第十五章 「ハリィ」 地底のオクタムの町には諦めにも似た空気が流れていた。 町の外を出歩いている人の数は少なく、活気も感じられない。外から来たヴァンたちに興味を惹かれて集まってきた住人たちも、ヴァンたちがここを訪れた目的がハリィの言葉を聞くためだということを知って、少しずつ散っていった。 外の『霧』が晴れたわけではなく、地上へ戻ることはできない。ヴァンたちが何かを変えてくれると期待している人は少ないようだった。 「さっきの地震、見たでしょ?」 ヴァンたちがどうするべきか話し合おうとした時、女の子の声が聞こえた。 綺麗な青い髪を、頭の後ろで束ねた女の子だった。黄色いスカーフを首に巻いており、その下は赤を基調とした上下を着込んでいる。可愛らしい女の子だ。 ネネと同じぐらいだろうか。もう少し年上のような気もする。 「ああ……しかし、信じられん。悪夢にも程がある」 ガラは地の底へと消えていった台地があった場所を見つめて、答えた。 底が見えないこの高さから落ちたのでは、いくら頑丈な『獣(セル)』を身に着けていても無事では済まないだろう。 「でも、あんなのここじゃ日常茶飯事なのよ。人が死ななかっただけマシね……」 女の子が真っ暗な地の底を見下ろして、溜め息交じりに呟く。 「なっ……」 ヴァンたちは絶句した。 あのような地震による被害はたまたまではなく、頻繁に起きていることだというのだ。 「教えてくれ、ここは今どうなってるんだ?」 ヴァンは聞かずにはいられなかった。 まずは、この町が今どういう状況にあるのかを知りたい。 「ここ一、二年で地震が増えたの。あ、私はキーナって言うの」 キーナは、ぽつぽつと語り始めた。 十年以上前、まだ地上のオクタムに人がいて、『霧』が現れる前のことだ。ハリィが獣神レムから言葉を託され、『霧』の脅威をいち早く察知することができたオクタムの住人は、地下へ逃れた。 オクタムの地下にはレム遺跡と呼ばれる地下空間が広がっており、そこを再利用する形で地下に町を作ったのがこの場所ということらしい。レム神殿の奥、エ レベータがあった場所は元々長い螺旋階段のようになっていて、地下の遺跡に続いていたようだ。住人を避難させるに当たってエレベータを作ったようだった。 家を建て、畑を作り、どうにかオクタムの住人全てが暮らせるようになった。 だが、ここ一、二年になって頻繁に地震が起きるようになったらしい。 「この前も、きのこ畑の一つが地震でなくなったの」 キーナの視線の先には、何もない。本来ならそこには台地があり、食料源となる畑があったらしい。 食料を生産する場所は他にもまだ残っているようだが、このまま地震で畑が崩れ落ちて無くなって行けば、いずれオクタムの住人たちは飢え死にしてしまう。 「何だか、狙い撃ちにしてるみたい……」 キーナが溜め息をついた。 それまでにも地震はあったようだったが、ここ一、二年で増えた地震では必ず台地が一つは崩れるようになったのだとキーナが教えてくれた。 家や畑といった、人が生きるのに必要なもの、大切にしているものを狙い撃ちにしているかのようだと、キーナは憂鬱そうに言った。 この地下空洞の広さを見るに、既にかなりの数の台地が地震によって崩落しているようだった。きっと、それなりに死者も出ているはずだ。 「あなたたち、ハリィ様に会いに来たんでしょ?」 「うん……でも、ハリィねてるって……」 キーナの言葉に、ノアがしょんぼりした顔で答えた。 「ハリィ様のいる瞑想宮はあそこよ」 キーナが指差した方角には、他の家とは少しだけ雰囲気の違う建物があった。 資材が無かったのか、オクタムの石造りの民家はどれも外壁は素材のままだが、瞑想宮と呼ばれた建物だけは綺麗に白く塗られている。入り口には甲冑を着込み槍を手にした衛兵が立っている。 「ハリィ様は、普段は市長さんか巫女しか会えないんだよ。目が覚めても、あなたたちが会えるかどうかは分からないの」 「むぅ、そうなのか……」 キーナの言葉に、ガラが唸る。 ハリィと直に会うことができるのは、ハリィに仕える世話役の巫女たちか、町を預かる市長だけらしい。巫女の話から考えれば、ハリィを起こすことができない以上、ヴァンたちの方から会う手段はない。 「ハリィにゆめのこと、おしえてもらいたいのに……」 ノアが肩を落とす。 「とりあえず、今日は宿を探して休もう。これからどうするかも考えないといけないし……」 ヴァンはノアの肩にそっと手を置いて、言った。 道中ではゆっくり休めているわけではない。休息を取るのも大事なことだ。それに、腰を落ち着けて今後のことを考える必要もある。 道端で立ち話をし続ける訳にもいかない。 「あ、宿屋は一杯だよ」 ヴァンの言葉を聞いて、キーナが思い出したように言った。 「そうなのか?」 「家を失くした人たちは、市長の家か宿屋で寝泊りしてるのよ」 ガラが問うと、キーナが困ったような表情で教えてくれた。 これまでの地震で相当な数の家が地の底に落ちていってしまったらしい。助かった人の多くは宿屋か、市長の家に宿泊することでどうにか過ごしているようだ。 「参ったな……市長の家に空きはあるのか?」 「少しだけね。私も泊まってるから」 ガラの言葉にキーナは答えた。 それだけで、分かってしまった。キーナも家を失くした一人なのだ。 ひとまず、ヴァンたちはキーナの案内で市長の家を訪ねた。 市長の家はかなり広く、三階建てになっていて、一階はかなり広い食堂になっているようだった。集会所の代わりにもなっているのだろう。テーブルと椅子が沢山配置されており、そこに座っている人の数も少なくない。ただ、そのほとんどが浮かない顔をしていた。 ぼんやりと酒を飲んでいる者、友人らしい者と暗い表情で話をする者、突っ伏して寝ている者、様々ではあるが、誰もが今の状態に諦めを抱いているのだとはっきり分かった。 「私の家が……思い出の家が……」 家を失ったデボラの泣き崩れる声が聞こえて、ヴァンは思わず振り返った。 地上から避難しているとはいえ、十年近くもの間過ごした住居だ。それなりに思い出も詰まっていただろう。デボラ本人は助けることができたが、家の崩落は流石に止めることはできなかった。 彼女を慰めている人の姿もある。ヴァンは何も言わずに階段を上った。 二階には大量のベッドが並べられていた。壁に沿うようにベッドが等間隔で並んでおり、中央のスペースにはいくつかのテーブルと椅子がある。テーブルには数人の老人が座っており、ベッドに腰掛けてぼんやりしている人もいる。 三階への階段を上ろうとした時、上から小さな男の子が駆け下りてきてヴァンにぶつかった。 「うわっ!」 「おっと」 ヴァンは弾かれて倒れそうになった男の子の肩に素早く手を回した。 「こら! 走ったら危ないでしょ!」 階段の上から、母親らしい女性が駆け下りて来る。 「ごめんなさい……でも、いえのなかってひとがいっぱいいてせまいからきらいなんだもん」 ヴァンに頭を下げる男の子は、十歳に満たないようだった。 遊び盛りの子供には、この地下暮らしは退屈なのだろう。土地がなくなっていく現状を考えれば、身を寄せ合って生活するしかない。落ちたら危険なこともあって、子供たちが遊べる場所というのはほとんどないのかもしれない。 「すみません……」 「いえ、大丈夫ですよ」 申し訳なさそうに頭を下げる母親に、ヴァンは苦笑した。 「じゃあノアとあそぼう!」 「いいの?」 唐突にノアが言い出して、男の子の顔が明るくなった。 「いいよね?」 「危ないことはするなよ」 振り向いて見上げてくるノアに、ヴァンは優しく微笑んで答えた。 一転して、ノアの顔も明るくなる。 「うん!」 元気一杯に返事をして、ノアが男の子の手を取る。 「キーナもいこうよ!」 「え、私も?」 ノアが笑顔で手を差し出し、キーナは目を丸くした。 「ここまで案内してくれれば大丈夫だよ。ありがとうな」 ヴァンはそう言って、キーナに微笑んだ。 「じゃあ、また何かあったら声をかけてね」 キーナは笑みを返して、ノアと男の子と一緒に階段を駆け下りて行った。 近い年齢同士で遊びたいのはキーナも一緒だろうと思ったが、当たりだったようだ。特に、外からやってきたノアなら一緒に遊ぶのも新鮮に思えるはずだ。 「子供の相手までしてもらって、すみません……」 「気にしないで下さい。ノアも遊びたかったでしょうから」 またも頭を下げる母親に、ガラが言う。 人との関わり合いが少ない生活をしていたノアにとっては、誰かと思い切り遊ぶのはストレス発散にもなっているのだろう。 「あの子はこの地下で生まれ育ったお陰で、地上の色んなことを知らないんです」 男の子の母親が物悲しそうに目を細める。 地下に避難してから生まれた子供たちは、地上での暮らしを知らない。空や雲、雨や風、星や月、草や花、昼と夜、そういった当たり前の美しさを知らないのだ。周りの大人たちから地上でのことをどれだけ聞かされても、自分の目で見るまではどんなものかピンとはこないだろう。 「希望を捨てないで下さい。我々にも出来ることがあるかもしれません」 ガラはそう言って、母親を励ました。 セブクス群島の『霧』を晴らすことができれば、少なくともこの地下から出ることが出来る。地上に出ることさえ出来れば、地震に怯えて暮らすこともなくなるはずだ。そして、それができる時には『霧』による『獣(セル)』の脅威も無くなっているはずだ。 市長の家の三階も二階同様、大量のベッドが並べられていた。 いくつか配置されているテーブルの一角で、市長は暗い表情で頬杖をついていた。 「おや、あなた方は……」 ヴァンたちが近付いて来るのに気付いた市長が、立ち上がった。 「市民がこんなに困っているのに、私には何も打つ手がない……まったく無能な市長ですわ」 恰幅は良いが、市長はやつれた顔で苦笑いを浮かべた。」 「俺たちに何か出来ることはありませんか?」 「それが、全く思いつかないのですよ……」 ヴァンの問いに、市長は首を横に振った。 詳しく話を聞いてみると、地震の原因は分からないとのことだった。元々、地震は天災の類だ。人為的に起こすことができるとは思えない。 それに、この場所から下へ行く道も衛兵に調べさせたことがあるらしい。結果、溶岩地帯に行き当たってしまい、それ以上進むことができずに調査は出来なかったとのことだ。 「……流石に、私たちでも溶岩は耐えられないわ」 オズマが囁くように言った。 『聖獣(ラ・セル)』といえど、溶岩の中を進むというのは無理なようだ。 「どの程度かにも寄りますが、私でも安全とは言えません」 メータでも厳しそうだ。 火の『聖獣(ラ・セル)』であるメータなら、何とか進めるかもしれないと思った。テルマやオズマよりは耐えられそうな気もするが、安全とは言い難いようだ。 「ここも危ない所になってしまいましたから、皆さんは早くお逃げになった方がいいかと思いますよ」 苦笑する市長の表情には、諦めが滲んでいた。 「裏手にあるエレベータの使用許可は出しておきますから」 どうやら、この市長の家の裏にはエレベータがあるようだ。トーンの門から外へ出ることができないヴァンたちが地上へ戻るには、エレベータを使わせてもらうしかない。 地上からの『霧』や『獣(セル)』の侵入を防ぐ目的もあるため、エレベータの使用は禁止されている。だが、『霧』を晴らすという使命があるヴァンたちを地下に拘束するわけにはいかないと、市長は使用許可を出してくれるようだ。 当然、エレベータの使用はヴァンたちにしか許可されない。地上側にある電源スイッチの鍵も予備を預けてくれるとのことで、これでヴァンたちはここと地上を行き来できるようになる。 「それと、出発するまではここに泊めて貰いたいのですが……」 「ああ、それは構いませんよ」 ガラの言葉に、市長は快く頷いてくれた。 一先ず、滞在中の宿泊許可は貰うことができた。 「ありがとうございます」 「ハリィ様さえ目を覚ましてくれれば、何か手が打てると思うのですがね……カハハ……」 礼を言うヴァンに、市長は乾いた笑いを返した。 市長と別れ、ヴァンたちは家から出た。 結局、この町で出来ることは何もないとしか思えなかった。 ヴァンたちが地下を調べに行くとしても、溶岩に阻まれてしまうだろう。それに、地震の原因が分かったとしても、それがヴァンたちに対処できるものだとい う保障はどこにも無い。ハリィが直ぐに目を覚ますとも限らない。いつになるか分からない目覚めを待つよりは、創世樹を探しにラタイユへ向かう方が得策に思 える。 「しかし、ここの者たちはハリィに頼り過ぎではないか?」 消耗品の買い出しに向かう途中、小声でガラがそんなことを口にした。 確かに、ここに住む人たちは誰もが口を揃えて、ハリィが目を覚ましてくれたら、と言っている。この状況を打開するための策を、ハリィなら提案してくれると信じているようだ。 「それだけの力があるってことなんだろうな」 確かに、セブクス群島へ来る際、ヴァンたちの夢の中に現れたハリィは不思議な存在感を放っていた。ウィドナに立ち寄った際にも、サシアから伝言を渡され た。サシアへの指示も、ある種の予言と言える。伝言の内容や、レム神殿に残されていた神託の書も、ヴァンたちへの指示のようなものだった。 オクタムの民が地下に逃れることができたのも、ハリィによる指示があってのものだと言う。オクタムの人々にとって、ハリィという存在はかなり大きいものなのだろう。 そのハリィが長いこと目覚めないという現状に住人たちは不安を感じている。確かに、普通の人間では今のこの地下での生活を変えるというのは難しい。『聖 獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンたちでさえ、オクタムの危機に対してどうすべきか具体的な方策が思い付かないのだ。 ハリィのような超常的な力を持った存在に望みを託すというのは当然の流れなのかもしれない。 地震によって土地が減ってはいるものの、まだ生産設備は残っているようで、雑貨の類は割高ながらも補充することができた。ただ、食料に関しては、保存が 利くものを少量買い足す程度に留めた。ヴァンたちが買い込んだところで直ぐにどうにかなるわけではないだろうが、やはり気が引けてしまった。 店の中にも人は何人か住んでいるようで、話を聞いてみると彼らも家を失ってここに共同で住むことになった者のようだった。 「こいつは珍しい! 『獣(セル)』を着けた人なんて十年ぶりだ!」 店で買い物をしていたヴァンたちの『聖獣(ラ・セル)』に気付いたらしい数人の男たちが話しかけてきた。 三人組で全員が大柄で筋肉質の男たちだった。タンクトップのシャツにズボンという服装で、厳つい顔をしているが、どこか表情や雰囲気は人懐っこいところがあり、気さくな印象を受けた。 「あなたたちは?」 「風来獣車はご存知ですか?」 ガラが問うと、男の一人が聞き返してきた。 「話やパンフレット程度には」 「そうですか! まったく、嬉しいじゃありませんか! 私ら三人は、風来獣車を引っ張っていたんですよ」 ヴァンが頭を掻きながら答えると、男たちは柔らかい笑みを浮かべて自分たちのことをそう紹介した。 「あたしたちの頭上には、懐かしいオクタムの町があるっていうのに、クソ忌々しい『霧』のお陰で十年以上も死んじまってるんですよ……あたしはあの町が好きだったのに……」 後ろにいた男が曇った表情で肩を落とした。 「空の上に伸びた真っ直ぐな道、山を越え、谷をまたぎ、カリスト皇国へ一直線……『霧』さえ晴れてくれたら、風来獣車をまた動かせるってぇのに……」 その隣にいた男の声は少しずつ萎んで行くようだった。 彼らの話からすると、ウィドナを出て見かけた妙な建物とそこから伸びる線はやはり風来獣車のためのもののようだ。 ヴァンはガラと顔を見合わせた。 「俺たち、セブクス群島の『霧』が晴れたらカリスト皇国に行くつもりでいるんだ」 「その際、風来獣車を使うことはできないかと考えていてな」 ヴァンとガラは男たちにそう告げた。 セブクス群島の次はカリスト皇国に向かわなければならない。そのための手段として風来獣車は魅力的だった。 「その時は俺たちがあんたたちを運んでやるよ」 男たちはそう言って明るく笑った。 普通とは違う『獣(セル)』を身に着け、エレベータを使わず『霧』の中を歩いてここまでやってきたとはいえ、ヴァンたちはまだ彼らに比べればかなり若い。そんなヴァンたちが『霧』を晴らす、と言っても信じがたいところはあるだろう。 あまり期待はされていないかもしれない。だが、それでいいとも思う。見返りを求めてやっていることではないのだから。 店を出て、市長の家の裏手にあるエレベータルームを確認する。 他の建物とは違い、かなりしっかりした造りになっている。扉の前には衛兵が一人立っており、門番の役目をしているようだった。 「懐かしいよ。俺たちは皆このエレベータを通って、ここに逃げ込んで来たんだ。あれから、十年以上も経つんだな……」 エレベータホールの傍にある長椅子に腰を下ろしていた一人の男性がぽつりと呟いた。 「故郷はとても近いところにあるのに、いえ、それだからこそ果てしなく遠く感じるわね……」 男性の隣に座っていた女性も、エレベータの続く天井を見上げて呟いた。もしかしたら、もっと上の方を見ようとしているのかもしれない。 エレベータホールを後にしたヴァンとガラは市長の家の前から周りを見回してノアを探した。 ノアはいくつか離れた場所にある台地で子供たちと遊んでいた。市長の家でノアが誘った男の子とキーナの他にも子供の姿が見られる。 「おーい、ノア、そろそろ夕飯にするぞー」 ヴァンは呼びかけながら手を振った。 それに気付いたノアが子供たちを引き連れて市長の家の前まで戻ってくる。 「皆、泥だらけじゃないか」 ノアを含めて子供たちの姿を見たガラが目を丸くする。 「えへへ」 ノアは悪びれた風もなく笑っている。 子供たちの表情は決して暗いものではなかった。 「しょうがないな、ほら、全員並んで」 ヴァンは苦笑すると、子供たちを並ばせてメータを掲げた。 「メータ、頼む」 中央の瞳が淡い光を帯びて、周囲に細かな水の粒が弾けるように散る。それがそよ風に乗るように動いて子供たちの身体や服に着いた汚れを洗い落としていく。 「わ!」 「ひゃあ!」 子供たちが思い思いに声をあげたが、不快そうなものではなかった。くすぐったいとか、冷たいとか、そういった類の感覚に驚いているだけのようだ。 水の粒は汚れだけを落として散り、洗い終わった後の子供たちの身体や服は乾いていた。 「おにいちゃんすごーい!」 子供たちが目をキラキラさせてヴァンの足元に駆け寄ってくる。 どうやら子供たちにノア共々気に入られてしまったようで、親たちが引き取りに来るまでヴァンたちは子供たちの相手をすることになってしまった。 洗ったばかりの服や身体を汚すわけにも行かなかったため、ヴァンはガラやノアとこれまでの旅のことなどを簡単に話したり、メータたち『聖獣(ラ・セル)』の力を害が無い程度に見せたりして時間を潰した。 子供たちの楽しそうな顔を見ていると、とても邪険に扱うことはできなかった。 夕食は市長の家の一階の食堂で取ることになった。畑などが落ちてしまった影響か、かなり質素なものではあったが、文句を言ってはいられない。少しずつでも切り詰めなければならないほど、ここの生活は厳しさを増しつつあるのだろう。 食事をしながら、ノアがどんな遊びをしていたのか、ヴァンたちが何をしていたのか情報を交換し合った。 土地が限られていて落下の危険もあることから、屋内でできるような遊びが多かったようだ。一応、公園のような場所もいくつか作られていたようだが、地震 でほとんどが崩れ落ちてしまい、残っている場所が一つしかないらしい。ノアたちはそこで走り回ったり、オクタムの子供たちが知っている遊びを教えてもらっ たりして一緒に遊んでいたようだ。 「ハリィさまがめざめた、っていうのがおもしろかったんだー」 ノアが嬉しそうにそう言った。 衛兵役になった一人が参加者から離れて背を向けて立ち、ハリィさまがめざめた、という宣言を言い終えると同時に振り向く。参加者たちは衛兵役がいる地点 よりも向こう側を目指して各々動くが、衛兵役が振り向いた時には動きを止めていなければならない。衛兵役が振り向いた時に動いていた人は捕まってしまい、 衛兵に手を繋がれて囚人となる。言い方を工夫することでタイミングや勢いを狂わせて参加者を捕まえていく。参加者は衛兵のいる場所まで辿り着いて繋いでい る手に触れることで囚人を助けるができ、その場合は囚人を含めた参加者がスタート地点まで各々走って戻り、ゲームがリセットされる。その際、スタート地点 まで戻る参加者のうち誰か一人に追いついてタッチすることで衛兵役は交代ができる。そうして、誰も捕まることなく全員が衛兵役のいる地点を越えれば参加者 の勝ち、全員を囚人にすることができれば衛兵の勝ち、というルールの遊びのようだ。 オクタムでは割と一般的な遊びらしい。 「なるほど、面白いもんだな」 ガラが感心したように頷いた。 子供たちが瞑想宮の扉前にいる衛兵の目を盗んで中へ忍び込む、という設定のごっこ遊びが発端なのだろう。長く遊べるようにという意図なのかどうかは分からないが、中々終わらないようにできている。 食事を終えた三人は三階の隅で今後のことについて話し合うことにした。 食堂のような人の多い場所では、ヴァンたちのような外から来た者たちは目立つ。住人たちがヴァンたちの存在にあまり期待を持っていないとしても、落胆するかもしれない話を聞かせたいとは思わなかった。 「俺は直ぐにでもラタイユに向かうべきだと思う」 ガラの考えは明快だった。 可能な限り早く世界から『霧』を無くす。それを目的とするなら、ガラの判断は正しいものだと言える。 「でも、ハリィが……」 ノアが言いたいことも分かる。 ハリィはヴァンたちがここに来るように導いた。何も聞かないままここを去ることは、ここに来たこと自体を無駄にする行為でもある。 「オクタムの現状を見せたかっただけ、ってことなのか?」 ヴァンは唸った。 オクタムは滅びておらず、住人たちは地下で生き延びている。『霧』を晴らすことでオクタムの民は地上に戻ることが出来、町は復活する。それを直接見せるために呼んだのだろうか。 「でも、ハリィはゆめのことおしえてくれるっていってたよ」 ノアが不安そうに言った。 「俺もそこは気になってる。それに……」 ヴァンはそこまで言って、肩越しに背後を見やる。 水々婆の洞窟で見た夢でハリィが言っていた言葉も気がかりではあったが、ヴァンにはもっと気になっていることがあった。 活気の無い人々の表情や空気、どこか肩を落として歩いているようにも見える大人たち、それを見て退屈そうに、不安そうにしている子供たちの姿がヴァンの心をつついている。 「この状況を放ってはおけない……」 ぽつりと、ヴァンは目を細めて呟いた。 何か自分に出来ることはないだろうか。この状況を変えることはできないだろうか。地下暮らしを今直ぐには変えられないとしても、町の人たちの表情を明るくすることはできないだろうか。 どうしても、そう考えてしまう。 僅かに握り締めた右手が熱くなる。 「だが、どうする?」 ガラにも、ヴァンと同じ思いはあるようだった。だが、ガラの方が冷静で現実的に物事を見ている。 確かに気持ちや感情は大切だが、それだけではどうにもならないこともある。 「明日、もっと地下の方を見に行こうかと思ってる」 市長から許可を貰う必要はあるだろう。衛兵がここより更に地下を既に調べたという話は聞いている。 それでも、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているヴァンたちならば何かを見つけられるかもしれない。衛兵たちより深い場所へ踏み込むことができるかもしれない。 「その間にハリィが目を覚ましたらどうする?」 「地下には俺だけで向かうよ。ノアとガラは残ってくれ」 ガラの問いに、ヴァンはそう答えた。 地下を調べている間にハリィが目覚める可能性を考慮すると、ノアとガラをオクタムに残してヴァンだけが地下へ向かうのが適切だろうという話になった。 ハリィの話を聞きたがっているノアは残るべきだ。また、まだ言葉が達者ではないノア一人では他の二人に上手く話を伝えられないかもしれない。テルマが憶えていてはくれるだろうが、念のためもう一人残るべきだ。 そうなると、溶岩のある地下探索は火の『聖獣(ラ・セル)』メータを持つヴァンの方が適任だろう。少なくとも、ガラよりも深い場所を調べられる可能性がある。それに、調べたいと言い出したのもヴァンだ。 「……それで何もすることが見つからないようなら、その時はラタイユへ向かうしかないぞ」 真剣なガラの言葉に、ヴァンは頷いた。 明日、一日だけオクタムに留まる。地下を調べて何も出来ないようなら、その日のうちにハリィに会えないようなら、ヴァンたちはオクタムに留まり続ける意味がない。 いつになるか分からないハリィの目覚めをずっと待っている訳にもいかないのは事実だった。 『霧』に組する者がいる。彼らの企みも放ってはおけないのだ。 結論が固まったところで、三人は眠りに着いた。 ベッドで眠るのは久々だったためか、眠りに落ちるのが早く感じた。 翌朝、日課となっているガラとの修練を済ませ、一階の食堂で朝食を取っていた時のことだった。食べ終えて一息ついていたところに、慌てた様子で衛兵が飛び込んできた。 「大変だー!」 「うわーっ!」 「な、何だ何だ!?」 椅子や机、そこに座っている人もお構いなしに薙ぎ倒して衛兵は一直線に階段に向かう。 「ハリィ様が……! ハリィ様が……!」 階段の手前の席に座っていたヴァンも例外ではなく、うわ言のようにぶつぶつと何かを言っている衛兵に弾き飛ばされて盛大に机と椅子と共に薙ぎ倒された。 「ヴァン!」 ノアとガラが目を丸くする。 「いてて……、何だ?」 『聖獣(ラ・セル)』を身に着けているだけあって、受身を取って起き上がったヴァンは直ぐさま衛兵の後を追って階段を駆け上った。 「何事ですか、騒々しいですぞ」 一階の喧騒が聞こえたらしい市長が三階から降りてくるのを見て、衛兵が膝まづいた。 「ハリィ様が! ハリィ様がついにお目覚めに!」 息を切らしながら、衛兵が市長に報告する。 その言葉に、一瞬の静寂の後、周りが騒然となった。 「そそそ、そうか! それは何よりの朗報だ! 町が救われるぞ!」 何を言われたのか、理解が追いついたらしい市長が目を大きく見開いて興奮したように声をあげる。 「さあ、こうしてはおられんぞ! 瞑想宮に急がなければ……!」 市長が衛兵と共に階段を駆け下りて食堂を抜け、外へと走って行く。 ヴァンはノア、ガラと顔を見合わせた。 周りの反応は様々だったが、共通しているのは誰もが安堵の感情を抱いているだろうということだった。 「ハリィが起きた……?」 「ヴァン、ハリィにあいにいこう!」 ざわめきの中、ヴァンは市長と衛兵が出て行った扉を見つめて呟いた。 すかさず、ノアが言った。 「だが、会えるとは限らんぞ」 ガラも扉の方を見つめていた。 ハリィに会えるのは市長と、世話役の巫女たちだけだと言われている。 「でも、行ってみよう。市長から何か聞けるかもしれない」 ヴァンの言葉に、ノアとガラが頷いた。 ヴァンたちが直接ハリィと話すことはできなくとも、ハリィから話を聞いた市長から何か情報が得られるかもしれない。否定的なことを言いつつも、ガラもハリィに会ってみたいという思いは抱いている。 三人は市長の家を出てハリィのいる瞑想宮へと向かった。 瞑想宮の前に辿り着いた時、丁度中から一人の巫女が急いだ様子で出てくるところだった。ヴァンたち三人を見つけて、表情を変える。 「皆さん! 皆さんのことをハリィ様がお待ちです! 瞑想宮の中にお入り下さい!」 巫女はヴァンたちを招き入れるように脇へとどいて、そう告げた。 「俺たちのことを?」 驚きながらも、巫女に促されてヴァンたちは瞑想宮の中へと足を踏み入れた。 「ハリィ様のことが心配です……。ハリィ様は私たちにも心をお隠しになっている気がします」 中にいた巫女たちがそんなことを話していた。 「全く、嘆かわしいことです。ハリィ様は市長の私には何の話もないそうです。カハハ……」 肩を落とし、眉尻を下げた市長が乾いた笑いと共にヴァンたちを出迎えた。 「外から来た皆さんにだけ、話をしたいそうですよ。カハ……、全く寂しいことですな」 本来なら町の人たちを導かなければならない市長にはできることがない、そう言われたかのようだった。 ヴァンたちは階段を下りてハリィのいる地下室へと向かった。 さほど大きな部屋ではなかった。必要最低限の物しかない、とても簡素な部屋だった。部屋の奥には三つの小さな寝台があり、そこで眠っているのがハリィということらしい。 「三人のハリィ様は、左から過去、現在、未来の話をされます」 階段の脇に控えていたローブ姿の巫女がそう説明をしてくれた。 「それと、ハリィ様が目を覚ましておられる時間は限られております。また、ハリィ様の言葉は獣神レムの言葉です。心してお聞き下さい」 ローブ姿の巫女はそう言って一度頭を下げると、邪魔をしないようにという意図なのか、階段を上って行った。 残されたのはヴァンたち三人と、三つの寝台のハリィだけだ。 静寂の中、どこか厳かな雰囲気に包まれ寝台へと、三人はゆっくりと進んだ。 小さな寝台は向かって左から順に、青、緑、赤の色の布団が敷かれている。そこで寝かせられているのは、まだ髪も生え揃わぬ赤子としか思えないほど幼い子供だった。 階段の正面、一番近くにある青い布団で眠る赤子の前にヴァンたちは立った。 三人は顔を見合わせた。 「ハリィ、なのか……?」 ノアがぽつりと口にした時だった。 赤子の閉ざされていた目が開き、青い瞳がヴァンたちへと向けられた。 布団がふわりと浮かび上がり、ハリィがヴァンたちと向き合うように布団の角度を変えていく。 「私は過去のハリィ」 その声は赤子が出しているとは思えないほど、はっきりとした芯のある響きを持っていた。 夢で聞いた声と同じだった。 「時の流れの源をお前に告げよう」 ヴァンたちが何も言えずにいるのにもお構いなしに、ハリィは言った。 「過去の話を聞く準備はできたか」 有無を言わせぬ重みを感じた。その言葉に、自然と三人の表情は引き締まっていた。そして、三人同時に頷いていた。 「ヴァン、ノア、ガラ。お前たちの旅の始まりは過去より現在に繋がる時の必然。『霧』と『獣(セル)』、そして『聖獣(ラ・セル)』の関係もまた、時の必然なのだ」 そして、ハリィは静かに、だが響くような重みと共に語り出した。 「我らが生きる人間の世界の裏に『獣(セル)』の故郷、獣界がある。人間の世界にある『獣(セル)』は全て、獣界より生まれた。人間の世界と獣界は表裏一 体。互いに侵すべからざる世界であった。しかし、不幸な事件により、人間の世界に『獣(セル)』が流れ込むようになったのだ」 それは遙かな昔から伝わる、人と『獣(セル)』との交わりの経緯だった。多くの人が、嘘か本当かはともかく、一度は聞いたことのある昔話だ。 「人間は、『獣(セル)』の力を知り、文明を築いていった。だが……みだりに使われた『獣(セル)』は人の心を歪にさせ、数多の悲劇を生んだ」 ハリィが僅かに目を細めたような気がした。 『獣(セル)』の存在によって、人間は今ある文明を築いた。人の生活を『獣(セル)』が豊かにしたのは確かだ。だが、その力は日常生活だけに留まらなかった。 戦いに使われるようになり、『獣(セル)』を用いた戦争も起きていたと聞く。ハリィはそれを憂いているのだろうか。 「レムの目をもってしても、その正体は定かには見えぬが、『霧』の中心に悪魔がいる!」 続くハリィの言葉は、鋭く、強い口調で締められた。 「人でもない! 『獣(セル)』でもない! その悪魔が『霧』により、世界を滅ぼしたのだ!」 『霧』の中心にいる悪魔、それがヴァンたちの敵なのか。『霧』を世界に撒き散らし、人々を脅かしているのか。 「お前たちが、『聖獣(ラ・セル)』に選ばれたのは、単なる偶然ではない! 死力を尽くせ! 創世樹の力はお前たちと共にある!」 力強く背中を押すような言葉と瞳がヴァンたちを見据える。 「レムの過去の顔。その目でしかと見たか? その耳でしかと聞いたか?」 顔を見合わせずとも、ヴァンたちは同時に頷いていた。 「レムの言葉は全てお前たちに授けた。また眠ることにしよう」 頷いたヴァンたちの表情を見てか、どこか満足そうにハリィが呟いた。瞬きをした瞬間に、それまで青い色をしていた瞳が茶色に変わる。浮かび上がっていた布団が水平になり、ゆっくりと台座に収まる。そして、ハリィは静かに目を閉じた。 小さな寝息を立てて眠る過去のハリィを見て、ようやく三人は顔を見合わせた。 誰も何も言わぬまま、視線が向かったのは隣の寝台で眠る二人目のハリィだった。 まずは話を聞こう。三人の考えは一致していた。 二人目のハリィは緑色の柄の布団で眠りについていた。一人目のハリィと全く同じ顔立ちをしている。ヴァンたちが歩み寄ると、気配を察したのかハリィが目を開く。 緑の瞳がヴァンたちを一瞥し、布団ごとハリィはゆっくりと浮かび上がる。ヴァンたちと向き合うように布団が傾き、ハリィが正面からヴァンたちを見据える。 「私は現在のハリィ」 その声は先ほど聞いた過去のハリィと全く同じだった。だが、その言葉の響きにはまた違った質感があった。 「時の水面の漂う様をお前に告げよう」 ハリィがヴァンたちを見つめ、静かに告げる。 「現在の話を聞く準備はできたか」 ヴァンたちは頷いた。 「『霧』の使徒が世界を完全に滅ぼす、最後の段階に入った。それが現在なのだ!」 ハリィの言葉に鋭さが混じった。 ヴァンは僅かに目を細めた。ドルク王領のほとんどが『霧』に覆われてから、リム・エルムの壁が壊されるまでに十年もの間が開いている。それだけの期間が あれば、しらみつぶしに探して回ればリム・エルムやバイロン寺院といった人がまだ生きている集落など簡単に見つけられたはずだ。 それが、今になって積極的に動き出している。 「奴らは、『霧』を逃れ、辛うじて生き延びている我ら人間を執念深く狙い始めた。あらゆる人間を殺すか、『獣(セル)』の怪物とするために、その軍勢を駆り立てているのだ」 僅かに握り締められたヴァンの右手に、熱が返ってくる。 ハリィが言いたいのは、今、この時が『霧』に対抗し得る最後のチャンスということなのだろう。『霧』の使徒が世界を滅ぼすか、ヴァンたちと『聖獣(ラ・セル)』がその野望を打ち砕くことができるか。二つに一つだ。 「オクタムの地下深く、炎熱海道の底に、奴らの使徒がいる!」 ハリィが告げた言葉に、ヴァンは目を見開いた。 調べようとしていた地下の先に、敵がいる。それが今、はっきりと示唆された。 「ヴァン、ノア、ガラ、お前たち聖なる『獣(セル)』の力をもって、悪魔の使徒を倒すのだ! この町の危機を救うには、それしか手はない!」 自然と、ヴァンは頷いていた。 この町の危機には原因がある。それがヴァンたちにとって、人間たちにとって敵であると、ハリィは告げた。この町を救うことができるのであれば、悩むことも迷うこともない。 「一人ひとりの命を救うこと、それが破滅に瀕した世界を救う唯一の術なのだ。死力を尽くせ! 創世樹の力はお前たちと共にある!」 心の中に、そのハリィの言葉はすっと入り込んで来るようだった。 目の前に困っている人がいれば、その一人ひとり全員を助けたいと思う。何かのために、誰かを切り捨てたり、犠牲になどしたくない。自分にできるなら、手 が届く全てを守りたい、救いたい。そんなヴァンの思いを肯定するかのように、ハリィの言葉が胸を叩く。優しく、力強く、それでいて鋭く。 「レムの現在の顔。その目でしかと見たか? その耳でしかと聞いたか?」 確認するような問いに、ヴァンたちは頷いた。 「レムの言葉は全てお前たちに授けた。また眠ることにしよう」 ヴァンたちの表情を一瞥し、満足げにハリィは呟いた。瞬きと共に緑の瞳が茶色に変わり、浮かび上がっていた布団が元の台座へと戻って行く。横になったハリィは静かに目を閉じ、寝息を立て始めた。 「次が最後か……」 ガラがぽつりと呟いた。 隣の寝台のハリィは赤い布団で眠っていた。 ヴァンたちだ寝台の前に立つと、ハリィがその瞼を開けた。赤い瞳がヴァンたちを見やり、布団が浮かび上がる。目線を合わせるように布団が角度を変え、静止する。 「私は未来のハリィ」 声も顔も、他のハリィと変わらない。それでも、そこに込められた思いは僅かな違いがあるように感じられた。 「時の流れの行き着く先をお前に告げよう」 穏やかな声でハリィが告げる。 「未来の話を聞く準備はできたか」 静かな問いに、ヴァンたちは頷いた。 「残念なことだが、『霧』の影は未来も覆い尽くしている。神なるレムの力をもってしても、未来を透視し切ることはできない」 これまでずっとはっきりした明確な言葉を語っていたハリィの声が僅かに険しさを帯びた。 未来が決まっているとは言えないが、何か指標になるものがハリィには見えていたのだろう。それが『霧』の存在によって見通せない。『霧』を払う未来が見えない、ということにも取れそうではある。 「だが、これだけは言える。心して聞くがいい」 そう言って、言葉を区切ったハリィは布団ごとヴァンへと向き直った。 ヴァンが目を丸くするその瞳を真正面から見据えて、ハリィが口を開く。 「ヴァン、大いなる悲劇がお前の希望を打ち砕くだろう」 「っ!?」 静かに、だがはっきりと、ハリィはそう告げた。 何かは分からない。だが、ヴァンの背筋を電撃が走ったかのような感覚が襲った。 そしてハリィの目は次にノアへと向いた。 「ノア、お前の両親は生きている! カリスト皇国のコンクラムにいる!」 「え!」 ハリィの言葉に、ノアの表情が変わっていく。それまでの緊張した面持ちから、喜びが溢れ出してくるようだった。 「ヴァン、ガラ、きいたか!? カリストこうこく、コンクラムだ!」 思わず、ノアはヴァンとノアに向かって声をあげていた。示された場所を噛み締めるように、ノアはその場所を口に出していた。 「左様、コンクラムに行けばノア、お前は両親に会えるはず。だが、心するがいい。出会いにより、お前の心は大きく揺れる……」 両親の居場所を知ってはしゃぐノアに釘を刺したのはハリィだった。目を輝かせていたノアが動きを止め、ハリィの方に向き直る。 両親と出会うことでノアの心が大きく揺れる。それがどういうことを意味しているのかまでは、ハリィも見通せてはいないようだった。 どういうことかと聞きたげなノアには何も言わず、ハリィはガラへと視線を移した。 「そしてガラ、お前はソンギの中に悪夢を見ることだろう」 「……!」 告げられた言葉に、ガラが身を強張らせた。 ガラが最も気にしているであろうソンギに関わる言葉だ。それも、不穏な内容の。 「ソンギはお前の影……、もう一つの可能性なのだから……」 「それは、どういう意味だ……?」 ハリィの言葉に、ガラが問う。 意味が分からないとでも言いたげなガラに対し、ハリィは僅かに首を横に振ったように見えた。その答えはハリィも持っていない、あるいはハリィが言うべきではない、とでも言うかのように。 「時の流れを刻んで見れば、救いと悲劇は背中合わせ。お前たち自身が悪夢の引き金を引くかもしれん……」 改めて三人へと視線を巡らせ、ハリィは言葉を紡いだ。 「だが、絶望さえ無ければ、時の大河の大いなる流れもお前たちの心に叶うものとなるだろう。死力を尽くせ! 創世樹の力はお前たちと共にある!」 力強く背中を押すように、ハリィはそう言って締め括った。 「レムの未来の顔。その目でしかと見たか? その耳でしかと聞いたか?」 ハリィの赤い目を見返して、ヴァンたちは頷いた。 「レムの言葉は全てお前たちに授けた。また眠ることにしよう」 それを見てハリィは満足そうに呟いた。布団がゆっくりと台座に戻り、他の二人のハリィと同じように赤い目が茶色に変わる。 寝息を立て始めたハリィを見届けて、ヴァンたちは互いに顔を見合わせる。 これで三人のハリィの言葉を聞き終えた。 「コンクラム……コンクラムにおかあさんとおとうさんが……」 ノアが噛み締めるようにハリィが示した場所を口にする。 ここにきて初めて、ノアの両親に繋がる明確な手がかりを得ることができた。出会うことでノアの心が揺れるだろう、という決して穏やかではない言葉も気に なるところではあったが、ノアにとっては両親が生きていることと、居場所がはっきりしたという二つの事実が純粋に嬉しいようだった。 全くあての無かった今までに比べれば、かなりの進歩だ。 「ソンギは俺の影……一体、どういう意味なんだ……?」 ガラは握り締めた自分の右手を見つめて、呟いた。 ガラに向けられた言葉も、決して明るい内容ではなかった。ソンギの中に見る悪夢というものが分からないことが不安を駆り立てる。ガラの影、もう一つの可能性、というのも気になる。 やはり、ガラはソンギに向き合わなければならない。 「大いなる悲劇、か……」 ヴァンは目を細めて呟いた。無意識のうちに、左手でメータの宿る右腕に触れていた。 希望を打ち砕く大いなる悲劇がヴァンの進む先には待ち受けていると、ハリィはそう言った。その悲劇が一体何なのか、避けられるものなのかはハリィにも分からなかったのだろうか。 ヴァンは寝台で眠るハリィを見た。 寝息を立てているハリィは赤子そのもので、先ほどまでヴァンたちに言葉を伝えていた人物だとは俄かに信じがたい。だが、それでも伝えられた言葉と、その重みには現実味がある。 「とりあえず、まずは俺たちに出来ることをやろう」 大きく息を吐いて、ヴァンは言った。ノアとガラも頷いた。 三人で階段を上って一階へ戻ると、市長が待っていた。 「聞きましたよ、皆さん! 皆さんがこの町を救ってくれるんですね!」 どうやら、階段のところでハリィの言葉を聞いていたらしい。確かにハリィの声は良く通るものだった。静かな瞑想宮の中にいる者であれば、聞き取ることは難しくなかっただろう。 「ハリィ様の仰っていた炎熱海道は町の北西にある洞窟です。衛兵の者には皆さんを通すように言っておきますよ」 炎熱海道というのも、恐らくは既に衛兵たちを派遣して調べた場所のはずだ。だが、そこに敵がいるとハリィは言った。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンたちならば、普通の人では断念してしまうような場所の先へ行けるということだろうか。 不思議と、ハリィの言葉は信用できる気がしていた。 「ありがとうございます」 「では、お先に!」 ヴァンが礼を言うと、市長はそう言って瞑想宮を飛び出して行った。 「ハリィ様は皆さんに未来を任されたのですね」 傍にいた巫女がヴァンたちに微笑みかける。 「そうでしょうか……」 ガラが曖昧に苦笑した。 この町の窮地を救うどころか、世界の命運すら託されたのかもしれない。 だが、もう重圧に押し潰されるようなことはないだろう。ヴァンたちは前に進むと決めた。そこに迷いはない。先へ進む手がかりが示されたなら、後はそこへ向かってみるだけだ。 出来る事をする。それが未来を救うことに繋がるのだとしたら、喜ばしいことだ。 瞑想宮の近くには人が集まっていた。 「これでオクタムも救われるのですね……」 そんな安堵交じりの声が聞こえてくる。 ヴァンたちが瞑想宮から外へと出て、隣の台地へと繋がる細い通路に差し掛かった時だった。 地面が、揺れた。 「地震が! 地震が来たぞ!」 誰かが叫ぶのと、揺れが強くなるのは同時だった。 クモの子を散らしたように、人々が地震から遠ざかろうと逃げ惑う。 地震の中心は、瞑想宮のある台地だった。 「じじじじじじ、地震だ! ややややややや、やばいぞ!」 瞑想宮前で門番をしていた衛兵が慌てた様子で駆け出した。明らかに錯乱している衛兵は近くにいた進路上の女性を構わずに突き飛ばしてヴァンたちすらも押し退けて隣の台地へと走って行く。 「大丈夫ですか!?」 ヴァンとノアが突き飛ばされ、尻餅をついた女性に駆け寄る。 瞑想宮からも何人かの巫女が飛び出してくるのが見えた。 振動が強くなっていた。台地に亀裂が走り、通路が砕け始める。地面が傾きつつあった。 「ノアは彼女を!」 「うん!」 ヴァンの言葉に、ノアが腰の抜けた女性を無理やり立たせて走り出す。 「待て、ヴァン! どうするつもりだ!」 瞑想宮の中に向かおうとするヴァンの前に、ガラが立ち塞がった。 「中にいるハリィを助けないと!」 外に出てきた巫女の人数も全員ではなかった。まだ瞑想宮の中には人がいる。 強まる揺れの中、普通の人間ならもう立ってはいられない。傾きが大きくなり、ノアが女性を抱えて崩れた通路を無視して隣の台地へと飛び移る。 「もう間に合わん! お前までここで死ぬつもりか!」 ガラが強い口調で首を振る。 いくら『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていても、この地震で下へと落ちたらどうなるか分からない。無事で済むとは思えない。 「だけど!」 ヴァンが言い返そうとした時、瞑想宮から一人の巫女が顔を出した。扉の縁を支えにしてようやく立っているように見えた女性が、ヴァンたちを見て何かを言おうとしていた。 「わ、私たちには構わず、お逃げ下さい!」 巫女が叫んだ。祈るような声だった。 もう、全員助けていられる時間はない。未来を託されたヴァンたちが巻き添えになること、ハリィや彼女らは望んでいない。そんな思いが、その言葉には乗っていた。 「オズマ!」 声を張り上げ、ガラが瞑想宮の壁に右腕を突き込んだ。 一瞬で壁に亀裂が走り、砕け散る。ガラが右腕を伸ばし、オズマの瞳が光を放つ。 壁に掴まっていた巫女の体が突然の風に吹き飛ばされ、宙を舞う。ガラの方へと吹き飛ばされた巫女の腕を咄嗟にヴァンは掴み、引き寄せた。 もう、立っているのがやっとの揺れだった。 ガラが地面を蹴る。 「くそっ!」 ヴァンは歯噛みして、瞑想宮に背を向けた。 落下が始まった地面を蹴って、ヴァンは隣の大地へと跳ぶ。 「ヴァン!」 ノアがヴァンを呼んだ。 不安定な足場を蹴ったせいで、高さが足りない。先に着地したガラが振り返り、手を伸ばす。 「テルマぁーっ!」 ノアが叫んだ。ヴァンへと伸ばしたその左手で、テルマの瞳が輝いた。 「メータ!」 巫女を抱えたままのヴァンの右腕に熱が宿る。 背後から風が吹いた。ヴァンを持ち上げるように、テルマの起こした風が吹き荒れる。両足に集めた熱で、ヴァンは風を蹴った。テルマの集めた空気を燃やして、炎が爆発を起こす。その衝撃で自らを弾き飛ばして、台地へと飛ぶ。 ガラとすれ違う瞬間に、ヴァンは抱き寄せていた巫女をガラの方へと投げた。ガラが巫女を受け止め、ヴァンは受身を取りながら地面を転がる。 瞑想宮が台地と共に地の底へと崩れ落ちていく。 誰もが、その光景に息を呑んでいた。 揺れが治まっても、起きたことの重大さに誰もが言葉を失っていた。 「ハリィ様が……」 やがて、誰かが口を開いたのを皮切りに、人々の間に絶望と悲しみが広がって行く。 「ハリィ様が……台地に、飲まれてしまった……」 震える声で誰かが呟き、膝をついた。 オクタムを導いていた存在が、消えてしまった。 住民たちが呆然としている中で、ヴァンたちは崩落した瞑想宮を探すように、地の底を覗き込んだ。真っ暗な闇が広がっているばかりで、何も見えない。 救えなかった。目の前の一人ひとりを救えと言われた矢先に、だ。 ヴァンは両手をきつく握り締めた。奥歯を噛み締め、目を閉じる。 「ヴァン! 聞こえるか、ヴァン!」 ふと、ハリィの声が聞こえた。 目を開き、辺りを見回す。 「ノア! ガラ! そこにいるのだな?」 名を呼ばれたノアとガラも驚いたように周りを見回す。 この声は町の人たちにも聞こえているようで、誰もが目を丸くしていた。 そして、地の底から三つの光が飛び出してきた。青、緑、赤、三色の光を放つそれは、ヴァンたちを照らすように、あるいは町を見渡すような高さで動きを止めた。漂うように、踊るように、あるいは螺旋を描くように、三色の光が語りかけてくる。 「ヴァン、ノア、ガラ。私たちが大地に飲まれることは分かっていた。全ては時の獣神、レムの御心のままにあるのだから……」 その声は確かにハリィのものだった。先ほどまでと同じように、静かだが、はっきりとした芯のある声が聞こえてくる。優しさを感じさせるその声音は、皆を安心させようとしているかのようだった。嘆くことはないのだ、と。 「だが、『聖獣(ラ・セル)』の勇者たちよ!」 声が鋭さを帯びて、ヴァンたちに向けられた。 「託された使命を忘れてはならない!」 その一言に、ヴァンたちの表情が引き締まる。 「現在のハリィはお前たちに命じた。まず、炎熱海道に向かえ。オクタムに災いをもたらす『霧』の使徒を倒すのだ」 ハリィの言葉に、ヴァンは頷いた。 「そのことで、お前たちの未来に新たな道が生まれるだろう」 ノアとガラは光を真っ直ぐに見つめていた。 「レムの三つの顔はお前たちを見守っている。いつの日か、思わぬところで出会うこともあるだろう」 穏やかなハリィの声が響く。 「死力を尽くせ! 創世樹の力はお前たちと共にある」 その言葉を最後に、三つの光が天へと昇っていく。天井の岩盤を擦り抜けて、もっと上へ。 住民たちは呆然と、その光景を見つめていた。 「ヴァン……ハリィは……ハリィは、しんじゃったのか……?」 光が消え去った天井を見つめたまま、ノアが小さな声で呟いた。 「……分からない」 ヴァンもハリィが消えた天井を見つめた。 「何だか、死んだっていうのとは、違うような気もする……」 「だが、あれで無事であるとは思えないな」 ヴァンの言葉に、ガラが言った。 分かっている。瞑想宮で見たハリィの体は、赤子のそれと大差はないように見えた。不思議な力は持っていても、あの状況では肉体が無事であるとは思えないのも事実だった。 だが、ガラも感じているはずだ。ハリィの本質は死という概念を超越した存在なのかもしれない。あのハリィが、こんなにもあっさりと死んでしまったなどと は、どうしても思えなかった。あの光がハリィの精神だとしたら、きっとハリィという存在そのものは消えてはいないはずだ。 だからこそ、ノアも疑問を口にしたのだろうから。 「……行こう、炎熱海道に」 ヴァンは目を閉じて、静かに息を吐くと、二人に向かってそう告げた。 「うん! そこにきりのしといるって、ハリィいってた!」 「そうだな、まずはハリィの言葉に従い、オクタムを救おう」 ノアとガラが力強く頷く。 そうして、握り締めた右手の熱を感じながら、ヴァンは崩落した地に背を向けて歩き出した。 |
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