第十章 「夢からの道標」


 バイロン寺院を出発したヴァンたちは、川沿いに北上していた。川に沿って北へ進むと、セブクス群島へ繋がる洞窟がある。
 ドルク王領からセブクス群島に向かう道の中で、最も安全とされるのが洞窟を抜ける道だった。他の道としては、険しい山脈を越えるという手もあったが、洞 窟内にはドルク王領とセブクス群島の交易の中継地点のような場所があるとゾッブ老やハイアムから聞いていた。それは言わば宿泊場所であり、かつてはドルク 王領とセブクス群島とを行き来する人で賑わっていたらしい。
 『霧』によって交易が途絶えてから、その洞窟を確認した者はおらず、今そこがどのような状態になっているのかは行ってみなければ分からない。かつて交易に使われていた通路だとするなら、もしかしたら人がいるかもしれない。
 洞窟の前に辿り着いた頃には日が傾いていた。
 中に入ると、メータたちが淡い光を帯びて辺りを照らしてくれた。
「『獣(セル)』の気配はないようですね」
 周囲の気配を探ったらしいメータがそう呟いた。
「見ろ、明かりを灯していたらしい跡がある」
 壁面近くに歩み寄ったガラが声をあげた。
 見れば、壁や天井にはランプを設置していたらしい痕跡がある。火が消えて砂埃を被ったランプや、松明の残骸がそのまま残されていた。
 交易路に使われていたというのを証明しているかのようだ。人が行き来していた時には、洞窟内は明かりで照らされていたのだろう。
 『霧』が現れてから十年、野生動物や『獣(セル)』の怪物によって荒らされたと見るべきか。
「俺たちも松明持ってた方がいいかな?」
 松明の残骸を見て、ヴァンが呟く。
「どうだろうな……片手が塞がってしまうことになるが」
 ガラが腕を組んで答える。
 『聖獣(ラ・セル)』の力で視界を確保することはさほど難しいことではない。『聖獣(ラ・セル)』の装着による視覚強化も相まって、明かりがなくともさ ほど困ることはない。むしろ、敵対するものと遭遇した際、松明を持っている手が咄嗟に使えなくなってしまう。洞窟内ならまだしも、周囲に燃えるものがあっ たりすれば、下手に放り投げるわけにもいかない。
「荷物が増えるのも考え物か……」
 ヴァンは納得して、洞窟内を見回した。
 洞窟は途中で二つに道が分かれていた。一方は川沿いの道、もう一方はそこから分かれた道だ。
「あっち、とびらがあるよ?」
 ノアが分かれ道の方を指差して言った。
 ヴァンも目を凝らして見ると、分かれた道の先には岩壁があり、確かに扉が見えた。さすが洞窟の中で育っただけあって、ノアは暗い場所に目が慣れるのが早いようだ。
「まずはあっちに行ってみるか」
 ヴァンの言葉に、ガラとノアが頷く。
 扉があるということは、人がいた可能性がある。交易路として宿泊が可能だったことを考えると、生きている人もいるかもしれない。
 扉の前に立ち、そっと触れてみる。力を込めると、扉は僅かに軋んだ音を立てながらゆっくりと開いた。
「明かりが、ある……?」
 部屋の中に足を踏み入れたヴァンは目を丸くした。
 壁や天井には明かりが灯され、部屋は明るく保たれている。生活感のある景色が広がっていた。
「おや、はじめまして!」
 扉の音に気付いたのか、奥の方から一人の老人が現れた。
 老人とは言っても、まだ足腰もしっかりしており、声も見た目以上に若い。
「僕は風々老です。不思議なことに『霧』が晴れたので、ここでお客さんを待っていました」
 老人は軽い足取りでヴァンたちの前に出ると、まるで子供のような笑顔で名乗り、挨拶をした。
「ええと、ここは?」
「ドルク王領とセブクス群島を結ぶ交易路の休憩場所です。僕はここの管理人といったところです」
 ヴァンが問うと、風々老は笑みを絶やさずに答えてくれた。
「他に人はおられないのですか?」
「ここは僕一人で管理しています」
 ガラの言葉に、風々老は頷いた。
 どうやら、彼は十年間ここに閉じこもって『霧』が晴れるのを待っていたようだ。
「ただ、そこの道を先に進んで行くともう一ヵ所、中継地点があります」
 風々老はそう言ってこの洞窟について詳しく話をしてくれた。
 中継地点は二ヵ所あり、一ヵ所はここ風々老の管理する休憩地点、もう一ヵ所は洞窟のほぼ中央に位置する場所で、人が多いのは後者の地点らしい。
 『霧』が現れて十年間、風々老はこの休憩場所から出ることができず中継地点の様子を見に行くことができなかったようだ。道中の明かりも手入れが必要で、風々老はまだ中継地点の方を見てはいないらしい。
「そちらにも人が?」
 ガラが問うと、風々老は頷いた。
「僕と同じように扉を閉めて閉じこもっていればいいのですが……」
 少し心配そうな表情で風々老が答える。
 扉はかなり頑丈そうに見えた。洞窟内の休憩地点だけあって、保存食もかなり備蓄されていたようだ。それを少しずつ消費しながら生き永らえてきたのだろう。もちろん、この休憩地点の部屋の中でも何かしら自給自足はしていたのだろう。
「あ、何か必要なものがあれば買って行って下さい」
 物珍しそうに部屋の中を見まわっているノアを見て、風々老が微笑む。
「ええと、それじゃあ……」
 ここに来るまでの道中で消費した保存食や雑貨を補充し、ヴァンたちは先へ進むことにした。ここで一泊するにはまだ早い時間帯だ。
 風々老に尋ねると、今から次の中継地点まで行けば夜になるだろうとのことだった。
 風々老の休憩所を後にして、洞窟内を進む。『霧』がなくなり、『獣(セル)』が徘徊していないだけで随分と安全になっている。ランプなどの照明器具の中 には壊れてしまっているものもあったが、汚れているだけで綺麗にすればそのまま使えそうな状態のものもそれなりに見受けられた。
 メータたちの灯してくれた明かりを頼りに進んでいくと、やがて大きな扉が見えてきた。風々老の休憩所の扉よりも大きく、荷馬車などが通れるような大きさだ。ここが中継地点なのだろう。
 扉に触れて力を込めると、ゆっくりと戸が開き始めた。常人にはかなり重めの扉だったが、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァン達なら問題なく開けることができた。どうやら、『霧』がなくなったことで鍵を開けておいてくれたようだ。
「おやまあ!」
 扉の開く音が聞こえたのか、それとも入ってきたヴァンたちを見たのか、老婆の声が響いた。
 見れば、風々老と同じぐらいの年恰好と思しき老婆がやってきていた。
「これは十年ぶりのお客だね! 嬉しいよ! 嬉しいね!」
 ハリのある声で笑顔を浮かべる老婆に、ヴァンたちは顔を見合わせた。
「わたしゃ水々婆さ! ここで四十年も店をやってるんだけどね、人間のお客がきてくれたのは実に十年ぶりのことだよ! まったく嬉しいね!」
 生身の人間がやってきたのがよほど嬉しかったのか、水々婆は嬉々としてまくしたてる。
「さあ、中に入っておくれ! 疲れたろう、何も言わずに泊まっておくれ……」
 部屋を見渡すと、かなり広い造りになっている。水々婆が店をやっている、と言っていたのを裏付けるようにカウンターもある。荷馬車などを止めておくスペースも確保されており、風々老のいた休憩所と比べるとこちらの方が宿泊する場所という印象がある。
 見れば、水々婆の他にも人の姿があった。
「ええと……」
「ああそうだ、丁度食事の支度をしていたところだったのを忘れていたよ!」
 ヴァンが何かを言う前に、水々婆は思い出したように奥へと小走りで行ってしまった。年齢を考えたらかなり軽い足取りだ。
「げんきなおばあちゃんだね……」
 ノアが目を丸くしながら呟いた。
「十年間も『霧』で閉ざされていたのなら、気持ちは分からんでもないが」
 腕を組みつつ、ガラも苦笑を浮かべる。
 自力で『霧』から身を守っていたバイロン寺院や、どうにか集落としての形を保っていたリム・エルムと比べて、この洞窟はあまりにも狭く閉鎖的だ。本来な らば交易のために人の行き来があったのだろうが、それが途絶えて十年間も閉じこもるように暮らしていたのだと思えば、人の来訪は喜ばれるのも無理はない。
「とりあえず、話は夕食を食べながらにしようか」
 ヴァンは気を取り直して、水々婆が手招きしている方へと歩き出した。
 カウンターテーブルに食事が並べられていた。席についているのは、水々婆の他にはガラと同年代か少し上ぐらいの少女が一人と、十歳に満たないであろう男の子と女の子が一人ずつの三人がいた。
 少女は黒髪で、ピンク色の上着に白いシャツとスカートを着た、大人しそうな印象だ。短髪の利発そうな男の子と、金髪を赤いリボンで左右に纏めた女の子だ。
 少女と子供たちは突然現れたヴァンたちに少々警戒しているようだった。
「我らの分まで宜しいのですか?」
「遠慮なんていらないよ! 今日のわたしゃとても気分が良いのさ」
 ガラが問うと、水々婆は満面の笑みで頷いた。
 ヴァンが隣を見ると、料理を前にノアが目を輝かせてうずうずしていた。
「そういうことなら、ありがたく頂きます」
「いただきまーす!」
 ヴァンが言うと、ノアも続いて、食べ始めた。
 まだややぎこちなさはあるものの、ちゃんと食器を使えている。バイロン寺院やリム・エルムでエイミから作法を教わった成果が出ているのが目に見えて分かった。
「おばあちゃん、おいしいよ!」
「そうかいそうかい、嬉しいね! おかわりはあるからね」
 穀物と野菜を煮込んだスープを食べたノアが笑顔で言うと、水々婆は嬉しそうに答えた。
 食事を食べるノアの様子を見てか、子供たちの警戒心も緩んだ気がした。
「実は俺たち、『霧』を払う旅をしていて……」
 ヴァンは食事を頂きながら、自分たちのことを話すことにした。
 ドルク王領の『霧』がなくなったことや、これからセブクス群島の方へ向かうことなどを説明する。ヴァンたちが身に着けている『獣(セル)』についても軽く触れ、怖がる心配のないものだと話した。
「そうだったのかい、それはそれは……」
 水々婆が相槌を打つ。
 この中継地点も自給自足ができるようにはなっていたようだ。交易路の中継地点だけあって、数人が暮らすのに問題ないようになっているのだろう。
「先程、休憩所にも寄ってきたのですが、こちらも十年間閉じこもっておられたのですか?」
 ガラが問うと、水々婆は頷いた。
「最初はもっと人がいたんだよ、だけど色々あってね……」
 水々婆が遠くを見るように目を細める。
 『霧』がやってくる前は交易路ということもあってそれなりに賑わいのある場所だったようだ。ここに定住しているのは水々婆と数人だけだったようだが、人の行き来などで出入りはそこそこあったのだろう。
 それが『霧』と『獣(セル)』の来襲により、交易のための人の出入りは途絶えたのだ。十年前、『霧』に包まれた直後はここに残された人の数もこれだけではなかったらしい。
 ある者は外へ助けを求めて、ある者は外の様子を探ると言って出て行き、戻ってこなかった。戻ってきた者も中にはいたが、『獣(セル)』に攻撃されて助か らぬ傷を負っていたりなどで、結局命を落としてしまった。閉ざされていたが故、病に侵されても薬を用意できずに亡くなったりもしたのだろう。子供たちの親 もそう言った諸々の要因で彼らを産んだ後で亡くなり、孤児となったのを水々婆が育てているとのことだった。
「おばあちゃん、良い人でしょ?」
 食事の後、そんな話をしてくれた女の子が微笑む。
「ああ、とても良い人だな」
 ガラが頷く。
 自身も親を失っているガラには、水々婆がエイミと重なって見えたかもしれない。
「セブクス群島方面について何か知っている人は?」
 ふと、ヴァンはそんなことを訪ねた。
 ドルク城にて、レガイア大陸の地図は貰っているが、当然ながら行ったことのない場所だ。どんな町があるのか、どういう地域なのか、情報があれば欲しい。『霧』に覆われてから十年も経っているのだから、もしかしたら変わり果ててしまっていてあてになるかは分からないが。
「聞いた話だけど、この洞窟を抜けて北西の方向にジェレミって町があるらしいよ」
 男の子が答えた。
 ヴァンは荷物袋からセブクス群島地方の地図を取り出して、位置を確かめる。確かに、地図にはジェレミという町の名前が記されている場所があった。
「不思議な木がある空中庭園で有名な町だったらしいけど、今どうなってるかは分からないや」
 不思議な木、という単語にヴァンとガラは顔を見合わせた。メータたち『聖獣(ラ・セル)』も僅かに反応していた。
 もしかしたら創世樹かもしれない。行ってみる価値はある。地図上でも洞窟の出口から最も近い位置にある町だ。
「くうちゅうていえんってなんだ?」
 ノアが首を傾げる。
「そうだな……高いところに作った自然公園のようなもの、か?」
「たかいところ……?」
「建物の上とかね」
 ガラの説明に付け足すように、ヴァンが続いた。
 実際に見てみるまではピンとこないかもしれない。
「綺麗な町だったらしいけど、実際に行ったことないからね」
 男の子が苦笑する。
 彼の年齢を考えれば、『霧』が現れる前の世界を見たことがないのだから当然だ。話を聞いたのも、ここにまだ他にも人がいた時のことなのだろう。
「じゃあ、俺たちが『霧』を晴らすから、そしたら見に行けばいいさ」
「うん、楽しみにしてるよ」
 ヴァンが言うと、男の子は笑顔で頷いた。
「頼もしいことだね」
 片付けを終えた水々婆が話の輪に加わり、雑談が続いた。
「何も言わずに泊まって行っておくれ。今日だけはサービスするよ」
 話が一段落したところで、水々婆が言った。
 本来は宿屋として代金を取るところだろうが、気を良くした水々婆は無料で泊めてくれるようだ。
 ヴァンたちはありがたく宿を借りることにした。遠慮してもこれまでの様子から水々婆は恐らく代金を受け取ってくれないだろうと思えた。
 そうして、丁寧に整えられたベッドで眠りについた。
 そのはずだった。
 気が付くと、ヴァンは見たこともない場所に立っていた。
 丁寧に舗装された石の地面には、ところどころにある隙間から伸びたであろう雑草が見受けられる。正面にはレンガ造りの大きな建物があった。建物の左右に は巨大な階段があり、建物の上階へ直接上れるようになっているようだ。その建物や階段に面した地面から、雑草や草、蔦などが伸びて絡み付くように伸びてい て、どこか寂びれた印象を与えている。周りに見受けられるレンガ造りの建物群にも、同じように草や蔓が絡み付いている。
 かなり立派な町だったように思えたが、人の気配がまるでなく、とても静かな場所だった。風さえなく、物音一つ聞こえない。
 周りを見回せば、ノアとガラの姿もある。
「ヴァン! ノア!」
 ガラもヴァンとノアに気付いたようで駆け寄ってきて声をかけてくる。
「ううう……! ここ、どこだ!?」
 異様さを感じ取ったのか、ノアが不安そうに周りを見回す。
「……もしかして、俺たち夢の中にいるのか?」
 ヴァンは周りを見て、地面に手で触れ、呟いた。
 手に返ってきた感触は、普通ではなかった。確かに、そこには地面があると分かるのに、その感触には現実感がまるでない。何とも不思議な手応えだ。
 風もなければ虫や鳥の音も聞こえないどころか生物の気配そのものが感じられない。
 自分が眠りについたことは憶えていたから、ヴァンはそう結論付けた。
「なるほど……、確かにこれが夢だとすれば、いつもと違う感覚がするのも頷ける」
 ガラも地面や階段の壁面に触れながら頷いた。
「ただ、これが夢だとして何故俺たちがここにいるんだ?」
「分からない……メータとも話ができないみたいだ」
 ガラの問いはヴァンに向けられたものではなく、疑問をただ口にしただけに聞こえた。それでも、ヴァンは返事をせずにはいられなかった。
 自分の右腕には『聖獣(ラ・セル)』がある。だが、そこにメータの気配はなかった。メータの瞳にも光が感じられない。メータの意識はヴァンと共にこの場所には来ていないということだろうか。
 だとすれば、目の前にいるノアとガラはヴァンの夢が造り出した夢の中の存在なのだろうか。それとも、この夢の中に三人の意識が集められていて、ここにいるノアとガラは現実の二人の意識と繋がっているのだろうか。
「……ノア?」
 ふと、ノアが不思議そうに周りを見ている。まるで何かを探しているかのようだ。
「こえがきこえる……」
「声?」
 ノアの返事に、ヴァンは周りを見回す。
 彼女の口ぶりから、ヴァンとガラの声ではないのだろう。
 ヴァンとガラが耳を澄ましてみると、確かに何者かの声を感じた。ともすれば雑音とも取れるような、微かな声は、空気を震わせて耳に届くような普通の声とは異質なものだった。
 意識に直接語りかけてくるかのような、それでいてメータたち『聖獣(ラ・セル)』のような声ともまた違う、何とも不思議な声だった。
 声は徐々に大きくなり、はっきりと聞き取れるようになるまでそう時間はかからなかった。
「我が名はハリィ!」
 声がはっきりしたと思った瞬間、それはそう名乗った。
 と同時に、正面にある大きな建物の二階の辺りから光が飛び出して宙に浮かび上がった。
「ハリィ……?」
 ガラが眉根を寄せる。
 聞いたことの無い名前だ。
「夢の世界と人間の世界、二つの世界に生きる者!」
 その問いに答えるかのように、声の主ハリィははっきりした口調で告げた。
 声は光から聞こえてくるように感じられた。
「人間の世界で『聖獣(ラ・セル)』と共にある者に、我が言葉を告げたい!」
 声に敵意は感じられなかった。
 人の世界で『聖獣(ラ・セル)』と共にある者というのは、まず間違いなくヴァンたちのことだろう。
 ヴァンたちが見つめる中で、ハリィは言葉を続ける。
「レムの真なる言葉を告げたい!」
 時の支配者レムの名前が出たことに、ヴァンは驚いた。
 リム・エルムの葬儀の時に良く出てくる神の名前の一つだ。そのレムの真なる言葉とはどういう意味なのだろう。
「セブクスの中央、遥かなる久遠の古都、オクタムを目指すのだ!」
 ハリィは続ける。
「すべての夢の真なる意味を心ある人間に告げよう!」
 光が一際強く輝きを放ち、ゆっくりと空へと昇って行く。
 ヴァンたちはただその光を見上げていることしかできなかった。
「ハリィ……」
 ガラがその名を呟く。
「ハリィがゆめのことおしえてくれる……?」
 昇って行く光を見上げて、ノアも呟いた。
 光から視線を外すことができない。遠くへ消えていく光と共に、ゆっくりと意識や感覚が遠のいて行く。視界が暗く、歪んで行く。その自覚さえないまま、ヴァンたちの意識は途切れた。
 気が付けば、ヴァンはベッドの上にいた。
「ここは……」
 元々いた場所だ。昨日、眠りについた場所だ。ドルク王領からセブクス群島へ続く交易路の中継地点、水々婆の洞窟だ。
 身を起こし、手をついたベッドの感触は確かなものだった。先程までとは違い、はっきりとした現実感がある。
「メータは、夢を見たか?」
 小さく、そう問いかけてみる。
 ヴァンは昨日見た不思議な夢のことをはっきりと憶えていた。あの時、ヴァンの右腕にはメータの気配がなかった。『聖獣(ラ・セル)』はついていたのに、メータの存在感はなかったのだ。
「夢、ですか?」
 唐突な質問に、メータが困惑したような返事をする。
「ああ……もしかして『聖獣(ラ・セル)』は夢を見ないのか?」
「そういうわけではありませんが、人間が見る夢というものとは私たちの見る夢はもしかしたら根本的に異なるものなのかもしれません」
 ヴァンの言葉に、メータが答える。
 人間たちが見る夢と、『獣(セル)』が見る夢とは、言葉や概念は似通っていても本質的には異なるものなのかもしれない。
 少なくとも、ハリィという存在に声をかけられる夢を、メータは見ていないようだった。
 ヴァンがベッドから出たところで、ガラも目が覚めたようで、身を起こした。ほぼ同時に、反対側のベッドで眠っていたノアが寝返りを打った拍子にベッドから落ちるのが見えた。
「みゃっ!?」
 どすん、という音と小さな悲鳴が聞こえて、ノアがベッドの上に顔を出した。
「おはよう、ノア」
 ヴァンは苦笑しながら声をかけた。
「大丈夫か?」
 目を丸くしているガラに、ノアはまだ意識がはっきりしていないのが頭をゆらゆらさせていた。寝るために解いていた髪が頭の動きに合わせて揺れている。寝癖がついたのか、二、三本毛が跳ねていた。
「おはようー」
 そうして目を擦りながら、ノアが立ち上がる。
「んー……!」
 思い切り背伸びをしたところで、意識がはっきりしたのか、いつものノアの表情に戻った。
「ところでヴァン、ノア、あの夢……」
 ベッドから出たガラがヴァンとノアを見て口を開いた。
「……ガラも見たのか?」
 夢、という単語で思い当たることがあることは一つしかない。ヴァンが見た夢と全く同じものなのだろうか。
「見たことの無い場所にいて、ハリィと名乗る光と声に語りかけられる夢だ。ヴァンとノアも見たのか?」
「みたよ! ハリィがゆめのことおしえてくれるっていってた!」
 ガラの言葉に、髪をゴム紐でまとめながらノアが驚いたように声をあげる。
 ノアの一言でヴァンは確信した。昨日、三人が見た夢は同じものだ。全く同じ夢をそれぞれが見ていたのか、あるいは一つの夢に三人が繋げられていたのか、それを確かめる術はない。ただ、ヴァンがハリィから聞いたのと同じ内容をノアとガラも聞いたというのは確かだった。
 となると、あの夢はハリィによって見せられたものということになる。
「ハリィに会ってみるしかないな」
「そうだね、ヴァン!」
 ヴァンの言葉に、ノアは元気よく頷いた。
 ハリィという声の主が何者なのかは分からない。ただ、『霧』に覆われたこの世界で『聖獣(ラ・セル)』と共にあるヴァンたちに語り掛けてきたのには何かしらの理由があるはずだ。
 ヴァンはベッドの傍に置いておいた荷物袋から地図を取り出した。セブクス群島地方の中心付近の島には、オクタムという名前の町の存在が記されていた。
「ひとまず、近くにあるジェレミが次の目的地だけど、道なりに進んでいけばオクタムにも辿り着けそうだな」
 三人で地図を覗き込みながら、ヴァンは言った。
 セブクス群島も『霧』に覆われていることを考えると、中央に位置するオクタムも『霧』に包まれていることが予想される。そんな中、オクタムに向かえと言ったからには、そこにハリィがいるということだろうか。少なくとも、ハリィに繋がる何かはあるのだろう。
 『霧』についても、創世樹の位置についても、ヴァンたちが持っている情報は少ない。不思議と、ハリィの声からは敵意が感じられないことから、会いに行く価値はあるだろうと思えた。
「あら、もう目が覚めたのね。朝ごはんの用意、できてるわよ」
 寝所のヴァンたちの様子を見に来たらしい少女が声をかけてきた。
「ごはん!」
 ノアが目を輝かせて少女の方へと駆け出した。
 ヴァンはガラと顔を見合わせ肩を竦めて苦笑を交わすと狩り装束のジャケットを掴んで腕を通しながらノアの後を追った。
「あなたたちは夢をよく見る人?」
 食事の席で、黒髪の少女がそんなことを聞いてきた。
「さっき呼びに行った時、夢の話をしていたように聞こえたから」
 ヴァンたちが疑問を口にする前に、少女が理由を説明した。
 どうやら、夢がどうの、と言っていたのが聞こえたらしい。
「まぁ、そうだね。夢は見る方かな。ノアは特に多いかも」
 ヴァンがそう答えると、少女が僅かに笑みをみせた。
「そうなの、嬉しいわ。私も夢を良く見るのよ」
 自分と同じように夢を良く見る人だというのが嬉しいようで、少女は話を続ける。
「夢は未来を教えてくれる……。あなたたち、夢が教えてくれる未来を知りたいと思ったことは?」
「ふむ、確かに夢が何を示しているのか、知りたいと思うことは多いな」
 ガラが頷いた。
 地方によって差はあれど、夢は未来だけでなく、過去や今現在でさえ映し出すと言われている。夢には意味がある、という話はどこにでもある。意味深な夢を見た時、それが何を示しているのかを知りたいと思うのは当然かもしれない。
「やっぱり、夢は気になるものよね」
 少女は笑って、言葉を紡ぐ。
「セブクス群島のどこかには、夢の中に生きてる人がいるらしいの。ハリィって名前の人だけど……」
「ハリィ!」
 その名前が出た瞬間、ヴァンの隣で食事をしていたノアが声をあげた。
「ノア、ハリィしってる! ハリィはほんとうにゆめのことおしえてくれるのか!?」
 机から身を乗り出す勢いで、ノアが少女に問う。
「え、ええ……。おばあちゃんが教えてくれたわ……」
 ノアの勢いに戸惑いつつも、少女が頷く。
「そうさね、その話をしたのはあたしだよ。それも人づての話なんだけどね」
 水々婆も頷いた。
 十年間閉ざされていたこの場所での楽しみの一つは水々婆のお話だったそうで、その中の一つとしてハリィの話があったようだ。と言っても、水々婆自身がハリィと会ったことがあるわけではなく、交易が盛んだった頃にセブクス群島からの行商人から聞いた話のようだ。
「オクタムだね!? ハリィはオクタムに、オクタムにいるんだね?」
「落ち着け、ノア」
 少し興奮した様子のノアをガラが苦笑を浮かべつつ宥める。
「オクタム……? ごめんなさい、私、外の世界のことは良く知らないから……」
 少女が苦笑を浮かべる。
 オクタムという地名があるかどうか知らないというよりも、オクタムにハリィがいるかどうかを知らないという言い方だった。彼女の年齢的に、『霧』に覆わ れる前の世界を知ってはいてもあまり憶えてはいないだろう。仮に憶えていたとしても、そこまでの情報を持っていたかどうかは分からない。彼女がオクタム、 あるいはオクタムに近い場所に住んでいたというわけでもないようだ。
「ううううう……」
 落ち込んだのか、真偽が分からなくて悔しいのか、ノアが唸るような声をあげる。
「ヴァン! ノアはきめた!」
 かと思った次の瞬間には、ノアはヴァンの方を見てはっきりした声で言った。
「ノアはハリィをさがす! ヴァンもいっしょにハリィをさがしてくれるか!?」
 決意に満ちた表情のノアを見て、ヴァンはくすりと笑った。
「もちろん、俺だってあの夢のこと、知りたいからな」
 ヴァンが答えるや否や、ノアはヴァンに飛び付いて喜んだ。
「うれしい! ノアはうれしい! ヴァン、ありがとう!」
「うわっ!」
 その勢いでヴァンは危うく椅子から転げ落ちるところだった。
「元気なお嬢さんだねぇ」
 水々婆は微笑ましそうな表情でノアを見つめ、そう言った。
「ハリィは時の獣神、レムさまの生まれ変わりって話もあるわ」
「ふむ、それも確かめたいものだな」
 少女の言葉に、ガラはノアに抱き着かれているヴァンを見て苦笑を浮かべながらそう言った。
 ハリィがヴァンたちに声をかけてきた理由も、ハリィ本人に会えば分かるのだろう。夢のことを教えてくれるという話が本当であれば、両親のことを夢に見るノアにとっては、両親に繋がる手掛かりを掴めるかもしれない。
 創世樹の位置や『霧』の巣の場所がはっきりしていない今は、手当たり次第にセブクス群島地方を巡ってみるしかない。オクタムに行かないという理由は見つからなかった。
 そうして食事を終えたヴァンたちは先へ進むことにした。
「久しぶりのお客さんがきてくれて、話もできて楽しかったよ」
「食事などを頂いた上、代金も要らないとは、何だか申し訳ない」
 見送りにきてくれた水々婆たちにガラが頭を下げる。
「もう行っちゃうの?」
「早く『霧』を晴らしたいからな」
 名残惜しそうに聞いてくる男の子に、ヴァンは笑って見せた。
 まだ『霧』に覆われている地域は多い。ドルク王領に近いこの場所は『霧』が晴れたが、ここから先に進めばまた『霧』が出てくるはずだ。
 この子たちだけではない、聞いた話だけで見たことも行ったこともない場所に、行きたいと思った人誰もが行けるように『霧』を晴らしたい。ここの子供たちと話をして、そんな思いが一層強くなった。
「ごはんおいしかったよ!」
 ノアが笑顔で言うと、水々婆は嬉しそうに微笑んだ。
「そうかいそうかい嬉しいね。だったらこいつも持って行っておくれ」
 水々婆はそう言って小さな包みをヴァンに差し出した。
「久しぶりのお客さんだからね、手ぶらで行かせちゃ悪いと思ってね」
「すいすいばあ、なんだこれ!?」
 ヴァンが受け取ると同時に、ノアが聞く。
「簡単だけどお弁当さね。今日のお昼にでも食べるといいよ」
「お心づかい、かたじけない」
「お弁当まで……ありがとうございます」
 ガラと共にヴァンも頭を下げる。
「いいってことだよ。それじゃ、気を付けて行きなさい」
「うん! おばあちゃんもげんきでね!」
 穏やかな笑みで見送ってくれる水々婆たちに笑顔を返し、ヴァンたちは歩き出した。ノアも笑顔で手を振りながら歩き出す。
 大扉が閉まる音が聞こえると、『聖獣(ラ・セル)』達が再び周囲を照らしてくれた。メータたちの明かりを頼りに、洞窟を進んでいく。ここまで来た時と同様に、多少荒れている。
 遠くに出口らしい光が見えた辺りから、薄らと視界に『霧』が現れ始めた。
 空気が少しずつ重くなっていくような感じがして、ヴァンは気を引き締める。ノアとガラも同じように、表情が引き締まっていた。
 やがて洞窟から外に出ることができた。
 日の光の明るさに目を細め、空を見上げる。天気は良いようだが、どこを向いても視界には『霧』が映る。
 あらためて、世界にはまだ『霧』があるのだと実感する。同時に、これを晴らさなければ、とも思う。
 ヴァンは地図を取り出し、現在位置をもう一度確かめる。
 今いる交易路の洞窟はセブクス群島地方の最南端に位置する山脈に面している。セブクス群島は群島と言うだけあって、大小様々な島々によって構成されている。島同士が最も近くなる場所には大きな橋が架けられていて、それらの橋によってそれぞれの島は繋がっている。
 レガイア大陸の全体から見れば、南のドルク王領と、北北東にあるカリスト皇国地方が大きな大陸となっていて、その二つの大陸の間にある島々がセブクス群 島と呼ばれる地方だ。それぞれの島が比較的近い位置に密集しているため、大きな橋をかけることで一つの地域として成り立っている。
 広さとしては、島一つ一つは大小の差はあれど、陸地としては小さなものだ。だが、密集している島々すべてを含めた地方としての大きさはドルク王領よりも広い。
「この距離だとジェレミに辿り着くのは明日になりそうだな……」
 地図を覗き込んだガラが呟いた。
 今日中にジェレミへ辿り着くのは難しそうだ。どこかで野宿をして、到着は明日の昼頃といったところだろうか。
「ヴァン、みずがすごいいっぱいあるよ」
 ノアが遠くを指差して声をあげた。
 目を凝らせば、『霧』の向こうに薄らと海が見える。その先に島があるのも見間違いではないだろう。
「そう言えばノアは海見てなかったっけ」
 リム・エルムに立ち寄った際、子供たちと遊ぶのに夢中になっていて、ノアは浜辺に行っていなかったようだ。
「あれが海だ」
「うみ……」
 ガラが言うと、ノアは感心したように呟いた。
「『霧』さえなきゃもっと綺麗なんだけどな……」
 ヴァンは苦笑して、地図をしまうとジェレミの方へ向かって歩き出した。
 ドルク王領との交易があったこともあり、洞窟からは道が伸びている。と言っても、そこまで整備された道ではない。地面がならされているぐらいで、交易の 馬車や通行人が歩き易くなっている程度に過ぎない。最も近い町がジェレミであることを思えば、道なりに進んで行けば迷わずにジェレミまで辿り着けそうだ。
 十年も間人通りがなかったせいか、道には雑草が生えていたりしたが、まだ道としての形は残っている。かなり広めにならされているところを見ると、途切れているということもなさそうだ。
「空中庭園の不思議な木、というのが創世樹ならば良いんだがな」
「可能性は高いと思う」
 歩きながらのガラの言葉に、ヴァンは言った。
 覚醒前も覚醒後も、創世樹には普通の樹木とは異なる神秘的な何かを感じる。それを不思議な木、と表現するのは自然なことに思えたのだ。逆に、不思議な木、と聞いて創世樹以外が思い浮かばない。形状などが特徴的なだけの普通の木、という可能性ももちろんあるが。
「くうちゅうていえん、みてみたいなー」
 ノアは空中庭園というものに興味を持ったようだ。
「まぁ、俺も見てみたいけどね」
 言葉や意味は知っていても、ヴァンも実物を見たことがあるわけではない。
 有名だったというからにはそれなりに綺麗なものなのだろう。外の世界を見てみたいという思いを持っているヴァンとしても興味があるものだ。
「情報が少ないからな、確証はなくとも行ってみなければな」
 ガラも頷いた。
 ドルク王領と違い、セブクス群島やカリスト皇国に関しての知識はほとんどない。気になることがあればとにかく行って確かめるしか手がないのも事実だ。
 『霧』の中で町がどうなっているのかも気になる。
 まずはジェレミに向かい、道なりに町を確認しながらセブクス群島の中心の島にあるオクタムを目指すということで意見が一致した。
 道中の野生動物や『獣(セル)』を倒しながら、ヴァンたちは進む。
 昼を過ぎた辺りで、水々婆から貰った弁当の包みを開けた。中にはごはんを固めて作ったおにぎりが六つ入っていた。一人二つということなのだろう。
 中には味付けされた野菜などが入っていた。
「さすがだな……返しに行かなければと思うようものが入っていない」
「言われてみれば……」
 感心したようなガラの言葉で、ヴァンは気付いた。
 器などような、かさばってしまうものや返しに行かなければと思うようなものは入っていなかった。包みに使われていた布だけなら邪魔にはならず、旅の途中でも色々な用途として使うことができる。
 さすがは旅人や商人が行き交っていた交易路の中継地の管理人というところか。
 手に持って食べられるものであったことも踏まえると、実に考えられている。
「おいしー」
 ノアはそんなことよりも食事を楽しんでいた。幸せそうにおにぎりを頬張っている。
 もちろん、おにぎりは美味しかった。
 これから先、まともに料理された食事にありつける機会は減るだろう。それを考えると貴重な食事だ。
 食事を終えた三人は再び道なりに進む。
 日が傾き、沈もうとしているところで、前方に大きな橋が見えてきた。ドルク王領と繋がっている陸地から群島へと繋がる最初の橋だ。
「橋の上だと夜は冷えそうだな……」
「じゃあ、今日はこの辺で休むか」
 橋の手前まで来た時には、日は沈んでいた。
 ガラの言葉にヴァンはそう答えて、周りを見渡して丁度良く雨風を凌げるような場所を探した。
 近くに生えていた木々の下に移動し、石と木の枝を集めて焚き火を熾した。
「メータがいてくれるとこういう時助かるよ」
 火炎の力を得意とするメータの存在はこういう時にありがたい。特に道具がなくても火を熾せるし、消すことも簡単だ。もっとも、今なら、テルマやオズマもこれまでの戦いの中で吸収した『獣(セル)』の力で火ぐらいは熾せるだろう。
「昔は通常の『獣(セル)』で火を熾したりもしていたのだろうな」
 ヴァンの言葉を受けてか、ガラが呟く。
 恐らく、群島の島同士を繋いでいる橋も『獣(セル)』の力を利用して建造したものなのだろう。この世界にある多くのものには『獣(セル)』が関わっている。日常生活の中で『獣(セル)』の力を借りることは多く、そしてそれが当然でもあった。
 それが『霧』によって引っくり返された。日常として『獣(セル)』に頼ることの多かった町や人々が、いきなり『霧』に晒されればひとたまりもなかっただろう。
「わるいのはきりだってテルマがいってた」
 焚き火で焼いた肉をかじりながら、ノアが言った。
 『獣(セル)』自体に善悪はない、というのは以前、メータたちが言ったことだ。
「『霧』について、何か分かればいいんだけどな」
 ヴァンは小さく溜め息をついた。
 結局、何を考えるにしてもそれが分からないことにはどうしようもない。『霧』とは一体何なのか、どこから、どのようにして発生したのか、分からないことが多過ぎる。
 ただ一つ分かっているのは、『霧』の巣という装置によって『霧』が生み出されていることと、それが何者かによって造られたものである、ということだけだ。
 そして同時に、『霧』の巣を造り、『霧』を広げようとする、『霧』に与する者達がいるということだ。
 対抗する手段は『聖獣(ラ・セル)』と創世樹しかない。その創世樹がどこにあるのかも手探りだ。
 ヴァンたちが先手を取るのは難しい。それでも、やるしかない。ヴァンたちに選べる手段はあまりにも少ない。
「でも、やれることをやっていくしかないよな」
 この世界から『霧』を払う風になりたい。リム・エルムで聞かされた父親の言葉を受けて、ヴァンはそう思うようになっていた。
 夜間の警戒はメータたち『聖獣(ラ・セル)』に任せ、ヴァンたちは寝袋で眠り、一晩を明かした。
 翌朝、目を覚ましたヴァンたちは保存食などで朝食を取ると焚き火の跡を片付けて、橋を渡った。橋は頑丈にできているようで、所々柵などが欠けていたり小 さな破損などはあっても、行き来する分には何の問題もなかった。老朽化していないか少し不安もあったが、『獣(セル)』の力を用いてかなりしっかり造られ ているようだ。
「すごーい! うみのうえにいるよ!」
 ノアは橋の上から見える景色にはしゃいでいる。
「『霧』があるとどうもいい気分はしないな」
「俺たちで晴らせば『霧』の無い景色も見れるさ」
 ヴァンが苦笑すると、ガラが小さく笑った。
 橋を越え、群島を構成する島の一つに上陸する。道が二手に分かれていたところで地図を見て、ジェレミの方角へと進む。やがて、小さな岩山が見えてきた。
 地図によれば、ジェレミは小高い岩山に囲まれた町のようだ。
 近付くにつれて、岩山から飛び出しているかのように何かが見えてきた。どうやら岩山に囲まれたジェレミの町にあるもののようで、進むに連れてそれが何なのか輪郭がはっきりしてくる。
 周りを囲う岩山が途切れている場所が見える場所まで辿り着くと、そこから町が見えた。窪地になっているような場所に作られた町だ。その中央に、遠目からでも分かるような高い塔が建っていた。塔は周りを囲う岩山よりも高く伸びており、その最上部は広くなっている。
 ジェレミには辿り着いたのは昼過ぎだった。
「あれが空中庭園か……?」
 ガラが塔を見つめて呟いた。
 確かに、周囲の地形よりも高い塔があり、その上に庭園があるというのならば有名になりそうだ。
 町自体は岩山に囲まれ、岩ばかりの起伏のある窪地となっている大地に、平地になるよう土や岩を土台として盛った上に住居を建てているようだ。家屋などの 建物や人が行き来するであろう通路や敷地の部分だけが綺麗に整地されており、そうでない場所の地面は一段低くなっていて剥き出しの岩肌が見えている。
 家屋や建物の壁は石造りのようだ。ここでは四角い箱のような形状の建物が一般的らしい。
 町の入り口近くには建て看板があった。
「世界の驚異! 夢の花園! ようこそ! 空中庭園のジェレミへ! か……」
 看板に書かれた文字をヴァンは読み上げた。
 下の方にやや小さく、ジェレミ観光協会と署名されている。どうやら、空中庭園が有名な観光地だったのは事実のようだ。
「ヴァン! きりでみんなかいぶつになってるよ!」
 町の中の方を指差して、ノアが声をあげた。
 見渡せば、確かに『獣(セル)』に取り付かれて怪物化した住人たちがうろついているのが見えた。
「ノア……創世樹を感じるよ!」
「ほんと!?」
 テルマが言い、ノアの表情が明るいものになる。
「創世樹があるということは、それを目覚めさせればこの町が蘇るということだな」
 腕を組み、ガラが頷く。
「創世樹は町の中、とても高いところにあるようです」
 ヴァンが場所を聞く前に、オズマが言った。
 やはり、水々婆の洞窟の男の子の話にあった空中庭園にある不思議な木というのが創世樹と見て間違いない。
「じゃあ、あの上に……」
 言いながら、ヴァンは町の中央に立つ高い塔を見上げた。
 周りの岩山も含めて、この窪地の町には草木がほとんど生えていない。となれば、ここからでは見えない塔の上にあるであろう空中庭園しか創世樹があると思われる場所はない。
 町の周囲を囲んでいる岩山も、山としてはさほど高いものではない。ただ、それでも頭一つ飛び出たような高さに造られた塔にはどこか圧倒されるものがある。
「わくわく! ヴァン、いこう! たかいところにいこう!」
 ノアは目を輝かせて、塔を指差した。
「うむ……そうだな」
 ガラも塔を見上げ、頷いた。
 ヴァンたちは整地された地面を、町並みに視線を巡らせながら歩いて行く。
 『獣(セル)』の怪物となった住人たちが低く苦しそうな唸り声を上げながら彷徨っている。その表情は暗いものばかりだ。
「メータ、『獣(セル)』に取り付かれていない人の気配は?」
「……ありません。どうやら、ここの人たちはすべて『獣(セル)』に支配されてしまっているようです」
 ヴァンは眉根を寄せ、目を細めて僅かに奥歯を噛み締める。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているから襲われる心配はなさそうだが、見ていて気持ちの良い ものではない。ドルク王領や『霧』が入り込んだバイロン寺院で見た『獣(セル)』に取り付かれた人たちと同じだ。重苦しい『霧』の空気も相まって、不愉快 さが強くなる。無意識のうちに、ヴァンは両の拳を握り締めていた。
 助けなければ、という使命感だけではない。助けたい、という思いがヴァンの中で強くなっていく。
 塔の建物は根元にあたる部分が広い構造になっていた。どうやら、集会所として使われていたような場所だったらしい。大きな部屋にはいくつものテーブルや 椅子が並んでいて、部屋の隅にはグランドピアノが置かれている。飲み物が用意されていたであろう棚やカウンターもある。どれも埃を被っていて、長年使われ た形跡は無い。ビンや食器が割れたような跡も見受けられた。椅子の中には倒れているものもある。
 この町に『霧』が来たのは突然のことだったのかもしれない。
 とはいえ、逃げたり避難するとしても、どこへ行けば良かったのか分からない。そもそも、『霧』が危険なものだと伝わっておらず、何が何だか分からないうちに『霧』に覆われてしまった可能性もある。だとすれば、備えるも何もない。
 大部屋の奥にある扉を開けると、同じぐらいの大きさの部屋に出た。ただ、この部屋は先の部屋とはだいぶ印象が違う。赤茶けたレンガが敷き詰められた床に、灰色の石壁と天井で覆われた部屋だ。
 部屋の中央には大きな筒のようなものがある。
 『霧』の巣で見た昇降装置に似ているようにも見えた。
「高速エレベータ……?」
 近付いてみると、スライドドアのようになっている場所の壁にそう文字が書かれていた。昇降装置を指す言葉だろうか。
「どうやら動かないみたいだな」
 ガラが隙間に手をかけたり押したり引いたりと色んな場所を触ってみたが、扉らしい場所は全く動く様子を見せない。
 『霧』が来る以前は動いていたのだろう。
「ヴァン、あっちにもドアがあるよ」
 ノアが部屋の隅を指差した。
 部屋の角になっている場所には迫り出している部分があり、ノアの言う通りドアがあるようにも見えた。
 近付いて触れてみると、左右に滑るようにドアがスライドした。ドアの向こうには螺旋階段が続いていた。どうやら昇降装置が動かなくともこの塔の四隅に造られた階段で上に向かえるようだ。
「ここから上に行けそうだな」
 ヴァンはノアとガラと共に階段を上り始めた。
 一定の高さを上がる毎に扉があり、どうやら途中の高さから外を眺められるようになっているらしい。
「しかし、これは普通の人では上るのにも一苦労だな……」
 延々と続く階段を上りながら、ガラが呟いた。
 『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンたちにとってはまだ何ともないが、そうでない者にはこの階段で塔の最上階まで行くのはかなり厳しいものがある。
「確かに、これならエレベータってのが必要なのも頷けるな」
 ヴァンも小さく息をついた。
 普通に上り続けていたら並の人間では息が上がってしまうだろう。『獣(セル)』などで筋力や持久力などが強化されていなければ階段で上っていては日が暮 れてしまいそうだ。自動で、しかも階段以上に素早く上り下りできる装置でもなければ、綺麗な庭園があるとはいえさすがに不便だ。

 かなり上ったところで、階段が崩れて途切れてしまっていた。

「む、この階段ではこれ以上は行けないか」
 ガラが溜め息をつき、直ぐ近くにあった扉から塔の階層に出る。崩れていない階段を探して上に向かうしかなさそうだ。
「ヴァン、ガラ、みて!」
 と、ノアが天井から木の根や蔓、蔦が生えていることに気付いた。壁を伝うように伸びているものもある。頂上にあるという庭園の草木から伸びているものだろうか。だとしたら最上階はもう直ぐだ。
 階段が途切れ、最上階と思われる部屋に辿り着くと、それまで全く扉のようなものがなく柱のようになっていた中央のエレベータに扉が付いているのが見え た。そのエレベータの隣に何やら装置が備え付けられていた。レバーのようなものを動かすと、エレベータの扉に描かれている紋様に光が走るのが見えた。
 ガラが扉に手を触れると、静かにドアが開いた。『霧』の巣のエレベータと違うのは、こちらの方が個室のようにしっかりと造られている印象があるところだろうか。
「なるほど、これで普段は行き来していたんだな」
 納得したようにガラが呟いた。
 周りを見回すと、部屋の隅にある階段とは別に中央のエレベータの扉と向かい合う位置の壁に扉があるのが見えた。その隙間から光が差し込んで来ていることから、その先が外に繋がっているのだと分かる。
「あそこから屋上に出られるみたいだな」
 ヴァンが扉に向おうとした時、部屋の隅の方に下半身が鉱石でできた植物のようになっている『獣(セル)』の怪物が見えた。その上半身は人間の女性で、『獣(セル)』に支配された住人のようだった。
 一瞬、ヴァンと目があった。怯えたような表情と、光を失った鉱石のような瞳の奥に、悲しみが見えた気がした。
「待ってろよ、直ぐ助けてやるからな……!」
 扉を開け、ヴァンは太陽の光に目を細めながら屋上へと足を踏み出した。
 握り締めた右手に、確かな熱を感じながら。
BACK     目次     NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送