第十九章 「大海城」 「みなさんには、すっかりご迷惑をおかけしました。重ねてお礼を言わせてもらいます」 宮殿の領主の間にて、セルジュはヴァンたち三人に深々と頭を下げた。 ジャガーノートを完全に消し去った後、ヴァンたちは装置に囚われていた『獣(セル)』の花嫁たちの救助も行った。かなり衰弱している者もいたため、正気に戻った衛兵たちとも強力して手当を行い、半日以上の時間が過ぎていた。 だが、その甲斐あってヴァンたちが突入した時点で装置に繋がれていた女性たち全員を救い出すことができた。 「そう……、この町で起こった全ての悲劇は私の責任なのです」 セルジュは拳を震わせながら事の経緯を語ってくれた。 「あの日、この宮殿を訪れたドハティという男が、世にも稀な『獣(セル)』を持ってきたのです」 「それじゃあ、やっぱり……」 ヴァンの言葉に、セルジュは頷いた。 「その『獣(セル)』こそ、奴らが改造した『獣(セル)』、邪悪な変異体だったのです。私は愚かにもその『獣(セル)』を身に着けてしまった」 『霧』が現れる前は、『獣(セル)』というものは人間にとって身近な存在だった。珍しい『獣(セル)』があると言われれば、興味を持って当然、そんな時代だった。 「私は変異体に支配され、地下にあのような設備を作り、ドハティのため、町の女性たちを犠牲にジャガーノートを作ってしまった」 悔やむように、セルジュは顔を伏せて肩を震わせる。 「装置の記録によれば、『霧』の到来前に既に一匹のジャガーノートを作っていたようです」 セルジュの言葉に、ヴァンは僅かに目を細めた。 リム・エルムに現れたあの悪魔のような巨大な『獣(セル)』は間違いなく、この宮殿の地下で見たジャガーノートと同じ顔をしていた。 あの光景は今でも脳裏にこびりついていて、今でも鮮明に思い出せる。 装置を調べた記録が正しければ、地下で育てられていたジャガーノートは二匹目ということになる。 「無限にあの怪物を作れ。変異体への命令は、ただそれだけの単純なものでした」 セルジュは変異体によって操られていたが、体や意識の自由は奪われていてもその間の記憶はおぼろげながらも残っているとのことだった。 自分がどんなことをしてきたのか、憶えているのだ。『獣(セル)』に操られ、思考の自由を奪われて抗うことも、まともに考えることもできないまま、ただ流されるように変異体がセルジュとして振舞う様も見続けていたようだ。 だからこそ、解放された今、セルジュは後悔に苛まれている。 「そのため、皮肉にもあなた方が創世樹を覚醒させる手助けをしてしまったのでしょう」 変異体そのものにはあまり知性がなく、単純な指示にしか従えなかったらしい。 『霧』によってラタイユの時が止まってしまったことで、変異体は与えられた命令をこなすことができなくなっていたのだ。複数の『獣(セル)』を用いてい た地下の装置も、『霧』の到来によって停止していたようで、その間繋がれていた女性たちは町で『獣(セル)』に取り付かれた人たちと同じように時が止まっ ていた事も分かった。 『霧』の到来により、長らく命令を遂行できずにいた変体の前にヴァンたちが現れたことで、事態は動いた。 創世樹を覚醒させることで『霧』が無くなること自体は知っていたようで、ジャガーノートを育てるという命令のために『霧』を晴らすことを目的としていたヴァンたちを利用しようとしたのだ。 「皆さんがいなければ、私は更に愚かな事をしていたかもしれません」 セルジュが再び頭を下げる。 そうして結果的に、変異体はヴァンたちに倒されることになった。 ヴァンたちは顔を見合わせた。 「皆さんのためなら、どんなことでも協力を惜しみません」 顔を上げたセルジュの表情は、どこか憑き物が落ちたようだった。操られていたとはいえ、自分のしてしまったことに後悔はしている。だが、町の人たちにどう思われようとも償うために全力を尽くすことを決意している顔だった。 以前は良い領主だった、という町の人たちの評価にも納得できる。 「では、ドハティがどこにいるか知りませんか?」 ヴァンは言った。 恐らく、ドハティのいるところに『霧』の巣がある。『霧』の使徒であるドハティを追うことで、『霧』の巣の手がかりも見つかるはずだ。 「確か、ラタイユから南西の方角に城を構えると言っていたはずです」 セルジュが顎に手を当てて答えた。 地図上では、ラタイユの西側は湾曲した半島状になっている。ぐるりと南へ回り込むように進んだ先、半島の中心辺りに城を建てるとドハティはセルジュに喋っていたようだ。 「向かわれるのですね?」 「はい、俺たちの目的は『霧』をこの世界からなくすことですから」 セルジュの問いに、ヴァンは力強く頷いた。 「あなた方にはラタイユへの自由な出入りができるよう、明日の朝までに通行証を発行するように通達しておきます」 セルジュも一つ頷いて、傍に控えていた衛兵の一人に目配せした。それに気付いた衛兵は一礼し、その伝令を担当の者に伝えるべく駆けて行く。 「本音を言えば、今夜はこの宮殿でもてなしたいところなのですが……」 「お気持ちはありがたいのですが、宿は既に取ってありますし……その、片付けも大変でしょうから」 セルジュの申し出に、ヴァンは苦笑して頭を掻きながら答えた。 宮殿への突入の際、ヴァンは広間の天窓を突き破って強引に侵入した。天井の高いこの宮殿では、修理するのも手間だろう。床に散らばったガラス片の掃除や、ヴァンが地獣ケマロと戦った際の衝撃で乱れた内装の片付け等もしている真っ最中だ。 それだけでなく、地下設備の解体といった後始末にも取り掛からせている。 宮殿にいる侍女だけでなく、衛兵も多くが借り出されている状況だ。 「派手に立ち回っていたからな」 ガラも苦笑する。 「そういえば、捕らえた研究者たちの様子はどうですか?」 話が一段落した頃を見計らって、ガラがセルジュに問う。 地下の設備を主に動かしていたのは、変異体に取り付かれたセルジュではなく、二人の老研究者だった。逃げ出そうとしたところをガラが当身で気絶させ、セルジュが衛兵に命じて取り押さえ、身柄を預かっている。 「ある意味、『獣(セル)』に取り付かれているよ」 セルジュは苦い表情で首を横に振った。 簡単な取り調べを行った衛兵の報告によれば、老研究者二人は、まともな精神を持ち合わせていない、とのことだった。『獣(セル)』に対して異常な感性を 持ち、変異体、特にジャガーノートに対する執着心が強いらしい。『霧』の使徒に操られていたり、いいように使われているわけではなく、自ら協力しているよ うな口振りだという。 「マッドサイエンティスト、とでも言う類の人種みたいだ」 もはや異常者というほかないようだ。 変異体や、ジャガーノートという存在に魅力を感じ、それに取り付かれているとしか言い様がないというのがセルジュの結論だった。 「カリスト皇国地方は戦争状態だったと聞いているし、あのような者たちが現れても仕方が無かったのかもしれないね」 セルジュは溜め息をついた。 研究者たちの出身はカリスト皇国地方の北部らしい。カリスト皇国地方では戦争が起きていて、変異体というのもその中で生まれたものらしい。 「戦争、ですか……」 ガラが呟いた。 ヴァンたちにとっては、馴染みのない言葉だ。『霧』によって人類そのものが滅亡に瀕していたことが当たり前として育った世代だ。言葉や意味としては知っていても、その重みは良く分からないというのが正直なところだった。 「ともあれ、ドハティを追うのであればくれぐれもお気をつけて。またラタイユを訪れることがあれば、その時こそもてなさせて下さい」 領主の椅子から立ち上がり、セルジュはもう一度丁寧に頭を下げた。 「あなた方なら大丈夫だと、信じています」 「はい!」 明るい笑みを浮かべるセルジュに、ヴァンも力強く答え、笑顔を返した。 領主の間を出ようとした三人の前に衛兵が一人駆け寄ってきて、先導をかって出てくれた。 「どうやら私たちはセルジュ様に取り付いた変異体に操られていたようです。ご無礼を働いていましたらお許し下さい」 「いえ、そんな……」 申し訳無さそうな衛兵に、ガラが苦笑する。 「『霧』が晴れ、『獣(セル)』の花嫁たちも町に戻りました。皆さんの事を心から尊敬します」 片付けや掃除に追われていた宮殿の人々が、ヴァンたちを見るなり丁寧なお辞儀をしていく。それに目を丸くするヴァンたちを見て、衛兵が言った。とても柔らかい口調だった。 宮殿の入り口で衛兵と別れ、ラタイユの町中へと続く門をくぐると、そこには人だかりが出来ていた。 「あなたたちね!」 門から出てきた三人を見るなり、見覚えのある若い女性が声をあげて詰め寄ってきた。 「ラタイユから『霧』を消し、『獣(セル)』の花嫁を解放してくれたのはあなたたちね!?」 「え? あ、ああ……」 その勢いに気圧されながらも、ヴァンは頷いた。 「ありがとう! 町の皆が心から感謝してるわ!」 若い女性がそう言って目に涙を浮かべてお礼を口にするのと同時に、集まってきていた人たちが歓声を上げる。 「皆さん、ありがとうございました!」 人だかりの中から、エリザが飛び出してきた。後に続くように、宿屋にいた人たちが前に進み出てくる。 「ああ、ノアさんもよくぞご無事で……!」 「エリザ!」 涙ぐむエリザに、ノアはぱっと笑顔になって駆け寄っていく。 「おねえちゃんも、ノアさんもぶじにいきてるんだ! ぼく、とってもうれしいよ!」 エリザの弟が顔いっぱいに笑顔を浮かべている。 「娘の身代わりにノアさんが宮殿に行ったことで、心が咎めていたのです。でも、皆さん無事に戻られた! 今回のことは、どれだけ感謝してもし尽くせない程です」 宿屋の店主でもあるエリザの父親が、深々と頭を下げる。 どうやら、宿屋を飛び出して駆けて行くヴァンたちを見た町の人たちの何人かが宿屋に事情を聞きに来たらしい。経緯を知った住人たちから話が伝わって行く 中で、衛兵たちが正気に戻ったようだ。正気を取り戻したセルジュが遣わした衛兵により事情が広まり、人だかりができていたらしかった。 「ありがとうございます。皆さんのお陰で、本当に助かりました」 エリザの母が安堵した声で告げ、集まっている人たちも口々に感謝の言葉を述べる。 「ようやく、笑顔が戻ったな」 ガラがぼそりと呟いた。 以前までこの町を包んでいた悲壮感はもう微塵もない。胸の奥に温かなものが染み渡るような感覚に、ヴァンも表情が緩むのを感じていた。感謝されたくてやっているわけではないが、それでも悪い気はしない。笑顔や喜びに満ちた人たちが作る空気が、心地良い。 ひとしきり感謝された後、町の人々はそれぞれの生活に戻って行く。 ヴァンたちも荷物を置いてきている宿屋へと向かうことにした。 「残り少ない人生だが、これからはわしも前向きに生きることにしよう」 「妻が帰ってきたんだ! こんな日が来るなんて……!」 耳に入ってくる会話も、明るいものばかりになった。 「わたし、はやくおおきくなりたい!」 「おおきくなって、ヴァンのおよめさんになりたい!」 そんな子供たちの言葉が聞こえてきた。 「だ、そうだぞ」 ガラが笑いながらヴァンの肩を叩いた。 「からかうなよ」 ヴァンが苦笑する。 「ヴァン、あのこのいのち、すうのか?」 と、突然ノアがそんなことを言い出した。 返答によっては仲間であってもヴァンを止めなければ、とでも考えているような表情をしている。 「吸わないよ」 ヴァンが苦笑して答える隣で、ガラが声を出して笑っていた。 道すがら、ヴァンとガラで本来の花嫁という言葉の意味をノアに説明することになった。 途中で、ヴァンは消耗品や雑貨の買い足しのために道具屋に立ち寄った。 「うちには娘がいないんです。ですから……大きな声では言えませんが、娘たちが家に帰ってくる感動が味わえないんです」 値段を計算しながら、店主らしい女性が苦笑しながらそんなことを言い出した。 「皆さんに救われる前は、不幸にならないことがどんなに幸せなことかと思っていたんですよ。こんなことなら、娘を産んでおくんでした……」 どうにも反応に困る独り言をされてしまい、ヴァンはガラと顔を見合わせて肩を竦めるしかなかった。 代金を支払って店を出ようとドアを開けると、歌声が聞こえてきた。 「うたがきこえる!」 ノアが目を丸くして周りを見回す。 「ああ、お隣の三姉妹の歌声だね」 丁度、ヴァンたちと入れ違いになるように道具屋へやってきた青年が教えてくれた。 「フィン、フォウ、フェムっていう三つ子の三姉妹でね、歌手になりたいらしくて以前は良く歌声を響かせていたものさ」 この町が変異体によって支配される前はこの辺りの名物三姉妹として有名だったらしい。『獣(セル)』の花嫁として連れて行かれてしまってからは、歌声が聞こえなくなり、寂しいものだったという。 「いいうただね!」 ノアが歌に合わせて体を揺らしながら言った。無意識に体がリズムを取っているようだ。 「でしょう? 彼女たちのお陰もあって明るい一家だったからね、またあの三姉妹の歌声が聞けて晴れやかな気分だよ」 青年は笑顔でそう言い、道具屋へと入って行く。 道行く人たちも歌声に耳を傾けているようで、その歩みは心なしかゆっくりしたものになっている。和やかな空気が辺りに満ちていた。 「おかえりなさいませ! 皆さんは無料にするよう主人から言われております。ささ、昼食の支度も出来ていますよ」 宿屋に戻ると、カウンターで受付番をしていた青年が明るい声で出迎えてくれた。 「我がホテルでは皆さんは第一級のお客様としてもてなします。どうか、これからも末永くご利用下さい」 宿屋の主人が丁寧に一礼し、ヴァンたちを食事の用意されたテーブルへと促す。 並べられている料理はかなり豪勢なものだ。肉料理に、野菜、スープ、様々なものが並び、昨夜の食事と比べても手の込み具合が明らかに違うと分かる。 ヴァンたちが顔を見合わせていると、エリザがテーブルへと追加の料理を運んできた。 「せめてもの感謝の気持ちです」 そう言って笑みを見せるエリザの表情は柔らかく、晴れやかだ。もう何の不安もないと、そう感じられる。 「おいしそー!」 料理の香りに、ノアが涎を垂らす勢いで身を乗り出す。 戦闘が予想されていたこともあって、朝食は軽めのものだった。派手に立ち回ったこともあって、三人ともいつもより空腹だ。 「ノアさん、そして皆さんに救っていただいたこの命、これからも大切にしていくつもりです」 エリザたちも交えて、遅めの昼食を頂いた。 ノアは終始目を輝かせて、とても嬉しそうに、美味しそうに料理を頬張る。エリザの身代わりとなったこともあってか、まるでノアが主賓のようだ。 食事を終え、ヴァンは客室で荷物を整理すると、地図を取り出した。半島状に飛び出したラタイユの東側の地形の確認のためだ。 「多少の起伏はあるにせよ、平原と見て良さそうだな」 ヴァンの向かいから、ガラが地図を覗き込んで呟いた。 ドハティが城を構えているというセルジュの情報は確かな手掛かりではあるが、その城の概観や大きさまでは分からない。ドルク王領のゼトーのいた『霧』の 巣も、地上に露出している部分は全体像からすればかなり小さなものだった。ドハティがどんな城を構えているか分からない以上、ラタイユから東の半島の探索 には目を凝らさなければならない。 見晴らしが良ければ、『聖獣(ラ・セル)』で強化された視力を使って城を探し易くなる。 「ドハティ、か……」 ヴァンは地図から右手のメータに視線を移す。 恐らく、ドハティはゼトーと同等かそれ以上の地位にある存在だろう。セルジュに変異体を取り付かせてジャガーノートを作る指示を出したことといい、オク タム地下の炎熱海道で戦った『獣(セル)』の怪物がその名を口にしたことといい、まず間違いないだろう。城を建てるというのも、『霧』の巣をそこに設置す るのが目的のはずだ。 「不安か?」 ヴァンの呟きが聞こえたのか、ガラが問う。 メータたち『聖獣(ラ・セル)』は創世樹の覚醒によって成長している。ヴァンも日々の鍛錬を欠かしてはいない。ゼトーの時以上に、ヴァンたちは力をつけているはずだ。 だが、今の状態でギ・デリラと対等以上に戦えると言えるだろうか。そう考えた時に、頷ける自信はまだない。 「正直、考え出すと不安ばかりだ」 そう答えたヴァンの声には、悔しさが滲んでいた。 未だに、『霧』の使徒たちの全容は掴めていない。その力量も未知数だ。いくら『聖獣(ラ・セル)』が通常の『獣(セル)』とは一線を画す力を持った存在 だとしても、それだけで全ての敵を捻じ伏せられるわけではないことはこれまでの旅で身に沁みて知っている。特に、ゼトーは強敵だった。ギ・デリラも対峙し ただけだったが、それでも戦慄した。 「用心に越したことはないが、後ろ向きにだけはなるなよ」 「分かってる」 ガラの言葉に、ヴァンは小さく頷いた。 前に進むと決めた以上、躊躇はしていられない。『霧』の巣を壊しても、『霧』の本質が分かったわけではない。『霧』の脅威から世界を救うには、その根本 を知り、対処しなければならない。それを為すことが『聖獣(ラ・セル)』の使命であり、ヴァンたちがしなければならないことなのだろうから。 明日の出発に備えて早めに就寝することにした三人だったが、ヴァンは中々寝付けずにいた。 「眠れないのですか?」 メータが囁くような小声で問う。 口には出さずに頷いて、ヴァンはベッドから身を起こした。窓際に寄って、そっと窓を開ける。 蒸気の町と言うラタイユの名前に反して、夜風は涼しく感じられる。これもセブクス群島地下の溶岩が凍り付いている影響だろうか。 「……どうしても、やりきれなく思っちゃって」 ヴァンは窓から外の景色を眺めながら、呟いた。 日中に外を歩いていた時、心の底から喜ぶことができずにいる人たちも見つけてしまっていた。 「おねえちゃん、やっぱりかえってこなかった……」 そんなことをぼそりと呟いていた男の子がいた。 城に連れて行かれた人達が帰ってきたことや、もうそんなことに怯えなくてもいいということには安堵していても、やはり落胆を隠せない者たちも少なからずいた。 「でも、それは……」 「分かってる、分かってるんだ……」 メータの言葉に、ヴァンは歯噛みする。窓枠に置いた手に、無意識のうちに力が篭もる。 ジャガーノートは『霧』の到来前に生み出されてしまっている。たった一体だとしても、それを生み出すために犠牲になった者たちがいる。二体目のジャガーノートは完成する前にヴァンたちが破壊したため、今回の『獣(セル)』の花嫁は手遅れにならずに済んだ。 どうしようもないことだとは分かっている。『霧』の到来前では、誰も対処などできないだろう。 それでも、と思ってしまうのはヴァンの悪い癖なのかもしれない。 「ヴァン……」 憤る思いに応えるように、メータが熱を返す。 「おとう、さん……?」 ふと、背後からノアの寝言が聞こえてきた。 「おかあさん……」 見れば、ノアの手が宙に伸びている。 どうやら、また夢を見ているようだ。眠っているノアの眉間には皺が寄っている。 「かならず……あいにいく、から……」 その言葉を最後に、宙へ伸びていたノアの手が布団の上に落ちる。表情も穏やかになっていた。 「ノア……」 両親は夢で何をノアに伝えたかったのだろう。カリスト皇国にいるノアの両親はどんな人なのだろう。何故、ノアはドルク王領にいたのだろう。 窓を閉め、ヴァンは再びベッドへと戻った。 今はただ、『霧』の巣を破壊することに意識を向けよう。 レトナ山の創世樹の力でウィドナの『霧』は晴れただろうか。確認に向かう暇はない。もしも『霧』が晴れていなければ、ウィドナを往復する間にシェルターの備蓄が尽きてしまうかもしれない。ウィドナに行くのは、『霧』の巣を破壊してからだ。 翌朝、出発するヴァンたちを宿の皆が見送ってくれた。 「ありがとうございます。皆さんのお陰で、本当に助かりました」 エリザの母が改めて礼を言い、一同が頭を下げる。 「また是非いらしてください」 「うん! またね、エリザ!」 微笑むエリザに、ノアも笑顔で手を振る。 ラタイユの街中を抜け、東の関所へと向かう。 「お待ちしていました。こちらが通行証になります」 関所にいた衛兵の一人がヴァンたちそれぞれに通行証を手渡す。 「お気を付けて!」 敬礼する衛兵たちに力強く頷き返して、ヴァンたちは開け放たれた関所の門を潜りラタイユを後にした。 地図を片手に、平原を進む。 「ヴァン、ガラ……」 周囲に視線を走らせながら歩いていると、ノアが二人を呼んだ。 振り返ると、ノアの表情がやや曇っている。 「どうしたんだ?」 珍しくはっきりしないノアの言葉に、ガラは驚いていた。 「ノア……また、ゆめをみたんだ」 その一言で、昨日の寝言を聞いていたヴァンにはノアが話そうとしていることの内容に検討がついた。 「ノアのおとうさん、おかあさん……とりかえしのつかないことをしたんだって」 夢の内容を、ノアは精一杯言葉にしていく。 昨夜見た夢の中で、ノアの両親は世界に破滅をもたらすことになってしまった過ちを犯したのだと語ったらしい。それがノアと生き別れの運命をもたらしたのだ、とも。 深い『霧』の中、永遠の暗闇にいるのがその報いだと、両親はノアに告げたようだ。 そして、破滅への運命を食い止めて欲しい、とノアに頼んだらしい。そのための力を与えることができる、とも。 「ノアにあうことがつぐないだって、おかあさんとおとうさんがいってた……」 ノアはそう言って、拳を握り締めた。 「ふむ……」 腕を組み、顎に手を当ててガラが考え込む。 「取り返しのつかないこと、とはどういうことだ?」 破滅をもたらす元凶となった過ち、と聞いて思い当たるのは『霧』ぐらいしかない。ノアの両親が『霧』の発生に関わっているということだろうか。だが、口ぶりから察するに、少なくともノアの両親は『霧』の使徒ではなさそうだ。 「どうせ会いに行くんだ、その時にはっきりするさ」 ノアの背中を軽く叩いて、ヴァンは言った。 はっきりしたことが分からないのは、いつものことだ。ドルク王領にいた頃に比べれば、カリスト皇国に近付いている。セブクス群島の次はカリスト皇国へ向かうのだ。ノアの両親がいる場所へ辿り着くのも、そう遠くないだろう。 「うん、そうだね!」 ノアが笑顔で頷いた。 そのためにも、まずは『霧』の巣を探さなければならない。 「メータ、どうだ?」 「現在地からは南東、ラタイユからは南西の方角に濃い『霧』を感じます」 右手のメータに訪ねると、それまで周囲を探ってくれていたメータが答えてくれた。 創世樹が覚醒しても、『霧』の巣を破壊しなければ『霧』は完全に消すことができない。ジェレミとレトナ山の創世樹が覚醒した今、『霧』が発生している方角に『霧』の巣があるはずだ。そう思い至り、メータには『霧』の存在が探知できないかと頼んでいたのだった。 ラタイユから西の地形は弧を描くように弓形に突き出した半島状をしている。丁度、ラタイユの南西に湾ができるような地形だ。 その方角に『霧』が感じられるということは、湾内のどこかに『霧』の巣がある可能性が高い。ラタイユから東に抜けた後、南、西、と迂回しながら、半島の先端を目指すことにした。 「『霧』が出てきたな……」 やがて、日が暮れようとした頃になって、ガラが眉根を寄せて呟いた。 前方に薄っすらと『霧』が出てきている。 「この距離で『霧』か……」 ヴァンも顔を顰める。 レトナ山の創世樹からそう遠くはない距離のはずだ。少なくとも、創世樹の力はまだ十分に届く範囲にいる。にも関わらず、『霧』が現れている。 「『霧』の巣が近いようね……」 オズマの言葉が、結論だった。 覚醒した創世樹の影響範囲内で『霧』が見えるのならば、そう判断せざるを得ない。だが、逆に考えれば『霧』が濃い方へと進んで行けば『霧』の巣に辿り着けるはずだ。 その日は『霧』の中には足を踏み入れずに一夜を過ごし、翌日になって進むことにした。 『霧』が濃くなる方をメータたち『聖獣(ラ・セル)』に探ってもらいながら、半島を歩いていく。 重苦しくなる『霧』の中の空気はどうしても好きになれない。悪意や、怨念とでも言うべきか、負の感情を彷彿とさせるような何かが感じられてならない。『霧』が濃くなるに連れて、そういった嫌な感覚も強くなる。 やがて、丁度半島の南側、中央の湾に面した場所に巨大な建造物を発見した。 ドルク王領にあった『霧』の巣は地下に向けて作られていたが、この城はまさに城と呼べるように上へと伸びて作られている。高く伸びた塔のような建物が三つ並ぶように建ち、連絡通路のようなものが左右に延びて互いに接続されている。 「間違いない、あの中に『霧』の巣があるはずだよ」 テルマに言われるまでもなく、ヴァンたちもそう確信できた。 何故なら、中央にある最も高い塔の最上部にある黒ずんだ色をした一角から『霧』が漏れ出しているからだ。 「おぞましい気配……皆さん、注意して下さい」 警戒を促すメータに頷いて、三人は建物の中へと足を進めた。 根元に当たる部分は広くなっていて、そこから三つの塔が生えているといった形にも見える。その存在を誇示するかのような巨大さは威圧感があり、同時にどうしようもない嫌悪感も覚える。 ドルク王領にあったゼトーの『霧』の巣に近い、どこか異質とも思えるほどに建物の外観や内装は特徴的だ。ラタイユに至るまでの道中でも、これらに似た内装様式は見たことがない。唯一近いと思えるのは、ジェレミの空中庭園へ向かうエレベータのある塔の中だろうか。 ただ、ゼトーの居城とは違い、この城の内装には剥き出しの配管などは見当たらなかった。 規則的に並んだくすんだ白塗りの柱に、緑色の正方形の石板が敷き詰められた床と天井、柱と柱の間の壁には縦方向に溝のようなものが細かい間隔で走っている。 建造物の中は濃い『霧』が充満していて、『獣(セル)』の気配も多く感じられる。 「上へ向かえば良さそうだな」 辺りを見回しながら、ガラが呟いた。 「ええ、下の方には何もないみたい」 構造を探っていたオズマがそれに応えた。 地下へ伸びていたゼトーの居城と違い、ここでは高い位置に『霧』の巣を配置しているようだ。ドルク王領の『霧』の巣と違い、今回はどこに『霧』の巣のがあるのか、外観から見当がついている。 どうにかして、頂上部へと向かう道を探さなければならない。 「みて、ヴァン、かいだんがうごいてる!」 通路を進んで行くと、曲がり角の先を見たノアが声を上げた。 見れば、ノアの言う通り、階段が動いていた。何を動力にしているのかは分からないが、あまり音を立てることなく静かに動いている。台座が次から次へと始点となる部分から湧き出し、終着点で吸い込まれるように消えていく。 「……奴らの技術には驚かされてばかりだな」 ガラも驚いているようだった。 上下に動くエレベータの方が長距離を移動するのには適しているが、数階程度の短距離であればこの動く階段の方が手軽に思える。ゼトーの居城よりも洗練されている印象だ。 ドルク王領が技術的な発展の遅れている地方だというのは事実だが、これほどの技術を人間が持ち得ていたものなのだろうか。 『聖獣(ラ・セル)』たちがゼトーたちのことを知らないところを見ると、『霧』の使徒は『獣(セル)』ではない可能性もある。 確かに、人語を解する『獣(セル)』の怪物はいた。だが、その口振りは明らかに何者かに作られたことを示唆しており、上に立つ存在がいることは明白だった。デリラ三兄弟を見て、一つの疑問がヴァンの中に残り続けている。 この城も、ゼトーの居城もそうだ。人間の大きさが基準になっている。階段の段差も、扉の幅や高さも、エレベータも、そのどれもが人にとって丁度良く、都合の良い大きさや形で作られている。 敵は、『霧』に魅了された人間ではないのか。 だとすれば。 「……ヴァン」 迷っているのか、とメータの声がヴァンに問い掛ける。 変異体という言葉も知った。 もしかすると、『霧』の使徒とは、変異体に取り付かれた人間なのではないか。セルジュのように、変異体に操られているだけの存在ではないのだろうか。 「どうしたの、ヴァン?」 「……いや」 ヴァンの足が止まっていたのに気付いたノアが振り返り、声をかける。ヴァンは首を振って、歩き出した。 迷ってなどいられないはずだ。進むと決めたはずだ。 既に、ゼトーは倒してしまっているのだ。 「元が人間であっても、ゼトーは既にほぼ『獣(セル)』でした」 メータが囁く。その声は、ヴァンの考えを見透かして、励まそうとしている。 対峙したメータもゼトーの存在には何か違和感を抱いていた。だが、『聖獣(ラ・セル)』たちはゼトーに人間としての存在を感じられていなかった。理由は分からないが、メータたちはゼトーを『獣(セル)』だと認識していた。 ヴァンは、人を殺めてしまったのではないかと危惧している。たとえ、世界に『霧』を振りまいたのが人間だったとして、殺してしまおうとまでは思っていない。 甘い考えだと言われれば反論はできない。 それでも、人を殺すことなど望んでいないのだ。 「かなり入り組んだ作りになっているな」 見かけた扉を手当たり次第に開けて中を調べていたガラが呆れたように呟いた。 一体この巨大な城で何をしていたのだろう。研究者がいた様子もない。そもそも、『霧』の中でまともに動き回れる人間がいない以上、人気がないのは当然だ。にも関わらず、ゼトーの居城といい、この城といい、かなり広く、大きな作りになっている。 内部には『霧』によって凶暴化した『獣(セル)』が侵入者を排除するかのように徘徊しているものの、それ以外の気配は無いに等しい。 これほどの規模の建造物を何のために作ったのか疑問が残る。『霧』の巣を配置するだけなら、ここまで大仰な建物が必要だとは思えない。 『霧』の使徒の意図が分からない。ただ顕示欲が強いだけにしても、『霧』によって人が滅びてしまったら、誇示する相手もいなくなってしまうのではないだろうか。 透き通ったガラスのような床や、通路などを見ていると余計にそう思える。 動く階段を上り、徘徊している『獣(セル)』を倒しながら上階へと向かっていく。 やがて、中央塔の最上階と思しき場所に辿り着いた。広くなった通路の先に、物々しい巨大な扉が見える。一際濃密な『霧』が扉の隙間から漏れ出してきているのが分かる。ドルク王領のゼトーの居城でも聞こえた、『霧』の巣が蠢く際の耳障りな重低音も響いている。 「ヴァン……!」 「ああ、この先に『霧』の巣がある!」 メータに答え、ヴァンは扉前の広間へと歩み出る。 「せっかく変異体をくれてやったのにラタイユのセルジュもとんだ愚か者よ……」 その刹那、何者かの声が辺りに響き渡った。 一瞬の閃光と共に、扉の前に何者かが立っていた。 「馬鹿正直にジャガーノートを作るため『聖獣(ラ・セル)』の力を借りるとは……所詮、二流の変異体ではあの程度のものか」 溜め息か、あるいは呆れか、どちらにせよ侮蔑を含んだ吐息が漏れる。 その姿はゼトーと同系統で、赤いローブを身に纏った司祭のような出で立ちだった。だが、色合いだけが違っている。三角錐の鎧にも似た被り物はゼトーのも のとは違い、深い暗緑色で、黒に近い身に纏うローブも心なしか色合いが深く黒ずんでいるようにさえ見える。それでいて、身体の前面に装飾されている紋様は 明るい赤と黄色をしており、浮き出て見える。顔に当たる位置の溝からは赤い光が漏れ出しているようにも見えた。 「お前がドハティか……!」 ヴァンは身構えた。 名乗らずとも分かる。見るからにゼトーと同格かそれ以上を思わせる出で立ちと、セルジュに変異体を与えたことを示唆する言葉がそれを物語っている。 「いかにも、我こそはドハティ! コート様の忠実なる使徒にして、セブクスの真の支配者なるぞ!」 嘲笑うような、見下すような、そんな口調でドハティが声を張り上げる。 くぐもり、濁りが混じったような声が酷く不愉快に聞こえた。 「ジャガーノートを生み、厄介なハリィをブルテリオに始末させたのは、優秀なる変異体をコート様よりいただいた、このドハティなのだ!」 まるで自分の功績を誇るかのように、ドハティは笑い声とも取れる声音で宣言する。 「おまえがハリィを……!」 ノアがドハティを睨み付ける。吊り上がった瞳には怒りが宿り、握り締めた拳には力が篭もっている。 「変異体……やはりお前も元は人間なのか?」 油断なく身構えながら、ガラが問う。その表情は険しい。 「くくく……我らは既に人を超越した存在よ」 それが答えだとでも言わんばかりに、ドハティはくぐもった笑いを返す。 「愚か者共に我が怒りの力を見せてくれよう!」 ドハティが声を張り上げると共に、その身体が光に包まれ変容していく。 同時に、ドハティの殺気や悪意といったあらゆる敵意が膨れ上がっていった。まるで、それを糧に身体を変化させているかのように。 そうして現れたのは、二頭身の鳥を思わせるような歪な体型の禍々しい『獣(セル)』の怪物だった。人間二人分はあろうかという身長に、岩のような肌は緑 色をしていて灰色の金属の鎧を着込むように鱗のようなものを全身に纏っている。顔には嘴はなく、むしろ人間に近い。だが、大きく左右に裂けた口には大人の 頭よりも巨大な鋭く禍々しい牙が覗いている。ずんぐりとした体型で、頭と胴体がほぼ同じ大きさをしており、バランスは悪く見える。その胴体から伸びる手足 は身体の大きさに対しては短いが、太く強靭そうで、鋭い爪を備えている。翼のようにも見える平たい腕には羽根のようなものは生えておらず、その全体像は羽 根を全て毟られた生まれたばかりの雛鳥のようですらある。だが、その体型と巨大な濁った瞳の禍々しさが圧倒的な不気味さを醸しだしていた。 「お前らの『聖獣(ラ・セル)』と我が変異体、本当に強いのは、どちらかを教えてやろう!」 膨れ上がっていた殺意や悪意が解き放たれる。 突風のように叩き付けられたそれを、ヴァンたちは真っ向から受け止めた。 「なんて邪悪な気配……!」 オズマが呟く。その声には余裕が感じられない。 ドハティが動いた。 その姿からは想像も出来ないほど、素早い動きだった。 短いながらも強靭な足がドハティの身体を一瞬で跳ね上げ、空中で反転させた身体で天井を蹴ってヴァンへと突撃してくる。咄嗟に後方へと跳んで逃れたヴァンに、ドハティは難なく着地して勢いを殺さずに突っ込んできた。 「くっ……!」 正面から突撃してくるドハティの横っ面に、思い切りメータを叩き付ける。力を僅かに逸らしたものの、勢いを逸らし切れずにドハティの体当たりを半身で受ける形になってしまった。 重い。見た目からは予想できない衝撃に、ヴァンの身体が吹き飛んで壁にぶつかる。 「ヴァン!」 ノアの声が聞こえた。 「油断するな、ノア!」 辛うじて返した声に、ノアが迫ってきていたドハティに気付く。 床と天井を跳ね回るように動きながら、突撃していくドハティを、ノアは素早い動きでかわしていく。 「こいつ、はやい!」 鋭い爪を右へ左へかわしながら、ノアが呻くように呟いた。 「うおおお! 雷よ!」 ガラが気合いと共に、掌底を繰り出す。雷撃を纏ったそれを、ドハティが跳んでかわし、その短い足で器用にも回し蹴りを放つ。 「ガラ!」 咄嗟にガラとの間に割って入り、ヴァンは蹴りをメータで受けた。硬質な音が響き渡り、ヴァンの身体が背後にいたガラごと弾き飛ばされる。生身の部分で受けていたら危なかった。オズマの宿る右手で掌底を放っていたガラでは防げなかっただろう。 「すまん、ヴァン!」 幸い、二人とも大したダメージはない。 「ふん、なるほど、ここまできただけのことはあるか」 ドハティが忌々しげに吐き捨てる。 「はぁぁぁぁっ!」 その背後から、裂帛の気合いと共にノアが手刀を叩き付けた。テルマの瞳が輝き、風の刃がドハティの背中に叩き付けられる。それでも、硬質な鋼色の甲殻の一部が削げ落とされた程度だ。 ドハティが振り返りざまに爪を振るう。飛び退いたノアと入れ替わるように、ヴァンは短剣で斬り付ける。メータの熱が刃を包み、硬質な音と共に甲殻の破片が舞った。 ドハティの背面蹴りをヴァンが屈んでかわしたところで、ガラが横合いから拳を叩き付ける。 「ぬ……!」 よろめいたドハティへ、三方向からヴァンたちが追撃をかける。 戦えている。一人ではまだ厳しい相手だが、三人ならば互角だと言えた。 ドハティの力はゼトーと同等か、それ以上なのは間違いない。だが、ヴァンたちが強くなっているのもまた事実だ。ドハティが放つ殺気や憎悪と言った負の感情にも、気圧されていない。ゼトーの時には確かに感じていた焦りや恐怖がない。 あの時は絶望に呑まれかけた。 だが、今は違う。 勝てる、という確信があった。 強くなっているという実感もあった。これまでの旅の中で創世樹を覚醒させてきたことや、日々鍛錬を重ねてきたことは無駄ではなかった。 だから、だろうか。ほんの少しでも余裕を感じてしまったために、考えないようにしていたことがヴァンの脳裏にちらついた。 「……どうした、ヴァン!?」 ガラは気付いたようだ。 ほんの僅かながら、ヴァンの攻撃の手が緩んでしまっている。 「どこかいたいのか!?」 ガラの言葉をきっかけに、ノアも感付いた。 「いや……」 ヴァンの返事も歯切れが悪い。 原因は分かっている。ここに辿り着く前に散々考えたことだ。薄々感じていたことが、ここ最近の旅の中で確信を持ててしまった。 『霧』の使徒が、元人間だということに。 決定的だったのは、デリラ三兄弟だ。ゼトーやドハティのように、人間であると見た目から判別ができない存在ではなかった。彼らは明らかに『獣(セル)』を身に着けた人間だった。それが人格を乗っ取る変異体であったとしても、人であることに変わりはない。 メータと共に旅をすると決めたあの日から、得体の知れない『霧』と、それを世界に振り撒く敵がいることははっきりしていた。だが、その敵は単に邪悪な存在であると一方的に思っていた。 頭の片隅に、もしかしたら人なのかもしれないという考えはあった。ただ、考えないようにしていただけだ。そんなことをする人間がいるはずがないと思い込みたかった。 ドハティが口から吐き出したガスを、ノアとテルマの風が切り裂く。 『霧』を生み出したのが、人間だったとしたら。 ヴァンは、人間を殺さなければならないのだろうか。 もし、『霧』の使徒たちでさえ、『獣(セル)』に操られているだけだとしたら。 どうしても、躊躇いが生まれてしまう。 ドハティの爪がノアに迫る。間に割って入ったヴァンが短剣を滑らせるようにして、爪の軌道を逸らす。 「しっかりしろ、ヴァン!」 横合いから回し蹴りを放ちながら、ガラが叫ぶ。 元々が武術家であるガラは、割り切れているのだろう。 純粋なノアには分からない感覚かもしれない。 人の命を奪うということへの葛藤に、ヴァンは揺れてしまっていた。 頭では分かっているのだ。 『霧』を許すことはできない。『霧』の使徒とは根本的に価値観が合わない。『霧』の使徒やそれに使役される変異体たちは人の命を何とも思っていない。人に仇をなし、人に害をなす存在だ。 だから、倒さなければならない。 それでも、ただ『霧』によって操られているだけなのならば、取り付かれている人の本意ではないのだとしたら、救いたいと、そう思ってしまう。 「ヴァン……」 メータがヴァンの思いに熱で答えを教えてくれている。 ドハティの『獣(セル)』はラタイユのセルジュの時のような変異体ではない。『獣(セル)』が人を完全に取り込んでいる。少なくとも、今のメータに判別できるような人と『獣(セル)』との境目は無い。ラタイユの時のように、変異体だけを倒すことはできない。 ただ、奥歯を噛み締める。 「あれほど禍々しい存在を、『獣(セル)』と呼んでいいのか、私には分かりません」 メータが言う。 もはや『獣(セル)』という定義に当てはまっているのかさえ怪しいほどに、ドハティたち『霧』の使徒は歪な存在になっている。果たして、それをもはや人だと呼べるのかさえ分からない。 「こういう言い方は卑怯かもしれませんが……倒すことが救うことになるかもしれません」 「ああ、そうかもしれないな……」 メータの言葉に、ヴァンは僅かに頷いた。 変異体に取り込まれてしまう前のドハティがどんな人間だったのか、ヴァンには分からない。ただ、『霧』を広めることが本意ではないような人物だったのな らば、倒すこともまた救済だと言えるのかもしれない。本意ではないことを、自分の意思ではなく続けさせられているのだとしたら、そして変異体と切り離すこ ともできないのならば、救う術はもはや一つしかない。 終止符を打ってやるべきだ。 ドハティの蹴りを、横へ跳んでノアがかわす。反対側からガラが殴り付け、気を引いた時にはノアがトンファーを叩き付けている。 覚悟を決めろ。 守りたいもののために。 救いたいもののために。 中途半端な思いでは、これから先、なくしたくないものを失ってしまうかもしれない。そうなる前に。戦いは始めてしまった。もう、引き返すことはできない。引き返す気もない。 「貴方は、優し過ぎる……でも、だからこそ……」 メータが囁く。 その言葉の先は熱になり、ヴァンの背中を優しく押してくれる。右手の『聖獣(ラ・セル)』から炎が溢れる。 ヴァンが駆け出すのと同時に、ノアとガラも走り出していた。 「テルマ!」 跳んで逃れようとするドハティを上から風が押さえ付けた。 「オズマ!」 それでももがこうとするドハティの動きを、雷が駆け巡り、封じる。 「メータ!」 ほんの一瞬、ドハティが動きを止めた。その瞬間に、ヴァンは振り上げたメータに全ての勢いを乗せて叩き付けていた。 圧縮された熱量を解き放ち、爆発がドハティをよろけさせる。頭の一部が弾け飛んだが、ドハティの目は死んではいなかった。不気味な光を放つ目に怒りと憎悪が滲む。 だが、もう遅い。 「おおおおおっ!」 ガラが気合と共に、雷撃を纏った回し蹴りからの二連撃を後頭部目掛けて叩き込む。同時に、ノアの手刀がドハティの腹を横合いから貫いていた。 「おのれ……!」 ドハティが悔しげな呻き声を漏らした。 「我ら、『霧』の使徒の英知を注いだ変異体が『聖獣(ラ・セル)』に敗れるとは……」 戦う力はもう残されてはおらず、ドハティは崩れ落ちるように倒れ込む。 それでも、敵意や悪意の強さだけは衰えていない。 「しかし、既に我が申し子、ジャガーノートは野に放たれている」 油断なく取り囲むヴァンたちを憎らしげに見つめながら、ドハティは恨み言を呟き続けた。 「リム・エルム……ちっぽけな洞窟……バイロン寺院……愚かな人間どもが、『霧』を逃れられたと勘違いしている町や土地、その全てにジャガーノートが破壊の手を伸ばしたのだ」 ヒビの入った濁った目が、忌々しげにヴァンたちを見る。 「そして、今も偉大なるコート様の下、ジャガーノートは成長している……!」 いつしか、ドハティの声には笑いが混じっていた。自分が負けているにも関わらず、まるで勝ち誇ったように。 「ドハティ死すとも、ジャガーノートは死なず……!」 高らかに言い残して、ドハティの体は砕け散った。細かな破片が砂粒のように崩れ去っていく。 「……それでも、俺たちは負けない」 強く拳を握り締めて、ヴァンは呟いた。 リム・エルムの壁が壊されても、創世樹の力が『霧』を払った。洞窟が崩れても、ノアとテルマは生き延びた。バイロン寺院も、犠牲者は少なくなかったが生き延びた人も沢山いる。どれも、『霧』の使徒に襲われた場所だ。けれど、滅びてはいない。 メータがヴァンを見い出し、テルマがノアと旅立ちを決意し、オズマも目覚めてガラを選んだ。それは偶然だったかもしれない。だとしても、人が『霧』に滅ぼされることはならなかった。 この希望は繋いでいかなければならない。 ヴァンはノア、ガラと視線を交わし、頷き合った。 三人とも、多少の傷は負っていたが重傷はない。光獣の力で傷を癒しながら、ヴァンたちは奥の扉へと向かった。 大きな扉を開いた先には、『霧』の巣が音を立てていた。 「これがセブクス群島を覆う『霧』の発生源で間違いないですね」 「また私たちの力を合わせて破壊するよ」 メータとテルマが言った。 見たところ、構造自体はドルク王領にあったものと同じもののようだ。分厚い円盤を積み重ねたかのような装置が、それぞれ回転して『霧』を吐き出し続けている。 『霧』の巣の中心部手前まで伸びている通路を進み、ヴァンたちは並んで装置を見上げた。 「さあ、心を合わせましょう!」 オズマが言い、三人が『聖獣(ラ・セル)』をかざすように手を伸ばす。 セブクス群島を覆う『霧』を晴らし、人々に安息と平穏を、三人の思いは一つだ。 メータから炎のような真紅の光が、テルマから美しい翡翠の光が、オズマから紫電のような蒼い光が飛び出し、三重の螺旋を描いて装置の動力部へと吸い込まれていく。 重苦しい音を立てて動いていた円盤がゆっくりと動きを止め、次第に石となっていく。自重を支え切れずにヒビが入り、砕け、崩れ落ちていく。同時に、『霧』が薄らいでいく。 「やったー!」 ノアが拳を握り締め、笑みを浮かべた。 これでセブクス群島からも『霧』をなくすことができたはずだ。 ヴァンもようやく一息つくことができた。 だが、そう思ったのも束の間、『霧』の巣があったところに何かが浮かび上がってきていた。 「あれは……!?」 ガラが目を見張った。 言われて、それに気付いたヴァンとノアも、目を丸くした。 それは、鉱石のようだった。菱型をした紫色の鉱石に、青色の角のようなものがついている。そして、瞳のように、中央には黄緑色の宝石のようなものがある。 その姿は、まるで『聖獣(ラ・セル)』のようだった。 |
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