第一章 「変化、動き出す時」


 日が昇って間もない明け方。
 朝日の射す擦りガラスの引き戸の玄関の前に、一組の男女が立っていた。
「じゃあ、行って来る」
 家の中へ振り返り、男性は言った。
「楽しんで来なよ、兄さん。結婚してから初めての旅行なんだから」
 返答を返したのは見送りに出たのであろう、彼の弟だった。
「二人を頼みます」
 玄関に立つ女性が軽く頭を下げる。
「解りました」
 小さく微笑を浮かべ、見送りの男は答えた。
 玄関に立つ男女は互いに頷き、玄関の引き戸に手をかけた。
「――…お父さんお母さん、どっか行くの?」
 不意に聞こえた幼い声に、その場にいた三人が振り返る。
 一人の子供がそこには立っていた。寝間着姿で、まだ眠たそうに目を擦ってはいるが、その視線は男女へと向けられている。その二人が子供の両親だった。
「ちょっとだけ、旅行に行って来るんだ」
「お父さんとお母さんもたまには遊びに行きたいのよ」
 玄関の前まで歩み出た子供に、二人は笑みを浮かべて答えた。
「お父さん達がいない間は叔父さんが面倒を見てくれるからな」
 男は屈み、子供に目線に合わせて言う。
「……いつ帰って来るの?」
「そうだなぁ、一週間しないうちには帰って来るよ」
 少し不安そうに尋ねる子供の頭を、男は撫でながら答えた。
「小学校も今は休みだから、良い子にしてお留守番してるのよ?」
 女性は優しげな笑みを子供に向け、言う。
 夏休みの始まったばかりの時期なのだ。家をしばらく空けても大丈夫だと考えているのだ。それに、二人の代わりに家の留守を預かるのは男の弟だ。子供も顔見知りであり、他の親戚達よりも懐いていた。
「…ん」
 小さく頷く子供に、二人は笑みを深くする。
「じゃあ、行きましょう」
「晃にもよろしく言っといてくれ。……孝二、光、行って来るよ」
 二人が外へと出て行く。
 孝二と呼ばれた、男の弟は微笑を浮かべたまま二人を送り出し、子供、光はそれをただ見つめていた。

 薄明るい部屋の中、火蒼 光は目を覚ました。
「……夢か」
 時計に視線を向け、いつも目が覚める時間である事を確認すると、光はベッドから抜け出た。
(……また懐かしいもの見たな…)
 私服に着替えながら光は先程まで見ていた夢を思い出す。
 それは光が八歳の頃の記憶だ。
 光の両親、光一と涼子を最後に見た時の記憶である。
 あの五日後、航空旅客機の墜落事故が起きた。その旅客機に、光の両親は乗っていたのだ。事故の生存者はおらず、全員の死亡が確認されている。
 着替えを終えた光は閉ざされていたカーテンを開けた。
 夏の盛りへと向かう、七月下旬。寝起きの目に朝日は眩しかった。
 丁度、光の両親が事故で死んだのも今の時期だった。
(……そのせいだな)
 昨年も、一度同じ事があったのを光は憶えている。
 いや、毎年一度は同じ夢を見ていた。まるで、忘れてはならない事だと何度も自分に言い聞かせるように。
 それを忘れようとした事がない訳ではない。だが、時間が経ち、成長して来るにつれて、光はそれを忘れようとする事を止めた。
 バッグを掴み、光は部屋を出る。一階に下りた光は、顔を洗って食卓についた。
 光の通う波北高校よりも遠い位置にある別の高校に通っている兄、晃は先に朝食を取っていた。今の光の保護者である叔父の孝二も、朝食を取っている。
 昨夜のうちに孝二の幼馴染でもあり、光達の面倒を見てくれる澤井 香織が光と晃の弁当を用意してくれていた。近くのアパートに住んでおり、時間が空くと手伝いに来てくれるのだ。孝二と香織の仲は悪い訳ではないが、何故か結婚するまでには至っていない。双方共に独身だが、手伝いに来る頻度も高いのため事実婚に近い。
「御馳走様」
 光と晃が同時に言った。
「相変わらず早いな、お前」
「兄貴が遅いんだよ」
 晃の言葉に答えながら、空になった食器をまとめて流し台の中に入れ、光は時計を見る。
 確かに、光の食事スピードは速いかもしれない。特に朝は急いで食べているという感覚が多少なりとも混じっている。それでも、晃の言葉に反論するのは、晃が急いで食事を取るという事がほとんどないからだ。
 時間に余裕がなくても、ギリギリまでマイペースに行動する。結果として間に合えば良いというのが晃だ。変なところで几帳面なのに、普段はマイペースなのである。
 時間に余裕を持って行動しようとする光とは対照的だった。
 近くに置いておいたバッグを掴み、玄関で靴を履く。同じように晃も光と並んで靴を履いていた。
「行ってきます」
「じゃ、行ってきます」
 晃に続いて光は言い、玄関を出た。
 自転車を用意している兄を余所に光は道路に出て歩き出した。その直ぐ後には、晃の自転車が光を追い抜いて遠ざかって行く。
 河原の脇を通る人気のないサイクリングロードを歩き、その先の橋を渡る。それから少し歩き、光は波北高校の校門を潜った。
 光の自宅から徒歩で約十分の距離にある公立波北高等学校は、進学校と呼ばれる部類に入る私服校だ。一時限六十五分で、午前三時限、午後二時限の日程の組まれている。高校としては、上の下か、中の上と言った辺りだ。
 欠伸をしながら職員玄関の前を通り過ぎようとした時、光の目に見慣れないものが映った。
 少女が、いた。明らかの周囲を歩く生徒とは違う雰囲気を持った少女が。
 それが何なのかは一目で判る。その少女が日本人ではなかったからだ。蜂蜜色とでも言うのだろうか、綺麗な金髪は背の半ば辺りで切り揃えられ、整った顔立ちを飾る瞳は、青い。袖のない白地のシャツから覗く肌は透き通るように白く、肉付きの良い身体は年齢よりも大人びた印象を受ける。
(……転校生……いや、留学生か?)
 他の生徒がその少女に釘付けとなって動けないでいるのに対して、光は普通に歩いていた。
 光にとっては、外国人というのは珍しいものではなくなっていたためだ。しかし、そんな事を知らない周囲から見れば、光は浮いて見えた事だろう。それでも、光は構わずに生徒昇降口へと直進するコースを歩いていた。
 少女が歩く職員玄関までのコースと、今、光が歩いているコースがぶつかる事はない。交差しているのであれば、光は周囲と同じように足を止め、少女が通過するのを待っていただろう。
 不意に、少女が光に視線を向けた。やはり、他の誰もが立ち止まっている中で光は目立っていたらしい。
 なんとはなしに視線を向けていた光は、その視線から逃れるような事はせずに普通に見返してから、自然な動きで視線を外し、生徒昇降口のたった三段しかない階段を登った。
 靴を上履きに履き替え、光は自分のクラスである、四棟にある一年三組の教室に入った。中にいる人数はまだ少ない。
(……早過ぎたかな……)
 席に着き、ぼんやりと外を眺める。
 クラスで友達と呼べる者は一人しかいない。その親友はまだ学校には辿り着いていないようで、光は暇を持て余していた。
 あの少女の事は、光の意識の中にはほとんどなかった。外国からの留学生なら目立つだろうが、光と直接関わる事があるとは思えない。考えて何か言うだけ無駄だろうと思っていた。
「……転校生が来るんだって……!」
 教室に入って来た他の生徒の言葉が耳に入る。
 早速ネタになっているらしい。
「凄い美人だったよね」
「外国、どこから来たんだろ?」
「どの教室に来るんだろうな?」
「日本語は話せるのかな?」
「俺、英語苦手なんだよなぁ」
 言葉が飛び交う。
 光にとって意味のない言葉を、聞き流しながら、光は新たに入って来た生徒に視線を向けた。
 話に盛り上がっている者達が誰も気付かないような静かさでドアを開け、一人の女生徒が入って来ていた。腰まで届く艶やかな黒髪に、整った顔立ちと、引き締まった身体。不釣合いにも見える、鋭過ぎる双眸を持つ、他者を寄せ付けない雰囲気を持つ少女。紅 霞だ。
 光と同じく、『力』を扱える者。
 その霞に遅れて、また一人教室に入って来た。その姿を確認して、光は頬杖を解いた。
 矢崎 修。光の唯一無二の親友であり、また光や霞と同じように『力』を扱える人間の一人だ。
 資産家の長男として生まれたが、それが生む期待は幼少期の修に反感を植え付けた。そして、親の影響力等によって浮いた存在になってしまった修は、いつしか孤立していた。当時、病弱で喘息を患い、孤立していた光と修はいつしか親友となっていた。それからも修は優秀である事を捨て続け、家族と別れて中学卒業と同時にマンションで一人暮らしを始め、今では生活費を貰うだけの交流しかない。
 光の目の前の席、最前列が修の席だ。荷物を置いて椅子に腰を下ろし、光へと身体を向ける。
「……何か、転校生が来るらしいな?」
 内容の割にはあまり興味の無さそうな口調で修が口を開いた。
「外国人だったから、留学生じゃないか?」
「ふぅん」
 光の答えに、修はどうでも良いという風に相槌を打った。
 事実の確認といった程度の意味合いしかない内容だったのだ。
 やがて、一時限目の始まりを告げる鐘が鳴り、教師が入って来る。一時限目が古典だった事を確認し、光は右手でノートにペン先をあて、左手で頬杖をついて俯いた、眠っている事が気付かれない器用な姿勢で仮眠を取っていた。
 授業終了のチャイムに目を覚まし、日直の号令に合わせて起立と礼を済ませると、光はさっさと先程までの教科に使っていた道具を片付けた。
 次はショートホームルームだ。
 欠伸をし、光は目の前に座る修を見た。最前列にいるにも関わらず、教師に悟られずに本を読むというスキルを修は持っている。机の影に隠して読んでいたのだろう本に栞を挟み、修が光に向き直る。
「そういや、そろそろ夏休みだよな」
 修の言葉に、光は教室に画鋲で止められているカレンダーに視線を向けた。
 後三日も登校すれば終業式となり、長期休業が始まる事になっている。
「他の地域はもう夏休み入ってんだよな……」
 眉を顰め、光は溜め息をつく。
「しかも夏休みは八月の下旬には終わると来てる」
 修の言葉に、光は厭な表情を浮かべて頷いた。
 光達のいる長野県は長期休業が短い事で有名だ。教育に重点を置いていると言われているが、最近では学力は全国に比べて低下傾向にあるとか。現役学生の光達にしてみれば不満だらけである。
 最も、不満なのはその制度だけであって、土地自体は嫌いではない。元喘息の光にしてみれば、空気は綺麗だし、景色も悪くなく、それ程都市化している訳でもない。環境としては悪くなかったが、目先にある事は愚痴になる。
「宿題も面倒だし……やれよ、ちゃんと」
 言い、光は修に目を向けた。
 出されている宿題の中には、提出しなくても良い、というものがある。光もそれは基本的にはやっていないが、提出しろと指定されているものだけはしっかりやっているのだ。
「ふ、言うだけ無駄さ」
「進学出来る程度にはしろよ……」
 溜め息をつく。
 修には勉強をしない癖がついてしまっているのだ。一応進学校の部類に入る高校に修と入学するために、光は随分苦労した。
「じゃあ見せてくれ、プリント」
 修の言葉に、光は丁度机の上に出しておいた教科書の背表紙で修の頭を軽く小突いた。
 提出すべき宿題は英語のプリントが十枚と数学のプリントが八枚だ。それ以外に提出しなければならない宿題はない。
「あいた」
「少しは自分でやれよ」
「もう無理」
 返答に光はこめかみを押さえた。
 因みに、既に光は夏休み中の宿題を終わらせている。その宿題が提示されてから、学校にいる間、授業中や休み時間に暇を見つけてはそれをこなしていたのだ。結果、提出すべき宿題は全て終わっていた。
「大丈夫、適度に間違えておくから」
「そういう問題じゃねぇよ……」
 まぁいいけどさ、言いながら光はプリントを修に手渡す。
 基本的に、光は修の意思を理解している。成績を上げる事は修の望む事ではないのだ。ただ、修が留年するというのは厭なので、光は協力していた。
「感謝しますよお代官様っ」
 手早くプリントをバッグの中に入れる修に、光は苦笑した。
 修は自分の生活にはルーズだが、他者がそこに入る部分に関してはしっかりしている。マンションの修の部屋は結構散らかっているが、光が貸した物が汚れたりする事はなく、丁重に扱われているのだ。無論、期限も守る。
「週末には返せよ?」
「オーケー」
 修の返答を聞き、光は視線を時計に向けた。
 丁度、ホームルームの始まるチャイムが鳴った。
 そうして、担任教師の岡山 雅夫が入って来る。途端、教室内がざわめいた。入って来たのは、岡山だけではなかった。あの、話題となっていた少女が岡山の後に続いて入って来たのだ。
「見ての通り、うちのクラスに転入生が入る。自己紹介、出来るね?」
 岡山が教壇に立ち、口を開いた。
「はい」
 少女が頷く。日本語で答えた事に、一度室内がざわめき、直ぐに収まった。
「シェルリア・ローエンベルガと言います。気軽に、シェリーと呼んで下さいね」
 にこりと微笑み、自己紹介を始める少女に、クラス内の男子が感嘆の息を漏らす。
「日本には父の仕事の関係で、数年前から住んでいましたが、この度、引越しをしまして、この高校に通う事になりました。皆さん、宜しくお願いします」
 言い、頭を下げるシェルリア。
「何か彼女に質問は?」
 岡山のが言い、クラス内を見回す。
「趣味は?」
 手を挙げ、誰かが言った。女子の声だった。
「そうですね……身体を動かす事も好きですし、読書も好きですよ」
 答えたシェルリアには緊張した様子はない。
 あくまで自然に、接しているように見えた。そして、それは多数の者には優雅に見えるはずだ。
「席は……とりあえずそこの空いている場所を使ってくれ。休み明けには席替えをするから」
「解りました」
 会釈し、シェルリアが空いている席、黒板を正面に右最前列の位置に座った。
(……あの席は…)
 その席は、二ヶ月ほど前に空いた席だ。
 クラスメイトが一人、行方不明となった事件があり、それ以来その席は空いている。数週間前に、警察がその生徒の死亡を確認したと連絡があり、その荷物は片付けられていた。葬式も行われたようだが、光は出席していない。
 その生徒は、光にとって敵だったからだ。光は、その生徒と戦い、勝った。
 周囲の生徒が一瞬、小さくざわめくが、シェルリアはそれを首を傾げて見ていた。
 シェルリアの視線が光に向けられたのを、光は見た。見返した視線の先にいるシェルリアは、光に対して微笑を返し、自然な動きで視線を逸らす。
「連絡は特にない。転入生には色々教えてやってくれ、以上だ」
 岡山はそう言ってホームルームを終わらせ、早々に引き上げて行った。
 話を無駄に伸ばさずに、要点だけ素早く述べる岡山は生徒に人気がある。教師の中でも年齢が生徒に近いという事もあるのだろう。
 ホームルームが終わった途端、一斉にクラスメイト達が席を立った。シェルリアを取り囲むかのように集まり、会話が始まっている。
「どこから来たの?」
「日本語はいつ習ったの?」
「この土地はどう思う?」
「家族構成は?」
 質問攻めに遭いながらも、シェルリアはそれぞれに笑みを浮かべて答えて行く。
(……さっき聞いときゃいいのに……)
 質問の内容を聞きつつ、光は視線を修に向けた。
 実際のところ、皆が着席している状態で質問をするのは気恥ずかしいと思ったのだろう。だから、休憩時間に集まっているのだ。
 その集団に加わっていないのは、光と修、霞の三人だけだった。集団にとっては眼中にはないだろうが、その中心にいる者からしてみればかなり目立っているかもしれない。もっとも、質問攻めにあっているのなら、集団の外側にまで目が行かないかもしれないが。
「次、何だっけ?」
 修に問う。
「確か、数学」
 返答を聞きつつ、バッグの中からその教材を取り出して机の上に置いた。その途中、バッグの中にある時間割のプリントにも、確かに数学と書かれている。
 やがて質問が途切れたのだろうシェルリアが口を開いた。
「あの、彼等は……?」
 光達の事だと、直ぐに解った。
「副ルーム長で風紀委員をやってる火蒼光と、その親友の矢崎修。それから、紅霞」
「付き合いの悪い人達だよ」
 周りの人達が言う。
「あら、アイデンティティを確立しているという事でしょう?」
 笑顔でシェルリアが言った。
 その単語に、周囲の人達が首を傾げる。アンデンティティという聞き慣れない単語のせいだろうと光は判断した。
「そろそろ授業始まるよな……」
 黒板の上にある時計を見上げ、光が呟いた時、チャイムが鳴った。
 教室に入って来た教師が生徒を席に着かせ、授業を始めた。
 黒板に書かれた文字を、重要だと思う部分だけをノートに写しながら光は教師の説明を聞いていた。数学は嫌いな教科ではない。古文や社会、英語よりも、数学や化学を光は好んでいる。そして、それは成績にも反映されていた。
「よし、じゃあこの問題をやってみろ」
 教師がシェルリアを指名した。転入生の学力を見ようというのだろう。
 黒板に書かれている問題の難度は高く、恐らくはまだ習っていないタイプの問題だ。今現在教えた部分を最大限に発揮して、何とか解けるという問題だろう。公式があるのだろうが、一度問題をやった後で教えるというのがその教師のスタンスだった。
「はい」
 澄んだ声で一言答え、席を立って黒板の前に立つ。
 一度も止まる事なくチョークが黒板に白い文字を描いて行く。数式が書かれ、最後に公式の形をとって問題の答えが導かれた。
「ほぅ……完璧だな。では、これを例に解説して行く」
 教師が言い、教室内が一瞬ざわめいた。それを視線で制し、教師が口を開き、解説して行く。
 頬杖をついて、光はそれを何気なく眺めつつ、溜め息をつくと眠り始めた。確かに数学は嫌いな教科ではないが、別段好きというものでもない。
 そうして、気がついた時には、授業終了直前になっていた。
 指名されなかった事に安堵しつつ、光は授業が終わるのを待った。黒板に書かれた内容をざっと見て、メモの必要がない事を確認してからノートを閉じる。
「よし、今日の授業はここまで」
 チャイムが鳴ると同時に言い、教師が道具をまとめて教室を出て行く。
 それを確認して、光は次のノートやら教科書やらをバッグにしまった。そのついでに、授業を確認する。
「げ、体育」
 露骨に厭な顔をし、光は呟いた。
「じゃあ着替えないとな」
 修が言い、席を立つ。
 光もロッカーから学校指定の運動着を取り出して着替えると、校庭へと向かった。
 幼少期、喘息にかかっていたために光は運動が余り出来なかった。成長過程で運動能力の基礎を作る時期に運動が出来なかったせいで、運動能力の低い光は、小学校時代の体育はほとんど出来なかった。そのせいで同年代の子供から光は孤立したのだ。光がスポーツをするのも見るのも嫌いなのは、そこから来ているのだろう。
 一学期中はサッカーをやる事になっているが、光はそれに積極的に参加する気はない。適当にボールを避けるように動き、授業終了を待つのはいつのもの事だ。
 因みに、サッカーをするのは男子だけで、女子はグラウンドの近くに建っている第一体育館の中でハンドボールをやっている。その様子は、夏のために開け放たれた体育館の扉から見る事が出来る。
 暇を持て余していた光がふと体育館に視線を向けた時、丁度シェルリアにパスが回されていた。ボールを受け取ったシェルリアが、三歩歩き、ドリブルを行うと同時に相手チームの人間三人の間を擦り抜け、綺麗なフォームでボールをシュートする。ゴールの端を狙ったシュートを防げず、点が決まっていた。
 その運動能力はクラス内でもトップクラスと言えるであろうものだった。
 と、視線をグラウンドに戻した光は、ボールが向かって来ているのに気付いた。数人の男子がボールを奪い合うようにして、近付いて来ている。
(……まずった)
 内心で呻く。
 注意が逸れていた。ボールを避けるために動いたら、逆にパスが来てしまうだろう位置だ。その場にいても、奪い合いの中に飲み込まれてしまう。
 光はどうするか迷った挙句、避けるためにその場を動いた。案の定パスが来る。それを適当に蹴飛ばし、光はその場から身を退いた。
 その後で溜め息を着く。
「万能人間って奴かな?」
 近くに歩み寄って来た修が口を開いた。
 光よりも運動神経の良い修は、光よりも体育には積極的と言える。だが、それは光よりも、という程度でやる気があるとは言えないレベルだ。
「転入生の事か?」
 恐らくそうだろうと思いながらも、光は言った。
「どう思う?」
「……まだ何とも言えないな」
 二人だけにしか判らない内容の言葉を交わす。
 視線を体育館に向ければ、シェルリアへのパスを途中でカットした霞がシュートを決めていた。
「……何か情報が?」
「いや、こっちからの情報はないけど」
 光の問いに、修が答える。
 修には、能力者達に関する独自の情報網がある。光達が敵と見做す者達に裏で対抗している者達と、繋がりがあるのだ。
「まぁ、本当に偶然という事もあるしな」
 修の言葉に、頷く。
 下手に先入観を持ってしまうのは危険だ。
「何事もないのが一番だけど、そうはいかないだろうしな……」
 小さく溜め息をつき、光が言う。今度は修が頷いた。
「一ヶ月前の事であいつ等も痛手を負っただろうし、新たに動くとしたら、大体今頃だ」
「十分注意しないとな」
 修の言葉に、光は言う。
 光も修も、自分の身を守れるだけの力は持っている。問題は、周囲への影響だ。表面上は変わりがなくとも、裏で何か動いた時は何かしら周囲に影響が出て来る。それに注意しなければならない。
「それにしても腹減ったな」
「また朝飯抜きか?」
 修の呟きに、光は苦笑を浮かべた。

 五時限目の授業が終わり、光は荷物をバッグに入れ、修に視線を送った。
「うし、行くか」
 修に頷き、光は席を立った。
 掃除はサボリだ。隙を見ては、というよりも、そういう事に関して高校がルーズなのを良い事に、光達は平然と掃除をサボって下校している。教室掃除や、職員の見回るような掃除場所の当番になっている時はそうもいかないが。
 玄関で靴を履き終えた時、シェルリアが出て来るのが見えた。
「……どうしたんだ?」
「私、掃除場所決まってないから抜けて来ちゃったの」
 修の問いに、シェルリアは小さく肩を竦めてそう答えた。
 そういえば担任の岡山を始めクラス全員がその事を忘れていた。ただ、シェルリアがいなくなったのは少なからず目立つだろう。明日、決める事になるに違いない。
「それに、あなた達とも話してみたかったから」
 小さく微笑して、シェルリアが言う。
「ほぅ、そりゃまた何で?」
「あなた達の事が気になったから」
 修の切り返しに、シェルリアが首を傾げるようにして答えた。
 やはり、転入生のシェルリアに対してあまり関心を示さない光達の方が目立ったようだ。何せ別のクラスからシェルリアを見に来る生徒がいるくらいな中で、関心を示さずに動いているというのは、確かに浮いて見える事だろう。
「家はどっちにあるんだ?」
「えっと、大体この方角かしら」
 光の問いに、シェルリアが指で方角を示した。
 その方角だと、途中まで光達と道が被る。光や修の家がそれ程遠い距離ではないため、途中まで道が同じとはいっても、会話はそう長い間していられない距離だ。
「ねぇ、この学校はどんなところなの?」
 歩き始めて直ぐに、シェルリアが口を開いた。
「……何で俺達にそんな事訊くんだ?」
 光は問い返した。
 クラス内でも浮いている人間に訊くような内容ではない。それに、そういった質問はもっと外向的な性格の人間に訊いた方が良い答えが返されるはずだと、光は思う。
「あなた達なら客観的に見れると思ったのよ」
 光は肩を竦めて修に視線を向けた。
「ひとつ、気になったんだが、どうしてここに来たんだ?」
 修がシェルリアに向けて尋ねた。
 警戒しているという雰囲気を消して尋ねているのが、光には判る。
「え?」
「上条高校とか、他にもいいとこあるじゃないか」
 首を傾げるシェルリアに修が言葉を投げた。
 確かに、彼女ならばこの近辺では名門私立校である上条高校にも行ける知力を持っているだろう。
「うん……。でも、家計がちょっと厳しいから、制服のないここに来たの」
 波北高校は、制服のない私服校であるため、周囲にある他の高校と比べると制服の分金が掛からない。名門というだけあって、上条高校の制服は標準より高い。
 光も修も、その返答に頷いた。
「……ねぇ、話は変わるけど――」
 不意に、シェルリアは言い、手を後ろで組んで空を見上げた。
「――神様って、いると思う?」
「神様……?」
「私ね、時々思うの。この世界は誰かの夢なんじゃないか、って」
 訊き返した光に、シェルリアが言う。
「ううん、夢じゃなくても、誰か、この世界を描いた人がいるんじゃないかなって、思う時があるの」
「……」
「私達は、描かれた世界の一部かもしれない。そう思う事はない?」
 返答を返せなかった光と修に、小さく笑みを浮かべてシェルリアは続けた。
 解らなくもない、それが光の感想だった。そこにあるのは、一つの哲学だ。運命というものを信じるかどうか、とも言い換えられるかもしれない。
 描かれた世界、それはつまり、そこに生きる全てのものの一生が決められていて、その通りに全てが動いているという考えだろう。今、そう解釈をしている光の思考も、決められた行動なのだという、そんな考え。
 だが――
「――俺は、そうは思わないな」
 光は言った。
 全てが定められたように動いている世界という考えは、光には出来ない。
 ――全てが思い通りに行く事はなんてない。だから、少しでも近付けようとするんだ。
 光の父、光一が生きていた頃に言っていた、印象深かった言葉。理想通りに物事が進む事は有り得ない。誰でも、望む最高の結果というものは現実に可能である範囲を超えているものだ。それでも、人はその理想に近付けようとする。意識せず、理想通りに行った、というのは、それが本当の意味で『理想』ではなかったからだ。
 そこには、どれだけ近付けようとするか、という人の意思が介入して来る。
 その意思さえも、定められているのだと言う事も可能だ。不測の事態も、努力による成功も、全てその結果が決まっているのだと言えばそれまでだ。
 だが、全てが決まっているという考えよりも、光は先を切り開くという考えなのだ。
「まぁ、だからって何も変わる訳じゃないしな」
 修が言う。
 長年の付き合いから、光にも大方の思考は想像出来る。
 運命が定められていたとしても、その上で生きている者達にとってはどうする事も出来ない。その考えの中では、その運命に抗おうとすると考える事自体も定められている事になるのだ。勿論、そう考えて無理に抗おうとするのを止める、というのも定められている事になる。
 どの道、それが真実だとしても光達に出来る事は何もない。そのまま生きて行くしかないのだ。
「私は、運命って信じたいな」
 微笑を浮かべたまま、シェルリアは言った。
「考えは否定しないよ。人それぞれなんだから」
 光の言葉に、シェルリアは小さく頷いた。
「ふふ、ありがとう」
 笑みを向けるシェルリアに、光は反応に困った。
 普通なら見蕩れてしまうであろう笑顔に、光はそうはならなかった。無意識のうちに警戒しているのだろうか。
「……あ、私はここまでね」
 不意にシェルリアが言い、光達は足を止めた。
「私の家はこっちだから」
 言い、シェルリアは分かれ道へと踏み出した。
 そのまま少し進んで、光達へと振り返る。
「じゃあ、またね」
 小さく手を振って歩いて行くシェルリアを見送って、光達も歩き出した。
 橋を渡り、サイクリングロードまで雑談しながら歩く。
「……さて、どう思う?」
 会話が途切れて数秒後、修が光へと問うた。
 周囲に気を配り、周りに気配がないのを探ってから、光は口を開いた。
「判断するには材料が足りない、かな。修は?」
「同意見」
 修の返答に、光は頷く。
「出来過ぎていると言えば、出来過ぎている。可能性は低くない」
「俺もそう思う。ただ、もし関係ないとしたら……」
 修の推論に、光は同意し、視線を向ける。
「それに、一つ別の可能性もある」
「別の?」
 口を挟んだ修に、光は訊き返した。
「抵抗勢力からの接触ってのも有りだと思わないか?」
「なるほど……それは考えてなかったな」
 その言葉に、光は納得した。 
 光達が敵とする組織に抵抗している者もいる。そちら側からの接触というのも可能性としては考えられない話ではない。修の独自の情報網とは別の勢力がないとは言い切れないのだから。
 そういった勢力が、光や修の事を聞き付けて接触して来たというのも、有り得ない話ではないだろう。監視、という事でもあるかもしれない。
「ただ、抵抗勢力だったとしても、俺はそれに入る気はないけどね」
 光の言葉に、修が頷いた。
 戦う事を望まない光は、光が敵と見做す組織とも、それに抵抗する勢力とも手を組むつもりはない。今まで通りの生活が出来れば、それでいいのだ。どちらの組織に入っても、それが出来ないであろう事は察している。だからこそ、光はどちらにも着かずにいるのだ。
 もし、光のその生活を崩す者が現れたなら、それがどちらの勢力でも、光は全力で叩き潰すだろう。それが、光が選んだ道だ。
「結局様子見か……」
「警戒するに越した事はないけど、警戒しっ放しってのも疲れるよ」
 溜め息をついて言う修に、光は苦笑した。
「解ってるって。適度にな、適度に」
 苦笑して返す修に光は頷いた。

 家に辿り着いた光は、晃の自転車がない事を確認して、玄関に鍵を差し込んだ。まだ誰も帰宅していないのだ。合鍵を持っている香織も来ていないようだ。
「ただいま」
 小さく言い、光は家の中へと入った。
 誰もいないと判っていても、習慣化した言葉は自然に口から出ている。
 手洗いやうがいを一通り済ませ、光は二階へと上がった。自分の部屋でバッグを下ろし、隣にあるパソコンの設置されている部屋に入る。
 パソコンを立ち上げ、その前の椅子に腰を下ろすと、光は一度背伸びをしてからパソコンに向き合った。
(……駄目で元々だけどな)
 インターネットに接続し、検索サイトを開く。
 そこに打ち込んだ文字は――『VAN』
「がー、駄目だ」
 検索結果で出た総数は一億を超えていた。
 その三つの文字を含むような言葉、名詞等はいくつもあるだろう。しかも、中々使われる文字でもあるのだ。無論、一つ一つ探して行く気はない。
 VAN。それは、光や修が敵と見做している、力を持つ者達の組織だ。具現力という、精神力を力場に変換し、それを媒介に様々な力を操る事の出来る能力者達の集まり。
 公にはされておらず、その存在がある事を知っているのは極僅かな人間達だけだ。
 光は、秘められた力の強大さ故に、VANに危険視されている。組織からの勧誘は受けたが、光はそれを突っ撥ねた。自分の生き方を貫く事を望んだ光は、組織を敵に回してでも今まで通りの生活を続ける事を選んだのだ。
 それは、過酷な道であった。失ったものもある。
 だが、光は生き方を変えようとは思わなかった。それで生き方を変えてしまえば、変えるまでに失ったものが無駄になってしまうように思えたから。
「やっぱり、情報はないんかな…」
 溜め息を一つ漏らし、光は呟いた。
 修は独自の情報源を持っているが、それだけに頼るという事はしたくなかった。何より、それでは修から光に伝わるまでに時間差が生じる事があるだろうからだ。
 VANの全貌は見えないが、かなり大きな組織である事は間違いない。その目的は、能力者達の居場所を作るというものだ。能力者は、非能力者に虐げられて来たという者が多いのだろう。そうして、居場所を失った者達が集まって、新たな居場所を作ろうというのだ。
 現時点ではその存在すら明るみに出そうとはしていないが、下準備とでも言うのであろう計画を進めているに違いない。そして、確実に目的を達成するためには、想像以上に様々な面で動かなければならないのだ。
 そんな大きな組織を相手に現在の生活を続けるためには、光と修の間に情報の時間差があった場合、下手をすれば二人共分断された状況に置かれてしまう事も考えられる。
 確かに、二人とも強大な力を保有しているが、それは何も二人だけに限られた事ではない。
 光や修に匹敵する力を持つ者は組織にもいるのだ。上位戦闘部隊の隊長クラスならば、現時点での光や修を相手に戦う事が十分に可能なはずだ。
 もし、分断された状況でそれぞれ部隊長クラスの能力者と戦う事になれば、覚醒してから二ヶ月が経ち、十分に能力に慣れた光はともかく、能力の扱いが難しい修は不利な状況に置かれる事も考えられる。
 覚醒して一ヶ月が経ち、修も十分戦闘が可能な段階に達しているが、まだ上位部隊長クラスの敵と対峙するには、『慣れ』が足りない。修の能力は、精神力の消耗が非常に大きく、それ故に強力だが、長期戦に向かないのだ。修の能力は、力場を用いる事で大きな負荷がかかる。限界を超えて長時間力場を使い続ければ修自身が深刻なダメージを受けてしまう程だ。
 一方、光の力も扱い易いという訳ではない。光の持つ力は、具現力の中では特殊な部類に入る。生じさせた力場内部の空間に影響を生じさせる通常の具現力と違い、光の持つ力は、力場の周囲に付帯させるように影響を生じさせるものなのだ。力場内部に力を生じさせるものに比べ、力場に付帯させるように力を生じさせる具現力は、閃光型というタイプに分類される。この閃光型は、力場の周囲に力を生じさせるために、力場で力を制御する必要がない。故に、通常ならば力場で抑え切れない程のエネルギーが生じても、閃光型は力を行使出来る。その、力の暴走と呼べる現象を、閃光型ではオーバー・ロードと呼ぶ。通常ならば力場、その使用者の精神力で抑え付けられない力を生じさせた場合、力場が内側から崩壊し、使用者の意思を無視して力を撒き散らすという暴走が起きるのだが、オーバー・ロードの場合には、力場で抑え付けていないために、暴走は起きない。しかし、その代わりに精神力を多大に消費し、攻撃力を上乗せし続けて行く事になる。精神力の源である生命力すらも削る程に。
 今までの戦いで、既に光はその寿命を二十年も削られているのだ。
 更に、光はまだ自分でも使いこなせない力を秘めている。その力こそが、光が組織に危険視されている原因とも言える。全ての具現力を無力化させる事の可能な、唯一の能力。
「……ん?」
 一階で電話が鳴っているのが聞こえた。
 光は部屋を出て階段を下り、受話器を取った。
「はい、火蒼ですが?」
「……ヒカルか? ダスクだ。憶えているだろう?」
「――!」
 返答に光は一瞬言葉を返せなかった。
 ダスク・グラヴェイト。VAN第一特殊機動部隊長を務める青年だ。
 VANの実働部隊には、主に三つの種類がある。裏工作や諜報、暗殺を主な任務とする特務部隊。防衛線一般を主な任務とする機動部隊。敵を駆逐するための突撃部隊。上位部隊とは、第五位以上の部隊を指す言葉だが、まだその上がある。『特殊』という文字を部隊の上に冠せられた、高位部隊。その部隊長ともなれば組織内での発言力も大きい。
 その中の一人、ダスクはVANの中でも大きな発言力を持ち、戦闘能力もトップレベルの能力者だ。
「……すまないな、色々と」
 ダスクの声が耳に届く。
 彼は、敵と見做されているはずの光の考えを理解してくれている。その大きな発言力を活かして、光に攻撃が差し向けられぬように動いていくれているのだ。
 だが、そんな中で差し向けられた数少ない攻撃部隊を全て退けた光に対するVANの評価は少しずつ厳しさを増している。ダスクを批判する者も少なくないだろうに。
「……」
 謝って欲しくない、その言葉が出なかった。
 迷惑を掛けているのは、謝らなければならないのは、光の方だというのに。
 ダスクはある意味、組織に反逆しているとも言えるのだ。組織から派遣された能力者を倒している光を擁護しているのだから。
 それでも、組織への不満をぶつけそうになるのを、光は堪えていた。たとえ組織内で高い地位にいるダスクとは言え、組織そのものを動かす権限は持っていない。不満をぶつけたところで、ダスクが責任感を募らせるだけだ。
 組織が光の排除をしようとする理由は判る。しかし、それを認めてしまう訳にはいかない。認めてしまえば、光の周囲に攻撃する事を容認する事にもなってしまうのだ。例えそれと戦う事を決めていても、攻撃してくるのは仕方ない、と考える事になるのだから。
「……俺でも抑え切れなくなって来た、これ以降は、もう……」
 ダスクの声は、辛そうであった。
「……無理はしなくていい。ダスクには立場もあるだろ?」
 ようやく返せた言葉がそれだった。
「すまない」
「謝らないでくれ、迷惑を掛けてるのは俺の方なんだから……」
 ようやく言えた言葉に、光は胸が締め付けられる思いがした。
「……はっきりと言う事は出来ないが最後に一つだけ忠告しておく。胸に止めておいてくれ」
「解った」
 立場上、作戦を暴露する事は出来ないのだ。光はそれを察した。
 能力者の中には、盗聴する事の可能な者もいるのかもしれない。そうでなくとも、光が知っている限りでは、範囲内の空間の出来事を全て把握する事が出来る者もいる。
「――身近な者に注意を払え。俺から言えるのはそれだけだ」
 ダスクの言葉を、光は無言で受け止めた。
「……恐らく、VANはこれから大きく動き出す。その準備が始まりつつある。次に会う時には、俺はお前と戦わなければならなくなるかもしれない」
「……いろいろ、ありがとう」
 光は、ダスクに告げる。
 これ以降、ダスクは光を擁護する事が出来なくなるというのだ。だから、光は礼を言った。言えなくなってしまう前に。
「出来る限りの事はするつもりだがな」
「ダスク……」
「心配するな、俺を誰だと思ってる。これでも第一特殊機動部隊長だ」
 笑みを含んだ声が返って来る。
 ダスクの地位は高く、その戦闘能力もVANには捨て難いはずだ。ダスクを敵に回すような事はVANもしないだろう。何せ、光に友好的だとは言っても、ダスクもVANの一人なのだから。
「じゃあな」
「ああ」
 ダスクの言葉に、光は応じ、そうして通話が切れた。
 受話器を置いた姿勢のまま、光は少しの間動けなかった。
 VANでなくても電話帳か何かを調べれば光の家の電話番号やら住所やらは探し出す事が出来る。だが、ダスクから直接電話が掛かって来るとは思わなかっただけに、光は驚きを隠せない。
 勿論、その内容も。
(VANが動き出す?)
 その言葉が何を意味するのか、今の光には判らない。
 ただ、そのために光の身が危うくなるであろう事だけは、伝わった。
 現時点で、VANの障害となっているものがあるとすれば、世界各地にいるであろうVANに従わない能力者達だ。光や修を除いて、霞が身を置いているROVというレジスタンスグループや、日本政府内にいる能力者達がいる。それらを大規模に排除しようとするのであろう事は、察しがついた。
 あの、ダスクと戦わなければならなくなるかもしれない。そうなった時でも、光は退く気はないだろう。もし、そうなるとすれば、それは光が自分の思った通りに進んだ結果としてダスクが敵として現れるだろうから。
 その時、光はダスクに勝つ事が出来るだろうか。恩があるからと、手加減はしない。それはダスクも同じだろう。苦悩していても、組織の部隊を率いる立場にいるのだから、その感情を押し殺してでも戦いを挑んで来るはずだ。
 ダスクと戦う事への躊躇いがないとは言えない。それでも、戦わなければならない時には、光はその躊躇いを捨て去るだろう。そうしなければ、光が守りたいものは守れないのだから。
「ただいま」
 玄関から、晃の声が聞こえた。
「ん? どうした、電話か?」
 ダイニングに入って来た晃が、電話の前に立っている光を見て、問う。
「……大した事じゃないよ。塾とかの勧誘の奴さ」
 苦笑を浮かべ、光は答えた。
「用の無い電話か……」
 肩を竦めて言う晃の背中を見つめる光の表情から苦笑は消えていた。
 最近になって、家族の何気ない反応に光は孤独感を感じる事がある。
 何も知らない、家族。光が命を懸けた生死の狭間で戦っている事を知らない、家族。戦い、敵を倒し、勝利する事で光が今の生活を保っている事を知らない、家族。
 近くにいるというのに、どこか遠くに感じてしまう。
 知っている事が不幸せだとは言わない。知らない事が不幸だとも言わない。幸か不幸は、本人の感じ方だと思うから。
 晃が手洗いやうがいをしている間に光は階段を上って二階へと上がった。
 光がパソコンを使っている所へ、後から晃が入って来て、いつも通りゲームを始める。
 それから暫くして、玄関のチャイムが鳴った。
 晃の様子を一度見て、光は席を立って一階へと向かった。階段を駆け下りて、正面の玄関の引き戸を開け、立っていたのは見知らぬ女性だった。
 緩くウェーブの掛かった、肩ほどまでの長さの茶髪の女性が立っている。身体付きは良く、美人と言えるであろう、女性だった。ラフな服装をしている。スーツケーツらしいものを持っていた。
「……えっと、どなたですか?」
 服装や様子から、何かの配達や押し売りとは思えなかった。
「火蒼さんのお家ですよね?」
 軽く微笑んで、女性が尋ねる。
「はぁ、そうですが……。うちに何か?」
 今、家にいるのは光と晃の二人で、その二人に用があるとは思えない。
 だとすれば叔父の孝二に用があるのだろうと思うが、生憎まだ帰って来ていないのだ。対応に困る。
「……うちに何か用ですか?」
 女性の背後から、孝二の声が聞こえた。
 丁度帰って来たのだろう、それに気付いた女性が振り返る。
「久しぶり、孝二君」
「――え?」
 思わず声を出していたのは光だった。
 光からは女性の背中しか見えなかったが、微笑んでいるのだろうと予想出来る程の口調だった。そして、その内容に光は耳を疑った。その台詞は、孝二の知り合いでなければ出せない言葉なのだから。
「……まさか、克美?」
 孝二の呼んだ名前に、女性が頷くのが判った。
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