第三章 「身に及んだ災難」 1 その日、有希は修の部屋に泊まっていった。 丁度、金曜日の日であった。お父さんは今夜は帰ってこないと、少女は言った。それが物騒である事を分かっていたから、修は言ったのだ。 「泊まってく?」 別に、やましい気持ちはなかった。証拠にやましい事もしていない。 そして、朝。部屋の中に存在する、少女の甘い香りが鼻孔を擽り、床の上で熟睡していた修は一瞬だけ錯覚を覚えた。 (ここは……?) どこだろうか。と、そういう感覚である。部屋の荷物は、全てが見慣れた場所にある。でも、何処だか理解できなかった。一つだけ、違う存在が在るだけで、室内の空気は一変する。だから彼は自分の部屋で、場所を見失った。 「ふぅ…っんぅ」 部屋の空気が、甘く揺れる。その気配に大きく動揺して首を巡らせた。すると、目の前に存在していたベッドの上で、もぞもぞと動く気配がある。修は驚き、立ち上がった。 (ぬおっ!?) そこに居たのは可憐な少女だった。大き目のTシャツを着崩した有希が、可愛い寝顔を修に見せている。シーツの上に広がった髪が、朝日を浴びて艶やかな黒を見せていた。 (ぬおぉぉっ……!) 驚愕、である。黒の中に混じるのは、美しい白。うなじの白に纏わりついた黒髪が、その妖艶さを際立たせていたのである。男の劣情をそそるのは、美少女のあられもない姿であった。 修は一人、それを見て感動の涙を流す。何故かは知らないが、今正に猛烈に感激していた。 (人類の…、神秘だ……!) 男に生まれて良かった、と心底から思える瞬間だった。 そのまま暫く天を仰いでいた修であるが、 「おはようございます……」 という声に視線を戻した。すると、またも人類の神秘が! (オオオォォ、オリンポス火山が……!) 何だか訳が分からない。だが、それ程までに衝撃を受けたのである。脳髄が。稲妻に撃たれたかのように脳髄が! ベッドは窓際にある。今、窓はカーテンが開いているのだが、そこから零れる朝日が少女のスレンダーな肢体を輝かせているのである。 やはりぶかぶかのシャツに袖を通した彼女。ぶかぶかなだけに純白の、美しい肌が修の視覚に飛び込んでくる訳でして。肩に纏わりついた、少し寝癖のある黒髪がその美しさを際立たせていた。眠そうに瞼を擦る少女の図はまた素晴らしく、神々しいばかりの後光(朝日。と言う事は東側なんですね)が有希の神秘性を醸し出しているのである。 美しい。 美しすぎる。 何と言う神々しさだ。 修は生唾を飲み込んだ。ゴキュリ。 それ程までに、素晴らしい光景だったのである。 「どうしたんですかぁ?」 固まった少年を見て有希が聞いてくる。それがまた、一種の妖艶さを含んでいるように聞こえて、修の視界が揺れた。 慣れない光景に頭に血が上り過ぎたのである。そのまま鼻孔から血液を噴出させて、再び熟睡する少年であった。 「大丈夫ですか?」 心配そうに覗き込まれて、鼻にティッシュを詰め込んだ修はまた出てくる予感に駆られた。 「だ、大丈夫ですじょ!?」 目の前一杯に広がった有希の顔と、肌で感じ取れる女の子の空気。両方をティッシュで閉じている筈なのに、微かに香る少女の甘い匂いも凄いです。 だから、彼はこんなに慌てているのだ。 今、修はテーブルの上で美味しそうに湯気を立てている朝御飯を眺める事で幸せを感じている最中であった。 (み、味噌汁が温かい……!) この感動と言ったら、タイタニックの比ではない。 温かい味噌汁…もとい家庭的なお味噌汁と言う物を、修は口にした事が無かった。母親がそんな事をしてくれる筈も無く、味噌汁などと言う一般的な物は父親が好まない。専用シェフは真心の無い物を作るだけ。御袋の味が恋しいと良く言うが、それは彼には分からない心だった。同時、御袋の味を宣伝している食べ物が在るが、一体何処が違うのかも分からなかった。 今までは。 汁茶碗を持って、豆腐を頬張ってみると中々に熱くて。 箸で油揚げを引っ張り上げてみると美味そうで。 口の中に広がる汁は感動すらも与えてくれた。 その感動はフォレスト・ガンプに匹敵する程で。 (おおおぉぉぉぉ!) そうして、一人悦に入っていた時に覗き込まれた物だから慌てていたと言う訳だ。 「どうですか?」 テーブルの向かい側で微笑んだ少女は、何処か幸せそうに見えた。 「家庭と言う物がなんだったのかがようやく理解できた気分さ」 そうして、フッ、とニヒルに唇の端を上げてみる。自嘲のようにも見えるが、これはある種の自己陶酔精神の現われである。 が、気立ての優しい有希がそんな物を理解できる筈も無く。 「ま、不味かったですか?」 その様な顔に見えたようだ。 「いやいやいや、凄いでゲスヨ。こんなに良い雰囲気で尚且つ温かい料理は始めてです」 一転して、ニコリと笑顔を浮かべる修。彼自身、何でこんなにも心が和んでいるのかは分からなかった。結構人見知りする方(と言うか人との付き合い方を知らない人)なので、まだ三回くらいしか会っていない少女と居て、何故に安心できるのかと言うのが疑問であった。 が、そんな事は微かな疑問でしかないのである。いま正に幸せの渦中に居る人間は、余計な事など考えなくても良い。彼の都合の良い自己防衛本能はそうして結論を導き出し、本能半分で(全開にしたら大変な事になる)、こうして和んでいる訳である。 「よかったですっ」 有希は、眩しい笑顔を修に向けてくれた後に自分の分を消化し始めた。 それが酷く可愛い行為であったので、修は食べ終わって爪楊枝をしーしーしていた手を止めた。 箸で小さく米の山をつつき、頂上の数えるほどを取って口に運ぶ。ノロノロとした動作で少しずつご飯を食べ、おかずもこの容量で口に運んでいった。 (凄い……!) ある意味での感動。それは、スティーブン・セガールが戦艦ミズーリのコックをやっていた時に、的の中心に包丁を突き立てた瞬間と同じくらいの感動であった。 修はセガールが大好きなのである。 それはともかく。 「ご馳走様でした」 修は一頻り爪楊枝を弄くった後で、座布団から腰を浮かして台所へと向う。食べ終わった食器を持って、それを洗浄する為に出撃だ。 「久しぶりに生きた心地がしたよ」 ふーっ、と溜息を吐いて流しへと。満足の意味の溜息であって、彼は今、幸せと言う物を噛み締めていられる事に感謝していた。悟りを開いてくれてありがとうシッダールタ。 「いつもはどんなのを食べてるんですか?」 「ん〜? 朝は炊いたご飯に冷凍食品だね。昼はカップ麺と、夜は買ってきた弁当かな」 これは休みの日のサイクルである。平日は昼食に、購買のパンと自販機のジュース、カロリーメイト(チョコレート味)に変更される。 「だからあんなにカップヤキソバがあったんだすね。不健康じゃないですか?」 「不健康この上ないさ。でもまぁ、これで生きてこれたんだからこれからも生きられるでしょう」 「大雑把ですね。でも、何であんなにヤキソバが……」 「最近はヤキソバにはまっているのだ。一平ちゃんが美味い」 「修さんは一平ちゃん派ですか?」 「いや、俺はバゴーン派だよ。ただ、最近は辛しマヨネーズが美味くてね。それを食い漁ってるしだいさ」 「でも、他のもいっぱいありましたけど」 「十日連続で一平ちゃん食ってたら飽きたから、最近は新たなマイ・フェイバリット・ヤキソバを求めているのだ」 「うふふ。それで、マイ・フェイバリット・ヤキソバ見付かりましたか?」 「まだだねぇ。とりあえずはヤキソバを食い漁る毎日さ」 「身体、壊しちゃいますよ」 「だーいじょうぶ、二ヶ月間この生活を続けて未だに無事なんだから。食物繊維は主にキャベツで取れば良いのです」 「それだけでもいけない気がしますけど」 「良いの。キャベツは崇めるべき対象なのですから。豚カツ定食はキャベツお代わりOKじゃなきゃ食べない人なのだ」 「キャベツ好きなんですか?」 「俺が世界で最も愛する食材さ。あのシャキシャキ感が素晴らしい」 「ロールキャベツとかも好きですか?」 「うん、まぁ、ね。でもやっぱり一番は千切り。醤油をかけて一気に口に運ぶ戦法がお気に入りさ」 「何だか凝ってるんだか凝ってないんだか分からないですね」 「ふふふっ、しかし食い過ぎるのも何なんで週一くらいで食しているのだ」 「そういう所は計画的なんですね」 そういって、有希はくすくすと笑った。 すっかり打ち解けた様子で会話を進める二人。和やかな雰囲気の中、彼らはキャベツの調理法について言葉を交わしていく。 そんな中で、つけっぱなしのテレビだけは別の世界の話をしているようであった。 公園だった。ここから程近い森林公園の中で、昨日発見された男女の遺体。身体の各部分を鋭利な刃物でズタズタにされた凄惨な死に様を、つい最近から発生している連続殺人事件と関連付けている報道が、ブラウン管の中で無機質に伝えられていた。 2 夕方になって、有希は出掛けていった。 「お夕飯の買い出しですっ」 随分張り切って出掛けていったのだが、何故か修は同伴させてもらえなかった。その理由が、お腹が痛いかららしいのだが、だったら外出なんてしない方が良いのではないのかとも思ったのだ。が、赤面してとても恥ずかしそうに言うので、何かあるのだろうと送り出した。何やら女の子にとても大事な物も買ってくるらしい。良く分からないが。 とりあえず、修は麦茶とポテチを食しながら座布団に座って、夕方のワイドショーを見ていた。 この瞬間は、とりあえずの幸せを噛み締める事が出来る時間である。今は、民主党の代表選の話をしている。修は心の中で、小沢さんがんばれと思っていた。貴方なら政権交代も簡単だ、とも。 きっと、小沢総理が誕生してくれた暁には臨時国会の質疑応答で、こう言ってくれるだろう。 『だったらお前がやれよ!』 『そんな事より、パーティー抜け出さない?』 『やれん』 『俺だって見てみたいよ!』 『ただ腐っても鯛なんだよ!』 芸人と政治家をごっちゃにしている修であった。 でも、言ってくれたら素晴らしいなぁ。とか考えたり考えなかったり。光ならばきっと賛成してくれるだろう。そんな淡い期待を抱いていたそんな折り。 ピンポーン、とインターホンが鳴った。ただ、まだ脳味噌の中はネタ中だったので、それに続いて幻聴も聞こえてくる。 『娘さんを僕にくださーい!』 「早すぎるだろ!」 と、潤さんっぽく突っ込んだ所で、それが幻聴である事に気付いた。 「あ、夢か」 そう呟いて、腰を浮かす。丁度、二回目の呼び鈴が鳴った所だ。 「はいはい、家は朝刊しか取ってないよ」 ガチャリと扉を開けると、先ず匂ってきたのはワックスの強烈なそれだった。 (うぬっ!?) ヘア・ワックスだ。かちかちに固まった七三分け。艶々と嫌な感じで黒々とした髪の毛を整えているそれが、強烈な悪臭を発していた。それが彼の目の前に存在する。百六十くらいしかない身長。 風呂入ってないだろう、と疑った。そこで違和感。あれ、こいつは神経質なだけが取り柄じゃなかったか――? ドスッ、と言う衝撃だった。一瞬の思考の直後に、それを吹き飛ばす激痛。違和感だけは、脳が認識している。ただ、状態が分からない――。 視線を下に向けると、やつれた顔が見えた。頬骨の張った、神経質そうな顔。黒縁眼鏡に分厚いレンズ。予想通りに、高次 修の特徴がそこにはある。 だが―― (なっ……!) 全ての感覚が、消えた。激痛を送っていた脇腹も、脈打つ血管も、ぬるりとした感触が伝わる皮膚からの情報も。 代わりに、彼の脳は自分が今、目にしている光景の情報処理に全てをつぎ込んでいるのだ。信じられない、よりも、信じたくない、と言う思いが最優先される、現実感の無い光景。 高次の瞳が、おかしかった。 全体的にコケた印象のある頬。少し血行の悪い顔色。下手に吊り上っている唇。 それよりもおかしい箇所。黒縁の太いレンズの中で、ギラギラと光っている瞳が黒ではない――日本人の物とは明らかに異質な、深い緑。その瞳が、光を帯びて修を射抜いている。 ゾクリ、と背筋が粟立った。何度も目にしてきた光景が、再び目の前に存在している。完全に狂った顔面の中で、爛々と光を放つ緑色の瞳。それが捕らえている自分を、修は凝視した。 自分の体が跳ねた。無意識にビクリと震え、瞳が一杯に開かれる。高次の手が捻られた。広がった傷口の中、自分の体温と同じ温もりをもった液体が、更に流れ出る。シャツを汚し、ズボンに赤い染みを作っていった。 引き抜かれた異物。鮮血に濡れ光る刃が夕日を浴びて、強烈な紅を連想させた。五cm近い刃渡りをもつナイフが、修の血液に汚れている。ヌラヌラと光沢を放つ液体が、強烈に網膜に焼き付いた。 修は、何も出来なかった。ただ前屈みになり、傷口を抑える。余りの激痛に瞳を見開き、止めど無く溢れてくる鮮血に掌を濡らすだけ。喉は震えなかった。脳が、言語を発する余裕を与えてくれてはいないのだ。口から漏れるのは、必死の息遣いだけ。ヒューヒューと、肺が必死に命がある事を誇示しようとしているのだ。生命活動を、躍起になって続けようとしているのだ。 影が、動いた。だるくなってきた首を必死に上げて、視線を上へ。ナイフを逆手に構えた高次の姿が目に入る。 (嫌だ――!) 漠然とした嫌悪感。反射的に膝を伸ばし、玄関の中へ。一瞬後に振り下ろされた銀線を視野に入れ、倒れたショックに激痛を増させる。 受け身も取れなかった。あっ、とだけ、厳しい吐息が漏れる。顔を顰めて、霞んできた視界に扉を入れると、高次がこちらを見ていた。ふっ、と嘲笑にも侮蔑にも取れる笑みを表情に浮かべ、そいつは横を向いて去って行く。 待て、と思った。とにかく、誰かに連絡を。そう考えて身を起こしかけて―― 「あぁぐっ!?」 腹に入れた力が霧散する。余りの激痛が脳髄に集中し、彼は後頭部を床に打ち付けた。 その時には、既に修の意識は闇の中に飲まれていたのだ―― 3 バサリ――。もっていたビニール袋を落とし、赤黒く固まった血液が濡れ光る床を凝視する。鮮血の飛び散った扉から、倒れた人影を見ていた。 「修さん!」 自失は一瞬。すぐさま、床の上でくの字に曲がった少年へと駆け寄る。手を顔の前に近づけると、微かな息遣いがあった。生きている。弱々しい生命活動を、懸命になって繋ぎ止めている。 「修さん!」 もう一度、有希は叫んだ。それは、絶叫。散り逝く花のように萎んでいく、修の命。それを再び咲かせる為に、少女は自分の出来る事をやる。 瞳を瞑る。閉じた瞼の裏に、強烈な白銀を見た。閃光を脳に直接焼き付けるような感覚の直後に、彼女は自分が出来る事を理解する。 閉じた瞼を上げると、自分の周囲に漂う光を認識できた。美しい白銀。纏わりついたミスリルの輝きを、彼女は認識した。 修を見る。酷く冷めた感覚が、彼女の心の中にあった。冷静に患部を認めると、傷は一つ――脇腹のみ。 そこに掌を近づける。未だに溢れる鮮血が、彼の手の中から零れ落ちていた。血の気を失った肌を見、そっ、と手を除ける。自分の肌を修のそれに密着させると、自分の周囲に存在する光を彼に注ぎ込むイメージを脳内に描いた。 白い流れが変化した。撫でるように、修の肌を滑り、彼の体を覆う。一方で、傷口の中へと侵入していく閃光もあった。内と外、両方から光を循環させ、彼の体に馴染ませていく。 まず、変化があるのは外の光。細胞分裂を活性化させ、傷を塞いでいく。溢れ出る血液に、光の栓をして止めた。破れた血管を元通りに治し、壊れた細胞を再生させていく。自分の持つ精神エネルギーを具体化させ、生命の根元とも言えるべき力を彼へと移していくのだ。 傷を塞ぎ終えると、外の光は彼をガードする形で外に留まり、纏い続ける。そうする事によって、生命維持の最高の環境を提供するのだ。次に、中に入ったエネルギーが効力を現わしてきた。失われた血液の代わりに、酸素を運んで二酸化炭素を回収する。血液の機能を擬似的に再現し、中で傷ついた部分の修復。脳への酸素供給を完全に復活させ、小さくなっていた鼓動も大きく響き始めた。青白く血の気の失せていた肌も、血色良くなっていく。苦しそうに呻いていた彼の呼吸も穏やかになり、苦悶に歪んでいた表情が解れてくる。 (良かった……!) 有希は、その修の様子に安堵の息を吐いた。眉尻を下げ、頬を優しく緩める。心底の安堵の表情の中、彼女は修の身体を抱きしめた。 「貴方も失う事が無くて――」 安堵の中に、悲しみを含んだ声。良かった、ともう一度だけ唇を小さく動かせる。 修の身体を覆う白銀の輝きは、彼を優しく護っていた。 4 修は夢を見ていた。不思議な空間の中で、目の前に幾つもの壁が存在する夢。 なんだろう、と思った。これは、時々見る事のある夢だ。見始めたのはいつからだろうか。そう考えて、分かりきっている事に気付く。 あの時だ。光が覚醒した、あの時から。自分達の人生が見えなくなった、あの日から彼はこの夢を見る事がある。そう思うと、目の前の光景は酷く馴染んだ物に見えた。 夢だと分かっている夢。不思議な感覚だった。いつ来ても、その不思議な感覚には慣れない。自分は夢の中をさまよっているのだと言う実感が存在するのだが、それがある分だけ余計に可笑しな気分に捕らわれる。 その空間に居るのは、彼だけではない。他にも、何人もの人々がそこら中を右往左往している。見える壁にも種類がある。一見して、全く同じ物に見えるそれは、しかし罅が入っていたり全く新しい物に見えたりと、年月を感じさせる物だった。 人々は――見知っている顔も、そうでない顔もある――、皆がその壁に気付いていない様子であった。修だけがその存在を直視できているようだ。他の人は壁に当たりながらも、そこを迂回して目的地に向けてさまよって行く風であった。 修は目の前の壁を見た。見上げれば、果ての見えない大きな壁。が、横を見れば所々で切れている場所がある。同時に、他の壁がまた不定期に存在している、不思議な空間。 修だけが見える、不思議な壁。もう一度、目の前のそれを見る。不思議な材質だ、と思った。固そうでもなければ、柔らかそうでもない。まるで何なのかが分からない壁。誰もが避けて通れない、誰も気付かない壁。でも、修はそれを見る事が出来る。それを、意図して触る事が出来る。 破れる、と言う確信があった。手を伸ばせば、指先に触れるのは硬質の感触。でも、それは薄っぺらい紙のような物だ。――修に掛かれば、その程度でしかない。 彼の視界が、少し暗くなったような気がした。密度を増した暗黒は、しかし修の邪魔をする事はない。掌を押し出す。パキィ、と硬質の音を立て、まるで硝子細工のように砕け散る壁がある。 いつもと同じパターンだった。その奥に、ただひたすらの暗黒が広がっている筈だ。いつもはそうだった。それで、夢が終わる筈だった。 でも、今回は違った。 暗黒の中に光が在った。温かい、白く美しい銀の輝き。修に纏わりつく暗黒を照らしてくれる、美しい伝説の輝き。誰も見た事のないミスリルの、その美しさ。修は、伝説の銀がここに存在していた事を知る。 閃光の中に、何かを見出した気がした。それは、光を放つ張本人。彼の親友か、と疑った。が、違う。あいつは蒼の閃光だった筈だ。 影があった。閃光の中で、美しく映える人の影。優しく微笑みかける、女神の如き神々しさは仲居 有希の笑顔だった。しかし、彼女とは絶対的に違う場所がある。 空間を支配する、ミスリルの輝きを放つもの。 ――それは、少女の瞳だったのだ。 気が付くとそこは闇の中だった。 (どこ――!?) 瞬時に、警戒に身を固くする。起き上がり、周囲の状況を確認。闇の中、薄らと浮き上がる風景は見慣れたもの。 「あれ?」 修は、頓狂な声を上げた。記憶はハッキリしている。高次に刺された。だが、それ以降の記憶は空白しかない。慌てて自分の体を撫で回すが、違和感はなかった。同時に、自分のベットの上で自分の部屋の中に存在している、その自分が一番不自然な気がしたのだ。 (どうなって――?) 頭が混乱している。傷口はないし、薄闇の中に認められる衣服に血液が付着した後が無い。身体的に、変わった事は何一つ無いのである。 だからこそ、彼は混乱していた。何が何だか分からない状態。重要なのは、着替えが成されていると言う事。寝間着を着込んだ自分の体と、刺された後すらない脇腹。それと―― (光?) 彼は気が付いた。自分の周囲を、密着していると言っても過言ではない白の光。それが修の体を覆っているのだ。どおりで夜目にしては利き過ぎていると思った――じゃ、なくて。 「なんだ、これ?」 自分が発光しているとなると、結構気付かないもんだと思えた。が、それは小さな疑問。今は、これが何なのかと言う事の方が優先課題。 掌を見詰める。そこにも、白銀の光は薄っすらと纏わり付いていた。 あれ、と修は疑問に思う。この光は、確か夢に出てきたものと一緒じゃないか? 「寝惚けてんのかね……」 ふうっ、と息を吐いた。大きく欠伸をすると、再び寝転がろうとする。 その時、物音がした。 「――っ!」 起き上がり、周囲を見回す。どうやら寝室ではない様だ。入口を見ると、ドアから薄っすらと明かりが漏れていた。誰か居るのだ。その誰かが、事の顛末を知っている。そうだろうと言う確信を持って、修は扉を開けた。 寝室は、リビングから直で続いている。開けるとそこにリビングの光景が広がっているのだ。右にテレビ、左に台所。本棚とパソコン(旧式)は寝室にある。 ドアを開けると、目の前にはテーブルが在った。小さいそれは、今朝方に朝食を摂ったり、夕方にポテチや麦茶を置いていた場所だ。そこには、ポテチの代わりに、湯気を立てる夕飯が置いてあった。 (あ、美味そう) 一瞬だけそれに気を取られて、それを持ち直す。台所の方に視線を移すと、彼に背を向けた小柄な少女が居た。 「有希ちゃん……」 呟き、修はドアを潜る。肩の緊張を抜いて、有希の元へと一歩を踏み出した。 「っ!」 途端に、有希が振り返る。修の気配を察したのであろうその行為は、酷く怯えた風に感じられた。 (え――?) その、有希の顔を見て修は愕然とする。彼女の瞳が、夢で見たのと同じ――そして、今現在、彼の身体に薄く纏わりつく光と同じ色を発していたのだ。 白銀――その、美しいミスリルの輝きを。 (何が……?) 思考が追いつく筈もない。つい数時間前までは日本人の黒だった少女の瞳が、今は白銀。全世界中のどの種族も持ち得ない、人では有り得ない色彩を帯びているのだから。 訳も分からないまま、修は少女の元へと足を踏み出す。その動作を見て、有希はビクリと体を震わせた。 「あっ……!」 怯えに震えた声が、細い喉から漏れる。正気を取り戻したように、彼女は踵を返して玄関へと向った。 「ま、待って!」 突発的なその行動に、修も有希の後を追った。頭の中が整理できていないのは確かであるが、驚きこそするが恐怖や畏怖はない。玄関の数歩手前で、修は有希の手を掴んで、無理矢理に自分の元へと引き寄せた。 その抵抗は、驚くほど少ない。 修は少しだけ安心した。有希は決して自分を拒んではいない。 「有希ちゃん!」 細い肩を掴んで、少女の身体を自分に向き合せた。それでも顔を逸らす有希に、その視線を正面に捉えようと張りのある頬へと手を伸ばし、視点と視点を交差させる。その時に、神秘的なミスリルの瞳が揺れているのが見えた。 彼女は――泣いて、いるのだ。 「有希、ちゃん……?」 少女の涙にうろたえ、修は有希の肩を掴んでいた手を放した。 「うっ、く……ひうっ……」 有希は逃げようとはしなかった。力無く、床にくず折れる。瞳に溜まった涙が、彼女の頬を滑り落ち、雫として床に落ちた。点々と滑り落ちていく涙を、有希は手の甲で拭う。それでも溢れる涙に、顔を掌で覆って、必死に鳴咽を堪えていた。 「ふみぅっ、えうぅ……!」 その、弱々しく揺れる肩を見て、修の心に罪悪感が重く圧し掛かった。 「ごめん――」 座り込んだ少女と、目線の高さをあわせる。膝をまげ、有希の肩に手を置いた。そうする事で、少しでも震えを抑えて欲しいと願ったから。 「ごめんね――」 もう一度、囁く。ゆっくりと、少女の背中に腕を回していった。有希も修の胸に頭を擦り付けるようにして、縋り付く。ぎこちない抱擁の中で、有希は嗚咽を漏らしていた。 「ふぇえっ、えうっ……うぅっ……」 (ごめんね――) 修は心の中で繰り返した。有希を抱く手に力を込める。温かく、柔らかい有希の肌が修の手に心地良く伝わった。雨の中で弱っている小さな子猫のような少女の身体を、その温もりを修は求めた。 「大丈夫だよ……」 囁くように、言ってやる。俺はこの子を護ってやりたいんだ。その願望を確信し、低く漏れる有希の嗚咽に、自分が成すべき事を考えた。 * 「失敗ですか……」 その声は、ほとんど溜息に近かっただろう。 ヤザキ・シュウの殺害は、予想外にも失敗した。コウジという少年を完全に人形化させる事は出来た物の、こんな貧弱な肉体を持った男子は戦力にはなりそうにない。結局、得た物はなかった。逆に、今回の騒動でVANが動き出した事をヤザキ・シュウに感づかれてしまったろう。 もっとも、予想外なのはヤザキ・シュウではなかった。致命傷ではなかったが、出血は確実に致死量を超えていた筈だ。それすらも回復させた、覚醒者には珍しい治癒系具現力保持者。 「まさか、ナカイの娘が覚醒しとるとはな……」 アリトゥも、予想外だ、と言う風に呟きを漏らしている。彼が独り言を言うとは、これは珍しい。それだけ驚きだと言う事だ。 「しかも治癒系ですからね。セイナはこういう事は言っていなかったんですが……」 スィンスには、それは多少引っ掛かる所だった。あの女が、その情報を手に入れてなかったとは思えない。ならば、作戦行動には支障が無いとして伝えなかったのか? 「まぁ、セイナはただの気まぐれだ。俺達の様な下っ端には、わざわざ本人が情報提供してくれる筈も無かろう」 「それはそうですね。でも、あの子――ナカイ・ユキでしたっけ? それが厄介な事に変わりありませんよ」 溜息混じりに、そう呟く。下手な外傷も、彼女が居れば治せるのだ。始めから、急所狙いの一撃必殺が要求される。 (それとも――) 先に、ナカイ・ユキを消した方が良いか? スィンスはそうも思った。治癒系は肉体強化が無い、殆ど無防備な能力だ。能力以外は普通の女の子と大差が無いのならば、ヤザキ・シュウよりも消し易いのかもしれない。 「ま、明日辺りにもう一度仕掛けますか」 スィンスは少し陽気にそう言った。同時に、自分が存在している場所を見回す。薄暗い路地の中に、彼らの他に五つの影。それぞれが、異様にギラギラした異質な瞳でヤザキ・シュウへの怨念を抱えていた。 「丁度、新しい人形の実力を試したかった事ですしね」 |
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