第十四章 「トーンの門」


 レム神殿を出たヴァンたちは『霧』がくる前は宿屋だったであろう家で一泊することにした。
 外に出るといつの間にか雨が降っていた。
 雨の中を進んだところで、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンたちが風邪をひいたりする心配はほぼない。ただ、荷物が濡れてしまうのは面倒だっ た。メータやこれまでに取り込んだ火の『獣(セル)』の力を使えば乾かすことはできる。旅をするために水に強い生地で荷物袋は作られているが、だからと いって積極的に濡らしたいわけではない。湿気が食料にとって敵であることは変わらない。
 オクタムやレム神殿の探索で時間も経ち、時間的には日暮れぐらいになっている。
 埃まみれのベッドをテルマが風で綺麗にし、これまでの旅で取り込んだ水の『獣(セル)』の力を使ってキッチンや食器も軽く掃除した。そこで簡単に料理を作って夕食をとる。
「次の目的地はトーンの門かな?」
 野菜を煮込んだスープを一口飲んで、ヴァンはテーブルの端に広げた地図を見ながら言った。
 トーンの門はオクタムと同じ島の東側にある。ただ、オクタムからトーンの門への途中には険しい山岳地帯があり、直接向かうとなると山を越える必要がある。
「迂回する道もあるが、かなり大回りになるな」
 保存は効くがやや硬いパンを咀嚼していたガラが飲み込んでから呟く。
 一度北の島へ橋で渡り、東へ向かって回り込む道もある。大きく迂回する形にはなるが、山岳地帯を避けて平坦な道でトーンの門へ向かうこともできる。地図によれば迂回する道沿いにも小さな村がいくつかあるようだが、ここまでの経緯を考えると無事だとは思えない。
「この分だと、人が残っていそうなのはラタイユぐらいか……」
 ヴァンは溜め息をついた。
 セブクス群島における大きな人の集落と言えるのはオクタム、ラタイユ、ウィドナ、ジェレミの四つぐらいだろうか。ある程度大きな規模の都や町でなければ、『霧』によって壊滅し切ってしまっている可能性がかなり高い。
 後で知ったことだが、ドルク王領地方で言えば、『霧』の巣があった盆地には本来ならば村があるはずだった。それが跡形もなく整地されて『霧』の巣の城に なってしまっていたようなのだ。『霧』がなくなった今、あの場所の調査などがすべて終わればまた集落として開拓されるかもしれない。
 人が多ければその分、『獣(セル)』に取り付かれてしまったとしても生き延びている人がいる可能性は高くなる。何より、人の多い大きな集落であれば日常 的な『獣(セル)』の利用頻度も高かったはずだ。『獣(セル)』が多ければ、『霧』がやってきた時に取り付かれて生き残っている可能性も増す。そういう意 味では小さな集落ほど壊滅している可能性が高いとも考えられる。
「ラタイユも気になるといえば気になるな」
 ガラが頭を掻きながら呟いた。
「だけど、遠回りだ」
 スープを飲み干してから、ヴァンは言った。
 オクタムでハリィに会えなかったのは仕方がないとしても残念だった。ウィドナからオクタムとラタイユは途中で道が分かれている上、島の形状的にどうしても同じ道を引き返さなくてはならないところがある。
 ウィドナを出てからオクタムとラタイユのどちらに行くかを選んだように、トーンの門へ行くかラタイユへ行くかを選ばなければならない。
「地形に文句を言っても仕方がないか」
 ガラがため息をついた。
「どっちにいくの?」
 話を聞きながらパンを齧っていたノアが口を挟んだ。
「俺はトーンの門へ行ってハリィに会ってみるべきだと思う」
 ヴァンの答えはそれだった。
 ラタイユが気にならないわけではなかったが、ハリィの言葉も気になっている。サシアから受け取った伝言や、レム神殿で見た神託の書のことも考えると、オクタムの住人は生き延びている可能性が高い。どこか、ヴァンたちを呼んでいるような気もする。
「山を越えれば近道だし、トーンの門で何もなければラタイユに向かおう」
「うむ、了解だ」
 ヴァンの言葉に、ガラは頷いた。
 迂回せずに山を越えてしまえば、トーンの門はそこまで遠くはない。険しい山道も、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンたちならさほど問題にはな らないだろう。平坦な道を迂回すれば一週間以上かかるかもしれないが、山を越える道を行けばその半分以下の日数で辿り着けるはずだ。
 行き先が固まった後は、片付けをしてから眠りに着いた。
 翌日は雨が止んでいたが、天気は曇りだった。
 日課となっている鍛錬や朝食を済ませてからオクタムを発ち、トーンの門へと向かう。オクタムとトーンの門を隔てるように存在する山は思っていたよりも険 しく、越えるのには三日近くかかってしまった。それでも迂回してくるよりはかなり短縮できているはずだ。それに、山越えも足腰を鍛えるのに役立つ。
 山を下る途中でトーンの門も見えてきていた。
 ウィドナの冒険家から聞いた通り、門という名前であるにも関わらず、それを思わせるようなものは何もない。建物のような構造物も見当たらなかった。
 その場所は平坦な草原となっていて、花の蕾を思わせるような巨大なオブジェがあり、それを中心に四方向から面長の顔のような石像が見つめるような構図で配置されているだけだった。
「ここがトーンの門か……」
 ガラが辺りを見回しながら呟いた。
 扉のようなものは何もなく、ここからオクタムの人々が逃げ込んだと思われる地下へと行けるとは到底考えられない。
 この場所にあるのは中央の巨大な蕾のような石のオブジェと、四方にある石像ぐらいだ。遺跡、と呼ぶには殺風景にさえ思えるほどだった。
「……っ!」
 不意に、首筋が粟立つような寒気を感じ、ヴァンは身構えた。
 周囲に視線を走らせれば、ノアは後方へ飛び退いて腰を落とし上体を屈めるように前へ倒して獣のように身構え、ガラも鋭く目を細めて全身に緊張を漲らせていた。
 強烈な殺気だった。
 ほんの一瞬だけ、ヴァンたちに向けられた殺気は、今は感じられない。ただ、その方角は分かる。
「ほう……とんだ期待外れかと思ったが、少しは見所がありそうだな」
 やや低い落ち着いた男の声が響く。
 石の蕾の上で何かが弾け、煙幕が広がる。煙は直ぐに散って消え、誰もいなかったそこに一人の男が立っていた。
 影のように暗い紫色の装束に全身を包んでいる青年だった。逆立つように跳ねた緑がかった短髪と鋭い双眸、そして顔の下半分を首から伸ばした一体型のマスクで覆っている。その両腕は鋭角的ながらもスマートな籠手で覆っており膝から下も同様の装甲を持った具足で覆っている。
 そして、右手には腕の長さほどもある刃を持った『獣(セル)』が取り付いている。いや、良く見れば籠手や具足、胸部を守る軽装の胸当てもその『獣(セ ル)』が形作っているもののようだった。やや反った刀身を持つ『獣(セル)』は逆手に剣を持つかのような方向へと向けられている。
 腕を組むように立つと、刃で体の正面を守っているようにも見える。
「ゼトーを倒した『聖獣(ラ・セル)』の勇者とはどんな者かと思ったが、こんな子供だったとはな……」
 値踏みするかのような目でヴァンたちを眺め、男が呟く。
「おまえ、だれだ!?」
 獣のように身構えたまま、ノアが噛み付くように問う。
「なるほど、それなりにはやれるようだが、敗れるとはつくづくゼトーも情けない……」
「ゼトーだと……?」
 溜め息交じりの男が発したゼトーの名に、ヴァンは眉根を寄せた。
 その言い方からは、ヴァンたちの味方だとは思えない。先ほど向けられた殺気にしても、恐らくは敵なのだと、何となくだが察していた。
「貴様……その身に着けた『獣(セル)』は……!」
 ガラは男が身に纏う『獣(セル)』の異質さに気付いたようだった。
 男の態度は『霧』の中で『獣(セル)』に支配されている者のそれとはまるで違っている。『霧』の中でもまともに会話ができるゼトーや、人が身に着けていると見てわかる分、むしろソンギに近い。
 ゼトーが人だったのか、それとも『獣(セル)』だったのかは分からない。ただ、この男が何かを知っているのは間違いないだろう。もしかしたら、ソンギの手にした改造された『聖獣(ラ・セル)』についても知っているかもしれない。
 だが、男はガラの言葉には何も答えない。
「おまえ、いいやつじゃないな!? ノアにはわかる! おまえはわるいやつだ!」
 直感か、本能か、ノアは感覚でこの男の放つ邪気を感じ取ったようだった。
 確かに、とても友好的には見えない。攻撃や構える素振りは見せないが、隙を見せたら危険だと本能が告げている。
「……ふん、くだらんな」
 今にも飛び掛りそうなノアを鼻で笑い、男は石の蕾から飛び降りてヴァンの正面に立つ。
「小僧、どうやらお前が中心のようだな」
「……だったら、何だ?」
 油断なく構えたまま、ヴァンは答えた。
 男の目的が読めない。
「ふふふ……やはりな……」
 マスクで隠れた口から、くぐもった笑いが漏れた。
「どうだ、小僧? 俺と一対一で戦ってみないか?」
「なんで!? どうしてノアでなくヴァンひとりとたたかう!?」
 男の言葉に、ノアが噛み付いた。
「一対一の真剣勝負が我がデリラ家の作法だ。お前の相手はその後でしてやろう」
 目を細め、射抜くように男がノアを見る。
 ほんの一瞬込められた殺気に、ノアが反射的に半歩後ずさる。
「ヴァン、と言うらしいな。どうなんだ? 俺と戦うか?」
 挑戦的なその瞳の奥には、絶対の自信が満ちていた。一対一の真剣勝負、後でノアの相手をするという言葉からも、自分がヴァンに負けるとは微塵も思っていないのが分かる。
 デリラと言うらしい男はまだ身構えていない。だが、その佇まいに隙はなく、いきなりこちらから仕掛けても届かないのではないかと半ば確信できる空気がある。
「ヴァン、この男は危険です……!」
 メータが小声で警告する。その声には焦りも混じっている。
 言われなくても感じていた。今のヴァンでは、恐らくこの男に勝てない。正面から一対一でぶつかっては、勝ち目がない。
 メータが感じ取ったであろう、デリラの身に着けた『獣(セル)』の力と、ヴァンが直感的に感じ取ったデリラの実力は同じ結論を出していた。
 もしかしたら、ノアとテルマも同じように一対一では勝てないと悟ったのかもしれない。三人でなら、勝機はあるかもしれないが。
 だが、だからと言って逃げられるとは思えない。
「……いいだろう、やってやる!」
 僅かな間に、考えを巡らせて、ヴァンは意を決してそう答えた。
 ノーと言えば戦いが避けられるのかは分からない。油断すれば、三人ともこの場でやられてしまう可能性もある。決闘の申し出を断ったとして、見逃してくれるとは限らない。そこまで甘くはないだろう。
「ただし、やるのは俺とだけだ」
 そして、ヴァンは条件を突き付けた。
「ヴァン……!?」
 ガラが驚いたようにヴァンを見る。
「ほう……」
 それだけでデリラは意図を察したらしい。
 デリラはヴァンにとって格上の存在だろう。ヴァンがそう感じるだけのものがデリラにはある。それは逆に、デリラがヴァンを格下だと思うだけのものもあるということだ。
 何もせずにこのまま戦えば、ヴァン、ノア、ガラは一人ずつデリラに潰されてしまうかもしれない。このまま全滅するのだけは避けなければならない。
 もちろん、ヴァンも簡単に死ぬつもりはない。デリラと戦う中で強くなれば活路を見出せる可能性はある。だが、賭けでもある。
 万が一、ここでヴァンがデリラに殺されてしまったら、次はノア、ガラと続く。ノアかガラがデリラを倒してくれるならいいが、その確信が持てない。ノアもガラも、額に汗が浮いている。
 この男は、ゼトーよりも強い。
 ならば、ここでデリラの決闘を受けのはヴァンだけにする。ノアとガラを含めず、見逃させる。それを条件にヴァンは決闘を受ける。そうすれば仮にヴァンが ここで倒れても、ノアとガラが強くなる時間を稼ぐことができるかもしれない。創世樹を見つけてテルマとオズマを強化する時間を作れる。
「上に立つ器はあるようだな……それに、諦めているわけでもない」
 その声はどこか嬉しそうにも聞こえた。
「当たり前だ……死ぬつもりでなんて戦うかよ」
 少しずつ早くなる鼓動を抑えるように、ヴァンはゆっくりと息を吐く。
 この戦いでデリラを超える強さに達するしかヴァンが生き残る術はない。恐怖がないとは言えない。だが、これは逆にチャンスでもある。ここでこの男を倒すことができれば、ヴァンは確実に強くなれる。
「いい心がけだ……さあ、覚悟しろ!」
 半身になるように右足を引き、人差し指と中指を立てるように残して左手を軽く握り、それを体の正面、前方へと置く。そして右手を相手から隠すように体の後ろへ回した、やや前傾姿勢の独特の構えだった。
 ヴァンも左手で腰から短剣を抜き放ち、右手を後ろへ引いて身構えた。
 ノアとガラは少し下がり、ヴァンとデリラを見ている。何も言わずに、いや、何も言えずにいる。油断なく構えているノアに、未だに緊張感を身に巡らせてい るガラも、この戦いに手を出すことは考えていないようだった。いや、もしかしたらヴァンが危険な状況になれば一対一という条件を破ってでも助けようとする かもしれない。ただ、今はヴァンの言葉の意図を酌んで様子を見てくれているようだ。
 デリラから殺気が放たれる。
 強烈な突風でも吹いたかのような重圧に、足が竦みそうになる。全身から汗が噴き出し、総毛立つような錯覚さえ覚える。ぐっと奥歯を噛み締めて、意思を強く持つ。平然としているかのように、何でもないかのように、殺気を正面から受け止め、耐える。
 目は敵から決して逸らさない。負けてたまるかと心を奮い立たせて、睨み据えるように敵の目を射抜く。
 デリラの、マスクで覆われた口の端が僅かに吊り上がる。好敵手と認めたとでも言うかのような笑みだった。
 そして、まさにヴァンとデリラが動こうとした時だった。
「あ、兄者!」
 突然、どこか慌てたような男の声がその場に割り込んだ。
 お互いに踏み込もうとしていたヴァンとデリラは勢いを殺がれて動きを止める。
 デリラの背後に筋骨隆々の大男がどこからともなく現れていた。土色の胴着のようにも見える上下の服に、銀の具足と腰当を身に着け、右手には巨大な鎚を握 り締めている。目を引く巨大な鎚は一般的な大人の胴回りよりも太く、かなりの重量がありそうだ。先端が尖っていることもあり、叩き潰すだけではない凶悪さ も見える。そして、その鎚を握る右手は肩から指先にかけてまでを暗銀色の『獣(セル)』の籠手が覆っている。もしかしたら、大槌も含めて『獣(セル)』か もしれない。
 口元はデリラと同じようにマスクで覆われているが、この大男は右目にだけ片眼鏡のようなものを着けている。トサカのように中央にだけ残された黄色の髪が印象的だ。
「兄上!」
 次に聞こえたのは女の声だった。
 どこから現れたのか、デリラの直ぐ横に着地する。すらりと伸びた肢体は体のラインが出る青紫のタイツのような衣装に包まれており、両肘から先と両膝から 先が防具に包まれている。赤紫色の短髪に、口元をマスクで覆った切れ長の目つきのスタイルの良い女性だ。両肩は髪と同じ赤紫色の肩当で覆っており、何故か 左の腿だけが露出している。大男やデリラと違い、目に見える武器らしいものがない。刺々しさのある籠手と具足が恐らくは『獣(セル)』なのだろう。
「……どうした?」
 一対一の勝負に水を差されたせいか、やや怪訝そうにデリラが横目で問う。
「……ニルボア……、ブリズマが……」
 ぼそぼそと女がデリラに耳打ちする中で、その二つの単語だけを辛うじて聞き取ることができた。
 『聖獣(ラ・セル)』の聴力強化をもってしても、それが限界だった。彼らも『獣(セル)』を身に着けているからだろう、極力声を抑えて話している。
 そして、伝令を聞いている今もデリラの注意はヴァンたちに向けられていて隙がない。
「そうか……分かった」
 話を聞いていたデリラの表情が僅かに変わった。
 構えを解き、デリラが一歩後ろに下がる。
「お前たちは何者だ……! 何が目的だ?」
 ガラが叫ぶように問い質す。
「ふふふ……そう言えばまだ名乗ってはいなかったな。いいだろう、教えてやる!」
 マスク越しでも、にやりと笑っているのが分かる。
「華麗に舞い、一撃必殺で急所を撃つ、技のギ・デリラ!」
 右手の刃を前方に構えて声を張り上げる。
「疾風迅雷! 神速果敢な美しき闘士! 疾風(はやて)のル・デリラ!」
 女はそう言いながら胸を張るように両手を腰だめに引き、片足立ちになり背筋を伸ばす。
「いつでも火事場のくそ力! 力のチェ・デリラ!」
 手にした大鎚を勢い良く振り下ろし、反動で跳ね上がったそれを肩に担ぐようにして後方へ引き、代わりに突き出した左手の力こぶを見せ付けるようにしながら大男が叫ぶ。
「我ら、デリラ三兄弟!」
 高らかに宣言する三人の声が揃う。いつの間にか三人が並ぶように立っている。
 ギ・デリラは中央で両手を高く掲げ、その隣では手を開くように伸ばして肩膝をつくように腰を落としてル・デリラが構え、反対側ではチェ・デリラが左上腕の筋肉を強調するように腕を曲げながら胸を張っている。
「デリラ三兄弟……だと?」
 異様さにガラがたじろぐ。
「ヴァン、お前と遊んでやりたいところだったが、残念だがその時間がなくなった」
 構えを解き、自然体に戻ったギ・デリラがヴァンを見据えてそう言った。
「だが、お前は中々に楽しませてくれそうだ。憶えておくぞ」
 ギ・デリラは笑っていた。面白い玩具を見つけたとでも言うかのように。
「そして、その命、次に会った時は貰い受ける」
 ギ・デリラが後ろに一歩下がり、ル・デリラとチェ・デリラに並ぶ。
「待て! お前ら一体……!」
 ヴァンが言い終えるのを待たずに、ギ・デリラが地面に何かを叩き付けた。
 何かが爆発したように一瞬光を放ち、その場に煙幕が生じる。同時に、三人の気配が消えた。
「くっ……!」
 煙幕は直ぐに晴れたが、やはりそこには誰もいない。
 周囲に気配を巡らせてみても、もうこの場にデリラ三兄弟はいなかった。
 ヴァンは両膝をつき、両手で倒れそうになる体を支えた。
「ヴァン!」
 ノアとガラが駆け寄ってくる。
「大丈夫……、ちょっと疲れただけだ」
 大きく息を吐いて、ヴァンは立ち上がった。
 戦ってはいない。ただ、対峙しただけだ。それなのに、全力で動き回った後のような疲労感がある。かなりの緊張感があった。
 ギ・デリラはヴァンとの戦いを遊んでやりたいところだった、と言っていた。自分の勝ちを確信した言い方だ。
「デリラ三兄弟と言ったな……」
 ガラは石の蕾の上を見ながら呟いた。
 彼らが敵なのは間違いない。あの三人はゼトーのことを知っているようだった。それも、『聖獣(ラ・セル)』に負けたゼトーを情けない、と言えるような関係で。
 しかもそれだけではない。
 彼ら三人は明らかに人間だった。『獣(セル)』に意識を支配されているという可能性もあるが、ヴァンたちのような他者との会話が成立するほどに自我を持っている。人間としての自我なのか、『獣(セル)』としての自我なのかまでは分からない。
 ただ、彼らの様子から組織的な何かがあることは伺える。恐らくは、ゼトーもそこに属していた『霧』の使徒だ。
「厄介な奴が現れたね……」
「あれは何なんだ?」
 どこか忌々しげなテルマの呟きに、オズマが問う。
「分からない……ただ、普通の『獣(セル)』ではないことだけは確かだわ」
 オズマの声からもどこか戸惑いが感じられる。
 自然発生した『獣(セル)』であったなら、ああはならない。これまで見てきたような『霧』によって発狂している『獣(セル)』とは明らかに違う。ゼトー寄りの存在だ。
「……奴らを追えば何か分かるのか?」
 ガラが知りたいのは、恐らく彼らの身に着けている『獣(セル)』のことだろう。
 ソンギがゼトーから受け取った『獣(セル)』に繋がる手がかりがあるかもしれない。
「けど、あいつらは強い……」
 ヴァンは呟いた。
 今のヴァンたちでは、届かない。もっと強くならなければならない。
 ふと、見ればノアが妙なポーズを取っていた。よくよく見てみれば、ル・デリラが取っていたポーズに似ている。真似ているようだ。
「何をしているんだノア……」
 右手で目を覆って、ガラが大きく溜め息をついた。
「えへへ……」
 敵がいなくなったせいか、ノアはいつもの調子に戻っていた。
 切り替えが早い。
「とりあえず、ここを調べようか」
 ヴァンも苦笑すると、気を取り直してこの地の調査をすることにした。
 今デリラたちについて考えても仕方ない。
 改めてトーンの門を見回してみる。中央にある石の蕾を見つめるように四つの巨大な顔のような石像がある。その石像の根元に何かがあることに気付いた。
 近付いて寄ってみると、かすれかけた文字と不思議な四つの絵が並んでいる。
「いにしえを訪ねる者よ……南の鍵に触れよ……?」
 ヴァンは目を凝らして文字を読み上げる。
 それから、石の蕾を見て、周りの石像を見て、目の前の石像を見上げ、絵の描かれた石盤に目を落とす。
 この石像は石の蕾から見て南に位置している。絵が描かれた石版は角の取れた丸に近い菱形をしており、上下左右に溝が走って区切られている。右上は燃え盛 るような炎のような抽象画が彫られた赤色の石版だ。右下は水色の石版に流れる水のような抽象画が彫られている。左上は緑色の石版に吹き荒ぶ風のような抽象 画が彫られている。そして左下は黄色の石版に広大な大地を示すような抽象画が彫られていた。
「鍵に触れよ、というのはどういうことだ?」
 ガラが腕を組んで首を傾げる。
「えっと、確かオクタムでメモしたのがあったはず……」
 ヴァンは荷物袋の中からオクタムで得た情報を記したメモを探した。
 三人でメモを読み直す。
「そういえば、信託の書にある通りだな」
 ふと、ガラが呟いた。
 信託の書には、レムの懐への道はトーンの門あるのみ、とあった。そのトーンの門は石の花であり、花を開くは、四面の顔に刻まれた『言葉』であるらしい。
 トーンの門が花であるなら、石の蕾である今は門は閉じているということになる。
 レム神殿にあった顔の形をした石像が恐らくこのトーンの門の顔と対応しているのだろう。
「四面の顔の言葉は、北が地、東が風、西が火、南が水、だったな」
「じゃあこれかな?」
 ヴァンが言うと、ノアが水色の石版に触れた。
 だが、何も起きない。
「あれ?」
 ノアは不思議そうに首を傾げている。
 ヴァンもガラと顔を見合わせて、石版を良く見る。ノアはしっかりと石版に触れているし、何かが動く気配もない。
「どういうことだ?」
 メモにもう一度目を落とし、顔の方角と言葉が一致していることを確かめる。
 その拍子に、メモと一緒に持っていた星の真珠が手から落ちた。
「おっと」
 落下する星の真珠を、ヴァンは右手で受け止めた。と、その右手の甲がノアの触れている水色の石版に触れた。
「あっ!」
 その瞬間、水色の石版が淡い光を帯びた。思わずノアが声をあげる。
「そうか、星の真珠が鍵になっているのか」
 ガラが納得したように言った。
 よく考えてみれば、このトーンの門はずっと昔から謎の遺跡として存在しているのだ。手当たり次第に触れられたところが反応していては、直ぐに仕掛けが作 動してしまうはずだ。誤作動や、意図しない作動をしないためにも、星の真珠と共に触れることでしか反応しないように作られていたのだ。
「そういうことみたいだな」
 ヴァンたちは星の真珠を手に、他の三つの石像の元でも同じように石版に触れて行った。
 レム神殿の石像に示されていたのと同じになるように、東の石像では緑色の風の絵柄が彫られた石版に、北の石像では黄色の地の絵柄が刻まれた石版に、そして西の石像では赤色の火の絵柄が描かれた石盤に触れた。
 それぞれ触れた石版が淡い光を帯びる。
 四箇所すべてに触れたところで、異変は起きた。
「ヴァン! あれ!」
 いち早く気付いたノアが石の蕾を指差す。
 地鳴りと共に、中央の石の蕾がゆっくりと動き出していた。最初はゆっくりと震えるように振動していたが、やがて花が咲くように緩やかに花びらが開き始めた。
「わくわく……!」
 ノアは目を輝かせて、石の花が咲く様子を見つめている。
「全く、何というからくりだ……」
 ガラも感心したように呟いた。
 一体どんな技術を使って作られているのだろうか。蕾の状態でも近くに寄って触ったりしてみたが、石のようにしか感じられなかった。それがまるで柔らかい物で出来ているかのように滑らかに動いている。俄かには信じられない光景だ。
 石の花の花弁の一つは、まるで入り口だとでも言うかのように地面にぴったりと付くまで開いた。そこから花の中央に乗れそうだ。
「すごい! すごいよ! おおきないしのはながさいたよ!」
 ノアは興奮した様子で、開き切った石の花とヴァンたちを交互に見ている。
「ん、何かあるぞ?」
 ヴァンはその石の花の中央に何かが蠢いていることに気付いた。
「あれがオクタムの地底に通じる道の入り口なのか?」
 ガラも気付いたようで、不可思議そうにそれを見つめている。
 三人で近付いてみると、水色の透き通った液体のような何かが揺れ動いている。
 ノアがそっと触れてみると、抵抗もなくノアの手が埋まっていく。だが、それの中にノアの手が入っているわけではないようで、ただノアの手の形に押し退けられているだけのようだ。
 手を引いたノアの手は濡れているわけでもなく、何も変化はなかった。
「なんかへんなかんじ」
 つついたりしながら、ノアが呟く。
 ヴァンとガラも触れてみたが、確かに不思議な感触だった。水のようではあるが、それほど冷たさを感じず、手応えも雲を掴んでいるかのようだった。何かが あるのは分かるし、触れれればその分の感触は返ってくるのだが、抵抗感はほとんどない。水の詰まった袋の、袋の素材の感触をなくしたような感じだろうか。
「む、何か書かれているぞ」
 ガラが石の花の付け根に文字が書かれているのを発見した。
 水色の風船のようなものが生えているその直ぐ脇に文字が書かれていた。
「心せよ、星の真珠はいにしえの道を開く……」
 書かれていたのは、そんな言葉だった。
 ヴァンは手に持っていた星の真珠を水色の不思議な物体に触れさせた。
 一瞬、水色の不思議な物体が淡い光を帯び、震えたかと思うと大きく膨らんだ。それまで水溜り程度だったものが、ヴァンたち三人を丸ごと包み込めるぐらいの大きさになっている。
「わ、おおきくなった!」
 ノアが驚いたように目を丸くする。
「これが入り口なのか?」
 ガラはどこか疑わしげだ。
「神託の書とかに書かれてた通りなら、多分……」
 ヴァンも半信半疑ではある。
 この良く分からない物体が扉とはとても思えない。だが、だからこそこれまで謎の遺跡として存在していたとも考えられる。
 周りを見回しても、他にそれらしい物もない。
「行ってみるか」
 ヴァンはノア、ガラと顔を見合わせて、頷き合ってから水色の不思議な物体に手を伸ばした。
 それまでは避けるように蠢いていたものが、水色の物体の中に自然と入り込むように触れた手が包まれた。水色の扉の中に吸い込まれるように、表面を擦り抜けて三人は中に入り込んだ。
 水の中にいるような感覚はない。中に何かが詰まっていたというわけではなく、風船のように境界だけが存在していたのだろうか。
「息が出来る……本当に妙なものだな」
 ガラが呟いた。
 内側でも普通に呼吸が出来ている。外は少し歪んで見えるが、中にあるものまでは歪んでおらず、はっきり見える。
「これも『獣(セル)』を使った技術なのかな……」
 ヴァンは感心したように溜め息をついた。
 一体、いつ作られたものなのだろうか。『霧』の中でも特に異常さもなく動いていることを考えれば、『獣(セル)』そのものは使われていないはずだ。
「わ!」
 と、ノアが声をあげた。
 水色の物体がゆっくりと花の中に沈み始めていた。
 中にいるヴァンたちも同じように、沈んで行く。石の花の中央に小さな穴が出来ていた。水色の物体が沈むにつれて穴は大きくなり、まるで石を押し退けるかのようにゆっくりと広がっていく。穴の中の様子はここからでは暗くて見えない。
 やがて穴はヴァンたち三人を飲み込む程に広がり、目線と地面が同じぐらいまで沈み込むと穴はゆっくりと閉じ始めた。
 立っている足場の感触が、突然変わったと思った瞬間には、ヴァンたちを包んでいた水色の物体はいつの間にか消えていた。
 硬質な床の感覚に、ヴァンたちは辺りを見回す。
 それぞれの『聖獣(ラ・セル)』が淡い光をその身に灯し、周囲を照らしてくれた。
「ここは……」
 恐らくはトーンの門の地下なのだろう。
「……人の手が入っているようだな」
 ガラが床に触れ、辺りの様子を見て呟いた。
 明かりになるようなものは見当たらないが、明らかに自然な道ではない。床面には、同じ大きさに揃えられたブロック状の石材が規則的に並んで通路を形成しており、壁面や天井も自然に出来た洞窟を利用しているとは言い難い程整っている。
 何者かが作った通路であることは間違いないだろう。
 出入り口になるようなものは見当たらず、ここから外に戻る手段はなさそうだった。
 ただ、よく見ればここには『霧』が入り込んでいない。どうやらあの妙な入り口の仕掛けによって、『霧』を完全に遮断しているようだ。
「とりあえず、進むしかなさそうだ」
 ヴァンの言葉に、ノアとガラが頷いて歩き出す。
 最初は狭かった細い通路だが、暫く進むと開けた場所に出た。
 こちらは人の手が入っている様子はなく、天然の地下空洞のようだ。
「すごーい!」
 初めて見る景色に、ノアは興奮していた。
 灯りらしいものは見当たらないが、淡い光を帯びた結晶のようなものがまばらに散っていて、薄暗くはあるものの、視界が確保されている。
 広大な空洞はどこまでも続いていた。
「落ちたらひとたまりもなさそうだな……」
 ガラは下を覗き込んで呟いた。
 この空洞はかなり広大なようで、底が見えない。
 通路として用意されているらしい、正方形の石材も、支えている柱のようなものは見当たらなかった。一体どんな技術で固定されているのか分からないが、ま るで空中に固定されているかのように安定している。一先ず、この足場を辿って行けば落ちてしまうということは無さそうだ。
 もちろん、だからと言って油断はできない。
 大空洞は鍾乳洞のようになっている場所もあり、どこか神秘的な印象がある。『霧』が入り込んでいないせいか、『獣(セル)』の気配は全くない。この環境に適応した野生の動物がいくつか動き回ってはいるようだが、特に問題にはならなさそうだ。
 ただ、足場が悪いせいでそれらの野生動物を捕らえて食料にするというのは難しいかもしれない。切り詰めれば食料はまだ数日長持ちさせることはできそうだが、限度もある。あまりゆっくりはしていられない。
「セブクス群島の地下はどこもこうなっているのか……?」
 先の見えない暗い道を延々と歩きながら、ふとガラがそんな疑問を口にした。
 そう言えば、セブクス群島の地下には火山帯が広がっているという話をウィドナで耳にした。セブクス群島全ての場所がそうとは限らないが、こういった地下空洞のような場所は意外と多く存在しているのかもしれない。
「……ヴァン?」
 地下空洞を歩いていたノアは、黙り込んでいたヴァンの顔を前に回り込んで下から覗き込んできた。
「どうしたの……?」
「いや……」
 ヴァンは言葉に詰まった。
「デリラ三兄弟のことを考えてた」
 それから少しだけの間をおいて、ヴァンは言った。
 ノアとガラの表情が僅かに強張るのが分かった。
 デリラ三兄弟の出現は衝撃だった。
「あそこまでやっておいて何だけど……戦わずに済んで、ほっとしてるんだ」
 ヴァンは目を細め、右手を握り締めた。
 あの場で退くという選択肢はなかった。メータと共に、『霧』に立ち向かうと決めたからだ。
 ギ・デリラと戦うことに対して迷っていたわけではない。人間が相手であることに、戸惑っている。あの時はそんなことを考える余裕がなかったから気にならなかっただけだ。デリラたちが退いたことで、あの時のことを思い返す余裕が生まれた。
「いくら相手が『霧』に与しているとは言っても、あいつらは……」
 ヴァンの声は、次第に小さくなっていく。
 いくら敵だとしても、デリラ三兄弟は明らかに人間だった。『霧』に操られているだけという可能性もある。人にそっくりな『獣(セル)』なのかもしれない。
 メータたちは、何も言わない。
 『聖獣(ラ・セル)』たちにどうこうできる問題ではないのは分かっている。いくら『獣(セル)』の上位存在とは言え、『霧』の中にある全ての『獣(セル)』を従わせる力はない。『聖獣(ラ・セル)』に出来るのは、身に着けた者に力を与え、助言し、道を示すことだけだ。
「……だとしても、やらねばならん」
 小さく、だがはっきりとガラが言った。
 頭では分かっていることだ。
 その手で人間を手にかけることになるかもしれない。
 ヴァンたちがこの旅を止めでもしない限り、いずれはデリラ三兄弟とぶつかることになる。確信めいた思いがあった。きっと、避けては通れない相手だ。
 相手が何であろうと、戦うしかない。
 今まで可能性として、考えたくなかっただけだ。目を逸らしていたに過ぎない。
 もしかしたら、ゼトーも元は人間だったかもしれない。
「分かってるさ……」
 ヴァンは歯噛みした。
 分かり切っていることだ。
 やらなければならない。
 やると決めた。
 諦めるという選択肢はない。
 ならば、覚悟を決めろ。
「わるいやつは、ぎゃふんしないとだめだ!」
 ノアは鼻息荒く、言い切った。
 ヴァンが葛藤していることの真意に気付いているのかいないのか。
 ただ、一つだけ言えるのは、こんな事態を招いた『霧』に与する者を許すつもりにはなれない、ということだ。殺し合いになるかもしれないことはともかく、彼らの暗躍をこのまま見過ごすつもりはない。
「そうだな」
 一つ頷いて、ヴァンは前を見据えた。
 先の見えない地下空洞の通路の奥へ向けて、一歩ずつ進んで行く。今はただ、できることをしていくしかないのだ。
 地下空洞はかなり長く続いていた。日の光が当たらない地底では、方角も分かり難く、地図がアテにならなかった。石畳のように規則正しく並べられた石のブ ロックは、まるでヴァンたちを誘導するかのようにずっと続いている。途中で分かれ道のようなところもあったが、石の道から外れるルートはどれも途中で行き 止まりになっていた。
 よくよく調べてみると、この石ブロックは地下空洞内に広がっている壁や天井、地面とは違う材質で出来ているようだった。明らかに作られた道だった。
 地下通路は下が見えないような空洞地形ばかりというわけでもなく、普通の洞窟のように通路が岩壁で包まれた地形のところもあったため、そういった落下の心配がない場所を選んで睡眠や休息を取りながら進んで行った。
 トーンの門から地下へ入って三、四日ほど経っただろうか。太陽の動きが分からないため、時間の感覚が曖昧になっていた。
「ヴァン! あかりがみえたよ!」
 角を曲がったところで、前方に明かりが見えた。
 走り出したノアを追って、ヴァンとガラも駆け出す。
 門のようになっている穴を潜ると、その先には町が広がっていた。
 これまで通ってきたところが狭く感じるほどの巨大な空間がそこには広がっていた。ただ、ここまで来た通路と同じように、下は底すら見えない深い穴になっ ていて、大きめの地面同士は少し細くなった橋のような通路で繋がっている。足を滑らせたらひとたまりもなさそうなのは変わらない。
 どうやら、地の底から伸びている台状の土地の上に家を建てているようだ。ただ、この広い空間の大きさにしては、家を建てられるほどの土地は少ない印象がある。
 良く見ればヴァンたちが立っている地面も、これまでの通路のような岩肌や石のブロックのようなものではなく、赤茶けた色の地面になっている。成分としては土っぽさがこれまでの洞窟通路よりも増しているようだ。
「おあああああ! ヴァン、ガラ! ここ、まちだよ! ひともいっぱいいる!」
 ノアが興奮したように声をあげた。
「うむ、どうやら、ここがオクタムの地下のようだな……」
 ガラ周りを見回して頷いた。
 歩いて来た距離を体感で計算しても、大体オクタムの真下ぐらいには到達しているはずだ。
「オクタムなら、ここにハリィいるよね!」
「神託や伝言通りなら、そのはずだな」
 ヴァンの言葉に、ノアの表情が一気に明るくなる。
 今までハリィに示された情報の限りでは、ハリィがいる場所はオクタム以外にない。ここがオクタムの地下であるならば、ハリィもここにいるはずだ。
「ノアにゆめのことぜんぶおしえてくれるかな……?」
「まずはこの町を回って情報収集だな」
 うずうずしているノアに苦笑して、ガラが言った。
「うん! はやくハリィにあいにいこう!」
 気になっていた夢のことを教えてくれるかもしれないハリィに近付いていることで、ノアはいてもたってもいられないようだ。
 考えてみれば無理もない。
 ノアにとって、夢は両親に繋がる唯一の手掛かりだった。その夢について何か分かるかもしれない。テルマがいたとは言え、これまでずっと一人で生きてきたノアにとって、両親の存在はやはり特別なもののはずだ。
「足元に気をつけろよ」
 ヴァンの声が聞こえているのかいないのか、ノアが走り出す。
 洞窟から近いところにいた住人のうち、何人かがヴァンたちの存在に気付いたようだった。見慣れぬ顔ぶれを見てか、驚いたような表情をする者が多い。
 ノアが手を振りながら駆けていく。ヴァンたちもそれを追う。
 その時だった。
 地面が、揺れた。
「きたぞ! 地震だ!」
 誰かが大声で叫んだ。
「地震だと!?」
 ガラも驚いた様子でその場に身を屈め、重心を低くして周囲を見回す。ほとんどの家から住人が慌てた様子で飛び出してくる。
「わ!」
 走っていたノアがバランスを崩していた。
「ノア!」
 ヴァンはノアの腕を掴み、自分の方へ強引に引き寄せて、片膝をつくようにして腰を落とした。
 一度大きく揺れた後、静かに揺れていたものがまた強くなりだした。ヴァンたちのいる足場の揺れはそこまで大きくない。別の場所から大きな地鳴りが聞こえてくるようだった。大地が軋むような音も聞こえる。
「デボラの家がやられるぞ!」
 また誰かの叫び声がした。同時に、その声に導かれるように、一つの家に多くの視線が注がれる。ヴァンたちもその視線の先を追った。
 ヴァンたちが入ってきた場所に程近い、通路は迂回しなければ辿り着けないが、位置としてはほぼ向かいにある小さめの台地が大きく揺れていた。
「あわわわわわわわ……! ゆ、ゆれる、ゆれる! た、た、た、助けて!」
 家から飛び出してきた中年の女性が地震の揺れに足をもつれさせて転ぶのが見えた。
 パニックを起こしている。恐怖に顔が歪んでいる。地面の揺れと、恐怖による震えで上手く立ち上がれずにいた。
 台地を繋ぐ細い通路が崩れ始めていた。向かいの台地に男性が駆け寄っていくが、崩れてしまった通路に呆然としている。地面が、傾き始めていた。
「メータ!」
 ヴァンは右手を握り締めながら、走り出していた。
 目の前に通路はない。今いる台地の縁から思い切り地面を蹴り、デボラの下へと跳んだ。メータが得た風の『獣(セル)』の力で衝撃を極力打ち消して着地し、驚いている女性の腕を引いて肩に抱え上げた。
「え、え、え!?」
「しっかり掴まっててくれ!」
 驚くデボラにそれだけ言うと傾き始めた台地を思い切り駆け出した。
 足に力を込めて、力強く走る。揺れと傾きをものともせずに、ヴァンは跳んだ。崩落した通路の手前で呆然としていた男性の傍に着地して、デボラを下ろす。
「あ、あ、あああ……」
 家の方を見て、デボラが呆然としている。
 背後を振り返れば、家と地面が地の底へと消えて行くところだった。柱の根元が折れたかのように、台地が沈んで行く。その光景に、背筋が凍り付くようだった。
 あと一歩遅かったら、助けられなかった。
「ヴァン!」
 ノアが駆け寄ってくる。
「まったく、何て無茶をするんだ!」
 直ぐ後ろから、ガラが走ってくるのが見えた。
 いつの間にか、地震はおさまっていた。
「あんたたちは一体……?」
 地震がおさまって我に返ったのか、呆然としていた男の一人がヴァンたちに話しかけてきた。
「俺たちは、ハリィに会いに来たんだ」
 ヴァンは周りに集まってきた人々に向かって、はっきりとそう告げた。
「ハリィ様に……?」
 住人たちが顔を見合わせる。
「も、もしかして外の『霧』が晴れたの?」
 一人の女性が、期待と不安の入り混じった声で問う。
 ヴァンたちがオクタムの人間ではなく、外部から来たことに気付いたようだった。
「いえ、残念ですがまだ『霧』は晴れていません」
 ガラが首を横に振る。
「そ、そうよね、やっぱり……。私たち、ここで怯えて暮らすしか……」
 女性の表情が落胆に変わり、項垂れる。
 地上のオクタムから逃げ込んできたとすれば、彼らは十年以上もの間、ここで過ごしていることになる。もしも、先ほどのような地震による台地の崩落がこれまでに何度も起きているのだとしたら、住人たちの心が折れてしまうのも無理はないように思えた。
「だいじょうぶだよ! ノアたちがきり、はらすから!」
 ノアが自分の胸を叩く。
 その言葉に、住人たちがざわめいた。
「それは、どういうことですかな?」
 住人たちの中から、恰幅の良い男性が歩み出てきた。人当たりの良さそうな温和そうな顔をしているが、どこかやつれたような表情にも見える。
「ああ、えっと、まずは俺たちのことを話しますね。ここに来た理由も、一緒に」
 ヴァンは周りの人たちを一度見回して、ガラ、ノアと共に話し始めた。
 身に着けている『聖獣(ラ・セル)』に導かれて『霧』を晴らす旅をしていること。『聖獣(ラ・セル)』と創世樹の覚醒により『霧』を晴らすことができる こと。ドルク王領やジェレミは『霧』がなくなっていること。ウィドナでサシアという巫女からハリィの伝言を聞き、レム神殿で神託の書を読み、トーンの門を 通ってここに辿り着いたこと。
 そして、ハリィに会いに来たことをヴァンたちは掻い摘んで説明した。
「なるほどそうでしたか……しかし今ハリィ様に会うことはできないのです」
「ええーっ、ハリィにあえないの!?」
 全てを聞き終えると、市長だと名乗った男が申し訳なさそうに言った。すぐさまノアが困ったような声をあげる。
「どういうことですか?」
 ガラも怪訝そうに眉根を寄せた。
 ここに来るように言われて来たというのに、会えないというのもおかしな話だ。
 オクタムの周辺に創世樹がないことははっきりしている。『霧』を晴らすという目的でここに立ち寄る必要がないのは誰の目にも明らかだった。ハリィに会えないのであれば、ここまで来た意味がない。
「ハリィ様は獣神レムがそのお言葉を託された時にのみ目覚め、それ以外は眠りについているのです」
 住人たちの中から、サシアと同じ巫女装束に身を包んだ女性が歩み出て答えた。
「ハリィ様を無理に起こせば、身体を離れた心が遠い世界に置き去りにされると言われています。ですから、誰であろうと、眠っているハリィ様に近付くことは許されていないのです」
 巫女の女性の隣に、紺を基調としたローブのような装束を纏った妙齢の女性が立ち、付け加えるように言った。
「ハリィ様が目覚めれば、何か策を与えて下さると思っているのですが……」
 疲れた笑みを浮かべ、市長が肩を落とす。
「もう五年もお目覚めになっていないのです。こんなに長くお休みになられたことは、今まで一度もありませんでした」
 巫女の一人が、心配そうに呟く。
「危機が迫っていることは分かりますが、私たちには祈ることしかできません」
 紺のローブを纏った女性が目を伏せる。
 周りの人たちの表情も暗いものだった。
 思わず、ヴァンたちは顔を見合わせていた。
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