第一章 「少女の日常」




 どのような事があったとしても人は育っていくものである。それが時の真理であり、また、生命の神秘でもあるのだ。だから少女も育っていく。どんなに辛い事も、それが過去となってしまうから。
 あの事故から既に十年の時を重ねていた。



 ガタタン。
 窓の外の風景が流れて行く。
 ガタタン。
 過ぎ去った後に残るのは、また過ぎ去る運命にある違う景色だけ。
 ガタタン。
 もう、そんな事を何回も繰り返していた。

 朝。清々しい晴天が青く澄んだ空に浮かぶ雲を輝かせている。それが適度に揺れる電車内であっても、窓から差し込む爽やかな陽光は初夏の暖かみを充分に身体に伝えてくれた。
「気持ち良い〜……!」
 ん〜、と伸びをして、車内で日光浴を楽しむ少女が、そこにはいた。くりくりとした大きな瞳、朝日を浴びてきらきらと輝く栗色の髪は、肩の少し上で切り揃えられたおかっぱ頭――世間では現在、ボブ・ヘアと呼ばれる髪型だった。真ん中を少し開けた前髪に、少々子供っぽい水色のカチューシャは、彼女の小さい童顔に妙にマッチしていた。もちろん顔だけが幼い訳ではない。贔屓目に見ても150cm以下の小柄な身長と、彼女が通う学校の指定の夏服の上からでもはっきりと判るつるぺた体系は、その手の人間から見れば至上の芸術ですらあるものなのだ。抽象的な擬音(ちまちまとか、くりくりだとか)が良く似合う女の子だった。
 少女の名は水葉 結花。東京郊外にある名門私立の青葉女子高校に通う十五歳の女子高生だ。趣味は読書と掃除。得意な科目は国語。苦手な科目は体育と家庭科。予想通りと言うか何と言うか、絵に描いたような不器用娘は、百メートルでずっこけてタイムは有耶無耶になる程の運動音痴、卵焼きを焼かせれば後に残るのはぐしゃぐしゃになった消し炭の油浸しが残るだけと言う程の料理音痴、裁縫をさせれば穴が優に二十個は出来ていると言うキング・オブ・不器用のドジ娘であった。そんな彼女の良い所は、思いやりのある優しい心と、天然の妹系な性格。そして、良く言えば根性がある、言い方を変えれば頑固な所である。
 彼女が何故に朝の電車で言葉通り気持ち良さげに伸びなどしていられるのか。普通の朝は通勤・通学の人間達が不景気な顔して満員電車に揺られているはずだから、そんな余裕など無いはずなのにもかかわらず。これ如何に。
 ところがどっこい、先程も記した通り青葉女子校は東京郊外、つまり都心からはどんどん離れていくので、乗ってくる人間は少なくはないが満員になどなる筈も無いのだ。
 そんな事を言っている間に結花は、ふうっ、と体に溜めた二酸化炭素を排出する。ふと視線を巡らせるとドアの前の手摺りにもたれるようにして文庫を読んでいる少年――百八十cm近くある身長と全体的に線の薄い、落ち着き払った顔は成人した大人のようだが、郊外の方にある都内の某高校の制服を着ているので、多分少年なのだろう――が目に留まった。少し癖のある髪の毛に、どちらかと言うと線の薄い感じの輪郭だが、肩幅が少し広く、背の高い彼は美少年と言うよりもカッコイイ男の子と言った感じだ。
 結花は彼の事を知らなかった。ただ、入学してからいつもこの電車に乗っている少年で、おそらく年上だろう、と言う事しか分からない。文庫本に某有名書店のカバーがされているので何を読んでいるのかは分からないが、凄く真剣な顔で本の世界にのめり込んでいるのが印象的だった。だが、それだけが彼の事が気になる理由ではない。結花は、何故か彼の事を前から知っているような気がするのだ。何故だかは知らないが、一目見た時から、知り合いのような気がしてしょうがない。
 そう、何処かで――
「おーい、ボーッとするなー」
 見知った声に、我に返る。目の前には手を左右に振った友人の顔があった。
「ご、ごめん。……なぁに?」
 結花のボケた態度に、友人――名を滝野 佐緒里と言う――がやれやれと言う風に首を振った。ピンクのおしゃれな縁の眼鏡を掛けて、髪の毛を二つに分けて結んでいる、どこぞのキャリアOL風の理知的な顔立ちの少女だ。ぱっと見はマジメそうな印象の彼女だが、口を開けば重機関銃のように言葉が出てくる、中身と外見がかなり食い違った少女なのである。結花とは中学時代からの親友で、彼女の辛口トークに告白して来た男子達が泣きながら走り去っていく情景を、結花は幾度と無く目にして来た。
「ま〜た彼の事見てたんでしょ。かっこいいもんねぇ、結花も隅に置けないよなぁ」
 にんまりとした佐緒里の表情は、結花にとってはお馴染みの光景なのだが、慣れないものは慣れない。
「わ、私は別に、あの、そんな……」
 結花は反撃しようと口を開いて、しかし後の言葉が出てこないので口をパクパクさせるだけだった。
「まぁったく、おマセちゃんなんだから。あたしにはちゃ〜んと判ってるのだ。ね、栞?」
 佐緒里はそういって、横に控える津山 栞に声を掛けた。先刻まで二人のやり取りを無視するかのように吊革に揺られていた少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。腰まで届く長い黒髪が揺れた。
「どうかしたの?」
 静かな声が答える。余り感情の篭っていない、漆黒の瞳が冷たい。線の薄い彼女は、同時に感情も希薄だった。全体的に儚い雰囲気を放っているのだが、スポーツ万能、成績優秀の秀才少女である。常に冷静な彼女には漆黒の瞳も、それと同じ色のサラサラな髪の毛も似合っていた。初めて会った時、「鴉の濡れ羽色」とはこの様な色を言うのだろう、と結花は感動したものだ。
「結花が、ま〜たあの人のこと、見てたのよ」
 佐緒里はそういって彼を指差した。相変わらず彼は真剣に――だけど何処か気だるそうに――本を読んでいた。
「あら。また?」
 冷たかった栞の目に光が宿る。明らかに楽しんでいる。栞は感情表現が下手なだけだ、と――そう気付いたのは知り合ってから三日目辺りだった。けっこう早い。
「ち、違うよ、私は、だから、あの、えっと……」
 結花は必死に弁明しようとした。それでもやはり言葉が出てこない。必要以上に読点を多くした結果、赤くなった顔を隠すように口を閉じて俯くだけだった。
「あら、恥ずかしがる事はないのよ? 恋愛感情は人間に必要な要素でもあるんだから」
 幾分か声に明るさが出て来た栞の声。その後で佐緒里が、
「そうそ、あんただって普通の女の子だって事。よかったじゃないの」
 結花は、うーっ、と唸ってから顔を上げ、二人の顔を睨みつけた。
「ゼーッタイ、楽しんでるでしょ」
 ジトー、と上目遣いに見つめる結花の顔は、拗ねた仔狐のようだ。そういう顔をされると佐緒里は余計に饒舌になる事を、結花は未だに心得てはいない。
「なーに言ってんの。あたし達は結花のこと心配していってあげてんだよ? それを疑うなんて、恩をうんたらで返すとは正にこの事、酷いもんだ」
「で、でもぉ……」
「でももだってもザビ家もないの。自分の気持ちに素直にならなきゃ、良い子じゃないよ」
「だから、私は別に……」
「だからも駄目。いちいちあんたは、言い訳の多い子だねぇ」
「そんなぁ……。それに『うんたら』って、『仇』くらいは思い出そうよぉ」
「だーっ! うるさいねこの子は!」
 一方的に捲くし立てる佐緒里に、流石の結花もタジタジだ。その横で、完全に傍観者に回った栞が、クスクスと笑っていた。
 この、噛み合わない三流コントのような会話も、三人にとっては日常的な光景だった。普段から余り気の強くない結花は、同時にボキャブラリーも余り多くはない。おまけにトロイのでイニシアチブは必然的に佐緒里が握っているのだ。栞はあくまでそれに付き従う形だ。
「大体あんたはいっつもそうなんだから。ちょっとは勇気を出しなさい、勇気を。このまま駆け落ちしてでも、生きてアイナと添い遂げる覚悟が無きゃ駄目よ!」
「あの、佐緒ちゃん? 話が凄く飛躍してるんだけど…イタタタタ!」
 語尾の方は途中から佐緒里に頭を拳で挟まれたからだ。そのままぐりぐりされると、たちまち結花は涙目になって悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い、痛いってば! どうしてそーゆう事するの? 私はただ、佐緒ちゃんの妄想癖を心配して……ひゃぁぁ〜!」
「うっるさいわね! 誰が妄想癖よ、誰が! この子はいっつも一言多いんだから!」
「一言多いって言う事は、佐緒ちゃんも自覚して――ひゃあううぅ〜……!」
 クスクスクス、と隣で栞の笑い声を微かに聞いたが、それもすぐに自分の悲鳴で聞こえなくなる。何だかとても惨めな気がして来たので結花は頑張って佐緒里の拳――魔の手とも言う――から脱出する事に成功した。
「イタタタタ…。うぅ、佐緒ちゃん酷いよ、私、何にもしてないじゃない」
「ほーう、あくまで白を切り通す気かい? この天下の『超絶美少女・佐緒里ちゃん☆』の超高性能CPUは誤魔化せないよ」
「いくら処理が早くても人の話を聞かないんじゃ意味はないんじゃ……」
 結花は呆れた。と言うよりも、佐緒里の言っている事が良く分からなかったと言う方が正しいかもしれない。それに同調するように栞が、
「『天下の超絶美少女』と最後の方の『☆』の辺から注意したほうが良いんじゃなくて?」
 と言ってくる。結花は栞がこちらについてくれたので安心した。
 だからだろう。つい、要らない事まで口走る。
「やっぱり佐緒ちゃん、妄想の気があるんじゃないかな。一回お医者さんに見てもらおうよ」
 言ってから、しまったと思う。即座に身を引くが、肩をガッシと掴まれて逃げ切れなかった。
「礼儀知らずの悪い子にはお仕置きが必要です!」
 ゴーン、と頭に衝撃が走ると、結花の目の前に鼻眼鏡をかけた謎のオジサンが現れた――様な気がした。それが、今は亡き父親に見えたので、なんだか余計に悲しくなってしまった。だからと言う訳でもないが、視界が真っ白に染まってしまったのは気のせいではないだろう。
「うぅ、どうして私ばっかりがこんな目に……」
「まぁ最後の一言が決定打になったのは否めないわね。やっぱり一言多いんじゃないの?」
「そんなぁ……」
 再び栞が敵にまわってしまった。この孤立無援の状態で結花は、これが私の運命なんですか、神様? と、嘆いてから、体重をかけていた吊革から上体を起こす。
 すると車内に次の駅の到着を告げるアナウンスが流れた。
 すぐに電車が速度を落とし、軽い後ろ方向への加重が乗客全員にかかった。その瞬間に、歳相応に膨らんだ胸をふんぞり返らせていた佐緒里は、バランスを崩して転びそうになっていた。
 電車が完全に停止すると、左側のドアがプシュー、というお馴染みの音を立てて開く。少年はいつもの様に文庫を閉じると、車内から出ていってしまった。
 結花はその背中を見つめる。ほんの一、二秒にしか過ぎないが、佐緒里が冷やかすには充分だった。
「ほら、結花、彼が出てっちゃうよ。手でも振ってあげなさい」
「な、何でそうなるの!?」
「え〜、だって結花、彼の事見つめてたじゃない。し・か・も! 恋する乙女の眼差しで。キャー!」
 一人で盛り上がった後に、佐緒里はむりやり結花の手を取ってヒラヒラと勝手に振る。一瞬、結花が呆気に取られた所に、さらに少年がこちらを怪訝そうな顔で見つめたので、結花は顔が熱くなるのを感じた。同時にドアが閉じて――誰か乗り遅れたのだろう。一瞬開いて、今度こそ閉じる。
「あらあら結花ちゃん。なーに赤面しちゃってんのかな?」
 佐緒里の揶揄に、結花が反射的に反撃する。さりげなく、しかし力強く、右肘を佐緒里の腹部――この感触は鳩尾だろう、してやったり――に叩き込む。佐緒里が、ウッと呻いてくず折れるのと、電車が発車するのはコンマ何秒かの差であった。



 私立青葉女子高等学校。
 全国でも指折りの優等生高校で、進学率九十三%、現役合格率が何と八十%を超える有数の進学校である。代わりなのかどうかは判らないが、クラブで良好の成績を残す部活は殆どない。唯一、強いと言われているのが吹奏楽部で、この部も最近は成績の伸び悩みに苦しまされているのである。校風は「清く、そして健やかに」というスローガンの基に明るい学生生活をエンジョイするお嬢様で埋め尽くされていた。そう、この学校は都内でもトップ・クラスに入る可愛い女の子が多い学校で知られているのだ。男子禁制である事も相俟って、その秘密の花園に憧れるのは東京都内の男子ばかりではない。
 その中で今年入学して来たのが、個性豊かな三人である。結花と佐緒里は中学時代からの親友で、栞は結花が同じクラスになってできた友達だった。
 ただ、いつの時代のどの学校でも柄の悪い先輩は不思議と存在していたのであって、新入生にヤキイレしたると突っ張った上級生も、一番に目を付けたのはとことん目立つこの三人組であった。ただ、栞と佐緒里はどこか恐ろしいので、やっぱり最初のターゲットは小動物系の結花に向いたのであった。
 昔ながらの下駄箱に手紙作戦で結花を体育館裏に呼び出した上級生。佐緒里と栞がついていこうとするのを宥めて、結花は健気にも一人でそこに向った。残された二人は、はらはらと事態を見守ったが――帰って来た結花は何とも無かったので、待ってた二人は心底から拍子抜けしたらしい。
 ちなみに結花本人は知らないが、翌日にその上級生達が彼女のファンクラブを立ち上げたのは有名な話である。一説によると、そのファン倶楽部には早くも五十人を超える構成員(?)が集まっているとかいないとかで、その中には生徒会執行部の人間も存在し、生徒会長や教師まで加盟しているとか。
「…ですから。羅生門の下人の気持ちの変化と言う物は実にリアルに描写されている訳です」
 国語の柊先生の声が、穏やかに、耳に心地良く入ってくる。
 一年生は四階に教室があり、結花は廊下側の最前列。一年四組の国語の授業は、生徒達が惚ける時間だ。
 四組の担任を務める柊 香美先生は、同性も見惚れるほどの美貌の持ち主である。そのキリリとした表情に、明るいブラウンの髪の毛を一本に束ねて右肩から下ろしている。一見冷たい印象の彼女だが、それは端に眼鏡をかけているからだったりする。実は生徒達が憧れるほどの柔和な性格を持つ彼女は、眼鏡を取ると瞳が結構大きい。束ねられた髪の毛も猫っ毛で、納まりが悪く束ねるのに苦労すると言っていた、結構可愛い女性なのだ。声もまた優しく、まるでオルゴールのようなそれで教科書を朗読していく彼女は女神のようであり、要所要所の解説をする彼女はまた、違った美しさが醸し出される、例えるならば天使のようであった。
 今は六月も中旬になる梅雨真っ盛り。湿気でベタベタする教室の中は、しかしそんな物を気にする者はいない。今日は梅雨時にもかかわらず良く晴れた清々しい一日であった。柊先生の優しい声色が、初夏の暑苦しさをも和らげてくれる。
 だからであろうか。結花はちらりと窓際に目をやると、栞が頬杖をついて熟睡していた。
 四階の教室は、南中高度が高くなれば屋上に隠れて直射日光が当たらなくなる。それによって生み出される快適な空間は、夏には昼寝に適した天国と化すのだ。爽やかな風が窓から入ると涼しく、湿気を飛ばしてくれるので、誰でも容易に睡眠態勢を取る事が出来る。それは、あの栞とて例外ではなかった。
(あれ? 夜更かしでもしたのかな?)
 結花はとりあえず栞の珍しい寝顔を目に焼き付けてみた。じっくりと観察して、心の中でくすりと笑う。
(か〜わい〜)
 結花が、ボーッ、と栞の方へと視線を向けていたのがバレたのだろうか。先生が一呼吸おいた。
「?」
 その間が気になって結花は振り向いた。その瞬間に、
「津山さん。この時の老婆の行為について、貴方なりの見解を聞かせて」
 結花が慌てて栞の方を見る。いや、振り向いた時には彼女の声が結花の耳に届いていた。
「はい。この時代、平民層の人々の生活はやはり苦しかったと推測できます。ですので、彼女の取った行為はやはり一概に悪とは言えないのではないでしょうか」
「そう。そういう考え方もあるわね」
 柊先生は優しく微笑んだ 。
「ありがと、しっかりとした意見を聞かせてもらえたわ。では、次に五十三頁の六行目の部分。じゃあ河合さん。意見を聞かせて」
「は、はい。え、と、これは……」
 その後も淡々と授業が進んでいく中で、結花は、やっぱり栞ちゃんは凄いなぁ、と感嘆し続けていたのであった。

 昼休みを終え、五時間目も終業のチャイムが学校中に響き渡ると、半分禿げ上がった頭がスースーするのか、英語の担当教師はさっさと退室してしまった。
「ようやく終わった……」
 結花がぐったりと机に倒れ伏す。
「あら、まだ六限目があるわよ?」
「う〜。次なんだっけ?」
「校庭でボールを追い掛ける種目よ」
「それ、選択肢がいっぱいあると思うんだけど」
「次のワールドカップがドイツで行われるのよね」
「素直にサッカーって言えばいいんじゃないかな?」
「あら、フットボールの方がしっくり来ると思うわ」
「フットボールとサッカーって違う物だと思うよ」
「あら、そうなの?」
「知らなかったの? しーちゃんって、時々分からなくなるなぁ」
「まぁ、どうでも良いじゃない。早く行くわよ」
「その物言いは、何かとても理不尽な物を感じるんだけど……」
「気にしないの。早くしないと遅刻しちゃうでしょう」
「はーい」
 間違った事を口にしながらもゆっくりと立ち上がって、結花はふらりとジャージを取り出した。廊下に出ると、栞がさっさと階段を降りようとしている。そんな薄情な少女を追いかける為に、結花は小走りに廊下を急いだ。
 青葉女子は公立高校と違い、創立時から現代に至るまで、経済状態がすこぶる良い。一説によると、旧財閥の大元が自分の娘の教養の為にと建てたとかで、そこから多くの経済的な余裕を持った金持ち達がこの学校に子供を通わせて来た。どんな道楽娘でも、三年間この学校に在籍すれば立派な一般人として成長すると呼ばれるのである。どんな虐めも許さぬ校風と、ある程度の自由な雰囲気が±0となって、生徒達の豊かな心が育っていく。もちろん、ある程度の例外もあるが、そんな者を物ともしないだけの実績が、この学校にはあった。
 少女達は着替えを終えて、各々更衣室を出て行く。結花達は六組と合同でサッカーである。2クラス合わせて七十余名も、この学校の広々とした校庭は簡単に受け入れてくれる。
 六組には佐緒里がいる。ここで丁度良い具合に三人揃う訳で、この凸凹トリオの恐ろしさが発揮されるのだ。
 少女達は、六月の湿気の多い季節、半袖にブルマといういでたちで校庭でアップに励んでいた。その姿は、その手の趣味の男でなくとも、一目見れたら天国と感じたに違いない。女子校の中で体育教師とは最高の職場なのだが、青葉女子は男子禁制、教諭は全員が女性であった。秘密の花園は絶対に護られなければならない場所であり、だからこそ周辺の男子はここに憧れるのである。
 きゃあきゃあと華やかにボールを蹴っては受ける少女達。当然その中には結花と佐緒里と栞もいる訳だ。結花以外の二人は比較的に運動神経が高いので、ボールを追い掛けるのはおおよそがちまちましたこの少女になるのであった。
 一部の場面を抜き出すと、
 あっちへコロコロ。
「あああああっ!」
 こっちへコロコロ。
「ひゃあああっ!」
 向うへコロコロ。
「うわぁぁんっ!」
 そっちへ(以下略)。
 となるのであった。
 そうして結花がそろそろ肩で息を切らし始めた頃、広いグラウンドに笛の音が響き渡る。
 ピピィー、と。
「はぁーい、それじゃあゲーム始めるよ。一班と三班がこっちで、二班と四班がそっちね。十分後に笛吹くから、その後はローテーションで代わって。じゃ、試合する班はそこいって、他の班は見学。さ、動いた動いた」
 テキパキと指示を飛ばす体育科の少路 科乃先生は、しっかりとした口調と明朗快活な説明で生徒の間で好かれている。別名『笛吹き空母』。この愛称は、彼女の吹く笛は青葉女子校のどでかい校庭の隅っこにいても届くという特技の、その音がまるで艦上戦闘機のようであるという事と、太平洋戦争中の不沈戦艦として有名な『大和』の三番艦である空母『信濃』と同じ読みの名前とをかけた物である――らしい。結花はその名前を聞いた時に、そんなマニアックなネーミングは誰が考えたのだろうかと首を傾げた。また、彼女は柊先生の高校時代の後輩だったらしく、彼女とは親しい。この前、結花が偶然にも階段の陰で密談している二人の姿を見付けてしまったことがあった。なにやら険悪そうな雰囲気で睨み合う二人に、思わず物陰に隠れてしまった結花だったが、その時の二人の会話の内容は、以下の通りである。
『ぜ〜ったい、カレーにサツマイモを入れないなんておかしいですよ!』と、科乃先生。
『科乃ちゃん、それは悪い事だとは言わないわ。でもね、個人の好みというものがあるでしょう。各家庭によって色々な種類があるの。私だって、あの中にポテチのコンソメパンチを砕いて投じてみたわ。流石にあれは失敗だったけれど……。――その様に人には趣味があるの。解るわね?』
 柊先生も負けてはいなかった。得意の長文攻撃で相手を征しようとするが、それでも科乃先生は引き下がらなかった。
『でもっ! …じゃあ、それじゃあカレーの定番メニューであるジャガイモ、玉ねぎ、お肉などはどうなるんですか? あれは大抵のカレーには入ってるじゃないですか。サツマイモも定番にしたほうが、絶対売れます!』
『その、定番というのが貴方の錯覚なのよ。そんなものに惑わされるのは、一種の洗脳だわ。事実、カレーの具は本来、定義などなされてはいけない物なの。いいえ、これは全食品に言い切れるわ。各々の好みによって、具という物はそれぞれが定義すべき物なのよ。なのに、人々は宣伝の魔力に惑わされて、定番なんて物を作ってしまったのよ。これは高度に発達した文明の罠の一つだわ。先進国の、資本主義の落とし穴は食生活から始まってしまうのよ!』
 この話を真剣に聞き入っていた結花は、流石は先生、言い争いもハイレベルなんだなぁ、と思ったものだ。この内容もハイレベルすぎた論争に、手に汗握って見守っているのは、他人に見られたら変な勘違いをされるのだろうが、幸い授業が始まっていたのでその姿を見た者はいない。結局、科乃先生は柊先生に丸め込まれたのだが、結花は最後までその勇姿を見守っていたのであった。御陰でその時の授業は遅刻どころか欠課扱いになったのだが。
 その事は流石に他の人間の耳に入れるのは憚られたので口外はしていない。その後の二人の様子を見ている限り、仲直りした様子だし、いつも通りに親しそうに廊下を歩いている姿だってよく見かける。二人とも、あの時の事はおくびにも出さないので、結花もわざわざ言うような事ではないと判断した。
 そんなこんなで科乃先生の方をボーッ、と見ていた結花の頭にサッカーボールが当たるのは、既に決まったパターンのようであった。まるで吸い寄せられるかのようにヒットした硬いボールの感触に頭が揺れると、少女は少しの間、凍った様に微動だにしない。自身の脳内コンピューターが事態を完全に把握しきれていないのだ。それを解析、処理するのに要する時間は、およそで三秒間。ボールが、そろそろ結花の足元から転がる時に、彼女は振り向いてチームメイトを凝視する。
「痛い……」
 後頭部を押さえ、目に涙を一杯に溜めた少女の姿は、一種とてもマヌケな物がある。結花の視線の先には、サッカー部の期待のホープ(ソフトボール部も兼用)、川由 みなとが、ボールを蹴ったそのままの姿勢で笑っていた。
「何やってんの。練習するよ」
 他のチームメイトも結花を見て笑っていた。なんだか情けなくて、結花はしょんぼりと肩を落とす。
「……はい」
「ほら、輪の中に加わって」
「うん」
 ふと見上げると、隣の栞が微笑んでくれた。
 約十人の中に加わってボールを蹴る。その時に、上手くトラップできるかを見るので強めに蹴る事もあれば、ボールを浮かす事もある。体を動かす競技の中にいて、基本的にこの学校の生徒は華やかであった。
「ねぇねぇ、結花ちゃん」
 一生懸命にボールを目で追い掛ける結花に、隣にいる藤田 喜代子が話し掛けて来た。身長が結花と同じくらいで、長めの髪を三つ編みにして垂らしている、瞳の大きな少女だ。全体的に可愛らしい雰囲気があるのだが、極度の噂好きで、学校の裏側(と、呼ばれる秘密組織が存在するとかしないとか)では情報屋として知られているらしい。結花は以前、誰かから、喜代子とキャラがかぶっていると言われた悲しい記憶がある。
「なぁに?」
「結花ちゃんに好きな人がいるって噂、本当?」
 そして結花は石になる。
 ………。
「――へ?」
 数秒の間の後に出した結花の間抜けな声に、喜代子はさも興味ありげに(しかも目を輝かせながら)結花の顔を覗き込んで来た。
「これは、ある筋からの情報でね。その噂を知った先輩が、あたしに調査を頼んで来たんだけどね。あたしとしても気になるし、ここは本人に聞いてみようかなって」
「先輩って?」
「おーっと、それは踏み込んでは行けないわ。ここからは禁断の果実をもぎ取り、食すような物なのだわ。そんな事をしたらエデンの園から追放されてしまうわよ。重大な人権侵害は、あたしの信頼性をなくすからね」
「へぇ〜、そうだね」
 そこで結花はちらりと佐緒里の方を見た。木陰で友達と喋っている。
「…………」
 この噂の出所は、恐らくはあそこであろう。結花はそう確信した。
「で、結花ちゃん。事の真相は?」
「へ? あ、ううん。いないよ。そんな人は」
「本当に?」
「本当だよ」
「でもぉ……!」
 ピピィィ―――――!
 更に何か言おうとした喜代子の声が、科乃先生の笛の音に中断された。
「あ、笛なったよ。私達の番だよ」
「あぅ、ちょっと待って……!」
 結花は喜代子の制止を振り切って、さっさとフィールドに入る。
 内心、良し、と思っていた。と、そこへ栞が近づいてくる。
「結花、さっきの話……」
「へ?」
 さっきの話とはなんであろうか。自分は栞と何か重大な話をしていたのかと、結花は首を捻ってみた。
 が、栞の答えに肩透かしされる。
「好きな人がいるって言うのは、本当なの?」
「ありゃ〜!」
 ずっこけた。
「……気をつけなさい」
 栞が些か目を丸くしながら手を伸ばしてくれた。
「そうじゃなくてぇ……!」
 結花は栞の手を取ると、ありがとう、と言ってから反論した。
「なんでそうなるの?」
「だって、隣でそんなような事を話し込んでたんだもの」
「それなら、いない、って言ったと思うんだけど」
「でも、電車で見かける彼の事は?」
「あの人は何でもないです!」
 結花は怒ったようにグラウンドを進んでいってしまった。
「恥ずかしがらなくても良いのに……」
 栞がその後ろ姿を見ながらこう呟いた事は、すでに彼女の感知する所ではない。



 ボールが、その空いたスペースに滑り込むかのように、接地した。
 同時に、そこに到達する体から、ふわり、と漆黒の髪が浮く。詰め寄るディフェンダーをかわす為にボールを足に付け――ステップを踏むかのように軽やかに抜いていった。
 サッカーボールが離れると、少女の体はそれを追う。置いていかれたディフェンダーが体を回転させる頃には、栞は次の防衛ラインに到達していた。
 それすらも抜いて――いや、抜けてはいない。相手もしつこく粘ってくる。左側にいる栞の右側を完全に塞いでいるのでセンタリングも適わないのだ。
 栞が急に減速した。体を反らすかのようにしてスピードを殺すと、ボールも同時に止める。スイーパーも後を追って体を止めるが、その時には栞は既に足を前に出していた。
 プル・プッシュ――驚異的なバランス感覚で完全に相手を置き去りにすると、開けた視界でクロスを上げる。早く正確なそれは、当然ながら高校生の女の子に取れる者は居なかった。
 いや、居るにはいるのだ。ただ、肝心のみなとが前線に居なかっただけ。そのままボールはラインを割った。
 栞は、ふうっ、と息を吐いてゆっくりと歩いてくる。先程までの大活躍を反対側のディフェンスラインで見ていた結花は、彼女に尊敬の眼差しを送っていたりした。
「凄いねぇしーちゃん。カッコイイなぁ」
「そうねぇ。私達も負けてらんないわ」
 隣の佐緒里もそういって溜息を吐いた。その後でおもむろに結花の肩に腕を回してくる。
「ま、お互い頑張りましょうか。目指せドイツワールドカップ! って感じで」
「なんで私までワールドカップ目指さなきゃいけないの?」
「細かい事は気にしなさんな。ほら、来たよ」
 相手方のゴールキック。高く上がったボールは、中盤辺りで敵がトラップして前線に送って来た。
 そして、その前線が結花の隣――つまり佐緒里なのである。
「あっ!?」
「いただき!」
 素早く反転してゴールを目指す佐緒里。結花が一歩遅れた。
 ようやく結花が後ろを向いた時には、佐緒里はすでにボールをゴールに向って蹴っていたのだが、これはキーパーの横を摺り抜けてポストに嫌われる。弾かれたボールは結花の目の前に来たので、それを受け取って、目の前に居る人達にびっくりした。
「えっ……?」
 ボールを奪おうと襲い来る相手攻撃陣に恐れをなして一歩後退した結花の足がボールに当たって変な方向へ飛んでいったのだが――そこがちょうど空いていたので、結花は思い切って飛び出してみた。
(わあっ……!)
 巧く人の間をすり抜ける事が出来た。こんな感覚は始めてだと、結花は感動した。
「まだまだぁ!」
 その目の前に佐緒里が現れる。どうしようかと一瞬迷ってから、思い切って急加速をかけてみた。佐緒里が少し驚いたような表情を見せる。ボールは見事に佐緒里の間をすり抜けた。
「くそっ!」
 佐緒里が漏らす。ボールはみなとに届いて前線へと送られた。
「ちぇっ。結花、やるじゃん」
 そういって笑いながら佐緒里が振り向いた時――結花は居なかった。
 首を巡らして存在を確認しようとする。やはりいない。今度は下を向いてみる――居た。見事にずっこけていた。
「あはははっ!」
 佐緒里の笑い声が聞こえる中、結花は一人で地面とお見合いしている事となった。



「今日は酷い日だなぁ…」
 と、溜息混じりで漏らしつつ。結花はバックの中に荷物を放り込んでいった。
 さっき転んだ時にぶつけたおでこがまだ痛い。さっき鏡を見たら鼻頭も少し赤くなっていた。前髪に付いていた砂はとったから良いとして、おでこに残った傷は流石に痛む。
 中々どうして、掠り傷ほど瞬間的に痛い物はない、と結花は思っている。ズキズキとして、それでいて外気に刺激され易い。厄介だと言う点では、もしかしたら骨折よりも酷いんじゃないかと、結花は本気で悩んだりもするのだ。特に、かさぶたになってからが一番の問題だ。あれはどうしても弄りたくなってしまう。その欲求を押さえる事が、傷を負った時に感じる、一番の試練なのではないのかと思う。そう、それを克服する事こそ、悟りへの道が開き、何千・何億と言う自国民の命がウンタラカンタラ――。
「あうっ、痛たた……!」
 訳の分からん事を考えていたら急に傷が気になったので触ってみたら、案の定、痛かった。無意識とは言え、これで悟りへの道が完全に途絶えた事に多少のショックを受けながらも、手鏡で覗いてみる。
「あ、凄い。もうかさぶたできてる」
 当たり前だ、というつっこみはあえて置いておこう。おでこに出来た軽傷は、傷から流れた血液(微量)の中に含まれる血小板と言うのがかさぶたを作り、徐々に治していくのだ――と、その様な話を聞いたような覚えがある。ただし記憶が曖昧なので真実は多少、いや、かなり歪められているかもしれない。自分でも分からなくなった結花は、とりあえずそれを後回しにする事にした。
 だけど――
 結花は鏡の中の自分をまじまじと見詰めた。真ん中を開けてある前髪はちょうど傷が中央に来ているので、目立つ事この上ない。これはかなり間抜けだろうな、と結花は考えた。できれば外に出たくはない、とも思う。
「それなら前髪を下ろせば良いじゃない」
「あ、そっか。――て、ええっ!?」
 結花は驚愕の声を上げて、いつのまにか隣にいた栞を見る。彼女は唐突に大きな声を上げた結花を、少しビックリした表情で見つめていた。それを見て結花は少し得意げな思いが心に沸き上がるのを感じた。
(しーちゃんが驚くのなんて、珍しい)
 と、少し嬉しくなったので表情に出たのだろう。栞が不審げな視線で見つめてくる。
「どうしたのよ、急に大きな声を上げたり、いきなりニヤニヤしたりして」
「え? う、うん」
 少し困惑してから、自分の口元が笑みの形になっているのに気が付く。結花は昔から、感情を隠すのが(と、言うよりも嘘を付く事が)苦手だった。この、馬鹿正直な性格は、自分でも行き過ぎではないのかと時々思う。
 と、そこで自分が驚いた理由を思い出して、慌てて栞に捲くし立てた。
「だ、だって、しーちゃんてば、私の心の中を見透かすかのような事をいきなり……」
 そこで栞は納得したかのように二・三回頷くと、
「鏡を見ながらおでこを気にしてるんだから、それぐらい察しは付くわよ」
「そ、そうかな?」
「そっ。分かり易いのよ、結花は」
「う〜…ん」
 ……そうかもしれない、と思う。情けないながらに。
「まぁ、そんなの個性の内に入るんだから、余り気にしちゃ駄目よ」
 急に落ち込み始めた結花を見て、栞がフォローを入れてくれる。ただ、それも慌てた様子は全くない。あくまで冷静に物事に対処できる彼女は、他の高校生とは明らかに違う存在であった。
「うん、そうだよ。クヨクヨしてもしょうがないよね!」
 一方の、ポジティブ&思い込みの激しい結花は、とりあえず物事をプラス思考として前向きに捉える事にした。彼女のこういう素直な所は、ある意味で他の高校生から逸脱しているのかもしれない。今回も思考をすぐに切り換え、とりあえず帰宅する事にした。
「じゃ、一緒に帰ろ、しーちゃん」
「いえ、今日は委員会の方があるのよ」
「あ、そうなの?」
「元々、そう言いに来たのよね。だけど、結花ったら、一人で物思いに耽ってるんだもの」
「ご、ごめんなさい」
 何だか謝るのは見当違いのような気もする。
 栞は残念そうにしながら、(何故か)結花の頭を数回、撫で回した。
「な、何で撫でるの?」
「だって、撫でたかったんだもの」
「それは理由になってない気がするよ」
「何だか、小動物を見ると、つい撫でてあげたくならない? あれと同じ心理よ」
「あー、分かるよ。分かるけど、それはつまり、私は小動物って言う事?」
「同じ様な物でしょう?」
「それはそれで、とても失礼だと思うの」
「気にする事はないわ。私と結花の仲じゃないの」
 そして再び撫で回される。
 結花は困ったように視線を右往左往させ始めた。すると、ドアの所で、佐緒里がひょっこりと顔を出した後に教室内に侵入して来たのだ。
「二人ともごめん! さっき先輩に捕まってね、部活でなきゃならなくなった」
 開口一番に頭を下げてくる佐緒里に、慌てたように手を振る。
「良いよ、そんなの。佐緒ちゃん、部活、大変でしょう。『現代社会にさり気無く潜む哲学研究会』、がんばってね」
「違うわ。佐緒里は、『現代社会に潜伏するストレス解消法研究会』に所属しているのよ」
「え、そうだっけ? でも確かに『哲学』が付いたような気がするんだけどなぁ」
「ストレスは現代の社会現象よ。佐緒里は解決法を発見して、臨床心理士として成功を収めようとしてるのよ。がめついから」
「でも、佐緒ちゃんて、実は良い人なんだよ。哲学を研究して、より良い環境と精神を築こうとしてると思うの」
「でも、案外、佐緒里自身もストレス感じてるのかもね。それなら、自分の為にもストレス解消って言うのは現実的なんじゃないかしら?」
 などと二人が噛み合わない会話をこなしていると、佐緒里が苦笑しながら二人に向って一言、
「あたしが所属してるのは、『現在の政治体制に対しての徹底討論を実施する、将来有望の若者達の会』よ。あんたたち、勝手に人を怪しい同好会にいれないでくれる?」
「佐緒ちゃん、それが一番怪しいと思うよ」
「な、なぬっ!?」
 佐緒里が驚愕したかのように一歩後ろに退いた。
「そうねぇ。訳の分からないと言う点では一番怪しいわ」
「そ、そんな!」
 佐緒里は更に後退する。
 そして、止めを刺したのは結花の最後の一言だった。
「『徹底討論!』って、日頃それで時間潰してるの? それって、凄い変だと思うけどなぁ」
「ぐふぁぁっ!」
 佐緒里は衝撃に耐え切れなくなったかのように膝から床に崩れ落ち、三秒間沈黙した。
「あ、あの、佐緒ちゃん? でも、政治に付いて話し合う事は、とっても良い事だと思うけどなぁ……」
 見るに見かねた結花がフォローを入れるが、実際に止めを刺したのは自分だと言う気持ちは全くない様子であった。
 沈黙の後に、何となくどんよりし始めた空気を追い払うかのようにゆっくりと立ち上がった佐緒里は、フッと笑って、
「まぁ良いわ。とりあえず、これで今日の奢りは無しね」
「へっ?」
 唐突に余裕の笑みを見せた佐緒里に対して、結花は一瞬、きょとんとする。それから、脳内コンピューターが活発化して情報を読み取り、そして思い出した。この間の中間テストで賭けをやらされていたのだ。五教科の総合得点で一番低い者が、駅前にある『シビリア喫茶』でフェンリス・パフェを二人に奢る、と言う物で、あの時の最下位は確か佐緒里だった筈――
「あぁっ!」
 ズルイ、と結花は叫んだ。そうだ、確かに指定していた日は今日だったのだ。今の今まですっかり忘れていた。何と言う事だ。『シビリア喫茶』のフェンリス・パフェはその異様さと威容さで知られる。驚くべきは、その量であり偉大さなのだ。何か、ただのパフェなのに、見ている物のハートをがっちりと掴み取るかのような威風堂々とした、それさえあれば日本の政治を変えるくらい出来るのではないかと思えるかのような、後光が差しているかのように錯覚する、そんな凄い食べ物なのだ。結花も、問題のパフェは一、二回しか食べた事がない。(主に経済的な問題が原因)
「そ、そんなぁ…」
 と、今度は結花が沈黙した。その横で勝ち誇ったかのように胸を張っている佐緒里に向けて、栞がさりげなく一言。
「ちょうど良かったわ。今日は私も無理だったの。だからまた今度奢ってね」
「……へっ?」
「あら、何を不思議そうな顔をしているのかしら? 約束っていうのはは選挙公約なみにしっかりと護ってもらわなきゃね。だから、ちゃあんと、奢ってもらうわよ」
「…………!」
 佐緒里は開いた口が塞がらない様子であった。
「しーちゃん、カッコイイ……」
 結花はただ、嘆息するのみ。
「ぐっ、くぅぅ……」
 佐緒里が呻く。
 でも、選挙公約ってあんまり護られてない気が――
 そんな訳の分からん事に結花の頭がようやく気が付いた所で、
「ま、まぁ良いわ。じゃ、今日は無理だからって事で」
「あっ、ちょっと待って」
 ギクリ!
 足早に立ち去ろうとする佐緒里の背中に、栞の声がかかる。佐緒里は一瞬、ビクリと身を震わせた後に、ゆっくりと振り返った。
「な、何?」
 どうやら、まだ邪な考えがあったようで、その目が恐怖に怯えている。
 が、栞の言葉は予想外のものであった。
「私もこれから委員会なのよ。途中まで、一緒に行きましょう」
「あ、なーんだ」
 安心安心、と佐緒里が安堵したかのように肩の力を抜く。
「あ、待って。私も途中まで行くよ」
 結花もそう言ったので、三人は、一緒に教室を出たのであった。



「う〜…んぅ……」
 一人、並木道を歩いて伸びをする。四月に見付けたこの公園は、いつ来ても、豊かな緑に囲まれた綺麗な場所だ。若々しい、生命の力が溢れる、そんな元気な植物の匂いが鼻孔をくすぐる。結花は春の美しい花々の発する甘い匂いも好きだが、梅雨時の元気な葉っぱの匂いも好きだった。道の脇に、入口から出口まで一直線に並べられた木々が、昼の高い日に当たって気持ち良さそうに日光浴を楽しんでいる所を見るのは、とても楽しかった。
 校門を出た頃は、一人ぽっちだと言う寂しさも少しはあったのだ。そういう時はここに来ると決めている。ここは、比較的大きな公園なのだが、駅へ行く道からは少し外れており、学校の生徒の姿は余り見当たらない。佐緒里や栞にも教えていない、結花の秘密の場所だった。
 しかしながら、やはり地元では広く知られているらしく、散歩やジョギングなどに出掛けている人はたくさん居る。それでもこの広い公園は、ゆっくり歩いても何の問題もない。ここは良い所だと、つくづく思う。あの時に道に迷って良かった、とも。
 確かあれは、入学当初の四月中旬だったはずだ。気分転換のつもりで横道に入ったら、駅に戻れなくなって右往左往していた所に、いきなり開けた場所に出たのだ。そこが、この『コウリガシ公園』であった。
 なんでも、ここ『コウリガシ公園』は、江戸中期の大手高利貸の屋敷があったそうで、この付近の方々は大変迷惑していたらしい。それから時代が明治へと移り変わった時に、不況のあおりで屋敷が潰れて公園が出来たそうだ。それで名前を決める時に地元の方々が皮肉混じりに『コウリガシ公園』と名付けたと言う。結花はこの話を聞いた時に、昔の人の感性は良く分からないものだなぁ、と首を捻った。
 そんなこんなで、ボーッ、としながら歩いていると、
「わうっ!」
「へっ?」
 結花は急いで意識を過去から現実に戻した。戻したは良いが、何が起こったのか分からず、一瞬その場にフリーズしてしまう。凍結から解除された頭が視線を左右に走らせるように命じたが、視界には何も入ってこなかった。
「わうんっ!」
 再び声がした。今度は後ろにも視線を投げる。やはり、何もない。
 ただ、二回も聞こえたのだから、空耳でもあるまい。次に上下に頭を振ってみる。そうして、ようやく声の発生源を認識した。
「ジョージ!」
「ばうっ!」
 結花の足元に顔を寄せて、嬉しそうに目を細めているのは、結花の腰くらいまである巨大な犬だった。その体毛は黒に近く、また柔らかい。元来から肉食である犬の狂暴さが伺える牙を覗かせる口は開け放たれて舌を出し、甘えるようにして少女の足に体を摺り寄せていた。
「ジョージ、久しぶりぃ!」
「ばぁうぅ!」
 結花がしゃがんで目線を合わせてやると、ジョージと言う名の犬は早速、結花の顔に擦り寄って来た。
「あははっ、やだ、くすぐったいよ、ジョージ!」
「わうぅ!」
 並木道のど真ん中で犬と戯れる美少女に奇怪な目を、もしくはそんな微笑ましい光景に笑顔を浮かべる人々の事など目に入らないかのように、ジョージと一頻り遊んだ後に、一人の老人が近づいてくるのが結花の視界に飛び込んだ。
「おお、結花ちゃんじゃないか! 久しぶりじゃの」
「静十さん、お久しぶりです」
 小柄な身体に豊かな白髪と綺麗に揃えられた髭を貯える、結構な年を重ねた老人が、穏やかな顔をしながら一生懸命に歩いて(走って?)来た。
「これ、ジョージ。いきなり逃げ出しては敵わんじゃろうて」
 ジョージを挟んで結花の反対側にしゃがみ込んだ静十老人は、はぁはぁと息を切らしながらも、鎖を繋いだ首輪をジョージの首にはめようとする。が、それを巨大犬はいやいやと拒んだ。
「ぬうぅ……困ったボコじゃ」
 どうするか、と思案に暮れ始めた静十老人は、すぐに頭に豆電球を浮かべると言う古臭い表現を使って、何か思い付いたかのように結花の方へと向き直った。
「結花ちゃん、悪いんじゃが、この我侭坊主に首輪をはめてやってくれんかの」
「へっ? でも、ジョージは嫌がってますよ」
「じゃが、こんなデッカイ犬が放し飼いになっとると苦情が来ても堪らんし、小さなお子さんは怖がってしまうじゃろう?」
「そ、そういえばそうかも……」
「それに、こやつは結花ちゃんには十分懐いてるんじゃぞ。これでも結花ちゃんが来ない日は1日中不機嫌だったりするんじゃ。じゃから、君なら大丈夫じゃと信じとるよ」
「そうなんですか。それは、色々ごめんね、ジョージ」
 結花がそういってジョージの太い首を抱きしめてやると、ジョージはきゅーん、と甘えた声を発した。
「じゃ、お言葉に甘えて」
 ジョージの頭を撫でながらも老人の手から首輪を受け取ると、巨大犬の大きな首にはめてみる。問題はなさそうだ。ジョージも大人しく首輪をはめさせてくれたし、鎖を持ってやると上機嫌でしっぽを振ってお座りの体勢を崩さない。
「いい子いい子」
 結花が撫でてやると、その手に顔を摺り寄せてきた。
「結花ちゃん、もう一つお願いしても宜しいかね?」
「はい?」
「こいつの散歩に、暫し付き合ってくれんかの」
「あ、良いですよ。私もそっちの方が楽しいです」
「そうかい。そう言ってもらえると嬉しいよ」
 静十老人は、はにかんだ様に笑んだ。
 結花もつられる様にして笑うと、ジョージが元気良く吠えて先頭に立って歩き出した。それを見て静十老人は、早く行こうか、と言って歩き出す。結花もその隣に並んで並木道を歩いた。
 『コウリガシ公園』は広い。それでいて綺麗な自然に囲まれた、良い所なのだ。そこでの散歩と言うと、とても有意義かつ健康的なものとなる。二人と一匹はゆっくりと歩きながら、公園を歩いた。もちろん無言では気まずい空気になってしまうので、それなりに喋りながら歩く。話題は大抵、静十老人のウンチクなのだが、聞き上手な結花は真剣にその話に耳を傾け、静十老人はそれにつられてボルテージを上げて行く。いつも、最後の方は身振り手振りで凄い動きを披露しながら話してくれるので、それはとても面白い。実は、先の『コウリガシ公園』の歴史を語ってくれたのも、この静十老人であった。
 今日は江戸末期の戊辰戦争時代の話を披露してくれるという。

 ――長ったらしいので省略――

 静十老人は、話し終わった後に何かを懐かしむような目で空を見上げた。その時の顔はとても清々しく、また、悲しそうでもあった。
 結花はなんだか凄い話を聞き終えた緊張感から、ふうっ、と溜息を吐くと、足元でうつらうつらしているジョージに手を伸ばした。指先が触れると、ジョージは跳ね起きたように首をもたげ、擦り寄ってくる。結花はジョージの首を優しく撫でると、腕時計を覗いた。
「……あっ!」
 驚愕。既に電車の到着時刻に近づいている。ベンチから腰を上げた。
「これじゃ間に合わないかも……。静十さん、どうもありがとうございました。とても勉強になったです」
「おや、もう行ってしまうのかい? 寂しいのう」
「でも、電車が発車しちゃうんですよ」
「そうかい、それじゃあしょうがないのう。また来ておくれよ」
「はい。それでは! じゃあね、ジョージ!」
 結花はもう一度ジョージの頭を撫でてやった。硬い毛が手に心地良い感触を与えてくれる。ジョージは一瞬、名残惜しそうな目をした後に元気良く、わあうっ! と吠えてくれた。
 結花が手を振りながら走り去っていくのを、静十老人とジョージは見えなくなるまで手を振っていた。結花の小柄な身体が曲がり角に消えると、一人と一匹は寂しそうに瞳を交差させる。そんな二人の背後に、身長百八十cmくらいの怪しい人影がある事にも気付かずに。



 電車にどうにか間に合った結花は、途中の駅で降りて閑静な住宅街へと入る。更にそこを真っ直ぐ行くと、最後の方で大きな邸宅が見えて来た。
 それが、彼女の家である。
 少し広めの土地に西洋風の大きな家を造り、庭も広めで緑も多い。この家は、大黒柱である水葉 憲三氏の今までの生涯の中で、一番大きな贅沢であった。
 ちなみに、前の家は都心にも近い高級住宅街の一角にある比較的小さな家だったらしい。そこで息子と一緒に暮らしていたのだが、その息子が結婚すると言い出した時に、慌てて造らせたものだ。たった三人の家族(憲三氏は他にも三人の娘がいたが、その時には全員が嫁に出ていた)だったら前の家でも良かったのだが、嫁が来る、しかも既に子供まで出来ていると言うからには広い家にしようと言う事になったのだ。長男の宏忠とその嫁は、現在の少子高齢化を嘆いており、子供はたくさん儲けたいと言っていたので、大慌てで必要以上に巨大な「屋敷」にしてしまったのである。
 しかしそんな夢も、最初の子供である結花が五歳の時に、親子三人で出掛けた冬山登山の時に消えてしまった。当時、結婚二年目で宏忠は勤め先である外務省から通達があり、書記官として中東アジアに行く事となり、三年も留守をした。何とか無事に帰ってこれた時に、ようやく結花と暮らせるようになったのだが、結花は当然、父親の顔を憶えていなかったので、宏忠の顔を見た時に大声で泣き出してしまった、と後に聞かされた。結花がようやく父親に懐き始めた頃、登山が好きだった両親は、結花を連れて冬山に登った。が、下山途中に遭難して、五日後に発見された時には二人は事切れていた。その時に、結花だけが生き残って、こうして時を過ごしている。
 結花は、その時の事を、良く憶えている。自分があの時に風邪なんて惹かなければ、もしかしたら今頃は祖父、祖母、母、父と家族五人で――いや、弟や妹もたくさん居ただろう。他にもメイドさんたちに囲まれて、その中で幸せに暮らしていけたのだ。責任の一端は自分にあると、今でも時々、自分を責める。
 そして――
 彼女はその時の事を良く憶えている。そう、あの時、両親が息絶えたその時に自分を救ってくれた人の事を。顔は、残念ながら、良く思い出せない。何故だろうか、他の事は、まるで昨日の事のように思い出せるのに。が、彼は確かにそこに居た。そこに現れて、自分を助けてくれたのだ。彼はどういう人だったろうか。とても優しく、また、暖かかった。自分の事を悪魔と呼ぶ不思議な男の人は、とっても良い人だった。恐らくあの時が自分の初恋なのだろう。
 と、言っても、結花は今まで恋をした事が無いので、それは漠然としたものだった。それでも、彼を思うと胸が痛くなる。友達は、こういうのが恋煩いなんだと言っていた。
 でも、どういう人だっただろうか? 顔以外の事は殆ど憶えているのだ。そう、体型は朝の電車で見かけるあの男の子くらい。全体的な雰囲気も似ている。だから彼を見ると少し胸がときめいてしまうのだろう。あの男の子はあの人と似ているからだ。
 でもそれは、似ている、に過ぎないのだ。第一、あれは十年も前の事だ。少し大人びた感じがあるとはいえ、当時で二十歳位の人が高校の制服を着て、普通に電車に乗って登校しているものなのか。大体、年齢は判る筈だ。あの男の子が三十歳を超えている様にはとても思えない。
 結花は、フウッと息を吐くと、玄関の扉を開けた。
「ただいま!」
 元気に言うと、バタン、と扉を閉めて靴を脱ぐ。外見は洋式だと言うのに、中身は和が混じっていると言う、けっこう中途半端な家なのは、急いで設計したからなのだろうか。
 と、奥の方からバタバタと初老の女性が走って来た。
 祖母の静香である。
「お帰りなさい、結花。今日はビーフシチューよ」
「ホント? じゃ、着替えてくるね」
「ええ、そうしなさい。今日はおじいちゃんだって居るんだから」
「そうなの!? やった、これで三人でご飯食べれるね」
「これから一週間は休みとれるだろうって」
「そんなに? おじいちゃん、大丈夫なの?」
「そこのところは直接聞きなさいな」
「うん、判った。すぐ着替えてくるね」
 静香おばあさんは、にっこりと微笑んで、食堂へ向った。それを見てから、結花も二階へと急いで登っていく。

 その日、結花は久しぶりの祖父との夕食を終え、早くに眠りに就いた。数学の課題をやっていない事に気付くのは、夜が明けてからのお楽しみ。



 翌日は、朝から平凡に過ぎ去っていった。
 本当に平和で、違和感さえ憶えてしまうほど平穏な一日。朝はいつも通りに三人で電車に乗ると、あの男の子が手摺りに持たれて本を読んでいる。それを何となく気にしながら登校し、学校に着いたらホームルームで柊先生が、最近夜に町中で馬のようなものを見たと言う人が居るとか居ないとかで、実際に怪我人も何人か出ているらしいと言う話をしてくれた。ただ、それは深夜だしほとんどの人が酔っ払っていたり錯乱していたりで、重要な手掛かりはないそうだ。もしかしたら変な趣味の変質者かもしれないので気を付けろ、と言うものだった。
 その後の授業も滞りなく進んで、放課後はすぐにやって来た。栞が帰るように言って来たが、結花はこの日、先生とちょっとした話を――本当にちょっとした話だ。少し前に書いた作文をコンテストに出展させるか否かや、出展させるのならばその為の手続だとかについての話――をしなければならないので、また明日ね、と言って職員室に向った。その後、何故か議論が白熱してしまい、結局日の高い初夏の日ですら校門を出る時には真っ暗になっていたほどだ。
「ふう、まさか先生が最終的に人体が致命傷を受けた時の治療法まで持ち出してくるなんて……」
 話はかなりマニアックだった様である。
 とにかく、結花は真っ暗になった夜道を、急いで駅へと向って歩く事にした。
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