイロンの北に創世樹が二つあると聞きました。場所を教えて欲しいのです」
 最後に、ヴァンは今後のことについてもゾッブ老に話すことにした。
 バイロン寺院の北にあるという二つの創世樹を目覚めさせ、盆地にできた建物を調査する。そこに『霧』の発生源や謎があるはずだ。そこに向かうためには創世樹を覚醒させる必要がある。
 話を終える頃には、宴が始まる時間になっていた。
「なるほど……わしは少し考えを纏めたい。お二人は先に宴を楽しんでいて下され。寝床も用意させておる」
「分かりました」
 ゾッブ老はそう言って、ヴァンたちを宴に送り出した。
 創世樹の位置について直ぐに返事はくれなかったが、教えるつもりがないわけではなさそうだった。何か考えがあるのか、それともヴァンたちの話を整理したいのかは分からなかった。
 ただ、日が落ちた今から創世樹を探しに出るのも得策ではない。客室に布団を用意してもらってもいる。ここはバイロン寺院で食事と寝る場所をありがたく頂いて明日動いた方が良さそうだ。
「うたげってなんだ?」
「お祭りみたいなものかな」
 広間に向かう途中でノアが聞いてきたので、ヴァンはそう答えた。
「おいしいものあるかな!?」
「エイミおばさんも準備を手伝ったみたいだから、あるんじゃないかな?」
 目を輝かせるノアにヴァンはくすりと笑った。
 そこで、思い出した。エイミには言わなければならないことがある。機会を逃して言えなかったが、宴の席で話そうとエイミも言っていた。しかし、言わないわけにもいかない。リム・エルムの村長に頼まれたことでもある。
 胸の奥が締め付けられたような気がして、ヴァンは胸に手を当てていた。服を掴む手に、力がこもる。
「ヴァン?」
 いつの間にか先を歩いていたノアの声にはっとして、ヴァンは伏せていた顔をあげた。
「どうしたの?」
「ん、ちょっとね……大丈夫」
 何と言っていいのか分からず、ヴァンは言葉を濁した。
 不思議そうに首を傾げるノアに何とか笑みを作って、通路を急いだ。
 広間には大きな机がいくつか並べられ、大皿に料理が盛られて並んでいる。ヴァンたちが入ってきたことで宴が始まり、ヴァンたちは質問攻めにあうことになった。
 主にヴァンがこれまでのことを答え、ノアが相槌を打ったりする。もっとも、ノアは料理の方に気がいってしまっていたが。
 少し遅れてやってきたエイミは、ヴァンにこれまでのことを話してくれた。
 『霧』がやってくる前にバイロン寺院に働きに出た後、エイミはバイロン寺院で暮らしていた。外には『霧』が満ちているから当然と言えば当然だ。『霧』が 現れ始め、パニックになる寸前にエイミはバイロン寺院に辿り着いた。それからは『霧』で混乱し、近くにいた人を腕の立つ僧兵たちが探して保護し、バイロン 寺院に連れてきていたようだ。
「リム・エルムの方は? 皆は元気?」
 エイミに言われて、ヴァンは一瞬言葉に詰まった。
「それが……」
 ヴァンはどう話すべきか迷いながらも、リム・エルムのことを話し出した。
 最初は、ヴァンが誕生日を迎えて大人の仲間入りを果たした日の夜、壁が壊されてリム・エルムに『霧』が入ってきたことを話した。それから、『聖獣(ラ・セル)』のメータと出会い、創世樹を目覚めさせて『霧』が晴れたことを告げた。
「じゃあ、リム・エルムは無事なのね?」
「とりあえず、リム・エルムとドルク城周辺は『霧』の心配はなくなったよ」
 エイミに、ヴァンはそう答えた。
 創世樹を目覚めさせる旅に出て、リクロア山の頂上で同じく『聖獣(ラ・セル)』のテルマに導かれたノアと出会った。ノアが色々と複雑な生い立ちであることも教えた。
「それで、『霧』の中を動ける俺に、エイミおばさんの安否を確かめてきて欲しいって村長に頼まれたんだ」
「そうだったのね……」
 ヴァンの話に、エイミは感心したように頷いた。
「リブロは何か言っていた?」
 その名前が出て、ヴァンは表情を曇らせた。
「それが……俺の誕生日に、狩りの最中に……『獣(セル)』に襲われて……」
 途切れ途切れに、ヴァンは言った。
 伝えなければならないと思っていても、気が重かった。
「リブロが……?」
 エイミの表情が凍り付く。
 ヴァンの話を聞いて、目を見開いて愕然としていた。
「安否を確かめて欲しいって頼まれたのも、それもあってのことなんだ」
 リブロが亡くなり、メイの親はエイミだけになってしまったから。
 エイミの目から涙が零れた。ヴァンはエイミを直視できず、顔を伏せた。泣き崩れるエイミを見て、周りの人たちがざわめき、静まりかえる。
 無意識のうちに、ヴァンは拳を握り締めていた。
「エイミ、なみだだめ! げんきだす! ないてるエイミはエイミじゃないよ……!」
 泣いているエイミに気付いたノアが声をあげた。
「ありがとう、励ましてくれてるのね……でもね」
 泣きながらも何とかエイミが笑みを見せる。だがそれも一瞬のことで、表情は曇ってしまう。
「おばさん、悔しいのよ……! 大事な人の大事な時に傍にいられなかった……! いつか会えると思っていた大事な人にもう会えない……それがとても辛いの!」
 嗚咽混じりに、エイミは叫ぶように言った。
 リブロはエイミにとって最愛の夫だ。『霧』が晴れたら、いつかリム・エルムに帰って会えると思っていたはずだ。それが、もう二度と会うことはできない。葬儀も済ませてしまったから、顔を見ることさえできなくなってしまった。
 エイミの胸中を思うと、ヴァンは何も言うことができなかった。
「ごめんなさい、ヴァン、ノア……泣いてしまって」
「エイミ、リム・エルムにいこう! エイミのいえがあるから!」
 溢れ続ける涙を手で拭うエイミを見て、ノアが言った。
「ごめんなさい、今は一人にさせて……」
 涙で濡れた顔のまま、エイミはそれだけ言うと広間から出て行った。彼女を引き留められる者は誰もいなかった。
「エイミかなしいとノアもかなしい……かなしくてさびしいよ、ヴァン……」
 そう呟くノアは今にも泣きそうだった。
「今はそっとしておくしかないよ……俺も、何も言えない」
 ヴァンも同じ気持ちだった。
「……宴の席で話すことだったのか?」
 近くで聞いていたのか、青い胴着の大禅師が咎めるような口調で言ってきた。
「そうかもしれないけど、言わない訳にもいかないだろ……?」
 ヴァンは大禅師の方に体を向けて、言った。
 確かに、この場で言う必要はなかったかもしれない。だが、いずれは伝えなければならないことだ。
「聞かれて、答えないわけにも……」
 どの道、エイミはリム・エルムのことを聞きたがっていた。その話の中で、夫であるリブロのことを聞かれないはずがない。この場ではぐらかしたとしても、察しの良い者なら何かあったのだと気付いてしまう。そうなれば、何をどう言おうと平静ではいられない。
「それはそうかもしれないが……」
 大禅師がエイミのことを気遣って言っているのだとは分かっていた。
 だから、これ以上強く言うこともできなかった。そもそも、出身が同じリム・エルムで、エイミの娘と幼馴染みであるヴァンにはエイミの気持ちも痛いほど分かる。大禅師もそれは気付いているはずだ。
「……お前は、よくエイミさんの夫を殺した『獣(セル)』を身に着けられたな」
 大禅師は厳しく責めるような目で、ヴァンの右手を見ていた。
「気に入らないな……俺はそんなものも、それに頼る奴も大嫌いだ!」
 ヴァンが何かを言うより前に強い口調で言い放ち、大禅師は広間の隅に離れて行った。まるでヴァンたちの言葉など聞きたくないとでも言うかのように。
「テルマもメータもいいセルなのに……」
 口を尖らせて、ノアが小さく文句を言う。
 だが、大禅師の気持ちも全く分からないわけではない。もし、リム・エルムが『霧』に襲われた時、声が聞こえなかったら、ヴァンはメータを身に着けはしな かっただろう。メータの心や、真剣さが伝わってこなければ、警戒していたはずだ。リム・エルムの皆も、『聖獣(ラ・セル)』ではなくヴァンの言葉に耳を傾 けていたのだから。
「エイミさんのことは気の毒だとは思うがよ、俺は羨ましいぜ」
 近くにきていたソンギが呟いた。
「……俺にもそんな『獣(セル)』があれば……いや、言っても仕方ねぇか」
 机の上に並んだ料理を自分の皿に取り分けながら独り言のように呟いて、ソンギも離れて行く。
 『獣(セル)』を禁じるバイロン僧兵の一人ではあるようだが、もしかしたらソンギは『霧』を払うことを望んでいるのだろうか。
 空腹が満たされた辺りで、ゾッブ老が広間に入ってきた。
 壇の近くにいたヴァンとノアに気付き、ゾッブ老が歩み寄ってくる。
「先程、エイミが泣きながら歩いておったが……」
「リブロおじさんのことを、伝えました」
 ヴァンは沈んだ表情で答えた。
「そうか……」
 ゾッブ老はそれだけで察してくれたようだった。
「一つ訊ねたいのだが、お二人はエイミを連れ戻しにきたのではないか?」
「そこまでは考えていませんでした。安否を確認できても、『霧』の中リム・エルムまで行くのは難しいですし……」
 ゾッブ老の問いに、ヴァンは頭を掻いた。そう言えば、頼まれたのは安否の確認だけだった。リム・エルムまでエイミを連れて帰って欲しい、とまでははっきり言われていない。
 ヴァンとノアの二人でエイミを守るとしても『霧』の中バイロン寺院からリム・エルムまで向かうのは楽ではない。ただでさえ獰猛な野生生物もいる。
「ただ、メイのことを考えると帰ってあげて欲しいとは思います」
 父親を亡くしたばかりのメイを思えば、エイミには傍にいてやって欲しい。
「それはエイミ本人に決めてもらうべきじゃな」
「ええ、そう思います」
 ゾッブ老の言葉に、ヴァンは頷いた。バイロン寺院の者に慕われているエイミにも、考えるところはあるだろう。無理矢理連れて行くようなことをするつもりもない。
「さて、先程の話だが、お二人はバイロン寺院の近くにある創世樹を目覚めさせる意思がおありなのじゃな?」
 ヴァンとノアは頷いた。
 ゾッブ老はそれを見て一つ頷くと、壇上に上がった。
「皆の者、耳を傾けてくれ」
 静かだが、良く通る声だった。
「お二人は創世樹を目覚めさせ、バイロンにたちこめる『霧』を晴らしてくれるそうじゃ」
 その言葉に、広間にいた多くの者たちが歓声に沸いた。
「これは千載一遇の機会、我らバイロンの者もお二人を手伝わねばならん。ただ、問題は北にある二つの森、西ヴォズと東ヴォズそれぞれに創世樹があるということじゃが……ヴァン殿、まずどちらの森に行かれるおつもりじゃ?」
 ゾッブ老は壇上からヴァンたちに向き直り、問う。
 ヴァンは北の森が川で真ん中から区切られていることを思い出した。西と東それぞれに創世樹があるようだ。
「二手に分かれるべきか?」
 顎に手を当てて、ヴァンは小さく呟いた。急ぐのであれば、ヴァンとノアがそれぞれ西と東に一人で向かい、創世樹を眼覚めさせるという手もある。
「創世樹の力を得ることを考えると、二手に分かれるのは得策ではないと思います」
 メータが囁いた。
 創世樹を覚醒させ、『聖獣(ラ・セル)』を成長させることを考えるなら、ヴァンとメータは一緒にいた方が良い。盆地に満ちる濃密な『霧』に対する力を得る必要性があることを鑑みれば、共に行動すべきだ。特に、テルマはまだノアの左手に着いたばかりだ。
「東は盆地から遠い分、比較的安全ではありそうですが、西は少々気がかりですね」
 メータの囁きに、ヴァンは考えを巡らせる。
 位置的に、東は『霧』の発生源から遠い。対して西は発生源に近く、『霧』が濃い可能性がある。創世樹の力の影響力を考えると、発生源に近い方を先に覚醒させた方が効果的かもしれない。もしかしたら、ドルク王領全土の『霧』を無力化できるかもしれない。
「西ヴォズ樹林に向かおうと思います」
 盆地に満ちる『霧』の力を弱めることを優先して、ヴァンはそう結論を出した。
「うむ、承知した。大禅師! 大禅師はおるか?」
 ゾッブ老もヴァンの考えを汲んでくれたようだ。
「はい!」
 ゾッブ老に呼ばれ、大禅師が歩み出た。
「大禅師、お前はお二人に同行し、西ヴォズ樹林を案内するのじゃ」
「し、しかし……」
「長老の命を聞けぬと?」
「いえ、そのようなことは……!」
 ゾッブ老の言葉に大禅師は狼狽えたが、軽く一喝されると引き下がった。
 地図を持っていても森の中は迷い易い。案内役をつけてくれるのはありがたかった。ただ、『獣(セル)』を毛嫌いしている大禅師が選ばれたことには少し複雑なものがあった。
「『霧』の濃い西ヴォズ樹林を案内させるには、手練れの者である必要がある。お主の実力を評価してのことじゃ」
 ヴァンの疑問も、ゾッブ老の言葉で解消された。
 並のバイロン僧兵では『霧』の中を動き回るのは危険だ。特に、『霧』の発生源に近い西ヴォズでは徘徊する『獣(セル)』もより狂暴な可能性がある。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンとノアがいるとはいえ、それなりの実力者でなければ逆に足手纏いになりかねない。
「はい!」
 複雑な表情をしてはいたが、大禅師はゾッブ老の要請に応じてくれたようだった。
「ではゾッブ様、俺は念のため東ヴォズ樹林の創世樹の無事を確認しに行きましょう。あの辺りは慣れていますからね」
「ふむ、お前が自ら名乗りを上げるとは珍しいな……」
 壇の前に歩み出たソンギを見て、ゾッブ老は顎鬚を撫でながら言った。
「だが、やる気があるのは良いことだ。良かろう、供の僧兵を着ける。宜しく頼むぞ!」
「はい!」
 ゾッブ老の言葉にソンギは笑みを見せて答えた。 
「さて、夜も更けた。宴もこれでお開きにするとしよう」
 壇上でゾッブ老は皆に言い、宴が終わった。
 エイミのことは気がかりだったが、一人で考えたいというのを邪魔するわけにもいかない。落ち着いて考えるにも時間は必要だろうから。
 ヴァンはノアと共に、明日に備えて休むことにした。
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