第五章 「大禅師ガラ」


 バイロン寺院の客間で一夜を明かしたヴァンとノアは食堂で朝食を取り、出発の準備を整えていた。
 ノアは女性たちの寝室で一泊させることもできたが、エイミのことを考えて客間で寝ることになった。今朝も寝ぼけて何やら言っていたが、両親の夢は見ていないようだった。
 地図上では、バイロン寺院から北へほぼ真っ直ぐに川が流れている。ドルク王領の最北端は山脈が連なっており、セブクス群島との境になっていた。西ヴォズ 樹林は盆地を囲う山々の直ぐ東に位置しており、こちらも山で囲まれた地形になっている。東ヴォズ樹林も川を挟んで対照的に山に囲まれた地形となっていた。
 準備を整え、ヴァンは荷物袋を手にノアと共に広間の奥にあったバイロン像の前に向かった。一度そこで集合し、同時に出発する予定になっている。
 バイロン像の前にはすでにゾッブ老と大禅師が待っており、ヴァンたちとほぼ同時にソンギがやってきた。
 案内役の大禅師を先頭に、ヴァン、ノアが並ぶ。反対側ではソンギを先頭に、三人の僧兵が並んでいた。
「バイロンの祝福を東ヴォズ樹林に向かうソンギに!」
「はい! お任せを!」
 ゾッブ老が一言喝を入れ、ソンギたちが一礼して出発する。
「バイロンの祝福を西ヴォズ樹林に向かう大禅師とお二人に!」
 今度は三人に向けてゾッブ老が言う。
「はい! よし、行くぞ」
 大禅師が言い、歩き出した。
 川の上に建てられているバイロン寺院の裏口は二つあり、西口と東口がある。地形が川で分断されているため、西側に向かうなら西口、東に向かうなら東口から出る必要がある。
 ソンギたちは東口から、ヴァンたちは西口から出ることになる。
「ねぇ、たいぜんし……きいていい?」
「なんだ?」
 前を歩く大禅師の背中に、ノアが声をかけた。
「たいぜんしって、へんななまえだな?」
「大禅師は名前ではない、称号だ」
 少し苛立ったような、睨むような顔で大禅師が答えた。
 バイロン僧兵における、かなり位の高い実力者に与えられる称号が大禅師だ。バイロン僧兵にとっては目標となりうる称号とも言える。
「しょうごう……?」
「その人の立場や位を表す別の呼び方、ってところかな」
 首を傾げるノアに、ヴァンはそう説明した。
「なまえじゃないのか? それなら、なまえはなんだ?」
「まぁ、確かにバイロン僧兵でもないお前たちに大禅師と呼ばれてもな……」
 大禅師は溜め息をついた。
「ガラだ」
 ぶっきらぼうに、大禅師はそう言った。
「ガラ……おもしろいなまえだね!」
 名前を聞いて笑うノアに、大禅師、ガラが渋い表情をする。
「あまり気安く呼ぶなよ。俺は『獣(セル)』が大嫌いなんだからな」
 そう言って突き放すように背を向け、ガラが足を速める。
 西口の扉の近くで、エイミが待っていた。ヴァンたちが来たのを見て、歩み寄ってくる。
「エイミおばさん……」
 ヴァンは何と声をかけていいのか分からず、名前を呼ぶことしかできなかった。
「リム・エルムの話だけど、夕べ考えたの……」
 かなり泣いたようで、涙の跡が残っている。それでも、どうにか落ち着いたようだった。
「メイのこととか、リブロのこととか……」
 夫の名前を口にする瞬間、エイミが目を伏せる。
「本当はもっとあなたたちとゆっくりお話したいんだけど、今は創世樹のことが大切だから、後で帰ってきたら話を聞いてちょうだい」
 そう言って顔を上げたエイミは少しぎこちなかったが、笑みを浮かべていた。
「皆の無事を祈ってるわ、頑張ってね」
 少し力のない笑みだった。
 今のエイミにはそれが精一杯なのだろう。
「うん! ノア、がんばるよ!」
 ノアは曇りのない笑顔で力一杯にそう答え、自分の胸の前で握り拳を作る。
 ヴァンとガラも頷いて、ノアと共に西口の扉を開けた。
 細い通路を進み、換気室を抜けて『霧』が漂う外へ出た。
「西ヴォズ樹林までは迷うこともないだろう」
 ガラはそう言って、先頭を歩き出した。
 ヴァンは地図を片手に、向かう先と自分の位置を確認しながらガラの後を追う。地図上の距離で計算すると、西ヴォズ樹林に行って戻ってくれば日が沈む頃になるだろうか。
 ガラはヴァンたちとはあまり会話をしたくないようで、こちらを気にする素振りがない。ノアは少しつまらなさそうだ。
「ヴァン、てき!」
 暫く歩いていると、ノアが声を上げた。ほぼ同時に、ヴァンもメータからの感覚で気付いた。
 前方から『獣(セル)』が二体向かってくる。蝙蝠のような『獣(セル)』だ。
 先頭のガラは先に察知したノアに一瞬驚いたようだったが、『獣(セル)』に気付くと直ぐに身構えていた。半身になり、左手を前方に構え、右手は腰のあたりで水平に曲げる。
「ふんっ!」
 気合と共に後方に引いていた右手で掌底を放ち、飛んでいる『獣(セル)』を打ち上げた。
 寄って来ていたとはいえ、空中を飛んでいる相手に攻撃を当てたガラに、ヴァンは驚いていた。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていない生身で『獣(セル)』と互角以上に渡り合えている。一撃で仕留めることこそ出来ていないが、ガラにはまだ余裕がありそうだ。
 大禅師の称号は伊達ではないということか。
 もう一体の『獣(セル)』が警戒して高度を上げようとする。ヴァンはすかさず地を蹴って跳び、下から『獣(セル)』を右手で突き上げた。メータの刃が『獣(セル)』を貫き、その体が細かい結晶に砕けるように分解され光となって散る。散った光を、メータが吸収していた。
「光獣ヴェーラですね。この力はこれから先役に立つはずです」
「ヴェーラ?」
「治癒の力があります。怪我をした時はこの力を使ってください」
 メータの説明に、着地したヴァンは頷いた。
 確かに、痛み止めや薬の類は持ってきているが、『獣(セル)』の力で治療や回復ができるのはありがたい。即効性のある治療方法があるのは便利だ。
 見れば、ガラが打ち上げた光獣ヴェーラを、ノアもテルマで吸収していた。ガラの身長の倍以上の高さへ易々と跳躍し、空中に打ち上げられた『獣(セル)』をノアがテルマの宿る左手で突いている。
「……それが『獣(セル)』の力か」
 ガラも驚いているようだった。
「不満か?」
「いや……」
 ヴァンの言葉に、ガラは目を逸らした。
 ガラの目には、ヴァンやノアが『獣(セル)』の力に頼っているように映っているのだろう。確かに、否定はできない。ヴァンもノアも、メータやテルマの力 によって『霧』の中を進んできた。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていなければ、ここまでくることもできなかっただろう。
 ふと、『霧』が西の方角から流れてきていることに気付いた。見れば、盆地を囲う山脈が途切れている。ドルク城からバイロン寺院に来る時にも見た、濃密な『霧』に包まれて見通せない景色が広がっている。
「歪な狂気と邪悪な気配が満ちている……」
 ガラが忌々しげに呟いた。
「この谷の先にある奇怪な建物から『霧』が流れてきたんだ」
 盆地の方を見据えるガラの目には敵意や憎悪が満ちていた。
「この谷も『霧』の通路になっているようだね」
「やっぱりそうか……」
 テルマの言葉に、ヴァンは地図に目を落とした。
 盆地を囲う山々には、東西と南に谷間がある。そこからドルク王領全体に『霧』が流れてきているのだ。逆に、ドルク王領全土を『霧』で満たせる位置に建物が造られたということだ。
「じゃあ、そうせいじゅさがしてテルマをつよくしてあげないとね!」
 ノアが拳を握り締めて言った。
「お前たち……だ、誰と話している!」
 ガラが引き攣った顔で後ずさる。
「テルマとメータだよ?」
 ノアが不思議そうに首を傾げて答えた。
「セ、『獣(セル)』か!? お前ら『獣(セル)』と話ができるのか!?」
「うん! テルマ、やさしいよ! いいセルだよ!」
 驚愕に強張った表情をするガラに、ノアが笑顔で答える。
「普通の『獣(セル)』はどうか知らないけど、『聖獣(ラ・セル)』には意思もあるし、身に着けた人とは会話もできるんだよ」
 ヴァンは警戒するガラにそう告げた。
 少なくとも、『聖獣(ラ・セル)』には使命があり、それを為すために人と交流する術を持っている。『聖獣(ラ・セル)』に選ばれた人や、身に着けている者にしか声は聞こえないようだが。
「全く、訳が分からん! 気味の悪い奴らだ……」
 肩を竦め、ガラは歩き出した。
 余計に薄気味悪く思われたようで、心なしか歩調が速くなっている。距離を取りたいのか、速く用事を済ませて帰りたいのか、あるいは両方か。
 ヴァンはため息をついて、ガラを追った。ノアは気味悪がられていることを分かっていないようだったが。
 更に北へ向かうと、西ヴォズ樹林が見えてきた。
 無数の草や木々に包まれた静かな森だ。空はそのほとんどが枝葉で覆われていて、あまり日が届いていない。森の薄暗さに加え、濃い『霧』によって視界は悪い。
「枝や葉に気を付けろよ」
 先頭を進むガラが言い、ヴァンとノアがその後を追う。
「……?」
「どうしたんだ、メータ?」
 メータから何か疑問の感情が伝わってきた。ヴァンは小声でメータに問う。
「いえ……距離的にはもう創世樹の存在を感知していてもいい頃だと思うのですが……」
 少し戸惑った声が返ってきた。
 地図上で示された創世樹の位置を見る限り、西ヴォズ樹林に入ればメータが創世樹の存在を感知できる距離のはずだった。リクロア山でメータが感知できた距離と、地図上ではほぼ同じはずだから。
「『霧』が濃くて感覚が鈍っているのか、あるいは創世樹が弱っている?」
「その可能性も否定できません」
 ヴァンの推測に、メータはそう答えた。
 ここはリクロア山よりも『霧』が濃い。『聖獣(ラ・セル)』の感覚に対する影響も強くなっている可能性がある。同時に、創世樹自体が『霧』のせいで弱っている可能性も考えられた。
 創世樹の位置自体はガラが知っている。まずはそこまで最短距離で案内してもらってから考えた方がいいかもしれない。
 道中で何度か遭遇したモンスターや『獣(セル)』にも苦戦はしなかった。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンとノアは当然としても、それについてくるガラの実力はかなりのものだった。
「……ヴァンとか言ったか」
「何だ?」
 現れたモンスターを仕留めた直後、ガラが何か言いたそうにヴァンを呼んだ。
「お前、バイロンの教えを受けたことがあるのか?」
「分かるのか?」
 ガラの問いに、ヴァンは驚いていた。
「これまでの戦い方を見て、節々にバイロンの特徴が見えた」
「リム・エルムにきているトッドってバイロン僧兵に武術の基礎を教えてもらったんだ」
 ヴァンはそう答え、トッドのことを話した。
 『霧』がくる前にリム・エルムへやってきたトッドに、幼い頃から稽古を付けてもらっていたことや、それを自己流にアレンジして狩りに活かそうとしていたことをガラに教えた。
「そうか、トッドが……」
「トッドを知ってるのか?」
 懐かしむような、安心したような表情を見せるガラに、ヴァンは尋ねていた。
「先輩であり、兄弟子のような人だ。ずっと連絡がなかったから心配していたが、そうか、リム・エルムで元気にやっているのか」
「俺にとっては師匠みたいな人だよ」
 ようやく笑みを見せたガラに、ヴァンはそう言って微笑んだ。
「……だが、お前は『獣(セル)』を身に着けたのだろう?」
「俺はバイロン僧兵じゃないしな……でも、トッドは肯定してくれた」
 はっとしたように笑みを消したガラに、ヴァンはやや呆れたように返した。
 バイロンの武術を学びこそしたが、ヴァンは僧兵になる気はなかった。それはトッドも承知の上で、稽古をつけてくれていた。いずれ大人になって狩りに出る ようになった時や、いざという時に大切なものを守れるように、ヴァンは強くなりたかった。村の中で最も強かったのはトッドだったから、ヴァンは彼を目標に 体を鍛えてきた。
 そのトッドは、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンを見て戸惑いこそしたが、直ぐにヴァンを信じてくれた。バイロンの教えに背くことにはなったが、トッドの教え子であることに変わりはないと、ヴァンの背中を押してくれた。
「……俺は『獣(セル)』を許す気にはなれん」
 ガラにとっては、『聖獣(ラ・セル)』であろうと『獣(セル)』に変わりはないのだろう。
「ラ・セルはわるいセルじゃないよ?」
「分かっているんだ。逆恨みだってことぐらい」
 悔しげに、ガラが表情を歪める。
 『獣(セル)』が『霧』のせいで凶暴化したのが原因であることは、ガラにも分かっている。ただ、それでも実態の無い『霧』よりも、目の前にいた『獣(セ ル)』の怪物の方を意識してしまっている。その場に『獣(セル)』がいなければ、『霧』がやってきたとしても何も起こらなかったかもしれない、と。
「俺は、そこまで割り切れない……」
 ガラの気持ちも、分からないわけではない。
 メイの父であり、エイミの夫でもあるリブロは『獣(セル)』によって命を落とした。ヴァンはそんな環境を作ってしまった『霧』を憎んだが、ガラは直接手を下した『獣(セル)』を許すことができないのだ。
 そして、そんな『獣(セル)』を身に着けることにも、嫌悪感があるのだろう。たとえバイロン僧兵ではないとしても、身に着けている者を、『獣(セル)』 を見るだけで両親が殺された瞬間を思い出してしまう。それが苦しく、辛い。二度と経験したくないことを思い出してしまう。
「……俺は、『霧』をなくしたかったんだ」
 ヴァンは小さく呟いた。
 『霧』が世界を、リム・エルムの人を、家族を、悲しませる。悲劇を生んで、不幸を広げる。怯え、恐れ、諦め、暮らすしかない。
 それを、変えたかった。
「確かに、俺やノアは『聖獣(ラ・セル)』に頼っているかもしれない」
 ヴァンは右手のメータに視線を落とす。
「でも、その力を振るっているのは俺とノアだ」
 メータの力に頼っているのは否定できない。だが、それを行使しているのはヴァンだ。メータはヴァンを導いてはくれているが、ヴァンを従わせているわけではない。指針にはしているが、行動はヴァンやノア自身が決めている。
 頼り切っているわけではないと信じたい。
「……そろそろ着くぞ」
 ガラはヴァンの言葉には何も言わず、目的地への到着を告げた。
 木々に囲まれた中で、開けた場所に出た。その中央に、創世樹らしき小さな木が見えた。周囲に敵の気配がないことを確かめてから、ヴァンたちは広場へと足を踏み入れた。
 歩み寄ってみると、確かに姿形は創世樹だったが、今まで見てきたものとはどこか雰囲気が違っていた。
「これが創世樹か……? 昔に見た時と随分違うが……」
 ガラが怪訝そうに呟いた。
 リム・エルムやリクロア山で見た創世樹は、葉の落ちた落葉樹という印象ではあったが、生命力を感じるものだった。近くにいけば、居心地の良さを感じるものだった。
 だが、この創世樹からは生命力を感じない。樹皮が少し透き通っているようにも見える。まるで抜け殻のようだ。
「こんな朽ち果てた枯れ木に『霧』を払う力があるとはとても思えんが……」
 ガラの言葉からすると、以前来た時にはこんな状態ではなかったということか。
「どちらにせよ、俺には関係ないな。さっさと片付けてくれ」
 ガラが一歩下がり、腕を組む。
「ヴァン、このそうせいじゅへんだよ」
 それまで創世樹をまじまじと見つめていたノアが声をあげた。
「メータ、どうなってるんだ?」
 ヴァンは創世樹に手を触れ、メータにも尋ねた。
 手で触った感触も、枯れ木そのものだ。力を込めれば折れてしまいそうな気がするほど、生命力を感じない。それどころか、ヴァンが好きな創世樹独特の心地良さもない。
「遅過ぎたんだよ……『霧』の毒にやられて、この創世樹は死んでしまった……」
 テルマが、悲しみに満ちた声で答えた。
「でも、でも、テルマとメータなら、そうせいじゅにいのちあげられるよね?」
「残念ですが、これほど枯れていては……」
「そんなぁ……」
 沈んだ声で答えるメータに、ノアが泣きそうな顔で創世樹を見る。
 ヴァンも歯痒い思いをしていた。創世樹に『霧』を払う力があるとはいえ、それは覚醒した後のものだ。覚醒前の創世樹には力というほどのものはない。
「話は良く分からんが、無駄足だったのか?」
 腕を組んだまま、ガラが問う。
「なら仕方がないな……バイロン寺院に戻ろう」
 そう言って、ガラが歩き出した瞬間だった。
 創世樹が僅かに光を帯びた。少し透き通った樹皮の奥に、何かある。弱々しい光ではあったが、確かにそれは存在を主張していた。
 ガラも驚いて足を止めている。
「ヴァン、なにかひかってるよ!」
「ああ……メータ、これは?」
 ノアに言われるまでもなく、ヴァンも目を見開いていた。
 樹皮越しに薄っすらと、小さな何かが光を放っているのが見えた。
「これは『聖獣(ラ・セル)』の卵、聖獣卵です!」
 メータも驚いた声で答えた。
「聖獣卵?」
「はい、眠った状態の『聖獣(ラ・セル)』です」
 思わず聞き返したヴァンに、メータはどこか興奮したようにそう答えた。
 この世界に危機が訪れ、必要とされるその時が来るまで『聖獣(ラ・セル)』は創世樹の中で眠っている。その、眠っている状態の『聖獣(ラ・セル)』を聖獣卵と呼ぶのだそうだ。
「ありがたいことに聖獣卵だけは生き残ってくれたんだね……」
 テルマもどこかほっとしているようだ。
 仲間である『聖獣(ラ・セル)』が無事だったのが嬉しいのだろう。
「とはいえ、聖獣卵を孵すには創世樹の力が必要です」
 メータが言った。
 聖獣卵はそれ単体で目覚めることはできないらしい。この状態ではほぼ仮死状態なのかもしれない。
「どの道、このままにはしておけないな」
 ヴァンはメータの宿る右手を創世樹に伸ばした。ノアもテルマの宿る左手を創世樹に伸ばす。
 枯れた創世樹が裂け、『聖獣(ラ・セル)』に引き寄せられるように聖獣卵が浮かび上がる。ヴァンが手を差し出すと、聖獣卵は静かに手のひらの上に降りてきた。
 その聖獣卵は、拳よりも小さい、薄い空色を帯びた雫の形をした結晶のようだった。透き通っていて、まるで宝石のようだ。これが『聖獣(ラ・セル)』の卵だとはにわかには信じ難い。それでも、触れてみればどこか生命力を感じる。
 聖獣卵も放っておけばここの創世樹と同様に死んでしまうだろう。メータやテルマの口ぶりからすると、聖獣卵だけでも助かったのは奇跡みたいなものかもしれない。
「どんなラ・セルがうまれるのかな?」
 ノアが明るい表情を見せる。どんな『聖獣(ラ・セル)』が目覚めるのか楽しみなのだろう。
「ここが枯れていたとなると、東ヴォズ樹林の方は無事だったんだろうか……」
 ガラが呟いた。
 地図上では『霧』の発生源からは遠いが、楽観視はできない。西ヴォズ樹林の方が『霧』の発生源にも近く、早い時期から『霧』に晒され、しかも比較的『霧』が濃かったこともあるだろう。だからといって、東ヴォズ樹林の創世樹が無事だとも言い切れない。
「ゆっくりはしてられないな」
 ヴァンは聖獣卵を上着のポケットにしまい、来た道を引き返そうと振り返った。
 その直後、微かな音と共に僅かだが地面が揺れた気がした。
「何だ?」
 ガラも気付いたようで、訝しむように辺りを見回す。
「バイロン寺院の方角からか……?」
 音と振動はバイロン寺院の方角からだった。
 微かとはいえ、西ヴォズ樹林の深部まで届くほどの音と衝撃だ。
「なにかあったのかな?」
 ノアもバイロン寺院の方角を見つめている。
「寺院が心配だ……急いで帰るぞ!」
 ガラが言い、走り出した。
 ヴァンとノアもガラに続いて駆け出した。来た道を引き返すガラと並走して、森の外へ向かう。木立を抜け、倒木を越えて、鋭い枝葉に注意を払いながら、『霧』に包まれた森を進む。時折現れるモンスターや『獣(セル)』は適当にあしらって無視した。
 森を抜け、視界が開けた。
 『霧』があるせいで遠くはぼやけて良く見えない。ただ、『霧』とは違う何かが遠くに見えた気がした。立ち上るように揺らめいているのは煙だろうか。
「バイロン寺院に何かあったのか……?」
 ガラが走る足に力を込める。
「嫌な胸騒ぎがする……」
 ヴァンは呟いた。何か良くないことが起きている。そんな気がしてならなかった。
 走る速度を速める。
 当初の予定通りに移動していれば、バイロン寺院に着くのは日が沈む頃になる。多少急いで西ヴォズ樹林から出てきたが、その程度では時間にそこまで違いは出ないだろう。
 本気で急いだ方が良さそうだ。
「ノア、急ぐぞ! ガラは無理するなよ!」
 ヴァンは並走するノアとガラに言い、更に足を速めた。
 『聖獣(ラ・セル)』の力で身体能力が向上しているヴァンとノアなら、予定よりかなり早くバイロン寺院まで辿り着けるはずだ。疲労蓄積も遅くなっているから、走り続けることもそこまで難しいことではない。
「俺に気を使う必要はない!」
 ガラの声が直ぐ傍で聞こえた。
 全力疾走しているようだったが、ガラはヴァンとノアに引けを取らないスピードで走っていた。現れる雑魚は無視して、三人は走り続けた。
 少しずつ、差はできていたがまだ会話ができる距離だ。先頭をノアが走り、ヴァン、ガラと続く。ガラを置いていかないように、ヴァンもノアも少しだけ気を使っていた。ノアは先頭を走りながら、ちらちらと後ろを気にしている。
「これでは俺が足手纏いではないか……!」
 小さくガラが呻いた。
 生身で『聖獣(ラ・セル)』の装着者についてこれていること自体驚きだったが、ガラは対等以上でありたいと思っているらしかった。
 恐らく、ガラを置いて行ってしまっても彼の実力ならバイロン寺院には辿り着けるだろう。だが、何が起きているのか分からない状況でガラを一人にしておくのも危険だ。いくら大禅師の称号を持っている実力者とはいえ、『霧』の中に残して行くのには抵抗があった。
「バイロン寺院が……!」
 やがて見えてきた寺院の姿に、ヴァンは目を疑った。
 換気室のある辺りから煙が立ち上っている。『霧』を追い出す隙間から、『霧』とは違う煙が出ている。それに、壁にも大きな穴が開いていた。
 急いでここまできたが、日が傾いてきている。
 多少呼吸が乱れた程度のヴァンとノアに対し、全力疾走してきたガラは息を切らしていた。呼吸を整え、汗を拭いながら、ガラはバイロン寺院の通路へと進む。ヴァンとノアも周りを警戒しながらガラを追った。
「換気室が破壊されている……!」
 扉が開きっぱなしになっている換気室を見て、ガラは愕然としていた。
 床下のプロペラも、それを動かすためのレバーも破壊されている。床にあった格子窓は強引に抉じ開けられており、プロペラは羽根が折られてあらぬ方を向いている。レバーもへし折られ、根本の装置も拉げていた。
「壁に穴が開いていて、ここが壊されてるってことは……」
 ヴァンは険しい表情で開け放たれた扉の奥へ足を踏み入れた。
 予想通り、バイロン寺院の中に『霧』が入り込んでいた。
「ヴァン、セルのにおいがする!」
 ノアが周囲を見回して、そう言った。
「皆……!」
 バイロン寺院内に満ちる『霧』を見て、ガラが走り出す。階段を駆け下りて、倒れているバイロン僧兵に駆け寄る。
「おい、しっかりしろ、何があった!」
 肩を掴み、揺らすが返事はなかった。
 床が赤く染まっている。
「メータ、ヴェーラで治せないか?」
「すみません、すでに死んでしまっていては、もう……」
 ヴァンの問いに、メータが沈痛な声で答える。
 拳を握り締め、歯噛みする。
「これをやったのは、ゼトーか……?」
 ギリ、と噛み締めた奥歯が小さく音を立てた。
 リム・エルムだけでは飽き足らず、バイロン寺院にまで手をかけたのか。換気装置は自然に壊れたようには見えなかった。明らかに何者かの手によって破壊されている。
 ヴァンが思い当たるのは、ゼトーしかいなかった。
「くそっ……!」
 ガラは毒づいて、一人駆け出した。
「あ、おい!」
 ヴァンが止める間もなく、ガラはバイロン寺院の奥へと行ってしまった。
「ノア、俺たちも生存者を探そう」
 死んでしまった僧兵に触れようとしていたノアに言って、ヴァンはバイロン寺院の中を見て回ることにした。生存者がいれば、そこでガラとも会えるはずだ。
 バイロン寺院の中は酷い有様だった。
 良く見れば、バイロン寺院の壁や床に戦った痕跡がある。飛び散った血の跡や、何かがぶつかったりしてできたらしい傷もある。
 何人もの僧兵たちが地面に倒れ伏し、息を引き取っていた。壁にもたれかかるようにして息絶えている僧兵や、うつ伏せに倒れている者、体の一部が欠損してしまっている者など、様々だ。一体どれだけの人が亡くなったのだろう。
 血の臭いも不快だった。
 ノアもどこか不安そうにしている。
「ねぇ、ヴァン、みんなしんじゃったの……?」
「それにしては死者が少ない……生きている人もいるはずだ」
 悲しそうな表情をするノアに、ヴァンは言った。
 バイロン寺院の人口はもっと多かったはずだ。確かに多くの人が命を落としたようだが、寺院全体からすれば少ない方だろう。どこかに生存者が立てこもっているいるか、あるいは考えたくないが集団で殺されているか。
 扉が開け放たれた部屋を覗いていく。どこも荒れていて、生存者はいないようだった。バイロン寺院内を徘徊する『獣(セル)』を倒しながら通路を進んで行くと、女性の寝室となっていた部屋を見つけた。
 そういえば、エイミの姿を見かけていない。
 はっとして、ヴァンはその部屋に足を踏み入れた。
 男子禁制、と言っていた門番の僧兵はいない。非常時であったし、何よりエイミの無事を確認したかった。彼女の死体がないことを祈りながら部屋の中を見渡す。
 人影があった。
「エイミ……おばさん……?」
 それを見て、ヴァンは目を見開いた。膝が震える。背筋に冷たいものが伝うような悪寒が走る。
 紫色の『獣(セル)』に取り付かれたエイミがそこにいた。紫色の鋭角的な鎧のような『獣(セル)』が背中から覆い被さるようにエイミに取り付いている。取り付かれたエイミの肌は青紫色に変色し、見開かれた目に瞳はなく、虚ろな表情で部屋の中を彷徨っている。
「エイミがいるのか……?」
 ヴァンの後ろからノアが顔を出す。
「セルのかいぶつ……?」
 一瞬誰か分からなかったようで、ノアがエイミに歩み寄る。
 顔を覗き込もうとした瞬間、ノアが固まった。
「うわあああああ!」
 絶叫にも似た大声を上げて、ノアがエイミに駆け寄る。
「エイミ! エイミだ! エイミがセルに!」
 ノアの表情がみるみる歪んで、目尻から涙が溢れ出す。
 ヴァンも動悸が激しくなっているのを自覚していた。胸を押さえて、歯を食いしばる。
「セル、とらなきゃ! エイミたすけなきゃ!」
「ダメだノア! やめなさい!」
 エイミの体に纏わり付く『獣(セル)』を剥がそうとノアが手を伸ばす。テルマが慌てた声でそれを制した。
「無理矢理『獣(セル)』を剥がしたらエイミさんが死んでしまうんだ!」
 その言葉に、ノアが手を止めた。
「どういうこと……?」
 涙に濡れた顔で、ノアが問う。
「『霧』によって発狂した『獣(セル)』は人間の命と結び付くことで乗っ取っているようです。強引に引き剥がすのは、存在を引き裂くのと同じことになってしまう……」
 メータが答えた。
 理屈は良く分からないが、人に取り付いて怪物化した『獣(セル)』は人間の存在そのものに癒着してしまっているらしい。本来は個別の存在として、人が意 思を伝えて力を発揮する『獣(セル)』だが、『霧』の瘴気によって発狂した『獣(セル)』は逆に人を支配してしまう。その際、人と意思の疎通ができない普 通の『獣(セル)』は人の精神、存在そのものに癒着し、同化することで支配しているということらしい。
 一つの存在になっている状態では、分離することはできない。無理にでも分離すれば、体や命を二つに引き裂くのと同じことになる。
「どうすればいい!? どうすればエイミたすけられる!?」
 ノアが涙ながらに問う。
「『獣(セル)』の怪物になった人間を元に戻す方法は一つ」
「創世樹を目覚めさせて、『霧』を払う……!」
 テルマの言葉を、ヴァンが引き継いだ。
 ドルク城で見た光景を、ヴァンは思い出していた。ドルク城で『獣(セル)』の怪物化していた人たちは『霧』を払ったことで元に戻った。
「それで元に戻るはずだ」
 ヴァンは拳を握り締めた。
 幸いなことに、『獣(セル)』の怪物化した人間は年を取らない。積極的に他の生物に襲いかかることもしないようだ。この部屋のドアを閉めておけばエイミはひとまず安全だろう。
「……エイミさん!?」
 突然の声にドアの方へ目を向けると、そこにはガラが信じられないものを見るような表情で立ち尽くしていた。
「ヴァン、これはどういうことだ? 何があったというんだ!」
「落ち着け、ガラ!」
 取り乱し、狼狽えるガラを、ヴァンは一喝した。
「エイミおばさんは『獣(セル)』に取り付かれて怪物化しているけど、創世樹を目覚めさせて『霧』を払えば元に戻る。助けられるんだ!」
 静かに、だがはっきりとヴァンは告げた。
 ガラはヴァンの助けられるという言葉で少し落ち着いたようだった。
「助かる、のか……?」
 少し震えたすがるような声のガラに、ヴァンは頷いた。
「他に生存者は?」
「……皆食堂に立てこもっていた」
 ヴァンの問いに、ガラは額を押さえ、深呼吸してから答えた。自分で正常な思考ができていないことに気付いているようだ。何とか気を落ちつけようとしているのが分かる。
 とはいえ、自分の住んでいる場所がここまで荒らされていてはそう落ち着いてもいられない。リム・エルムの壁が壊されて『霧』が入り込んできた時を思い返して、ヴァンは唇を噛んだ。
「分かった、俺とノアも一度食堂に行ってみる」
「俺は生存者がいないかもう少し探してみる」
 ヴァンの言葉にガラはそう答えて、部屋を飛び出して行った。
 バイロン寺院の中はガラの方が詳しい。生存者の探索はひとまずガラに任せることにした。ガラ一人ではゼトーのような強敵が現れた時に不安ではあったが、 襲撃から時間が経っていることを考えれば、可能性は低いだろう。もっとも、時間が経っていることを考えれば生存者がいる可能性も低い。下手に刺激するよ り、一人にしておいた方が良いのかもしれないとも思えた。
 何せ、ヴァンとノアは『聖獣(ラ・セル)』とはいえ『獣(セル)』を身に着けているから。
 もう一度部屋を見回すと、足元に手紙が落ちていることに気付いた。
「メイへ……これ、エイミおばさんの手紙か?」
 封筒を拾い上げてみると、メイ宛てに書かれているもののようだった。
 メイに宛てて書かれた手紙には、エイミの謝罪が書かれていた。
 バイロン寺院にやってきたヴァンからリブロのことを聞いたこと、バイロン寺院に働きに出て、『霧』のせいとはいえ幼いメイをリム・エルムに残してきてし まったことを許して欲しいと書かれていた。リム・エルムへ帰ることも考えたが、もう少しバイロン寺院にいたいことを謝らなければならない、とも書かれてい た。
 バイロン寺院にいる二人の孤児、ソンギとガラを息子のような存在と思っていること。そしてこの二人について気がかりなことがあり、まだバイロン寺院を離れたくないと思っていることが書かれていた。
 手紙はそこで途切れていた。
 ヴァンは手紙を封筒にしまい、その場に戻すとエイミに目を向けた。
 怪物と化したエイミを見ているのは辛かった。見知った人間が異形の存在になってしまった現実が胸を締め付ける。
「……俺が、俺たちが、助けるんだ」
 言い聞かせるように呟いた。
「エイミ……ノアたちがぜったいたすけるからね!」
 ノアも涙を拭って、力強く言った。
「行こう、ノア」
「うん!」
 ヴァンの呼び掛けにノアが頷く。
 部屋を出ると、ヴァンはドアを閉めた。
 食堂に向かい、ドアをノックする。
「ヴァンとノアです!」
「急いで中に!」
 ドア越しにそう言うと、ドアが開いた。
 二人を招き入れると僧兵が直ぐにドアを閉じる。
 食堂にはバイロン寺院に住む人のほとんどが逃げ込んでいるようだった。負傷した者も多いようで、女性たちが慌ただしく動き回って手当や雑務をしている。ハイアムを始めとした実力者がドアの近くに控え、侵入者や徘徊する敵を食堂へ入れぬようにしているようだ。
「お二人とも無事であったか……」
 ゾッブ老が歩み出て、ヴァンとノアを見て安堵の息を漏らした。
「何があったんですか?」
 ヴァンが問うと、ゾッブ老は表情を曇らせた。
「大爆発と共に寺院の壁が壊されたのだ……その後から、ソンギと夥しい数の『獣(セル)』が……」
「ソンギが……?」
 ゾッブ老の言葉にヴァンは耳を疑った。
「凄まじい数の『獣(セル)』と『霧』に不意を突かれてな……情けない話だ。ソンギも『獣(セル)』を身に着けておった。もしかすると、『獣(セル)』の怪物となってしまっているのかもしれん」
 悔しげにゾッブ老は語った。
 ヴァンたちが創世樹に辿り着いた直後の音と衝撃はバイロン寺院が襲撃された音だったようだ。換気室と外壁の一部が破壊され、『霧』と『獣(セル)』が入り込んできたらしい。
 その先頭に『獣(セル)』を身に着けたソンギがいたらしい。『霧』の中で『獣(セル)』を身に着けていたとなると、ソンギも怪物化している可能性が高い。
「『獣(セル)』の怪物は人を襲うのか……?」
 ヴァンはメータに問う。
 怪物化したエイミは襲ってこなかった。ドルク城でも、怪物化した人々はヴァンに対して敵意を向けなかった。
「断言できませんが、襲う可能性はあります。私たち『聖獣(ラ・セル)』の装着者とは敵対しないようですが……」
 メータが答えた。
 同じ『獣(セル)』に分類される存在であるせいか、『聖獣(ラ・セル)』の装着者を敵とは認識しないということらしい。だとすれば、『獣(セル)』の怪物となった人間が他の人間を襲うこともあるかもしれない。
「そういうことか……」
 ヴァンは険しい表情で呟いた。エイミやドルクの人たちがヴァンに襲いかかる素振りを見せなかったのは『聖獣(ラ・セル)』のお陰だったのだ。『霧』に対する抵抗力と共に、暴走する『獣(セル)』に対する力もあるということか。
 だとすると、『獣(セル)』を所持していないバイロン寺院では怪物化した人間は危険な存在だ。
「エイミもかいぶつになってた……」
「なんと……姿が見えぬとは思っていたが『獣(セル)』に取り憑かれてしまっておったか」
 ノアの言葉にゾッブ老も苦い表情をする。
「とりあえず、部屋のドアを閉めておきましたから、暫くは大丈夫だと思いますが……」
 ヴァンはエイミを閉じ込めてあることをゾッブ老に教えた。
 寺院内の者の多くは食堂に避難できたが、『霧』や『獣(セル)』のせいで迂闊に外へは出られない。かといって、実力者を探索に行かせてはここの守りが手薄になってしまい危険だ。僧兵の多くは戦えない者たちを食堂に誘導するために戦い、命を落としたようだった。
「先程ここにきた大禅師から大体のことは聞いておる。西ヴォズ樹林の創世樹が枯れてしまっていたとは残念であった……」
 ゾッブ老もガラから西ヴォズ樹林でのことは聞いているようだ。
「ええ、ですから直ぐに東ヴォズ樹林の創世樹の下へ行こうと思っています」
 ヴァンの言葉に、ゾッブ老は静かに頷いた。
 本来の予定としては、西ヴォズ樹林の創世樹を確認した後、バイロン寺院で一泊してから東ヴォズ樹林の創世樹を目覚めさせるつもりだった。余裕をもって、行動し、東ヴォズ樹林の創世樹を目覚めさせた後はまたバイロン寺院で一泊し、盆地へと向かうことを考えていた。
 だが、それはバイロン寺院が安全であるという前提があってのものだ。西ヴォズ樹林の創世樹が枯れてしまっていても、バイロン寺院は換気室のお陰で『霧』から守られている。だから余裕をもって東ヴォズ樹林に向かうこともできると思っていたのだ。
 しかし、バイロン寺院が襲撃されて『霧』が入り込んでしまっているのであれば話は別だ。
 一刻も早く東ヴォズ樹林に向かい、創世樹を目覚めさせる必要がある。
「すまんな……ヴァン殿、ノア殿」
「謝らないで下さい。ゾッブ老のせいではありませんから……」
 頭を下げるゾッブ老に、ヴァンは慌ててそう言った。
「わるいのはきりだ!」
 ノアが怒ったように言った。
「お二人とも、急いで戻られたのなら食事もまだでしょう。出発するならその前に軽く腹に入れておいた方がいい」
 いつの間にか奥の台所へ行っていたハイアムが料理の盛られた皿を手に戻ってきた。
「助かります」
 ヴァンは礼を言って、ノアと共にテーブルについてありがたく食事をいただくことにした。
 西ヴォズ樹林からここまで、急いで戻ってきたためほとんど飲まず食わずだった。状況が状況だけに後回しにしてしまうところだったが、用意してくれたのならここで食べておいて損はないだろう。
 力を蓄えるかのようにノアはがっついていた。いつもなら食事には目を輝かせて楽しそうに食べるのだが、今は真剣な表情だ。
「荷物をお願いします」
 軽く食事を済ませ、ヴァンは荷物の入った袋を机の上に置いた。少しでも身軽にして行きたい。ヴァンの意思を汲み取ったようで、ゾッブ老は頷いた。
 ヴァンとノアは食堂を出て、東側の出口へと向かった。
 出口の前では、ガラが待っていた。
「寺院中を調べたが、皆殺されるか、『獣(セル)』の怪物に変わり果てていた……」
「そうか……」
 沈痛な面持ちで告げるガラに、ヴァンも目を伏せた。
「……お前たちは東ヴォズ樹林に向かうんだな?」
 ガラの問いに、ヴァンは頷いた。
「俺も連れて行ってくれ」
 真剣な表情で告げるガラの目を、ヴァンは見返した。
「足手纏いなのは分かっている。だが、寺院の中にソンギはいなかった……」
「ソンギを探したいのか?」
「……そうだ。東ヴォズ樹林で何があったのか知りたい。手掛かりがあるとは限らないが……」
 ヴァンの問いにガラは目を伏せる。
 恐らく、東ヴォズ樹林で何かが起きたのだろう。手掛かりがまだ東ヴォズ樹林に残っているかもしれない。一度バイロン寺院にきたソンギが東ヴォズ樹林にいるかまでは分からない。ただ、このままバイロン寺院でじっとしていることもできないのだろう。
「ダメだ、って言ってもどうせついてくる気なんだろ?」
 ヴァンは溜め息をついてそう言った。
 断ったところで、ガラは勝手に後をつけてくるだろう。目を見ればその意思があることぐらい分かる。
「東ヴォズ樹林の案内も欲しい。最短距離を案内してくれ」
「感謝する!」
 ヴァンが笑みを作ると、ガラは頭を下げた。
「よし、行くぞ!」
 三人で頷き合って、東口から外へ出た。
 山に日が沈みかけている。赤く照らし出される大地を三人は駆ける。ガラが余力の残る程度の速度にヴァンとノアも合わせ、東ヴォズ樹林を目指す。
 バイロン寺院を襲った『獣(セル)』の一部だろうか、付近に『獣(セル)』が多く感じられた。速度を落とさない程度に相手をし、振り払って北へと進む。
「メータ、もし東ヴォズ樹林の創世樹が枯れていたら……」
「その時は、今の状態で盆地に向かうか、あるいは他の地方の創世樹を探すことになりますね」
 道中でヴァンは懸念していたことをメータに尋ねていた。
 東ヴォズ樹林の創世樹が枯れていたとしたら、ドルク王領ではこれ以上メータとテルマを強化することができない。そうなった時、次に取るべき行動は何だろ うか。選択肢として思いついたのは二つだった。一つは、創世樹を探して他の地方に向かい、『聖獣(ラ・セル)』を先に強化するという手だ。もう一つは、危 険だがこのまま盆地に向かうことだ。バイロン寺院があの状態であることを考えると、他の地方に創世樹を探しに行くのは躊躇われる。ヴァンやノアにとっては その方が安全かもしれないが、その分バイロン寺院を長く危険に晒すことになる。
 立て籠もるのもいずれ限界が来る。蓄えが尽きた際の食糧の確保も困難だろうし、長期間エイミを怪物化させたままにもしておきたくはない。
 となれば選択肢は一つしかない。危険を承知で盆地に向かい、『霧』の発生源を叩く。ノアに取りついたばかりのテルマを置いて、ヴァンは自分とメータだけで行くことも考えていた。
 東ヴォズ樹林に辿り着いたのは夜も少し経った頃だった。
「ヴァン、創世樹の存在を感じます。ここの創世樹は生きています!」
「本当か!」
 メータの明るい声に、ヴァンはほっとしていた。
「どうした?」
「メータが創世樹の存在を感じ取った。ここの創世樹は無事みたいだ」
 ガラにそう答えて、ヴァンは森の中を見渡す。
 周囲に敵の気配はなく、静かだった。時折、風に木々の枝や葉が揺れる音だけが耳に入ってくる。月明かりはあったが、それでも『霧』と枝葉に遮られて森の中は更に暗く感じられる。
「はやくそうせいじゅのとこにいこう!」
「ああ、こっちだ」
 ノアが言い、ガラが先頭を走り出す。
 メータとテルマが光を帯び、周りを照らす。その明かりを頼りに、三人は森の中を進む。
「そうせいじゅだ!」
 開けた場所が見えたところで、ノアが声をあげ、飛び出した。
 崖に面して開けた場所の中央に創世樹が立っている。離れた場所から見ても分かるほど、西ヴォズ樹林の創世樹とは違っている。リム・エルムやリクロア山にあった目覚める前の創世樹と同じだ。
「そうせいじゅだいじょうぶだよ!」
 創世樹に駆け寄って、ノアが笑顔でヴァンとガラを呼ぶ。
「西ヴォズ樹林の創世樹も昔はこんな姿だった」
 ガラも創世樹を見て頷いた。
「よし、ノア、創世樹を目覚めさせるぞ」
「うん!」
 ヴァンの言葉にノアが頷く。
「この邪悪な気配は……?」
「これは……?」
 メータとテルマが戸惑った声を上げ、ヴァンとノアは創世樹に伸ばそうとしていた手を止めていた。
「この気配……ソンギか! どこにいる!」
 ガラが声を張り上げ、周囲を見回した。
「ほぉ、気付くとは流石は大禅師様だ」
 崖の上から声がして、見上げればソンギが立っていた。
「ソンギ!」
「……ガラ、お前はやっぱり思った通りの男だよ」
 名を呼ぶガラを見下ろして、ソンギは溜め息混じりに呟いた。
 ここでヴァンは違和感を抱いていた。
「ここで待ってりゃ来るかと思ったが、本当に来てくれるとはな」
 やれやれと肩を竦めてソンギが言う。
 そして、軽い身のこなしで崖を易々と飛び降りる。
「あれは……?」
 ヴァンは眉根を寄せた。
 飛び降りてくる際に見えたソンギの右腕に、『獣(セル)』が着いていた。暗く黒に近い紫色をした刺々しい腕輪のような『獣(セル)』だ。
「あの『獣(セル)』は……」
 メータも困惑しているようだった。
 あからさまにおかしい。『獣(セル)』に取り付かれ、怪物化してしまった人間はまともに会話することができない。少なくとも、今までヴァンが見てきた限りでは怪物化した人間は見た目からして異質な部分があった。
 だが、ソンギにはそれがない。まともに言葉を交わしているように見えるし、何より見た目にも装着された『獣(セル)』以外に違いがなかった。
「安心しな、『獣(セル)』を身に着けちゃいるが俺は心を支配されるなんて間抜けなことにはなっちゃいねぇ。至って正常だよ、俺は」
 挑発的な笑みを浮かべ、ソンギが言った。腰に両手を当て、見下すような目でガラを見る。
「何だと……?」
 ガラが不審そうな目をソンギに向ける。
「この『獣(セル)』は特別なのさ! 全身に漲る力の感覚……純粋なエネルギーそのものだ!」
 右腕を掲げて、興奮したようにソンギが言った。
 まるでヴァンやノアと同じ『聖獣(ラ・セル)』を身に着けた者のようだった。
「あれ、ラ・セルなのか……?」
 ノアは警戒心を剥き出しにしてテルマに問う。
「私たちの呼び掛けに応えない……? これは、どういうことだ?」
 戸惑いを隠せない様子でテルマが呟く。
 ソンギにもメータやテルマの声が届いているようには見えない。かといって、『聖獣(ラ・セル)』以外に『霧』の中で怪物化しない『獣(セル)』をヴァンたちは知らない。
「ほら、かかってこいよ、ガラ! バイロン寺院を潰したように、お前も潰してやるよ!」
「ソンギ……貴様っ!」
 嘲笑うかのようなソンギの言葉に、ガラが駆け出した。
 一気に踏み込み、ガラが拳を突き出す。だが、ソンギは顔色一つ変えずにかわしていた。腰に手を当てたまま、ガラの背後に回る。
「ははっ、遅ぇなぁガラ!」
 笑い声をあげるソンギに、ガラが腰を捻って裏拳を繰り出す。
 ソンギはそれを上半身を後ろに反らしてかわす。すかさず放った足払いがソンギの足を捉える。
「なっ……!?」
 だが、ガラの蹴りはソンギに全く効いていなかった。まるで壁や柱に蹴りを入れたかのようにソンギの足はびくともしていない。避けられなかったのではなく、避けなかっただけなのだ。
 次にガラが繰り出した拳を、ソンギは避けもせず、防ぐこともしなかった。拳はソンギの鳩尾に命中したが、僅かに体が浮いた程度で、全く効いていないようだった。
 ガラが驚愕に目を見開いた次の瞬間、今度はガラの体が宙を舞っていた。
「ぐっ……!」
 ソンギの拳がガラの腹に命中し、振り抜かれた勢いでガラが吹き飛ばされたのだ。
 地面に叩き付けられながらも受け身を取り、立ち上がろうとするガラを見て、ソンギが笑った。
「今のお前は俺の足元にも及ばないな」
 嘲笑うソンギを見上げながら、ガラが立ち上がる。
「ソンギ! おまえなんであんなことした!」
「待て!」
 ノアが叫び、飛び出そうとするのを、ガラが手で制した。
「ソンギとは俺が話を着ける……!」
「でも……!」
「頼む!」
 納得できないノアに強い口調で言い、ガラが前に出る。
「何故だソンギ! 何故バイロン寺院を襲った! その『獣(セル)』は何だ! 心を支配されていないとはどういうことだ!」
「そんなもん、気にくわねぇから潰したのさ。で、この『獣(セル)』は特別なんだよ。ま、タイミングが良かったってことだな」
 ガラがぶつけた疑問に、ソンギは笑いながら答えた。
「特別……? 『聖獣(ラ・セル)』じゃないのか?」
「元々は『聖獣(ラ・セル)』だったみたいだがな。改造したんだとよ」
 ヴァンが問うと、ソンギは肩を竦めてそう答えた。
「改造した……?」
 ヴァンは唖然とした。
 どういうことなのか、理解できなかった。しかも伝聞系だ。余計に状況が分からない。
「お前はもう俺の知っているソンギではないようだな……!」
「はっ、単細胞のうすらバカが!」
 身構えたガラを見て、ソンギが鼻で笑う。
「まだ状況って奴が分かってねえようだな」
 言うや否や、ソンギが踏み込む。
 ガラが放った拳を手で払っていなし、そのまま体ごとぶつかるようにして肘を鳩尾に減り込ませる。浮いたガラの体を回し蹴りで吹き飛ばす。大柄なガラの体が木の葉のように舞い、背後にあった木を薙ぎ倒して崩れ落ちる。
「がはっ……バカな……っ!」
 血を吐いて、ガラが呻く。身を起こそうとして地面に着いた手が震えていた。
「全く拍子抜けだよ。お前そんなに弱かったのか?」
 けらけらと笑うソンギを見て、ノアが身構えた。ヴァンも腰の短剣に左手をかける。
「エイミをあんなふうにしたおまえをノアはゆるさない……!」
 ノアが本気で怒っていた。まるで獲物に襲いかかろうとする狼のように、敵意を剥き出しにしてソンギを睨み付けている。状況が状況なだけに出方を窺ってはいたが、ヴァンもいつでも応戦できるように短剣の柄を握り締める。
「……ふん。仕方ねぇな、退いてやるよ」
 エイミの名前に、ソンギの眉が一瞬だが動いた気がした。
「逃がすと……思うか?」
 何とか立ち上がったガラが言った。相当なダメージを受けている。ソンギに勝ち目が無いことは分かっているだろうに、それでもガラは身構えた。
「生き延びられたらまた遊んでやるよ」
 そう言って、ソンギが指を鳴らすと、崖の上から無数の『獣(セル)』が飛び降りてきた。
「じゃあな! ははははは……!」
 高笑いと共に、入れ違いになるように広場に雪崩れ込んできた『獣(セル)』を目くらましにするように崖へと跳んでソンギは姿を消した。
「くっ……ソンギっ!」
「今はそれよりも創世樹だ!」
 歯噛みするガラに叫ぶように言い、ヴァンは短剣を抜いた。
 追いかけるよりも、創世樹の覚醒が先決だ。いくらソンギを追いかけても、バイロン寺院の『霧』がなくなるわけじゃない。ソンギも気がかりだが、それよりも今はバイロン寺院を救うことを優先すべきだ。
「ノアはあいつだいきらいになった!」
 鬱憤を晴らすかのように言って、ノアが『獣(セル)』を蹴散らす。
 ガラも応戦していたが、ソンギと戦って消耗した体では、身を守ることで精一杯のようだった。ヴァンとノアで『獣(セル)』を薙ぎ倒し、どうにか広場の安全を確保する。
「大丈夫か、ガラ?」
「俺のことは気にするな……それよりも創世樹を頼む」
 ガラは複雑な表情で崖の上を見つめていた。
「分かった」
 ヴァンは頷いて創世樹の前に立つ。
 色々疑問はあるが、後回しだ。まずは『霧』を払ってからだ。
 ヴァンは創世樹の幹に手を伸ばす。触れた手のひらから優しい温もりが伝わってくる。
「私たちも力を貸すよ」
 テルマの言葉に頷いて、ノアも創世樹に手を伸ばした。
「エイミ……!」
 ノアが呟いた。
 エイミが元に戻って欲しい。助けたい。そんなノアの思いまで、創世樹と『聖獣(ラ・セル)』を通して伝わってくる。きっと、ヴァンの思いもノアに伝わっているのだろう。
 創世樹を見上げ、願う。
 バイロン寺院の『霧』が晴れることを。怪物になった者たちが元に戻ることを。
 メータとテルマに光が集まり、溢れ出す。飛び出した光が創世樹へと吸い込まれる。
 一瞬の静寂の後、創世樹が光に包まれた。眩い閃光を放ちながら、創世樹が成長する。手のひらを幹が押し返す感触と、『霧』を押し退ける清らかな空気が広がっていく。枝が伸び、葉が茂る。
 光が収まった時、そこには立派に成長した創世樹の姿があった。辺りの『霧』も消えていて、心地の良い澄んだ空気が広場を満たしている。
「これが創世樹の目覚めた姿か……」
 創世樹を見上げ、ガラがぽつりと呟いた。
「ヴァン、聖獣卵を」
 メータに促されて、ヴァンは上着のポケットから聖獣卵を取り出した。
 透き通っていた雫の形の結晶は光を帯びていた。
 三人が見守る中で、結晶が光に包まれる。まるで本当に卵が割れるかのように光が砕け散ると、後に残ったのは深い青色に水色の瞳を持った宝石のような『聖獣(ラ・セル)』だった。
 青い『聖獣』はふわりと浮かび上がり、ゆっくりとガラの方へと近付いていく。
「……俺を、選ぶというのか?」
 ガラは眩しいものを見つめるかのように目を細め、『聖獣(ラ・セル)』を見つめた。
 ヴァンとノアは顔を見合わせ、ガラと『聖獣(ラ・セル)』を見守る。
「私の声が聞こえるなら、あなたにはその資格がある……」
 慈愛に満ちた声で、『聖獣(ラ・セル)』はガラに向けて告げた。微笑んでいるかのように、『聖獣(ラ・セル)』が淡い光を帯びる。
「でも、私を選ぶのかはあなた次第。私はあなたを選びたいと思った……でも、あなたの意思を否定するつもりもないの」
 優しい声で語りかける『聖獣(ラ・セル)』を見て、ガラは一度地面に視線を落とした。
 ガラは目を閉じ、唇を噛み、眉根を寄せ、悩んでいるようだった。暫く黙考した後、ガラは目を開き、『聖獣(ラ・セル)』を見上げた。
「……今のソンギに向き合うには、俺の力だけでは足りないのだろうな」
 噛み締めるようにガラが呟いた。
「いいだろう。お前が俺を選ぶというのなら、俺はこの身を差し出そう」
 強い意思の宿った瞳で『聖獣(ラ・セル)』を見上げ、ガラは右手を差し出した。
「あいつを……放ってはおけない」
 静かにそう告げて、ガラは『聖獣(ラ・セル)』を見つめた。
 そして、応えるように『聖獣(ラ・セル)』が、ガラの右手に触れた。
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