第十八章 「獣の花嫁」


 心地良い風を感じながら、ヴァンたちは山道を下っていた。
 重苦しかった『霧』は晴れ、清々しい空気が満ちている。
 目覚めた創世樹はこれまでに覚醒させた創世樹と同じように立派に育ち、枝を伸ばし、多くの葉を茂らせた。
 メータたち『聖獣(ラ・セル)』も力を増した。メータはヴァンの腕を守るようにその装甲をより強固なものにし、肘関節までをも保護するように成長してい る。テルマは手甲の部分から鋭利な鉤爪が伸びて、手首を守るように装甲も増えた。オズマもより装甲が厚くなり、先端部分にあった黄色い角が増えて攻撃性が 高められている。
 ラタイユを囲っている城壁のお陰で、街中の様子はレトナ山の山頂付近からしか見えていない。かなり距離があったため、中の様子はほとんど分からない。だが、『獣(セル)』に取り付かれていた人たちは元に戻っているはずだ。
「みんなよろこんでくれるかな?」
 ノアが呟く。
 ジェレミでは、大切な人を失って悲しみに暮れる人もいた。誰もが手放しで喜べる訳ではないと知った。
「ここは城壁があるからな、行方不明というのは少ないんじゃないか?」
 ガラが答えた。
 無い、とどうしても言い切れないのが心苦しいところではある。それでも、ヴァンたちが訪れるまでラタイユは城壁や関所の門によって四方を囲んだ形の町に なっている。『獣(セル)』に取り付かれたまま、町の外へ出て行方知れずとなってしまう人はこれまでの町に比べると少ないはずだ。
 どうしても、被害をゼロに抑えることはできない。
 それは、『霧』が世界を覆ってから十年もの月日が流れた今となってはどうしようもないことだ。いくらヴァンたちが素早く創世樹を覚醒させて『霧』を払っ て回ったとしても、それまでの十年という歳月を取り戻すことはできない。『獣(セル)』に取り付かれていた人たちの時間は止まったままだったとしても、年 月は過ぎている。その間に起きたことを正確に把握することも、その中で起きたであろう悲劇を防ぐことも、ヴァンたちにはできない。
「とりあえず、領主のセルジュに会いに行こう」
 ヴァンは言った。
 予想の通りであるなら、ラタイユの領主セルジュに取り付いていた『獣(セル)』も正常に戻っているはずだ。セルジュに会い、『霧』の巣について何か知っているか尋ねる。西側に向かう必要があるのであれば、西門を通る許可も貰わなければならないだろう。
 レトナ山を降りて、東門を開けてラタイユに入る。
 日が傾いて夕刻になろうとしているところだった。
 通りには何人かの住民が行き交っていて、『獣(セル)』が浄化されて町の人たちが元に戻ったことを示していた。建物の窓からは明かりが漏れ、通路にある街灯にも火が灯されている。
 そこで、違和感に気が付いた。
「……妙だな」
 ガラも気付いたようだった。
「どうしたんだろう、みんなえがおじゃないよ……?」
 ノアも首を傾げる。
「メータ?」
 ヴァンはメータに呼びかけた。
「『獣(セル)』は確かに浄化されています」
 意図を察したメータが、周囲の様子を探ってヴァンに伝える。
 街の中には『獣(セル)』をつけた人間はいるようだが、『霧』がなくなった今、それらは今まで通りの『獣(セル)』として存在している。人間の意識を乗っ取っているということはなさそうだ。
「それにしては、何だか……」
 空気が重い。
 ヴァンはどこか息が詰まるような雰囲気に包まれたラタイユの人々に困惑していた。
「あの……何かあったのですか?」
 見かねたガラが、近くを通り掛かった老人に声をかけた。
「宿屋の娘がセルジュ様に呼ばれたそうじゃ。まったく、不憫なことじゃ……」
 やりきれないとでも言うように老人は首を横に振って歩いて行ってしまった。
「どういうことだ?」
「分からん……」
 ヴァンの問いに、ガラも肩を竦めた。
 皆、どこか上の空とでも言うように暗い表情をしている。話しかけ辛い雰囲気さえ漂っていて、声をかけるのでさえ躊躇してしまうほどだった。
 見かけない顔であるはずのヴァンたちに対して興味を示す者もほとんどいない。
「とりあえず、セルジュに会うか」
 ヴァンは頭を掻いて、そう結論を出した。
 ここでじっとしていても始まらない。まずは領主のセルジュに会って話をしてみるしかないだろう。先ほどの老人が行っていた言葉も、セルジュ本人に問い質せばいい。
 ヴァンはラタイユの整備された通路を進み、領主の住む宮殿へと向かった。
 すれ違う人たちの表情は暗いものばかりで、『霧』から解放されたことに対する安堵や喜びを感じているようにはとても見えない。『霧』とはまた違う、どこか重苦しく息の詰まるような、諦めや絶望が染み出して漂っているような、どうにも居心地の悪い雰囲気だ。
「すみません、領主に会いたいのですが」
 宮殿前の大きな扉を守るように立つ衛兵の一人に、ヴァンはそう言って話しかけた。
「セルジュ様は誰も通すなと仰った。だからここを通す訳にはいかない」
 衛兵は微動だにせず淡々と答える。
「我々はそのセルジュに頼まれてレトナ山に向かったのだが……」
「セルジュ様は我々に通すなと命令した。だから通す訳にはいかない」
 ガラが怪訝そうに食い下がるが、隣の衛兵が答えた。
 抑揚に乏しい、感情が希薄な声音だった。取り付く島も感じさせない、有無を言わせない口調だ。
「セルジュ、かぎくれるっていったのに!」
 ノアが頬を膨らませるも、衛兵は何も言わず無表情に門を守っているだけだ。
「強行突破するか……?」
 ガラが小声でヴァンに耳打ちする。
「いや、何か変だ……メータたちは何か感じないか?」
 ヴァンは首を縦には振らず、『聖獣(ラ・セル)』たちに呼びかけた。
 確かに、ヴァンたちの力をもってすればこの場を強行突破してセルジュに会いに行くことはできる。
 だが、街の人たちの様子といい、この衛兵たちといい、何かがおかしい。時間的にも日が暮れようとしている。ここは街の人たちに話を聞いてみるべきかもしれない。
「……この人間からは自我を感じ取れないね」
 テルマが不可解そうに呟いた。
「『獣(セル)』に操られている時の感覚に似ていますが、全く同じというわけでもないわ」
 オズマが言葉を継いだ。
 衛兵と呼ばれる職に就く者たちはその目的故に武装として『獣(セル)』を身に着けていることが多い。目の前にいるラタイユの衛兵たちも手に『獣(セル)』の槍を携えている。
 だが、『霧』が晴れた今、狂暴化していた『獣(セル)』は正常に戻っている。衛兵たちが手にしている『獣(セル)』も、ただ人に力を貸す存在としての 『獣(セル)』に戻っているのはメータたちが教えてくれた。自我を感じられない、操られている時の状態に似ているという『聖獣(ラ・セル)』たちの言葉か らすると、何か別の者によって支配されているということだろうか。
「どうしよう、ヴァン?」
 ノアが眉尻を下げてヴァンに問う。
「とりあえず、街の人たちに話を聞いてみよう」
 ヴァンは答えた。
 強引な手段に出るとしても、まずは情報を集めた方がいい。闇雲に動いても、目的が分からなくなってしまう。
 今、このラタイユで何が起きているのかをまずは知るべきだろう。間違いなく、何かある。
 門から街の方へと振り返ったヴァンたちの前に、一人の女性が立っていた。
 街の人だろうか、白いワンピースを着たオレンジ色の髪の女性だ。年はまだ若い。
「あなたたちね!」
 きっ、と吊り上がった目尻で、まるで敵を睨み付けるかのような視線をヴァンたちに向けている。
 その視線や態度に、ヴァンはたじろいだ。
「ラタイユから『霧』を消してくれたのはあなたたちね!?」
「あ、ああ、そうだけど……」
 噛み付くような物言いに面食らいながらも、ヴァンは頷いた。
 衛兵との会話が聞こえていたのだろうか。
「酷い!」
 ヴァンの返答を聞いた女性の目尻に涙が浮かび、みるみるうちに表情が曇って行く。
「酷過ぎる! あなたたちが余計なことをしてくれたお陰で、皆苦しんでるのよ!」
「それはどういう……?」
「元の通りにしてよ!」
 戸惑い、事情を聞こうとするガラの声を掻き消すように、女性が声をあげる。
「私たちの町を『霧』の中に返してよ!」
「……なっ!?」
 その言葉に、ヴァンは一瞬だが頭の中が真っ白になった。
 『霧』から世界を解放することは、皆が望むことだと思っていた。だが、ここの住人たちは『霧』の中の方が良かったと言う。立っている場所が分からなくなってしまったような錯覚に襲われて、倒れてしまいそうだった。
 ふっと、ヴァンの背中にノアの手が触れた。その手の感触にはっとした。倒れずに済んだ。見れば、不安そうな表情で、ノアが周りを見ていた。
 女性が大声をあげたせいか、周りに人が集まってきている。
「すまないが、誰か事情を教えてくれないか。我々はここに来たばかりで事情を知らないんだ」
 ガラは前に出て、そう訴えた。
 集まってきた人たちの表情は暗い。ヴァンたちに対して良い感情を抱いていないのが一目で分かる。女性が言った、余計なことをしてくれた、という言葉がぴったりくる。そんな視線を向けてくる者たちばかりだ。
「この町の娘たちは皆、『獣(セル)』の花嫁として連れて行かれてしまうんじゃよ」
 一人の老婆が枯れた声で答えた。
「『獣(セル)』の……花嫁?」
 ヴァンは眉根を寄せ、聞き返すように呟いた。
 聞くからに、不審な言葉だ。
「何が『獣(セル)』の花嫁だ!」
 怒りを滲ませた男の声があがった。
「花嫁なんて綺麗な言葉を使っているが、やってることは人身御供って奴じゃねえか!」
 怒鳴り散らすような男の声に、皆が苦い表情を見せる。
 どうやら、理解できていないのはヴァンたちだけのようだ。
「人身御供って……」
 ヴァンは周りの人たちを見渡した。
 誰も、それが何を指しているのかを口にしたくないとでも言うかのように視線を逸らしている。
「セルジュ様も、昔はもっと良い領主様だったのに……」
「あのドハティとかいう男が来てから、すっかり人が変わってしまった……」
 老婆が呟き、それに続く言葉を隣の老人が紡ぐ。
 ドハティ、という名前にヴァンたち三人は顔を見合わせた。
 その名前には聞き覚えがある。ヴァンたちにとって敵である、『霧』の使徒だ。
「人を殺すのは、『霧』の中の『獣(セル)』の怪物ばかりではないんじゃ」
 老人はそう言って、ヴァンたちに背を向けて老婆と共に歩いて行ってしまった。
「『霧』はわしらの心を閉じ込めた。長い長い悪夢の中にわしらの心を閉じ込めた……だが、現実は悪夢を凌いでおる……この町で生きることは死よりも辛い……」
 また一人、別の老人がそう言い残して去っていった。
「お前ら、おかしな『獣(セル)』を身に着けているな」
 ヴァンたちの『聖獣(ラ・セル)』に気付いた一人の中年男性が訝しげな目を向けてくる。
「セルジュ様が育てている怪物、ジャガーノートも『獣(セル)』の一種だそうだ。気をつけろよ! 『獣(セル)』はどんなものでも、人の心と命を吸うと言うからな」
 そう言って、男はヴァンたちに背を向ける。
「テルマはそんなセルじゃないよ!」
 怒ったノアが反論するも、男は意に介した様子もなく、行ってしまった。
 少しずつ、ヴァンたちに興味を失った人たちが離れて行く。その背中は小さく、褪せて見えた。
「ジャガーノート?」
「ただの伝説じゃよ……どこにでも良くある、悪魔のような恐ろしい怪物の伝説……」
 近くにいた老婆が答えた。
 子供たちに言い聞かせるような御伽噺や伝説といったものには、ほとんどの場合、とても恐ろしい何かが登場する。ジャガーノートも、そういった伝説上の名前に過ぎないのだろう。その伝説にあやかって付けられた名前、ということだろうか。
「まずます意味が分からないな……どうなっているんだ、この町は……」
 腕を組んで、ガラが渋い表情で唸る。
「一言で『獣(セル)』と言っても、多くの種類がある。変異体という特殊な『獣(セル)』のことを知っておるか?」
 困惑するヴァンたちに、初老の男性がそう声をかけてきた。
 服装や表情はくたびれた様子で、髪や髭は白くなっているが、腰はまだ曲がっていない。
「変異体、ですか?」
 ガラが話の続きを促した。
 メータたちからも聞いたことの無い名称だ。『聖獣(ラ・セル)』たちも興味を示したのが腕から伝わってくる。
「注意深く条件を整えてやれば、『獣(セル)』は自己増殖をする」
 老人はそう言ってヴァンたちに『獣(セル)』の説明を始めた。
 この人間界における『獣(セル)』の生産方法は、そうやって自己増殖させる以外に手はないと言われている。単純に筋力を増強する『獣(セル)』は同じ力を持った『獣(セル)』を生む。
「つまり、新しい、別の力を持つ『獣(セル)』が欲しくとも人間が勝手に作ることはできん。それが常識だったんじゃ」
 一つの『獣(セル)』が二つになる。そうやって新しく生まれた『獣(セル)』は生み出した親とも言うべき『獣(セル)』と同じ力しか持たない。いわゆる突然変異などは起きない、というのが常識だった。
「しかし、噂だがカリスト皇国で『獣(セル)』を改造する方法が発見されたという話を聞いた。それが変異体というわけだ」
 老人が言うには、変異体というものを直接目にしたことはないらしい。ただ、変異体という言葉と共にカリスト皇国で『獣(セル)』に手を加える方法が発見されたという情報が伝わってきた。
「お詳しいのですね?」
「なあに、研究者だったんじゃよ」
 ガラが感心したように口を挟むと、老人ははにかんだように笑った。
 その笑みも、力はなく、弱々しいものだったが。
「ともあれ、ジャガーノートも変異体なのではないかと思うわけじゃ……恐ろしいことだがな」
 人間の力で『獣(セル)』を改造する。
 それではまるで、『霧』の使徒だ。
 ソンギが今身に着けている改造された『聖獣(ラ・セル)』も変異体と呼んでいいのだろうか。その技術がカリスト皇国地方で発明されたものであるのなら、『霧』の使徒とも関わりがあるのかもしれない。
「もしかすると、ゼトーも変異体だったのかもしれないね」
 テルマが呟いた。
 普通の『獣(セル)』とは異質な存在感を放っていたゼトーも、変異体だったのかもしれない。
「セルジュ様は娘たちの命を吸わせて、ジャガーノートを育てている、というのがわしらの共通認識なんじゃよ」
 去り際に老人が小さな声で呟いた。
「人間の命を吸わせて、『獣(セル)』を育てているですって……?」
 オズマが信じられないとでも言いたげだった。
 ヴァンたちにもにわかには信じ難い。
 そもそも、人間と『獣(セル)』は全く違う別の存在だ。『獣(セル)』は普通の生物とは根本的に異なっている。それを、人の命で育てるという発想自体が信じられなかった。
「ここだけの話、セルジュさえ殺せば町は救われる……!」
 最後まで残った一人の男が、ヴァンたちの他に誰もいないことを確認しながら呟いた。
「当然、今までにも妻や娘を連れて行かれた男たちが何とかセルジュに近付こうとしていったが、衛兵のガードが固くて叶わなかった」
 怒りの滲んだ、鋭い目つきで、男が宮殿を睨む。
 自分たちの町の領主を殺そうなどとは、大っぴらには口にできない。衛兵の耳に入れば、反逆罪で捕まってしまう可能性もある。
 だが、きっと、誰もが考えていることだろう。
 領主であるセルジュは衛兵に守られている。その衛兵も何者かによって操られている。順当に考えれば、操っているのはセルジュの可能性が高い。となれば、言いなりになっているだけの衛兵には何を言っても無駄だろう。強硬手段に出れば、容赦なく反撃される。
 いくら妻や娘を奪われても、ただの人間に『獣(セル)』で武装した衛兵を倒すだけの力はない。それこそ、こちらも『獣(セル)』で武装でもしなければ勝ち目はないだろう。もしも前面衝突になれば、双方ただでは済まないのは火を見るより明らかだ。
「『霧』を晴らすぐらいの力があるあんたたちなら……」
 言いかけて、男は口を噤んだ。
「いや、余所者に頼めることじゃないな……忘れてくれ」
 ヴァンたちが何かを言う前に一人でそう結論付けると、男は溜め息をついて去って行った。
 領主を殺せば、『獣(セル)』の花嫁というものに悩まされることはなくなるかもしれない。それでも、領主は領主だ。いなくなれば少なからず町は混乱する。
 余所者であるヴァンたちに領主の暗殺を頼むというのも、筋違いな話だと思ったのかもしれない。
「『獣(セル)』の花嫁に、ジャガーノート、か……」
 ヴァンは苦い表情で頭を掻いた。
 色々と話を聞くことで、状況が見えてきた。
 『霧』が世界を覆う前にラタイユを訪れたドハティによって、領主のセルジュはおかしくなってしまった。それ以来、セルジュは『獣(セル)』の花嫁という名目でジャガーノートを育てるための生贄として町の若い女性たちを連れ去っているということだろう。
 ジャガーノートという『獣(セル)』がどんなものかは分からないが、人の命を捧げて育てているのが本当なら、ただの『獣(セル)』でないことは確かだ。
「仕方がない、宿を探して今後の方針を考えよう」
 ガラも考えがまとまらないようだった。
 街中でこれ以上考え込んでも仕方がない。ひとまずは宿でも探して、落ち着いて状況を整理する必要がある。
「そうだな、そうしよう」
 ヴァンは頷いて、通りを歩き出した。
 セルジュやジャガーノートに対して取るべき行動を考えるにも、腰を落ち着けられる場所が必要だ。
 ラタイユから西の地域を調査するためにも、門を通るためにはセルジュから許可を貰わなければならない。強行突破することは可能だが、この町に起きている異変も気になる。
「おねえちゃん、セルのはなよめになって、かいぶつにいのちをすわれちゃった……」
 通りを歩いていると、遊んでいるらしい子供の声が耳に入ってきた。男の子の寂しそうな声だった。
「わたし、おおきくなりたくない! おおきくなったら、セルのはなよめになるから……」
 一緒にいた女の子が泣きそうな声で話している。
 小さな子供たちまで、暗い表情をしている。
 握り締めた右手に熱が宿る。
「ヴァン……」
 気遣うようなメータの声に、ヴァンは何も答えられなかった。
 このままでいいはずがない。
 どうにかしたいと思う気持ちが抑えられない。どうすればいいのだろう。ヴァンたちにできることは何だろうか。
 すれ違う人たちの沈んだ表情が、諦めや絶望に満ちた目が、胸に突き刺さって抜けない。
 そうして、訪れた宿の中にも重苦しい空気が流れていた。
 宿屋の店主らしい男性は椅子に座り頭を抱えるようにうずくまっている。
「あ……いらっしゃい」
 カウンターの前で番をしている青年も椅子に座って浮かない表情をしていたが、ヴァンたちを見ると立ち上がり、愛想笑いを浮かべて出迎えた。
「三人、泊まれる?」
「はい」
 ヴァンの言葉に、弱々しく返しながら店番の青年が手続きを始める。
 どうにも重苦しい空気に息が詰まりそうだった。
 その原因に気付いたのは部屋の方へ案内される時だった。
「わ、きれー!」
 ノアが声をあげ、その方を見やればシンプルながらも美しいドレスを身に着けた女性が佇んでいた。美しい緑色のロングヘアを白いレースのヴェールで飾った女性だ。
 近くでは彼女の母親らしい女性がドレスの丈等を確認しているようだった。
「おねえちゃん、セルジュさまによばれたんだよ。セルのはなよめになるって……」
 ノアの声を聞いてか、近くにいた小さな男の子が言った。
 どうやらその子はドレスを着た女性の弟らしい。どうなるのかは分からないが、もう二度と会えないということだけを理解している。そんな寂しげな表情だった。
「そういえば、宿屋の娘が次の『獣(セル)』の花嫁として呼ばれたとのことだったな」
 ガラが僅かに目を細めて小さな声で呟いた。
 ラタイユに戻ってきた時、話しかけた老人がそんなことを口走っていた。
「『霧』から目が覚めた時、娘のエリザがすぐ傍にいるのを見て、ほっとしました」
 ガラの声が聞こえていたのか、壁の傍に座り込んでいた店主らしい男性がぽつりぽつりと話し出した。
「良かった、あんなことがあった後だから、娘はもう『獣(セル)』の花嫁になることはないのだと……」
 俯いている店主の表情は見えない。そこまでの言葉には安堵の色が混じっていた。
「ところが、それは私の間違いだったのです。『霧』の中で、何年過ごそうと、セルジュ様の心は変わらなかった……。娘は依然として、『獣(セル)』の花嫁で、明日、迎えの者がやってくると伝えられました」
 店主の声は震えていた。
 よく見れば、肩も震えている。
「こんなことなら、『霧』なんて晴れなければ良かった……」
 店主の足元には真新しい染みのようなものが出来ている。
 その言葉が、ヴァンの胸に刺さった。
 いくら『霧』の中が悪夢にうなされているような状態であったとしても、停滞した状況ならば大切な人を奪われる経験をしなくて済む。その先に未来がなくと も、絶望を味わわずに済む。終わりの見えない暗闇の方が、目の前で愛する家族を奪われるよりもマシだと、ラタイユの人たちは思っているのだ。
「『霧』の中で生き長らえたのに、娘をあの宮殿に送らなければならないなんて……。せめて、わたしが代わりに行ってやりたい……」
 ドレスの裾を手に、母親らしい女性が悔しげに呟く。
「母さん……」
 宿屋の娘エリザは肩を震わせる母親の手に自分の手を重ねた。
 強がりにしか見えない笑みを浮かべて、それでも母親を励まそうと呼びかける。
「仕方ないではないか……セルジュ様に逆らっては一族皆殺しにされてしまう……」
 宿屋の番をしている男性が憎々しげに漏らした。
 娘を大人しく差し出せば、家族の命は助かる。逆らうことで家族共々殺されてしまうよりも、自分の身を犠牲にして家族を生かす。そう考えた者が多かったのだろう。
「エリザ……」
 母親が今にも泣き出しそうに顔を歪ませる。
「ほら、お客様がいるんだから……そんな顔をしないで?」
 ヴァンたちが見ていることに気付いたエリザが母親を宥める。
「あ、ああ……これはお見苦しいところを……」
 エリザの母親はそこでヴァンたちに初めて気付いたようで、頭を下げる。だが、その表情から暗さが抜けることはない。
「『霧』を晴らした皆さんですね。初めまして、エリザと申します……」
 ヴァンたちに改めて向き直ると、エリザはそう言って丁寧にお辞儀した。
 どうやら、ヴァンたちが『霧』を晴らしたということはもう伝わっているようだ。もっとも、これまで『霧』に包まれていたラタイユを訪れている旅人なんてヴァンたち三人ぐらいのものだ。推測すること自体は簡単だろう。
「私はセルジュ様の命で『獣(セル)』の花嫁に選ばれました。明日、兵士が私を連れに来るでしょう」
 エリザは恐怖を押し殺しながらも笑顔を見せる。
「その……何と言ったらいいのか」
 ガラが険しい表情で口ごもる。
「いいんです、心配しないで下さい。『霧』の中で命をなくさなかっただけでも幸せなことですし……」
 ふっと遠い目をして、エリザは少しだけ言葉を切った。
「仲が良かった友達も皆、あの宮殿に行ったのですから」
 寂しげな微笑を浮かべてエリザが告げる。
 それに、と一呼吸置いてから、エリザは続けた。
「私が宮殿に行かなければ、両親も酷い目に遭うことでしょう」
 エリザの言葉に、両親が目を伏せる。
 自分の命一つで家族を救えるならば。そんな思いでいるのだろう。
「皆さんは『霧』を晴らした勇者だと伺っております。そんな皆さんにお願いがあります」
「お願い……?」
 ヴァンが問う。
 少しだけ躊躇いがちに、エリザは口を開いた。
「両親のことが心配なんです。時々で構いません、両親のことを見守って……」
「だめだ!」
 エリザの声を遮るように、ノアが大声で割って入った。
「ヴァン! エリザをいかせちゃだめだ! セルのはなよめはだめだ!」
 エリザの前に立ち、ノアがヴァンに振り返る。
 その瞳には、強い光が宿っていた。純粋な、人を思いやる優しさと、理不尽に対する怒りが見て取れる。
 ヴァンは何も言わず、ノアの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「だが、どうするつもりだ?」
 窘めるように、ガラが問う。
 どうにかしたいという思いは同じはずだが、どうするべきかは分からない。このままエリザを引き止めるだけでは、彼女を含めて家族全員が危うくなる。
 彼女らを守り、戦うか。
 浮かんだ考えを、ヴァンは却下した。それでは解決しない。
 エリザの引き渡しを拒否したところで、兵士が向かってくるだけだ。兵士を薙ぎ払ったところで問題の解決にはならない。それどころか、操られているだけの兵士たちに被害が出る。
「……ノアが」
 ガラの問いに言葉を詰まらせていたノアが、意を決したように口を開いた。
「ノアがエリザのかわりにいく!」
 強い口調で、ノアは言い放った。
 宿屋にいた誰もが、その言葉に目を丸くし、ノアを見る。
 ヴァンはただ、じっとノアの目を見据える。
 握り締めた拳に、メータが応えるように熱を帯びた。
「ノア、お前自分が何を言っているのか分かっているのか!?」
 最初に口を開いたのは、ガラだった。
 一瞬唖然とした後に、ガラはノアに詰め寄るようにして声を荒げる。家族のために自己犠牲を選んだエリザと同じように、ノアは自分を身代わりにすると言った。
「ノアはつよい! ノアならしなない!」
 ノアはそんなガラに気圧されることなく、はっきりと答えた。
 エリザや、彼女の家族たちはただただ驚いて目を丸くするばかりだ。
「ノアが、セルのはなよめになる!」
 花嫁、という言葉の意味を、恐らくノアはまだ理解していない。元より、本来人間たちが口にする花嫁と、『獣(セル)』の花嫁とでは意味が違う部分はあるだろう。
 それでも、ノアはそう口にした。
「ヴァン、いいだろ?」
 懇願するような、縋るような、それでいて、もっと良い案でもなければ止められてもやると言いたげな目でノアがヴァンを見る。
「……本当に、それでいいんだな?」
 じっとノアの目を見て、ヴァンは確認するように問いかけた。
「おい、ヴァン!?」
 ガラが唖然として、ヴァンの肩を掴む。
「ヴァン、ありがとう! ヴァンならわかってくれる! ノアはしってた!」
 ノアはぱっと笑顔になって、ヴァンに飛びついた。
「ノアならしんぱいいらないよ! テルマといっしょにセルジュやっつける!」
 絶句するガラに笑いかけて、ノアはテルマの宿る左手を掲げて見せた。
「……作戦は、考えた」
 大きく息を吐いて、ヴァンは言った。
「放ってなんて、おけないだろ」
 握り締めた拳が、体の芯が熱くなる。
 見過ごすことなど、できない。『霧』が現れる少し前からラタイユがこの状況だったとしても、ラタイユの人たちの時間を進めたのはヴァンたちだ。そこに『霧』の使徒が関わっていようがいまいが、今は関係ない。
 この状況を、暗い顔で絶望して生きる人たちを放っておくなど、ヴァンにはできない。
「……その作戦を聞かせろ、俺だってこの状況が良いとは思わん」
 大きく溜め息をついて、ガラは腕を組んだ。
「み、皆さん、いいんですか!? 私の代わりにノアさんが花嫁になっても!?」
 納得した三人とは対照的に、エリザはようやく我に返ったようだった。
「だいじょうぶ、ノアのことならしんぱいいらない!」
 ノアは自信たっぷりに自分の胸を叩いてみせた。屈託の無い可愛らしいいつもの笑みだ。やることが決まった時のノアは切り替えも早く、肝も据わっている。
 今ではもう、頼もしい仲間だ。
「ああ、神様……!」
 エリザの目から涙が溢れる。
 恐怖感から解放されたせいだろう、力なくその場に膝をつくとへたり込んでしまった。
 エリザの両親たちが何度も確認を求めてきたが、ヴァンはノアをエリザの身代わりにするという案を覆すことはなかった。不安を滲ませながらも、宿屋の一家はヴァンたちに感謝し、夕食を無料で振る舞ってくれた。
 その食事の席で、ヴァンは作戦を説明した。
「まず、花嫁衣裳でなんとかノアをエリザさんのように見せて下さい」
 身代わり作戦なのだから、花嫁になる人物がエリザでないとバレては困る。装飾やアクセサリ等を駆使してどうにかエリザだと思わせる必要がある。
 その辺りのことはヴァンたちにできることではない。エリザたちに何とかやってもらうしかなかった。
「そうして、ノアは宮殿の中を調べて欲しい」
 ヴァンの言葉に、ノアはパンを頬張りながら頷いた。
 花嫁として宮殿の中に入り込んだノアに、宮殿内部の簡単な調査を頼むのだ。
「さっきメータとも相談して確認したんだけど、意識を合わせればノアの見ているもの、聞こえている音を俺たちも見聞きできるようなんだ」
 意識をシンクロさせた『聖獣(ラ・セル)』たちを通じて、ヴァンとガラの視覚や聴覚をノアに同調させることができるとメータは教えてくれた。
 意識を繋げている間、視覚や聴覚をノアに合わせる都合上、ヴァンとガラ自身の体は無防備になる。ノアだけが単身乗り込む状況だからこそできる作戦でもある。
「本当か、オズマ?」
 ガラが右手のオズマに呼びかける。
「ええ、できるはずよ」
 オズマが肯定するのを聞いて、ヴァンは話を続ける。
「ノアはセルジュの居場所と、それからジャガーノートって呼ばれてる『獣(セル)』も調べて欲しい」
 恐らく、『獣(セル)』の花嫁として連れて行かれた人達なら、少なくともそのジャガーノートとやらに近付くはずだ。直接見ることができればそれも良し、出来なければ隙を突いて宮殿の中を動き回る必要がある。
 内部の状況が分からない今はこれ以上のことは言えないが、宮殿内部に潜り込めれば少なからず情報を得られるだろう。
「一人で何とかできそうなら、そのままノアとテルマで倒してしまうのも良いと思う」
 ただ、と前置きしてから、ヴァンはノアを見た。
「危ないと思ったら、俺とガラも行くからな」
 もしもノアが危ない状況になるようなら、感覚のリンクを切ってヴァンとガラも宮殿に強行突入する。
「うん!」
 ノアは笑みを浮かべて頷いた。
 何も心配していない、自信に満ちた表情だった。
 食事の後、ノアは衣装の調整のためエリザとその母親と一緒に彼女らの寝室に向かった。風呂も彼女らと共に入らせてもらい、そのまま一緒に寝ることになったようだ。
 ヴァンはガラと客室に泊まり、軽く荷物の整理と確認をしてからベッドに入った。
「本当にいいんだな?」
 念押しするように、隣のベッドで横になっていたガラが言った。
 不安が全く無いとは言えない。
「……ああ」
 ヴァンはただ、それだけ答えた。
 どの道、どうにかしてセルジュには会わねばならないと思っていた。兵士たちが通してくれない以上、どうにかして宮殿に潜り込む必要はあった。
 ラタイユの現状を考えれば、セルジュを問い質すために最悪、強行突破も考えていた。宮殿の中に入るところまでなら、『獣(セル)』の花嫁として連れて行 かれる方が穏便な手段ではある。普通の人ならばその後どうなるかは分からないが、ノアにはテルマがいる。油断さえしなければその辺の『獣(セル)』に負け ることはまずないだろう。
 何があるのかは分からないが、宮殿に潜り込んだノア一人でどうにかできるようなら、それ一番が穏便に事を進められるかもしれないのは事実だ。
 ここまで考えていたかは分からないが、直感だとしてもノアの判断は筋が通っている。
 後は、上手く行くことを願うばかりだ。
 翌日、軽く朝食を頂いてから、ノアは着替えるためにエリザの部屋に入って行った。
 それから暫くして、宿屋のノアをノックする音の後に二人の兵士たちが入ってきた。
「『獣(セル)』の花嫁を迎えに来た!」
 兵士たちが告げる。
「……やはり、操られているわ」
 兵士たちの様子を探ったようで、オズマがガラとヴァンにそう囁いた。
「準備は整っているようだな」
 宿屋の奥を見て、兵士が言った。
 ヴァンとガラが振り向くと、そこには花嫁衣装に身を包んだノアが立っていた。昨日、エリザが着ていたドレスとは少しだけ違っている。
 白いシルクのドレスは袖に装飾が施されていてテルマの宿る手が隠れるデザインになっている。ノアの真紅の髪を隠すように、厚い白のヴェールで頭を覆い、 透き通った薄い前垂れから化粧を施された顔が覗いていた。鮮やかな口紅に、薄い頬紅が不自然ではなく彩りを与えている。ロングスカートで足元は見えない が、やや厚底のヒールかブーツを履いているのだろう、普段よりもノアの身長が高く見える。全体的にシンプルながら、落ち着いた雰囲気でどこか気品も感じさ せる。
 綺麗だった。
 思わず、ヴァンが見惚れてしまう程に、その姿は美しかった。
 ノアの隣には、不安げな表情でエリザの母親が付き添っていた。
「セルジュ様の命令により、エリザ、お前を連行する」
 兵士たちが言い、前に進み出る。
 ノアは何も言わずにゆっくりと兵士たちの前に歩み出た。
 兵士の一人がノアの前に立ち、背を向けて歩き出す。もう一人はノアの背後に立ち、ノアを促して歩き出した。二人の兵士に挟まれて、ノアが宿屋を出て行く。
 ヴァンとすれ違う時に見えたヴェールの下の瞳には、強い光が確かに宿っていた。
 ドアを閉めることもなく、兵士たちはノアを連れて去って行った。
 それを見届けると、エリザの母親はその場に崩れるように座り込んでしまった。兵士がいなくなったことで裏手に隠れていたエリザも顔を見せる。
「なんということを……私は、ノアさんを自分の身代わりに……」
 今になって怖くなってきたのか、エリザは自分の両肩を抱いて震えながら言った。
「大丈夫、何とかするさ……何とかしてみせる」
 自分にも言い聞かせるように、ヴァンは口にした。
 それから、ガラと共に目を閉じて意識を集中させる。右腕のメータに左手を添えるようにして、メータに意思を伝える。
 確かな熱と共に、少しずつ閉じた視界に光が差していく。
 やがて、真っ暗だった視界に兵士の背中が映り始めた。ノアが見ている光景が、レンズ越しに少しだけ歪んで見えているような感覚だ。それでも、ノアの目に映るものが確かに見えていた。
 衛兵二人に連れられて、ノアが宮殿の門を潜る。
 宮殿の中央を真っ直ぐに進み、『霧』があった時には固く閉ざされていた大きな扉を兵士が開き、その奥に進んで行く。その部屋は真っ暗で、ただ赤い絨毯が 道のように伸びているだけだった。天井からは透き通ったレースのような垂れ幕が規則的に吊り下げられていて、どこか神秘的だが不気味さのある通路をゆっく りと歩いて行く。
 突き当たりにあった階段を降りた先には、また別の光景が広がっていた。
 地下をくり抜いたような広い空間が広がっている。石造りの頑丈そうな通路には赤い絨毯が敷かれていて、その部屋の中央へと向かって何度か曲がりくねって回り込むように伸びている。
 何よりも目を引くのは、赤黒い肉の塊のようなグロテスクな触手郡だった。人が通る通路以外にはまばらに肉の触手が伸びていて、脈動するように不規則に蠢いている。おぞましい光景だった。
 ふと、何かに気付いたノアが視線を横に向けた。
「誰か、傍に……?」
 同時に弱々しく小さな声が聞こえた。
 ノアの見た先には、透明な球体があり、その中には花嫁衣装を身に着けた女性の姿があった。何かの液体で満たされているような球体の中に、女性が力なく浮かんでいる。
「よく、聞こえない……目も見えな……」
 虚ろな目にはノアが映っているのだろうか。口元から泡が出て、微かなか細い声が聞こえてくる。
「く、くる……し……」
 一瞬、メータ越しに見ている視界が歪んだ。
 体の芯に熱が溢れる。
「……何だ、これは!」
 ガラが憤る声が聞こえた。
「意識を乱さないで、ガラ……!」
 オズマの声で、ヴァンも感情を堪えて心を鎮めた。
 ノアが振り返り、身構えようとするも衛兵が弓のような『獣(セル)』を構える。テルマがノアを宥めるような感覚が伝わってきて、ノアは渋々構えを解いて兵士の誘導で歩き出す。その背中を、後ろにいた兵士が急かすように押した。
 その行動に、少しだけヴァンは苛立った。
 地下の光景に動揺してしまったためか、ノアや兵士の声は聞こえてこなかった。
 その空間には、先ほど見たような透明な球体がいくつも浮かんでおり、そのほとんどには花嫁衣装の女性たちがいるようだった。それが、『獣(セル)』の花嫁となった女性たちの末路ということなのだろうか。
 そうして、空間の中央へと通路は進んで行った。
「――っ!」
 その先に存在したものが見えた瞬間、ヴァンの心臓が跳ねた。
 意識のリンクが途切れ、思わず開いた目に今いる宿屋の風景が飛び込んでくる。
「ヴァン……!?」
 メータが驚き、心配そうに名を呼んだ。
「あれは……あいつはっ!」
 ヴァンは、それを見たことがあった。
 奥歯を噛み締め、握り締めた拳に力が入る。背筋が粟立つような感覚と共に、強烈な感情が溢れるのを抑えられない。
 あの日、リム・エルムの壁を壊した悪魔の顔を、ヴァンが見間違えるはずがなかった。
「そう、あれが、そうだったのですね……」
 ヴァンの思いを読み取って、メータは理解してくれたようだった。
 どうにか意識を落ち着けて、ノアの視界と同調させる。
 黒い顔に禍々しい光を帯びた瞳と、大きく裂けた鋭い牙の並んだ口の、悪魔のような『獣(セル)』が、巨大な顔を首から上だけ覗かせていた。体は肉の塊で 包まれているようだ。肉塊の風呂に漬け込まれているとも言えるかもしれない。巨大な器のようなものがあり、その中から顔だけを見せている、そんな印象だ。
 その首元に、通路の終端があった。
 通路の終わりは少しだけ広くなっていて、何やら良く分からない機材がいくつか設置されている。黒い丸眼鏡に白衣を着た痩せた老研究者二人が忙しなく機材をいじっている。
「さあ、着いたぞ。ここでセルジュ様の到着を待つがいい」
 そう告げると、衛兵二人は通路を引き返して行った。
 ノアは悪魔のような『獣(セル)』を見上げて、息を呑んだ。
「きひひ……これは元気そうな娘じゃ。命が満ち満ちておる。これでジャガーノートの成長もいっそう早くなるというもの……」
 不気味な笑い声でほくそ笑みながら、作業をしていた老研究者の一人がしわがれた声で呟いた。
「ふぇふぇふぇふぇ……セルジュ様がおいでになれば、お前さんもあの娘たちの仲間入りじゃ」
 もう一人の老研究者が呟く。
「きひひ……若い娘の命は良い栄養となる……」
 ノアを見ようともせずに、老研究者たちは作業に没頭している。
 頭上には、巨大な肉の塊が見える。
 ノアは意を決したように、来た道を引き返し始めた。
 地下にあるジャガーノートと呼ばれている『獣(セル)』は確認した。次はセルジュを探す。その意思がテルマからメータを通じてヴァンたちにも伝わってきた。
 どうにか周りの球体に囚われている町の女性たちを救い出す方法を聞き出さなければならない。そんな思いが伝わってくる。
 と、その時だった。
「『獣(セル)』の花嫁が待っているので、僕が来た」
 先ほどノアを連行した者たちとはまた違う衛兵二人を連れて、セルジュが通路をぎこちない動きで歩いてきていた。
「セルジュ!」
 ノアが声を上げる。
「下らない人生よりもジャガーノートの血と肉になるのは、大きな目で見ると、幸せなこと。だから、『獣(セル)』の花嫁は大きな幸せなので、大人しくする。命令!」
 焦点の定まらない瞳と、片言のようなぎこちない口調で捲くし立て、セルジュがノアを指差す。
 何を言っているのか、ノアには良く分からない。ただ、それがここに連れてこられた女性たちの命を踏みにじるようなものだということだけは、直感的に理解していた。
「ノアはおまえをゆるさない!」
 だから、頭に血が上って、ノアは咆えるように構えていた。
 そしてノアが飛び掛ろうとした時には既に、衛兵が手にしていた『獣(セル)』で攻撃していた。小さな弓のような『獣(セル)』から放たれた光がノアを直撃する。
 瞬間、ノアの体から力が抜けた。
「あ……れ……?」
 膝を着き、倒れそうな体を支えようとして、手が動かない。そのまま、赤い絨毯の敷かれた通路に倒れ込む。
「花嫁は死んでないので、元気がいい肉体は生きているので、直ぐに、機械に付ける」
 霞み始めた視界に、セルジュの声が僅かに聞こえてきていた。
 弾かれたように、ヴァンは走り出していた。
 開け放たれたままのドアから宿屋を飛び出し、真っ直ぐに宮殿へと走る。その直ぐ後を、ガラが追って来ているのを気配だけで感じながら、ヴァンは通りの人達が驚き避けていく中宮殿へと急ぐ。
「ヴァン、テルマが警告を発しています!」
 メータに言われるまでもなく、分かっていた。
 宿屋までやってきてノアを連行した衛兵ではなく、別の衛兵を連れてきたのは花嫁の動きを完全に封じる『獣(セル)』を持たせているからなのだろう。
「急がなきゃ、ノアが危ない!」
 オズマの声からも焦りが感じられる。
 いくら『聖獣(ラ・セル)』といえど、無敵ではない。回復が早くとも、動けるようになるまでは無防備になってしまう。
 門の前にいる衛兵が向かってくるヴァンたちを見て『獣(セル)』の槍を構える。
「どうする、ヴァン!?」
 ガラの問いに答える代わりに、ヴァンは強く地を蹴った。
 一瞬で足に溢れた熱が僅かに火の粉を散らし、ヴァンは大きく跳躍した。城壁の上へ一息で飛び乗り、更にそこからもう一度跳んで宮殿の上へと向かう。
 もう、形振り構ってはいられない。
 ヴァンもメータも、ノアとテルマのことだけしか考えられなかった。
「なんて無茶を……!」
 ガラも同じように、城壁の上から宮殿へと跳んで追い掛けてくる。
 ヴァンは宮殿の天窓目掛けて跳び、ガラスを突き破って宮殿の中へと突入した。
 中にいた侍女や兵士たちが突然のことに慌てふためく中、ヴァンはノアが連行された道を真っ直ぐに突き進む。
 だが、地下へ向かう大きな門の左右にいた番犬のような石像が動き出し、道を塞ぐように立ちはだかる。犬や猫のような野生動物に近い顔を持った、やや大柄な『獣(セル)』だ。
「地獣ケマロ!? どうして今になって……!?」
 オズマが困惑と驚愕の入り混じった声を上げる。
「ヴァン……!」
 構えようとするガラとは対照的に、ヴァンは速度を落とすことなく走り続ける。
 体中を熱が駆け巡っている。
「邪魔だ……!」
 ただ、一言だけヴァンは怒りと共に吐き捨てた。
 握り締めた右拳が光を帯びて、炎を纏う。そうして、向かってくるヴァンを待ち受け、飛びかかろうとするケマロの頭に、その右腕を叩き付ける。
 ただ、それだけだった。
 地獣ケマロの頭部は爆砕し、消し飛んだ。そのまま小さな光の粒となって分解されていく『獣(セル)』をメータの瞳が吸い込んで取り込む。
 ガラは唖然とした表情でヴァンを見つめ、もう一体のケマロでさえ何が起きたのか理解できぬように動きを止めていた。一瞬早く我に返ったガラがオズマに包まれた拳でケマロを思い切り殴り付けて倒すと、ヴァンの後を追って走り出す。
 地下の空間は、実際に目にすると一際おぞましいものだった。
 周りの透明な球体に囚われている女性たちに目を走らせながらも、ヴァンは速度を落とさなかった。彼女らの姿を目にすることで、ヴァンの中の熱が膨らんで行く。
 そして、通路を駆け抜けて、ノアが見えた。
 ジャガーノートの前に立たされているノアの目は虚ろで、周りの球体に囚われている女性たちと同じになっている。
「もう少しなので、もう少しだから、『獣(セル)』の花嫁が命を与える」
「きひひひひ……もうすぐ命が満ちる……!」
 研ぎ澄まされた聴覚に、セルジュと研究者の声が飛び込んでくる。
 天井から伸びる肉の塊がノアを飲み込もうとしていた。
「ノアァァァアアアアッ!」
 腹の底から名を呼びながら、ヴァンは床を蹴った。足元が爆ぜ、ヴァンの体を大きく跳ねさせる。
 ノアへと迫る肉の塊へと、ヴァンは燃え盛るメータを叩き付けた。爆音を響かせて、肉の塊が弾け飛ぶ。老研究者二人が腰を抜かして尻餅をつく中、ヴァンはノアの目の前に着地した。
「ノア!」
 虚ろな目をしたノアの両肩を掴み、揺さぶるも反応はない。
「テルマ!」
「すまないね……油断、していたようだよ」
 メータが呼びかけると、テルマが辛うじて答えた。ノアと繋がっているテルマにも、影響が出ているようで、苦しそうな声だった。
「逃がすと思うなよ!」
 低い、怒りを滲ませた声が背後から響き、逃げ出そうとしていた研究者二人をガラが当身で気絶させていた。
 何が起きているのか分からないのか、周りを見回しているだけのセルジュを置いて、ガラもヴァンとノアの下へ駆け寄ってくる。
「オズマ!」
「ええ、メータ……!」
 メータの呼びかけにオズマが応じ、二つの『聖獣(ラ・セル)』が光を放つ。
 共鳴するように、溢れ出した光がテルマを優しく包み、ノアへと温かな熱が伝わっていく。
「あ……ヴァ、ン?」
 虚ろだったノアの目に光が戻り、弱々しくもヴァンの名を呼んだ。
「ガラ……」
 ヴァンと、ガラの顔を見たノアの表情に笑みが浮かんだ。
「よかった……ノアはしんじてた、ヴァンとガラをしんじてたよ」
 まだ力が入らないようで、ノアはヴァンに抱き付くようにして安堵の滲んだ声で呟いた。
「ノア……」
 ヴァンは思わずノアを抱き締めていた。
 ガラも安堵の息を漏らしていた。
「信じるはない!」
 そんなヴァンたちの背後で、叫ぶような声が上がった。
「命令はないので、信じるはない!」
 振り返れば、セルジュがただ一人で喚いている。
「命令してないことをするので、僕は命令のない嬉しくない奴は死ぬ! 死ぬ、命令! 僕は殺す!」
 言うや否や、セルジュの足元から伸びた影が、立ち上がるようにしてセルジュ自身の体に覆い被さった。禍々しい漆黒の影がセルジュを包み込み、一回り大きな『獣(セル)』の化け物へと姿を変える。
 鋭利な爪を備えた身長ほどの大きな長い腕を持つキノコの化け物のような姿だった。影が本体だとでもいうかのような、黒い色合いが不気味さを際立たせている。
「ガラ、ノアを頼む」
 ヴァンはそう言って、ノアをその場に優しく座らせると、『獣(セル)』の怪物となったセルジュに向き直った。
「……分かった」
 ガラはオズマに光獣ヴェーラの癒しの光を宿し、ノアとテルマへ向けた。
 ヴァンが拳を握り締めると、炎が舞った。
「ヴァン」
「分かってる、悪いのはセルジュに取り付いている『獣(セル)』なんだろ?」
 メータの声に、ヴァンは答えながら左手で短剣を抜き放った。
 セルジュもただ操られているに過ぎない。それは『獣(セル)』の怪物となった姿を見れば分かる。初めに会った時からただの『獣(セル)』ではなさそうだ と思っていたが、『霧』の使途にいいように使われる『獣(セル)』だったということだろう。町の人たちから聞いた話では、以前は良い領主だったというのだ から、恐らくこれはセルジュ本人の意思でやっていることではないはずだ。
「僕は殺す!」
 狂った口調で、セルジュが爪を振り上げてヴァンに襲い掛かる。
 憎むべきはセルジュではない。
 だから、倒すべきはあの歪な『獣(セル)』だけだ。
 メータが、頷くような感覚があった。
 それだけで、後はヴァンとメータの間に言葉は要らなかった。
 振るわれた両腕の爪を、短剣と『聖獣(ラ・セル)』の刃で受け、捌く。懐に飛び込んで肩からぶつかり、セルジュを大きく吹き飛ばす。
 セルジュを包む『獣(セル)』の怪物は体を震わせて胞子のようなものを放った。
「はぁっ!」
 裂帛の気合いと共に、振るった右腕が炎を躍らせて胞子を焼き尽くす。
 その向こうから飛び掛ってきたセルジュへと、ヴァンは短剣を突き出す。狙う場所はメータが教えてくれる。人ではない、『獣(セル)』だけの部分を、ヴァンの短剣が貫く。
 力を増した今のメータなら、普通とは違う歪な『獣(セル)』だけを滅することができる。言葉を交わさずとも、直感的な確信があり、信頼感があり、事実、その通りだった。
 長い腕のうちの一方が肩口から爆ぜて吹き飛んだ。仰け反るセルジュのもう一方の肩にメータの刃が突き刺さり、爆ぜる。
「あば、あばばば!」
 もはや言葉にならない呻きとも叫びともつかない奇声を上げて、『獣(セル)』の怪物が体を震わせる。全身に毒の胞子のようなものが浮かび上がり、無差別に解き放とうとしているのが見て取れた。
 その時には既に、ヴァンは動いていた。
 距離を取ろうとするセルジュへと飛び掛かりながら、炎に包まれた右腕を大きく高く掲げる。メータの瞳が強く輝き、白熱した炎が踊る。左上段から、右下段へと、着地と同時に勢いと体重を乗せて袈裟懸けにメータを叩き付けて振り抜く。
 白熱した炎が黒い影の『獣(セル)』の体を駆け巡り、邪悪な意思を持った影だけを焼き尽くしていく。その炎から逃れるように、キノコの傘のようなものが分離した。
「あれがセルジュを操っていた変異体ね……」
 オズマが傘のような『獣(セル)』を見て、言った。
 分離した『獣(セル)』は、しかし炎からは逃れられずに焼き尽くされ、分解されるように散って行った。
 そうして、後に残されたのは『獣(セル)』から解き放たれ、気を失って倒れているセルジュだけだった。
 ヴェーラの力で回復したノアはセルジュを見て屈み込み、頬を指でつついた。
「う……」
 それがきっかけだったのかは分からないが、小さく呻き声を上げてセルジュが目を開いた。
「あ、頭が痛い……」
 頭を押さえ、顔を顰めながら、ゆっくりと身を起こす。
「こ、ここは……? この部屋は……」
 辺りの様子を見回して、悪魔のようなジャガーノートの顔を見た途端、セルジュの顔色が変わった。青褪め、慌てて飛び起きると周りにある装置に駆け寄り、確認するように調べ始めた。
「いかん、装置が動いている……! だが、どうすれば……!?」
 セルジュが頭を抱えて膝をついた。
「これは地上にあってはならないもの……禁断の、『獣(セル)』……!」
 苦悶するようなセルジュをよそに、ヴァンはジャガーノートを見つめ、拳を握り締めた。
「……いいよな、メータ?」
「ええ、万全ではないようです。今なら……」
 ヴァンの意図を察したメータが答える。
 思いはどうやら同じなようだ。
 ジャガーノートを見た時から、胸の奥で思いが燃えている。まるで、強く叫ぶように、衝動が熱として溢れてきて止まらない。
「ノア、分かるね?」
「ガラも、言うまでもないですね」
 テルマとオズマの声と同時に、ヴァンの左右にノアとガラが並んだ。
 二人とも、口にせずとも分かっているという表情だった。
「あ、あなたたちは……」
 取り乱していたセルジュは、ようやくそこでヴァンたちの存在に気付いたようだった。
 その手に光を放つ『獣(セル)』があることにも。
「いくぞ! せぇーのぉっ!」
 ヴァンの合図に合わせて、三人で同時に思い切り『聖獣(ラ・セル)』の力を解き放つ。
 雷が駆け巡り、風が吹き荒れ、炎が踊る。
 肉塊を雷が引き裂き、炎がジャガーノートの肉体を焼き、風が切り刻む。三つの力は絡み合い、時に激しくぶつかり合い、高め合う。暴れるように跳ね回る光がジャガーノートの巨体を削って行く。
 部屋の中に無数に点在する女性たちの囚われた球体との繋がりを絶ちながら、『聖獣(ラ・セル)』の力は三人の心が望むままに駆け巡る。
「グォォォォォオオオオオ――!」
 地響きのような、おぞましく禍々しい絶叫を上げながら、ジャガーノートが崩れ始めていた。
「こんな『獣(セル)』は存在してはいけない……!」
 荒れ狂う三つの力が悪魔のような『獣(セル)』を滅ぼしていく中で、メータの声が聞こえた。
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