第十一章 「空中庭園のジェレミ」


 庭園に辿り着いた時には、日が傾いていた。
 屋上に出たヴァンの視界には『霧』に包まれた空が見えた。正面には柵があったらしい形跡だけが残っている。さすがに町を囲む岩山よりも高い位置にあるだ けあって、水平に見回せば『霧』しか映らない。町の方を見下ろしても、『霧』が邪魔をして微かに地上が見える程度だった。
 塔の屋上はそのすべてが空中庭園になっているようだった。
 地上の町とは打って変わって、草木が生い茂っていた。十年以上も人の手が入っていないこともあって、さすがに多少荒れているようにも見える。
「うわー、すごいたかい……!」
 縁に座り込みながら下を覗いたノアが目を丸くしながら呟いた。
「なるほど、確かに凄いな……」 
 周りを見回して、ガラも感嘆する。
 空中庭園は基部にあった一階の集会所よりも広くなっているようだ。多くの人が訪れても不思議ではない広さのように感じる。
「これだけのもの、良く造れたな……」
 ヴァンも驚いていた。
 これも『獣(セル)』を用いて建造されたものなのだろう。
 地上のジェレミの地面には草木がほとんど生えていなかった。この場所自体がそういう土地なのだろう。だが、空中庭園の土はジェレミの土とは質が異なっているようだ。別の場所から持ってきたものなのか、あるいは元々草木が生えていた場所だったのかは分からない。
 ただ、ジェレミという町は庭園を塔の上に持って行き、それを観光名所としたのだ。それも、恐らくはかなり昔に。高さや広さを考えれば、いくら『獣(セル)』を用いて造ったとはいえ、そうそう真似できるものではない。
 手入れがされていない庭園の草木は迷路のようになっていた。元々は通路があったと思われる場所にも草木が伸びているところがある。
 ただ、『霧』に包まれてはいてもここの草木は死ぬことなく生き続けていた。
「なるほど、確かにこれは圧巻だな……」
 庭園の様子を見て、ガラが呟いた。
 多少荒れてはいても、この庭園自体は見事なものだ。草木や花々は確かに美しい。
「創世樹はどこだ?」
 庭園を見回りながら、ヴァンは創世樹を探した。
 通れる場所を歩き回って、庭園の中央辺りに出ると、目的のものが見えた。
 一段高くなっている開けた場所に、まだ覚醒していない創世樹があった。だが、その創世樹には妙なものがくっついていた。
「なんだ、こいつ!?」
 ノアが目を丸くした。
 それは創世樹とほぼ同じぐらいの大きさの樹木の化け物のようだった。緑色の体は鉱物のような質感を持っていて、細長く枝分かれした根や枝でできた化け物だ。
「『獣(セル)』よ!」
 オズマが叫ぶような声をあげた。
「セル!? あんなへんなやつもセルなのか?」
 ノアが驚いて振り返る。
「忘れたのかい、ノア?」
 テルマが優しく語り掛ける。
「『獣(セル)』そのものに罪はないんだ。すべて『霧』のせいなんだよ」
 ノアは再び創世樹の方を見る。
 『獣(セル)』の怪物は創世樹に張り付いたままじっとしていて動かない。
「長い時間『霧』に晒されて、あんなおぞましい怪物に化けちまったんだろうね……」
 テルマが言うには、『霧』によって変異した『獣(セル)』のなれの果てということらしい。
 『霧』の本質は分からないながら、『獣(セル)』に悪影響を及ぼしていることぐらいは察しがつく。『霧』に対する抵抗力があるとはいえ『聖獣(ラ・セル)』も『獣(セル)』だ。何となくでも分かるのだろう。
「眠っている創世樹から流れ出すエネルギーを吸収するために張り付いているようですね」
 オズマが『獣(セル)』の様子を見て呟いた。
「はなせ! そうせいじゅをはなせ!」
「あ、おいノア!」
 ヴァンが止めるよりも早く、ノアが『獣(セル)』の化け物を引き剥がそうと駆け寄る。
 『獣(セル)』の怪物の体を掴んで引っ張るノアに、それまでじっとしていた『獣(セル)』が動いた。振り払うように腕らしき部位を動かし、ノアを弾き飛ばす。
「おあ!?」
 ノアは辛うじて腕で何とか防いでいたが、尻餅をついた。 
 そこでようやくヴァンたちの存在に気付いたようで、『獣(セル)』の怪物が振り返る。創世樹から離れ、向き合った『獣(セル)』からは他の『獣(セル)』とは違った禍々しさを感じた。
 緑色の細長い木の根のような手足は左右非対称で、一方は鞭のように長くしなるように動いているかと思えば、一方は先端が紫色の変色して枝分かれした爪の ようになっている。足のようなものは三本あり、胴体部分も網目のように根が組み合わさったような隙間のある形をしている。頭部は草花の蕾のようではある が、大きく上下に開く口があり、紫に変色した部分がいくつも目のように並んでいる。
 食事を邪魔されたと思ったのか、こちらに敵意を向けてきている。
「創世樹を目覚めさせるにはこいつを倒すしかあるまい。いくぞ、ヴァン! ノア!」
 ガラが身構える。
 ヴァンも荷物を置いて短剣を左手に抜き、構える。ノアも腰に括り付けていたトンファーを右手に持ち、立ち上がる。
 叫ぶかのように『獣(セル)』が大きく口を開けて威嚇してくる。発声器官はないようだ。
 その口から毒ガスのようなものが振り撒かれ、咄嗟にヴァンは後方へと距離を取る。ノアとガラも後退し、ガスが散って消えたところで踏み込んだ。薙ぎ払うように振るわれた腕をガラは屈んで、ノアは飛び越えてかわし、それぞれ『聖獣(ラ・セル)』が宿る手を振り被る。
 ガラの拳を食らった『獣(セル)』の怪物が体をくの字に曲げ、振り下ろされたノアの手刀が怪物の頭を地面に叩き付ける。跳ね上がった頭をヴァンが横合いから殴り付けた。
 『獣(セル)』の上半身が大きく仰け反る。しかし、下半身が動いていない。細く、力があるようには見えないが、本当に根のようにその場から動いてはいない。
「反撃がきます!」
 メータの警告が聞こえた。
 大きくしなった『獣(セル)』の体がヴァンたちを振り払うように叩き付けられる。ヴァンとガラは左右に分かれるようにかわし、ノアは大きくジャンプしてかわす。そのノアへ、『獣(セル)』が蔓のような腕を伸ばす。
「わっ!?」
 足首を掴まれたノアが大きく振り回されて投げ飛ばされた。
「ノア!」
 ヴァンは叫んだ。
 空中庭園の外へ落ちてしまったら、いくら『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているとはいえただでは済まない。ヴァンが手を伸ばしても、届く距離ではない。届いたとしても、引っ張られて一緒に落ちるだけだ。
「ノア!」
「テルマ!」
 テルマがノアを呼び、それで伝わったのかノアが呼び返す。
 空中で体を捻り、風を纏い始めたテルマを外へと向ける。テルマから放たれた突風が庭園の中へとノアの体を押し戻した。
「ふぅ……あぶなかった!」
 着地したノアがほっとしたように息をつく。
「まったく、冷や冷やさせるんじゃない!」
 ガラが少し怒ったような口調で言い、拳を『獣(セル)』へと叩き付ける。その声音には安堵の色もある。
 攻撃を受けて仰け反った『獣(セル)』が暴れるように腕を振り回す。払われた腕を屈んでかわし、ヴァンは踏み込むと同時に返される腕に短剣を叩き付け た。一見すると植物のように良くしなる『獣(セル)』の体は、触れてみると鉱物のような特有の硬さを持っている。だが、握り締めた左手から熱が伝わった刃 は切断力を増し、『獣(セル)』の腕を易々と切り飛ばした。
 『獣(セル)』は耳障りな奇声ともつかない悲鳴をあげ、口から薄い紫色のガスを振り撒いた。
 ガラは距離を取るように飛び退き、ノアも近付こうとするのを踏み止まって範囲外に逃れることができたが、ヴァンだけは近過ぎて避けることができなかった。
「うっ……!」
 顔を庇うように腕を交差させ、降りかかる瞬間に息を止めて目を閉じる。
 毒ガスかと思ったが、それにしては何かがおかしい。
「ヴァン!」
 ノアの声に目を開いてみると、至近距離でガスを受けた両腕や庇い切れなかった腹や足に紫色の胞子のようなものがこびりついていた。ぱっと見では固体化した泡のようだ。
 交差させていた腕を引き離そうとして、抵抗感があることに気付いた。体にこびりついたその形状で固まっているようで、酷く動かしにくい。
「大丈夫か?」
 戸惑うヴァン目がけて振るわれた腕を、間に割り込んだガラがオズマの宿る拳で打ち払う。
「ああ、なんとかなる! メータ!」
 これまでの戦いで、今のヴァンが発揮できるメータの力や、メータの持つ加護についてかなり把握できている。
 だから、この程度なら問題はない。直感的にそう思えた。
 ヴァンの呼び掛けに応じるように、右腕のメータから伝わってくる熱が大きくなる。紫色の胞子に包まれた奥から、メータの瞳が輝く光が漏れ出した。次の瞬間には、ヴァンの体が炎に包まれる。いや、正確には、胞子がこびりついた場所だけが燃え上がっていた。
 メータは炎と熱を司る。そしてそのメータを身に着けているヴァンは炎や熱に対して絶対的な優位性を得ていた。
 炎の熱さは分かる。だが、それによって火傷やダメージを負うことがない。普通の人間が火傷を負ったり、熱くて手が出せない炎でさえも、ヴァンは気にすることなく触れることができる。
 こびりついた胞子が全て燃え尽きる。
「喰らえっ!」
 そのまま炎を右手のメータの刃に集約させて、ヴァンは『獣(セル)』を切り付けた。集められた熱量が『獣(セル)』の体を焼き切り、軋むような絶叫を上げて怪物が暴れる。
「えいやっ!」
 のた打ち回る『獣(セル)』へ、ノアがトンファーを叩き付けた。最後にガラが跳躍し、体重を乗せて思い切り踏み付けたところで、ようやく『獣(セル)』の化け物は砕け散るようにして消滅した。
「中々しぶとい相手だったな……」
「それなりに長い間、創世樹のエネルギーを吸っていたみたいですね」
 息をついたガラに、オズマが答えた。
「創世樹の方は大丈夫なのか?」
「見たところ、特に問題はなさそうです」
 ヴァンの問いにはメータが答える。
 創世樹から漏れるエネルギーを吸っていたという言葉から少し心配になった。だが、どうやら表層に流れているエネルギーを吸っていただけのようで、創世樹 を枯らしてしまうほどではないようだ。『霧』の毒にもっと長い間晒されていれば、『獣(セル)』ももっと凶悪になっていたかもしれないし、創世樹にも悪影 響があったかもしれない。
「ヴァン、ガラ、そうせいじゅをはやくたすけてあげようよ!」
 先に創世樹の下まで走って行ったノアがこちらを振り向く。ヴァンとガラは頷き合って、創世樹を囲む位置に足を進めた。
 ヴァンは創世樹の幹にそっと右手を伸ばした。優しい温もりが手のひらに伝わってくる。
 続いてノアが創世樹の幹に左手で触れる。静かな力がヴァンの手のひらにも伝わってきた。
 最後にガラが創世樹に右手で触れた。純粋な喜びが創世樹を通じて三人に流れ込んでくる。
 『霧』のない世界を願う三人の思いが重なり合い、それぞれの『聖獣(ラ・セル)』が光を帯びる。『聖獣(ラ・セル)』たちがその思いを増幅し、飛び出した光は空中で重なり合いながら創世樹へと吸い込まれていく。
 一瞬の静寂の後、創世樹が眩い閃光を放つ。触れていた手のひらを創世樹が押し返す感触が伝わってきて、ヴァンは手を離して数歩後ろへと下がった。
 重苦しく、どこか歪さを感じさせる空気が浄化されていく。清涼で心地の良い空気が穏やかな波動のように風と共に辺りに広がり、『霧』を吹き消していった。
 気付けば、メータが形を変えていた。ヴァンの下腕をほぼ完全に覆い、外側の装甲が少し厚くなっている。肘の部分には二つ黄色い突起が備わり、攻撃にも防御にも役立ちそうだ。先端の刃も少し大きくなっている。
 もちろん、メータだけでなくテルマとオズマも成長していた。
 ノアの左手を丸々覆っていたテルマは、今は腕輪のようにノアの手首を守る形状に変わっている。手首から甲にかけてと、それと同じぐらい反対側にもテルマの装甲が展開している。
 オズマは籠手らしさが更に増し、ガラの下腕を完全にカバーしている。拳部分も突起などが増え、攻撃性に磨きがかかっていた。
「テルマとノア、またすこしつよくなった!」
 ノアが笑顔で左手のテルマを掲げ、飛び跳ねる。
「『聖獣(ラ・セル)』の力はこうやって強くなっていくのか……」
 成長したオズマを見つめて、ガラは感心したように呟く。
 『聖獣(ラ・セル)』が力を増したと、身に着けている本人にははっきりと分かる。体の中に巡る力の流れが、勢いを増しているような感覚がある。これまで以上の力を使えると、そんな確信が持てる。
「う、うう……どうしたんだ? 頭がもやもやする」
 ふと、庭園の入り口の方から男の声が聞こえてきた。
「眠っていたのかしら……起きていたのかしら……? 確か、『霧』が来て……」
 今度は女性の声だ。
 ヴァンたちは顔を見合わせた。
 庭園のすぐ下の階層で『獣(セル)』の怪物になっていた住人たちが元に戻ったのだ。自然と、三人の表情が明るいものになる。
 救うことができた。
「ねえ、あれを見て! 創世樹の様子が変わっているわ!」
 女性の声が少しずつ近付いて来ている。
 覚醒した創世樹が見えたようで、驚いた声音に変わる。
 ヴァンたちも創世樹を見上げた。リム・エルムやリクロア山、ヴォズ樹林の創世樹と同じように、大きく成長し、葉を茂らせた創世樹がそこにある。
「『霧』も消えているじゃないか! 何が起こったんだ?」
 男の声も驚きに満ちている。
 『霧』がなくなり、清涼な空気に満ちている。心なしか、周りの木々たちもそれまでよりも生気に溢れているような気がする。
「創世樹の傍に誰かいるわ!」
「まさか、あの人たちが『霧』を……?」
 創世樹のある広場に一組の男女が姿を現した。
 ヴァンたちに気付くと、駆け寄ってくる。
「皆さんが『霧』を晴らしてくれたのですか?」
「そうです」
 女性の問いにヴァンは頷き、荷物袋を拾う。
「我々は創世樹を覚醒させて『霧』を払う旅をしているのです」
 ガラが簡単に説明する。
「そうだったのですね! ありがとうございます!」
「そうせいじゅにはきりをやっつけるちからがあるんだよ!」
 ノアが笑顔を見せる。
「素晴らしい! まさに奇跡だ!」
 男は興奮した様子で、目を輝かせてヴァンたちの話を聞いていた。
 ヴァンたちは『聖獣(ラ・セル)』のこと、創世樹のこと、ドルク王領のこと、これまでのことを簡単に説明した。
「こうしてはいられません、私は一足先に下へ降りてジェレミの人々にこの奇跡ことを知らせてきます!」
 熱心に聞いていた男は一通りの話を聞き終えると、そう言って走り去ってしまった。
「まったく、お調子者なところは変わらないんだから……」
 共に話を聞いていた女性が苦笑して呟く。
「私はこの空中庭園の塔の内部の掃除をしていたんです。突然『霧』が来て、それからの記憶が無いんですが……」
 エレベータのあるフロアまで向かう途中、彼女は当時のことを話してくれた。
 やはり『霧』は突然この町に現れたようで、事前に情報は得られていなかったようだ。何か知っている人はいたのかもしれないが、少なくとも町全体にその情報は広められていないようだ。
「庭園の木々は『霧』が発生する前以上に生き生きとしている気がします。多分、皆さんが目覚めさせてくれた創世樹のお陰ですね」
 そう言って、女性が周りの木々を見て柔らかい笑みを浮かべる。
 見れば、創世樹が覚醒する前に蕾だった花のいくつかが咲いていた。
「私は荒れてしまったフロアの掃除を始めようと思います。皆さんはどうするのです?」
 庭園からエレベータのあるフロアに入ったところで、そう尋ねられた。
 十年もの間放置されていたフロアは荒れている。『霧』があった頃と比べれば、木々の根からこれまで以上に生気が感じられる。ただ、崩れてしまった壁の一部や天井などはそのままだ。ヒビが入って崩れそうになっている場所もある。床には瓦礫が散乱し、埃が積もっている。
「とりあえず、下に降りて情報収集かな?」
 少し考えて、ヴァンはそう答えた。
 次の目的地などについても考えなければならない。
 女性と別れ、エレベータで下へと降りる。ドルク王領の『霧』の巣があった建物にあった昇降装置とかなり似ているものだったが、こちらはしっかりと内部にも案内表示がされていた。
 一階に着いてエレベータを降りると、黒いスーツを着込んだ恰幅の良い男と、庭園で会った男性が話をしているのが見えた。
「おお、ヴァン様、ノア様、ガラ様、話は聞きましたぞ!」
 エレベータのドアが開く音でヴァンたちに気付いたのか、恰幅の良い男が走り寄ってくる。
「皆さんが創世樹を蘇らせ、ジェレミを『霧』から救って下さったんですな! 町の者が皆さんのお顔を拝見しようと詰めかけておりますぞ! ささ、どうぞこちらへおいで下さい!」
 恰幅の良い男はにこやかな笑顔で一気にまくしたて、ヴァンたちを促すように集会所の方へと歩き出す。
 ヴァンたちは呆気にとられて、三人で顔を見合わせた。
「ばっちりですよ! 私が皆さんのご活躍を町の皆に話しましたから!」
 庭園で会った男は親指を立てて笑ってみせる。
 どうやら、恰幅の良い黒い服の男はこのジェレミの町長らしい。
「何をやっているんですか! 町の者が首を長くして待ってるんですよ!」
 集会所に繋がるドアの前で、町長が大声でこちらを呼んだ。
「ははは……怒られちゃいました。私は空中庭園の庭師でして、庭園の様子を詳しく確認しておきたいので戻ります」
 庭園で会った男は苦笑を浮かべると、ヴァンたちが乗ってきたエレベータで上へと向かって行った。
「……どうやら、えらく歓迎されているようだな」
 溜め息混じりに、ガラが呟いた。
 手招きしている町長を見て、ヴァンはノアとガラともう一度顔を見合わせて苦笑すると、集会所の方へと向かった。
「紳士、淑女の皆さん! 大変長らくお待たせ致しました!」
 ヴァンたちが来たのを確認すると、町長は一足先に集会所へと入り、声を張り上げる。
 町長の一声でそれまでざわついていた集会所が静まり返る。
「『聖獣(ラ・セル)』を身に纏い、果敢にも『霧』の中を進み、見事創世樹を目覚めさせた、ジェレミを救ったヒーロー! ヴァン様! ノア様! ガラ様! ご入場です!」
 ヴァンたちが集会所に入るのに合わせて、町長が名前を告げる。
 ここまでされると何だか気恥ずかしくて、ヴァンは頬を掻きながら集会所に入った。ノアは物珍しそうに周りをきょろきょろと見回している。ヴァンと同様、ガラもどこか居心地が悪そうに腕を組んで眉間に皺を寄せている。
 集会所はヴァンたちが降りてくるまでの間にかなりの人が集まっていた。散らかっていた床なども簡単にではあるが片付けられていて、ありあわせのもので作られたらしい料理や飲み物がテーブルの上に乗せられている。さながら、立食パーティのような雰囲気になっていた。
「『聖獣(ラ・セル)』の勇者様! ありがとうございます!」
 誰かが感謝を述べ、それを皮切りに人々が駆け寄ってくる。
「ヴァン様! 素敵!」
「きゃー! ガラ様ー!」
 ドレス姿で着飾った女性たちの何人かが目を輝かせてヴァンとガラに詰め寄る。
「ノアちゃんスゲェかわいいっス!」
 若い男たちがノアの周りに集まってくる。
 住人たちの剣幕に押されて、ヴァンたちは目を丸くして後ずさる。
「ど、どうするのだ、ヴァン!」
「え、いや、どうしよう!」
 背中を壁に押し付けるような恰好になったガラに、ヴァンも返答に困っていた。好奇心旺盛なノアも今回はヴァンの後ろに隠れるようにして下がっている。
 助かったことが純粋に嬉しく、それを為したヴァンたちに対して感謝や憧れを抱いているのは分かる。助けられたのだということに対して安堵感はあったが、今度は別の意味で危機感を抱いた。
「押さないで下さい! 皆さん大人しくして下さい!」
 慌てて間に町長が割って入ったが、住人たちにその声は届いているように見えなかった。
「つ、潰される! ぐええ……!」
 詰めかける住人たちに飲み込まれるように、断末魔と共に町長の姿が消えた。
 このままではヴァンたちも潰されてしまいそうだ。
「……メータ!」
 意を決して、ヴァンは右腕を水平に薙いだ。
 意図を汲み取ったメータが、熱風を周囲に撒き散らす。火傷しない程度の、熱いと感じる程度のものだ。
 それから背後に隠れたノアの手をしっかりと握り締め、ガラに目配せする。
「わっ!」
 熱風で住人たちが怯んだ隙に、ヴァンたちは集会所を飛び出した。
「ふー……」
 外に出ると、丁度日が沈んだところだった。少しずつ暗くなりつつある空には、星が見え始めている。
 まだ外にはちらほらと住人たちがいる。
 ここまで住人たちが興奮してヴァンたちに近付いてくるとは思ってもいなかった。ドルク城下町でドルク三世の指示がどれだけ重要だったのかが良く分かる。
「びっくりしたー。みんなうれしそうだったけど、ちょっとこわかったよ」
 ノアが安心したように大きく息をつく。
「確かにな」
 ガラも半ば呆れたように頷いた。
「あ、『聖獣(ラ・セル)』の勇者様だ!」
 通り掛かった男の子がヴァンたちを見て声を上げた。
「あのね、『霧』の中にいた時、僕、とっても寂しくって、それに怖かったんだ!」
 男の子はヴァンたちが何か言うよりも早く、歩み寄って来てそう言った。
「でも、目が覚めた時、パパとママがすぐ傍にいてくれたんだ。それが凄く嬉しかったんだよ!」
 ヴァンたちを見上げる男の子は目をキラキラさせていた。
「そうか、良かったな」
 ヴァンは優しく微笑むと、目線を合わせるように屈み込んで男の子の頭を撫でた。
 男の子は少し照れ臭そうにしつつも、嬉しそうに笑顔を浮かべる。
 少し遅れて、男の子の親と思しき男性がやってきた。近付いてくる足音に気付いて、男の子が振り返り、その足元に駆け寄って行った。
「皆さんはドルク王領全土から『霧』を消してしまったそうですね。全く、素晴らしいことです。同じように、このセブクス群島からも『霧』を消してしまって下さい」
「もとよりそのつもりです。我々は『霧』を無くすための旅をしているのですから」
 会釈をして感謝の意を伝えてくる男性に、ガラは力強く頷いた。
「あ、ママ!」
「ある日突然、『霧』が北西の方向から流れてきたんです。きっと、あの海の彼方に『霧』を生み出すところがあるんだと思います」
 男の子が後からやってきた女性に気付き、声をあげた。母親らしい女性は話を聞いていたようで、当時の事を教えてくれた。『霧』がやってきたのは突然で、 方角は北西からだったようだ。陸地のある北から、というわけではなかったらしい。ジェレミから見て海が見える方角から『霧』がやって来たということだけは 確かなようだった。
「情報ありがとうございます。必ずやこのセブクス群島からも『霧』を無くしてみせます」
 ガラが言い、ヴァンとノアも頷いた。
 家へと帰って行く親子三人を見送る。手を振る男の子に、ノアが笑顔で手を振り返す。
「北西の方から、か……」
 家族の背中を見ながら、ヴァンは呟いた。
 地図を思い返す。このジェレミはセブクス群島の地方としては南端の西寄りに位置している。ここから北西の方角というと海が広がっているはずだ。半島のよ うに突き出している地形もあるにはあるが、完全に海の上に『霧』の巣のある施設が建てられているとしたらそこまで行く手段を考えなければならない。
「うみのうえにきりのす、あるのか?」 
 ジェレミから北西、というと直ぐに海に行き着いてしまう。ノアにもそれは分かるようで、首を傾げている。
「仮に船が必要になるとすれば、面倒だな……」
 腕を組み、ガラが唸るように眉間にしわを寄せる。
 陸地からどの程度距離があるかにもよるが、船が必要となればそう簡単には近付けない。使える船自体を探すか、あるいは造るかしなければならない。それ に、船が手に入ったとしても船を動かす技術などヴァンたちには持っていないし、それができる人物を見つけ出したとしてもヴァンたちに協力してくれるかは分 からない。『聖獣(ラ・セル)』も無しに『霧』の中に向かうのは自殺行為に等しい。
「場所が分からないとどうしようもないな」
 ヴァンは頭を掻いた。
 船を用意するにしても、動かしてくれる人を探すにしても、まずは『霧』の巣の場所を掴むことが先決だ。もしかしたら、陸地から行ける可能性もある。
「創世樹の場所についても情報が欲しいですね」
 メータが言い、ヴァンたちは頷いた。
 夜になりつつあることもあって、自分の家に帰って行く人が多い。集会所ではまだ宴会のような騒ぎが続いているようだが、今あの中に再び戻るのは気が引けた。
 かと言って、民家にいきなり押し掛けて情報提供を求めるのもどうかと思える。
「ヴァン、ガラ、おなかすいてきたよ……」
 ぽつりと、ノアが空腹を訴えた。
「ふむ、食事処なら色々と話が聞けるかもしれないな」
「確かに、夕飯もどこかでとらないといけないか」
 ガラが言い、ヴァンは周りを見回した。
 観光名所として栄えていたのであれば、宿屋や食事を取れる場所があるはずだ。そうして、ヴァンたちは見つけた酒場に足を踏み入れた。
「なんだかおかしなにおいがするね?」
「酒の匂いだな」
 鼻が良いノアが酒場の入り口で辺りを見回しながら呟き、ガラが答えた。
「さけ?」
「飲み物の一種だけど、大人しか飲めないことになってるもの、かな」
 首を傾げるノアに、ヴァンは説明に困った。
 酔い、というものをノアは知らないだろう。かと言って、飲ませてみるのも危ない気がした。リム・エルムでは大人として認められたヴァンや年上のガラはまだしも、ノアは明らかに酒を飲むには若過ぎる。
「しかし、なんというか……集会所とは雰囲気が違うな」
 ガラは店内を見て、眉根を寄せた。
 お祭り騒ぎになっていた集会所とは打って変わって、酒場の中はどこか沈んだ空気が流れているように見えた。寂しそうな顔をした老人や、困惑した様子の老 婆、俯いた男性と、その肩に手を置いて話しかけている男、心ここにあらずといった風に窓から夜空を見上げている女性。その誰もが、明るい表情をしていな い。
 ヴァンは戸惑っていた。『霧』が晴れたのに、何故ここの人たちは浮かない顔をしているのだろう。
「あんたたちが噂の『聖獣(ラ・セル)』の勇者様とやらかい?」
 カウンター席に近付くと、その中でグラスを磨いていた店主が小さな声で話しかけてきた。くたびれたシャツに、口髭を生やした中年のやや枯れた印象のある男性だ。
「え? ああ、はい……」
 勇者、と呼ばれるのはどうにも落ち着かない。かと言って、わざわざそこを否定してもあまり意味はない。とりあえず、ヴァンは頷いた。
「すまないが、食事をしたいのだが……」
「簡単なものになるが?」
 ガラの言葉に、店主はそう釘を刺した。
 『霧』から解放されたばかりで、食材も備蓄があまりないのだろう。
「ちっ、どの酒も気が抜けちまっててちっとも美味くないぜ!」
 舌打ちの後に、そんなぼやきがどこかから聞こえてきた。文句を言っているのに、その横顔に怒りの感情はなかった。どこか、辛そうな顔だった。
「不思議そうだな?」
 口髭を生やした店主はヴァンたちが戸惑っているのに気付いたようだった。
「『霧』に包まれていた時、俺たちは一瞬とも永遠とも思えるような夢の中にいたんだ。ところが、『霧』が無くなり、目が覚めてみると時間だけが過ぎてい た。その時間の中で何も失わなかった者は集会所で踊っている。だが、『霧』によって何かを失った者はここで酒を飲んでいるのさ……」
 少しだけ寂しそうに目を細めて店主は語り、干し肉と乾燥させた穀物を油で軽く炒めたものと、豆と芋のスープを三人分並べた。
 『霧』に包まれ『獣(セル)』に支配されていた間の記憶は曖昧で、まるで夢を見ているようなものらしい。人間としての意識が封じられているせいなのだろう。
「いただきます!」
 両手を合わせてそう言うと、ノアが一番先に手を着けた。
「明日以降ならもう少しマシなものが作れそうなんだが、今はそれぐらいしか出せなくてな」
「いえ、十分です」
「おいしいよ!」
 苦笑する店主にヴァンが答えると、ノアは笑顔でそう告げた。
 簡素な類のものではあるが、丁寧に作られた料理だった。材料の乏しい中でも、しっかりと腹に溜まる料理だ。ノアの言う通り、味付けもしっかりしていた。
 沈んだ、静かな雰囲気に包まれた酒場では、他人の会話が良く聞こえる。
「『霧』の中で怪物だったお前が大事な恋人を殺したなんて、そんなことありえないだろ……そんなに考え込むなって!」
 その言葉に、ヴァンは思わず振り返りそうになるのを、なんとか堪えた。
 ありえない話ではない。否定し切れない。『獣(セル)』に支配され、怪物となった人間が、まだ『獣(セル)』が取り付いてない人間を襲う。バイロン寺院が『霧』に包まれた時にも、『獣(セル)』の怪物となった人間が別の人に襲いかかったという話を聞いた。
 考えたくはない。その瞬間を見ているわけでもなければ、憶えているわけでもない。確かめる術はどこにもない。それでも、だからこそ、想像してしまう。
「せっかく『霧』が晴れて、人として目が覚めたのに……きっと、わしらが『獣(セル)』に取り付かれておった間に息子は死んでしまったんじゃよ」
「そんなわけあるかい……だって、この町を『霧』が襲う前はとても元気にしていたんじゃ。それを死んだなんて……」
 老夫婦の会話が聞こえてくる。
 ふと、窓から空を眺めていた女性が机に突っ伏して震えていた。ヴァンたちの席から良く見えなかったが、泣いているようだった。
「彼女は恋人が見つからなかったんだそうだ」
 店主が小声で教えてくれた。
 『霧』が晴れて、気が付いた人々は親しい人たちの安否を確認するのに奔走したようだ。多くの人は無事に助かったことを喜んだが、そうでない人たちも少なからずいたということだ。
「『霧』が消えて目が覚めてみたら、女房や子供たちがいなくなっちまったんだよ……こんなことなら、俺も『霧』の中で永遠に『獣(セル)』に支配されていれば良かったぜ!」
 荒々しくテーブルを叩く音と共に、酔っ払った男の声が響いた。
 立ち上がろうとしたヴァンの腕を、ガラが掴んだ。
「……抑えろ、ヴァン、ノア」
 静かな声音だった。感情を抑え込んだ表情でそれだけ言うと、ガラは二人の手を放した。見れば、ノアも同じように席を立とうとしていたようだった。
「だって、ヴァンはまちがったことしてないよ」
 ノアがガラに抗議する。
「ああ、俺だってそう思う。だがな、これは仕方がないことだ。こういうこともある。そう受け止めねばならん」
 ガラも内心では同じ思いを抱いていたのだ。
 ただ、ガラは自分が『獣(セル)』を憎み、毛嫌いしていた過去から、彼らと似たような思いを抱いたことがあるのだろう。『獣(セル)』さえなければ、と思ったことがあるはずだ。『獣(セル)』はそれまで人間たちの文明を支えてきたものであるにも関わらず。
 『霧』によって凶暴化した『獣(セル)』は人に取り付こうとする。だが、全てが取り付くわけではない。人間は抵抗もしただろう。取り付く力のない『獣 (セル)』もいたかもしれない。人を襲う、と一括りにしても、そこには取り付くためと殺すための二つの意味の取り方ができる。
 初めから、全てを救えるとは思っていなかった。
 それでも、全てを救いたいと思っていた。
 救えなかったものがあることを、見せ付けられた。
 大切な人が一緒に救われなかった事実を突き付けられるぐらいなら、助からないままでいた方がマシだという考えも理解できなくはない。もちろん、それは現 実逃避だ。大切な人を失くした、という事実を知って初めてマシだと思えるのだから。知らなかった時には助かりたいという感情があったはずだ。
 今の悲しみに比べたら、『霧』に囚われていた過去の絶望の方がまだマシに思える。それだけの無意味な比較だ。
「ほんのついさっきのことだからな、まだ受け止められないのも無理はない」
 静かな声で、店主が呟く。
 時間が経てば、心の傷は癒えるだろうか。癒える人も、癒えない人もいるのだろう。
「ご馳走様……」
 空になった食器の傍に、三人分の代金を置いてヴァンは席を立った。
「あんたたちは立派なことをした……ただ、こういうことも起きちまうのさ。こいつばかりは、どうしようもない」
 店を出ようとしたヴァンたちに、店主は囁くように呟いた。
「……ありがとう」
 ヴァンは振り返らずに礼を言うと、店を後にした。
 夜風が少し冷たく感じた。
 三人は言葉少なに宿屋へ向かい、休むことにした。ベッドに寝転がると、ノアは直ぐに寝息を立て始めた。寝付きが良いのか、疲れていたのか、あるいは先ほどのことを早く忘れたかったのか。
 目を閉じていても、ヴァンは中々寝付けなかった。
 仕方が無いことだ。ヴァンたちに責任はない。悪いのは『霧』であって、それを払ったヴァンたちに非はない。それでも、気分は良くなかった。
 助けられたと思っていた。全てが元に戻ると思っていた。『霧』に包まれる前に、元通りになると思っていた。
 リム・エルムでもゼトーが襲ってきた時には死者が出た。バイロン寺院でも僧兵たちに死者が出た。このジェレミでも、死者がいないとは言い切れなかった。
 それはヴァンたちがここに辿り着くまでの出来事であって、助けられる命ではなかった。もっと早く辿り着いていれば助けられたなどと思うのは筋違いだ。十 年もの間、『霧』の中を普通に過ごすことなど出来ない。この町で亡くなった人たちは、『霧』がやってきた十年前のうちに命を落とした者たちだ。その頃の ヴァンたちは『聖獣(ラ・セル)』の存在も知らなかった。
「んん……おとうさん?」
 眠れずにいると、ノアの寝言が聞こえてきた。
 どうやら、また両親の夢を見ているようだった。
「……うん、ともだち……できたよ……」
 どんな夢を見ているのだろう。
 ノアは夢に出てくる両親がぼんやりした光のようにしか見えないと言っていた。ただ、言葉だけが聞こえてくるだけらしい。それがどれほど不思議なことなの か、ノアは良く分かっていない。普通の人は、夢を通して会話をすることもできない。ノアの無意識が生み出した幻の両親なのか、それとも、それができるよう な特殊な状態にあるのか。もし本当にノアの両親が言葉を送って来ているのであれば、それだけノアを想っているのだろう。
 リクロア山にノアだけがいたのにも何か訳がありそうだ。
「まっててね……ノア、いくから……いちばんきりのふかいところに……おかあさんと、おとうさんに、あいにいくから……」
 最後の方は、泣きそうな声になっていた。
 ベッドから身を起こして見れば、隣のベッドで眠っているノアの目尻には涙が浮かんでいた。寂しそうな表情で眠るノアの涙をそっと指で拭う。頭を撫でてやると、少しだけ、ノアの表情が和らいだような気がした。
「……立ち止まるなんて選択肢、ないよな」
 ヴァンは自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
 ガラと前に話したことを思い返す。どんなことがあっても、投げ出すなんて考えはなかった。メータはヴァンを選び、ヴァンはメータと共に『霧』に立ち向か うことを選んだ。自分の予想外の反応をしている人たちを見たぐらいで動揺してどうするというのか。動揺してもいい。ただ、やろうとしていることに対して揺 らがなければいいだけの話だ。
 翌朝、目が覚めて宿屋の一階で食事を取っていると、町長がやってきた。包帯などを巻いてはいるが、見たところ軽傷のようだ。
「昨日はどうも申し訳ありませんでした。まさかあんなことになるとは……」
 苦笑しつつ、集会所でのことを詫びようと頭を下げる。
「町の者にはあまり騒ぎ過ぎないように固く申し付けておきました」
「助かります」
 申し訳なさそうにしている町長に苦笑して、ヴァンは答えた。
「ところでジェレミの他に創世樹がある場所を知りませんか?」
「創世樹、ですか……」
 ガラの問いに、町長が顎に手を当てて考える。
「確か……北の彼方の山にあったと聞いた憶えがありますな」
「その他には?」
「セブクス群島にはその二本だけだったかと」
 ヴァンが問うと、町長はそう答えた。
 となると、セブクス群島地方にある創世樹は後一本ということになる。北の彼方の山、という情報だけでは場所を絞り込むのは難しい。北の方角へ向かいなが ら情報を集めた方が良さそうだ。ハリィのいるオクタムは地図上ではここから北東の方角にあるが、陸地が途切れていたりと地形の関係で真っ直ぐに向かうこと はできない。北上してから海や山を迂回して東、南、西、とぐるっと回らなければならない。
 道順的にも、とりあえずは北へ向かうことに問題はなさそうだ。
「それでは、私はこれにて失礼致します。皆様、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
 一礼して出て行く町長に礼を言って見送る。
「ねえヴァン、くうちゅうていえん、もういちどみにいきたいなー」
 食事を終えたところで、ノアがそんなことを言い出した。
「昨日は『霧』もあったし夜になったから良く見れてなかったな……行くか」
「そうだな、一度まともに見ておいても損はないだろう」
 ヴァンが同意を求めると、ガラも頷いてくれた。
 集会所は昨日ほどではないが、賑やかだった。ヴァンたちを見かけても、手を振ったり賑やかさが増すぐらいで、昨日のようなことにはならなかった。
 皆、笑っていた。嬉しそうに、あるいは幸せそうに見える。
 昨日の酒場でのことが頭を過ぎった。素直に喜べない人もいる。
「……それでも、『霧』は無くさなきゃダメだ」
 エレベータで最上階へ向かう途中、ヴァンは呟いた。
「うむ……『霧』で時が止まっていては、悲しむことすらできん」
 ガラが頷いた。
 『霧』の中にいた方が良かったなどとは思えない。確かに、大切な人が死んでしまっていたことを知るのは辛い。だが、それは『霧』に包まれていた時でも変わることのない事実だ。死者を弔うことも、想うことも、『霧』の中で『獣(セル)』に支配されていてはできない。
 失ったものはもう戻ってこない。それでも、生きていれば新しく何かを掴むことはできる。
 エレベータが止まり、ヴァンたちは空中庭園へと足を踏み入れた。
 良い天気だった。雲が少なく、済んだ青空が広がっている。温かな日差しが庭園の緑を照らし、清涼な空気が枝葉を揺らし、心地良い音を奏でていた。
「うわあああああ! すごいきれいだね!」
 ノアは目を輝かせて、周りを見回している。
「確かに、これは圧巻だな……」
 ガラが外を見て呟く。
 庭園からは周りの景色が見渡せた。ジェレミを囲む岩山よりも高い位置に庭園があるお陰で、かなり遠くまで見渡すことができる。青く輝く海や、陸地、小高い丘や遠くの山脈と、色々なものが見える。
 流石に遠くまでいくと『霧』に覆われているのが見えた。『霧』がなければもっと良い景色なのかもしれない。それでも、『霧』の無い範囲が一望できるだけでも、その見晴らしの良さもあって絶景だった。
「これは、すごいな……」
 見晴らしの良いその景色に、ヴァンも目を奪われていた。
 ゆっくりと庭園の通路を歩きながら、木々の緑や色とりどりの花を眺める。時折見える遠くの風景と庭園の景色が相まって、様々な景観が楽しめる。
「おや、皆さん」
 ふと声が聞こえた方に目をやれば、昨日庭園で会った庭師をしているという男が立っていた。
「どうです、いい景色でしょう?」
「ええ、すごいですね」
 庭師の男は自慢げに笑い、ヴァンも素直に感心して頷いた。
「昨日から簡単ではありますが、一通りの手入れを済ませました。草花たちも見違えるようですよ。創世樹のお陰ですかね」
 どうやら今も通路に伸びていた邪魔な草木を除去し、剪定をしていたようだ。
「元々、ここは空中庭園が名物の観光地だったんですよ。世界から『霧』が消えたら、この創世樹もきっと名物になりますよ」
 誇らしげに笑う男に、ヴァンは創世樹を見上げた。空中庭園の中央にある覚醒した創世樹は風に葉を揺らし、木漏れ日からはどこか優しい温かさを感じる。
「ねえ、ヴァン、あれみて!」
 不意に、ノアが遠くを指差した。
 その方角を目を凝らしてみると、『霧』に包まれているはずの場所に穴が開いているように見えた。
「あそこだけきりがないよ!」
「本当だ……!」
 ノアの言葉に、ヴァンは頷いた。
 あの場所に何かあるのだろうか。流石に距離がありすぎて、『聖獣(ラ・セル)』の視覚強化でも何があるのかは良く見えない。ただ、『霧』がなくなっている場所には町のようなものがあるように見えた。
「あの辺りにあるのはウィドナですかね?」
 庭師の男が呟いた。
「ウィドナ?」
「ここから北にある、世界一の保養地と言われていた町の名前です。確か、あの辺りだったと思うんですが」
 ガラが尋ねると、彼は説明してくれた。
 ジェレミから北の方角にはウィドナという町がある。ジェレミが庭園を名物とした観光地であるのに対し、ウィドナは保養地として知られていた場所らしい。
「北の方角なら、通り道か……」
「なら近くに行った時に寄ってみるのが良さそうだな」
 ヴァンの呟きに、ガラが頷いた。
「そうだ、これをどうぞ」
 思い出したように、庭師の男がヴァンたちに果実の入った袋を差し出してきた。赤く丸い形をした手のひらぐらいの大きさの果実だった。栄養価が高く疲労回復、滋養強壮に良いと各地で栽培され、回復の果実という別名で呼ばれている果物だ。
「この庭園にある木からとれたものなんですが、ここのは特別美味しいですよ」
 創世樹が覚醒した影響なのか、今朝、丁度良い頃合のものがとれたらしい。
「ありがとう、いただきます」
「また是非いらしてくださいね」
 袋を受け取り、ヴァンが礼を言うと男は笑顔を返した。
 エレベータで一階に降りて集会所を抜けると、一人の男がヴァンたちが出てくるのを待っていた。
「『聖獣(ラ・セル)』の勇者様方、皆さんに一つお願いがあるのです」
 真剣な表情で男が頭を下げる。
 ヴァンたちは顔を見合わせて、男の話を聞いてみることにした。
「私はこの町で宝石職人をしているザランと申します。皆さんは北に向かうと町長から聞きました」
「ええ、そのつもりですが」
「実は私の妻と息子がウィドナにいるのです。今、ウィドナがどうなっているのか分かりませんが、二人が生きていれば私の無事を伝えたいのです」
 ザランと名乗った男は、そう語った。十年前に『霧』がやってくる前に、彼の妻と息子はウィドナにいたらしい。ザラン本人は『霧』の中で『獣(セル)』に取り付かれていたため、創世樹が覚醒して『霧』が晴れたことで無事元に戻ることができた。
「外の世界にはまだ『霧』が残っていて、手紙を書いても送る方法がありません」
 その言葉で、ヴァンはお願いというのが何なのか見当がついた。
「その手紙を俺たちに運んで欲しい、と?」
「そうです。皆さんは『霧』を払う旅の途中、つまり『霧』の中を歩けると聞きました。ウィドナに行って、妻と息子にこの手紙を届けて欲しいのです」
 確かに、ジェレミ周辺からは『霧』が消えた。だが、創世樹の力の及ぶ範囲を過ぎれば『霧』の中を歩かなければならなくなる。普通の人間や、『獣(セル)』を身に着けることで活動していた人ではその先へ踏み入ることは難しい。
「分かりました。手紙ぐらいなら届けますよ。丁度、ウィドナも通るところですから」
 ヴァンはそう言って、笑ってみせた。
 ウィドナの様子も気になるところだ。元々、立ち寄るつもりでいたのだからついでに手紙を届けるぐらい何てことはない。手紙なら早々かさばらないし、問題ないだろう。
「おお、ありがとうございます! 妻の名はユマ、息子はペペと言います。無事であれば良いのですが……」
 ザランはもう一度頭を下げ、手紙を取り出した。
 ヴァンは手紙を受け取り、上着の内ポケットの中にしまいこんだ。
「我々も先へ進まねばなりませんから、返事を届けにくることはできないかもしれません」
 ガラが一言断りを入れる。
 安否の確認も、手紙の返事も保障はできない。セブクス群島にはまだ『霧』があることを考えると、あまりゆっくりもしていられない。もしもウィドナが『霧』に包まれているなら創世樹を探して目覚めさせることを優先したい。
 ザランの家族も無事かどうかは、行ってみなければ分からない。
「それは構いません。『霧』が晴れたなら、その時は自分で確かめたいと思っていますから」
 ザランは頷いた。
 最悪、彼の家族は亡くなっているかもしれない。それも覚悟の上だという表情だった。ただ、何もせずにはいられない。だから、せめて手紙だけでも出したいのだろう。
「私は生き残ることができましたが、『霧』に包まれていた十年間の間に行方不明になってしまった人もいます」
「ええ、昨日、酒場で見てきました」
 ザランの言葉に、ヴァンは小さく頷いた。
「酷いことを言っている人もいたかもしれませんが、許してやって下さい」
「分かっています。ああいった人たちをこれから増やさないためにも、我々は『霧』を無くすことを目指しているのですから」
 申し訳なさそうに目を伏せるザランに、ガラは努めて穏やかな声をかける。
 肉親や大切な人々を失う辛さは、ヴァンたちも知っている。だから、気持ちは分かるつもりだ。
「暗い話ばかりでもないんです、世界が落ち着いたら結婚式を挙げると言っている人たちもいます」
「けっこんしきってなに?」
 話題を変えようとしたザランの言葉に、ノアが首を傾げた。
「お互いのことが大好きな男の人と女の人が家族になるお祝いのことだよ」
 ザランはふっと笑って、ノアに優しく説明してくれた。
「そっか、かぞくになるのか……」
 どうやらそれで納得したらしい。
「喜んでいる人も大勢いますから、どうか頑張って下さい。私には応援することしかできませんが……」
「はい!」
 激励してくれたザランに頷いて、ヴァンたちは歩き出す。全ての人が救えたわけではない。それでも、救えた人たちがいるのは確かだ。それだけでも、『霧』を払う意味はある。
 見送るザランにノアが笑顔で手を振って、ヴァンたちはジェレミを後にした。
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