第八章 「霧の巣」


 ヴァンたちの目の前に現れたのは、巨大な蟹を思わせるような『獣(セル)』の怪物だった。
 緑がかった甲殻には黒と紫の紋様が走り、体全体からすると細い四本の足はそれでも人間の胴体より太い。左右の手は巨大な鋏になっていて、閉じていても ヴァンの身長ほどの大きさがある。体はほとんどが頭部のようだった。上下に貝のように大きく裂けた口には鋭利な牙が並んでおり、一際大きな牙が二本下顎か ら突き出ていた。
「この禍々しさ……ヴァン、気をつけて下さい!」
 メータの声には、驚愕と焦りがあった。
 対峙しているヴァンにも、メータの言わんとすることは伝わっている。
 ゼトーが姿を変えた『獣(セル)』の怪物から、邪悪な気配が放たれている。もしヴァンの右手にメータが宿っていなかったとしても、はっきりと分かるだろうと思えるほどの圧倒的な存在感だった。
 これまでに戦ってきた『獣(セル)』など、足元にも及ばない。姿を変えただけだというのに、目の前の『獣(セル)』の怪物が手強い相手なのだと理解できる。
「……なんというおぞましさだ!」
 ガラが表情を歪める。
 まるで、『霧』の中の不快感を凝縮したような存在感だ。
「気をつけるんだよ、ノア。こいつは……手強いよ!」
「こいつはわるいやつだ! ノアにもわかる!」
 テルマの忠告に、ノアが叫ぶように答える。
 身構えたまま、しかしノアは飛び込みあぐねているようだった。
 目の前の『獣(セル)』の怪物が放つ威圧感に、背筋が凍るような気さえする。まだ戦ってすらいないというのに、勝ち目の無い相手に挑もうとしているようにさえ思えてくる。
 それでも、やるしかない。
 一番最初に動いたのは、ヴァンだった。
 意を決し、一歩を踏み出す。
 悪寒を振り払うように、息を吐き出し、右拳を握り締める。踏み出し、床に着けた足に力を込めて、次の一歩で、ヴァンは怪物へと飛びかかった。
「うおおおおおっ!」
 叫びながら、右手を思い切り振り下ろす。
 同時に伸びたメータの刃が熱気を纏いながら『獣(セル)』の怪物に命中する。
 瞬間、鈍く重い金属音が響き渡る。
「……っ!」
 緑がかった甲殻には、僅かな傷しかついていなかった。表面が微かに浅く削れただけで、辛うじて傷と言える程度でしかない。手応えも重く、硬いものだった。鋼の塊に剣を叩き付けているかのような感触だ。
「硬い……!」
 ヴァンは呻いた。
 思った以上に甲殻が硬い。今まで、メータの刃で貫けぬものはなかった。岩のように硬い皮膚を持つ『獣(セル)』も、メータの刃なら容易く傷を付けられた。だが、目の前の『獣(セル)』は違う。
「その程度か?」
 嘲笑うかのような声がヴァンに向けられる。
 咄嗟に後ろへと跳んだヴァンの目の前を、巨大な鋏が風を切って通り過ぎる。鈍重そうな見た目とは裏腹に、その動きは素早かった。
 甲殻の硬さと、鋏の大きさや重さを考えれば、それだけで十分な脅威だ。
「あの『獣(セル)』は普通ではありません、一人では危険です!」
 メータが訴える。
 『聖獣(ラ・セル)』のメータがここまで言うのも初めてだった。
「そもそもあいつは一体何者なんだ? 人か? 『獣(セル)』か?」
 ガラが疑問を口にする。
 メータたちの反応から察するに、『聖獣(ラ・セル)』ということはなさそうだ。だが、ただの『獣(セル)』でもないと言う。そして、ゼトーという存在そのものが何なのかも分からない。
 『獣(セル)』を纏った人間なのか、それとも人ではない異常な『獣(セル)』なのか。ゼトーは人の形をしているようにも見えたが、身に着けている衣装の 下に人間の肉体があるのかは分からない。顔を見たことも、肌を見たこともない。人の言葉を解しているとは言え、それは『聖獣(ラ・セル)』にもできてい る。
「分かりません……ただ、あの姿は間違いなく『獣(セル)』のはず」
 オズマが答える。
 異形と化したゼトーの姿は、間違いなく『獣(セル)』の化け物だ。『聖獣(ラ・セル)』が普通ではない、と判断するほどの異常な『獣(セル)』ではあるようだが、それでも『獣(セル)』であることだけは確かなようだ。
 それを操っているのが人であるのか否か。気になるところではある。
「来ないのならこちらから行くぞ……!」
 不気味な、笑ったような声と共に『獣(セル)』の化け物が動いた。
 体の大きさからすればアンバランスな細く長い脚で、化け物が近付いてくる。足による移動は速いとは感じなかった。遅い、というわけでもなかったが。
 鋏を振り上げ、最も近くにいたヴァンへと叩き付ける。
 横に跳んでかわしたヴァンへ、叩き付けた鋏を水平に薙ぎ払うように振るう。
「くっ!」
 かわし切れず、メータの宿る右手を盾にするようにして受けた。
 瞬間、ヴァンの体が吹き飛ばされていた。数メートルもの距離を吹き飛ばされて、壁に背中を叩き付ける。一瞬、息ができなくなった。遅れて衝撃を感じたような気さえする。
「ヴァンっ!」
 ノアが呼ぶ声がする。
「ぐ……!」
 思わず、ヴァンの表情が歪む。
「ノア、来るぞ!」
 ガラが叫んだ。
 ゼトーがノアへと鋏を振るう。横合いから掴もうとするように振るわれた巨大な鋏を、ノアが一息に飛び越える。天井に右手を着いて、体を押し出すように勢いをつけてゼトーの頭に真上から蹴りを繰り出す。
 しかし、ノアの蹴りも硬い甲殻に傷を付けることはできなかった。
「このっ!」
 もう一方の足で蹴り付けながら、ノアがゼトーを踏み越えて背後に回る。
 蟹の化け物が振り向きざまに振るった鋏を、ノアは飛び退いてかわした。
「そこだ!」
 ゼトーが背を向けたところへ、左手でゼトーに狙いを定め右手を大きく引いた構えで、ガラが踏み込んでいた。オズマが電流を帯びている。ソンギに使った技だ。
 火花のように青白い雷撃を撒き散らしながら、神速の掌底が『獣』の化け物の背に突き刺さる。
「がぁっ!」
 ゼトーから苦悶の声が漏れた。
 甲殻の表面を青白い電流が走り、痙攣するように体を震わせている。
「雷の『聖獣(ラ・セル)』か……!」
 ゼトーの声に初めて怒りの感情が混じった。
「もう一撃だ、オズマ!」
「反撃がくるわ!」
 右手を引いて構えようとしたガラへ、オズマが声をあげた。
「ぬぅあっ!」
 巨大な鋏が振るわれ、ガラはオズマの宿る右手を握り締めると、向かってくるその鋏に拳を叩き付けた。青白い火花が散り、しかしガラの方が弾き飛ばされていた。
「くっ……!」
 背中から床に叩き付けられ、ガラが呻き声を漏らす。
 右手を押さえながら起き上がるガラを追い抜いて、今度はヴァンがゼトーへと向かう。
 握り締めた拳が炎を纏う。ゼトーが突き出した鋏を、身を水平に倒しながら飛び越えるようにしてかわす。そのままの勢いで、垂直に両足での連続蹴りを叩き込む。
「くらえっ!」
 衝撃で僅かに硬直したゼトーの懐にそのまま着地し、振り被った右手を叩き付けた。
 爆発がゼトーの体を大きく後退させる。しかし、傷らしい傷はついていない。
 ゼトーの背後に、ノアがいた。
「テルマっ!」
 叫ぶノアの左手を中心に、風が渦を巻いていた。風の刃を纏った左手を右から左へと薙ぐ。そのままの勢いで体を水平に回転させ、風の刃だけを敵にぶつける ようにしてその場に残し、身を捻りながら振り被った右手を叩き付けるようにして風を奥へと押し込む。圧縮された風の塊が地面に叩き付けられて弾ける。真下 から打ち上げるように竜巻が生じ、ゼトーの体を切り裂く。
「小賢しい!」
 かまいたちの竜巻を受けたまま、ゼトーが両腕を振るう。
 ノアが飛び退くのと入れ違いに、ヴァンとガラが同時にゼトーへと踏み込んだ。
 オズマが青白い火花を散らし、メータが陽炎で大気を揺らめかせる。電撃を帯びたガラの掌底と、炎を纏ったヴァンのアッパーがゼトーに突き刺さる。
「ぐぅ……っ!」
 衝撃と爆発がゼトーを仰け反らせ、甲殻の表面を炎と電撃が踊る。
 ヴァンは短剣でゼトーの甲殻を斬り付け、ガラが拳を打ち付ける。そこへノアが加勢し、関節を狙って蹴りを放つ。
 重く、硬い手応えに、それでも攻撃を続ける。表面的な傷にはならずとも、全く効いていないということはないはずだ。
「調子に乗るなよ、『聖獣(ラ・セル)』ども!」
 ゼトーが声をあげ、両腕を振るう。
 水平に薙ぎ払う攻撃を、三人がそれぞれ後退してかわした。そうして、再び飛び込もうとした時に気付いた。
 ゼトーの背後に無数の泡が生じていた。
「食らうがいい!」
 泡が弾けるように水滴となり、瞬く間に巨大な水の塊に変わる。
「なっ……!」
 ガラが目を見開く。
「ヴァン、避けて下さい!」
 メータの声が飛ぶ。
 ゼトーの背後に生じた水塊が風船のように膨れ上がり、弾けた。まるで爆発したかのように、大量の水が押し寄せる。部屋にある全てを押し流すかのような巨大な津波だった。
 避けられる場所など、無かった。
 ヴァンもノアもガラも、津波に飲まれて流された。分厚い壁が向かってきたかのような重い衝撃の後、体が浮いて視界が回る。姿勢を変えようとすることすら ままならぬうちに部屋の壁に叩き付けられていた。呼吸もできず、叩き付けられる水のせいで前も見えない。壁に押し付けられたまま、水が引くのを待つしかな かった。
 全身を打ちのめす衝撃に体が軋む。恐らく、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていなければこれだけで潰されてしまっていただろう。
 水流が緩やかになり、顔が水面から出た。
「ぐ、げほっ……がはっ!」
 咳き込みながら息を吸う。
 水がなくなると同時に、両手両膝を着いてしまう。体が重い。
「く……」
 どうにか立ち上がったガラが右手を握り締める。
 ヴァンも立ち上がり、ゼトーの方へ視線を向ける。広い部屋の中央のゼトーの背後に、再び泡が生じ始めている。
「あれを何度も食らうのはまずいよ……!」
 テルマが焦りの混じった声をあげる。
「気を付けて下さいガラ、下手にあの攻撃に私の力をぶつけては仲間を感電させてしまいかねません!」
「そうなる前に叩き込めばいい!」
 オズマの言葉に答え、ガラが床を蹴る。
 あの津波の攻撃にオズマの電撃をぶつけては、仲間に被害が出かねない。ゼトーに対してダメージを与えることにはなるかもしれないが、味方への影響が大き過ぎる。ゼトーを倒せる確証がないうちは捨て身や相打ちになってしまいかねない攻撃は避けるべきだ。
 ガラもそれは分かっているはずだ。それでも、オズマの攻撃が今のゼトーには最も効果的かもしれないのも事実だ。
「ノアだって、まだたたかえるんだ!」
 体を支えていた両手で勢いを付けて、ノアが駆け出す。
 辛うじて手放さなかった短剣を握り締め、ヴァンもゼトーへと向かって行く。津波のせいでかなり距離が離されてしまった。
 ガラが左手で狙いを付け、右手を大きく後ろへ引いた。オズマが意思を汲み取って電撃を纏う。青白い火花が弾けるような音を伴ってガラの右手を駆け巡る。
「うおおおおおっ!」
 吼え、ガラが掌底を繰り出す。
 同時に、ゼトーが巨大な鋏を振り下ろしていた。掌底がゼトーに突き刺さると同時に、鋏がガラの頭上に迫る。咄嗟に左手で鋏を受けるが、ガラの体が傾い だ。そのまま鋏は強引に振り抜かれ、床に叩き付けてヒビを入れる。横に弾き飛ばされるようにしてガラが吹き飛ばされ、床を転がった。
「ぐぬ……!」
 呻き声を上げつつも、直ぐに起き上がろうとする。
 ゼトーの甲殻の表面を青白い電撃が走っていたが、掌底の入りは浅かったようだ。
 向かってくるノアへとゼトーが横合いから鋏を振るう。ノアはそれを滑り込むように屈んですり抜け、風の刃を纏った左手をゼトーの足関節に叩き付けた。
 僅かにバランスを崩したものの、もう一方の鋏を振り下ろされ、ノアが飛び退く。入れ替わるようにヴァンがゼトーの懐へと飛び込んで、短剣で鋏の付け根を 切り付ける。鈍い金属音が響き、短剣が表面を撫でる程度で終わる。振るわれた腕を飛び越えて、右手のメータの刃を思い切り叩きつける。
 そのゼトーの背後で、水の塊が爆裂していた。
 水の壁がすべてを押し流す。部屋の壁に備え付けられている配管も、戦いの余波で砕けた床や天井、壁の破片も、無差別に津波が飲み込んで流して行く。
 両腕を交差させて防御の姿勢を取っても、水の壁はまるで岩壁のような重さと衝撃を持ってヴァンたちを押し潰す。飲み込まれ、揉みくちゃにされて壁や床、 天井に叩き付けられる。流されてきた破片や配管をかわそうにも、水流が激し過ぎてまともに動けない。呼吸もできず、視界もままならない。
 ゼトーは水流の中、平然と立っている。流されることもない。
 水が引いて、重い体を両手で支えて起き上がる。
「……ほう、まだ立つか」
 嘲笑いながらも、感心したような言葉をゼトーが放つ。
「ノア、大丈夫かい?」
「……うん、まだだいじょうぶ!」
 気遣うテルマの声に、ノアがはっきりした声で応える。
 水流に流されている間にぶつかってきた破片や瓦礫に、ノアの服がところどころ破れている。浅い擦り傷や切り傷もある。ヴァンもガラも、無傷ではない。
 血の滲む傷を負っても、痛みはあまりない。メータたち『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているからだろうか。それとも、ゼトーとの戦いに集中しているからだろうか。どちらにせよ、戦うのに支障がなければ良い。
 とはいえ、分が悪くなってきているのは確かだ。
 あの津波に対抗する術がない。来るのが分かっていても、部屋中に広がって向かってくる津波をかわす術も、防ぐ手段もない。耐えることに徹していても、このまま受け続けていたら間違いなくこちらがやられてしまう。かといって、津波の最中には反撃もできない。
 だとしたら、できることは一つしかない。
 持てる力の全てでぶつかって、こちらが倒れる前に敵を倒す。
 立ち上がり、ゼトーへと駆け出す。その背後に泡が浮かび始めている。
 握り締めた右手に熱が宿る。手甲から伸びたメータの刃が赤熱し、炎を纏う。踏み込んだ足に力を込めて、体を前へと倒して突撃する。体重と勢いの全てを乗せて、ヴァンはメータの刃をゼトーへと突き込む。
 突き立てられた刃は、甲殻に食い込むことさえなかった。それでも、力を込めて強引に刃を押し込もうとする。炎が踊り、熱風がヴァンの髪や服の裾を揺らす。
「無駄だ!」
 ゼトーが巨大な鋏を振るう。
 ヴァンは左手の短剣を鋏に叩き付けた。僅かに動きを逸らされた鋏がヴァンの脇を掠める。右腕を引き戻し、炎を纏ったままのメータの刃を水平に薙ぐ。返す刃でもう一度叩きつける。
 指先よりも小さな甲殻の破片が舞う。
 振るわれた鋏を懐に飛び込んで内側に入ることでかわし、メータの刃で何度も殴り付けた。
 ゼトーの口から毒々しい紫色の泡が溢れた。咄嗟に跳んで上へ逃れたヴァンの足元に紫の泡が吐き出される。床が泡で溶けていた。
 ガラがオズマの宿る右拳で突きを放つ。腰を落とした正拳突きがゼトーの足の関節に突き刺さり、衝撃にゼトーの体が傾いだ。
「おおおおおっ!」
 ガラが気合と共に左の拳を同じ場所へと叩き込む。右の蹴り、左の蹴りと続き、右の手刀でゼトーの足に攻撃を集中させる。
 ゼトーが振るった鋏から逃れるためにガラが飛び退く。そのガラの脇を、ノアが駆け抜ける。左手の指を真っ直ぐに伸ばして揃え、剣の切っ先のように尖らせ ている。その左手を覆うテルマが風を纏い、ノアを加速させていた。槍のような鋭い突きをノアが放ち、持ち直そうとしていた足の関節へ的確に命中させる。
 ゼトーが膝を付いた。
「今だ!」
 ガラが声をあげ、両手を握り締めて踏み込む。雷撃を纏ったオズマと、左の拳を何度も叩き付ける。
「たあああああっ!」
 ノアが叫び、テルマの宿る左手で手刀を繰り出す。素早く蹴りを織り交ぜて、一気に畳み掛ける。
「おりゃあああああ!」
 ヴァンが吼え、炎を纏うメータの刃を振り下ろす。左手の短剣で斬り付け、メータを振るう。
 雷撃が火花を散らし、風が吹き荒れ、爆炎が踊る。ゼトーの甲殻が削れ、細かな破片が飛び散る。致命傷には程遠いが、少しずつでも効いている。このまま押し切るしかない。
「ぬあああああ!」
 ゼトーが声を上げる。
 その口から大量の毒泡を撒き散らし、ヴァンたちは距離を取る。飛び散った毒泡が天井や壁、床を溶かす。
「その程度でこの私を倒せるとでも思っているのなら、無駄なことだ!」
 ゼトーの背後で水の塊が弾けていた。
「くるぞ!」
 ガラが身構える。
「テルマぁっ!」
 ノアがヴァンとガラの前に進み出て、左手を正面に突き出した。その手首を、支えるように右手で掴む。
 部屋中の空気が渦を巻き、ノアの目の前に集まっていく。大量の空気が竜巻となり、濃密な風が景色を歪ませるほどに集中する。結わえられたノアの髪が靡く。
 巨大な竜巻が押し寄せる津波を正面から真っ二つに引き裂いた。ヴァンとガラを避けるように水流が割れ、背後で合流している。
「ううううう……!」
 歯を食い縛り、ノアが呻き声を漏らす。
 支えた左手も、両足も、震えている。押し寄せる波に耐え切れず、踏ん張っているはずの両足が後ろに流れ始めている。
「ノア!」
 その背中を、ヴァンは両手で支えた。
 汗で濡れた衣服に、擦り傷だらけの肌と、まだ血の滲んでいる傷まである。ノアの体には、凄まじい重圧がかかっていた。ノアの左手に宿るテルマの瞳が強い光を放ち続け、力を使い続けているのが分かる。
 津波が消えた瞬間、ノアがその場に座り込んでしまった。
「大丈夫か、ノア!」
「すこし、つかれちゃった……」
 声をかけると、息を切らしながら、ノアは力なく笑みを浮かべてみせる。
「だが、良くやった、これで直ぐに反撃ができる!」
 言うや否や、ガラが駆け出した。
「無駄だと言ったはずだ!」
 ゼトーが毒の泡を放つ。
 広範囲に撒き散らされた泡を、ガラが飛び越える。
 まだ立ち上がれないノアの前に立ち、ヴァンは向かってくる泡へとメータの刃を思い切り振り下ろした。炎が軌跡を描き、ヴァンの目の前に炎の柱を生み出す。泡を炎で防ぎ、ヴァンも駆け出した。
 ノアが作ってくれたチャンスを逃すわけにはいかない。
 踏み締めた足に力を込め、ゼトーへと飛び掛る。
 勝ち目が薄くとも、勝機はある。いくら甲殻が硬くとも、削れているということは全く効いていないわけではない。攻撃力の高く、ゼトーに効果が高いガラは関節を狙っている。ヴァンは正面からゼトーに攻撃することで注意を引き、ガラがやりやすくなるように立ち回っていた。
 それに、もしも真正面から甲殻を砕き、貫くことができれば大きなダメージを与えることもできるはずだ。
 ヴァンとガラの攻撃を真正面から受けながら、ゼトーが力任せに腕を振るう。
「愚かな……」
 蔑んだような呟きが聞こえた。
 後ろへ跳んだガラを追うかのように、鋏が軌道を変えた。後退するガラを予測してか、ゼトーが踏み込んでいた。
「なっ!」
 咄嗟に右腕を間に挟んで受け止めたが、ガラの身長よりも巨大な鋏は強引にガラを吹き飛ばした。横合いに弾き飛ばされたガラが壁に激突し、崩れ落ちる。
「ガラ!」
 追い討ちをかけようとするゼトーの背後から、ヴァンがメータの刃で斬り付ける。
 だが、ヴァンの攻撃など意にも介さずガラへと向かって行く。足の付け根や関節を狙って短剣を叩き付けても、びくともしない。
 どうにか身を起こしたガラの前に、ノアが割り込んだ。
「やぁっ!」
 テルマに包まれた拳でゼトーの目らしき場所を打つ。だが、そこも硬いものでできているようで、効果はなかった。
「邪魔だ」
 次の瞬間には、ノアの体が木の葉のように舞っていた。
 横合いから振り払うように鋏が叩き付けられ、ノアが吹き飛ばされた。頭を壁に打ち付けて、跳ねた体が床に叩き付けられて転がる。
「ノア!」
 名を呼ぶヴァンに、ゼトーの鋏が迫る。
 振り返りざまの一撃を両腕を交差させて受け止める。巨大な鋼の塊を叩き付けられたかのような衝撃に、踏ん張った足が床に減り込んだ。タイルのような板が 砕け、飛び散る。重さに、体が硬直して動けない。そのほんの僅かな隙に、ゼトーの腕が横合いから叩き付けられる。辛うじて腕を間に挟んだものの、防ぎ切れ ない。吹き飛ばされ、壁に肩からぶつかった。
 全身に鈍い痛みがあった。疲労もある。
 体が重い。
 震える腕で身を起こせば、ノアが立ち上がろうとしていた。頭を強く打った際、どこか切れたのか、顔の半分ほどが赤く血で汚れていた。呼吸も乱れている。それでも、ゼトーを睨み付ける目に諦めの色はない。
 既に立ち上がっていたガラは、ゼトーの鋏と拳をぶつけ合っていた。オズマの宿る右拳が振り下ろされた鋏とぶつかり合い、激しい火花を散らした。だが、ゼトーの鋏はガラを押し潰した。
「ぐあああああっ!」
 ガラの絶叫が響く。
 骨折などはしていないようだったが、直接壁と鋏に挟まれたダメージは大きい。
 立ち上がったノアがゼトーを睨み、走り出そうとした瞬間だった。津波が部屋を襲った。起き上がった直後のヴァンも、駆け出そうとしていたノアも、攻撃をまともに食らってしまったガラも、防御の姿勢すら取れなかった。
 強烈な水流が全身を打ち付け、床や天井へと叩き付ける。呼吸ができず、視界が回る。
 水が引いた時、立っていたのはゼトーだけだった。
 全身が軋む。身を起こそうとしても、力が入らない。震える腕でどうにか体を持ち上げて、顔を上げるのがやっとだった。
 ゆっくりとゼトーが歩いてくるのが見えた。
 ガラが左手をついてはいたが、腕が震えていて起き上がれないようだった。ノアも身を起こすのがやっとのようだった。
 起き上がろうとするヴァンに、ゼトーが鋏を振り下ろした。かわすことも、防ぐことも、できなかった。
「がはっ!」
 背中に叩き付けられた巨大な重量物に、体の中のものが押し出されるかのような錯覚を抱く。空気と共に血を吐いて、ヴァンが倒れ伏す。
 咳き込み、血を吐くヴァンの前を通り過ぎたゼトーが向かったのは、ノアの方だった。
「ぐ……くそ、待……て……!」
 息も絶え絶えに、ヴァンがゼトーに右手を伸ばす。
 ゼトーは途中にいたガラを細い足で踏み付け、乗り越えてノアの方へと向かう。
「ごはっ……!」
 細い足にゼトーの体重が圧し掛かり、ガラが床に減り込んだ。体が千切れなかっただけマシだ。
「はーっ……はーっ……」
 ノアは、立ち上がっていた。
 満身創痍なのは誰の目にも明らかだった。それでも、立ち上がり、身構えている。肩で大きく息をしながら、顔の半分を血で濡らしながら、それでも、震える足で立っていた。
「気に食わんな……その目は」
 苛立ったような口調で、ゼトーが呟いた。
「ノアは……ノアは、ゼトーをゆるさない……!」
 握り締めた左手をゼトーへと叩き付ける。
 だが、もうその攻撃には勢いも、鋭さも残っていなかった。辛うじて攻撃としての形だけは成していたが、硬い甲殻を持つゼトーには通じていない。津波を一度防いだことでテルマも消耗しているようで、力が弱い。
 それでも、その瞳にはまだ光が満ちていた。
「うあっ!」
 巨大な鋏が、ノアを掴む。
 両腕も体と一緒に挟まれていた。
「『霧』の素晴らしさを理解できんとは、愚かな……」
 憐れむようなゼトーの呟きが聞こえた。
 ノアの足が地面から離れ、持ち上げられる。
「『霧』が、素晴らしい、だと……?」
 ガラが呻くように言った。
 上半身だけを僅かに持ち上げて、苦痛に顔を顰めつつもゼトーを睨み付けている。ヴァンも起き上がろうとしていたが、体が思うように動かない。まるで体が鉛にでもなったかのようだった。
「うううあああっ!」
 締め上げられたノアが声を上げる。
 鋏に挟まれたノアの体を、ゼトーが潰そうとしている。抜け出そうともがいても、弱った体では抵抗にすらなっていない。首を振り、足をばたつかせることしかできない。
 ぎりぎりと、ゼトーの鋏がノアの体を圧迫していく。
「あああああーっ!」
 ノアが絶叫する。
「これは、まずいね……ノア、頑張っておくれ!」
 テルマの弱々しい声が虚しく響く。
「く……くそ!」
 ガラが床を這ってでもゼトーの方へ向かおうとするも、体を前進させることさえままならないようだった。
 ヴァンも歯を食い縛り、両手に力を込める。それでも、体が支えられない。力が思うように入らない。
「『霧』こそが福音であり、永劫であり、調和なのだ……」
 ノアを挟む手に少しずつ力を加えながら、ゼトーが告げる。
「『霧』に身を委ねれば人は永劫に生きられる。それこそ完全な平和であり、調和であろう? ならばそれを為す『霧』こそが福音ではないか」
 陶酔し切った声で、ゼトーが言った。
 『霧』の中で『獣(セル)』を身に着けていれば、怪物となって自我を失う。ドルク城や城下町の人々がそうだったように、年を取らずに生きることはできる。『獣(セル)』の怪物となった時点で、その人の時は止まってしまう。
 自我もなく、成長することも老いることもない状態を、果たして生きていると言えるのだろうか。
 確かに、全ての人間が『獣(セル)』の怪物となってしまえば争いも起きないだろう。平和というのが争いのない世界のことを指すのなら、平和と言えなくもないのかもしれない。
 文明の発展も、人らしい生活もなくなっても、平和と言えるのだろうか。
「違う……」
 思わず、そんな呟きがヴァンの口から漏れた。
 違うはずだ。
 『霧』が平和をもたらし、人類を永遠に生かすことになるはずがない。
 『霧』と『獣(セル)』の怪物から解放されたドルクの人たちの表情は、明るいものだった。前向きなものだった。誰一人として、あのままで良かった、と言 う者はいなかった。『獣(セル)』に取り付かれていた間の記憶はなくとも、悪夢にうなされていたような、絶望感や不快感を抱いていたと誰もが口にしてい た。
 ましてや幸福感を抱いたと言う者などいなかった。
 『霧』は、悲劇しかもたらさない。そんなことは、嫌と言うほど知っている。いつだって『霧』が、大切なものを、いくつも奪って行った。
 だから、守りたいと思ったのに。
「あああああ――うっ!」
 何かが砕けたような、嫌な音がした。
 握り締められていたノアの拳から、力が抜けていた。ノアの腕が、折れた。
「ノア……!」
 ガラが僅かに前進する。
 それでも、届かない。
「あああああぁぁぁぁぁ!」
 悲鳴なのか、絶叫なのか、もう分からない。
 ノアにはもう、叫ぶことしかできなかった。
 守れない。
 救えない。
 そんな自分が嫌で、ヴァンはずっと、払う力を、守る力を、救う力を求めていた。
 もう、何もできないのは嫌だ。
 力は、得たはずだ。
「ヴァン……!」
 メータが呼ぶ声が聞こえた気がした。
 まだ戦えますか、と。
 胸の奥の熱は、まだ消えてはいない。
「俺、は……!」
 ヴァンの中で何かが弾けた。
 体の感覚はなかった。
 ただ、熱かった。
 伸ばした右手も、踏み出した足も、吐き出す息も、吸い込む空気も、ただひたすらに熱かった。いつの間に立てたのか、歩き出していたのかさえ、ヴァンにはどうでもいいことだった。
 体の芯が燃えているようだった。
 ノアを潰そうとしているゼトーの鋏に両手をかける。
「貴様……!」
 ゼトーが驚いた声を出した。
 ヴァンの体ももうぼろぼろだった。
 それでも、歯を食い縛り、思い切り左右に開くように両腕に力を込める。ヴァンの両手が燃え上がった。
「ノアを、放せ……!」
 ヴァンの眼光に射抜かれたゼトーが、息を呑む。
「な、なんだと……!」
 燃え盛る炎に包まれた両手が、少しずつ、ゼトーの鋏を押していた。
 ゼトーが力を込めても、ヴァンは潰されなかった。それどころか、より一層ゼトーの鋏を開かせていく。
 『霧』を払いたい。
 『霧』から守りたい。
 『霧』から救いたい。
 それまで願望だった思いが、形を変えていく。
 払うんだ。
 守るんだ。
 救うんだ。
 誰でもない、ヴァンが。
 そのための力を、メータが与えてくれる。
 思いを、メータが力に変えてくれるから。
 だから。
「ば、馬鹿な……!」
 うろたえるゼトーの目の前で、鋏から解放されたノアが床に崩れ落ち、倒れる。
「ヴァン……」
 顔だけをヴァンに向けて、ノアがか細い声で名を呼んだ。
 ゼトが鋏を振り下ろす。
「――メータぁぁぁーっ!」
 叫び、ヴァンは右手を振り上げた。
 メータの瞳が一際強い光を放ち、ヴァンの右手が炎を纏う。白熱したメータの刃が、振り下ろされた鋏を貫いていた。いや、溶かし、引き裂いていた。
 その上で爆発し、鋏が吹き飛ぶ。
「ぬ……ぐ!」
 後退りするゼトーの背後に泡が浮かび始める。
「させるかぁぁぁぁぁっ!」
 踏み込んだ足元が爆発し、ヴァンの体が加速する。思い切り後ろへ引いた右腕を、腰を低くして踏み込んだ体勢から振り上げる。メータの刃がゼトーの甲殻を 溶断し、大きく抉る。そしてヴァンの腕が纏っていた炎が螺旋を描いて流れ込んでいく。切り裂いた甲殻の中に入り込んだ炎が内側からゼトーを焼いた。
「ぐあああああ!」
 ゼトーが絶叫し、背中から床に倒れる。
 纏わりついた炎がのた打ち回り、ゼトーの甲殻が溶けていく。細い足の関節が千切れ、鋏が溶けて開くことができなくなっていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ」
 乱れた呼吸で、肩を大きく上下させながらも、ヴァンは悶絶するゼトーを見据えていた。
「馬鹿な……! 人間に負けたというのか……? この、ゼトーが……!」
 苦悶に喘ぎながら、信じられないとでもいうかのように、ゼトーが呟く。
「真に目覚めてもいない『聖獣(ラ・セル)』ごときに……!」
 ゼトーが言うのと同時に、牙が砕けた。抉られて欠けた顔が歪んだように見えた。
「コート様……お許し、を……!」
 天井へ向けて伸ばした鋏が途中で溶け落ちて力なく床に転がる。
 その言葉を最後に、震えていたゼトーの体が動きを止めた。体全体が緑色の濁った結晶のように質感が変化していく。全身がそうなったと思った瞬間、ゼトーの体が砕け散った。細かな破片に砕け、更に砂粒のように分解されて消えていく。
「や、やった……のか?」
 どうにか身を起こしたガラが呟いた。
「気配が完全に消えました……私たちの、勝利です」
 メータが静かな、だがはっきりした声で告げた。
 同時に、ヴァンの体から力が抜けた。その場に両膝を着いて、倒れそうになる体を両手で支える。震える腕に力が入らず、倒れてしまった。
 重い右手をどうにか自分の胸に当てる。メータの瞳が優しい輝きを帯びて、ヴァンの体に淡い光が集まってきて包み込む。暖かさを感じながら、傷と体力が回復するのを待つ。回復力自体も、弱々しいものだったが、それでもずっとこの場に寝ているわけにもいかない。
 どうにか身を起こせるだけの体力が回復したところで、ノアの傍まで移動する。
 光獣ヴェーラの回復力を、ノアへ向けた。
「あったかい……」
 ノアが小さく微笑んだ。
 見れば、テルマもヴェーラの治癒能力を使っていた。メータのものと合わせて、少しずつノアの傷が癒えていく。時間を十分にかけて、ヴァンたちは体力の回復を図った。
 動けるようになると部屋の隅に転がっていた荷物袋から傷薬なども取り出して、治療の足しにした。消耗した体力を補うために、保存食を齧る。一応雨天の時を考えて防水の袋にしていたお陰で、中身はほとんど濡れていない。保存食も無事だった。
「しかし、強敵だったな……」
 落ち着いたところで、ガラが呟いた。
 津波によう攻撃でびしょ濡れだった衣服も、メータの熱で乾かした。
「正直、もっとやれると思ってた」
 悔しげに、ヴァンも呟く。
 自分たちはもっと強いと思っていた。それは単なる自惚れだったのかもしれない。『聖獣(ラ・セル)』は確かに強いが、ゼトーはヴァンたちよりも強かった。一人で挑んでいたら、勝てなかっただろう。
「でも、かてたよ?」
 血を拭った顔でノアが微笑む。
「ああ、俺たちが勝った」
 ガラが頷く。
「ヴァン、すごかったよ」
 ノアが優しい笑みをヴァンに向けた。結った髪が仕草に合わせて揺れる。
 見惚れてしまいそうな笑顔だった。
「メータのお陰だよ」
 そう言って、ヴァンは右手に宿るメータに目を向ける。
 メータがいなければ、あそこまで戦えなかった。
「いいえ、私だけの力ではありません」
 メータの声は、優しい響きに満ちていた。
「あなたの心が、私に力をくれたのです。だから、私もそれに応えることができました」
 暖かな感情が伝わってくる。胸の奥がじわりと熱くなったような、そんな気さえする。
 それが答えなのだろう。
 ヴァンの思いと、メータの思いが重なった。
 自分が今持っている力や、メータの持つ力の限界は頭になかった。できるかどうかを考えて行動したわけではなかった。やらなければならないと思い、やるしかないと思った。それを為すだけの力がメータにあるかどうかなど、意識にはなかった。
「無我夢中だっただけだけどな」
 苦笑して、ヴァンは頬を掻いた。
 ただ、メータを信じていた。メータは、熱を持ってヴァンに応えてくれた。その熱に、ヴァンも応えたいと思った。
 同じ方向に向けられた思いが互いの力を増幅し合い、爆発的な力を生んだのだろう。それこそが、人を選び、共に在ろうとする『聖獣(ラ・セル)』の真の力なのかもしれない。
 津波を引き裂いた時のノアとテルマも、きっと同じだったのだろう。
「思いが力になる、か……」
 ガラが小さく呟いた。
「俺もまだ、未熟ということか」
 オズマを見つめながら、ガラが溜め息をつく。
「皆、行けるか?」
 十分休憩を取ってから、ヴァンは立ち上がった。
 ノアとガラも立ち上がり、頷いた。ノアの腕もヴェーラの治癒能力で治っている。痛みも引いたようだ。
 戦いで荒れ果てた部屋の奥にある、大きな扉の前に立つ。
 分厚い扉がゆっくりと開き、ヴァンたちは奥へと足を踏み入れた。
「うわあああ!」
 ノアが目を丸くして、声をあげる。
「これは……!」
 ガラも目を見開いていた。
 一際大きな広大な空洞のような部屋だった。岩をそのままくりぬいたようで、岩壁が剥き出しになっている。地上にあった壁で覆われた敷地内とほぼ同じぐら いの広さがあるだろうか。縦方向にはもっと大きいかもしれない。縦に引き伸ばしたような球形の部屋という印象で、入り口は丁度中央付近の高さで、そこから 鉄製と思われる通路が水平に中央へと伸びている。
 そして、部屋の中心には巨大な装置が音を立てながら動いていた。
 大人三人分の身長以上はあろうかという分厚い円盤が積み重ねられ、音を立てながら回転している。等間隔に紋様が刻まれた円盤二つに挟まれて、その二つに 比べればやや薄い程度の、一回り小さな円盤が逆方向に回転している。分厚い円盤は上にあるものが速く、下にあるものが遅く回転していた。
 覆い被さるような屋根のような一番上の部分の中心からは部屋の上部へと太いパイプが伸びている。巨大な台座からも八方に太い管が伸びていて、壁の中へと向かっている。
 装置の大きさはこの巨大な空間の半分近くを占めている。
 円盤同士の隙間や、台座との間、屋根のような部分と円盤との間から濃密な『霧』が溢れ出てきていた。
「これが、『霧』の巣……!」
 ヴァンは装置を睨むように見上げ、呟いた。
 誰に言われなくとも、この巨大な装置が『霧』を生み出しているのだと分かる。
 恐らく、装置の台座と屋根部分から伸びた管がこの地下施設中に張り巡らされた配管を通って地上へ向かっているのだろう。
「……この機械は、地上にあってはならないものです」
 オズマが静かな声で呟いた。怒りを押し殺したような声だった。
「こんなものを……」
 テルマの声からも憤りが感じられた。
「メータ、どうすればいい?」
 ヴァンはメータに問う。
 物理的に破壊できるだろうか。メータたち『聖獣(ラ・セル)』の力をもって、この装置を破壊することができるのか、分からない。少なくとも、これだけ巨大なものなら、頑丈にできているはずだ。
 殴ったり斬ったりして破壊し切れるものなのか判断しかねる。下手に攻撃して、事態を悪化させてしまう可能性もある。装置を止めるつもりが、『霧』の放出を止められなくなってしまっては元も子もない。
 メータたち『聖獣(ラ・セル)』の探知能力で構造を把握することはできないだろうか。弱点や、装置を止めるための手掛かりでも見つけられれば十分だ。
「……大丈夫、これなら止められます」
 黙り込んで装置を探っていたらしいメータが答えた。
「私たち『聖獣(ラ・セル)』と、あなたたち人間の祈る心でこの機械を破壊することができます」
「本当か?」
 メータの言葉に、ガラが驚いたように言った。
 祈りだけでこれほどまでに巨大なものを破壊できるのだろうか。ガラが心配しているのはそこだ。
「創世樹の時と同じように、私たちが思いを増幅します。それをぶつけて、装置の動力を破壊するんです」
 オズマが説明する。
 人々の未来を思う願いが創世樹にはプラスとなり、覚醒させることができる。対して、『霧』の巣の動力にはマイナスに働き、破壊することができるらしい。
 装置の構造自体を把握できていないヴァンたちにとっては、『聖獣(ラ・セル)』たちの言葉を信じるほかに手はない。もちろん、信用していないわけではないが。
「よし、やろう!」
 ヴァンの言葉に、ガラとノアが頷いた。
 三人は並び、装置を見上げる。鉄製の足場は丁度、装置の中ほどの高さにあり、挟まれた薄めの円盤が正面に見える。近くで見ると迫力がある。
 ヴァンは右手を伸ばし、掲げた。ノアとガラがそれに続く。
 『霧』を生み出す装置を見据えて、願う。
 『霧』の無い世界を。
 ヴァンは、自分が旅立つまでにリム・エルムで『霧』によって命を落とした人々のことを思う。
 ドルクの人々が『獣(セル)』を身に着けることにした時のこと、書き記された当時の思い。いつ現れるか分からない後の希望に未来を託すことにしたのは、 どんな心境だったのだろう。絶望していたかもしれない。それでも、解放されたドルクの人々は口を揃えて言うだろう。あの時の決断は間違っていなかった、 と。
 バイロン寺院は『霧』の中で健在だった。それでも、『霧』によって多くの僧兵が命を落とすことになった。
 すべて、『霧』がなければ、起こらなかった悲劇だ。
 その『霧』を生み出しているものが目の前にある。それを壊し、『霧』を止めることができる。
 願うのは、『霧』のない平和な世界。
 思いが光となり、『聖獣(ラ・セル)』の瞳に集まっていく。収束した光が輝きを増し、飛び出した。
 三つの光は絡み合うように寄り添いながら、『霧』の巣の上部にある屋根と円盤の隙間へと滑り込んで行った。
 その直後、『霧』の巣の隙間から光が漏れ出すように溢れた。一瞬の輝きの後、光は消えた。同時に、ずっと動き続けていた円盤が緩やかにその速度を落とし、停止した。
 響いていた音も失せ、部屋が静まり返る。
 そして、『霧』の巣の上端と下端が変色し、石になる。ゆっくりと、しかし着実に中心へ向けて石化が進んで行く。朽ちていくかのように装置の全てが石に変わる。
 言葉を発することができずにいるうちに、『霧』の巣はただの巨大な石となっていた。
「あ……!」
 ノアが声をあげた。
 パラ、と音がして上を見ると、石となった『霧』の巣の一部が剥がれて落ちてきていた。それを皮切りに、『霧』の巣が静かに崩れ始めた。石となった装置の 至る所が剥げ落ち、崩れ、壊れ、細かな破片となっていく。砂埃が舞い上がり、広い部屋の床に装置の欠片が降り積もる。装置は、元がどんな形だったのかさえ 分からないほど原型を留めず崩れ落ちた。
「大したものだな……『聖獣(ラ・セル)』の力はあんなに巨大な『霧』の巣を破壊するほどなのか」
 ガラが感心したように呟いた。
「テルマ!?」
 崩壊する『霧』の巣に目を丸くしていたノアが、不意に左手のテルマへ視線を落とした。
「……メータ?」
 ヴァンも違和感を抱いて、メータを見る。
 感情を押し殺しているような気がした。僅かに見え隠れするのは、悲哀、だろうか。
「テルマ、かなしいのか!? ノア、かんじるよ、テルマないてるよ……?」
 どうやらノアもヴァンと同様にテルマが抱いた感情に気付いたようだった。
 テルマもメータと同じように悲しみを感じていたらしい。
「ノアは敏感だね……でも、心配は要らないよ」
 テルマが優しい声で語りかける。
 その声はいつものテルマと同じにしか聞こえない。ただ、身に着け、心で繋がっているノアにはテルマの隠そうとしている感情が見えたのだろう。
「だって……」
 心配そうな顔で、ノアがテルマを見つめる。
「それよりも、これでドルク王領を覆っていた忌まわしい『霧』は消えたはずです」
 努めて明るい声で、メータが言った。
 ヴァンは何も言わずにメータを見つめていた。
「でも、安心はできないよ。この地にいかがわしい機械を置いた親玉が消えたわけではないからね」
「それに、他の地方では、まだ『霧』に苦しめられている人がいるわ」
 テルマが言い、オズマが続いた。
 確かに、『霧』の巣が自然発生したとは思えない。何者かが造ったものなのは間違いない。ここと同じように、他の地方にも『霧』の巣があるのだろう。
「ゼトーは最期に、コート様、と言っていたな……」
 腕を組んだガラが呟いた。
 死ぬ間際に、ゼトーはコートという名前を口にした。様、という敬称を付けていたところを見ると、恐らくはゼトーの上に立つ存在だろう。
「コート……」
 ノアが小さな声で名前を口にした。
 敵のトップに立つ者の名前なのか、単にゼトーの仲間の一人なのかは分からない。ただ、少なくともヴァンたちにとって敵であることだけは間違いないだろう。
 まだ、敵はいるということだけは確かだ。
「とりあえず、ここを出てから次のことを考えるべきだね」
 テルマが促す。
「確かに、こんな場所に長居は無用だな」
 ガラが頷いて、通路を引き返すように歩き出す。
 もうこの場所に用は無い。
「うん……そうだね」
 ノアもガラを追って歩き出す。
 一歩遅れて、ヴァンも歩き出した。
「……いいのか、メータ?」
 小さな声で、メータに囁く。
「はい、前に進みましょう、ヴァン」
 メータは静かな声で、そう答えた。
 言いたいことは分かっているはずだ。メータが隠そうとした感情に、ヴァンは気付いている。それでも、メータはそのことについて何も言おうとしない。何故 『霧』の巣を破壊して、悲しいと感じたのか。何に対して悲しみを抱いたのか、何故、その感情を隠そうとしたのか、隠そうと思ったのか。ヴァンが聞きたいの はそこだ。
 メータも、テルマも、恐らくはガラが気付いていないだけでオズマも、気丈に、いつも通りに振る舞おうとしている。『聖獣(ラ・セル)』にしか分からない何かがあったのは確かだ。
 けれど、それをメータたちは言おうとしない。ごまかして、はぐらかした。本当に何でもないことだったのかもしれない。それでも、気になった。
「……そうだな」
 小さく息をついて、ヴァンは優しく微笑んだ。
 何の事情もなく、隠し事はしないだろう。何かあるとしても、それはヴァンたちには関係のないことかもしれない。言いたくないなら無理に聞き出す必要もない。
 ヴァンの思いが伝わったのか、メータから温かな感情が返ってくる。感謝と、僅かな申し訳無さが伝わってくる。
 鉄板で出来た通路を、扉へと引き返す。
「……ん?」
 ふと、どこかで微かに、何か結晶のようなものが砕け散ったような、とても澄んだ音が聞こえた気がして、ヴァンは振り返った。
 けれど、そこには何もなかった。『霧』の巣がなくなり、ただ広いだけの空間があるだけだった。
「ヴァン?」
 扉の前まで辿り着いたノアがヴァンを呼ぶ。
 ガラが扉に手をかけて、開いているところだった。
「ん、ああ、今行くよ」
 不思議そうな顔で首を傾げるノアに、ヴァンは返事をして歩き出す。
 右手のメータが、ほんの一瞬だけ、震えた気がした。泣いているような気が、した。
 けれど、そのことについてヴァンは何も言わなかった。今はまだ、聞いてはいけないような気がした。
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