EPISODE OF SELFA 「光の隣」


 1 『鳥籠から見上げた月明かり』

 ――私は、ずっと独りだった。
   彼のことを、知るまでは……。

 皆、私に対して自分との間に線を引いている。その線が、皆の距離が、とてつもなく遠い。
 けれど、私自身にはその理由が解ってしまう。
 物心がついた時、私は自分に力があることを知っていた。その力を、手足のように扱う術も、もう身に着いていた。
 だから、視ようと思えばすべてを視ることができた。
 人の心を覗くことも、遠く離れた場所を見つめることも、私にはできてしまう。
 ここに住むほとんど総ての人が、私を特別だと思っている。
 いや、実際特別なのに違いない。
 私が持つ力は、並の人間には使いこなせない。この世界でただ一人、同じ力を持つ母でさえ、この力を使いこなせるようになるまで三年以上かかったらしい。
 そんな力を、私は普通に使えてしまう。それが当たり前でないことは、理解しているつもりだった。
 ただ、私は幸せには程遠い場所にいる。
 ここにいることを、幸せだとは感じていない。
 母も、父も、私を見てはくれない。
「……セルファ様だ……」
 通路を歩くだけで聞こえてくる、周りの囁き。
 セルファ・セルグニス。
 それが私の名前。
 まるで、天使を見つめるかのような視線を、私は直視できない。
 彼らにとって、私は別次元の存在に見えるのだろう。
 無理もない。
 この、VANという組織、場所は彼らにとっては聖地に匹敵するほど大きな存在なのだ。その組織を創った存在は、彼らにとっては神と言っても過言ではないほど偉大な存在なのだ。
 その長の娘である私は、彼らには神々しく見えている。
 長い金髪に、華奢な身体付き、透き通るような白い肌と、青い瞳。寂しさを抱いた表情さえも、周りにとっては儚げな表情にしか見えていない。
 それも、もう慣れた。
 望むように見てもらえないことに慣れても、私自身の感情は消えない。
「どうしたんだ?」
 ただ、一人だけ、私を気遣う声が聞こえた。
 周りとは違う、気負いも、一歩引いた口調もない声が。
 顔を上げれば、そこにいるのは一回り年上の青年だった。アッシュブロンドの髪に、端整な顔立ちの青年だ。引き締まった身体を周りの者と同じ黒いVANの制服に包んでいる。
 ただ、他の者たちと違うのは、彼が自然体であることだろう。
「ダスク、失礼だぞ……」
 周りの声に、青年、ダスク・グラヴェイトは苦笑する。
 私を自分と対等の存在として見ることができるのは、ほんの一握りの人しかいない。母と父、父の友、父が育てた青年、そしてダスクと、彼の側近である女性リゼ・アルフィサス。恐らくこの6人ぐらいだ。
 中でも、ダスクとリゼの二人は私を良く気にかけてくれる。
「ちょっと、考え事してただけ……」
 私は、僅かな苦笑と共に、そう答えた。
 周りの者たちは、二人のように普通に接してはくれない。ただ、ダスクとリゼが自然体で接することに対してあまり口うるさく言うことはなくなった。
 昔は、ダスクとリゼがVANに来て直ぐの頃は、二人の態度を咎める者が多かった。それでも、二人は私に対して自然体で接し続けてくれた。
 二人の立場が組織の中でも上の方にあったことも一つの要因かもしれない。
 ただ、そんなことは抜きにしても、私にとって二人の存在は心を許せるものだった。この組織の中で、初めて人の温かさというものを感じたかもしれない。
 父も、母も、組織のために動くことで忙しい。
 それだけなら、まだ良かった。
 幼い頃から、父も母も私に興味は抱いていなかったように思う。特に、父は私を娘として見ているのか解らない。私を見ることがほとんどない。
 周りの景色のようにしか感じていないのかもしれない。
 私の持つ力は人の心を視ることもできる。その力を、両親に向けようと思ったことはなかった。
 視てしまった時、両親の本心を知るのが怖かったから。
 当然、心の内をダスクやリゼに打ち明けることはできなかった。それを口に出してしまうことで、疑念が確信に変わってしまうような気がした。同時に、両親の心を覗き見るきっかけにもなってしまいそうだった。
 もし、私が思っているように、両親が私の存在を不要なものとして見ていたとしたら。それを知ってしまった時、私という存在は崩れてしまう。私の居場所はなくなってしまう。
 勘のいいダスクとリゼなら、もしかしたら私の思いにも気付いているのかもしれない。
 ただ、それでも二人がそのことに触れない限り、私から口に出すこともできない。自分自身の存在を否定してしまうことになるのだから。
 欲しい知識は、簡単に得ることができた。
 この力で、その知識が得られる場所を覗けば良かった。離れた場所にある書物も、探し出して直ぐ身近に引き寄せることもできた。誰かの所有物であったとしても、使われていない時に読ませてもらって、元通りに戻すこともできる。
 人の力を知ることも、私には簡単だった。どんな力を持っているのか、どこまでのことができるのか、その人はどれだけ力に慣れているのか、私には知ることができた。
 万能と言われるこの力でも、できないことはある。
 私が抱く気持ちを、解決する術も探した。それでも、見つからなかった。
 見つけたとしても、今の私に実行する覚悟や意思はない方法ばかりだった。
 VANは、力を持った者の集まりだ。
 力を持つ者は、力を持たない者に恐れられる。大抵の場合、異質な存在として扱われる。故に、力に目覚めた者は往々にして今まで通りの生活を続けて行くことは困難だ。
 力を隠して生きようとしても、覚醒したばかりの者は力を上手くコントロールできない。覚醒した瞬間が一人きりであるならまだいい。周りに人がいる状況で覚醒してしまった者は、自分の力を隠すことができない。
 たとえ力を隠していても、力を持ってしまった事実は消えないのだ。そうして、頭の片隅で、いつも力のことを意識するようになる。一度覚醒してしまった者 は、自分の身に危険が迫った時、力を使ってしまう。自己防衛本能が、無意識に、咄嗟に、身を守るために力を発動させる。その力の発動を理性で抑えつけるた めには、相当な精神力が必要だ。覚醒したことで、精神的に不安定になっていたなら、それは難しい。
 同時に、力に目覚めたばかりの者は、自分の存在が異端でないかと考える場合が多い。周りと違う。普通ではない。自分は異常だ。そう考えてしまう。その不安感、不信感が、本人は気付かずともやがては周りに伝播して行く。結果として、誰かが異変に気付くのだ。
 力を持つ者を見る周りの目は、決して良いものとは限らない。むしろ、恐ろしいものを見る目の方が多い。
 力に目覚めた本人でさえ、覚醒する前の自分も力を持つ者を恐れるだろうと気付いてしまうのだ。そんな、精神的な、心理的な要因が複雑に絡み合いながら、精神的圧迫は増えて行く。
 やがて、フラストレーションに心が耐え切れなくなると、力を制御するだけの精神力を失うことになる。
 VANには、様々な状況、状態で覚醒した者たちが集っている。自分の存在が肯定されるVANは、力を持つ者にとっては楽園に等しい。ここは、力を持つ者たちによって創られ、保たれている場所なのだ。力を隠すこともなく、力を恐れる者もいない。
 確かに、ここにも力を持たない者はいる。だが、その者たちはここで暮らすようになった者同士が結ばれて生まれた命だ。両親が力を持つ者であるが故に、力 というものに対して恐怖感や異物感は抱いていない。むしろ、当たり前に存在するものと認識して育って行く。そして、彼らの多くもまた、力に目覚めて行く。
 VANという組織が、大勢の力を持つ者を救ったのは、事実だと思う。ここに来ることで救われた者は、決して少なくはないだろう。
 VANは世界中に人員を派遣し、覚醒した者たちに接触し、ここへ来ることを勧めている。この組織の拡大だけでなく、力を持つ者たちが自分自身を抑圧しなくても良い世界を創るために。多くの者が、迫害されずに過ごせるように。
 賛同者は多い。
 誰もが、自分の存在を肯定されたいと思っている。力を持つ者も、持たない者も、それは同じだろう。
 ただ、力を持つ者は今の世界ではきっと認めてはもらえない。敵と認識されるに違いない。
 だから、力を持つ者の国を創ろうとしているこの組織に賛同する者は多いのだ。
 だけど。
「……私は、何がしたいんだろう……」
 私の他にダスクとリゼしかいないトレーニングルームの中で、小さく呟いた。
 VANの理屈は解る。ここにいる者たちの思いも理解できる。ただ、それでも、私はどこか釈然としない。
 私はVANに参加しているわけではない。VANという組織の本部で生まれ育っただけだ。両親の住まう場所が組織の本部であったから、私もここで暮らしているに過ぎない。
 他の場所へ行って、生きる自信は私にはなかったから。
 VANの理念は納得できるものだと思う。ただ、私はVANのために力を使う気にはなれなかった。
 この場所以外で、私は、生きて行くことはできないだろう。だから、私はここにいる。組織に賛同し切ることもできず、他の場所へ行くだけの覚悟もなく、惰性で私は生きている。
 唯一、二人と話をしている時だけ心が休まる。
「難しい疑問だな、それは」
 声が聞こえていたのだろう、ダスクが呟いた。
 他の者たちがいれば、きっと「何もしなくていい」と答えただろう。私の存在は彼らにとってはお姫様のようなものだ。私に何かをさせることなど、恐れ多いと思っている。
 けれど、私はそんな存在ではない。
「したいことなんて、自分で見つけるしかないわよ?」
 リゼも苦笑を浮かべていた。
 二人は非番で組織に戻って来ているが、本来はかなり多忙な役職にある。明確な意思がなければ、とてもではないがやっていられない立場だ。
「……うん、解ってる」
 私でも、それぐらいは解っているつもりだ。何がしたいのかは、自分自身で見出すしかない。誰かに押し付けられた答えで生きていくことには、いずれ限界が来る。
 納得できない答えを誰かから教えてもらうわけにはいかない。自分で答えを出さなければならない問題だ。
 それでも、何か手掛かりが欲しいと思ってしまう。
 最近、良くそういうことを考えるようになった。自分はこのままでいいのか、ここで惰性のまま過ごして行くだけでいいのか、何もしないで生きていていいのか。
 現状に漠然とした不満を抱き始めている。
 もしかしたら、ダスクとリゼだけは、私がVANに賛同していないことに気付いているかもしれない。
 夜、自分に与えられた部屋で一人目を閉じる。
 翡翠の輝きに視界が包まれ、私は力を解放した。
 ただ力を使えば、両親は気付くだろう。それを防ぐために、私は自分の力で自分自身を包み、気配を抑える。私が力を使っていないかのように、カムフラージュして、私は世界を見渡した。
 力の範囲を拡大し、様々な人の気配を見つめて行く。私は、今やVANに反抗する勢力と繋がっている。
 ROVと名乗る、組織にVAN内部の動きを流している。彼らは、力を持ちながら、VANに属することを善しとしなかった。いや、VANの行動によって、彼らはVANを敵視したのだ。
 VANの行動で大切な人を殺された者、今まで通りの生活を望む者、理由は様々だが、彼らはVANを敵と認識した。そして、彼らの多くを私はこの力で見つめてきた。
 彼らの行動も、間違ってはいない。VANに納得し切れないのは、そのためなのかもしれない。VANは力を持つ者のために戦っている。だが、それは力を持 たない者を軽視しているのと同じだ。VANにいる全員がそうであるとは限らないとしても、恐らく八割以上の者は力を持たない者に対して良い印象は持ってい ないだろう。
「……カソウ・ヒカル……」
 彼は、最も過酷な道を選んだ者かもしれない。VANに属することも、反抗勢力のROVに属することも、彼は選ばなかった。力を持ちながら、今まで通りに過ごす道を選んだ。降り掛かる火の粉を払うためだけに力を使うと心に決めて。
 人の命を奪うことに抵抗を抱きながら、そうしなければ自分が、自分の大切なものが失われるからと、覚悟を決めた。色々なことに悩みながら、それでも彼は 楽な方へ進む道は選ばなかった。ただ、自分の思う通りに生きようとしている。少しでも自分の意思と違うと思ったことに対して、彼は妥協する道を選ぼうとは しない。
 世界を変えるほどの力をその身に秘めていても、その力の存在は彼の意思とは関係がない。覚醒したこと自体は彼にとって大きな事件で、生活を変えるきっか けになった。だが、それでも彼は力を持ったまま、今まで通りに暮らす道を選んだのだ。力の有無とは関係なく、ただ自分が思う生き方をしたいと言うだけで。
 だからだろうか。
 自分の生き方を見つけられずにいる私にとって、彼は羨望の対象だった。
 迷いながら、傷つきながら、悩みながら、それでもはっきりと彼は自分の生き方を決めている。たとえ周りの状況や誰かの言葉に影響を受けて思いが少しずつ変わって行くとしても、彼はその変化にも後悔をしない選択をしている。
 羨ましい。
 今、ここにただ存在している私よりも、彼は生き生きしているように見える。どれだけ苦境に立たされ、辛い思いをしているとしても、そう感じるだけの明確な思いが、彼にはあるのだ。大切なもの、望むもの、失くしたくないもの、したいこと。
 だから、彼は辛い状況でも戦える。戦う意思を持てる。
 私には無い心を、彼は持っている。
 惹かれているのは、そのためなのだろうか。
「……逢いたい」
 彼に逢えば、彼の隣にいれば、私も彼のように生きる意味を見つけられるだろうか。
 少しずつ、私の思いはカソウ・ヒカルに向かって行った。

 やがて、私の想いは形を変えて、彼と共に歩み始める。


 2 『一人じゃない』

 ――彼の傍に来て、色々なことを知った。
   初めての友達も、できた。

 私は、カソウ・ヒカルに逢いに来た。
 VANの中から抜け出して、VANと戦うことを決めたヒカルの下へとやって来た。それは、両親と戦うことを意味する。私が今まで育った場所であるVANの存在を否定することになる。
 それでも、私は自分のこれまでの生き方全てを否定する道を選んだ。自分を形作る全てを否定することになるかもしれない。その身一つだけで組織を抜け出し て、私はヒカルの下へ向かった。VANにいても、私は生きる意味を見出せないと思ったから。これまでの全てを捨ててしまわなければ、あの場所では、変われ ないと思ったから。
 実際に触れたヒカルの身体は、力を使って精神世界で会った時よりも逞しく思えた。
「一緒に、行こう」
 彼のくれた言葉が、私の力になる。
 あの時、一瞬だけ交わしたファーストキスを、私は決して忘れないだろう。
 とはいえ、問題は山積みだった。
 まずは私が暮らす場所だ。彼が私を受け入れてくれた時から、彼が私を助けに行くと言ってくれた時から、私の家はVANではなくなった。一人暮らしをする にしても、私には上手くできるかどうか判らない。力を使って直ぐに知識は得られても、実際に私自身が対応できるとは限らない。力に頼れば簡単なことなのか もしれないが、それはしたくなかった。
 VANからの追っ手がある可能性も考えれば、ヒカルの傍にいるのが一番だった。それに、私も彼の傍にいたかった。
 だが、ヒカルの両親を殺したのはVANだ。私の両親が直接手を下していないとしても、実際にヒカルの両親を殺したのは私の両親の腹心だ。
 ヒカル自身が良くとも、ヒカルと暮らしているコウジやカオリにとって私の存在はどう映るのだろうか。悪い印象を持っている可能性の方が高いはずだ。私は、VANの長の娘なのだから。
 ヒカルと共に彼の家へ向かう道中、私はどうすればいいのかずっと考えていた。
「光が信頼しているのなら、僕らが拒絶する理由はないよ」
 けれど、ヒカルの家族である二人は私ををいとも簡単に受け入れてくれた。
 VANの長の娘であることを明かしても、二人の態度は変わらなかった。
 正直、戸惑った。もっと恨まれると思っていた。そうでなくとも、少なくとも好意的には受け入れられないと思っていたから。
「たとえ、あなたが光君の敵の娘だったとしても、あなた自身が光君の敵じゃないなら、それでいいじゃない?」
 カオリはそう言って、優しく微笑んでくれた。
 その夜、彼女が作った夕食を、私はヒカルの隣で、彼らと一緒に食べた。
 VANにいた頃に一人で食べていた食事とは比べ物にならないほど、美味しかった。暖かい夕食に、その中に受け入れてもらえたことに、嬉しくて泣きそうになった。
 夕食を終えた私は、ヒカルの部屋で、彼と話し合った。ヒカルに関わる状況はVANの中でも把握していたが、彼自身の思いまで完全に理解しているわけでは ない。何があったのかという大雑把な事実ぐらいしか知らないのだ。常に力を使っていたわけではないから、細かい部分までは私も見ていない。
 ヒカルも、私のことはほとんど知らないはずだ。だから、互いのことを語り合った。
「ごめんなさい……私がもっと早くにVANと戦うことを決めていたら……」
 もし、私がVANと戦う決意をずっと前から固めていたとしたら、ヒカルはここまで辛い状況には置かれていなかったかもしれない。たとえば、ヒカルを好き だと告白したガールフレンドが殺されずに済んだり、ヒカルの家族の内部にVANの人間を送り込んだりなんてさせなかったかもしれない。ヒカルの兄、アキラ も覚醒せず、たとえ覚醒したとしてもVANに向かうことはさせなかったかもしれない。
 私には阻止するために動くこともできたのではないだろうか。
 動けなかったのは、覚悟がなかったから。戦うだけの覚悟を決めるのに、随分と時間がかかってしまったと思う。
「でも、そうしていたら未来は変わっていたと思う」
 ヒカルは言った。
 未来が変わる。つまり、今、この状況が全く違うものになっていたかもしれないということだ。
「俺は、美咲を好きになっていたかもしれない」
 ヒカルは、ミサキという少女のことを好きになるまでには至らなかったと言った。彼女を本当に好きになる前に、殺されてしまったのだと。
 もし、私が動いていたら、VANの行動を変えていたら、彼女は死なずに済んだかもしれない。ヒカルが彼女を守ることができたかもしれない。その時は、彼女のことを好きになっていたかもしれない。
「家族にも力のことを打ち明けずに過ごしていたかもしれない」
 ヒカルがコウジやカオリに力のことを打ち明けたのは、家族の中にVANが入り込んできたからだ。コウジの旧友である女性がVANの人間で、高位の部隊長 だったのだ。VANの作戦の一つとして、彼女はヒカルの家に入り込んだ。そして、コウジに結婚を迫り、ヒカルに揺さぶりをかけたのである。
 ヒカルは彼女を倒すために、戦う姿を見せ、家族に力を打ち明けた。
 しかし、もし私がVANの動きを変えることができていたなら、ヒカルがそこまでする必要はなかったかもしれない。家族の中に敵が入り込むこともなく、今まで通りに過ごせていたかもしれない。
「こうやって、セルファと顔を合わせて話すこともなかったかもしれない」
 未来が変わるというのは、そういうことだ。
 道筋が少しずつでも違って行けば、未来は全く別のものになる。ヒカルがVANを敵と認識するまでにかかる時間も、短かったかもしれないし、長かったかもしれない。もしかしたら、ヒカルがVANを敵と見なさないままだった可能性もある。
 お互いに、会おうと思うことすらなかったかもしれない。
「でも、過去はもう変えられないから……」
 少しだけ、ヒカルは俯いた。
 過去を変えることはできない。もしも、こうなっていたら、と考えることは逃避だ。どれだけ辛いことがあっても、苦しい状況に立たされても、逃げることはできない。
「過去を悔やむより、これからどうするか考える方がいいと思うんだ」
 ヒカルは、そう言って小さく微笑んだ。
 過去の選択ばかり悔やんでも、ただ時間を無駄に浪費するだけだ。振り返り、反省することは大切なことかもしれない。けれど、あの時こうしていれば良かった、あの時ああしていればこうはならなかった、などと後悔だけを募らせても意味がない。
「これから……」
「俺たちが悔やんだって、今の状況が変わるわけじゃないから」
 私の目を見て、ヒカルはそう言った。
 今が存在するのは、過去の選択の結果だ。どれだけ後で悔やんでも、今を変えることはできない。なら、悔やんだ過去を持つ者として、これからそうならないように生きる道を探すしかない。
「辛いことも、悲しいこともあったけど、今、俺がセルファに逢えて嬉しいと思ってるのは嘘じゃない」
 辛い過去、悲しい記憶、それが消えないものであっても、ヒカルは私に出逢えたことに喜びを感じてくれている。それは、私も同じだった。
 ヒカルのためにもっと何かできたかもしれない。私が何もできなかったばかりに命を落とした人も、辛い思いをした人もいるかもしれない。けれど、今、ヒカルが目の前にいて、彼と同じ場所にいることを、嬉しいと思えた。
「後ろめたく感じることが無いと言えば嘘になるけど、本音を隠すなんて俺にはできないから」
 過去が重くのしかかってくるのは、私だけじゃなくヒカルも同じなのかもしれない。私に好意を抱いたヒカルは、かつて彼に好意を抱いたミサキに対して思う ことがあるに違いない。ミサキではなく、私に好意を抱くことにヒカルは後ろめたさを感じても不自然ではない。私が、彼女を死に追いやる一端を担っていた可 能性だってある。私は、VANにいて何もできなかった。いや、何もしなかった。あの時は、まだ私は自分の道を見出せていなかったから。
「それに、できれば俺はセルファには戦って欲しくないんだ」
 ヒカルの言う戦いとは、物理的な戦闘行為のことだった。一緒に戦うという言葉に偽りはない。私に人殺しをして欲しくないと言うことなのは、直ぐに解った。
「強要する気はないけど、俺はそういう場面を見たくないんだ……」
「うん、ありがとう……」
 ヒカルの気遣いは素直に嬉しかった。
 私自身、自分の身体能力に自信はない。実戦経験もなければ、VANの中にいた頃も模擬戦さえしたことがない。戦闘に関してはずぶの素人だ。
 VANと戦う。それ自体に迷いはない。ただ、戦闘には自信がなかった。
 たとえ自分の手足のように力を使いこなせても、戦闘に必要な勘というものが私には皆無だ。人の命を実際に自分の手にかける覚悟も、あるとは断言できない。躊躇ってしまうかもしれない。
 それに、ヒカルの力と私の力は相性が悪い。私が力を使って戦えば、ヒカルは私の力を掻き消さぬように気を使うことになる。彼が全力を発揮する妨げになっては、元も子もない。主な戦力はヒカルなのだから。
「でも、我慢できなくなったら、私も戦うからね」
 もしも、ヒカルが危険な状況になったら、私は迷わず戦おうと決めた。
 ヒカルは強くなっている。力をつけてきている。戦闘行為に関して素人な私では、彼の足を引っ張ってしまうことも多いだろう。
 もちろん、私は私で戦闘に関して学んで行こうと思っている。いざという時に、自分の身は自分で守れるようになりたい。ただ見つめているだけなら、今までと同じだ。ここまで来た意味がない。
 私はヒカルを守るために、彼を支え、助けるために力を使いたい。
「ああ、わかった」
 ヒカルは微笑み、頷いた。

 その翌日、ヤザキ・シュウとナカイ・ユキがヒカルの家を訪れた。
 突然現れた私のことについて話し合うのかと身構えたが、シュウはヒカルの部屋に着くなりゲーム機の電源を入れていた。てっきりこれから私をどう扱うのか だとか、VANに対して戦う際にどうするのかだとかを話し合うのだと思っていた。私が今までどうしていたのか、何を思ってここまで来たのか、VANと敵対 することへの考え方だとか、意志を確認するつもりなのだと思ったのだ。
 だが、ヒカルはそんなシュウの態度を気にすることもなく、ゲーム機のコントローラーを手に持った。
 ちなみに、同居しているシェルリアはセイイチの情報収集を手伝うと言って出掛けている。
 シュウが持ってきたビニール袋からサイダーを取り出して、ヒカルは用意した四つのコップに注いだ。その中の一つは私の分のコップだった。
「たまにはさ、息抜きしたくなるんだ」
 戸惑っている私に、ヒカルはそう囁いた。
 何も考えずに遊びたくなるんだと、ヒカルは言った。能力者として覚醒する前にそうしていたように、今までのように遊びたくなるのだ、と。
 戦いのことを忘れたわけではない。むしろこれから戦って行くために、それまでのような時間を過ごす。そうやって、それが大切なものなのだと再認識するのだろう。
 いや、きっともっと単純な理由だ。遊びたいから、ただそれだけかもしれない。そういうことができない生き方をしたくない、ということなのかもしれない。
 ヒカルはシュウとゲームで対戦しているようだった。テレビの画面は中央から左右に等分され、ヒカルとシュウが操るロボットが動きまわっている。
 協力モードもあるらしく、何回か対戦をしたら協力モードを、そちらを何度かやったらまた対戦を、と不定期に繰り返していた。対戦の成績はヒカルの勝率が七割ほどだった。ただ、協力の方のコンビネーションはかなりのもので、高難易度のステージをどんどんクリアしていた。
 二人の活き活きとした表情が印象的だった。
 私とユキも二人に勧められて何度かコントローラを握らせてもらったが、はっきり言って向いてなかった。私にとってはテレビゲーム自体が初めてだったとい うのもあるだろうが、どうやら私はアクションゲームが苦手のようだ。操作にもたついてあたふたすることしかできなかった。それはユキもほとんど同じで、二 人して酷い有り様だった。
 今までテレビゲームに慣れ親しんでいたというのもあるのだろうが、ヒカルとシュウはかなり上手い部類なのだろう。
 ただ、そのゲームは難しくてヒカルやシュウのように上手くはできなかったし、酷いものだったが、それでも私には新鮮で、楽しかった。私たちがおろおろしながら悪戦苦闘しているのを、ヒカルとシュウは笑いながら見ていた。
 少しして、ユキが自分の持ってきた小さなバッグから紙包みを取り出して広げた。
 中にはクッキーが入っていた。市販の箱や包装はされていない。わざわざ個別で持ってくるのもおかしい。そう思って聞いてみた。
「これ、どうしたの?」
「作ってきたの」
 ユキの返事に、少し驚いていた。
 手が込んでいるように見えたからだ。店で売っているクッキーのように、とても上手にできていた。
「おいしい……」
 食べてみると、とても美味しかった。サクサクした食感と、程よい上品な甘さが口の中に広がる。
 自分の手で作ったのだと言うのが、驚きだった。
「そんなに難しくないし、作るのも楽しいよ」
 凄い、と言うとユキは笑ってそう答えた。
「……そうなの?」
 料理を自分で作る。VANにいた頃は本当に何もすることがなかった。さすがに風呂などは自分一人でやっていたが、炊事、洗濯は自分でしたことがなかった。
 それができる人のことを家庭的、と言うのだと分かっていても、今までは興味が湧かなかった。半ば自棄になっていたのだから、自分自身のことにも無頓着に なっていたのだろう。風呂もただ体を洗う程度の意識しかなかったし、髪や肌の手入れに気を遣うこともなかった。ましてや化粧などする気も起きなかった。
 だが、今は、ヒカルと共に生きると決めてからは、少しだけ興味がある。昨晩口にしたカオリの手料理の味や後片付けをしている後姿が意識の隅にある。一夜明けて、自分の髪に寝癖がついてないか無意識に確認していたのも思い出す。
 もし、これから先もずっと一緒に過ごすのなら、炊事洗濯掃除ぐらいできるようになるべきだとも、思っていた。
「二人は、料理できるの?」
 試しにヒカルとシュウに聞いてみた。
「家庭科の調理実習で習った程度なら、まぁ、なんとかできるかな」
 自信はなさそうだったが、ヒカルはそう答えた。
 本当に簡単なものなら自分でも作れるらしい。
「できなくはないだろうが、一人だとめんどうだから買っちまうなぁ。今はもっぱら有希に作ってもらってるし、そっちのが自分で作るより格段に美味いからな」
「ノロケじゃねぇか」
「もう、修ちゃんったらぁ」
 シュウの返事に、ヒカルが苦笑し、ユキが照れて笑う。
 そもそも学校に行ったことのない私には、その実習経験すらない。パンにハムやレタスを挟むぐらいならできるだろうが、それは料理とは言えない気がした。
「……ねぇ、やってみる?」
 そんな私に、ユキがそう提案した。
「……教えて、くれるの?」
 不安げな私に、ユキは笑みを浮かべた。
「いいよー。ねぇ、キッチン借りてもいい?」
「うん、大丈夫だと思う」
 ヒカルの言葉に頷いて、ユキは私に手を差し出した。
 私はその手を取って、一緒に一階へと降りた。リビングにいたカオリに断りを入れて、キッチンに入る。
「ねぇ、一つだけ、聞いてもいい?」
 材料を並べて行くユキに、その背中に、私は静かな声で話しかけた。
「んー? なぁにー?」
 ユキは私の方を見ず、材料が揃っているかを確認している。
「私のこと……怒ったり、恨んだり、嫌ったり、しないの?」
 私はVANの長の娘だ。その事実は覆すことができない。
 彼女のことは私も把握している。ユキの父親はかつて一年だけVANに所属し、家庭を持つと同時にVANを抜けた。その後、彼は自衛隊の中で対VAN用の 特殊部隊を創設し、VANと敵対していた。そのために、ユキは幼い頃に母親をVANによって失い、父親もVANが蜂起した先日、命を落とした。結果的に、 VANによって彼女は両親を殺されている。
「私は、その……VANに、いたから」
 振り返ったユキと目を合わせられず、視線を床に落とす。
「……VANのことは、許せないよ」
 ユキの哀しげな声に、私はぐっと唇を引き結んだ。責められても仕方がない立場に私はいる。これからヒカルと共に歩むなら、彼の友人や仲間とも共に過ごさなければならない。禍根があるなら、赦してもらうことはできなくとも、せめて私がヒカルと共に進むことを認めて欲しい。
 それだけは、伝えておかなければならないと、思っていた。
「――でも、あなたは違うんでしょ?」
 続く言葉に、私は顔を上げていた。
「昨日、光さんに飛び付いたのを見れば分かるよ。あなたは違うんだ、って」
 そう口にするユキは、優しい表情だった。
「自分を、抑えてきたんでしょ? 抑えなくていい人が、受け入れてくれる人が、見つけられたんでしょ?」
「なんで……?」
「分かるもん。私もね、そうだったから」
 ユキが微笑む。
「お父さんのことは、辛いよ。辛いけど……でも、私はもう独りじゃないから」
 一度目を伏せて、ユキは呟く。セルファに視線を戻したユキの目には、哀しみの影が残っている。それでも、確かな輝きがある。前を向いて歩き出している。そう感じられるだけの意思が、彼女の瞳には宿っていた。
「私には、修ちゃんがいる。修ちゃんがいてくれる。修ちゃんが私を支えてくれる限り、私も修ちゃんを支えるって決めたの。だから、辛くても、悲しくても、前を向いて歩き出せる」
 照れたように頬を僅かに染めて、ユキは微笑んだ。
「あなたも、そうなんでしょ?」
 その言葉に、私は何も言うことができなかった。その通りだったから。
 私も、ヒカルを支えて行こうと思った。彼が私と共に歩むと言ってくれたから。
 そのために、全てを捨てた。今までの人生を過ごした場所も、両親も、何不自由のない生活も、兄や姉のように心を許せた二人の存在も。ヒカルの隣に立つということのために。
「さ、作ろう?」
「うん……」
「まず大事なのはね、気持ちなんだよ」
 どうして、ヒカルの周りの人たちはこんなにも優しいのだろう。
 ユキに作り方を教えてもらいながら、私はクッキーの生地を作る。
「光君はバニラが好きだから、バニラエッセンスを数滴加えるといいかもしれないわよ」
 様子を見にきたカオリが、そう助言をくれた。私が礼を言うと、彼女はふっと笑って、手をひらひらさせながらリビングへ戻っていった。
「あなたは、シュウのどこを好きになったの?」
 型抜きしながら、私はユキにそんなことを聞いていた。
「んー……優しいところ、かな? 初めて逢った時、助けてもらったんだ」
 ぽつぽつと、ユキはシュウと出逢った時のことを教えてくれた。不良に絡まれていたところを助けてもらったこと、力のことを知っても受け入れてくれたこと、攫われた時にも救いだしてくれたこと、好きだと言ってくれたこと。
 ユキはシュウを心の底から信頼している。彼女の話を聞いて、私はそう確信することができた。シュウとは、ユキがそう思えるだけの存在なのだと。
「あなたは?」
「えっ?」
「光さんのこと、どうして好きになったの? 今度は私に教えてよ」
 照れ隠しなのか、ユキは少しいたずらっぽい笑みを浮かべて私にそう尋ねてきた。
「私は……」
 クッキーをオーブンレンジに入れて、私は思い返した。
「ずっと、私は生きているのか、疑問だった。あそこじゃ楽しいことなんてなかったし、嬉しいって感じることもなかったから。それに気付いて、どうして私はここにいるんだろう、ってずっと思ってた」
 何不自由のない生活だった。誰もが私を気にかけてくれる。だけど、それは私との間に大きな溝を作っているが故のものだ。相手にしてみれば、私は触れるこ とすらおこがましい、天使や神のような存在だった。私が求めれば何でも用意してくれた。私が不満を言えば、改善してくれた。けれど、私の心はずっと満たさ れなかった。
 両親は私を見ていない。私の存在を認識してはいても、私を見る目に、親の愛情なんてものは感じなかった。私が何かをねだっても、両親は気にかけてくれない。自分の部下や、身の回りの世話を任せている者に指示をするだけで、両親自身が私に何かをしてくれたことはなかった。
 物心ついた時から、母の腕に抱かれたことも、父に微笑みかけられたことも、私の記憶にはない。
 居場所、というものが感じられなかった。ダスクやリゼと出会って、彼らの目線が、私の求めているものの一つだと気付いた。二人は私と対等な存在でいてく れた。けれど、たった二人だけでは窮屈さや満たされない心の空洞は、埋まらなかった。二人ともトップクラスの地位にいる人物だったから、多忙で気軽に会う こともできなかった。
 わがままは許されていても、私は籠の中に閉じ込められていた。
「そんな時にね、見つけたんだ、ヒカルを」
 最初は、そこまで気にはならなかった。父親が最も危険視している兄弟のうちの弟が覚醒したから、レジスタンスに情報を流しておこう。レジスタンスの戦力が強化されるだろう、その程度の認識だった。
 けれど、結果は違った。ヒカルはレジスタンスへの所属も、VANへの所属も、拒否した。
 有り得ない。そう思った。
 その選択肢は、最も辛い選択になるはずだ。両方から敵視される可能性もある。それに、父が彼を放ってはおかない。レジスタンスに所属すれば少なくとも、 味方ができるという点で安全性が高まる。VANに対する打撃にもなる。それをしないということは、レジスタンスの仲間という庇護も受けられず、VANの攻 撃にさらされるということだ。
 だから、気になった。気になって、仕方がなかった。何で、そんな選択が下せるのか。その強さは、どこからくるのか。
 気がつけば、ヒカルの動向をいつも気にかけていた。
「自分の心に素直に生きる……私も、そうあれたら、そうありたいって、思うようになってた」
 どんな目に合っても、ヒカルは生き方を変えようとはしなかった。自分が嫌だと思う道は、その困難さに関わらず選ばない。
 自分の居場所を守るために、そこにしがみつくために、それでも嫌なことは拒否して戦うヒカルに、いつの間にか惹かれていた。彼のように生きられたら、私も満たされるのだろうか。彼の隣なら、この心にある大きな空洞は埋まるのだろうか。
「ヒカルは手を差し伸べてくれた。私の手が届くところまで……」
 私の手を強引に取ろうとはしなかった。私が手を伸ばしたところへ、私の手が届く距離まで、ヒカルは手を差し伸べていた。自分の心が大事なのだと、私自身が籠を壊して飛び立つことが大事なのだと、教えてくれた。
 彼の生き方に憧れて、私もそうありたいと思った。彼は、そうあればいいと、そうなれると、背中を押してくれた。
「ヒカルは、『私』を見てくれる……」
 彼のことを話していると、心の奥が温かくなってくる気がした。
「……なんだか、私たち、似てるのかもしれないね」
 ユキが、小さく笑った。
「修ちゃんもね、『私』を見てくれたんだ」
 彼女は、自分を押し殺していた時期があったらしい。けれど、シュウはユキという存在そのものを見つめてくれる。それは、ヒカルが、私の存在そのものを見てくれたのと同じことなのかもしれない。
「そうなのかもしれないね……」
 そう答えて、私はユキを見る。
 私よりも小柄で、華奢で、可愛らしい少女だ。だけど、もしかしたら私よりも大きくて強い心を持っているのかもしれない。
 負けたくない。何となく、そう思っていた。私も、強くなりたい。
「ねぇ――」
 オーブンレンジを見つめていたユキへ、静かに声をかける。
 次の言葉を発するのに、たった一言だけなのに、とてつもなく勇気が必要だった。
「――私たち、友達に、なれるかな……?」
 小さく、か細くなっていく私の声を、自分でも感じていた。
 共に歩く仲間でいることを認めてもらえた。それだけでも十分だ。けれど、もしも、彼女と友達になれたら。ヒカルにとってのシュウのような存在に、彼女がなってくれたら。どれだけ素晴らしいことなのだろう。
 今まで、私がずっと求めていたものの一つ。
 友達。
 ユキと、友達になりたい。
「……違うよ」
 ユキは一度だけ首を横に振った。
 私はびくりと肩を振るわせて、息を呑む。
 違う。友達には、なれない。そういうことなのかと思いかけた次の瞬間、ユキは私に笑いかけて。
「一緒にクッキー焼いたんだもん。私たち、もう、友達だよ?」
 その言葉に、涙が溢れそうになった。
「ありがとう……」
 私はそう答えるのがやっとだった。
 涙がこぼれそうになるのと同時に、オーブンレンジが音を立てて、クッキーが焼き上がった。オーブンレンジを動かしていたのをすっかり忘れていたから、涙が引っ込んでしまうほど私は驚いていた。
 ユキもレンジの音に驚いたようで、私は彼女と顔を見合わせて笑い合った。
 そうして、焼き上がったばかりのクッキーを持って、私はヒカルとシュウのいる二階へと戻った。
 ヒカルとシュウはテレビゲームではなく、カードゲームをやっているようだった。
「できたよー」
 笑顔のユキの声に、二人が私の持つ皿を見る。
「どれどれ」
 ヒカルが一つを手にとって、齧る。
「ん、上手くできてるよ。美味しい」
 二口目は残りを丸ごと口に放り込んで、ヒカルは微笑んだ。
 その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。ほっとした安心感と、嬉しさが込み上げてくる。
「ほぉー、初めてにしちゃちゃんと焼けてるな。もっと失敗するかと思った」
「失礼だなお前」
 シュウも手に取り、感想を呟く。それにヒカルが突っ込む。
「お前だって、失敗したらどうするって聞いたら返事に詰まってたじゃんよ」
「私が教えたんだもん、ちゃんとできるよぉ」
 ヒカルに言い返すシュウに、ユキが頬を膨らませて文句を言う。
「でも、実際に作ったのはセっちゃん一人だよ。私は指示しかしてないから」
「……セっちゃん?」
 ユキのその一言に、私とヒカルの声が重なった。
「だって、セルファだから、セっちゃん……変、かな?」
 人差し指を突き合わせながら、ユキが小さく呟く。
 ニックネーム、ということだろうか。
 ヒカルはちらりと私を見る。
「……ニックネームなんて、つけてもらったことないから、ちょっと照れ臭いけど、私は、その……嬉しいかな」
 ぼそぼそと呟く。
 親しみを込めて、そう呼んでくれているのだとしたら、嬉しい。友達の証として、その愛称を付けたというのなら、嫌がる理由はない。くすぐったいような気持ちはあるが、不愉快ではなかった。
 ヒカルはなんとなく察したようで、私と目が合うと小さく笑みを浮かべた。
「そっか、良かった!」
 手を合わせて満面の笑みを浮かべるユキは、本当に可愛らしかった。シュウもそんなユキを見て穏やかな表情をしていた。
「ええと、それで、今度は何をしてたの?」
 私は気になっていたことを尋ねた。
「ああ、クリコレ、クリーチャーコレクションっていうカードゲームだよ。マイナーなんだけどね」
 ヒカルはそう言って、ルールを簡単に説明してくれた。
 向き合って一対一で行う対戦型カードゲームで、デックと呼ばれるカードの束は五十枚で構成されているらしい。手札は基本的に六枚で、対戦は横三マス、縦 四マスの合計十二マスのフィールドで行われるようだ。対戦者の手前にある中央一マスが本陣と呼ばれるベース地形となり、そこから手札にあるクリーチャー カードを召喚して陣取りを行うものらしい。山札の一番上を伏せカードとして代理地形とするか、手札から専用の地形カードをフィールドに配置してクリー チャーを進軍させていき、最終的に相手の本陣を占領するか、山札がなくなった時点で占領している陣地の多い方が勝ちとなるルールだそうだ。
「……やってみる?」
「お、だったら有希もどうだ?」
 ヒカルの提案に私が答えるよりも早く、シュウが反応した。
「俺たちが横で教えてやるからさ」
 ヒカルとシュウに促されて、対戦用のシートの前にユキと向かい合わせになって座った。
「俺のは対抗、いわゆるカウンター攻撃に優れた構成になってる。光のは単体で高火力のユニットが多い力押しのパワー型の構成だ」
「だからお前のとは相性あんま良くねぇんだよなー」
 ヒカルが苦笑しながらカードをシャッフルする。
「ま、俺のが長いしな」
 シュウがにっと笑う。
 このカードゲームは元々シュウがハマっていたものらしい。ヒカルはシュウに誘われる形で始めたようだ。テレビゲームとは違って、カードゲームではシュウ に分があるらしい。戦績は大体、ヒカルが三でシュウが七と、本当にテレビゲームでの対戦とは真逆の結果になっているようだ。
 手札が配られ、ヒカルと共にどんなカードがきているかを確認する。
 地形に設定されているリミット数値を超えるレベルのユニットは存在できない。本陣は十、代理地形は八だから、それを考えてユニットを配置しなければならない。リミットの多い地形を置く場所も戦略に関わってくる。
「どうすればいいかな?」
 ヒカルをちらりと見る。
「俺のデックはユニットレベルの高いものが多いから、展開用の布陣が揃わないと回しにくいんだ。その手札が来るまではちまちま出してくしかないな」
 基本的に、ユニットは本陣から出撃して行かなければならない。ユニットレベルが高ければ高いほど、地形の占有率も高く、手札を回すのが難しい。それを補うためのユニットや地形があるようだが、今の手札にはなかった。
 見れば、ヒカルの言う通り、レベルが六、八といったユニットしか手札にはなかった。一枚しか出せないならば、とレベル八のユニットを本陣に置いて、地形 を一つ本陣の手前に置いてみた。配置したばかりのユニットは移動ができないという制約があるため、私のターンはそれで終わることとなった。手札を規定枚数 まで補充して、相手のターンが始まる。
「げっ、いきなりバハムートかよ」
 シュウが頬を引きつらせて呻いた。
「強いの?」
「あれはやばいぞ、要注意だ」
 ユキの言葉に頷いて、シュウが彼女の手札を見る。
「まぁ、最初だし気楽に行こうぜ」
 そう言って、ヒカルは笑った。
 私はそれに頷いて、ユキのターンが終わると直ぐにバハムートを進軍させ、本陣に次の高レベルユニットを出撃させる。
「近付いてくるよ修ちゃん!」
 手札を見て呻るシュウに指示を請いながら、ユキは本陣のユニットのいくつかを一歩前に出す。
「あれは事故ってるな。チャンスだぞ」
 ヒカルが苦笑する。丁度良い手札がまってく回ってこないことを、事故る、と言うらしい。要は、手詰まり状態である可能性が高いということか。
 案の定、バハムートを前に進軍させて相手本陣の一歩手前へ移動させると、何の抵抗もなくあっさりと全滅させることができた。その地形に存在するすべての ユニットを倒すことができなければ、進軍は成功しない。戦闘フェイズが終了した時点で相手のユニットが残っていれば、進軍は失敗となり、進軍を試みたユ ニットは元いた場所へ戻らなければならないのだ。
「わわ、もう目の前に!」
「イチかバチか、手札全部捨てて補充だ!」
「う、うん!」
 ターン開始時の手札調整タイミングで、シュウは賭けに出た。
 が、再度引いた手札を見て、シュウは額を手でおさえた。あちゃー、と小さく呟くのが聞こえた。ユキはおろおろしていた。
 本陣にいくつもの低レベルユニットが召喚され、ユキの手札がなくなった。
「全部ユニットだったか……」
 ヒカルは察したらしい。
 ユキが手札を補充して自分のターンを終える。ユキが難しい表情をしながら手札を見つめていて、シュウは諦めたように小さく溜め息をついていた。
 私はバハムートを本陣へと進軍させる。ユキはユニットの能力で対抗しようとしたが、攻撃力が足らず、カウンターは失敗、バハムートがすべて薙ぎ払って進軍が成功してしまった。
「……えっと、勝っちゃった?」
 目をパチクリさせていると、隣でヒカルが笑い出した。
「えぇー! 早いよぉー!」
「出だしが悪いとこんなこともあるんだよ。特にあのデックは速攻もできるからなぁー」
 ユキが声をあげ、シュウはやれやれと溜め息をついている。
 決着が早過ぎたということもあって、お互いに再戦するのに異論はなかった。
 それから何度かユキと対戦しているうちにルールが飲み込めてきた。 
 紹介された通り、ヒカルのデックはユニットの平均レベルが高く、単体での戦闘能力の高いユニットが揃っていた。基本攻撃力や防御力が高いものや、それら はやや低いものの、高威力の特殊能力や多くのスペルカードが使用可能なものばかりだ。対するシュウのデックは、レベルの低い小粒ユニットが多めで、単体で の戦闘能力はどれもそこまで高くはないものばかりだった。ただ、数が多いということはそれだけ多くの特殊能力やスペルが使えるということでもあり、ダメー ジを軽減するスペルや能力、攻撃力を強化するスペルや能力などを多用されると、少数のユニットで構成せざるを得ないヒカルのデックでは対処し切れない場面 も多かった。時折混じっているクセの強いユニットとの連携も中々にイヤらしい。だが、逆に単体であればさほど脅威ではなく、態勢が整っていない陣地や攻め たい場所とは別の陣地に攻め入って、相手の手札の消耗を誘うといった戦略も見い出せた。
 テレビゲームよりは私もユキも、このカードゲームの方がいい対戦ができたように思う。それに、ちゃんとルールが分かって対戦できれば楽しかった。
 シュウのデックを借りて、ヒカルと対戦もした。さすがに持ち主だけあって、ヒカルは強かった。シュウのデックは組み合わせによって真価を発揮するタイプということもあって、今日初めて教わった私には扱うのが難しいデックだった。
 何かに熱中するという経験が私には今までなかったから、本当に楽しい一日だった。
 そう思いながら、私は布団の上に腰を下ろして窓から見える月を見上げていた。VANの自分の部屋で見ていた月とは、不思議と違って見える。
 少し無理を言ったが、私はヒカルの部屋に布団を敷いてもらって寝ることになっている。望んでここまできたとは言え、やはり一人は心細い。勝手も分からないし、いざという時にヒカルの側にいたいというのもあった。
「……何か、上機嫌だね?」
 夜、寝る前になって私の顔を見たヒカルはそう言った。
「そ、そうかな?」
 いつの間にか笑みを浮かべていたのだろうか。両手で頬に触れてみる。
「楽しかった?」
 ヒカルは、微笑んでいた。
「……うん」
 自然と、私も微笑を返していた。
 ここまできたことに不安はあった。だけど、たった一日だけでも、彼の傍にきて良かったと思えた。私の欲しかったものが、求めていたものが、ここにはある。
 今なら、分かる。ヒカルが失くしたくないもの、守りたいもの、欲しい未来が。
「私、頑張るよ」
 口には出さず、私はそう自分に言い聞かせた。
 大丈夫、きっと、頑張れる。そう思えたから。


 3 『空と海の狭間で』

 ――蒼は私の一番好きな色。
   それはヒカルの色。私にとって、自由の象徴だから。

 海に行きたい、と言い出したのはユキだった。
「よし、行くか」
 突然のことに目を丸くするヒカルを余所に、シュウは即答していた。
「せっかくの夏だもん」
 ユキが言うには、そういうことらしい。
 風物詩、ということなのだろうか。もう八月も終わろうとしているが、時期的には可能なのだろうか。
「九月半ばぐらいまで大丈夫な海水浴場があるから、そこにすればいいんじゃないかな」
 その日のうちにヒカルがコウジとカオリに相談したところ、そんな返事が戻ってきた。
 シュウの持つ力は移動手段としては使わないことになった。というのも、海水浴場のような人目のつきやすい場所への移動に使うのはまずいだろう、との判断だ。私の力で周囲から隠して移動することもできると進言したが、却下された。
「皆で行くのも楽しいんだよ」
 ユキは笑顔でそう言った。
 曰く、そこに至るまでの過程も大切らしい。楽をするのもいいけど、味気ない、と。
 それに、戦いやそれに関係することでもない限り、ヒカルたちは力を使うことを良しとしていない。普通にやれる部分は普通に、というのはもっともな意見だった。
 ただ、私は水着を持っていない。カオリもユキも、体格的に水着を借りることはできない。唯一シェルリアのものなら着れそうではあったが、生憎とVANを裏切ってヒカルについた彼女も水着の持ち合わせはなかった。
 海に行くという話が出た翌日、私はユキとシェルリアの二人と一緒に水着を買いに行くことになった。
 買い物自体、私には新鮮なもので、店の中を見て回るだけでもかなり面白かった。目的は水着だったが、ほとんど身一つでVANを抜け出してきた私は普段着も何着か購入することになった。
 あれほど無頓着だったのが自分でも嘘のようだった。
 色んな服をユキとシェルリアの二人と見て、議論して、試着した。興味がなかっただけあって、ファッションに疎い私には流行といわれてもピンとこない。自 分の好みで選んだらシェルリアには地味だと言われた。私からすれば、シェルリアは逆に派手だと感じる。対してユキは可愛い服が好みらしい。実際、試着する と似合っていた。
 当初の目的の水着と、普段着となる衣服をいくつか購入して、その日は帰宅した。水着は当日、海で着るまで見せないのが決まりらしい。
 ヒカルには「明日まで内緒」とだけ答えておいた。ユキにそう言うようにいわれたのだというと、ヒカルは納得したようだった。
 そして当日は大所帯で行くことになった。
 私とヒカル、ユキとシュウはもちろん、シェルリアだけでなくコウジとカオリも行くことになったからだ。だが、何より驚いたのはシェルリアが誘ったセイイ チも同行することになった点だろう。半ばシェルリアに強引に連れてこられたようだが、息抜き、という点には異論がないらしい。
 電車を乗り継いで、目的の海水浴場へと向かう。電車の中でのユキは終始楽しそうだった。確かに、ユキの言う通り、時間が経つにつれて私も楽しみに思うようになっていた。
 VANに居た頃、何度かビーチを見たことがあった。私自身がその場に行ったことはなかったが、力を使って視覚だけを飛ばして、海を見たことがある。
 だが、生身で訪れる海はまた印象が違った。今まで見に行った土地ではないというのもあるだろう。自分自身がその場にいるという臨場感もあるのだろう。
 ただ、印象を変えた一番の要因は私の隣にヒカルがいたということだろう。ヒカルたちと一緒に遊びにきた、というのが、私にとっては最も重要なことのように思えた。
 白い砂浜と、蒼い海、蒼い空。晴れ渡った空は美しく、それを反射してきらめく海も、綺麗だった。
「結構、人いるもんだな……」
 砂浜を眺めて、ヒカルが呟いた。
 見れば、砂浜には多くの人が海水浴にきているようだった。ビーチパラソルがいくつも見受けられ、波打ち際で遊ぶ子供たちや、水着姿の男女が多く行き交っている。
「盆を過ぎればクラゲが出るって良く言うよな」
 シュウの言葉に、ヒカルが顔を顰める。
「クラゲ?」
 ヒカルの表情に気付いて、私は聞き返していた。
 日本の海のシーズンというのは八月半ばまでということなのだろうか。
「小さい頃、海に来た時、クラゲに刺されたんだよ」
 あまり良い思い出ではなかったらしい。ヒカルは渋い表情で答える。
「ま、もし刺されたら有希に治してもらえ」
 冗談めかして笑うシュウに、ヒカルは鼻を鳴らして歩き出した。
「じゃあ、着替えて集合、ってことで」
 カオリの言葉に頷いて、男女に分かれてそれぞれの更衣所へと向かう。
 コインロッカーに荷物を入れて、カーテンで仕切られた個室の中で水着に着替える。着替えをまたコインロッカーに入れて、鍵付きのブレスレットを身に着けて砂浜へと戻る。
 ヒカルたちは少し早く着替え終わったようで、ビーチパラソルを設置しているところだった。ビニール製のレジャーシートを砂浜に強いて、パラソルを立て る。ロッカーに入りきらないクーラーボックスをシートの重し代わりにしつつ、交代制で休憩しつつ荷物番をすることになっている。
 ヒカルは濃紺のトランクスタイプの水着だった。特に装飾もない簡素なものだ。運動が苦手、とは言っていたが、体付きはそこそこだった。確かに筋肉質には 見えないが、そこまで華奢にも見えない。力を使っていたとはいえ、今まで強敵を相手に戦ってきたのだ。表面には出ていないが、それなりに肉体は鍛えられて いるはずだ。
 シュウの水着もトランクスタイプだった。こちらは黒い色のものだ。運動がそこそこ得意らしいシュウの方が肉体的には引き締まっているように見える。もちろん、比較的、ではあるが。
 セイイチは左右に白のラインが入った黒のトランクスタイプの水着だ。さすがに彼は体も鍛えているようで、一番体付きが立派だった。程良く引き締まっていて、均整も取れている。
「あ、セルファ」
 ヒカルが私に気付いた。
「どう、かな……?」
 私は自分の体を見て、ヒカルに視線を向けた。
 私が買ったのは蒼いセパレートの水着だった。その上に、碧色のパレオを腰に巻いている。
 私自身、お世辞にも、ナイスバディとは言えない。体を鍛えたことはないから、筋力はなく、華奢だ。細身だと言えば聞こえはいいが。胸も特別大きいわけではない。
「あ、いや、うん、似合ってるよ」
 頬をかきながら、ヒカルが言う。やや赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「そ、そう?」
 何だか照れ臭い。
「あ、もういるし。お待たせー」
 後ろから声がして、振り返るとユキとシェルリア、カオリがこちらへ歩いてくるところだった。
 ユキは白いワンピースの水着だった。フリルのスカートがついていて、とても可愛らしい。ただ、胸は私よりもなかった。
「……スク水じゃなかったか」
 本当に小さなシュウの呟きが、私には聞こえた。
「当たり前だろ……」
 ヒカルが溜め息交じりにシュウを小突いた。
「でもまぁ、これはこれで可愛いから良し!」
「もう、修ちゃんたらぁっ」
 何故かふんぞり返るシュウに、ユキは頬を赤らめて照れる。
「いいわね、相手がいるのって」
 シェルリアは苦笑しながら、そう呟いた。
 この中では一番スタイルが良いのは彼女だった。胸も年齢の割には大きく、形もいい。細身ではあるが、程よい肉付きで、バランスが取れている。少し羨ましいぐらいだ。露出の高めなビキニを身に着けた彼女は外国人ということもあって、既に周りの目を引きつつある。
「おばさんには肩身が狭いわね」
 カオリも苦笑いを浮かべていたが、こちらはシェルリアとは意味が違う感じだった。
 彼女もそこまでスタイルは悪くないのだが、本人からすれば若さというものが埋めがたいらしい。カオリもオレンジと白のセパレートの水着だ。コウジの隣に腰を下ろす。
「さてと、じゃあ泳ぎに行くか」
 シュウの言葉に頷いて、それぞれ動き出した。
 シュウとユキが波打ち際へ、セイイチもゆっくりと海の方へ歩き出し、シェルリアは周りを見回しつつ売店の方へと向かうようだ。
 最初の荷物番はコウジとカオリが受け持つとのことで、私はヒカルと一緒に砂浜を歩き出した。
「セルファは泳いだことってあるの?」
「大丈夫、泳げるよ」
 ヒカルの問いに、私はそう答えた。
 VANにいた頃に多少はスポーツもしたが、一人きりでは楽しめず、どれも長続きはしなかった。ただ、プールで泳ぐことは嫌いではなかった。一人で水の上に浮いていたり、気の向くままにゆっくり泳いだりするのは、何となく好きな方だったと思う。
「ヒカルは?」
「泳ぐのだけは、得意なんだ。人並み、って程度だけどさ」
 ヒカルはそう言って笑った。
 病弱だった頃に、スイミングスクールに通っていた時期があったらしい。水泳で心肺機能を鍛えるのが持病に良いとかで、泳ぐことは人並み以上にできるようになったとのことだ。
 運動全般が苦手と言っていたから、少し意外だった。
「ま、クラゲに刺されてから海には来たことなかったんだけどね」
 苦笑しつつ、ヒカルは言った。
 どうやらそれがトラウマになっているようで、海に対して苦手意識を持っているようだった。
「じゃあ、本当は来たくなかった?」
 もし、私やユキのわがままに付き合っているだけなのだとしたら、申し訳ない。
「いや、セルファと一緒なら……」
 それでも海にきたのは何故かと問われて、ヒカルは小さくそう呟いた。
「後はクラゲに刺されなければ、ね」
 私が目を丸くするのを見て、ヒカルは悪戯っぽく言った。
「さ、泳ごう」
 私の手を引いて、ヒカルが海へと足を踏み入れる。
 まだ、夏の暑さは続いている。海の水温は心地が良かった。
 ゴーグルを付けて、泳ぎ出す。
 言うだけあって、ヒカルは泳ぐのが上手かった。平泳ぎの方が得意らしい。足がつかない場所まで泳いで、海の中に潜ってみる。泳いでいる人の姿が沢山見えた。たまに、小さな魚が泳いでいるのを見つけた。
 しばらくそうやってから、腰までぐらいの浅瀬へ戻ってゴーグルを外す。唇を舐めると、海水の塩辛さが口の中に広がった。
「少し休憩しようか」
 ヒカルの提案に頷いて、海から上がる。
 水の中ではあまり感じなかったが、体が重い。少し疲れたようだ。改めて運動不足だと実感した。
 座り込んで大きく息を吐く私を見て、ヒカルは小さく笑う。
「アイス買ってくるよ」
 そう言って、海の家と呼ばれる売店の方へとヒカルが歩いていく。
 周りを見回すと、大勢の人が行き交っている。これでもピーク時よりは少ないらしい。
 それでも、こんなに人の多いところにきたのは初めてかもしれない。VANも人は沢山いたが、建物の中ということもあって、こんな賑わっているような空気はなかった。
 とても新鮮だった。
 そんな中に自分が紛れ込んでいることが、何となく嬉しい。お姫様のような扱いではなく、ただの女の子のように存在していられるのが嬉しいのだ。私は、きっとそうありたかったから。
「お、そこの君、可愛いねぇ」
 不意に、声をかけられた。
「外国人じゃないか、日本語分かるかな? キャンユースピークジャパニーズ?」
「え? 私?」
 私の前に回り込むようにして、三人の男が覗きこんでくる。
「お、日本語話せるじゃーん。ね、一人なら俺たちと遊ばない?」
 良く肌の焼けた茶髪の青年がにっと笑いながらそう誘ってくる。
「あの、あなたたちは……?」
 声をかけられるとは思っていなかった。それに、今までまともに人と会話をしたことのない私は声をかけられることにも慣れていない。どうすればいいのか分からなかった。
「な、大勢のが楽しいって」
 パーマの青年に手を掴まれて、半ば強引に立たされた。
「あ、これって……もしかして、ナンパ……?」
 はっと気付く。
 VANにいた頃に読んだ本や漫画とかと似た展開だ。
「おっ、分かってんじゃーん」
 一番筋肉質な青年がにこやかな笑みを浮かべる。
「えっと、その、私、待ってる人がいるから……」
 何と言えばいいのか迷って、ついそう言ってしまった。言ってから気付く、読んだ本でも同じように答えて、聞き入れて貰えなかったことに。
「そんなこと言わずに……」
 強引に手を引き寄せる青年に、身を引こうと抵抗するも、相手の力が強過ぎて効果がない。囲まれていて、逃げ出せそうにはない。
 いや、力を使えば不可能ではない。彼らを欺くことなど容易い。だが、こんな人目の多い場所で力を使っていいものだろうか。
「セルファ!」
 パーマの青年が腰に手を回そうとした直後、ヒカルの声が響いた。
 びくりと青年が手を引っ込め、私は手を掴まれたままヒカルの声の方へ振り返る。
「ヒカル!」
 ソフトクリームを両手に持ったヒカルが駆け足で近付いてくる。
「おっと、セルファちゃんて言うのかー」
「あれ、君の彼氏?」
「ふーん、なんかぱっとしないねぇ」
 三者三様の感想を述べ、ヒカルを見下ろす。三人とも、ヒカルより長身だった。ぱっと見でも、ヒカルより体格が良く見える。
「セルファちゃん俺たちと遊びたいってさ」
「そんなこと言ってない!」
 思わず、大きな声を上げていた。
 意外だったのか、三人は目を丸くする。
 手を振り払おうとして、できなかった。
「な、俺たちと気持ちいいことしようぜ? あんなの忘れるぐらい良くしてやっからさ……」
 下卑た顔で筋肉質な青年が私の肩を掴もうとする。
 身を捩ろうとした瞬間だった。
「――触んな」
 それは静かな声音だった。だが、低く、威圧するような声だった。
 はっとして見れば、ヒカルの眼が、据わっていた。あれは敵を見る時と同じ眼だ。それが、三人に向けられている。
「セルファは、俺の女だ」
 本気でヒカルが怒っている。
 手が緩んだ隙に、私は身を引いてヒカルの傍へと駆け寄っていた。
「おいおい、凄まれちゃってるよ?」
 三人はへらへらと笑いながら、視線をヒカルへと集中する。
 命の遣り取りをしたことのない者だから、ヒカルの威圧が効いていないのだろう。戦場の空気を知っている者なら、あれは背筋が凍るほどのプレッシャーを与えられるはずだ。
 小さく、ヒカルが溜め息をつくのが聞こえた。彼自身も気付いたらしい。
 どうすればいいのか私が迷っておろおろしていると、ヒカルは優しく微笑んでくれた。
「誰か溺れてるぞ!」
 突然、誰かの叫ぶような声が聞こえた。
 その瞬間、誰もが海を見た。
 遠くの方で水しぶきが上がっている。小さな子どものようだった。
「セルファ、これ持ってて!」
 ヒカルは私の両手にソフトクリームを持たせると、駆け出していた。
「ヒカル!」
 私の声に振り返ることもなく、ヒカルは迷うことなく海へと駆けていく。
「行っちまったぞ、あいつ」
 金髪の青年が唖然として呟く。
「……あの状況で彼女置いてくとか、有り得なくね?」
 パーマの青年は我にかえったようで、私の方へと一歩近寄ってくる。
 私はそれから離れるように身を引いた。
「ね、放っておかれちゃったんだし、俺らと行こうぜ?」
 筋肉質の青年がまた近寄る。
「貴方達は、助けに行かないのね」
 私は海の方へ視線を向けて、そう呟いた。
 水しぶきの上がっている場所に見える人影が少しずつ沈んでいくように見えた。
 他にも何人かが海に向かって行ったが、ヒカルが一番早い。恐らく、力場を体の内側に張り巡らせるセーフモードを発動している。その泳ぐ速度には誰も追い付けず、あっという間に溺れている子どものところへ辿り着いていた。
「いや、だってライフセーバーとかもいるっしょ?」
「自分たちの方が近いのに?」
 冷やかな私の目に、三人が言葉を詰まらせる。
「そんなことより、俺らと遊ぼうぜ?」
「人の命がかかってるのに、そんなこと、なんだ?」
 責めるような私の言葉に、三人は顔を見合わせた。みるみる表情が変わっていく。
 海では、ヒカルが子どもの下へ辿り着いていた。
 ヒカルは周りを見回して、水中に潜ったようだった。何かが絡まっているのだろうかと思った次の瞬間、ほんの一瞬だけ、蒼い光が見えた気がした。それは本当に一瞬で、水面が光を反射したのと見間違えるぐらい、一瞬の出来事だった。
「下手に出てればいい気になりやがって……!」
「もう強引に連れてっちまおうぜ」
 獣のような表情で三人が私に迫る。
 私はそれをどこか醒めた目で見つめていた。もう、絡まれた最初の頃のような戸惑いはなかった。
 ちらりと海の方を見れば、ヒカルが子どもを背中にしがみ付かせてこちらへ泳いでくるところだった。
「私はあなたたちには釣り合わないわ」
 浅瀬に辿り着いて子どもを下ろすヒカルを見て、私は三人へ言い放った。
「ああいう行動を起こせないなんて、小さいのね。それとも、貴方達は満足に泳ぐこともできないの?」
 両親だろうか、子どもの下へ一組の男女が駆け寄っていく。子どもも二人に飛びつくようにして、泣き始めた。
 親二人がヒカルに何度も頭を下げている。ヒカルは乱れた呼吸を整えながら、それに応じていた。
「なんだとっ!」
 掴みかかろうとする男の手をすり抜けて、私はヒカルの方へ駆け出した。
「ありがとうございます、本当に何とお礼を言ったらいいか……」
「いえ、ほんとに気にしないで下さい……」
 何度目かのお礼に、ヒカルは苦笑しながらそう答えていた。
「ヒカルっ」
 自然と私の顔には笑みが浮んでいた。
「次からは気を付けろよ?」
 泣き止んだ子どもに、ヒカルが笑いかける。随分と急いだのだろう、少し疲れたような笑みだった。
 子どもは小さく、だが確かに頷いた。それを見届けて、ヒカルはその場から離れるように歩き始める。私はヒカルの隣に並んで、右手のソフトクリームを差し出した。
「あ、ごめん、ありがとう」
 ヒカルは右手の水気を払って、ソフトクリームを受け取った。
「何か、嬉しそうだね?」
 私の表情を見て、ヒカルが呟いた。
「……だって、私の思った通りの人だったから」
 少し溶け始めたソフトクリームに口を付ける。冷たさと甘さが口の中に広がって、心地良かった。
「……助けられるのに、動かなかったら、後悔しそうだったからさ……」
 言いたいことに気付いたのか、ヒカルは少し照れ臭そうにそう言った。
 自分には十分助けるだけの力がある。だが、目立ちたくないとか、面倒だとか、そういう理由で動かなかったとしたら、それで命が救えなかったら、後悔する。だから、迷わず動いたのだろう。
 せめて、自分の手が届く範囲で命が失われるところを見たくない。たとえ自分の心のためだとしても、誰かを救おうと思えるのは立派なことだと思う。
「一瞬、力、使ったでしょ?」
「……うん」
 私の囁きに、ヒカルは頷いた。
 あの時、男の子の足にはロープが絡みついていたらしい。ロープは地面に食い込んでいて引き抜けず、男の子が溺れまいともがくことで余計に絡みつき、少し ずつ深みにはまっていく状況だったようだ。解く暇も惜しいと、ヒカルは自分の力を一瞬だけ発動させてロープを切断したようだ。
「あの子が気付いてなければいいんだけどな……」
 ヒカルが苦笑する。
 周りで見ていた者には、光が反射したぐらいにしか見えていないはずだ。きっと、大丈夫だろう。
「んふふ、美味しいね」
 私がにこにこしながらソフトクリームを食べるのを見て、ヒカルの表情も緩む。
「おい、まだ俺らの話は終わってねぇぞ……」
「まだいたのか……」
 後ろからかけられた苛立った声に、ヒカルがうんざりしながら振り返る。
 今にも掴みかかろうとする金髪の男に対して、ヒカルが身構えようとした時だった。
「目障りだ、失せろ」
 鋭い声が飛んで、一人の青年が割り込んだ。
 切れ長の、鋭い目つきの青年だった。木刀を持ったその体はかなり引き締まっている。腹筋も割れているし、三人組の誰よりも鍛えられていた。
「……刃!」
 ヒカルが目を見開いた。
 ハクライ・ジンだ。レジスタンスのリーダーでもある。
「何だ何だ? 青春中の少年少女を邪魔する不届き者かぁ?」
 面白いものを見るように、もう一人青年が後から現れる。野性味のある、熱気に満ちた目つきの青年だ。肉体的にはジンよりも彼の方が鍛えられているように見える。
「あなたは……!」
 エンリュウ・ショウだ。
「なんだおまえら?」
「いきなり割り込んで来やがって、正義の味方面か?」
 臆することなく、三人組が好戦的な言葉を吐く。
「女の敵は殺していいわよ二人とも」
「ちょっと瑞希、それは言い過ぎ……」
 後から遅れてやってきたのは、ヒムロ・ミズキとカナカゼ・カエデだった。ミズキは青を基調に赤のラインが入ったタンクトップとスパッツのようなセパレー トの水着姿だった。引き締まった体と、十分なボリュームの胸が絶妙なバランスを見せている。カエデは翡翠色のオーソドックスなビキニの水着を身に着けてい る。年齢相応の胸に、こちらも良く引き締まった体付きをしている。
 二人とも、シェルリアに負けず劣らずスタイルが良い。
「お、良い女いるじゃーん」
 三人組がいやらしい笑みを浮かべる。
「へぇ、俺らのパートナーを奪おうってか?」
 凄惨な笑みを浮かべるショウとは対照的に、ジンは終始冷ややかだった。
「邪魔しちゃってごめんねー、掃除は任せて」
 ミズキが私たちに囁く。
「何で四人がここに?」
「翔が言い出したのよ」
 ヒカルの疑問に、カエデが苦笑しながら答えた。
 ショウの提案にミズキがまず乗り、強引にカエデとジンも連れてきたらしい。
 見れば、もう決着はついていた。ジンが木刀を軽く払うだけで、男の一人が昏倒する。ショウの正拳突きがもう一人を吹き飛ばし。逃げようとした最後の一人をジンの木刀が叩き伏せていた。
「あの娘に手を出していたら、命は無かっただろうな」
 ふっと、冷笑を浮かべて、ジンはそう告げていた。
 あの娘、というのが私を指しているのだと気付いて、どきりとした。ジンもショウも、赤子の手を捻るように三人を薙ぎ倒したが、もし私が何かされていた ら、それをしていたのはヒカルだっただろう、と。いや、きっと私の身に何かあればヒカルは力を使うことも厭わなかった。あの時見せたヒカルの本気の眼は、 その意志の表れだ。
「ま、今回は俺らも遊びにきてるだけだから、他意はないぜ」
 ショウが言った。
 レジスタンスとしてここにいるわけではない、と。
「でも、ちょっと見直したわね。俺の女、なんて結構言うじゃない」
 ミズキの茶化すような一言に、私もヒカルも顔が赤くなる。
「見てたのかよ!」
「いざって時は助けてやろうとは思ってたさ」
 ヒカルの言葉にショウが笑いながらそう言った。
「その必要もなかったとは思うがな」
 ジンが溜め息交じりに呟き、歩き出す。
「水差してごめんなさいね、私たちのことは気にしないでいいから」
 苦笑いを浮かべて、カエデはそう言うとジンを追った。
 しばし唖然として、私とヒカルは四人が歩いていくのを見つめていた。
「あの四人も来てたんだ……」
 ヒカルの言葉に、私は頷くしかなかった。
 溶けきる前にソフトクリームを平らげて、ヒカルと私はコウジたちの下へ戻ることにした。
 戻ってみると、パラソルの横にはシュウが仰向けに寝転んだ姿勢で首から下を砂に埋められていた。その隣に腰を下ろしたユキは何故か満足気な顔でオレンジジュースを飲んでいた。
「何やってんの?」
「結構あったかいぞ」
 ヒカルの問いに、シュウは平然とそう答えた。恐らく、ユキが埋めたのだろう。
「よし、頭も埋めよう」
「それは死ぬ!」
 ヒカルの言葉にシュウがぶんぶんと首を横に振る。
 どうやら、コウジたちと荷物番を交代したらしい。
「結構前だけど、朧先輩が女の子に声かけられてるの見たぞ」
「まぁ、先輩かっこいいから……」
 シュウの言葉に、ヒカルは苦笑しつつそう呟いた。私は男に絡まれたが、逆もあるらしい。私の場合はヒカルがいたから拒否したが、セイイチは相手がいない。彼はどうしたのだろうか。周囲を見回しても、セイイチの姿は見えなかった。
「そういえば、刃たちが来てたぞ。完全に遊びにきてるらしいけど」
 ヒカルはそう言いながら、丁度シュウの股間辺りに砂を盛り始めた。
 それを見てジュースを吹き出すユキ。笑い転げるユキを見て、シュウが事態に気付く。
「ちょ、おま、何をする!」
「ふはは、抵抗できまい!」
「ぬおお! やめろぉー!」
 首をぶんぶん動かして抵抗しようとするも、砂に埋もれたシュウは何もできない。ヒカルはそれを意地悪そうに笑いながらどんどん砂を盛っていく。
 途中で私も耐え切れずに吹き出した。ユキと一緒に笑い転げる。
 何も考えずにただ面白くて笑ったのは本当に久しぶりだった。ただ、笑い過ぎてちょっと苦しかった。
「写真、撮っとくね」
「やめてぇぇぇぇぇ!」
 笑い過ぎて目尻に涙を浮かべたまま、ユキは携帯電話のカメラを起動してシュウに向けた。見れば、腰の高さぐらいまで砂が盛られている。
 シュウの叫びも空しく、可愛らしいシャッターの電子音が響く。ヒカルは腹を抱えて笑い転げていた。
「後でその写真データ頂戴」
「うん、いいよー」
「だめぇぇぇぇぇ!」
 ヒカルの言葉にユキは笑顔で応じ、シュウが絶叫する。
 ひとしきり笑った後に、コウジとカオリが戻ってきた。二人ともシュウの様相を見て大笑いしていた。それから掘り出されたシュウはげんなりしていた。
 それからは、シュウとユキも一緒に行動した。浅瀬でビーチバレーみたいなことをしてみたり、波打ち際で砂を弄んだり、海に入って泳いでみたり。
 本当に、楽しかった。
 帰る間際になって、セイイチとシェルリアが戻ってきた。セイイチはあまり変わった様子はなかったが、シェルリアは何だか上機嫌だった。心なしか、肌がツヤツヤしていた気もする。
「楽しかったぁー……」
 帰りの電車の中で、ユキが笑顔で呟いた。
「うん、楽しかった……」
 私も自然と、そう応じていた。
「先輩とシェルリアはどうだった?」
「まぁ、悪くはなかったな。それなりに楽しめた」
「また行きたいわね。中々いい男にも会えたしね」
 ヒカルの問いに、セイイチとシェルリアがそれぞれ答える。素っ気なくはあったが、微笑を浮かべているあたり、セイイチも楽しめたようだ。シェルリアは含みのある笑みを浮かべていた。
「ねぇねぇ、二人とも、これ見て」
 何を思い付いたのか、ユキが携帯電話の画面を二人に見せる。
「ぷっ、なにこれ」
 吹き出すシェルリアの隣で、セイイチもくくっ、と喉を鳴らして笑っていた。
 何を見せたのか気付いたシュウが止めに入り、ユキが携帯電話を隠す。
 慌てるシュウを見て、皆が笑う。
「でも、楽しかったよ。セルファが一緒だったから、かな? ま、クラゲにも刺されなかったしね」
 ヒカルが小さく呟いた。最後の方は照れ隠しのように思えた。
「また、こようね……」
 はしゃぎ過ぎたかもしれない。疲れがどっと押し寄せてきて、眠くなってきていた。
 数分もしないうちに、私はヒカルに寄りかかるように眠りに落ちていた。
 後でコウジとカオリに聞いた話だが、私が眠ってしまった後、ヒカルも寝てしまったらしい。ユキとシュウも寝てしまっていたようだ。
 疲れたけれど、楽しい一日だった。こんな日常がずっと続いて欲しいと、心の底から思った。
 私も、これからはこんな毎日を手に入れるために、VANと戦うんだ。ヒカルと、一緒に。
 想いは、また強くなっていく。


 4 『光の隣』

 ――あの戦いが終わってから、慌ただしい日々が続いている。
   それでも、私とヒカルにとっては穏やかな、大切な、求めていた日々だ。

 あれから、私たちを取り巻く環境はがらっと変わった。
 世間はVANの長を倒したヒカルを大戦の英雄、ライト・ブリンガーと呼んでいる。
 結局、私たちが望んだような今まで通りの日常というものは、戻ってこなかった。ヒカルを始め、あの決戦の時に中心となったメンバーは顔と名前が世界中に 知れ渡ってしまった。戦いが表面化してからというもの、世界は急激に変化せざるをえなかった。力の存在が表に出てきてしまったのだから、当然だ。
 連日、ヒカルたちはマスコミに追われ、まともな生活など送れる環境ではなかった。世界のバランスそのものが急変したこともあって、放っておけば落ち着くかもしれない、という楽観視はできなかった。
 あの戦いに参加した一人、というのならまだしも、私たちは名前が知られ過ぎている。普通の人のように就学はおろか、まともに就職ができるとは思えなかった。
 多くの人の認識では、私たちはまともに関わり合いになるべき存在ではなくなってしまっていた。
 ただでさえ、あの戦いの中心にいた、実力者なのだ。普通の人間からすれば、どれだけ危険な人物か分かったものではない。
 だから、ヒカルは再び動くことにした。
 自分たちが望む日常が得られないなら、創ればいい、と。
 元々、VANという存在自体には敵意を持っていなかったのもあるのだろう。ヒカルはVANの残党と、レジスタンスの双方をまとめ上げて国を興すことを提案した。
 VANという組織は事実上、瓦解していた。高いカリスマを持ち、VANの中心でその組織そのものを支える存在でもあったリーダーがヒカルによって殺され た。それだけでなく、VANの実動部隊は決戦の際にそのほとんどがレジスタンスに敗れ、壊滅していた。特に、主要な特殊部隊長は軒並み死亡しており、組織 としての機能はほとんど失われたに等しかった。
 ただ、生き延びたVANの人員は多く、非戦闘員は居住地域と共に無傷と言って良かった。そのVANの居住地域はそれだけでも一つの都市として機能できる規模を持っている。実際、居住地域自体は大戦以前の生活を続けていた。
 生き延びたVANの構成員は崩壊した本部跡地で瓦礫の撤去など、復興作業を始めた。
 結局、争い自体は収束したが、事態が大きく変化したわけではなかった。VANという組織に戦意はなく、事実として組織を率いて世界と一戦交えようとする者もいなかった。ヒカルの存在が、VANが再び立ち上がろうとするのを抑制していたのは明らかだ。
 あの戦いの最後、ヒカルが示した力は、すべての能力者から戦意を奪うのに十分だった。あの場で戦っていたすべての能力者が、力を打ち消され、解放していた力を強引に閉ざされた。VANの長にすら、そんな芸当はできなかった。
 名実共に、ヒカルは能力者の頂点に立った。だからこそ英雄と呼ばれることにもなり、戦いも収束した。
 ヒカルは私に思いを打ち明け、シュウに相談し、ジンたちレジスタンスの四天王にも話をした。
 VANの跡地に、新しい国を創ろうと思う、と。
 それはVANを継ぐことではないのかと、一瞬思った。
 だが、ヒカルはそれを否定した。
「VANは、力を持つ者のことしか考えていなかった。だけど、俺は、そうじゃなくて、望む人なら誰でもそこに暮らせるような場所にしたいんだ」
 あの時、ヒカルはそう言った。
 力を持たない者すべてを敵と見做して、居場所を無理矢理勝ち取るために争いを起こしたVANとは違う、と。力の有無に関わらず、望むならどんな者であろうと受け入れる。そんな国がいいのだ、と。
 その思いは、VANの長だった私の父とは違っていた。
 ヒカルは最初、ジンに国のトップを頼もうとしていた。それを止めたのは他ならぬシュウだった。
 VANのリーダーを倒した本人であり、大戦の英雄でもあるヒカルが中心になるべきだと、シュウが言ったのだ。ジンにはカリスマも、実力も、レジスタンス のリーダーという立場もあるが、実際に戦争を終わらせたのはヒカルだ。ヒカルがジンの部下だったわけではないし、厳密にはレジスタンスでもない。
 だから、レジスタンスとVAN残党を繋げる役目は、ヒカルにしかできない、と。
 英雄の名を使うことで、他の誰かがやるよりも世界に対して納得させることもできる。
 シュウはそう主張した。
 ヒカルはジンとも相談し、結局自分が中心になることを決意したようだった。
 そして、ヒカルはシュウ、ジン、カエデ、ショウ、ミズキと、私を連れてVANの跡地を訪れた。
 復興作業をしていたVANの人間たちは私たちを見て警戒したが、ヒカルは国を創りたいと、その話し合いの場を持ちたいと訴えた。
 VANの人間たちは顔を見合わせて、その場で相談を始めた。ヒカルたちを信用していいのかどうかという点から、VANという組織の今後の在り方についても話し合い、結論としてヒカルたちの話し合いに応じることを承諾した。
 復興作業の中心になっていた何人かと、居住地域から選出された何人かが代表として参加することとなり会談は始まった。
 会談は四度に渡って行われ、その最後の四度目の会談で話はまとまった。結果としては、レジスタンスとVANの和解が成立し、ヒカルの主張が通る形になった。
 元々、レジスタンスの中で最もVANを敵視していたのはジンだった。ただ、ジンの真意は復讐であり、それ自体は大戦の際に果たされていた。復讐を遂げたジンにとって、今のVANを敵視する理由はなかった。
 この会談はVANの残党がヒカルやレジスタンスを受け入れるかどうかが焦点だったと言っていい。VAN残党の中には強く反発する者もいたが、争いには発展しなかった。
 そうして、和解成立から三日後、ヒカルはVAN跡地から全世界に向けて演説を行った。
 VANのように、能力者だけの場所ではない。ありとあらゆるものに寛容な、そこで暮らすことを望む者すべてを受け入れるような場所にしたい。
 ヒカルはひたすらに訴えた。
 自分が戦うに至ったのは、居場所を脅かされたからであると。ただ、当たり前に暮らしていける場所があれば良かったのだと。今の世界は、それができない。だから、自分たちで創るのだ、と。
 VAN本部施設を国の中枢として、国を興そうとしていることを、ヒカルは語った。
 演説の後、数日のうちにVAN跡地には多くの能力者が集まった。それぞれの国で生きることが困難になった者ばかりだったが、ヒカルたちは彼らを受け入れた。
 そういった者たちの参入もあり、復興は凄まじい勢いで進んだ。
 崩壊していた本部施設は元通りとなり、国の中枢になることが決まった。居住区画を拡大する都市計画なども、専門知識を持つ者たちが集まったおかげで当初の予定よりも早く目途が立つことになった。
 様々なものが一斉に動き始めた。
 そして、年が明ける前に、ヒカルはユニオンという国の設立と独立を宣言した。
 初代首相にはヒカル自身が就任し、首脳陣にはレジスタンスとVANの実動組織、居住区域から代表が選出された。
 それからの生活は慌ただしいものではあったが、あのまま日本で過ごすよりは平穏だったと思う。
 ヒカルは法整備やら何やらに追われ、様々な取り決めに対して頭を悩ませながらも国のトップとして頑張っている。周りで補佐してくれる者たちがいることもあって、何とかやれている。
 私は、新しい自宅でヒカルの帰りを待ちながら暮らしている。隣にはシュウの家ができ、ユキも共に暮らしている。
 また、ヴィクセンというジャーナリストのすすめで、ヒカルはあの当時の体験記の執筆を始めた。本の形にした方が、分かり易いのではないか、とヴィクセンは言っていた。もっとも、ヴィクセン自身もヒカルの目線からあの当時のことを知りたいようだった。
 年が明けて半年ぐらいして、コウジとカオリの間に子どもが生まれたと報告があった。仕事の合間を見つけて、私はヒカルと一緒に日本へ渡った。時間的な余 裕はなかったから、私の力で移動することになったが、仕方が無い。極力誰にも知られないように注意して、私たちは密かに二人を祝った。
 それから暫くして、シュウとユキの間にも子どもが出来たことが分かった。家が隣同士だったこともあって、私はユキと過ごす機会が多かった。
 私としては、嬉しくもあり、羨ましくもあった。
 そうして、あの戦いから一年と半年が過ぎた頃にヒカルは体験記の第一巻を出版し、ユキも出産を終えた。既にショウとミズキの間にも子が生まれ、カエデも妊娠中だ。
 対して、私とヒカルの間には、中々子どもができなかった。
「……ごめんね、ヒカル」
 ベッドの中で、私はヒカルに謝った。
「……何でセルファが謝るんだ?」
 ヒカルは不思議そうに、そう言った。
「今日、ジェーンさんに調べてもらったの。そうしたら、私は元々子どもが出来にくい体質なんだって言われて……」
 毎晩とは言わないまでも、当然だが私はもう何度もヒカルと夜を過ごしている。
 ストレスなどで子どもができにくくなるという話もあるが、私自身は至って健康だ。生理不順でもないし、別段冷え症というわけでもない。むしろ、今の生活はそれなりに大変だが幸せだ。
 いくらなんでもおかしいと思った私は、何でも見通すことのできる力を持つジェーン・オウルという能力者の下を訪ね、調べてもらうことにしたのだった。彼 女はこの国で新たに目覚めた能力者の力の鑑定を行っている。私も何度か手伝ったことがある。それに、あの戦いの時にもヒカルの力を鑑定し、助言をくれた存 在でもある。
 結果、私の体質だと言われた。
 遺伝かどうかまでは分からないが、私は子孫を残す能力が弱い、と。強力過ぎる力の反動かもしれない、とも言われた。
「別に、謝ることはないよ」
 ヒカルはそう言って、私の頭を撫でた。優しい表情で、申し訳なさそうな顔をする私を抱き締める。
「出来ない、って言われたわけじゃないんだろ?」
 ヒカルの言葉に、私は彼の胸に顔を埋めたまま頷いた。
「じゃあ、大丈夫だよ」
 ヒカルの顔を見上げる。
 優しい表情で、私を見ている。
「子どもが欲しいから、セルファと一緒になったわけじゃない。セルファが好きだから、セルファに子を生んで欲しいと思うんだ」
 言い聞かせるような言葉に、私は俯く。
「一生出来なくたって、君と要られるなら、俺は構わない」
「でも……」
「養子を貰ったっていい。俺にとってはセルファが一番なんだ」
 ヒカルはそれでいいかもしれない。
 けれど、私はヒカルとの子が欲しい。ヒカルとの間に子どもができるのが、一番だ。それはヒカルだって同じはず。
「俺たちのペースでいいじゃないか。急ぐことなんてないさ」
 優しく私の髪を撫でながら、ヒカルが言う。
 私のせいじゃない、と言っているような気がした。私の体が原因だとしても、私がそれを自分でどうこうできるわけではない。生まれつきのものなら、尚更だ。
「いっそ、私の力で――」
「それはやめよう」
 私の呟きを、ヒカルは遮った。
 私が持つ力は、理論上、あらゆることができるというものだ。それで自分自身の体質を変えることも、確証はないができるかもしれない。
「どんな悪影響があるか分からないし、それに」
 ヒカルが私を抱き締める。
「ありのままでいいんだ、俺は」
「あ……」
 その言葉で、思い出した。
 ありのままの私を受け入れてくれたから、私はヒカルに惹かれた。ヒカルも、私を好きになってくれた。
 手を加えては、意味がない。それで悪影響がでるかどうかはさして問題ではない。その行為を認めることそのものが、問題なのだ。
 ヒカルは元々、何事もなく、そのまま生きていける未来を求めていた。自分を偽ることもなく、自分が思うように生きていく。それを、VANの長が、私の父が妨げた。
 自分にとって都合の良いように、他のあらゆるものを利用して、ヒカルを殺そうとした。ヒカルは自分だけでなく、他者も、極力生かそうとしていた。
 このできたばかりの国だって、ありのまま存在できること、を重視している。
「私、焦ってたのかな……」
 ユキや、ミズキ、カエデ、周りの人たちに、おいていかれた気がしていた。追い付かなければいけないような気がしていた。
「まぁ、そりゃあ、俺だって思うところはあるけどね」
 ヒカルは苦笑した。
「でも、俺は、今、幸せだから」
 それを聞いて、少し安心した。ヒカルも同じだったんだ、と。
 どちらともなく、視線を合わせる。唇を絡ませて、肌を重ねて、全身でお互いの温もりを確かめて。
 そして。
 その日、私はヒカルの子を宿した。
 私が気付いたのは、数日後だったけれど。
 ヒカルは喜んでくれた。私も嬉しかった。
 私が、彼と歩んできた証。
 私が、彼と歩んでいく証。
 ヒカルの隣が、私の居場所だから。
 私にとっての、光。
 私は、ヒカルの隣にいる。
 これからも、ずっと。
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