第十六章 「炎熱海道」


 炎熱海道へと続く通路はオクタム地下の北西に位置していた。子供や住人たちが誤って侵入しないように配されている門番には市長が話をつけていてくれた。
 通路は薄暗く、明かりが乏しい。『聖獣(ラ・セル)』たちが照らしてくれた光を頼りに、ヴァンたちは下へと向かう洞窟を進んで行く。
「……ハリィの言ったことを、覚えているか?」
 歩きながら、ガラが言った。
「……ああ」
 それがどれを指しているのか、迷ったヴァンはとりあえず頷いた。
「コンクラムにいけばおかあさんとおとうさんにあえる!」
 ノアが力強く答える。
「うむ、それもあるが……」
 それを聞いてガラが苦笑する。
「『霧』の使徒、についてのことですね?」
 メータがガラの疑問に答えるように言った。
 ハリィの言葉がすべて真実であるとするなら、ヴァンたちはようやく『霧』に与する敵の正体について触れることができたことになる。
 ハリィが言うには、人間でも『獣(セル)』でもない悪魔が『霧』の中心にいるらしい。その悪魔が『霧』によって世界を滅ぼそうとしている、と。
「人でも『獣(セル)』でもない……っていうのが気がかりだね」
 テルマもその言葉の真意を図りかねているようだった。
 そんな存在が本当にいるのか、いたとしてどんな存在なのか、そこまでは分からない。ハリィにもはっきりとは見えていないようだった。
 敵と聞いてヴァンに思い当たる節があるとすれば、ゼトーぐらいのものだ。メータたちは異形化したゼトーの気配を『獣(セル)』だと断言した。とてつもな く強大な力を持ち、邪悪な意思を持ったゼトーはただの『獣(セル)』だとは思えない。それに、ゼトーの上に立つコートという名や、恐らく彼らの仲間だろう と思われるデリラ三兄弟の存在もある。
 気になることと言えば、デリラ三兄弟は『獣(セル)』を身に着けた人間にしか見えなかったという点だろうか。
 悪魔というのがどういった意味なのか、ハリィがいない今となっては聞くこともできない。
「ですが、彼らが本格的に世界を滅ぼそうとしていることは分かりました」
 オズマの言葉に、ヴァンたちは小さく頷いていた。
 『霧』が世界に現れてから十年以上の年月が経った今になって世界を滅ぼそうとする理由は何なのだろうか。あるいは、十年以上もの間が必要だった理由があるのだろうか。
 ただ、少なくともまだ希望はある。
 完全に世界が滅んでしまう前に、ヴァンたちと『聖獣(ラ・セル)』が『霧』を晴らすために動き出しているということだ。
「メータ、覚醒した創世樹がやられる可能性はあると思うか?」
 ふと頭に浮かんだ疑問を、ヴァンはメータに投げた。
「無い、とは言い切れません」
 メータの返事は曖昧なものではあったが、その口調ははっきりしていた。
 覚醒した創世樹は『霧』を払い、その力が及ぶ範囲を『霧』から守っている。仮に、ヴァンたちが敗れてしまったとして、その後にこれまで『霧』から解放した場所は安全だと言えるのか、聞いておきたかった。
「『霧』の力が強まって行けば、安全とは言い切れないかもしれないですね」
 オズマが呟いた。
 『霧』が今以上にその力を強めて行けば、もしかしたら覚醒した創世樹の力を上回る時が来るかもしれない。創世樹の力の範囲が狭まって行き、最終的に枯れてしまうなどで『霧』に満ちた世界になってしまう可能性が無いとは言い切れない。
 あるいは、創世樹を直接攻撃できるような力を持った『霧』の使徒が現れるかもしれない。
「だが、そうなると『霧』とは一体何なのだ?」
 ガラが眉根を寄せて唸るように言った。
 創世樹や『聖獣(ラ・セル)』は『獣(セル)』による文明に問題が起きた際に機能する安全装置のようなものだというのがこれまでのメータたちの見解だ。 だとしたら、『獣(セル)』に悪影響を及ぼし、創世樹の力によって浄化される『霧』とは何なのだろうか。その本質は未だに謎のままだ。
 『獣(セル)』に対して悪影響があり、時間をかければ創世樹をも枯らすことができる『霧』がそれらと無関係のものだとは思えないのもまた事実だ。
「私たちにもまだはっきりしたことは分かりません」
 メータが申し訳なさそうに呟く。
「だけど、『霧』と戦わなければ世界が滅ぶことだけは確かだね」
 テルマの言葉に、ヴァンたちは頷いていた。
 『霧』の正体は分からなくとも、それに抗わなければ人類に未来はない。そして、『聖獣(ラ・セル)』と創世樹には『霧』に対抗する力がある。
 今はそれだけを頼りに前へ進むしかない。
「少しずつ熱くなってきたな……」
 それから暫くして、ガラが呟いた。
 下へと向かうにつれて、徐々に熱気が増してきていた。
 市長や衛兵の話では最下部は溶岩地帯になっているらしい。熱気が増してきたということは、そこに近付いてきているということか。
「みて! きりが……!」
 ノアが声をあげた。
 目を凝らしてみれば、薄っすらと『霧』が見え始めていた。
 地熱による蒸気かとも思えたが、熱気とは別の不快感が現れ始めていることにも気付いた。
「こんな地下に『霧』だと……?」
 ガラが眉根を寄せた。
 トーンの門からオクタムの地下街に至るまで、『霧』はなかった。地上から『霧』が入り込んでいるとは考えにくい。となると、地底に『霧』が入り込む道ができているということだ。
「放っておいたら、そのうち上にも『霧』が行くかもしれない?」
 ヴァンは周りを見回した。
 辺りに漂っている『霧』からは、流れを読むことはできなさそうだった。ゆったりと漂っているだけで、風も感じられない。どの方角から『霧』が現れているのかをこの場で知ることはさすがに無理のようだ。
 ただ、このままの状態で放置していれば、いずれ『霧』がオクタムの地下の町にまで達するであろうということは容易に想像がついた。数日や数週間程度でそ うなることはないだろうが、半年や一年といった時間が流れればどうかは分からない。あるいは、これから加速度的に『霧』の密度が濃くなって行って、勢いが 増すかもしれない。
「ヴァン、セルのにおいがする」
 ノアが警戒した表情を見せた。
 やはりこの『霧』はオクタムを脅かすものだ。そう思える。
「む、地震か……!?」
 ガラが眉根を寄せて辺りを見回した。
 足の裏に微かだが振動が伝わってきている。そこまで強い揺れではなかった。
 地震に原因があるとすれば、一体何だろうか。学者ではないヴァンたちには見当がつかない。
 ある程度進むと、少しずつ道幅が広くなってきていた。洞窟のようだった通路から、オクタムの町がある地の底辺りに出たというところだろうか。
「少し開けた場所に出たな」
 ガラが辺りを見回して先へと進める場所を探す。
「ヴァン! あのいし、みて!」
 ふと、ノアが声をあげた。
 指差す方向にヴァンが目を向けると、巨大な柱があることに気付いた。かなり太く頑丈そうな石の柱だった。柱と言われなければ壁だと思っていたかもしれない。
「いしのはしら、ゆれてるよ!」
 微かに感じる地面の揺れに合わせて、石の柱も揺れている。揺れ自体は小さいもので、柱が砕けてしまうようなことは無さそうだが、上の方はもしかしたらかなり揺れているのかもしれない。
「ヴァン、まさかとは思うがあの上にはオクタムの町があるんじゃないか……?」
 ガラの言葉に、ヴァンは柱の上の方へと目を向けた。
 『聖獣(ラ・セル)』によって強化されている視覚でも、柱は長く、それに暗くて見通すことができない。
 もしガラの言う通りであるなら、オクタムの町は今地震に見舞われているということになる。
「ノアはいやだ……! ノア、もうかなしいひとみたくないよ!」
 ノアが強い口調で言った。
「ああ、先を急ごう」
 ヴァンは頷いた。
 ハリィの言葉が正しければ、この地底のどこかに敵がいる。それを見つけ出し、ヴァンたちが倒すことでオクタムが救われる可能性がある。
 ラタイユへ向かう前に、少しでもオクタムの人々の表情を明るいものにしておきたい。そう思うのは傲慢なことだろうか。ハリィに頼まれたことでもある。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンたちにしかできないことでもある。
 更に進んで行くと、『霧』が濃くなってきた。それと同時に、熱気も増していく。
 道中には、岩の積もった山のような場所もあった。かなり大きな岩盤が崩れたように見える。その近くに家の残骸と思しきものがあることにも気付いた。かな り高いところから落ちてきたようで、ほとんど原型を留めていない。辛うじて、家の壁だったのだろうと思える部分が残っていた程度だ。
 砂や岩に塗れてぼろぼろになったぬいぐるみのようなものも転がっていた。千切れた布も綿も風化しかけている。もしかしたら、瓦礫の下には命を落とした住人が埋まっているのかもしれない。
 オクタム地下町の真下と思われる地帯には、多くの岩と瓦礫の山ができていた。真新しい瓦礫を見つけて、ヴァンたちは思わず足を止めた。
 瞑想宮だった。中に残されていたはずの何人かの血でさえ、積もった瓦礫の山からは漏れでていない。
「ハリィ……」
 小さく、ヴァンは呟いた。
 こんなことは繰り返してはいけない。これ以上、町を崩落させるわけにはいかない。握り締めた拳に熱が宿る。
 進むしかない。それが悲劇を止めることに繋がると信じて。
 やや狭い通路の先から赤みのある明かりが漏れてきているのに気付く。開けた場所に出たと思った瞬間、これまでとは比較にならない程の熱気がヴァンたちを襲った。
「わ……!」
 ノアが思わず顔を腕で庇う。
 ヴァンたちの行く手を遮るように、真っ赤な溶岩が流れていた。
「これが溶岩というやつか……」
 ガラが顔を顰めて呟いた。暑さ故か、額に汗が滲み始めている。
 燃え盛る炎を固体にしたかのような溶岩が目の前に広がり、辺りには熱気が満ちていた。文字通り、凄まじいまでの熱でどろどろに溶けた岩、という形容が しっくりくる。この熱気の中でも溶岩の表面は冷やされて赤黒く固まりかけ、しかしその内側の熱量でまた溶かされて流動している。粘性を見て感じ取れるほど に流れは遅いが、冷えて固まりかけては内側から燃やされて再び溶けて流動する灼熱の輝きを放つその様はどこか神秘的にさえ思えた。
「しかしまずいな……これでは進めそうにないぞ」
 ガラが額の汗を腕で拭いながら呟いた。
「流石に私の力でもこの上を歩いて進むのは無理です」
 メータが申し訳無さそうに言った。
 熱を司るメータを身に着けているヴァンでさえ、この溶岩の持つエネルギーには耐えられないだろうと直感で分かった。熱気にはメータの加護による耐性が効いているが、溶岩自体のエネルギーには抗えそうにない。
「でもどうにかして進む方法を探さないと……」
 ヴァンは辺りを見回す。
 溶岩で阻まれて引き返してしまっては、オクタムの衛兵が行った調査と変わらない。その先に行くことができなければ、ヴァンたちがここに来た意味はないのだ。
 ノアが足場の縁に立って溶岩を覗き込んだ時だった。
「うわわっ!」
 岩が砕ける音がして、ノアの立っている足場が溶岩の流れに乗って動き出した。
「ノア!」
 ヴァンが手を伸ばすが、ノアは器用にバランスを取ってそのまま向かい側に見える大きな岩の足場に飛び移った。
「ヴァン、ガラ、さきにいけたよ!」
 心配するヴァンとガラをよそに、ノアは笑顔で手を振った。
「勝手に一人で行くんじゃない!」
 ガラは言いながら、やれやれと肩を竦めた。
 良く見れば、流れに乗った岩の破片が戻ってきている。どうやら溶岩の流れが運良くループしている場所に当たったようで、それを足場代わりにすることで進むことができそうだった。
 ヴァンはガラと顔を見合わせて、その破片を利用してノアのいる場所へと向かうことにした。
 流れていく途中で岩が引っ繰り返ってしまわないか不安ではあったが、無事に足場へ辿り着くことができた。
 そこから先も、溶岩の流れを周回している大岩を足場にしたり、溶岩の中に点在している岩を飛び渡ったりしながら進むことになった。
 これほどまでに熱気があると辺りに生物の気配はしなかった。この溶岩地帯に辿り着くまでの洞窟内にはそれでも動物は見受けられた。やはりこんな場所では生命は生きられないのだろう。
「なんだかこれ、たのしいね!」
「そうか……?」
 身軽なノアは段々と楽しくなってきたようだったが、いつ溶岩に呑まれるとも知れない足場を飛び移るのにガラは不安を抑え切れない様子だった。
 どちらかと言えば、ヴァンもガラ寄りの感想を抱いている。
 メータを身に着けているヴァンはまだ足元に注意するだけで良いが、ノアとガラはこの場の熱気で体力を消耗しているはずだ。二人とも『聖獣(ラ・セル)』 がこれまでに取り込んだ『獣(セル)』の力を利用して暑さを軽減してはいるものの、ヴァンほど影響を小さくはできていないだろう。
 この場所を調査するにしてもあまり時間をかけてはいられない。
 燃え盛る溶岩の放つ明かりで視界は確保されてはいるが、熱による陽炎で遠くの景色は歪んで見える。足場の関係上、進めそうに無い場所もいくつかある。
 こんな状況で何かを探すのは確かに普通の人間には無理だろう。点在する岩場や周回している岩を足がかりに進むなど、並の人間に出来ることではない。それこそ、『獣(セル)』でも身に着けていなければ難しい。だが、この場には『霧』がある。
 ハリィの言うように、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けた者でなければこの先にいるであろう『霧』の使徒を探し出すことも倒すこともできないのだ。
「だいぶ進んだはずだが……」
 ガラが額に浮かんだ汗を腕で拭いながら呟いた。
「ヴァン、ガラ、あれ!」
 ノアが前方を指差して声をあげた。
 見れば、陽炎で歪んだ視界の先に大きな柱のようなものが見えた。これまでの道中でいくつか似たような柱はあった。とても太く頑丈そうな岩の柱で、恐らくはその上には地下に逃げてきたオクタムの人々が暮らしているであろう柱だ。
 良く見れば、柱が僅かに震えているようだった。陽炎のせいだけではない。耳を澄ませば、重く低い何かがぶつかっているような音も聞こえる。
「何かいるのか……?」
 ガラが目を凝らすが、今三人がいる位置からでは何も見えない。
 様子や音の聞こえる感じからして、あの柱の裏側だろうか。
「行ってみるしかないな」
 ヴァンは前方にある岩場へと跳び移る。狭い岩を蹴って次の足場へと渡り、柱の根元にあたる広い岩場を目指す。ノアとガラがそれに続いた。
 近付くにつれて、柱が揺れているのがはっきりと確認できた。音も大きくなってくる。音に合わせて柱が揺れている。
 根元付近でここまで揺れているのであれば、上の方では地震と変わらない揺れになっているはずだ。
 巨大な柱の根元はそれを支えているだけあり、かなり広くしっかりした岩場になっていて、そう簡単に崩れるようには見えない。
 足場が揺れているわけではない、というのがそこに辿り着いたヴァンたちには断言できた。振動は伝わってくるが、それは地震によるものではない。柱に何かがぶつかっているような重い音と共に、その場所から伝わってきている衝撃だ。
 ヴァンが目配せをすると、ノアとガラは頷いた。
 音のしている方へと回り込む。
「なっ……!?」
 そして、ヴァンは目を見開いた。
 大柄な化け物が、柱に向かって突進を繰り返していた。
 牛や馬のような身体に、その首から上を人間の上半身にしたかのような怪物だった。その頭は青い装甲を纏った牛のように見え、黄褐色の鼻輪があり、同じ色 合いの角も左右に生えている。人間の上半身のように見える部分も、かなり大柄で筋骨隆々な逞しい外見をしている。ここには鎧などの類はないが、唯一手首に 黄色の腕輪を着けており、皮膚の色合いは岩や石に近い灰色だ。腰から下は牛や馬を思わせる四本の足がある獣となっており、後ろ足は頭と同じように青色の装 甲で覆われている。
 そんな怪物が、助走を付けて柱に体当たりをするよう突進しては拳を打ち込んでいた。
 異様な光景だった。
「何だ、あいつは……!?」
 ガラが睨み付けるように眉根を寄せる。
 怪物はヴァンたちの存在に気付いていないようで、柱に突撃しては距離を取り、助走をつけては突進を繰り返している。
 柱が揺れている原因はまず間違いなくあの怪物の行動だ。
「テルマ、あれ……!」
「『獣(セル)』、だね」
 ノアが聞こうとしていたことを察して、テルマが鋭い口調で答えた。
「でも、あの『獣(セル)』……」
 オズマが何かに気付いたように呟いた。
「……邪悪な意思を感じます。気を付けて下さい」
 メータが言葉を引き継いだ。
 これまで『霧』の中で遭遇してきた『獣(セル)』とは異質なものを感じる。ヴァンたちもそれは感じ取っていた。これまでの旅でヴァンたちが見てきた『獣(セル)』は、人間に取り付いたり襲おうとはしても、野生動物のような印象があった。
 だが、あの怪物からは明確な悪意を感じる。
 柱が破壊されては、上にいるオクタムの人々にも被害が出てしまう。急いで止めなくてはならない。
 ヴァンはもう一度ノアとガラに目配せした。二人とも表情を引き締めて頷いた。
 助走をつけようと後ずさる怪物の下へ、ヴァンは足を進めた。
 そして、地を蹴ろうとする怪物の前にヴァンは飛び出した。
「おっと!」
 『獣(セル)』の怪物がヴァンを見て驚いたように声をあげた。
 それにヴァンたちも驚いていた。
「邪魔しないでくれ! 今、ドハティ様に命じられた大切な仕事をしているんだ!」
 怪物はくぐもったような、妙にざらついたおよそ人間のものとは思えないような声でヴァンたちに抗議の声をあげた。
「言葉が通じる……?」
 ヴァンは目を丸くして、怪物を見上げた。
 人間の大人二人分以上はゆうにある大柄な化け物だ。
 だが、これまでの『獣(セル)』とは明らかに違う。そう断言できた。明確に意思があり、知能があり、人間と会話をするだけの言葉をも持っている。
「聞こえなかったのか? 俺は大切な仕事をしてるって言ってるだろ!?」
「仕事……?」
 怪物の声にはっとして、ヴァンは聞き返した。
「話ならこの石柱を倒し、上にいる連中を殺してから聞いてやるよ!」
 怪物が鬱陶しそうに答えた。
 その言葉に、ヴァンの中に熱が溢れた。握り締めた右手から陽炎が立ち昇る。
 こいつがオクタムに地震を起こしていた張本人だ。台地を狙って崩し、人々を追い詰めていた敵だ。今の言葉で確信した。
「ドハティとは何者だ?」
「ええい、うるさい奴だな……! 一体何の用だ!?」
 歩み出たガラの問いかけに、怪物がヴァンたちに目を凝らすように顔を向けた。
「おや!? お前らの……その手に着いた『獣(セル)』……確か、『聖(ラ)……獣(セル)』……!?」
 三人の身に着けている『獣(セル)』が普通の『獣(セル)』ではないと気付いたらしく、怪物がたじろいだように後ずさった。
「うおおおおお! やばい! お前ら敵か! 畜生! 早くそう言えよ!」
 怪物が頭を抱えて叫び声をあげる。
 その様子に、ヴァンたちは眉根を寄せた。
 これまで戦ってきた『獣(セル)』にはこれほどまでの自我はなかった。少なくとも、人間のように言葉を交わすことのできる『獣(セル)』は『聖獣(ラ・セル)』やゼトー、デリラ三兄弟以外には見たことがない。
 目の前にいる怪物はゼトーやデリラ三兄弟と同格ということなのだろうか。
「始末しないとドハティ様に叱られちまうじゃないか!」
 首を左右に大きく振って、気を取り直した怪物がヴァンたちを睨み据える。
 普通の『獣(セル)』からは感じたことのない、敵意や悪意といったものが伝わってくる。そして、間髪入れずに怪物が駆け出した。
 目の前にいるヴァンへ向かって、突進してくる。
「ヴァン!」
 ガラが呼んでいる。
 ヴァンは敵の突進を避けようともせず、逆に地を蹴って怪物へ向かって走り出した。
 ここでヴァンが避ければ、怪物は勢い余って柱に突撃するかもしれない。直ぐに崩壊するとは思えないが、これ以上この怪物に好き勝手をさせるつもりはなかった。
 握り締めた右手が炎を纏う。
「うおおおおおっ!」
 叫び、地を蹴り、怪物の振るった拳を飛び越えて、ヴァンは敵の頭目掛けて拳を突き込んだ。熱量が炸裂し、拳を打ち込んだ場所が爆ぜる。
「う……お……おおっ!」
 仰け反り、怪物が呻き声をあげる。だが、その額は僅かに青い甲殻が削れた程度だ。
「なるほど……これが『聖獣(ラ・セル)』の力か、中々やるじゃないか」
 額をさすりながら、怪物が呟く。
「貴様、一体何故こんなことをする!」
 ガラが問う。
 言葉を話すだけの知能があるのであれば、『霧』の使徒たちの目的を聞き出せるかもしれない。油断なく構えながらも、ガラは敵の動向を探ろうとしていた。
「楽しいぜ、『霧』の運命に従わない人間を殺すのは」
 まるでそれが答えだとでも言うかのように、怪物は笑みを含んだ声音で告げた。
 怪物の声もさることながら、その言葉の内容がとても耳障りだった。
「こいつ……わるいやつだ!」
 ノアが怒りを露わにした。腰を落とし、右手にトンファーを握り締める。
 怪物が足元にあった岩を拾い上げ、身体をしならせるように前足を大きく振り上げる。空中に放り投げた岩が眼前に落ちてきた瞬間に、思い切り引いていた拳を叩き込んだ。
 打ち込まれた衝撃に岩が弾けるように砕け散る。その破片が横殴りの雨のようにヴァンたちへと襲い掛かる。破片の数が多過ぎてまともに避けるのは難しい。
「テルマ!」
 ノアが左手を突き出す。その手に宿るテルマの瞳が輝きを放ち、辺りに風が吹き荒れた。
 溶岩地帯に満ちる熱気さえも吹き飛ばすような強烈な風に、岩の破片が軌道を逸らされていく。そのまま勢いに乗るかのように、ノアは姿勢を低くして駆け出した。
「小せぇくせにやるじゃないか!」
 『獣(セル)』の怪物が感心したように笑う声が聞こえた。
 一瞬でノアと怪物との距離が詰まる。横合いから振るわれた腕をノアが跳び越えるようにしてかわす。そのまま顔へとノアはトンファーを叩き付けた。だが、怪物はびくともしない。攻撃で一瞬動きが止まったノアの身体を横合いから掴むと、そのまま溶岩の方へと放り投げた。
「わわっ!?」
「ノア!」
 慌てた声をあげるノアの方へ向かおうとするが、怪物がそれを阻むようにヴァンの目の前へ割り込んでくる。
 振るわれる丸太のような腕を屈んでかわし、足の間に滑り込むようにして怪物の背後に回る。
 ノアが空中で身を捻り、左手のテルマから風を放って軌道を変える。溶岩の中にある足場にできそうな岩の上にどうにか着地し、それを蹴ってヴァンたちの方へと戻ってくるのが見えた。
 ヴァンは拳を握り締め、怪物の後ろ足を思い切り殴り付ける。メータの炎が爆ぜ、衝撃に怪物が体勢を崩した。
「うおお!」
 怪物が声をあげ、ヴァンをもう一方の後ろ足で蹴ろうとする。
 勢いが乗る前に左手の短剣で払い落としたところへ、ノアが戻ってきた。怪物の背中に飛び乗ると、腰を落としたままの姿勢からテルマの宿る左手を怪物の首筋に打ち込む。
 それに合わせたように、正面からガラがオズマで怪物の腹を殴り付けている。
「痛ぇじゃねぇか!」
 怪物が叫び、身を震わせる。力任せに身体を揺すり、腕を振るう。三方向から囲むように一度飛び退いて、敵の動きを見て再び踏み込む。
「なんてタフな奴だ……!」
 ガラが唸るように呟いた。
 元々、『獣(セル)』の皮膚は岩のように硬く、鉱物のようでもあるものだ。だが、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたヴァンたちには並の『獣(セル)』の皮膚は容易く貫けるだけの力がある。にも関わらず、この怪物の身体には容易に傷を付けられない。
 『獣(セル)』の姿で襲い掛かってきたゼトーを思い出させるような硬さだった。
「俺をその辺の雑魚と一緒にするなよ!」
 嘲笑うかのように怪物が言い、腕を振るってくる。
 思わず腕を交差させて受け止めたガラが吹き飛ばされた。力もかなりのものだ。あまり素早いとは思わないが、その力と頑強さは油断できない。
 上手くオズマで防御したガラにダメージはさほどないようだが、何度も食らってはまずい。
 溶岩の熱気もある。長期戦はヴァンたちに不利だ。
「直接攻撃が効かないのなら!」
 ヴァンはメータに呼び掛け、右手を握り締めて眼前に掲げた。
 その意思を受け取ったメータの瞳が輝きを放つ。メータの刃に熱が宿り、ありったけの力を込めて圧縮された熱量が炎となって燃え上がる。
 怪物に手が届く距離ではない。それでも、ヴァンは殴り付けるように腕を振るった。
 刃から炎の塊が放たれる。真紅の光を放つそれは、溶岩の塊を投げているようにも見えた。
 振り払おうとした怪物の腕が炎に触れた途端、爆発したように炎が広がった。弾け飛ぶように炎は熱量をもって暴れ、化け物の腕が焼け、溶け落ちる。
「うごあああああ!」
 怪物が絶叫した。
「お、俺の腕が……! 俺の腕がぁぁぁ!」
 緑色に光る目を大きく見開き、怪物が無くなった腕を見て叫ぶ。
「一気に畳み掛けるぞ!」
 ヴァンは言い、駆け出した。
 単純な力比べなら難しいが、『獣(セル)』としての能力なら『聖獣(ラ・セル)』の方が上だと踏んだ。その判断は正しかった。
 ノアとガラも、それぞれの『聖獣(ラ・セル)』に力を込めている。
 これまで以上に、『聖獣(ラ・セル)』の力を攻撃に乗せて戦う。『聖獣(ラ・セル)』を身に着けたことで向上している身体能力や、『聖獣(ラ・セル)』 による加護だけではない。『聖獣(ラ・セル)』の持つ力をもっと引き出して、上乗せして、共に戦う。きっと、それがヴァンたちの本当の力だ。
「おおおおおっ!」
 ガラが思い切り引いた右の拳が雷撃を纏う。腰を落とした姿勢から、全ての力を一点へと乗せた掌底を怪物の腹へと叩き込む。
 その腕が纏う雷撃は動きを加速させ、神速の掌底は落雷の如き雷鳴を轟かせた。一点に集中した雷と衝撃が怪物の腹を貫き、風穴を開ける。
「うがあああああ!」
 怪物は絶叫しながらも残った一本の腕でガラに掴みかかろうとする。
「させるか!」
 ヴァンはその腕目掛けて飛び掛っていた。頭上に振り上げた右腕を力一杯握り締めて、そこにありったけの熱を込める。メータの瞳が光を放ち、紅蓮に燃え盛る右手の刃が怪物の腕を溶断する。
「があああああ!」
 両腕を断たれ、腹に穴をあけられた怪物が堪らずに後ずさる。
 その正面にノアがいた。
「いくよ、ノア……!」
 優しく、力強い声でテルマが告げる。
「はあああああっ!」
 ノアが大きく息を吐き出し、腰を大きく落とす。そして、地を蹴った。一瞬でノアと怪物の距離が詰まる。鮮やかな紅い髪が、風に揺れていた。
 後ろへ伸ばしたノアの左手でテルマの瞳が一際光を帯びている。集められた風はまるで淡い翡翠色の光のようにノアの左腕を包み込んでいた。
 ノアの左手が化け物へと振るわれる。ノアの腕が化け物の脇の下辺りへ横合いから叩き付けられる。力を込められた風は刃となり、ノアの腕を剣として化け物 の『獣(セル)』の体を切り裂いた。翡翠色を帯びた風は『獣(セル)』の頑強な装甲を削り取り、ノアの腕が流れるように怪物の体に食い込んで行く。
 ノアの腕が半円を描くように切り返され、そのまま脇腹辺りへと抜けるように切り払われた。
「ぐおおおおおあああああ!」
 怪物が叫び声をあげる。
 大きく削り取られた上半身を支え切れず、岩が砕けるような音を立てて上体が崩れ落ちた。
「やった!」
 ノアが胸の前で拳を握り締める。
 戦闘能力は奪った。さすがにあの状態では抵抗できないだろう。下半身が砂のように分解されて消えて行くのが見えた。
 両腕を失くし、胸から下もほとんど無くなった『獣(セル)』の化け物が身悶えるように震えた。
 次の瞬間、崩れて消えて行くその体から何かが飛び出した。それはまるで二本の角を持った青色の心臓とでも呼ぶべき形をしていた。その質感は怪物の頭に似ている。
 それが、宙に浮かんでいた。
「やられたよ……!」
 悔しげな怪物の呻き声が響いた。
 ヴァンはその声に驚きながらも、身構えた。
「お前らがここまで強いとは思わなかったよ……」
 怪物の声はあの青色の心臓のようなものから聞こえてきているようだった。
「お前は一体……!?」
「嬉しいだろ!?」
 ヴァンの問いを遮るように、怪物が強い口調で言った。
「俺に勝って、お前ら幸福の絶頂だろ?」
「何を言って……?」
 どこか嘲笑うような怪物の言葉に、ガラが眉根を寄せる。
「悔しいね……お前らの顔を見てると碇が込み上げてくるよ」
 怪物の成れの果てはゆっくりとヴァンたちから遠ざかるようにゆっくりと宙を漂っていく。
「ははは……お前らが俺に勝ったお陰で何が起こるのか……その目で見て、思いっきり悔しがるといい!」
 嘲笑うような声は少しずつ力を帯びて行き、最後は憎悪のこもった強い口調に変わっていた。
 その心臓のような体が黄色い光を帯び始める。とても神聖な光には感じられない。邪悪な輝きだった。
「ヴァン!」
 メータの声を聞くよりも早く、ヴァンは飛び出していた。
 溶岩の上を漂っている角付きの心臓には直接攻撃はできない。だから、右腕に思い切り力を込めて振るった。メータの瞳が輝き、ヴァンの込めた力を熱に変えて解き放つ。
「我が呪い! 我が怒り! 我が復讐のエネルギー! 絶対暗黒の力を見よ!」
 言うや否や、青い心臓が支えを失ったかのように落下した。
 ヴァンとメータの放った炎はその直ぐ上を掠めて行った。
 化け物の心臓が溶岩に飲み込まれて消えた瞬間、光が弾けた。目を開けていられない程の強い光に、ヴァンたちは思わず両腕で顔を覆う。
 光は一瞬で治まったが、目を開いた時、辺りの様子は一変していた。
「な……!?」
 ガラが目を見張る。
 ヴァンも言葉を失っていた。
 それまで灼熱の溶岩だったものが、全て凍り付いていた。いや、溶岩だけではない、今ヴァンたちが立っている地面やここに辿り着くまでに足場としてきた岩なども凍っている。辺りに漂っているのが、『霧』なのか冷気なのか分からないほどだ。
 もしかしたら、『聖獣(ラ・セル)』を身に着けていなかったら地面と一緒にヴァンたちも凍り付いていたかもしれない。
「かちんかちんだ! あいつ、ようがんをかちんかちんにしちゃったよ!」
 ノアも目を丸くして、周りの様子に驚きの声をあげる。
「これは……」
 テルマたちもこの光景に絶句しているようだった。
「『霧』の使徒の『獣(セル)』には、灼熱の溶岩を凍らせる程の力があるのか……?」
 ガラが辺りを見回しながら呟いた。
 どこまで凍り付いているのか、ここからでは果てが見えない。
「メータ、これは……」
 ヴァンはその場に膝を着いて凍り付いた地面に右手を触れた。
 戦いの最中ですら感じていた溶岩の熱量が今は全く感じられない。地の底から湧き出してきているはずの熱全てが消えてしまったのだろうか。
「……完全に凍り付いている訳ではないようです」
 周囲に探りを入れていたメータが静かな声で答えた。
 ヴァンも意識を集中してメータに合わせてみると、微かだが地の底に熱を感じた。だが、とてつもなく深い場所だ。炎を司るメータを身に着けたヴァンでさえ、感じ取るのが難しい程に。
「なら、暫くすれば元に戻るということか?」
「でも、かなり時間がかかると思う」
 メータとのやり取りを聞いていたガラの問いに、ヴァンは立ち上がりながら答えた。
「この氷はあの『獣(セル)』の力を帯びています」
 メータが言った。
 直接手で触れてみて、ヴァンも分かった。この氷はそう簡単には溶けない。あの怪物が最後に叫んだ言葉のように、呪いとでも言うべき力が込められている。ただ凍り付いているだけでないようだ。
 ヴァンとメータが炎をぶつけたとしても、そう簡単には溶けないだろう。それこそ、自滅覚悟でもなければ、打ち消せるとは思えない。
「そうか……とりあえず上の町の危機はなんとかなったとは思うが……」
 ガラが顎に手を当てて呟いた。
「ううううう……ヴァン、さむいよ!」
 ノアが両肩を抱くようにして体を震わせた。
 ここまでの道中の熱気と、戦いでかいた汗が急速に冷やされていく。メータたち『聖獣(ラ・セル)』が寒さを軽減してはくれているが、やはり怪物の力が込められているのか、完全ではないようだ。
「ノア、さむいのはきらいだ! はやくオクタムにかえろう!」
「とりあえず、上に戻ってみるか」
 眉尻を下げて訴えるノアにヴァンは頷いた。
 ひとまず、『霧』の使徒は倒せたはずだ。オクタムの町を襲っていた地震の原因があの『獣(セル)』の化け物ならば、危機は脱した。ハリィの指示も全うできたはずだ。
 ヴァンたちでどうにかできないのなら、この場に留まっていても仕方が無い。
 戦う前に怪物が起こしていた地震が上の方でどうなったかも気になるところだった。
「それにしても、奴の言葉が気になる……嫌な予感がするな」
 ガラが考え込むように呟く。
 足を滑らせないように注意しながら、ヴァンたちは来た道を引き返すことにした。岩場を飛び移る必要はなく、凍り付いた溶岩の上を歩いて行く。
 『獣(セル)』は倒したが『霧』は晴れていない。
 白く染まる息を吐きながら、氷の世界となった地下を進む。
 引き返しながら、周囲を少し探ってみたが、凍り付いた箇所はかなり広範囲に渡っているようだ。もしかしたら、セブクス群島の地下にある溶岩地帯全てが凍り付いているのかもしれない。そう思えてしまうほど、この冷気は遠くまで広がっている。
 確かに、嫌な予感がした。
 何か重大なことを忘れている気がする。
 調べられるものなら、どこまで凍り付いているのか探りたいぐらいだった。だが、ヴァンたちには『霧』を晴らすという目的もある。これも『霧』によって引 き起こされた事態ではあるが、今の時点で対処ができるかどうかも分からない。地底を調べられるような地図を持っているわけでもなく、地下を探索したところ で創世樹が見つかるとは思えない。
 結局、地上に戻るしかヴァンたちには道がなかった。
 道中の洞窟内も冷え冷えとした空気に満たされていた。凍り付いているのは溶岩地帯が中心のようで、そこから少し離れると普通の岩壁になっていた。それで も、熱気を放っていた溶岩が冷えてしまっているため、気温はかなり下がっている。溶岩があったことで暖かかったのが嘘のように肌寒さを感じる。
 オクタム地下の町に戻ると、洞窟から出てきたヴァンたちを衛兵が出迎えてくれた。
「皆さん、やりましたね!」
 明るい表情で衛兵の男が声をかけてきた。
「地底にいた『霧』の使徒をやっつけたんですね?」
 ヴァンたちが頷くと、衛兵は近くに集まってきた住人たちに向かって手を振った。
「そうだよ! ノアたち、かいぶつをぎゃふんしてきたよ!」
 ノアが笑顔で言うと、集まってきた住人たちにも安堵の表情が広がった。
「やっぱりそうでしたか。地面が揺れなくなったので首尾良く行ったのだと町中の者が喜んでおります」
 衛兵も嬉しそうだった。
 話を聞いてみると、どうやらヴァンたちが戦い始めた辺りで急に地震が止まったらしい。それまではどこかの台地が崩れるまで続いていた地震が、途中で不思議なくらいにぴたりと止まったというのだ。
 恐らく、あの『獣(セル)』の怪物による地震がヴァンたちと戦い始めたことで止まったのだろう。そのまま地震が再開することはなく、ヴァンたちが戻ってきたことで上手くいったのだと皆確信したようだ。
「もう地震はこないから、家が壊れるかどうか見張らなくても済むんだな……」
 集まってきた住人のうちの誰かが呟くのが聞こえた。ほっとしたような、安堵感のある声だった。
「早く地上に帰って畑仕事をやりたいもんだな」
「地震が消えて一安心だ。後は地上から『霧』が消えるだけだな」
「皆さんのお陰で、もう地震に怯えなくて済むんですね……」
 町の人たちの声が聞こえてくる。
 セブクス群島から『霧』が無くなれば夢物語ではなくなる話だ。ヴァンたちがハリィの言葉通り、地底に潜んでいた『霧』の使徒を倒したことで、町の人たちにも希望が見えてきたようだった。
 地上から『霧』が無くなった訳ではないが、それでも町の人たちに明るい表情が広がっている。地震に怯えることもなく、地上の『霧』が晴れる希望も出てきた。
 救えなかった命もある。それでも、今、この瞬間のこの町は救えたはずだ。ヴァンの胸の奥に暖かいものが広がっていくような感覚ある。メータが優しく背中に手を触れているような、そんな気さえしてくる。
「ハリィ様亡き後、皆さんが私たちの希望です」
「皆さんはハリィ様の遺志を継いでいらっしゃるんですね」
 町の人たちは口々にヴァンたちを称えた。
 その期待に応えるためにも頑張らなくてはならないと思う。
「ところで、何だか寒くなったような……何かあったんですか?」
 ふと、衛兵が台地の縁から地下を覗き込むようにして呟いた。
「うむ……実は敵が死ぬ間際に地底を凍らせてしまったのだ」
 ガラが腕を組んで顎に手を当てて答えた。
 ヴァンたちは地底で起きたことを集まってきた人たちにも話すことにした。折角、地震から解放されて喜んでいるところに水を差すのも悪いと思ったが、変化 を感じ取っている人がいる以上、言っておくべきだと判断した。それによってこの町で不都合が出てもまずい。知っておいてもらった方が良いだろう。
「何ですって……! うーむ、その影響で悪いことが起きなければいいのですが……」
 衛兵の男もその話には驚いていた。
「済んでしまったことですし、ともかくありがとうございました」
 衛兵が一礼し、町の人たちもそれに倣うように会釈する。
 話を聞く限りでは、地底が凍ったことでここの生活に悪影響は出ないだろうとのことだった。多少肌寒さは感じるが、元々地熱で気温がやや高めであったのも事実だ。作物や生活に支障は無いだろう、と皆口を揃えた。
 そうして市長の家に置いてきた荷物を取りに行く途中、見慣れぬモニュメントが出来ていることに気付いた。瞑想宮があった台地の直ぐ隣の台地に、瞑想宮があった方角に向いて三つの記念碑が並んで建っていた。
 それがハリィを称える記念碑であることは直ぐに分かった。台座の上には、それぞれのハリィを示す色の宝石が設えられていたからだ。
 近付いて良く見ると、言葉が掘り込まれていた。
「その言葉は数多の書に勝り、その心は悪夢を消し去る。現在のハリィこの地に眠る……」
 ヴァンは緑色の宝石の供えられた石碑にそっと手を触れて、刻まれた文字を読み上げた。
「過去を振り返るは勇者の業。過去は豊穣の大地なればなり。過去のハリィこの地で歴史となる」
 隣にある青色の宝石が供えられた石碑に刻み込まれた文字をガラが読み上げる。
 その向こうで、赤色の宝石の設えられた石碑の前でノアが難しい顔をしていた。読もうと思ったが、まだ読めない文字があるらしい。
「言の葉なる灯火はさやかなれど、その光、漆黒の未来を照らし出す。未来のハリィ、この地で久遠となる」
 ヴァンは小さく笑んで、代わりに読み上げた。
「私たちはハリィ様の心を皆に伝えて生きていくつもりです」
 三つの石碑の言葉を読み終えたヴァンたちに、優しい声がかけられた。振り返ると、数人の巫女がヴァンたちの前に立っていた。
 ハリィのお世話をすることが仕事であった巫女たちは、ハリィがいなくなったことで仕事を失ってしまったのだ。だが、これからどうするのか、結論は出たよ うだった。ハリィが残した教えや言葉、心、ハリィという存在がいたことを伝えていくことをこれからの使命とすることに決めたようだ。
「ハリィ様も折角、『霧』の中を逃げ延びてきたというのに……」
「ハリィ様の仇……『霧』の使徒をお願いします」
 巫女たちがハリィを思い黙祷する。ヴァンたちもそれに倣って黙祷を捧げた。
 市長の家に入ると、ヴァンたちに気付いたキーナが駆け寄ってきた。
「凄いんだね、皆」
 表情が明るくなっているのは気のせいではないだろう。
「この調子で地上の『霧』も晴らしてやるさ」
「うん、期待してるね!」
 ヴァンが笑って見せると、キーナも笑った。可愛らしい笑顔だ。
「またあそぼうね!」
 ノアの言葉にキーナが頷く。
 階段を上って市長のいる三階へと向かう。
「ふん、地震が無くなってもわしの家族は戻ってこんわい!」
 その途中、二階に上がったところで、老婆の声が聞こえてきた。見れば、背中の丸まった老婆がお茶を啜りながら愚痴を漏らしているようだった。
「悪態をつくだけ少しは元気が出たようじゃな」
 向かい合って座る老婆が苦笑を浮かべながら、悪態をつく老婆を宥めていた。
 家族を失くした人も大勢いる。そんな人たちにも、前を向いて生きるきっかけが作れただろうか。心の傷は直ぐに癒えるものではないだろう。それでも、明るいニュースに少しでも前向きになってもらえたら、ヴァンとしては嬉しい。
 三階に上がってきたヴァンたちを見て、市長は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! 皆さんのお陰です!」
 市長はいきなりヴァンの手を取ると、嬉しさのあまり上下に激しく揺するように握手をしてきた。
 あまりのことにヴァンはただ目を丸くするだけだった。
「カハ……カハハハハハハハ……」
 特徴的な笑い声をひとしきりあげて、市長はようやくヴァンから手を放した。
「これは会心の笑みという奴ですよ! 嬉しくってしょうがないんですよ!」
 市長として、この町の状態を嘆いていた。町の皆の不安をどうにかしたくとも、出来ることがなく諦めかけていた。頼みのハリィもいなくなってしまった。
 それでも、ヴァンたちがこの町の危機を救ってくれた。町の人々に明るい顔が戻ってきた。それが嬉しくて堪らないのだと、市長は何度も何度もお礼を口にした。
「ところで一つ、お願いがあります」
 市長はエレベータの鍵の予備を机から取り出しながら、そんなことを言い出した。
「頼みごとですか?」
 ガラが問うと、市長は頷きながら予備の鍵を差し出した。
「温泉で有名なウィドナから、波湯丸というものを持ってきてもらえませんか?」
「波湯丸?」
 鍵を受け取りながら、ヴァンは問い返した。
「ウィドナの名物的なお土産品ですよ。ウィドナで尋ねてもらえれば直ぐに分かるはずです」
 市長が言った。
 お土産品というなら、確かに名前だけ伝えれば手に入れるのは容易いのだろう。
「ウィドナか……次の目的地はラタイユの予定だったが、二度手間になってしまうぞ?」
 ガラが思案するように言った。
 当初の予定では、次はラタイユに向かうつもりだった。だが、ウィドナに戻るとなればラタイユへ向かうのがまた後回しになってしまう。創世樹があると思わ れるレトナ山には早く行きたいというのも本当のところだ。強くなっている『霧』の使徒に対抗するためにも、創世樹で『聖獣(ラ・セル)』の力を高めたい。
 それに、ウィドナに行ってまたここに戻ってくるとなると更に手間が増える。創世樹が無いウィドナとオクタムでは風の扉も使えない。
「うーん、取りに行ってもいいですけど、持ってくるのは後になると思いますよ」
 ヴァンは頭を掻きながら答えた。
 どの道、オクタムにはもう一度来る必要がある。セブクス群島の『霧』を晴らしたら次はカリスト皇国地方へ向かうのだ。そのために風来獣車を使うなら、オクタムに立ち寄らねばならない。その時ついでに届けるというのなら、手間は減らせる。
「構いませんよ」
 それを説明すると、市長はそれでも構わないと答えた。
 『霧』のある今の状態では自分で取りに行くことも、取り寄せることもできない。ヴァンたちが『霧』を晴らすのがどのぐらい先になるかも分からないのだから、少なくともヴァンたちより早く手に入れることは出来ないだろうというのが市長の見解だった。
「おにいちゃんたちウィドナにいくの? いいなー、ウィドナっておんせんのあるまちなんでしょ?」
 近くでヴァンたちの会話を聞いていたらしい男の子が羨ましそうに呟いた。
「『霧』が晴れたら連れてってもらえばいいさ」
 屈み込んで男の子の頭に手を乗せて、ヴァンは優しく言い聞かせる。ヴァンたちが『霧』を晴らした後なら、いくらでも外を出歩ける。ウィドナにだって行けるようになるはずだ。
「うん!」
 元気良く返事をする男の子に一つ頷いて、ヴァンは立ち上がった。
「そういえば『霧』の使徒のお陰で地熱が消えたそうですね。セブクス群島は火山国ですから、温泉等にその影響が出ていなければいいのですが……」
 ふと、市長がぽつりと呟いた。
「地熱……」
 地熱、という言葉が引っ掛かって、ヴァンはガラと顔を見合わせた。
「まさか……」
 ガラが不安を押し殺したような声を漏らした。ノアは気付いていないようで、小首を傾げている。
 ヴァンたちは荷物を手に、市長の家を出てエレベータのある建物へと向かった。
「私たちはハリィ様と皆さんのことを忘れません! ありがとうございました!」
 見送りに来た人たちがお礼の言葉を口にする。
 ヴァンは内心の不安を表に出さないように気を付けながら、見送りに応じて手を振った。
 衛兵がエレベータの電源を入れ、扉が開く。中に入り、スイッチを押すと扉が静かに閉まり、エレベータが動き出した。
 エレベータが止まったのは、レム神殿の隠し部屋だった。カーラという盗賊を自称する女と出会ったあの部屋だ。
「ウィドナに行こう」
 ヴァンの提案に、ガラも異存はないようだった。
「ウィドナにいくの?」
「気になることがあるんだ」
 小首を傾げるノアに、ヴァンはそう答えた。
 ハリィに会えたこと、ハリィが消えてしまったこと、ウィドナでヴァンたちにハリィの言葉を伝えてくれたサシアに報告したい気持ちもある。オクタムの市長に頼まれたこともある。
 だが、何よりも。
 寝る時間を少し削って、ヴァンたちはウィドナへ急いだ。
 そして、不安は現実のものとなっていた。
 ウィドナに近付いても、力強い風を感じない。『霧』の流れが遅い。
 町の姿が見えてきたところで、気付く。
 『霧』が流れ込んでいる。
 三人共、走り出していた。
「ヴァン!」
 ウィドナに辿り着いて直ぐ、ノアが目を丸くして声をあげた。
 辺りには『霧』が立ち込めていた。
「風車が……!」
 見上げて、ヴァンは言葉を失った。
 悪い予感は的中していた。
 ウィドナを『霧』から守っていた風車が、止まっていた。
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