第三章 「崩れ始めた世界」 昼休み、いつものように木陰でユウキは食事を済ませて休んでいた。 一度曇った空は、今では青空に戻っている。直ぐ近くではレェンとナツミ、アキナが心地良さそうに転がっている。もしかしたら昼寝しているかもしれない。いつも通りの光景だ。 「いつも、ここにいるんだね」 「マーガレット?」 校舎の方から、マーガレットが歩いてきていた。 この場所にはいつもユウキたちしかいない。レェンが見つけた日当たりと風通しの良い場所なのだが、同時に目立たないという点でもユウキには都合が良い場所だった。 「どうしたのさ?」 マーガレットが来るとは思っていなかったため、ユウキは驚いていた。 「今朝のことなんだけど……」 マーガレットが目を伏せる。 「朝って、学校来てからの?」 ユウキの言葉に、マーガレットは頷いた。 空襲時のことだろうかとも思ったが、あの時のことは既に礼を言われている。だとしたら、マーガレットが関わっていて思い当たるのはディーンやトーカスたちとの一件ぐらいしかなかった。 「どうして、何も言わないの?」 マーガレットが呟くように言った。 トーカスの言葉に対する反論がなかったことだと、直ぐにピンときた。あの場で返事らしい言葉を返したのはユウキではなく、レェンだ。ユウキ自身はトーカスたちに対して何も言ってないに等しい。 「あんなに、頑張っているのに……」 「いつものことだろ?」 ユウキは苦笑して答えた。 力の強いユウキは、他のアウェイカーのプライドを容易く破壊してしまう。誰かを守って戦うアウェイカーですら、守る対象と見做せるだけの力がユウキにはあるのだ。今まで住民を守っていたアウェイカーは、守られる立場となった時プライドが傷付く者が多い。 同年代や、それ以上のアウェイカーには、特に良い印象を持つ者は少ないだろう。 「でも、私はユウキ君に助けてもらったよ……?」 何故か、マーガレットは寂しげな表情を見せた。 「ううん、私と一緒にいたあの子も、ユウキ君が助けたのよ……?」 一緒にいた子というのはウルナのことだろう。 あの時はユウキも冷やりとした。トーカスは噴水前に集まった者たちを守るのに手一杯に見えた。マーガレットがアウェイカーでもない限り、あの場でユウキが何もしないという選択は無かっただろう。 「何で、トーカスを叩いたんだ?」 ユウキは、聞いた。 いつも大人しいマーガレットにしては、あの行動は少々異常だ。叩いた本人が驚いていたのだ。周りの女子たちはマーガレットの行動を支持していたが。 確かに、トーカスの担当している区域でマーガレットとウルナが危険に晒されたのは事実だが、それでもトーカスは住民のために戦っていた。トーカスも手を抜いていたわけではないだろう。 「それは……」 マーガレットは僅かに表情を曇らせた。 「ユウキ君は、調子になんて乗ってないじゃない……」 「憎まれ口とか、陰口にはもう慣れたよ」 マーガレットの言葉に、ユウキは苦笑して答える。 ユウキにとっては言葉での悪口など、一目置かれて避けられることに比べればかなりマシだ。 「俺には、レェンや、ハルカたちがいるから」 理解してくれる人がいるから、トーカスの言葉は気にならない。悔しさを募らせても、力で返しても、良いことなどありはしないのだ。なら、気に留めないのが一番良い。 トーカスも、ユウキに対する敵意よりも自分自身への悔しさの方が強いはずだ。その裏返しだと思えば、ユウキへの挑発などかわいいものだろう。 「ユウキ君が戦わなかったら、私も、あの子も死んでいたかもしれない……」 マーガレットが悲しげに呟いた。 「だから、戦わない方が良かったなんて、言わないで……」 ユウキは、はっとした。 あの時の呟きが、彼女には聞こえていたのだ。小さな声だったが、意識していれば聞き取れたのかもしれない。それとも、単にマーガレットの想像だろうか。 寂しそうな、悲しそうな、何かを押し込めているような、マーガレットの顔をユウキは見上げていた。 聞こえていたのだとすれば、マーガレットには、戦わない方が良かったかもしれない、とユウキに言わせたトーカスとディーンが許せなかったのだろう。ユウキが戦わなければ、今頃マーガレットだけでなくウルナもこの世にはいなかったかもしれない。 「……冗談とまでは言わないけど、大丈夫」 ユウキは、マーガレットに小さく微笑んで見せた。 空襲の際に陣取る場所さえ変えれば、ユウキ一人分の穴はリョウとヒサメが埋めてくれるだろう。だが、あの二人が遊撃して駆け回っているからこそ救えた命もあるはずだ。 この国を守っているのは、ユウキ一人ではない。リョウやヒサメの戦力が大きいからと、甘えてしまっては意味がない。一人ひとりが持てる力の全てを出し合って守らねば、被害を限りなくゼロに近付けることなんてできないのだから。 「俺のせいで誰かが死ぬのは、嫌だから」 ざぁっ、と音を立ててユウキの頭上で木々が風にざわめいた。 ユウキの黒髪と、マーガレットの赤みがかった栗色の髪を靡かせる。 「俺にできることがあるなら、やらなきゃ」 右手で横髪を掻き揚げるマーガレットから視線を外して、ユウキは校庭へ視線を向けた。あそこで遊ぶ生徒たちの中には、朝ユウキとハルカが守った後輩たちもいる。 「親父がどうとかじゃない。俺が後悔したくないんだ……」 ユウキは僅かに目を細める。 目の前にある平和な景色が崩れてしまうのは嫌だ。 もし、空襲で住民の中に犠牲者が出ていたら、今この校庭にある景色は無いかもしれない。たった一人が死んだ、などという小さなものではない。友人が、家族が、知り合いの家族が、形を変えて、哀しみは広がっていく。 それだけで、きっと平穏は崩れてしまう。 自分の担当地区ではないからと、手助けをせずに死者を出してしまったら、それで崩れた平穏の責任はユウキにもあるだろう。 だから、誰に何と言われようと、ユウキは戦うことを止めるつもりはなかった。 「もし手を抜いてたんなら、俺だって一発ぐらいぶん殴りたくなるけどさ」 そう言って、ユウキは笑ってみせた。 もし、ユウキが来るからとトーカスが手を抜いていたのなら、話は別だ。力の強いユウキが頼られるのは仕方がないとしても、甘えられるのだけは許せない。必死に守ろうとするアウェイカーがそこにいるから、ユウキも手を貸すのだ。 「ユウキ君……」 マーガレットは、握り締めた右手を左手で包み、胸に当てていた。 また、どこか辛そうな表情だ。 「マーガレット、何で……」 何故、そんな顔をしているのか、ユウキには判らない。 聞こうとした時だった。 「またこんなところに!」 怒鳴り声と共に、ハルカが走って来た。 ユウキとマーガレットの様子などまるで目に入っていない。真っ直ぐにレェンのいる場所まで駆け寄り、気持ち良さそうに眠っている双子の妹を見下ろす。 可愛らしい寝顔にハルカの表情が和らぐ。顔を綻ばせつつも、気を取り直してレェンを睨み付けた。 「あ……」 ユウキが止める間もなく、ハルカは両手でレェンの頬を左右に引っ張っていた。 「いてててててっ!」 頬をつねられたレェンが目を覚まし、声を上げる。 「またあんたは二人を誑かして!」 「いや、俺先に寝てたし! 知らんがな!」 どうにかハルカの手を振り払ったレェンが抗議の声を返した。 「気付きなさいよ!」 「んなこと言われても……」 噛み付きそうな勢いのハルカに、レェンは左右の頬を両手で押さえながら涙目に見返している。 「あれ……?」 「お姉ちゃん……?」 騒がしさに、ナツミとアキナが目を覚ました。 左右対称な動きで起き上がり、これまた鏡合わせのように目を擦りながらハルカを見つめる。 「二人もどうしてこんなところで寝ちゃうのよ?」 ハルカは困ったような表情で妹たちの髪や服についた草を手で払い落とす。 「だってー」 「こんなところで寝たら服や髪が汚れちゃうじゃない」 ナツミの言葉に、ハルカは不満げに言った。 「芝生の上って気持ちいいんだよ?」 アキナが首を傾げる。何故、ハルカが不満そうにしているのか判っていないようだ。 ユウキは四人の様子に小さく溜め息をついて、視線をマーガレットへ戻す。 だが、そこにマーガレットの姿は無かった。 「ん? どうしたんだ、ユーキ?」 ユウキの僅かに驚いた表情に気付いたレェンが声をかける。 「いや……」 ユウキは、言葉を濁した。 誰も、マーガレットがこの場にいたことに気付いていない。レェンとナツミ、アキナの三人は完全に眠っていたようで、ハルカに起こされるまで記憶は途切れているに違いない。ハルカはハルカで、妹に気を取られ過ぎて周りが見えていなかった。ユウキすら目に入っていなかっただろう。 ハルカが来た後の騒がしさの中で、教室に戻ったのだと想像はつく。しかし、ユウキには唐突だった。 どうして、辛そうな顔をするのか、問うことができなかった。 結局、それから学校にいる間、気になってはいたが、休み時間になるとマーガレットはいつも通り友達と喋っていたため、ユウキが会話する機会は無かった。 突き出される拳を、ユウキは相手の手首を手の甲で弾くように向きをずらしてかわす。 そのまま腕を掴むと、肩でヒサメの鳩尾へとタックルをかけるように踏み込み、同時に左足を滑らせて脚払いをかける。ヒサメは脚払いに逆らわずに投げ飛ばされ、空中で身を捻り、ユウキの右腕を引き寄せた。 体勢を崩されたユウキのこめかみ目掛けて、空中からヒサメが水平に蹴りを放つ。ユウキは左手で蹴りを受け止めながら更に踏み込み、防ぐために掲げた左手で肘打ちに転じる。 ヒサメは掴んでいるユウキの右腕に身体を巻き付けるようにして、関節技へと持ち込む。空振りになった肘打ちの勢いを利用して腰を捻り、ヒサメの背中を床に叩き付けるように倒れ込んだ。 ヒサメは両脚で床を蹴り、ユウキの体勢を崩しつつ腕を放して距離を取った。 「随分と上達したじゃねぇか」 笑みを浮かべてヒサメが言った。 ユウキは今、ヒサメと練習試合をしている。ユウキ、ヒサメ、リョウの三人が一定の期間ごとに試合をするのは、道場では恒例になっていた。 通っている他の練習生たちは、観客に回っている。道場でトップレベルの実力者の試合は、他の者にとっても勉強になるだろうと、ヒサメの父、エンリュウ・ショウが推奨したのだ。 「何言ってんのさ、本気じゃないクセに」 ユウキは小さく息を吐いて言葉を返した。 格闘戦ではユウキよりもヒサメの方に分がある。ヒサメは両親から格闘技術だけを専門に習っているからだ。ユウキのように、全てを適度に学んでいるわけではない。 「じゃ、ちょっくら本気で行ってみるか!」 ヒサメの目が僅かに細められる。 たった一歩の踏み込みで、ヒサメは一瞬にしてユウキとの距離を詰める。跳ね上げられた拳を、ユウキは両手で押さえ込んだ。止まらない拳の勢いを利用して、ユウキはヒサメの真上を飛び越える。空中から腰を捻っての回し蹴りを、ヒサメは身を屈めながら踏み込んでかわす。 着地した時には、ヒサメが目の前にいる。 ユウキの目を見て、ヒサメは笑みを深めた。ヒサメの瞳に映っているユウキの顔に驚きはない。 ヒサメの強烈な拳打を、ユウキは上体を捻ってかわした。拳が空を切り、頬を風が掠める。ユウキは左足を踏み込んで、更に距離を詰める。 後退したところで、ヒサメの勢いは止まらない。だから、ユウキは踏み込んでいた。 ひゅっ、とヒサメが細く息を吐き出すのが聞こえた。 先ほど振り切っていたはずの右拳が、もう引き戻されている。同時に、横合いからユウキのこめかみを狙って左の拳が飛んでくる。ユウキは跳ね上げた右手でヒサメの左拳を弾いた。間髪入れず近距離から突き出される右拳を、左手で咄嗟に受け止める。 両脚で床を蹴り、拳の勢いに合わせて後方へ跳ぶ。衝撃をできる限り受け流しながら、距離を取った。 刹那、ヒサメの両目が光を帯びた。右目が真紅、左目が水色の光を放つ。 ユウキも、蒼と銀の光に身を包んでいた。 赤い陽炎のような残像だけを残して、ヒサメの姿がユウキの前から消える。 ユウキの両手から蒼い光が迸り、二振りの小太刀の形を作り出す。左は逆手に持つようにして、ユウキは二つの蒼い輝きを構えた。 背後からの気配へ、半身に振り返って左手の光を水平に突き出す。炎を帯びたヒサメの手刀を閃光の小太刀が受け止める。互いのエネルギーが干渉し合い、弾き合った。弾かれた勢いでユウキは腰を捻り、右手の刃を水平に振るう。冷気を帯びたヒサメの蹴りがユウキの攻撃を弾く。 振るわれた蹴りの軌跡から、氷の弾丸が放たれた。ユウキの左手の小太刀がすかさず氷を切り払う。 ヒサメは、炎と冷気を操る。二つのメタアーツを、ヒサメはその身に宿していた。相反する特性を持つ二つの力は、混じり合うことはない。ヒサメの保護領域が左右で色違いになっているのも、それを象徴している。 「炎冷撃!」 ヒサメが声を張り上げ、左右の拳を同時に一点へと突き込む。炎を纏った右手と、冷気に包まれた左手がユウキを捉える。 左右の小太刀を交差させて、ユウキはヒサメの攻撃を受け止めた。 熱気と冷気が互いに打ち消しあい、水蒸気爆発を起こす。ユウキは身体の前面に蒼い障壁を作り出し、爆発を防いだ。そのまま障壁を前方へと射出し、ヒサメに叩き付ける。 ヒサメの蹴りが障壁を突き破り、拳がユウキへと迫る。 冷気が頬を撫でた。背後から熱量を感じる。正面からの攻撃と同時に、冷気と炎でユウキの退路を塞いでいる。 ユウキは軽く歯を噛み合わせる。ユウキの腕から白銀の光の粒子が舞い散り、ヒサメが展開した力場を破壊した。正面から迫る拳を両手で掴み、身体をヒサメの懐に滑り込ませて投げ飛ばす。 空中で、投げ飛ばされたヒサメと目が合う。 ヒサメは、笑っていた。 綺麗に受身を取って流れるように立ち上がると、ヒサメは身構えもせずにユウキと向き合った。 「やっぱ、お前とやるのは楽しいわ」 ヒサメの言葉に、ユウキは大きく息を吐いて構えを解いた。 あまり長く試合をしても、他の者たちが練習する時間がなくなってしまう。道場の半分以上を占領してしまうのだから、そうそう長い時間は試合を続けられない。 決着が着かないのはいつものことだ。 「ユウキ、一太刀だけ付き合ってくれないか?」 いつもの試合が終わるかと思った矢先、リョウがユウキに声をかけてきた。 腰の左右に一つずつ、木でできた短刀を携えている。 「俺じゃ駄目なんか?」 「武器が使える相手に試してみたいんだ」 ヒサメの言葉にリョウは告げた。 ヒサメが格闘術に特化しているように、リョウは武器戦闘に特化している。特に、二刀流短刀術に秀でている。 「まぁ、俺はいいけど……」 ユウキは頬を掻きながら答えた。 リョウの相手が務まるのは、彼女の両親かユウキぐらいだ。実力だけならヒサメも同じぐらいだが、武器を持たないヒサメはリョウとは対極に位置すると言ってもいい。互いに実力を高め合う仲ではあるが、流派の違いは時として練習に都合が悪い場合もある。 「なら、行くぞ。構えろ」 リョウが保護領域を展開する。右目が金、左目が淡い緑に染まり、鋭く視線が細められる。 「使え、ユウキ」 ヒサメが近くの壁にかけられていた木刀をユウキへと投げた。 ユウキはそれを受け取り、正眼に構える。木刀の表面に力を張り巡らせて強化し、リョウの動きに集中する。 リョウは呼吸を整えながら、ユウキをじっと見つめている。刃のように鋭く視線と意識を研ぎ澄まし、リョウは精神を集中させていた。腰の左右の小太刀の柄を握り締めて。逆手に抜き放つように、右手は右腰の、左手は左腰の柄を掴んでいる。 雷鳴が轟き、リョウが動く。床を蹴ると同時に、身を雷で包み、一秒に満たぬ間に距離を詰める。 ユウキは、リョウの気配だけを認識して動いていた。リョウの両手が跳ね上がる。右の小太刀が雷を纏い、一瞬のうちにユウキの持つ木刀に接触する。左の小太刀は濃密な風を纏い、僅かに遅れて木刀へ到達した。 雷撃を帯びた短刀の衝撃の次に、風に包まれた小太刀がユウキの木刀を襲う。衝撃を殺し切れない状態で、圧縮された暴風を叩き付けられ、木刀が宙に跳ね上げられた。 「……受けてみて、どうだ?」 回転しながら落ちてくる木刀を片手で受け止め、リョウが問う。 「まともに受けたら、きついね」 ユウキは自分の右手に視線を落とした。衝撃で痺れた手が、かすかに震えている。 時間差攻撃に加えて、異なる衝撃力を持った連続攻撃だった。 初弾は雷撃を纏わせ、鋭く、突き抜けるような一撃を加える。必殺の一撃にも成り得るその攻撃で相手の動きを封じ、二撃目へと繋いでいるのだ。破壊力のある一撃で相手をその場に縫い止め、防御されても防御姿勢を保たせる。攻撃で押され、耐えるために硬直した相手へ、風を纏った二撃目を叩き付ける。 濃密な風は、雷とは違った衝撃力を持っている。重く、吹き飛ばすような二撃目が、僅かに硬直した相手を狙うのだ。 防御ごと相手を弾き飛ばすような攻撃だった。 生身で受けていたなら、重傷は確実だ。 「ただ、もしこれを凌がれたら、その次は?」 ユウキは木刀を受け取りながら、リョウに言った。 リョウは攻撃の際に両腕を伸ばし切っていた。次の一撃へ繋ぐにも、一瞬の隙ができそうだった。今回はユウキの武器が弾き飛ばされたから攻撃は成功だとしても、もし防がれたら確実に隙を突かれるだろう。 「ふむ、そうだな……」 リョウは顎に手を当てて考え込むように呟いた。 「すまない、参考になった」 そう言って、リョウは僅かに笑みを見せた。 恐らく、彼女も欠点には気付いていただろう。ただ、実際に放った時にどうなるかを確認したかったに違いない。 ユウキは息をついて、道場の端、壁を背にして腰を下ろした。 「疲れたか?」 隣で壁にもたれかかりながら、ヒサメが言った。 「ヒサメ先輩だってそんなに疲れてないでしょ?」 「まぁな」 ユウキが見上げると、ヒサメは笑った。 体力的には、ヒサメの方が上だ。体格もユウキより筋肉質でがっしりしている。 「先輩は、周りの視線が煩わしく思えたりとか、ない?」 溜め息交じりのユウキの言葉に、ヒサメは僅かに目を丸くしていた。 「何だよ、いきなり?」 「気にはなってたんだけど……」 ユウキは口篭った。 ヒサメやリョウはいつも堂々としている。ユウキのように、周りの視線に嫌気がさしている様子はない。自分自身を確立している、とでも言うのだろうか。周りの認識に重圧を感じた風もなく、その視線の期待の上を行く人物になっている。 ユウキと同じぐらい、二人も有名な人物になっているというのに、どうしてこうも違うのだろうか。 「まぁ、別にそこまで気にはならないかな」 ヒサメはそう言ってまた軽く笑った。 「何したって俺は俺なんだ。どうしようもないだろ?」 肩を竦めてみせるヒサメを、ユウキは眩しそうに見上げることしかできなかった。 周囲の視線があろうとなかろうと、自分自身はどうすることもできないと、ヒサメは言った。ヒサメはヒサメという人物以外の何者にもなることはできない。周りがどう見ようと、何を期待しても、ヒサメは他人にはなれない。 「だったら、俺は俺でいいじゃないか」 ならば、ヒサメは自分がやりたいように生きるしかない。惑うことなど何一つない。 「ヒサメは基本的に馬鹿だから」 不意に、リョウが会話に割り込んで来た。練習は一通り終わったらしく、タオルを首にかけている。 「馬鹿って何だよ、失敬な」 「褒めてるのよ」 僅かに笑みを浮かべて、リョウが返した。嘲笑うでもなく、確かにヒサメを認めているような表情だった。 「じゃあ、リョウは?」 話は聞いていたのだろう、ユウキはリョウに問い掛けた。 「私は縛られたくないだけね。私は、ありのままでいたい」 簡潔な答えが返ってきた。 視線を気にして、誰かの認識に縛られたくないと、リョウは答えた。 根本的には、二人とも同じように思えた。ただ、ここにいる自分自身だけを信じている。同時に、それでいいと思っている。自分自身の存在を、捻じ曲げることを善しとせず、ありのままここにあることを望んでいる。 「ユウキは、違うのか?」 リョウが問う。 ユウキだって同じだ。自分自身を否定したり、捻じ曲げたいなどと思ったことはない。ありのまま、自分に正直に生きていきたい。 「俺は……」 ユウキは俯いた。 結局、ユウキは自分に正直に生きている。誰かに憎まれたり、疎まれたりすると解っていても、空襲の際には他の地区へと向かっている。 違うのは、リョウやヒサメは他者の言葉に揺らがないという点だ。気分を害することはあったとしても、二人は決して迷うことはないだろう。 「焦る必要なんてないわよ?」 優しい声に、ユウキは顔を上げた。 穏やかな表情の女性が立っている。穏和そうな瞳は長い睫毛に彩られ、背の中ほどまでの長さの黒髪を揺らして女性が微笑んでいる。胴着に包まれた身体はしなやかでいて引き締まっている。手には木でできた小太刀を二つ持っていた。 「母さん……?」 リョウが驚いたように呟いた。 リョウの母であり、二刀流短刀術の師範でもある、カエデだ。 「あの人は、あなたに早く自分自身を確立してもらいたいみたいだけど、急いだからといってすぐに見つかるものでもないのよ」 聞く者を安心させるような声で、カエデはユウキに告げた。あの人、とは夫のジンのことだ。 ジンは、ユウキに覇気がないことをいつも気にかけている。ユウキも、いつもリョウとヒサメを見て羨ましく思っている。どうすれなリョウやヒサメのように堂々としていられるのだろうか。 二人の言葉を聞けば、理屈としては理解できるのだ。それでも、心は納得できていない。気にするなと自分自身に言い聞かせても、自信が持てない。 「気にし過ぎるのも考えものだけれど……」 苦笑交じりの微笑で、カエデはユウキを見つめる。 ヒカルの知り合いは皆、ユウキに気を遣ってくれる。ユウキが抱える悩みを見透かしているかのように、言葉をかけてくれる。 「……そっくりね、あなたのお父さんに」 カエデは微笑んだ。 「昔のヒカルに良く似てるわ……」 僅かに苦笑いを交えて、カエデは言った。 ヒカルも昔は迷ってばかりだったらしい。自分に正直に生きようとしていたが、色んなところで躓いていたらしい。それでも、生き方だけは変えなかったと、皆口を揃える。 「今はあまり気にしない方がいいかもしれないわね。気にするだけ損かもしれないわよ?」 カエデはそう言って目を閉じた。次に目を開いた時、視線はリョウに向けられていた。 「リョウも、息抜きもいいけど、さぼらないでね?」 「……はい」 どうやら、リョウはユウキとヒサメの会話が気になって抜け出してきたらしい。カエデは娘を連れ戻しにきたというところか。 リョウも、彼女にしては珍しくどこかばつが悪そうに視線を外して答えた。 「あなたもね?」 「それを言うならユウキだって……」 笑みを向けるカエデにヒサメは口篭った。 「あら、ユウキ君はあなたたちと違って目標が違うんだからいいのよ」 カエデは軽く言い返して、道場の方へと戻って行った。 リョウとヒサメは明確に強さを求めて身体と技術を鍛えている。だが、ユウキは空襲から住民を守れるだけの強さがあればいいと思っている。 昔から通っているから、まだここで学んでいるという部分も少なからずある。身体を動かしていれば、煩わしい思考から逃げられるというのもある。 「じゃあ、俺たちは戻るわ」 「ん、俺ももう少し身体動かしたら帰るよ」 壁から背を離したヒサメに言って、ユウキは立ち上がった。 昼間のことが引っ掛かっている。だが、問い質そうにもマーガレットは今日、道場にきていなかった。一週間のうち、何日か休みを作るものは少なくない。マーガレットも、一日置きに休みをとっているようで、今日はきていない。 仕方なく、ユウキはいつも通りトレーニングをしてから家へ帰ることにした。 家に着くと、既にヒカルはリビングにいた。 「今朝の空襲の対処はどうだった?」 夕食を済ませてから、ユウキはヒカルに朝のことを尋ねた。 「死者はゼロ。軽傷者が数名、まぁ、これなら問題はないな」 ヒカルはユウキを見て、そう言った。僅かに笑みを浮かべる父親を見て、ユウキは小さく息をついた。 軽傷者が数名と言っても、治癒能力を持ったアウェイカーによって治療がなされていることだろう。稀有なメタアーツではあるが、ナツミとアキナ以外にも治癒能力が使えるアウェイカーはいるはずだ。数は少ないだろうが、軽傷者が数えられる程度なら対処も容易だろう。 「……私も、戦えれば……」 シーナが小さく呟いた。 英雄の娘だからと、例外を認めるわけにはいかない。シーナ自信も解っている。 ヒカルとセルファは、娘の様子に微笑を湛えて見守っているだけだ。彼女自身が気付いていることを、あえて口には出さない。ただの愚痴なのだと解っているからだ。 きっと、ユウキに対しても同じなのだろう。ユウキの悩みについて、きっと両親は知っているはずだ。だが、その答えはユウキ自身が見い出さなければ意味がないことも知っている。 「……国連安全保障理事会はユニオンに対して、武力制裁を行う決議が採択されたことを発表しました」 ふと、何気なくつけたテレビから流れたニュースに、部屋の空気が変わった。 今までのリラックスした表情から一点して、ヒカルの目付きが戦う者の目に変わる。 「ユウキ、ちょっといいか」 ユウキの手からリモコンを取り、ヒカルはチャンネルを回した。 「本日、国際連合はユニオンをテロ支援国家と見做し、大規模な攻撃を行うことを表明し……」 ぎりっ、と音が聞こえた。 見れば、ヒカルが奥歯を噛み締めている。ヒカルは、ユウキが見たこともない表情をしていた。今にも爆発しそうな怒りを抑え込んだ顔だ。 ニュースでは、この国が世界各国の敵と見做されたことが報道されている。今までもあまり快く思われてはいなかったが、アウェイカーによる他国での犯罪が増えてきたことも原因ではないかと議論している映像が流れていた。 アウェイカーによる犯罪は、他の国では大きな問題の一つとなっている。この国であれば、アウェイカーがアウェイカーを取り締まることができるが、他国ではそうもいかない。アウェイカーの存在を快く思わない多くの国では、対処に困っている。 今では、この国からアウェイカーの犯罪に対処するためにアウェイカーを派遣するなどしているが、それでもあまり良いイメージは持たれていないだろう。 「シュウ、緊急会議だ」 ヒカルは携帯端末を取り出すと、電話機能を用いてシュウに連絡を取っていた。 「私も行くわ」 セルファの言葉に、ユウキとシーナは驚いて母を見つめた。 母セルファも、ヒカルと同じで今まで見たことがない表情をしていた。僅かに目を細め、瞳には静かな怒りを湛えている。 「ユウキ、シーナ、聞いた通りだ」 いつにも増して真剣な表情のヒカルに、ユウキは僅かに頷くことしかできなかった。 「明日までかかるかもしれないわ」 その時は二人だけで朝食を取るようにと、セルファが告げる。 ヒカルとセルファは直ぐに上着を掴むと家を飛び出して行った。 数秒の間、ユウキは呆然としていた。何が起きているのか、理解できていなかった。 ユウキは、つけっぱなしになっていたテレビのリモコンを掴み、チャンネルを切り替えた。 空襲も、ある意味では国連が言っている大規模な攻撃と同じものだろう。この国を快く思っている国は、ほとんどない。この国に消えて欲しいと思っている国も少なくはない。 真正面からアウェイカーと戦っても、勝ち目は薄い。だから、威嚇のような空襲に留まっている。相手は本気でアウェイカーを殲滅したいのだろう。だが、空襲程度ではアウェイカーを倒すことなど到底不可能だ。これまでの空襲が成功したことなど一度も無いのだ。 空襲の度に、アウェイカーが国を守ってきた。 「アウェイカーという存在に対して、有効な攻撃はあるのでしょうか?」 テレビの中で、議論が行われていた。 「国連の方からはどのような攻撃を行うのか、方法などは一切発表されていません」 空襲のような、無人機による無差別攻撃というのは、攻撃する側の被害が出ない仕組みになっている。元々勝ち目が薄いことが解っているから、無人機による攻撃しかできないのだ。アウェイカーの反撃で、兵士が全滅する可能性もあるのだから。 「国連が攻撃を発表したのは今回が始めてで……」 国際連合が攻撃をすると表明したのなら、それはこの国に対する宣戦布告でもある。 ヒカルは、事実の確認と今後の対策のために要人の緊急収集を要請した。今までの空襲とは、違う何かがあるかもしれない。相手は、世界そのものと言っても過言ではないのだ。 「お兄ちゃん……」 隣で、シーナが怯えた声を出した。ユウキの腕の裾を掴んで不安げに見上げてくる。 「大丈夫……」 ユウキは、できるだけ優しく答えた。 両親は慌てているようには見えなかった。怒りは、ヒカルとセルファだからこそ生じた感情だろう。 この国の設立を宣言して、ようやくアウェイカーが胸を張って生きられる世界になってきたと思えたのに、ニュースの内容はそれを否定するかのようなものだった。 アウェイカーの代表として、どんなに空襲が行われても、世界と争う意志はないと、ヒカルは力を一切使わずに生きてきた。そうすることで、世界はこの国を認めているのだと思っていた。 しかし、現実は違っていたのだろうか。 「大丈夫、みんな、いるんだから……」 ユウキは呟いた。 ヒカルやセルファだけではない。この国にはジンたちもいる。 いざとなれば、今まで公に力を使うことのなかった者たちも力を合わせてくれる。そうなれば、乗り越えられないものはないはずだ。 ユウキは、不安を押し込めて、テレビを見つめていた。 世界が、崩れようとしていた。 |
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