第一章 「告白」


 放課後の校舎は夕日に照らされ、赤く染まって見える。
「……好きです、付き合って下さい」
 そんな中、光は目の前に立つ女生徒にそう告げられた。
 一瞬、光には言われた事を理解する事が出来なかった。それだけ光を混乱させるのに十分な言葉だったのだ。
 今、彼の目の前にいるのは、同学年の女生徒、谷崎 美咲だ。程よく引き締まった彼女の容姿は十分美人に入るだろう。
 高校の授業が終わり、帰宅の準備をしていた光は、彼女に声を掛けられた。校舎裏の、人影のない場所に連れ出され、そして、告白された。
「……え?」
 明らかな告白だったが、光にはそれが信じられなかった。
 火蒼 光。見た目はそこそこ、体格もそこそこ、運動神経は悪く、頭脳明晰でも、成績優秀でもない。部活は無所属の帰宅部で趣味はパソコンとTVゲームの完全なインドア派。それが光だ。加えて、人付き合いが不得意で、友人は数えるほどしかいない。
 そんな光へ告白する者がいるとは、本人すらも考えなかった事だった。
「お、俺……?」
 正直、嬉しくないと言えば嘘になる心境ではあった。
 生まれてこの方告白された事もした事も一度もないのだ。嬉しくないはずがない。しかし、目の前に立つ美咲は光のクラスの生徒ではない。そのため、光は彼女の事を全くと言って良い程、知らない。
 困惑しながら自らを指差す光に、美咲は首を縦に振る。その頬が紅潮しているのは光にも見て取れた。
「……え、っと…」
 どう答えるべきか、光は口ごもる。
 ここでイエスを選択する事は容易い事だが、光は何も考えずにその選択を出来るような性格ではない。無論、初めての経験に戸惑っているという事もある。
「……もしかして、他に好きな人が…?」
 光の様子をどうとったのか、美咲は不安そうな表情で問う。
「いや、そういうわけじゃ…」
 光は慌てて否定した。
 好意を寄せている異性というものは光にはいない。少なくとも、光自身はそう思っていた。
(……くそ、こんな時に…)
 光は内心で呻いた。寝不足による眠気が光の思考力を低下させている。
 軽く頭を振って、強引に眠気を振り払った光は、再度考える。美咲の告白の返答をどうすべきか、を。
「……俺でよければ」
 そうして出た結論はそれだった。
「あ、ありがとうございますっ! じゃ、じゃあ、今日はこれで……」
 顔を真っ赤に、しかしそれでいて安堵と喜びの満ちた表情で言うと、一礼して美咲は走り去って行った。
 それを見送った後、光は溜め息をついた。緊張感と何とも言えぬ恥ずかしさで背中が熱い。
 と、突然その光の肩に手が置かれた。
「なぁっ!」
 驚いて振り返った光の目に映ったのは、見慣れた顔だった。
「……修か」
 ほっとしながら光は呟く。
 矢崎 修。光のほぼ唯一の親友がそこにいた。
 運動神経はそこそこ良いが、成績は光よりも低い。趣味は読書とパソコンという、光同様インドア派である。
 修とは小学校からの付き合いだ。彼の両親はかなり名の通った資産家で、裕福な家だが、修は家族とは別居してマンションにて一人暮らしをしている。両親の望む『修』と、修自身が望む『修』が重ならなかったのが原因なのだ。大企業の息子という、否応なしに他から一目置かれる環境で育ち、孤立していた修はそんな生活に嫌気が差したのだろう。いつからか彼は優秀でいる事を辞めた。
 そんな修と、光はどこか似ていた。幼少期、病弱で喘息を患っていた光は、その時期には普通は好きになるであろう運動が全く出来ず、それ故に身体を動かす事が楽しめず、孤立していたのだ。運動神経が悪いのはそこからきており、まだ劣等感を抱いている。更に、光が八歳の頃に両親が事故死している事も影響していたのかもしれない。
 他者との接触を避けるようになっていた光が、同じように孤立していた修を気にかけたのは当然の事だったのかもしれない。そして、修の方も光に興味を引かれていたのだろう。やはり、孤立し、友人のいない二人は共に淋しかったのだから。
 現在、修は生活費の仕送り以外で親との交流は全くと言って良いほどにない。そんな状況でも修はしっかりと生きている。
「春ですなぁ」
「――!」
 にやりと笑う修に、光は一部始終を見られていた事に気付いた。
 美咲に声を掛けられた時、近くには修がいたのだ。まさか告白されるとは思っていなかった光は、修に何も言わなかったのだ。修としては何の呼び出しか気になるはず。
「……まぁいい……」
 光は呻くように言い、気分を落ち着けた。
 どうせ隠してもすぐにばれるだろう事だ。
 それに、無二の親友でもある。隠し事はよっぽどの事がない限りしないのが暗黙の了解となっていた。
「帰るぞ」
 大きく息を吐き出し、光は歩き出した。手提げの平たいバッグを肩越しに持ち直し、学校の敷地内から外へと出た。
「……で、告白されてどうよ?」
 道に出て数歩歩いたところで、修が口を開いた。
「実感が湧かないな……」
 告白されたという事実はあるが、彼女が出来たという実感はあまりない。
「ほとんど面識ないからなぁ」
 頬を掻きながら光は付け加えた。
 光自身が返答に迷った事でもあるが、光は美咲の事をほとんど知らない。呼び出されて自己紹介されるまで誰だか分からなかったぐらいだ。
 相手が好意を持っていても、こちらが好意を持っていなければ恋人同士とは言えないと光は考えている。美咲の方は好意を持っているのは、告白された事からも判る。嬉しい事ではあるが、しかし、光の方も美咲に対して好意を持っていなければ、実質片思いのままなのではないだろうか。
「それはこれから判ると思うわけよ」
 修が言う。
 相手の事を知らないのであれば、尚の事相手を知る必要がある。そうして判断しても遅くは無いはずだと、そういう事だ。
「反りが合わなかったら別れりゃいいし」
 修の言葉に、光は半分頷く。
 相性の合わない者と付き合うのは苦痛になるだろうからだ。だが、付き合う事を許諾した方から振るというのも気が引けた。
「てか、振る事を前提にするなよ?」
 顔を覗き込むようにしながら修が言った。
「そりゃ解ってるよ」
 苦笑を浮かべて光は答えた。
 振ると決まった訳ではない。それを決めるには早過ぎる段階のはずだ。
「けど、忘れたわけじゃないだろ?」
 光は修に鋭い視線を向ける。
「そりゃあな」
 修も頷く。
 一ヶ月ほど前、光の見る世界は変わった。光自身にも変化はあったが、それよりも大きな変化は光を取り巻く環境の変化だ。目に見える環境の変化ではない。世界の裏側とでもいうべきものと、光は接触したのだ。
 それには修も関わっている。
 光だけでは思い詰めてしまうが、修が精神的な支えとなってくれているために、今ではほとんど前と変わらない生活を送れていた。
「あいつらに狙われる可能性もあるからな……」
 今は大人しくなってはいるが、光は狙われているのだ。修が光に対する人質となった事もある。油断は出来ない。
「最悪、彼女も奴等の仲間かもしれないぞ?」
 修の言葉に、光は頷く。
 一ヶ月前の時にも、光のクラスに紛れ込んでいた者がいた。そいつは今は行方不明となっているが、光はそれが死亡している事を知っている。
 もしかしたら美咲もそうなのかもしれない。否定し切れないからこそ、それは考慮せねばならない。もし、美咲が光に対する使者であるのであれば、動向によっては殺さなければならなくなる。
「違うと思いたいけどね」
 苦笑し、光は言う。
 それは光の思いだ。
「……けど、違ったら違ったで、問題はあるんだよな…」
 溜め息と共に付け加える言葉に、修は小さく頷いた。
 仮に美咲が使者でなかったとしたら、光に対する人質にされる可能性があるのだ。そうなれば光が普通の人間ではない事が美咲には知られてしまう。
 今まで通りの生活を望む光にとっては、それは避けたい事なのだ。それに、正直なところ、事情を知っている修も含めて、光には知り合いを盾にされるのはかなり堪える。
「知られないに越した事はないけど、付き合ってればいつか知られる事ではあるからな」
 複雑な表情で修が言う。
 もし、別れる事なく付き合いを続けていれば、いつか明かさなくてはならない時が来るはずだ。
「問題は、いつ、どんな状況で、って事だな」
 出来るだけ穏やかな時に、その時がなって欲しいと光は思った。
「……まだ近くにあいつらもいるみたいだしな」
 光は付け加えるように小さく呟いた。
 一週間ほど前に、光達の通う波北高校の教師の一人が通り魔によって殺害されるという事件が起きていた。何の意図かは判らないが、それは間違いなく『あいつら』の仕業だと光は考えていた。
 光に対するプレッシャーのつもりなのかもしれない。しかし、別段慕っているわけでもない教師が殺されたところで光が動じる事はないのだ。もしかすると、光ではなく、別の者に対しての行動だったのかもしれない。光達の通う高校だけでなく、この周辺には『あいつら』と戦っている者達もいるのだから。
「そう簡単には手出し出来ないとは思うけどな……」
「いざとなったら空メールででも連絡しろよ?」
 応じた修に光は言う。
 修は今は戦う力のない人間だ。将来的に戦えるようになるとしても、今は無理なのだから、光が戦うしかない。
 その時の連絡は、空のメールを送る事、で最近取り決めしていた。それならば宛先を入力して保存しておいたメールを手早く送信するだけで済み、手探りで出来ない事もない。
「解ってるって」
 手を振って小さく笑う修に頷き返す。
「んじゃ、またな」
「おう」
 光は修に返答し、道を逸れた。
 二人の帰路は途中まで一緒なのだ。高校からは川原沿いのサイクリングロードを通り、光と修共に家までは十分程度。光の家はサイクリングロードから途中で逸れるが、修の住むマンションはもう少しサイクリングロードを進むのだ。
 帰路も途中まで同じであり、無二の親友である上、クラスまで同じという事もあって、光と修は帰る時はほとんど一緒だ。
 修と別れて道路を進む事数分、光の家が見えて来る。光の家族それぞれが持っている合鍵で玄関の鍵を開け、中へと入った。
「ただいま」
 誰もいないと解っていても、習慣となっている言葉が口から出た。
 手早く靴を脱ぎ、手洗いやうがいを済ませると、光は階段を上って二階にある自分の部屋へと向かった。
 その中でバッグを下ろし、さっさと明日の授業の用意を済ませる。
 ――……いるな。
 光は窓から外へと視線を向けた。鋭く細めた視線で、その先にいる者を射抜く。慌てて視線が消えるのを察して、光は部屋のカーテンを閉めた。
 一ヶ月前の一件で、一応の終結を見た光だが、大きな組織はそれだけで光を解放する事は出来ないだろう。現に監視がついているのがその証拠だ。まだ組織は諦め切れていない。
 元々視線に敏感だった光には、下手な監視はすぐに見抜く事が出来る。
(修にも監視がついてるのか……?)
 今更になって光はその事に思い至った。
 修は一ヶ月前の事件に巻き込まれ、光の力の事を知っている人間だ。そして、光の親友でもある。監視されていてもおかしくはない。
 しかし、光と違い、修はまだたたの人間に過ぎない。それほど重要視されているとは思えなかった。何せ、修を人質に取った時、光は構わずに戦っているからだ。修を人質にしても効果が薄い事を向こうも解っているはずだ。
(……やっぱり、問題は彼女か……)
 自然と表情が引き締まる。恐らく、光と美咲が付き合い始めたという事は監視者に気付かれているはずだ。
(断るべきだったかな……?)
 光は溜め息をついた。
 もし、断っていたなら彼女への危険は確実に消えていただろう。しかし、既に光は彼女の告白を受け入れてしまっているのだ。今更断る事は出来ない。断ったとしても、それが危険をなくすためだと組織に気付かれれば、美咲への危険は逆に増えかねない。光が大切に思う、気を遣う者であれば、組織にとっては人質になりうるのだから。
 修と話し合う必要があると光は結論付けた。光の事情を知っていて、同じく巻き込まれ、当事者ではないが故の客観的な立場から物事を見る事の出来る修ならば何かしらアドバイスが得られるはずだと考えての事だ。
 そう考え、光は修から借りた本に手を伸ばした。あの時以来、気分転換や教養にと、修が大量に本を貸してくれたのだ。流石に、光が興味の持ちそうなものばかりを斡旋してくれているようで、面白く読めている。
 それらを読んでいるうちに光の兄・晃が帰宅した。晃は光とは別の高校へと進学しているのだ。更に数十分してから光の現在の保護者である叔父の孝二と、その幼馴染みである澤井 香織が帰宅した。孝二と香織は正式には結婚しておらず、香織がこの家の面倒を見てくれているのは好意であり、厚意だ。早くに両親をなくした光と晃を考えてくれているのである。孝二を父親とするならば、香織が母親と言っても過言ではない程だ。
 いっそ結婚してしまえばいいと思うのだが、中々事情があるらしい。加えて、世話になっている手前、言い辛いのが本音だ。何か深い事情があるのかもしれないと思うと、尋ねる事に抵抗を感じてしまう。
 そうして、香織の作った夕飯を四人で食べ、適当な会話に花を咲かせたり、テレビを見たり、歯を磨く等してから光は再度部屋に戻る。
 ごく普通の日常。
 今まで変わる事のなかった、変わる事さえ考えていなかった日常だ。これからも変わる事はないだろうし、変える事など光はさせないつもりだ。
(……告白されたんだな)
 思い出し、光は苦笑を浮かべる。
 今日、光の日常は少し変わったかもしれない。
 だが、この変化はむしろ喜ぶべきものなのかもしれない。彼女が出来た、と言うのは、普通の男にとっては喜べるものなのだろうから。
 しかし、素直に喜べない自分がいるのも確かだ。彼女まで守らなければならなくなるのかもしれない。
 出来れば巻き込みたくはない、とそう思った。
 そんな事を考えながら、光は眠りに落ちていった。明日の事を思い、期待と不安の入り混じった妙な気分を抱いたまま。

 光達の通う公立波北高校は一日の時間割が、一時限六十五分の五時限授業というものになっている。進学校としての格は低い方だが、それでも進学校であるため、高校としては上の下といったレベルだ。また、学校指定の制服というもののない私服校でもある。
 午前中の三時限目が終了を告げ、今は昼休み。
 光の目の前の席に座っている修がバッグから昼飯を取り出すのを見て、光もバッグから弁当を取り出す。
 光と晃の弁当は、大抵前日の夜に香織が自宅へ帰る前に作っておいてくれたものだ。孝二が作る場合もあるが、流石に香織の方が手馴れているため、味も良い。
 因みに、両親とは別居している一人暮らしの修は大抵コンビニや購買で調達したものだ。もっとも、朝食や夕食はたまに自炊しているらしいが。
「次、何だったっけ?」
 コンビニ弁当を口に運びながら修が訊いてくる。恐らく次の授業の教科の事だ。
「確か、体育」
 光は時間割を思い出しながら答えた。
 高校の授業の中では光が一番嫌いな科目だ。その上、今の時期は更に光の嫌いなスポーツ、サッカーである。他の男子には嬉しい時間かもしれないが、それは身体を十分に動かす事が出来、楽しいと感じられるからだ。無論、運動能力の低い光にとっては楽しむ事は出来ない。もっとも、だからと言ってサボるわけにもいかない。
 憂鬱な時間ではあるが、勉強をしなくても良い時間でもある。
 光と修が食べ終わった辺りで時間を見ると、次の授業まで大体十五分は余っている。
 適当に修と会話をしているうちに時間が迫り、学校指定のジャージに着替えて光達は教室を出た。
 綺麗に晴れている事が光には恨めしかった。
 教科担任の指示で点呼や準備運動をした後、チームに別れて試合が始まる。
 グラウンドにはサッカーコートが二つ分あり、更に、体育の授業は二クラス合同の男女別で行う。結果、男子の人数は約四十人となり、クラス別でサッカーをするには丁度良い人数となるのだ。
 こういう時、光は六十五分授業と言うのが最も厭になる。
 一日に受ける授業の教科数は少ないが、一時限辺りの時間が長いのだ。それは、その時間が嫌いな者にとってはかなりの苦痛である。
 光はチーム分けで修とは別のチームになってしまったが、別に問題はない。何せ、やる気がないのだから、端の方にいて適当に動いていれば問題はないのだ。
 それに、光の運動能力が低い事はクラス内には知られているのだ。光へパスする等という無謀な事をする愚か者はいないだろう。
 試合が始まると、数人の男子がボール目掛けて突撃して行った。
 それを遠巻きに眺め、光は欠伸を一つ。
 運動神経がそれ程悪い訳ではない修は積極的と言うわけでもないが、光よりは参加している。
 ふと、空を見上げていた視線を戻すと、ボールがこちらへと向かってきていた。
 一瞬避けてしまおうかとも考えるが、そんな事をすれば周りの視線が責めてくるだろうと思い、光は適当に蹴り返して忌々しいサッカーボールを追い払った。内心のやる気のなさを押し殺して、それらしくパスを行うと、またやや離れた位置へと移動する。
(全く、こんな球蹴りのどこが面白いんだか……)
 他の人達にしてみれば、何かしら楽しめる要素があるのだろうが、光にはそれが感じられない。だから嫌いなのだ。
 見るだけにしても同じ事で、光は大抵のスポーツは見るのも好きではない。スポーツの試合の番組などは、光にとっては単に時間が延長したり、見たい番組が潰れるだけのものでしかない。無論、そう感じない人達がいると言う事も理解した上での考えでも、だ。
 光はもう一度欠伸をして、時計に目をやった。
 まだ二十分は続きそうだった。
 結局、光にはそれ以降はパスは無く、適当にぼーっとしていた。とはいえ、実際にはただ立っていた訳ではなく、色々と考えていた。
 授業終了の礼の後にグラウンドから出て、光は修と校舎内に入る。
「ん…? あれ、お前の彼女だよな?」
 修が小声で呟いたのに光が視線を向けると、そこには確かに美咲がいた。その言い方に明らかにからかうような部分があったが、光は敢えて突っ込まなかった。
 先程の体育は二クラス合同だったのだが、その相手クラスが美咲のいるクラスだったようだ。
 当の美咲は、もう一人の女子と話をしている。
「……霞?」
 その相手は、光や修と同じクラスにいる、紅 霞だった。
 腰まで届きそうな艶やかな黒髪に、端整な顔には鋭過ぎるくらいの視線を持つ。その視線さえなければ、引き締まった身体もあって、美人と言えるだろう。いや、そのままでも十分な人気があった。
 他人を寄せ付けないような雰囲気を持ち、自らも他者との交流を避けている兆しさえある霞が、人と話しているのを見るのは珍しい。
 しかも、その霞の表情は普段よりも柔らかい。幾分か鋭さは残しているものの、普段に比べれば格段に優しげな表情だった。それだけ親しいという事なのだろう。
 何を話しているのか、光にも少し気になったがそれ以上考えるのを止めた。
 折角二人で話をしているのに、邪魔をしては悪い。何より、霞が珍しく人と話をしているのだ。恐らく、光から二人に話かければ、霞は美咲との会話を止めてしまうかもしれないし、その二人に話しかけられる程の仲でもない。
 霞が他者を避ける理由を知っているのは、この学校の中では光達二人ぐらいしかいない。
 恐らく、友人であろう美咲も知らないだろう。いや、霞が友人と思っているのであれば、言えないという可能性も高い。
 だからこそ、霞が親しいと思われる人と話をしているのを邪魔したくはないのだ。
「霞にも進んで話せる相手がいたんだな…」
 半ば感心しながら光は修に小声で呟く。
「ま、誰だって一人ぐらいは友人がいるだろうさ」
 俺達みたいにな、と修が言う。
 そうだな、と光は頷き、さっさと教室へ戻ると、ジャージから私服へ着替えを済ませた。
 脱いだジャージを廊下にあるロッカーへしまい、次の授業の教科書等の準備も終える。
「次が終われば帰れるな」
 背伸びをしながら光は修に囁いた。
 授業が始まる直前になって霞は教室に戻ってきた。恐らくはそれまで美咲と話していたのだろう。
 不意に、霞が光に視線を向けた。瞬間、目が合ったが、普段の鋭い視線ではなかった。そのあまりにも雰囲気の違う視線に光は内心驚いていた。
 だが、教室に教師が入ってきて授業が始まり、光の思考は中断された。

 授業の半分ほど眠っていただろうか、光が気付いた時には授業終了の十分程前だった。
 適当に授業の残りを流し、光はチャイムが鳴るのを待つ。
 やがてチャイムが鳴り、授業が終わると、光はすぐに教科書等を片付けて帰り支度を済ませた。
「そういや光」
「んー?」
 掃除のために机を教室後方へ下げながら光は修の言葉に反応する。
「彼女とは帰らないのか?」
「…お前、からかってんのか?」
 流石に数回目となると、あまり良い気分ではない。
「てか、付き合うなら、数回は行動を共にしないとまずいだろ」
 それはそうだろう、と光も思ってはいた。
 仮にも恋人同士という立場になって、お互いにいつも通りの交流しかなければ何も変わらないのだ。それでは恋人同士だと言う意味がない。
「つっても、クラス違うしなぁ」
 だが、光は何より修のような親しい者以外との会話にはあまり慣れていないのだ。
 その辺の事情は長年の付き合いである修ならば判っているはずだ。だからこそ言ってくれているのだとは光にも解るが、クラスが違うといのは流石にやり辛い。何せ、わざわざ別のクラスへ言って、呼び出さなければならないのだ。
 十中八九、ほとんどの者に付き合っているのが判ってしまうだろう。
 いや、実際光にとってそんな事はどうでもいいのだが、周りの視線が集中してしまうのが光はあまり好きではないのだ。
「それに、危険かもしれない……」
 光は右掌に視線を落とす。
「……まぁ、確かに」
 修もこれだけは同意のようだ。
「あいつらが諦めたって証拠はないからな」
 下手をすれば、彼女も巻き込んでしまうかもしれないという危惧もあった。
 親友であり、光とほぼ同時に巻き込まれた修はともかくとしても、完全に一般人である美咲は巻き込みたくはない。
 もし、巻き込んでしまったら、その時は全力で守らねばならなくなる。そうなれば、光が普通の人間ではない事が彼女にばれてしまう。
 その時の反応が怖いのだ。
 修だからこそ落ち着いて受け入れてくれたが、彼女も同じ反応をするとは考えにくい。下手をすれば、今の生活が送れなくなる可能性も十分にあるのだ。
 生徒昇降口で下履きに履き替え、光と修は校舎外に出た。
「……光」
 修が小さく光を小突いた。
「何だ?」
 修に顎で示された方向に光が視線をやると、そこには美咲が立っていた。
「行ってこいよ」
「解ったよ」
 修の言葉に苦笑しながら歩調を早め、美咲のところまで歩く。
「……邪魔した、かな?」
 修と出てきたところを見ていたのだろう。美咲が恐る恐ると言うように尋ねてきた。やはり多少緊張しているのだろう。
「いや、別に。むしろ行けって言われたよ」
 軽く首を横に振り、光は心配しないように言う。
 光も緊張し始めていた。動きに不自然さが感じられたような気がしたからだが、それは勿論錯覚である。
 と、歩き出して気付く。
「そういや家、こっちにあったのか?」
 光は美咲の家の方角を知らないのである。
 帰り道の方面が途中まででも同じでなければ、一緒に帰ると言う事は出来ない。わざわざ遠回りをすると言うのもどうかと思うからだ。
「サイクリングロードの辺りまでなら、ね」
 それならば大丈夫だろうと頷き、光は躊躇していたもう一歩を踏み出し、歩く事を再開する。
「あと、名前はさん付けのがいいのかな…?」
「あー、あんまり気を遣って堅苦しくなるのも厭だし、付けなくてもいいよ」
 美咲の疑問に、光は一瞬考え、答えた。
 関係がぎくしゃくしてしまうのは光には居心地が悪い。今も多少ぎこちないかもしれないが、こういう状態で話すのは初めてなのだからそれは仕方がないだろう。
 何か話題でも探さなければ会話が続かないのが光には少し辛かった。
「…そう言えば霞とは知り合いだったのか?」
 光は体育の授業の後に見かけた事を話した。これぐらいしか話題が思いつかなかったのだ。
「うん、家が近所だったから」
 美咲が言うには、霞は元から近所にいた訳ではないらしい。三年程前に引っ越してきた霞と、学校に行く途中でよく出会い、そこから仲が良くなったとの事だ。流石に最初は冷たくされていたそうだが、何度も顔を合わせて話しかけているうちに、会話をしてくれるようになったらしい。
 そして、その時には既に霞は一人暮らしだったと言う。
「やっぱ、色々あったんだろうな」
 聞き終えて、光が呟くと、美咲もそれに頷いた。
 仲が良くなったとは言え、全てを打ち明けてはいないという事は美咲の説明から判った。霞が人を避けるようになった理由は美咲には明かされていないからだ。それを打ち明けられた時、美咲はどんな決断をするのだろうか。
 と、そこまで話しているうちにサイクリングロードに差し掛かり、美咲が足を止めた。
「私はこっちなの」
 そう言って、美咲は別れ道を指差した。
「ん、じゃあ、また」
 頷き、背を向けて歩き出す美咲を数秒見送ってから一息つくと、光も家へと向けて歩き始めた。
 あれだけの短期間では、まだ彼女と相性が良いのか光には判断出来ない。だが、短時間でも話してみて、そんなに悪い印象は受けなかった。
「…どうなる事やら」
 小さく苦笑し、光は帰路を急いだ。


 本来ならば家で寝ている時間に、光は外出していた。最近の光は土曜日と日曜日は大抵十一時過ぎまで寝ている。
 この日は土曜日で、休日だった。時間は十一時を過ぎたところだ。
 それでも太陽は時間相応の高さまで昇り、初夏特有のほのかな暑さを送っている。
 光が立っているのはファーストフード店の横の日陰だ。直射日光による熱は遮断され、快適な気温になっている。人を待っている光には寄り掛かる壁もあって丁度良い場所であった。
 両手は上着のポケットに突っ込み、中にある財布を掴んでいる。
 欠伸を一つした後、光は空を見上げた。多少雲はあったが、十分青空といえる天候だった。
(……気配は、ないな……)
 光は周囲に妙な気配がない事を再確認し、一度溜め息をついた。
 先週の月曜日、波北高校の教師が一人殺されているのだ。周囲への警戒は出来る限りしておいた方が良い。
「――光!」
 不意に呼ばれた声に、光はその方向へ視線を向け、壁から背を離した。
「ん、来たね」
 何気なく返事をして、光は声の主へと歩み寄った。
 小さめのバッグを手に持った美咲が立っていた。学校が私服校なため、服装を見る限りでは休日と平日の印象はあまり変わらない。
 光が待っていた相手というのは美咲だ。この日は休日に会う約束、つまりデートをする事になったのだ。
「じゃ、飯にしようか」
 美咲が頷くのを確認してから店内へと入り、光が一括で注文した。代金は個別だったが、支払いは美咲から代金を受け取った光が行った。
 やがて、注文の品がプラスッチクのトレイの上に乗せられて出され、光がそれを受け取って美咲のいる席についた。
「…皆、単品?」
 美咲が光の頼んだものを見て呟いた。
 彼女はセットメニューを頼んだのだが、光は一番安いハンバーガーが二つに、チーズバーガーが一つだ。
「ん、ああ、小遣いの節約」
 光はそう答えた。
 現在困っている訳ではないが、節約しておいて損はない。本やゲームソフトなどは欲しいものが同じ時期に重なって発売される事もあるため、光はこういうところで節約する事が多いのだ。
「こういうとこじゃ飲み物は自販機で買った方が量も値段も良いし」
「店に嫌がられそう」
「まぁね」
 苦笑しながら美咲が言うのに、光も苦笑しながら答えた。
「……一つ、訊いてもいい?」
 光はハンバーガーを齧りながら言った。
「うん、何?」
 頷いた美咲に、光は少し躊躇いがちに口を開いた。
「――何で、俺に告白を?」
 自分に自信がない、というのではないが、光には誰かに好意を持たれるという理由が解らない。魅力の要素のはずの運動能力は低く、成績も優秀とは言えず、社交的な明るい性格でもないのだ。どこに惹かれたのか、解らない。
 無論、答え辛い質問である事は光も自覚していた。それでも、光は確かめなければならないと思っていた。
 光と共に行動することは少なからず危険を孕む。修はともかく、美咲が光と共に行動するに足る信用を持てるかどうか、確認したかったのだ。それに、もしかしたら彼女が光の敵である可能性もまだ残っている。
 人を信じられなくなっているとも、光は思っている。だが、光が背負っているものは修だけではないのだ。用心しなければならない。
「……え、そ、それは……」
 顔を赤くして美咲は口篭る。
「す、好きになっちゃったのよ……いつの間にか……」
 曖昧な返答だったが、その口調に感じられた緊張は恐らく本物だろう。
 光はそう判断した。美咲は普通の人だ、と。
「変な事訊いてごめん」
 自嘲とも苦笑とも取れる笑みを浮かべ、光は美咲に言った。
(…会話、続かないな……)
 チーズバーガーを齧りながら光は思った。
 学校でも互いに話す機会はなく、付き合い始めたばかりという事もあって、会話が途切れてしまう。まだぎこちない感じが拭い去れず、光としては気まずい雰囲気だ。
 光が丁度チーズバーガーを食べ終わった頃、美咲も食事を終えていた。チーズバーガーで最後だった光も、それを見て席を立った。それからゴミを片付け、二人で店を出た。
「……あ、そうだ」
 美咲が呟き、立ち止まったのに、光は振り返った。
「まだ交換してないよね?」
 携帯電話を見せて問うのに、光は頷いた。
 携帯電話の番号やメールアドレスはまだやりとりしていない。
「……しとこうか?」
 美咲が頷くのを確認し、光も携帯電話を取り出す。
「さてと、これからどうしようか?」
 手早く携帯電話のデータを交換し、光は美咲に尋ねた。
「え、と……どうしよう…?」
 その美咲の反応を見て、光は気付かれないように苦笑した。
 この付近に丁度良いデートスポットはない。森林公園が近くにあるが、そこは二週間程前に殺人事件が起きたとかで、デートスポットにはまだ使える雰囲気ではない。こういう事に慣れていない光には、良い場所の判断基準が判らない。
(となると、あの場所か……)
 小さく嘆息し、光は口を開いた。
「俺の気に入っている場所だけど、行ってみる?」
 つまらない場所だけど、と断りつつ、光は美咲の返答を待った。
「うん、行ってみたいな」
 美咲の返答に、光は傍の駐輪場から自転車を引っ張り出し、乗った。美咲も自転車を駐輪場から引いてきていた。
「どこ?」
「ん? 河原だよ、すぐ近くの」
 来た道を引き返しながら尋ねる美咲に、光は答えた。
 辿り着いた場所はサイクリングロード横の河原だった。光と修が学校の帰りに脇を通る場所であり、光にとっては馴染みの場所でもある。
「何もないけど、俺はここが好きだな」
 自転車を隅の方へ止め、光は徒歩で砂利を踏みしめた。
 休日に修との待ち合わせで良く使う場所だ。だが、それだけではない場所だ。
「静かな場所…」
 並ぶように美咲が歩いて来た。
 水の流れる小さな音と、川辺であるための丁度良い涼しさ。人がいない事も相まって、静かで落ち着ける場所だ。近くにある橋の下へ行けば直射日光は遮られ、真夏でも避暑に適している。
 光にとって、自分自身の存在がはっきりと確認出来る場所だ。誰もいない、川のせせらぎだけが聞こえるこの場所は、砂利を踏めばその場所に自分が立っている事を認識させてくれる。
「こんな場所があったなんて、近くなのに気付かなかった……」
 美咲が呟いた。
 確か彼女の家はこの付近にあったはずだ。この場所を知らないという事は、あまり意識した事がなかったのだろう。
 光が腰を下ろすと、美咲もそれに習って隣に座った。
 会話はなかったが、川のせせらぎが沈黙の重みを和らげてくれているように、光には思えた。 
 そうして、光は横目で美咲に視線を向ける。
(――俺は、彼女を好きなのだろうか…?)
 不意に湧いた疑問を、光は自らにぶつける。
 美咲は嫌いではない。そういった感情は、この数日間、抱いていない。しかし、ただそれだけで彼女の恋人の資格があるのだろうか。
 何かが、心に引っかかっているような気がした。光が抱えている様々な事が、そうさせているのかもしれない。
(――好きに、なれるかな……?)
 好きだ、と口で言う事は容易いが、光はそれで納得出来ない。
 修は、これから好きになるかもしれない、と言っていた。しかし、今のままで本当に好きになれるのだろうか、光は疑問に思う。
 人から好かれるというのは悪い気分ではない。寧ろ、周囲の者からそういった感情を向けられた事の少ない光は、ありがたい事だと思う。
 光は周囲を見る時に、変な偏見は持っていない。人を見かけで判断する事はあまりないのだ。そして、人によって態度を変えるような性格でもない。
 それが良い事なのかどうかは、光自身には判らない。ただ、それは自分に好意を寄せてくれている相手にとっては、友達を会話しているのと同じ態度と取られてもおかしくはないのだ。つまりは、恋人と接しているという感覚が光にはないのだ。
 そのせいで恋愛というものに疎いのかもしれない。
(――じゃあ、俺は……?)
 誰か、好意を寄せている人はいただろうか。
 告白された時は咄嗟に思い浮かばなかった。
 気になる人はいるが、それは好意ではないだろう。光の立場として動向が気になるというのは実際のところだが、恋愛感情ではないだろう。
 結論は既に出ている。光には今、好きな女性はいない。
「……どうかした?」
 不意に声を掛けられ、光ははっとした。
「ん、ちょっと考えてた」
 いつのまにか、光は真剣な表情になっていた。
 一度息を吐いて、光は力を抜くと、手近な小石を拾って川に軽く投げ入れた。
 着水の小さな音と共に水面に波紋が広がるが、すぐに川の流れに打ち消され、消えてしまった。
 一瞬、その光景が光には自分の立場の比喩に見えた気がした。
 投げ入れられた石が光で、流れる川が光の周囲の動き。広がった波紋は光の主張。
 普通でなくなった途端、今までになかった様々なものが周囲を取り巻いた。いや、元々は周りを取り巻いていたそれらはあったものだが、普通でなくなった瞬間に、光はそれが見えるようになった。
 光は投げ入れられたのだ、川に投げ入れた小石のように。そして、その周囲のものは光の意思を無視して流れて行くものだ。投げ入れられた光が発した主張も、掻き消してしまう。
 大きな流れに飲み込まれ、消えてしまうのは少数の主張だ。川の流れは緩やかでも容赦なく、小石の起こした波紋を飲み込んで、変わらずに流れ続ける。いつか、そんな時が来るのかもしれない。
(……させるものか)
 光は目を細める。
 少なくとも、今の光には流れに逆らってでも戦う覚悟がある。その意志があるうちは波紋を掻き消す事はさせない。逆に、流れに刻み込むつもりでいた。
「……なぁ、俺達、上手くやっていけるかな?」
 あたかも、今まで考えていた事がそれだったかのように、光は美咲に言葉を投げた。
「え、何で?」
 少し驚いたように、美咲の表情が一瞬凍った。別れ話でも始まると思ったのだろう。
「正直、告白された事なんてないから、自信がないんだ」
 苦笑と共に紡がれた言葉は、それでも光の本音だった。
 経験がなく、縁もなく、そして、光自身の抱える問題。
 それら全てが、光が恋愛という状況をマイナスに考えてしまう要員になっていた。
 会話も上手く続かず、相手を好きになれるのかすら考えてしまう。彼女がいる事が嬉しくないわけではないが、それでも不安が拭いきれない。いつか、崩れてしまうのではないか。そう、光は考えてしまう。
「告白された側がそんな事言ったら駄目だよ」
 美咲の言葉に、光は美咲に顔を向けた。
「……告白した方は、好きなんだから」
 視線を逸らし、美咲が言う。
 確かに、自信がないというのは光の一方的な言い分だ。だが、光はそれだからといって別れようとは思っていないが。
「……そう、だな……」
 光は頷いた。
 美咲は光よりも恋愛経験があるだろう。容姿も性格も、光には悪いように思えないのだ。告白された事はあるように光には思えた。
「でも、少しは自分に自信持った方が良いよ?」
「そうするよ」
 心なしか、美咲の表情が明るくなった気がした。
 光も、いつの間にか気が軽くなっていた。
 そうして、少しだけずつだったが、会話が進み始めた。
 家の事、勉強の事、趣味の事、友達の事。自分を取り巻く大抵の事を話し合った。勿論、光が抱えている言えない部分は言わないでおく。
 それで解った事は、美咲は両親と暮らしており、成績は光よりも上で、友達は霞以外にも結構いるらしいという事。趣味は読書と音楽鑑賞らしい。
 打ち解けられたのかもしれない、光はそう思った。
 そして、日が傾いてきた時、どちらともなく二人は立ち上がった。

 その時、背後で砂利を踏む音が聞こえた。
(――っ!)
 光の背筋を冷たい感覚が走り抜け、表情が凍る。それでも、美咲が振り返るよりも早く、光は振り向いた。
 それが誰なのか、光は判っていた。いや、個人の事を知っている訳ではなく、その人物達が何者であるのか判っているのだ。
 黒い色を基調とした、動き易そうなスーツを身に着けた三人の男が、無言で光達を見ていた。
 そのスーツが光に、彼等が敵であると確信させた。知らず、光の目が細められる。
 隣に立つ美咲が、男達に気圧されたように一歩後ずさっている。光が横目で表情を窺うと、恐怖感を抱いている、怯えた表情が見て取れた。見ず知らずの男、しかも数人に異常な雰囲気で見つめられれば当然だろう。
(……やっぱり狙って来たか!)
 光は歯噛みした。
 美咲が光に対する人質になり得るという事は光自身も十分に解っていた。光が今まで通りの暮らしを続ける事で、周囲の者に力を見られてしまう事を怖れているのは知っているだろうからだ。そうなれば、美咲がいる時に攻撃を仕掛ける事で、光に反撃を躊躇させる事が出来るだろうと考えられるからだ。
「……」
 ひっ、と美咲の悲鳴が聞こえた。美咲が一歩後退し、砂利の音が響いた。
 突如男達の目の色、虹彩が変色したのだ。無理もない。
(……こいつら……)
 光は表情を歪めた。
 美咲という、光にとってはどうでも良かった一般人が、恋人という関係になった事は、組織にとっては光に対する有効な人質の対象を見つけた事に他ならない。以前、修が人質に取られた時、光は激昂した。それは人質を取るという事が光に対して少なからず精神的な攻撃になるという事の証明だ。
 身近な者、親しくなった者に対して、光と関わったが故に影響が出る事を、光は怖れている。
 それが修の時に解ったのだろう、彼等の狙いは美咲だ。
 光が行動を起こさなくとも、組織はこの瞬間を見逃すつもりはなかっただろう。
「ひ…光……」
 微かに震えた声で、美咲が光に呼びかける。
 光は静かに目を閉じた。美咲が光の服の袖を小さく引くのを感じながら。
(――力を!)
 瞬間、光の閉ざされた視界が蒼白い閃光に満たされる。
 そして、同時に光の持つ全ての感覚が切り替わった。知覚が拡大され、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。
 美咲が光の服から手を離したのが解った。
 光は目を開いた。
「……少し、待っててくれ」
 静かな口調で、驚きに目を見開いている美咲に囁く。
 そう囁いた光の全身を蒼白い燐光が薄く包み、その虹彩も蒼白い燐光を帯びていた。
 そして、光は地を蹴った。
 ――具現力。
 自らの精神力を力場に変換し、力場で包んだ空間に物理的な効果を生じさせる特殊な能力。その力を扱える者は能力者、又は覚醒者と言われ、持たない者は非能力者、非覚醒者と呼ばれる。
 具現力に覚醒した者はそのほとんどがVANと名乗る組織に身を置き、世界の水面下で活動している。そして、VANの意思に反発する者達はROVと名乗る集団を筆頭にレジスタンス活動を行っていた。
 光は、そのどちらでもない。自分自身の生き方を望み、どちらにも所属せず、中立の立場を取った。
 しかし、光の持つ具現力はVANにとっては脅威となる、具現力の五つの型分け中の最強種、閃光型と呼ばれる種類の能力であった。戦闘能力に特化した閃光型は、力場自体が既にエネルギーを生じさせる事が出来、力場そのものを攻撃エネルギーとして操れる力がある。更には精神状態の変化による具現力の影響が、他の種類の能力よりも遙かに大きい。感情の変化による攻撃能力の上昇は、閃光型では特にオーバー・ロードと呼ばれ、精神力を能力者が思う分だけ引き出し、攻撃能力に上乗せして行く。それは精神力の源である生命力を削る行為だが、オーバー・ロードによる攻撃能力の上昇は、圧倒的不利な状況を覆す可能性を十二分に備えている。だが、その中でも光は特殊だった。
 具現力の中核をなす要素である力場を打ち消すという能力、力場破壊能力を秘めた閃光型能力者だったのだ。具現力として力を生じさせている力場を破壊されれば、全ての効力が散らされ、事実上、攻撃が無効化される。
 まだ光が未熟なせいもあるのか、普段はほとんどその力を発揮出来ないが、オーバー・ロードにより能力が拡張された時、力場破壊能力はその真価を発揮する。
 閃光型として、かなりの戦闘能力を持つ上、敵の攻撃を生じさせている力場を破壊する力を持つ光は、VANに危険視されていた。
 現に、光は一ヶ月前、VANの部隊を一つ壊滅させている。オーバー・ロードを起こした光は、部隊全ての集中攻撃に曝されたというのに、それを圧倒したのだ。
 危険視されない方がおかしいとは思う。それでも、光はVANとまともに敵対するつもりはなかった。反感は覚えるが、彼等の事情や思いを光は察する事が出来る。そして、ROVの思いも。
「――まさか、俺が力を使えないとでも思ったか?」
 小さく、男達に向けて光は問い掛けた。
 光の具現力の事を知っているのは修と、同じ能力者の知り合いだけだ。非能力者で光の力を知る者は、修だけだ。
 他の誰かに知られる事を光は怖れていた。しかし、だからといってその目の前で具現力を使わないという事はしない。光が、守らねばならないから。そうでなければ、光だけでなく、その人物の命が奪われるから。
 光の掌に蒼白い光弾が生じ、光はそれを横合いから叩きつけるように腕を振って投げ付ける。
 それを間一髪のところで避けた男が殺気を光へとぶつけてきた。
 横合いから飛び出してきた男を、光は右足を腹部に叩きつける。直撃の瞬間に身体を覆う膜を足の部分だけ厚くし攻撃力を高め、男の腹部を足で両断した。
 能力者は常人を凌ぐ身体能力を発揮する。身体を覆う防護膜は身体能力を高め、受けるダメージを軽減し、治癒能力をも高める力場の一種だ。任意に厚さを変える事が出来、攻撃力や防御力を局所的に高める事が出来る。また、浅い傷ならば数秒で完全に傷口を修復出来るが、唯一の例外が、同じ力場を介する具現力で受けた傷だ。防護膜が破られ、その防護膜を張り直す、つまり、具現力を発動し直さなければ治癒能力は高まらない。
 精神力と深い関わりを持つ閃光型と、力場破壊能力を秘めているが故か、光は周囲の気配を読む事が容易に出来る。力場を察知出来ると言い換えても良い。力場の一種である防護膜は能力者自身を覆っているが故に、光はその存在を明確に捉える事が出来るのだ。もっとも、オーバー・ロード状態でもなければ、まだ明確に力場を認知出来る範囲ではない。それでも、殺気として察知出来るだけの感覚は持っていた。
 まだ完璧に使いこなせているわけではないが、それでも光は自分達に降り掛かる火の粉を払うだけの力を得ていた。
 千切れた身体から噴き出した鮮血が光に降り掛かるが、防護膜がそれを蒸発させるために、光が返り血を浴びる事はない。横から接近してくるのには気付いていたから、ぎりぎりまで引き付けておいて、力を込めた一撃で仕留めたのだ。
 圧倒的な戦闘能力を見せ付けられ、男二人が一瞬怯む。
 具現力を扱う能力者には、年齢による上下関係はほとんど意味をなさない。見かけが若いからといって、侮る事は出来ない。そう、今の光のように、能力によっては子供でも大人を圧倒出来る。年齢が関係するのは経験だけだ。
 男二人が左右に展開し、遠距離攻撃を放つ。放たれるエネルギーを掻い潜り、光は光弾を生じさせ、反撃していた。
 能力者を戦闘不能に追い込むには、今のところ絶命させるしか方法はない。具現力は腕や足に頼っているわけではなく、能力者の意思によって発動しているのだ。手や足を使う事が、その具現力を発動させるために意識するのが容易だから、皆手や足を使用して攻撃してくるのだ。
 放った光弾を途中で拡散させ、目晦ましとして使い、光は向かって右側にいる男に連続して光弾を放った。それらは男の左肘、右腿、下腹部、首に命中し、男を絶命させた。
 そして、光弾を放ちつつ接近していた最後の一人の拳を身体をずらして避け、懐に入り込むと、その男の顎に下方から拳を叩き込んだ。
 弾け飛んだ頭が中身を撒き散らして後方へと倒れるのを確認し、光は動きを止めた。
 自分が始末した男達の成れの果てに、光弾をぶつけ、光は死体を消滅させた。そうする事で、今、ここで起こった事は光と美咲しか知らなかった真実となるのだ。
 光は美咲へと振り返った。
 蒼白い燐光を纏う目を向けられ、腰を抜かして座り込んでいる美咲はびくりと肩を震わせた。
 明らかに恐怖し、怯えた表情を向けている。何が起きたのか整理のつかないながらも、それに対して恐怖を感じている表情だった。その対象は間違いなく、光にも向けられているだろう。
「……言えなかった事がある」
 光はそう告げ、目を閉じる。
 蒼白い閃光が閉ざされた視界を一瞬だけ過ぎり、感覚が入れ替わった。身体が重くなるような錯覚と、全身の感覚が鈍くなったような、錯覚。
 解放していた力を閉じ、光は目を開け、美咲を見る。
「俺は、普通の人間じゃない」
 表情が曇るのが、光自身にも判った。
 能力者には、全人類が覚醒する可能性があると光は聞いている。具現力の因子は誰もが持っているが、覚醒するかどうかは別の要素なのだろう。
 そのため、普通の人間じゃない、というのは、それは美咲のような非能力者の立場から見た光だ。
「あいつらは、力を持った者達の組織だ。そこに入らなかった俺を敵視している」
 美咲は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 目の前で、恋人が常軌を逸した力を使って人殺しをすればショックは大きいはずだ。
「俺は、組織から攻撃して来た時は戦うつもりでいる」
 こちらからは攻撃を仕掛ける事はしないと、光は言っているのだ。
 中立なのだから。
 それでもVANは攻撃を仕掛けて来るが、こちらかの攻撃はしないと光は決めていた。今のこの生活を続けたいから。
 VANと戦うためには、今の生活を続ける事は、恐らく不可能だから。いや、それだけでなくとも、光は戦闘をしたくはなかった。
「あいつらは、殺さなければ、戦闘不能にはならない」
 ただ、敵を追い返すだけでは終わりは来ないのだ。向かって来る者を逃がしても、何の得もない。ただ情報だけを与えてしまうだけだ。それを防ぐためにも、殺さなければならない。
「今までも、俺は守るために、あいつらを殺して来た」
 光は敢えて生々しい表現を選んだ。美咲に身を引いてもらうためなのか、光自身にも解らなかった。
 しかし、光と関わり合いを持たなければ、VANに狙われなかっただろう。
「……どうして、組織に入らなかったの……?」
 やっと、美咲は言葉を紡いだ。
 責めているような口調ではなかった。きっと、まだ感情の整理がついていないのだろう。状況を把握し、理解出来てから、美咲がどう判断を下すのか、光には判らない。
「確かに、組織に入っていれば、周りは平穏だったと思う」
 VANに入っていたならば、周りは何も変わらない生活を続けただろう。光も、周囲の事を考える必要はなかったはずだ。
 だが、それは光にとっての平穏には繋がらない。組織の構成員としての生活を余儀なくされる上に、この地を離れなければならなくなるのだ。
「俺だって、生きたいんだ」
 一ヶ月前、修は光に言った。自分の幸せも考えろ、と。
 光と関わりを持つ人間、家族や修が幸せであるためには、逆にそれらと関わりを持つ光自身も幸せでなければならない。修はそう言ったのだ。そして、光もそう思う。
「俺だって、自分のために生きたい」
 光は今まで通りの生活を続けて行きたいと思う。つまらない、取るに足らない人生だったとしても、それが望んだ生き方なのだから、後悔はしない。
 戦う者は、それぞれの理由と意志を持って戦っている。そうでなければならないと光は思う。
 光が戦うのは、自分とその周囲を守るために戦わねばならない時だけだ。自ら戦う理由も意志も、光は持たない。
 自分自身を確認出来る場所で、生きていたいと光は思う。恐らくは、それを望んだ結果が今に繋がり、これからも繋がって行くのだ。
 ようやく、美咲は立ち上がった。
「多分、これからも組織は俺を狙ってくる。そうなれば、俺は戦う」
 それに対しての迷いはない。迷いがあれば戦う事は出来ないし、そうなれば周りを守る事は出来ないのだから。
 問題は、美咲がこれからどうするか、だ。光をどう判断するか、でもある。
「――それでも好いて貰えるのかな……?」
 それは光にとって酷く悲しい問い掛けだった。自然と、哀しげな笑みが浮かぶ。
「……少し、考えさせて……」
 そう言った美咲を残し、光はその場を去った。
 光は美咲を振り返らなかった。この場で力を使った光には、自らの生き方を守るために戦う事への迷いなどないのだから。
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