プロローグ 「悪魔と少女の過去」




 外の猛吹雪が死を寄せている事を実感させる。冬山の中腹にある掘っ建て小屋の中には三名――いや、既に凍死した母親は数えられず、生きも絶え絶えの父親と幼い娘だけがその中で生存していた。
 お父さん――。
 娘の呼ぶ声に、父親は隣の冷凍肉と化した妻を抱く。自分達は、娘を助ける、その為だけに命を投げ打ったのだ。後悔はない。
 今にも消え入りそうな目の前の焚き火は、暖かさなど微塵も感じさせてはくれない。それでも娘は助けたい。そう、硬く、神に祈った。
 お父さん……。
 娘の声。苦しそうに呻いている少女の、可愛らしい顔が見えない。目が霞んでいる事に、彼は苛立ちを覚えた。場違いだ、今はそれ所ではないというのに。
 それでも、彼は満足だった。今の時代、子供を蔑ろにする親が増えているという話を聞く。自分が助かる事しか考えない外道が世を闊歩していると聞く。そんな事は許せないと日々感じていた彼は、自分の最愛の妻が、二人の愛の結晶である愛娘を助けるようにしようと言ってくれた。その時が人生で一番心が温かくなった時ではないだろうか。自分達はその様な正しい――そう確信できた瞬間だった。例えそれが自分勝手な自己満足だったとしても、彼は自分達が正しい事をしたと、胸を張って言える。
 お父さん――!
 娘の声。可愛い我が子。ごめんよ…。彼は震える唇から声が出せない事に気付いて、心の中で詫びた。そもそも、この責任は全てが自分にある。風邪を惹いた娘の為にと近道をしたつもりだった。何度も登った馴染みの山だ、と舐めて掛かったのが間違いだったのだ。途端に吹雪となって視界を閉ざした雪は、道すらも判別させないほどの高さに積もってしまった。当然、予備の食料などは携帯してはいなかった。さらに環境の悪化に娘は風邪をこじらせてしまったのだ。
 ごめんよ――。もう一度、心の中で、呟く。それは、隣で冷たくなった世界で一番愛しい妻と、一番大切な娘に向けての謝罪だった。妻の氷のような身体を抱く。
 ――お父さん!
 娘の、悲鳴に近い絶叫が響いた。彼は諦めの心境で目を閉じる。恐らく、娘も助からないだろう。それでも、自分達よりも一分でも一秒でも長く生きて欲しい。それが親の、少なくとも私達の幸せなんだよ――。
 親のエゴだ。そう理解しながらも、彼は息を引き取った。



 ――お父さん!
 脈の無くなった父の姿を見て、少女は今度こそ悲鳴を上げた。いや、上げかけた。目頭が熱くなり、涙が溢れる。それと同時に胸に込み上げて来た何かに押さえられ、掠れたような声しか絞り出せなかった。
 ねぇ、どうしたら良いの? 私はどうしたらいいの? 少女はしゃくりあげ、噎びながらも、必死に声を上げようとした。だがそれも掠れたものにしかならない。
 苦しい。世界が逆転した時の感覚は、この様な物なんだろうか。悲しみと苦しみの中で、少女はただ絶望に暮れる事しか出来ない。初めて自分の無力を呪った瞬間だった。
 ――お父さん、お母さぁん。
 目の前の火は、既に熱など放たなかった。火とすら呼べないだろう、赤くなった炭は、ただ少女の悲しみを煽るだけでしかない。
 ああ、私は死ぬんだなぁ、と少女は自分の立場を理解し、この苦しみからもすぐに逃れる事が出来るのだろう、お父さんとお母さんに会えるのだろうと、安堵した。それは歪んだ歓びだった。
 げほっ、げほっ、と咳が喉から絞り出される。少女は顔を足の間に埋めた。早く楽になりたい。そう切に願った。喉が焼けるような感覚が、痛かった。
 そんな時、ふっ、と唐突に視界が明るくなった。少女はだるいのを我慢して顔を上げた。頭も痛かった。
 ただの木炭と化したはずの黒山に、新しい薪が置いてあった。もちろんその上には煌々と明かりを灯す炎が舞っている。そして、炎の右側には足があった。
 ――誰……?
 顔を上げていく。大きい。百八十cmはあるだろう。少し細身の体が、全身を包み込む蒼いマントに覆われていた。少女は、これがマントかぁ、と感心した。
 上げられる視線。一番上には見た事も無い青年の顔があった。柔和な笑みを浮かべた青年は、何処までも暖かい雰囲気を持っていた。
 ――ああ、この人は……。
 少女は納得した。この間、お母さんに読んでもらった絵本の中に出て来た人だ。とても優しくて、人間の幸せを喜んでくれる、望んでくれる人。
 ――天使、さま……?
 少女はグルグルと廻る視界の中で、青年の名前を言った。確信はあったが、青年はゆっくりと首を振った。
 ――違うよ……。と、青年は静かな声で答えた。
 それなら……。靄のかかった思考で必死に考え、少女は小首を傾げ、青年の顔をじっ、と見つめた。それでも天使以外には思い付かないのだ。自然、顔が険しくなったが、少女はそれに気付かない。
 青年はその様子を見て、楽しそうに微笑んだ。それからおもむろに口を開ける。それは、こう動いた。
 ――俺は、悪魔、だよ。

 三日後、捜索隊が今にも崩れそうな山小屋を発見した。中からは、毛布を被せられた男女のカップルの遺体と、蒼の外套に包まって安らかな寝息を立てている六歳くらいの幼女が発見された。
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