第七章 「ゼウス・エクスマキナ」


 今までの生活でできたことと言えば、自分たちの出自について推測することだけだった。与えられた情報は何もなく、日々を過ごして得られる情報も自分たちのことを知るには不十分だった。何も知らず、ただそれだけを求めて彷徨い歩いた。
 ここまで辿り着いて、ようやく得られた情報は、ウィルドにとっては有益だったかもしれない。自分が確かに人であったこと。家族に愛され、病から命を救うために皆が頑張っていたこと。
 彼女については何も分からないことばかりだった。それがここに来て、すべて知ることができた。
 ただ、リオンにとっては、自分の推測が正しかったことを確認するだけだった。一つだけ新たに判ったことがあるとすれば、リオンは厳密にはマキナではなく、エクスマキナという最新型ということだろう。
「罪を、償う?」
 ラーグが眉根を寄せた。
「わしは最初、エクスマキナの力でマキナすべてを滅ぼそうと考えていた」
 リオンを見つめ、リギシアは呟いた。
「じゃが、エクスマキナにすべてを伝える間もなく、手放さざるをえなくなった……」
 二つの国に、エクスマキナの完成品があることを知られてはならない。
 それが新たな火種になる可能性があったから。更なる被害を出す結果になるかもしれなかったから。
「いっそ、お主を消してしまうことも考えたんじゃ」
 エクスマキナを本当に廃棄処分することも考えたのだろう。実際にエクスマキナが存在しなくなれば、疑われ、捜索が行われたとしても何も出てこない。
「じゃが……そこで気付いたのじゃ」
 リギシアは視線を床に落とした。
「わしはなんと愚かなことをしていたのじゃ、と」
 リギシアがエオローを見る。
「シエラ、お主がゼータを慕う姿が脳裏を過ぎったんじゃ。お主もカイを自分と対等に見ていたな、ヴァネル」
 エオローからラーグへ視線を移し、リギシアは言った。
 ヴァネルとは、ラーグの本名だろう。
「わしは自分でマキナが兵器利用されることに腹を立てておきながら、実験動物のような感覚でいたんじゃ……」
 研究所でデウスとなったエオローも、ラーグも、自分と組むマキナのことを人間のように扱っていた。自分と同じ人として見て、付き合っていたのだ。
 その姿が、リギシアに気付かせた。
「……そうだな、確かに俺は生きている」
 リオンは呟いた。
 まだ自分が完全に機械仕掛けで動いていたなら違ったかもしれない。食事も取らず、睡眠もとらず、身体が機械や燃料で動いていたら、そうは思わなかっただろう。心など持たず、完全な人工知能プログラムで動いていたら、そんな考えすら持たなかったはずだ。
 しかし、マキナは人間をベースに創られた存在だ。食事もする、眠くもなる、感情と心を持ち合わせている。
「マキナとは、人間なんじゃよ」
 リギシアの口調は、後悔しているようだった。
「わしがルーンを治すために考えたマキナとは、人間の強化という感覚に近いものじゃった」
 先天的に機械粒子を持つ人間こそがマキナの本質だ。与えられた機械粒子のプログラムや特性によって、マキナとしての力が違ってくる。
 孫娘の病を治すために、リギシアは人を強化しようとしていたのだ。病の進行を抑える力、病の原因を絶つ力、病を受け付けない力、そんなものを求めていたのかもしれない。
「わしは勝手に人を生み出して、その命を弄んでいた……」
 結果的に、マキナは驚異的な力を持って生まれた。その力の大きさ故に、リギシアはマキナが人であるということを忘れていったのだ。
「わしが罪を償うために研究しているのは、マキナの無力化じゃ」
「マキナを殺すことなく、マキナとしての力を奪うってことか?」
 ラーグの言葉に、リギシアは頷いた。
「そうすれば、マキナは争う力を失い、人として生きることができるはずじゃからな」
 エクスマキナに頼ることなく、マキナの戦いを終わらせる技術の開発を行っていたのだ。
 自分が命を弄んで生まれたマキナの戦いを止めるために、エクスマキナという別の命を生み出してしまった。生み出した後で、リギシアはエクスマキナも命であることに気付いたのだ。また同じ過ちを繰り返してしまうところだった。そう気付いたリギシアは、マキナの力を奪う技術の開発を決めたのだ。
 マキナを生かしながら、その力だけを取り除く研究を。
「誤算だったのは、デウスの中に一人だけゼウスの力を引き出す者が出たこと、じゃろうな」
 リギシアの呟きに、全員が反応した。
「ゼウス?」
 エオローが問う。
 博士のもとで働いていた彼女も知らない言葉だったらしい。
「それが最も怖れていた事態を引き起こしてしもうた……」
 博士の言葉で、リオンは気付いた。エオローもラーグも、カイもゼラも気付いただろう。
 マキナが関わったことの中で最も怖れていた事態があるとすれば、一戦だ。つまり、オメガ・アポカリプスとアンスール・ヴァイリーの二人だ。デウスであるなら、アンスールか。
「サーカム・フレックスのこと?」
 カイが問う。
「そうじゃ」
 リギシアは肯定した。
「デウスとは、マキナの力を制御する安全装置ではない。厳密には、マキナの力を増幅する存在じゃ」
 マキナが力を使うためには、デウスから受け取るエクスが必要だ。それはセーフティであり、リミッターでもある。
 だが、第三形態のサーカム・フレックスはリミッターの域を超えている。力を増幅し、全力以上の力が引き出せる。
 デウスがマキナを制御するのではない。マキナの力をデウスが拡張するのだ。第一形態や第二形態までなら、安全装置として機能しているかもしれない。二つの国からすればそこまでで十分だった。
「ゼウスとは、マキナの持つ機械粒子を活性化させ、機能を極限以上に引き上げることのできるデウスじゃ。わしは、その力でマキナの機械粒子の機能を拡張、向上させルーンの治療に使えないかと考えていた……」
 だが、デウスがゼウスとなるにはエクスの純度が高次元になければならなかった。まともな成果を得られるほどの期待ができなかったのだ。
「それに、機能を向上させたところで、マキナの機械粒子ではそれを持つマキナ自身にしか馴染まぬ」
 取り出して移植しても、他の生命体の中では機械粒子が共存できないという計算結果が得られた。
 結果として、第三形態は誰にも使えないものとして情報自体が封印されたのだろう。
「しかし、ゼウスの力を引き出す者が現れ、ここの街が消滅してしまった……」
 アンスールがゼウスになったために、オメガはこれだけの大惨事を引き起こしてしまった。
「これ以上、こんな悲劇を繰り返さぬように、わしは……」
 マキナから力だけを奪う技術を一人でずっと開発していたのだろう。
 二つの国から逃げるように身を隠し、食料などは研究施設の合成機械で調達して生き長らえていたに違いない。そして、一戦が終わり、停戦状態になってからこの研究施設跡へ逃げ込んだのだろう。
 ここが最も、二つの国がお互いに手を出し難い場所であったから。
「……ということは、俺たちにもサーカム・フレックスは使えるんだな?」
 ラーグが呟いた。
 理論的には、デウスなら誰でも第三形態を発動させることができるはずだ。
「可能じゃよ」
 リギシアは目を細めた。
「じゃが、そう簡単ではないぞ。何故、エクスに感情を選んだと思っとる?」
 確かにそうだ。マキナが兵器として開発されてしまった以上、簡単に制御できるものでなければ意味がない。人の感情のような複雑なものでは、マキナを兵器として扱うのは難しいはずだ。誰でも簡単に使えるとは限らない。デウスの意思に左右されては、マキナを保有していても必ず国の思い通りに動いてくれるとは限らないのだから。
「本質的には実験動物としか見れていなかったあの頃でも、命としては見ていたんじゃな、わしは」
 リギシアは自嘲気味に笑った。
 勝手に使えないようにと、いざとなったらデウスとマキナが二人で動けるようにと、感情を選んだのだ。信頼関係を築き、二人でも歩んでいけるように。
「感情が、想いが通じ合うことでマキナは本当の力を発揮できる」
 エクスを受け取った時、マキナはデウスの思いに触れることができる。自分が何かを考えているのと同じ感覚で、相手の思いを感じることができる。
 それは、デウスがマキナのことを信頼しているのだと実感することができる。
「シエラ、お主は余計なことを考え過ぎじゃよ。もっと自分に素直になるがいい」
「え……?」
 エオローは驚いたようにリギシアを見た。
「頭が良過ぎるというのも、考えものじゃな……。マキナは兵器などではない。機械粒子を持たせられた人でしかないんじゃよ」
 どこか優しげなリギシアの言葉に、エオローは言葉を返せないようだった。
 マキナの研究や開発に携わっていたエオローには思うところが多かったのだろう。マキナという創られた人間とどう接すればいいのか、彼女なりに考え続けていたはずだ。
 若くしてリギシアのもとで働けるほどの頭脳を持っていたエオローなら、それくらい考えても自然だ。オメガやマキナ同士が争うことに疑問や責任感を抱いていたのだから、なおさらだ。
「今、最もゼウスに近いのはお主じゃな、ヴァネル」
「俺が?」
 リギシアの言葉に、ラーグは目を丸くした。
「お主は、カイを完全に人として見ておる。マキナの力など関係なく、お主はカイと付き合えておる」
「そりゃあ、まぁ……」
 ラーグの声が小さくなる。
「ゼウスとしての素質は十分じゃが、どうやらカイの方が踏み切れてないようじゃな」
「私が……?」
 今度はカイが困惑する番だった。
「お主は、自分が兵器だと思っておるな?」
 リギシアの言葉に、カイが俯く。
 いくら人間と同じ外見をしていても、身体の構造変化や攻撃手段は人のそれを逸脱している。自分が人間ではない何かなのだと、カイは思っている。マキナという、人ではない殺戮兵器なのだと。
「私たちは、人と生きることなんて……」
「何言ってんだ」
 カイの言葉を、ラーグが遮った。
 驚くカイの隣に歩み寄って、ラーグは肩を組むように抱き寄せる。
「別に俺はカイが兵器だろうが関係ねぇんだよ」
「けど……!」
「俺はお前が好きなんだ、しょうがねぇよ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ラーグはカイに囁いた。
「わ、私は、お前の子供だって産めないんだぞ……!」
 ラーグを突き飛ばすように、カイは離れた。
 顔が赤いのは気のせいではないだろう。
 恐らく、カイは自分が兵器であるからと、ラーグとずっと一緒にいることはできないと思っているのだろう。ラーグとずっと一緒にいても、カイには何もできない、と。
 兵器であり、創り出された存在である自分はいずれ、ラーグとは別れなければならない。彼の前から去るべきなのだと思っているに違いない。
「んなこと気にしてたのかよ」
「ラーグ……」
「たとえカイの言う通りだったとしても、俺の愛は変わらねぇぞ?」
 目を逸らすカイを見て、ラーグは溜め息をついた。
「じゃから言うておるじゃろう、お主らも人じゃ、と」
 リギシアは溜め息をついた。
 その言葉に、カイが僅かに反応した。
 マキナも人間である。リギシアは何度も口にしていた。それはつまり、マキナと人間が普通に結ばれることもできるということを示しているのだ。
 本当に、マキナは人間と対等の存在である、と。
「お前が俺を好きでいるなら、それだけでいいのさ」
 ラーグが笑う。
 きっと、リギシアが説明したことなどラーグにはどうでもいいに違いない。ラーグはただ、カイという女性が好きなのだ。カイがたとえ人とは相容れぬ存在だったとしても、好きになった存在だったならラーグには関係がないのだ。
「私、いつかゼラとは別れなければならないと思ってた……」
 エオローがぽつりと呟いた。
 マキナは受精卵の時点で機械粒子を埋め込まれ、培養されて誕生する。成長を加速させ、思考能力がある程度完成した時点で意識を目覚めさせられる。その過程を直に見て、関わってきたエオローにとってはマキナとは人と全く違う存在に思えていたのかもしれない。
 人の形とは違うものとして。自分がいじくり回した命として。
「お前が悩んでいたことは知っている」
 ゼラが口を開いた。
 エオローと組んできたゼラなら、彼女の悩みを誰よりも理解しているはずだ。彼女の苦悩は、エクスとしてゼラに伝わるだろうから。
 マキナ同士の戦いを止めるために、デウスとしてマキナと共に戦わなければならない。ゼラはただ、彼女の想いに行動で答えてきたはずだ。
 ゼラはエオローの隣に歩み寄ると、その体を抱き寄せた。
「俺は、笑っているお前が好きだ」
「ゼラ……」
 エオローはゼラの胸に顔を埋め、やがてその背中に手を回した。
 リオンはその様子を見て、解ったような気がした。ラーグやエオローたちは、それぞれ問題を抱えていた。リギシアを探す命令を指示されたから、というだけでここまで来たわけではないのだ。ラーグたちも、リギシアと会って、知りたいことがあった。だから、リギシアがベルファート皇国に着かないだろうことも予想していたし、実際に話を聞いて取り乱したり強引に連れ去ったりしようともしなかった。
「……ウィルド?」
 服の裾を引っ張られ、リオンはウィルドがこちらを見上げているのに気付いた。
「いや、ルーンと呼んだ方がいいか……?」
 リオンは薄く微笑んで、ウィルドの頭を撫でる。
 ウィルドは僅かに目を伏せた。リオンの裾を掴む小さな手に、少しだけ力が入る。
「……リオンは、オメガ?」
 ウィルドの口から出た問いに、リオンは目を細めた。
「お主は、すべてのマキナの力を持った、マキナを滅ぼすためのマキナじゃ……」
 リギシアの言葉が響く。
 それは、オメガの力をも持ったマキナということだ。あらゆるマキナの力を再現し、どのような状況下でも敵対するマキナを滅するだけの力を持っている。状況によって使い分けられるマキナの力は、戦いを有利に進めることができる。
「……リギシア、俺は、マキナか?」
 リオンは、問いを投げた。
 自分は人と同じものなのか、否か。エクスマキナという、新たなマキナはただのマキナとどう違うのだろうか。人ではないということなのだろうか。
 本当に、ただの殺戮兵器として創り出されたのか。
「お主はマキナじゃ……機械粒子が違うに過ぎん」
 リギシアの問いに、リオンは視線を向けた。
「……リギシア、この子を棄てたのは、何故だ?」
 リオンは問う。
 今までの話を聞く限りでは、リギシアがウィルドを連れて暮らすことに支障は無かったはずだ。責任を感じているのなら、ウィルドと共に生きるべきだ。彼女の命を救うために他のものを投げ出して研究をするほど大切な存在だったはずだ。
 なのに、何故、リギシアはウィルドを棄てたのだろうか。隠れる場所もあった。現に今まで見つからずに暮らしてきたはずだ。デウス処置を施したからといって、戦いに巻き込まれるとは限らない。感情が欠落したウィルドなら、二つの国は見向きもしなかったかもしれない。
 一緒にいれば危険だからという理由は通じない。彼女一人で放り出す方が、よほど危険だ。現にリオンと一緒にマキナとも何度か戦っている。ならば、隠れる道を選んだリギシアと一緒にいた方が安全だった。
「その子は……」
「答えろ!」
 はっきりしないリギシアに対し、リオンは大きな声を出していた。
「俺がエクスマキナだとしても、ある程度は予想できた。けど、この子は違う。何も解らなかったし、予想すらできなかった」
 リオンはウィルドを抱き寄せた。
「ずっと不安だったんだ。なのに、何故あんたはこの子を遠ざけた?」
 小さな身体を抱えて、リオンはリギシアへと言葉を投げた。
「あんたは……!」
 言いかけた言葉が、止まった。
 リオンだけではない、ゼラとカイも反応していた。
「オメガが、来た……!」
 カイが呟く。
「それだけじゃない……シグマとタウもいる」
 ゼラが鋭い視線を天井へと向けた。
「その子は、わしのもとで日陰を歩く生活をさせたくはなかった……」
 リギシアが呟いた。
「エオロー」
 ゼラがデウスの名を呼んだ。
「もっと、世界を見て欲しかったんじゃ……」
 病を患ってから、数年もの間、少女は寝たきりだった。
「ラーグ!」
 カイがデウスの名を呼ぶ。
「命を救えても、わしと一緒では心を曇らせてしまう……」
 青空の下を歩いて、陽の光を浴びて欲しかった。
「ゼラ、お願い!」
 エオローが叫ぶようにゼラを見つめる。
「お主にはできる限りの力を持たせた……」
 エクスマキナは、リギシアの技術の最高傑作だった。
「カイ、ちゃんと俺の愛を受け取れよ!」
 気恥ずかしい言葉を叫んで、ラーグはカイとキスをする。
「閉ざされた心を溶かすことは、わしにはできん……」
 リギシアが俯いた。
 ゼラとラーグのシルエットが変化する。
 ゼラは全身を真紅の鎧に身を包み、ラーグは深い青の鎧を纏っている。
 真紅の鎧には銀のラインがいくつも走り、幾何学紋様を刻んでいる。黄金の長髪を翻し、ゼラが背を向けて歩き出す。
 青い鎧には金の光がいくつも走り、背中には翼のような装甲が伸びている。カイはラーグに微笑んで、ゼラを追うように歩き出した。
 二人とも今まで戦ってきた姿とは違っていた。
「それでも、この子にはあんたたちが必要だったはずだろうが!」
 ウィルドには家族が必要だったはずだ。
 何も憶えていなくても、家族だった人たちが傍にいれば思い出したかもしれない。少なくとも、自分に過去があったことを知ることができたはずだ。
 一人じゃないと、思えたはずだ。
「やはり、お主に預けて正解じゃったな……」
 リギシアの言葉に、リオンは飛び出していた。
 真っ直ぐに数歩走り、リギシアを押し倒して襟首を掴み、右手を振り上げる。
「あんたは、ただ逃げてるだけじゃないか!」
「お主のような者がいれば、わしもこうはならなかったのかもしれん……」
 リギシアの目には、羨望があった。
「わしがなりふり構わずに研究をし始めた時、止めてくれる者がいれば、こんな結果にはならなかったんじゃろうな……」
 殴り付けようと振り上げた右手が止まる。
「わしらはルーンの死んでいく姿を見るのが耐えられなかった。それが自然の摂理や色んなものを崩すことだと気付く前に、ことが動いてしまっていた……」
 リギシアは涙を流していた。
「わしにルーンを育てる資格は無い」
「会わせる顔がないとか、そんな言葉はもういい。あんたは逃げておきながら、追わせてるじゃないか!」
 リオンは叫んだ。
 どんな言葉を並べても、リギシアはウィルドと会うつもりだったのだ。逃げながらも、ウィルドをリオンと会わせ、旅をさせた。それがすべて仕組まれたものだとは言わない。ただ、ウィルドもリオンも、自分のことを知るためにはリギシアに会う以外に手はなかったのだ。
 会う気がないのなら、すべてを記した書き置きでも持たせれば良かった。誰かに伝えるように言えば良かった。
 未練があったのが見え見えだ。
「そうだな、あんたらには同情できる……けど、本当に一番辛いのはお嬢ちゃんだ」
 ラーグが呟いた。
 ウィルドのことで奔走していたリギシアの気持ちは理解できる。周りが見えなくなって、ただ一つの目的のためだけにすべてをかなぐり捨てて行動してきたことも共感できなくはない。
「マキナとか、一戦とか、この世界の状況とか、全部の発端が自分にあるってことになるんだからな……」
 苛立たしげに、ラーグは言った。
 そう、すべての原因はウィルドだ。ウィルドの存在がマキナを生み出し、一戦を引き起こした。リギシアたち家族を滅茶苦茶にしたのもウィルドということになる。
「あいつは、腹が立っても怒り方を知らない!」
 力を発動していれば、彼女の感情は微かに伝わってくる。
「悲しくても泣き方が分からない!」
 どんな感情を抱いていても、彼女はただ無表情で前を見つめていた。
 感情を示すような仕草も、ほとんど取らない。いや、そもそもそれすら理解できない。感情を出す方法を、ウィルドは理解できない。
「嬉しくても笑うことさえできない!」
 彼女の内側に今どんな感情があるのが、リオンにも判らない。
 旅をして、世界を見ていけば、少女にも感情が戻ってくるかもしれないと思っていた。大変なこともあった。辛いこともあった。楽しいことだってあったはずだ。
「今だって、どんな顔で、どんな声で、どんな言葉を言えばいいのかすら分からないんだ!」
 それがどういうことか、リオンは多少なりとも解っているつもりだ。
 同じぐらいの年の子供を見る度に、行き交う人々を見る度に、少女は自分を異物だと感じてしまう。自然に笑い合う人々の姿が、とてつもなく遠いものに見える。自分にそれができないことが、惨めに思えて仕方が無い。輪の中に入れない。自分がその中に混じることで、他の人たちを困惑させてしまう。他の人が感じている楽しさを壊してしまう。
 それでも、少女が妬みや恨みを持つことはなかった。
 笑えばいいと言うのは簡単だ。けれど、それは言われた人が笑い方を知っているから言える言葉でもある。笑い方を知らない少女にとって、その言葉は何をすればいいのか解らない。
 人は感情を表に出すやり方を無意識のうちに修得している。その回路が途切れてしまっている者には、どんな説明も意味をなさない。人が自然にできることが、彼女にはできない。
「それでも、あいつはあんたに会いたかったのに!」
 記憶と感情を失くした少女が、初めて自分から口にした言葉は、リギシアに会いたい、だった。
 そこには、確かに彼女の思いがあった。彼女の意思があった。それを受け止めることができる相手はリギシアなのだと思っていた。
 だが、リギシアは自分の思いを一方的に少女へ押し付けて逃げただけだった。責任を感じて、何か償おうとしているとは言え、リオンには少女の思いから逃げているようにしか見えない。
 なら、いっそ病で命を落としていた方が、少女も、世界も、平穏だったかもしれない。
「俺はあんたの自己満足のために生まれたのか? あいつの保護者をさせるために創り出されたのか? 今までのことはすべてあんたの思い通りだったのか?」
 だとしたら、リオンの意思とは何なのだろう。
 これまでリオンが抱いてきた思いも考えも、創られたものなのだろうか。少女と共に拾われて、行くあてもないから彼女に同行することを決めた。すべて、仕組まれていたのだろうか。リオンがどう考えるかなど計算済みで、今まで少女を守ってきたことさえ、決められていたと言うのか。
「今まであいつと旅をしてきて、楽しかったよ! だけど、それまで創られた、決められたものだったなら、俺はマキナでも、人でもないのと同じじゃないか!」
 すべてが誰かの思惑通りだったなら、リオンの意思さえも決められていたのと同じだ。感情があって、思考を持っていても、それでは人と言えるのだろうか。自分の足で立つことすら決められていたなら、ただプログラムに従っていたのと同じではないのか。
「わしは……」
「俺は、一体何者なんだよ!」
 振り下ろそうとした拳が、何かに掴まれた。
 小さな温もりが、リオンの拳を左右から掴んでいる。
「リオン……」
 ウィルドが、リオンの手を掴んでいた。少女の小さな手が、リオンの手を捕まえている。
 無表情な瞳が、揺れていた。
 刹那、扉が吹き飛んだ。
 リオンたちが入ってきた扉が破壊され、奥からマキナが現れる。
「やっぱり、気が合うんじゃないか?」
 オメガが立っていた。
 黒い亀裂のような筋がいくつも走る紫の鎧に身を包んだオメガの目は、禍々しい光を帯びている。亀裂の筋には赤い光が脈動するように流れている。
「お前……っ!」
 ラーグが後退る。
「無感情な少女がエクスを持てるわけがない……そいつは、新しいデウスだろ?」
 オメガが口の端を吊り上げる。
「俺が使ってやる、そいつを寄越せ」
 オメガが伸ばした手を、リオンは打ち払っていた。
「お前の敵は俺じゃなくて、その爺さんだろう?」
 薄ら笑いを浮かべたオメガの言葉が部屋に響く。
「リオン」
 隣に立つ少女の声が、一際大きく聞こえた。
「私は、誰?」
 見上げる少女の瞳に、リオンが映っている。
「……ウィルド」
 自然と、少女をそう呼んでいた。
 本当の名前、ルーンではなく。今まで呼んでいたウィルドという名で。
「私は、ウィルド。ウィルド・フェニキア……」
 リオンの瞳をじっと見つめたまま、ウィルドは自分の名を噛み締めるように呟く。
「あなたは、リオン。……そうでしょ?」
 微かに、ウィルドの目が細められる。
 優しい視線だった。
「ああ、そうだ……俺は、リオンだ」
 オメガ・エスペラントではない。リオンは、リオンだ。
 少女が呼び慣れた、いつでも傍にいたリオンだ。
 他の誰でもない。自分が何者でも、関係ない。
「不愉快だ」
 オメガが呟いた。
 瞬間、リオンの身体が吹き飛んでいた。木の葉のように宙を舞い、部屋の壁に背中から叩き付けられる。壁に夥しい量の血が撒き散らされた。
 壁の半分以上が血で染まる。
 リオンの右腕が、肩から削り取られていた。
「ぐ……ぁっ」
 呻き声しか出なかった。
 激痛が脳を焼く。体を動かしたくても、反応が鈍い。溢れ出した鮮血が床に血溜まりを作る。
「リオン……!」
 ウィルドの声が響く。
 走り出そうとしたウィルドの手が、背後からオメガに掴まれるのが見えた。
「お前は俺と来い」
 オメガが囁く。
「てめぇっ!」
 ラーグが放った回し蹴りを、オメガは防ぎすらしなかった。
 まともに喰らえば大の大人でさえ吹き飛んで悶絶するラーグの蹴りを受けて、オメガは微動だにしない。
「人間ごときでは俺に傷一つ付けられない」
 見下した笑みを見せて、オメガが腕を振り払う。
 咄嗟に身を引いたはずのラーグが宙を舞っていた。振るわれた腕によって発生した衝撃波がラーグを吹き飛ばす。直撃を避けた分、ラーグに致命傷はなかった。だが、オメガと戦う無謀さだけをはっきりさせる結果となった。
「腕を引き抜いてやってもいいんだぞ?」
 リオンの方へと足を向けるウィルドの腕を引き寄せて、オメガが呟く。
 冷徹な視線を向けられても、ウィルドの目はリオンに向いていた。
 ウィルドが手を伸ばしていた。小さな手を、リオンへ。
 ――システム・エラー。
 視界の端にエラーメッセージが流れ続けていた。マキナの力を使っていた右腕を失い、システムが戦闘続行不能を告げている。
 ――システム・シャットダウン。
 リオンはマキナの力を閉ざした。メッセージがうるさかった。
 左手で床を突いて、強引に立ち上がる。身体を前へ倒して、走り出す。
「お前っ……!」
 一瞬の不意を突いて、リオンは左手でオメガの顔を掴む。そのまま力任せに押し倒すように腕を振り抜いた。
 オメガがウィルドから手を放し、尻餅をつくような形で倒れ込んだ。マキナであるリオンなら、ただの人間よりもまだオメガと戦える。
「ウィルド……」
 無茶をしたせいか、リオンの視界が歪んだ。
 血を流しすぎた。
 ふらついて膝を着いた体を支えたのは、ウィルドだった。しがみつくように、ウィルドはリオンを抱きとめていた。
「リオン……私は、あなたと一緒がいい」
 少女の小さな声が、リオンの中に波紋のように広がった。
「いつもみたいに、私を守ってくれるリオンが……」
 ウィルドは、泣いていた。
 触れ合った頬に、ウィルドの涙が伝い落ちる。
 ――システム・ゼウス・エクスマキナ・スターティング。
 メッセージが視界の隅に流れる。今までと違う、文字だった。
 ――モード・オメガ・エスペラント。
「任せろ」
 ただ一言だけ、リオンは少女に囁いた。
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