終章 「災難の後は」




 嘉手納平教諭の死は確かに悲しい物ではあったが、その混乱もすぐに日常の中で溶けていった。それはやはり、人が生来持つ逞しさがさせることなのだろう。悲嘆に暮れる者も自分を取り戻し始めた頃になって漸く、学校が本来の姿を取り戻し始めた。
 あの事件から、すでに四日の時が流れている。周辺に住んでいる全住民を脅かした通り魔事件が一段落したのは二日前。今ではただの過去として、ほとんどの人間が認知していた。それは、これを教訓とする事を嫌った一般大衆の怠惰なエゴがさせた事である。だが、それで良いのだろう。修はそう思う。平穏とはこういう物でなければいけない、と。
 通り魔事件の終焉は、呆気ない物だった。容疑者の射殺――ただそれだけである。
 二日前の真っ昼間の事だ。巡回中の警官が見付けたのは、所々に穴の空いた肉塊と化した存在を執拗に虐める中年の男だったのである。警官が止めようとして、それを避けて刃を振り回し始めた男が、極度の緊張と錯乱状態に陥っている事を見越したのは、もう一人の警官だった。相棒が殺されそうになった時に、その警官は上空に向けて威嚇射撃を行った。警察のリボルバーは、標準的に初弾は空砲だ。それに一瞬だけ気を取られた犯人だが、自失を瞬時に終えて斬り掛かってきたのである。やむなく、彼はトリガーを引いた。三発の銃声の中で、二発が命中したと言う。その内の一発が致命傷となり、犯人は息を引き取った。あとはただ儀礼的に進むだけである。解剖の結果、男の血液から麻薬反応を抽出した。シンナーや覚醒剤を始め、大麻などの中毒症状の激しい薬物を複数服用していたようだ。さらに男の部屋から幾つもの人体のパーツが見付かり、それらが通り魔事件で殺害された被害者のものと一致した。警察はその男を犯人と断定し、容疑者死亡のままに書類送検された。それが報道された翌日、近隣の学校は運営を再開した。
 裏工作はバッチリだった様だ――そう、修は皮肉った。一連の犯行が全てアリトゥの仕業であると言うのは分かっているのである。VANは自分達の関与を隠蔽する為に、この様な事をわざわざやったのだ。お誂え向きの相手を探し出し、自分達の都合の良い様に操作する。クスリを含ませたのは、それをやり易くする為だろう。決定付けたのは、これがスィンスの仕組んだ事だろうと言う事だ。
 スィンスの能力が、人の心を操るものであることは判明しているが、それは瞳の変質と言う形で被験者の外に表れてしまう。ただ、その存在の自我が完全に崩壊している場合は、それは出ない。瞳の変質は自我と侵入者の争いが関与しているから現れる症状だ、と良一が解説していた。
 それを裏付けるのが、検察の報告結果である。男の身体の中から具現力の痕跡が出てきたのだ。さらに、全ての被害者の死体には、具現力でメッタ刺しにされた特徴的な傷しかなかった。通常の刃よりも広い傷口は、武器を包む防護膜が影響しているのだ。それらの証拠から、警察は早くから、犯人は具現力保持者であると判断していた。しかしそれらの結果を隠蔽してVANの戦略に乗ったのは、これらがまた極秘機密であるからだ。一般大衆に知られてはいけない情報。正にVANの思うつぼとなったのである。さらに、VANを攻撃しようにも証拠が何も無い。ただ具現力を持っている者、これでは犯人は絞れない。
 これらから判断して、VANはまだまだ安泰だ、と言う事が判った。強大な組織だ。何をしても揺るがないのではないかとすら思わせる力。戦慄を覚えたのは、良一から報告を聞いた時だけではない。思い返すだけでも背筋に走る悪寒がある。
 だが、もう終わった事なんだ。修はそう思っているし、平常を過ごす全員がそう思っているであろう。光はまだ疑っているし、警視庁の人間は血眼になって証拠集めに躍起になっているかもしれない。だが、修にはもうそれは関係ない。振り返る必要の無い、それは過去であり――自分を成長させてくれた、記憶。
 それ以上でも、またそれ以下でもない。


「やっぱり、あれはVANが関係してると思う。まだ終わってないんじゃないか?」
 事件終了の報道が流れた翌日、光は開口一番にこう言ってきた。無配慮だな、と少し慌てて周りを見回す。誰も感心していない事に、大丈夫か、と思った。このクラスで浮いている二人だ。戯言は日常茶飯事か。
 もう一度視線を戻すと、光の真面目な顔があった。それに苦笑を浮かべる。睨むなよ、と言った後で、
「あれはもう終わった事だよ。少なくとも、お前にとってはな」
 そう――もしかしたら、修にとってはまだ終わっていないのかもしれない。だが、光には関係が無くなった。この事でVANに攻められる事はない。修が必ずしもそうであるとは言いきれないが、危険は常に付き纏う事となる――光のように。
 しかし、それはもう良いんだ。だから修は、妙にさっぱりした顔でこう言った。
「俺らが気にかける事はそんな事じゃないよ。これからどうするか、ただそれだけさ」
 お前、頭は大丈夫か? 光に言われ、バリバリおっけー、と馬鹿笑いしながら答える。多分、その時の光の顔が必要以上に呆けたものだったからだ。


 それとは無関係に、修は遅い春の訪れを予感していた。瑞々しい梅雨の葉に目を奪われながら、何となく生徒校舎の二階にある窓から木々を見ていた時だ。
 そこは、隣が体育館だった。湿った風に頬を撫でられながら、気持ち良いな、とぼんやりと思っていると、下に人の気配を感じた。話し声。見てみると、一組の男女。アベックか、と舌打ちした。お熱いこって、と毒づきながらも、暇だから何となく見ている。意外な事に彼らは修には気付かなかったらしく、お話に興じていた。初々しく頬を染めた男女。その話している内容が、風に乗って修の耳に届いてきた。
「やっぱり、あの、ごめんなさい!」
 唐突に下げられた頭。女の子のものだ。その声に何故か聞き覚えがある。数瞬間だけ思考し、ああ、と思い出した。隣のクラスにいる少女だ。ヤロー共が可愛いだの可愛いだのと騒いでいた子である。何故にか、修には人の話を立ち聞きしてしまう習性があった。
「な、何故だい! 美咲さん、僕はこんなに君の事を愛していると言うのに!」
 飛んでないか、と修は冷や汗タラリ。男子の方も、確か同じ学年の少年だった筈だ。
「あの、私の事を意識してくれてたのは凄く嬉しいです。ずっと見てくれてたのも知ってました。でも、どうしても駄目なんです」
「もしかして、僕が年上だから気を使っているのかい? それとも、僕がモテるからかい? 心配は要らないよ。僕はいつまでも君を思い続けるだけの自信がある」
 歯が浮く、を通り越して哀れであると、修は思った。でもまぁ留年生なら修の理解不能な語彙もあるんだろうなぁ。何て事を漠然と。
「あの、ち、違いますけど……」
「じ、じゃあ何でなんだい? もしかして、他に好きな人が……?」
「そうです」
 真っ赤な顔で、しかし少女は毅然と言う。それに少年が固まったのが、上空からでも見て取れた。おっ、と思う。ここからが修羅場ではないか。見なけりゃ損々。
「いっ、たい、誰なん、だい……?」
 絞り出すように声帯を震わせた少年に、おお、凄い精神力だ、と感心した。他人事だから余計に楽しい。
「あの、五組の火蒼くんです……」
「火蒼って……」
(火蒼って……光?)
 もしかして、と思う。あんな特徴的な名字はあいつくらいしかいない。その気持ちを、少年は代弁してくれた。
「もしかして、あの火蒼 光の事かい!? あの、根暗で暗くて人付き合いが極端に少ない!?」
 全部同じ意味だろう。修はそう思う。
 少女は、貧弱な罵詈雑言に少し眉を顰めた雰囲気だった。頭上なので良く分からないが、多分。それでも首を縦に振る。
「オゥ、スィット!」
 畜生、と言う意味を毒づき、少年は涙を流しながら走り去っていく。何でそこだけそんなに発音良いんだ、と呆れながらも、修は少年が残していった呪いの言葉を一つ一つ検証してみた。
(『畜生、なんであんな奴に美咲さんが! 殺してやる! 呪い殺してやる! 万里の長城から突き落として、バベルの塔の最上階に死体を引き摺って愚民どもにみせしめてやる! ロンギネスの槍を甘く見るなぁ、お前なんか一突きなんだからなぁ!』――、か)
 中々どうして、けっこう物知りなんだな、と思った。ただ、時代がごちゃごちゃだ。言ってる事が訳わかんなくなってんのは惜しいなぁ。一人、そんな事を思う。読者置いてきぼりの感が無きにしもあらず。
 少しだけ、ボーッとしていた。遠い所に聞こえる喧騒。気配の去った階下に、静寂が訪れる。さぁ、と流れる大気。それに揺らされる木の葉が元気にざわついた。湿り気を感じて、微笑む。空には小さな雲がバラバラに配置されていた。
 思わず微笑んで、修は意識を徐々に戻していく。するとどうだろう、ダンダンと、体育館からボールをつく音がしてきた。バスケットに精を出す少年達の青春が感じ取れる。校庭の方で大きく声を出しているのはサッカーやハンドボール、野球。それぞれが活動に全力を注ぐ、日常の風景を感じ取れた。
 深く息を吸って、背に感じた気配に振り向く。そこに光が小さく見えた。少し焦ったような動きで駆け寄ってくる。委員会が終わったようだ。
「わりっ、待たせた。また長引いちゃったからさ」
「ん〜、大丈夫よ。それよりも面白いものが聞けましたからなぁ……」
 ヌフフフフッ、とほくそ笑む。それを見て、光が顔を顰めた。
「なんかあったのか?」
「何にもありませんじょ。いよ、色男!」
 バコス、と光の背を叩き、意気揚々と鼻歌混じりに歩き出した。訝んだ表情でいる光を見ながら、修は先程の出来事の一部始終を回想して、思った。
(この晩秋偏屈鈍感男に、早く春が訪れます様に――)
 唐突に、ガハハハハハハッ、と大声で笑い出す。



 某大手スーパーに買い出しをしていた時である。何を食そうかとカップ麺コーナーをうろついていたら、見知った顔を発見した。向うも同時にこちらを見付けたらしく、二人は口を開く。
「オーキス」
「オンデマンド」
 ほとんど本能的に発した言葉に、両者が詰まった。互いが言われた言葉を吟味する間に、隣をお菓子を持った小学校低学年くらいの少女が駆けていった。それに二人同時に目を奪われる。その少女のうなじの線が美しかったからだ。
 そんな間抜けな空気を醸し出すような人間は、修の周りに幾らか存在する。そして、今回の独特な固まり方を披露してくれるのは一人しかいない。
 火蒼 晃――火蒼 光の兄である。年は彼らの一つ上で、公立の違う高校に通っている。気さくで少々ばかり温和な性格。ある程度は光に似た、自己中心性や我侭ぶり。しかしながら光の傍若無人ぶりに振り回される、中々に間抜けな空気が修と共感するのだろうか。先のアホぶりかわらも分かるように、素晴らしい少年である。
 そんなアホ二人が再び向き合うと、とりあえずは先の変な暗号の解読から入るのが普通だ。
「オーキスってあんた、百合の花ですか?」
「オンデマンドって君、IBMじゃなしに」
 同時に発された言葉に、お互いが視線を合わせた。ふむ、と一つだけ頷いた修は、晃に促されて先に喋り出す。
「んで、なんでデンドロビウムなのさ」
「いや、GP03Dじゃないぞ。オーキスはあくまでオーキスであって、ステイメンがくっついて始めてデンドロビウムとして機能するだろう」
「でも、ステイメンがくっ付かなくても外観的には百合の花だろ。そう考えると、オーキスをデンドロビウムって言った方がいい気がするな。んで、デンドロビウムをオーキスに。『ガンダム・オーキス』。カッコ良くないですか?」
「むぅ、確かにカッコイイ気がするぞ。だけど、オーキスってどういう意味なの?」
「さあ?」
「…………」
「…………」
「ところで、君は何故オンデマンドと言ったのかね」
「IBMのCMが頭の中に残ってたんだろうなぁ。『ただの馬に見える』の」
「確かにオンデマンドって言ってるからなぁ。でも、IBMは結構前に中国企業に買収されたよ」
「そうなのよねぇ。いやはや吃驚仰天。正に驚天動地だね」
「ところで、オンデマンドってどういう意味なの?」
「さあ?」
「…………」
「…………」
 二人は見詰め合ったままに沈黙した。
 話題はないか。そう思考を巡らしていると、晃が先に話題を出した。
「そう言えば、通り魔の犯人が射殺されたなぁ」
 晃の言葉に、修はふっと力を抜いた。
「ああ、そうだね」
「どうやらホシはシャブ打ってたらしいぞ」
「怖い世の中さね。これからも気を付けなきゃな」
「類似事件が起きない事を祈るしかないもんな。ところで、光にその話をしたらやたらと過敏に反応したんだが、なんか知らんか?」
 微笑みを浮かべる。そっか、と思った。
「うちの教師が犠牲者になっちゃったからな。それじゃないかな」
「そうか。それにしては君は落ち着いてるな」
「んー、どうだろ。俺としては好きな先生だったんだけどね。中々に気さくな良い人だったよ」
「残念だったな」
「でも、引き摺ってない。嘉手納平先生がいた事は憶えてると思う。だけど、これからを過ごしてく上ではそれは過去でしかないから。だから、俺はもう大丈夫なんだ」
「ふーむ、君は中々に強いんだなぁ」
「ははは。光は変な所で神経細いからな。我々のように野太い人間には分からん苦労さ」
「そうだな。がはははは」
「がははははは」
「所で君は何を買っているんだい?」
「良くぞ聞いてくれた! 実はここ、ホームラン軒が売ってんだ。あのホームラン軒だぞ。これは買わねばいかんと思って、五つくらい買い置きしとこうと思ったのだ」
「あれ。最近はヤキソバにはまっていると聞いたが」
「ヤキソバは食い過ぎて飽き気味だからな。懐かしい美味さを求めようとラーメンを買い出し中だ。お勧めはやはりホームラン軒とシーフードヌードルだな」
「シーフードヌードルと来たか。日清さんは偉大だな」
「全くだな。最近は贅沢を享受したいと思って寿司を買って共に食う事が多いぞ」
「おお、なんと贅沢な! この幸せ者め」
「ふはははは。もっと褒め称えよ」
 二人はそれからおよそ三分間はくだらない話に熱中した後で、急いでレジに向ったのであった。



 その夜に、修は自分の部屋でムフフムフフと言いながら、帰りに寄った古本屋でたまたま見付けた百円のエロマンガを読み耽っていた。学校帰りだが、波北は私服校で、しかも少々ばかり老け顔の修は十八歳未満だと言う事がばれずに済む。なので怪しまれない程度にそわそわとしながら、彼はレジに並んで購入し、通報されない程度にいそいそしながら帰宅したのであった。
 今、彼は酷く怪しかった。ぐふふふふっと忍び笑いを噛み殺しながらも、いかがわしいマンガ本に熱中している。そのまま何やら更に怪しげな行動に移ろうとした時だった。
 ガチャリ。玄関でそんな音がして、次には元気な少女の声が聞こえた。
「ただいまー」
「た、ただいま!?」
 修は大慌てで起き上がる。
 すると、そこにスーパーの買い物袋を提げた有希がいるではないか。夏服に変わったばかりの七瀬学園の制服で、暗くなった外をバックに靴を脱いでいた。
「ん〜。修ちゃん、少し来ない間に汚くなってない? ちゃんと自炊してないでしょ」
 有希はそう言いながら入ってきた。反射的に、修はエロマンガを座布団の裏に隠した。
「ど、どした? その前にただいまってあんた……」
「ちょっと待っててね。すぐご飯にするから」
 修の疑問が聞こえているのかいないのか。有希は、ちゃっかり修の部屋に常備していたエプロンを着込んで台所に立ち始める。
(せ、制服の上にエプロン……!)
 修は変な所で感動した。
 いや、じゃなくて。
「どうしたの。来るなんて行ってなかったっしょ」
「今日、お父さんが帰れないかもしれないって。だから修ちゃんの所に泊めてもらおうと思って」
 ハイハイどいて、とガスコンロに火を付けながらも有希が言った。
「連絡も無しに来るとは夢にも思わず……」
「いつでも来て良いって言ったのは修ちゃんだよ。それに、お父さんも許してくれてるし……」
「そ、そうだけどさ」
 言葉に詰まる。確かに彼は、少し前にその様な事を言った。そしてなんと、あの気難しいお父さんまで了承している。公認の事実であった。
 有希は振り向いて、眉尻を下げる。駄目なの? と、か細い声で言った。その哀愁の表情が酷く愛しく、修は折れるしかできない。
「……どうぞ」
「やったー!」
 嬉しそうに両手を挙げて、有希は再び調理に向き直った。とりあえずは米は食おうと思っていた修は、一応炊飯器をセットしてある。それが炊ける頃には飯にありつけるだろうと座ってみる。七時の日本放送協会ニュースを見ていると、程なく有希がやってきた。
「もう、暇ならお茶碗くらい並べてよ」
 腰に手を当てて、有希は怒ったようにそう言った。修はその様子を暫く見て、ポツリと漏らす。
「なんかさ。新婚さんみたいだな」
 その一言に、有希が顔を見事に赤くさせた。
「し、新婚さんってあの、その、つまりはその、えっと、あの、その……!」
「あ、深い意味はないから」
「も、もー! ふざけてないで手伝ってよー!」
 精一杯に顔を紅潮させた有希に、わははははっ、と笑いながら立ち上がって皿を出し始める。すると有希が、ふと思い出したように言葉を発した。
「そう言えば、そこってどうなってるの?」
「ん?」
 有希の視線を追ってみると、小さな扉があった。
(げっ!)
 しまった、と思う。そこには、良一がこの間、自己防衛用にと送ってきた種々の武器と、今まで汗水たらして集めてきた「いかがわしい」本やらマンガやらが詰まっている秘密の部屋であった。
 間違っても、有希のような純情可憐な乙女には見せてはいけないものである。
「いやいやいや、なんでもありませんじょ!?」
 大慌てで首を振る。
「なんでそんなに慌ててるの?」
 逆に怪しまれた。
 冷や水タラリ。
「慌ててなんてないさ! ここはただの狭い倉庫ですじょ?」
 嘘じゃない。ここは少しばかり高級なマンションなので、小さいながらも倉がある。その中に何を入れようと、それは修の勝手だ。と思う。
「じゃあ、何が入ってるの?」
「い、色々!」
「色々って?」
「小・中学校の時の教科書とか……」
 も、入ってる。置く場所がないから。
「とか?」
「リコーダーとか習字用具とか……」
「とか?」
「あ、アルバムとか……」
「アルバム!」
 有希の瞳が輝く。修はそれに怯んだ。
「修ちゃんの写真、見たいな!」
「面白いものなぞ写っておらんぞ!」
「見たーい!」
「うわ、だ、駄目だ! 来るな! 無理矢理に開けようとするな!」
「駄目なの?」
「うっ……」
「隙あり!」
「ぬおー、駄目だー!」
 修は必死になって叫ぶ。それに怒りが含まれている事を感じ取り、有希の動きが一瞬止まった。んっ? と思った直後に、有希の大きな瞳が潤む。
「ご、ごめんなさい……」
「あぁ、ちょっと待って! ご、ごめん。ごめんて。謝るから。な? だから泣くなって。泣かないでください。お願いだから……お願いします!」
「うえ〜ん……」
「ああああぁ、まっ、待って! 有希! 有希ちゃーん!」
「うわ〜ん!」
 そんな感じでドタバタやってる間に、油が加熱していた。三分後、修は天ぷら油から吹き上がる物凄い勢いの炎と泣き止まない有希に寿命を十年は縮めたと言う。


 同じベットで年頃の男女が一緒に寝る。社会道徳的に問題ありな場面ではあるが、二人にとってはこれが普通となっていた。それに、同じベットと言ってもそんな変な事はしない。ただ寝るだけだ。
 電気を消して、深夜の静寂に二人はしばし身を委ねる。寄り添って耳を澄ましていると、パジャマの布越しに互いの体温が感じ取れた。
 どこかで、走り屋の暴走気味なエンジン音が聞こえる。峠道でスピードでも競い合っているのだろうか。青春だねぇ、と修は静かに微笑んだ。
「ね、修ちゃん」
 不意に有希が話し掛けてくる。んー、と適当に返事を返して、自分が未だに覚醒状態にいる事を教えた。
「修ちゃんさ。エッチなマンガ読んでるでしょ」
「――っ!?」
「修ちゃんがお風呂入ってる時に見付けちゃった」
 穏やかな声が耳元で聞こえる。不覚、と修は自分の失敗を悟る。あの時のエロマンガ、安全な場所に移すの忘れてた。
「え〜……ごめんなさい」
「あははっ。謝らなくても良いよ、修ちゃんだって男の子なんだから」
「理解があって嬉しいです」
「どういたしまして。それでね修ちゃん。やっぱり修ちゃんも、ああいう事したいの?」
「中身まで見られた!?」
「うん、見た」
「オー、マイゴート……」
 狭いベットの上で器用に頭を抱える。それを見て、有希は小さく笑い声を上げた。
「そりゃ、したいけどね」
 観念したように、小さく呟く。苦笑を浮かべながらも、彼はそっぽを向いた。
「そうだよね。でも、まだ駄目だよ」
「へっ?」
「そういうのはまだ早いもんね。私たち、これからがあるんだもん」
「キスまでは行ったのに?」
「キスまでは、女の子としては憧れるでしょー!」
「そういうもんですか」
 はははっ、と笑いながら、有希に向き直った。初めてのキスを思い出す。あれは、ここに戻ってすぐだった。その場の雰囲気に押されて、彼らは口付けを交わした。
 それだけだ。その後は、有希と直接会う事は少なかった。電話やメールでのやり取りはあったけれど、顔を見るのは二日ぶりだ。
 二日で、こんなにも愛しくなるものだろうか。修はそう思いつつ、有希の瞳を直視する。
 少女は瞳を閉じた。修は、やらねばならぬ事を悟る。こういうのは慣れてない。それどころか、まだ二回目だ。だけど、分かった。だから修は、有希の唇に自分のそれを重ねる。
 二回目の口付けは、三秒くらいだったろうか。短いと言えば短いが、二人にとっては永劫とも言える時間。顔を離して瞼を開けると、有希の潤んだ瞳があった。少女は紅潮した頬で、小さくいたずらっ娘のように舌を出す。
「少しズレたね?」
 唇の横を指差して、有希は笑った。照れ隠しなのが一目で分かる。
「……アホ」
 修もまた、照れ隠しに有希の頭に手を置いた。サラサラと流れる綺麗な髪の毛が、掌に心地良い。
「いい加減、寝るよ」
 そういってやると、有希はえへへと笑った。修もまた瞼を閉じる。なんだか急速に眠い。変だな、と思う。こういう時は気分が高揚して中々寝付けないものなのに。
「修ちゃん……」
 有希の声。それに、白銀の光が重なる。傷の修復だけでなく、身心の疲れをも癒してくれる不思議な光。それが閉じた瞼の裏に焼き付いた。
「これから、色々と大変だと思うの。私は修ちゃんに無理して欲しくないな」
 ボンヤリとした頭が、有希の紡ぐ言葉を捉えていく。何か言おうにも、そんな気力はなかった。
「だけど貴方は、自分の事なんか構わないで、自分の事を虐めてしまうもの」
 少し悲しそうに、有希は言った。修の首に何かが触れる。温かい有希の腕。それが背中に回されたのだ。同時に引き寄せられる。頭が少女の薄い胸に、薄布越しに触れていた。近くなった、有希の優しい声が届く。
 だから――ね、修ちゃん。
「今は、ゆっくり、お休み」
 起きてたんかい、は、また明日。



 ザリッ。
 砂を噛んだのは、革靴の底。やっと着いたか、と思い、彼はそこを見た。
 薄暗い路地。街灯の光が届かない、貧民街の一角だった。ようやく顔を出した朝日が、長い暗黒を払ってくれる。それで見えるその部分は、確かに異様な場所であった。
 人影は、全部で十。彼を入れれば十一。そして――正に異常な、地面から生えた影。
 そこだけを見たのでは、如何に事情を知っている存在でも何が何だか分からないだろう。だが、彼の瞳は捉えていた。その空間を覆う、通常では不可視の黄金色の膜を。
「クール!」
 空間の中に呼びかける。すると、人影の内の六つがこちらを向いた。
「カミルドか」
 静かな声音。薄闇の中で膜と同色の、光り輝く二つの双眸が、彼を見詰める。
「任務は終了かい?」
「ああ。夜明けまでに片付いて良かったよ」
 クールが――第二特殊機動部隊長、クライクス・ゼフィアールが、その双眸の輝きを明滅させる。小さくなっていく光に伴い、背後のレリーフが蠢き出した。
 そして、彼は捉える。空間を覆っていた黄金色の膜が薄れていくのを。
 黄金が消える頃に、街全体を黄金が彩る。太陽が顔を出したのだ。同時に、その場所は全体を曝け出した。
 クライクスの全貌が映し出された。癖のない、真っ直ぐな黒髪。百八十を越える長身。スラリとした引き締まった肉体。やや鋭い感のある目付き。紺碧の瞳と、整った顔立ち。全体的に隙のない雰囲気ではあるが、かといってそれが特殊な空気とはなっていない。自然な、何処にいても溶け込めるような存在。それがクライクスである事を、彼は良く知っている。
「どうしたんだ、カミルド。言っとくが、真面目にやっていたぞ」
「そんな事を確かめに来たんじゃないよ。新しい任務が入ったんだ。だから今の仕事を切り上げてくれって言いに来たんだけどね」
「もう終わってた、て訳か?」
「そうなんだろうなぁ……。引継ぎ部隊を送っちゃったよ」
「まあしょうがないさ。後発部隊ってのは?」
「第三突撃部隊。オリニスの奴、君の手伝いができるってはしゃいでたんだぞ」
「そっか。それはいけない事をしたな、後で俺が伝えておくよ」
 ふっ、と笑んだクライクス。その笑顔は、見るものを穏やかにしてくれる不思議な力があった。
 そんなクライクスに、タオルが差し出される。
「どうぞ、クライクス」
「悪いなレイニー」
 それを受け取り、クライクスは歩き出す。彼の隣に並んだクライクスは、行こうか、と促した。
 ああ、と頷く。残りの五人――第二特殊機動部隊の面々もまた、歩き出した。その後ろの影は、既に無残な死体と化している。全部クライクスがやったのだろう、他の隊員は具現力すらも起動してなかったのだから。
「で、次の任務ってのは?」
「ああ。日本に飛んでもらう事になりそうだ」
「日本?」
「少し厄介な事になったらしくてね。実力のある奴が必要になった。そこで、君に白羽の矢がたったと言う訳さ」
「そうか。迷惑な事だ。
「そういうなよ。君の事を信用してるからこそだろう」
「どうやっていけば良い?」
「ケネディ国際空港が一番近いかな。パスポートは全員、持ってるかい?」
「持ってこさせといた筈だ。チケットの予約はそっちでやってくれるんだろうな」
「サポートはバッチリだ。ただ、今回の敵は少し手強そうだぞ」
「ROVってグループかい?」
「いや。それは第五機動部隊がやる。君に頼みたいのは、アンノウンの始末だ」
「ヴェルゲルを倒した?」
「そうだ。手強いらしい」
「要旨は分かった。だが、今回のような肩透かしはごめんだぞ」
「今回はつまらなかったのか」
「ああ。わざわざオリニスを出す必要もないだろうな」
 素っ気無く言うクライクスに、彼は微笑みを浮かべる。風格がある。そう感じたのだ。
 クライクス・ゼフィアール。VANで唯一、実動部隊の隊長でありながら、師団指令という政治屋の仕事をもこなす存在。彼の冷静な読みと、適確な作戦指揮がなかったのならば、VANとてここまで大きくなる事はできなかったであろう。軍事面で多大な戦果を上げた彼だからこそ、全てを包み込むような器の大きさを持つ事ができるのだ。
 だからこそ――今回は、非常に残念だ。彼はそう思い、深い溜息を漏らす。乗り気ではない、姑息な計画。それに回らねばならない自分を卑しく思う。
 だが、これしかないだろう。クランドル統合室長とバリック外務室長が憂える事態を終息させるには、恐らくはこの方法しかない。
 だが――
(いや、ここで彼が死ぬ訳ではない。必ずクールは戻ってくるだろう。その時までに、私はクールを迎える準備をしなければならない)
 彼は思い直す。俯いていた顔を上げ、これからを思った。
「どうした、カミルド」
 クライクスの声。それに、何でもないと答える。笑いながらも、気を付けろ、と言ってくれる昔の相棒の顔を見詰めた後、そんなに信じていない神に始めて祈った。
 どうか、彼の行く道に幸あれ――


 それぞれの思惑の中で、それぞれが動く時。表舞台に出ないのは、これが正史ではないからだ。だが、これからの全てに大きな影響を及ぼすこの出来事は、絶対になくてはならない出来事であった。
 大きな勢力が起す津波。果たして少年達はこれに耐える事ができるだろうか。多くの思いが募るその世界で、全ては順当に廻り出していくだろう。だからこそ、彼らの行く道に幸を求め――
 今はゆっくりと、その時を待つのみ。

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