第二章 「悪魔の日頃」




 男は、ようやくホームに到着した電車に向けて、口の中で小さく溜息を吐いてからベンチを立った。何故か五分も遅れて来た電車は、時刻、と言う決定的なもの以外はいつもと変わらずにホームに停車してくる。
 男のいる三番線には、向かい側の一番線と見比べると、驚くほど人がいない。あくまで見比べた時の話であり、一番線の下りは東京の都心へと向う電車、朝の通勤・通学ラッシュはしょうがないとも言えよう。男は、揉みくちゃにされながらも今か今かと電車を待ちわびる人に微かな同情の念を向けてから、上り列車の中に入った。中もガラガラだった。
 当然だ。この電車は郊外へと向けて一直線に上っていくコースを取る。流石に後の方になると座れはしないが、ラッシュなどとは程遠い。男は適当に辺りを見回してから、空いてる席に腰を下ろして文庫本を広げた。
 それは、某有名書店のカバーがされてはいるが、ついこの間古本屋で百円で手に入れた代物だ。題名は『今でこそ必要な自衛隊の戦略』。現在の日本が持つ防衛の切り札、自衛隊の戦力と戦略を、過去の事件や諸外国の軍備・戦力、更には仮想敵国を想定しての有事の際のシュミレーションまで、徹底的に教えてくれると言うマニアックでありかつ知識としては持っていても損はない内容である。これで百円は安いものだ。出版会社は『宝船社』。あの、単行本でベストセラーとなった本しか文庫にしない事で有名な会社だ。
 男の名前は渡 聖。たった二文字で分かり難いが、これでワタリ ショウと読む。少し癖のある黒の髪の毛に、特に気を使う様子も無く適当な髪型。性格もそれなりに大雑把であるが、外見的には非日本人的にも見える線の薄い顔立ちは、そんな事を苦にも感じさせない。体格的には結構しっかりしている方だし、身長も高いため美少年などの類いには入らないが、申し分ない容姿はしていた。その彼が履くチェック柄のスラックスは、郊外の方にある、公立霧阿波高校の生徒である事を証明している。今は衣替え中なので、紺のブレザーはなく、上はワイシャツだけだ。ちなみに二学年である。
 全体的に落ち着いた雰囲気は、少年とは思えない。が、彼は事実上の少年であった。十七歳(早生まれと言う事になっているので実際は十六歳)となっている年齢は全く異なるものであるが、彼は立派な高校二年生であった。
 程なくして、電車がホームを出発する。ガタン、と慣性の法則に従って横に揺れる体を元の位置に戻すついでに、向かい側のホームを見やる。混雑しているそこに、すでににごった返している電車が止まっていた。
「…………」
 聖は下り方面の人間が気の毒に思えてしょうがない。
 電車は徐々にスピードを上げ、すぐに駅が遠ざかっていく。聖は文庫に目を落とした。ちょうど極東有事における自衛隊の対応のシュミレーションであった。
「…………」
 ガタタン、ゴトトン。
 車輌の中は静寂に包まれていた。車輪が線路の上を滑るように走る、その時に発する振動が車体を揺らす。空気が揺れて音が発生する。それすらも、読書には快適な環境であった。
 ガタタン、ゴトトン。
 いくつかの駅を通過しても、電車は暫し、その静寂を保ってくれた。が。
 そんな事が長く続く事は流石に有り得ないのである。
 電車が下馮河駅に辿り着くと、今までの無人っぷりが嘘のように人が乗ってくる。たちまち埋め尽くされる座席。そこに腰を下ろしたおばちゃんが大声で隣のおばさんと会話を始めると、心地良い静寂が消え去る時間だ。
「…………」
 聖は無言で怒りを抑え付けた。
 と、視界の中におばあさんが目に入る。ホームの傘が低いこの駅で、やっとこさ車内に入り込んで来た様子の老婆をこっちに呼んで、席を立った。
「どうぞ、おばあさん」
「あいやぁ。どうもありがとう」
「いえいえ。礼には及びませんよ」
 老婆は、しわだらけの顔を綻ばせて、ありがとう、ありがとうと何度も言ってから席に座った。
 聖は、ひっそりとその座席を狙っていた小太りなおばさんに視線で牽制してから、老婆が席についたのを見てドアの側へと寄って行った。
 手摺りに寄りかかる様にして、再び本に目を落とす。車掌が、ホームが無人になったのを確認したのだろう、笛を吹いて発車を促す。
 程なくして、プシュー、と言う空気の抜けるような独特の音を発してドアは閉じられた。
 ガタ……ン。
 すぐに電車が発進する。聖は危うく転びそうになるのを、右手で手摺り代わりのパイプを保持して何とか踏ん張る。
 文庫のページは次の章へと突入していた。それ即ち、現在の日本でテロが起こった場合の警察及び自衛隊の課題を提示する内容だ。
「…………」
 電車は相変わらず揺れていた。
 程なくして、次の駅に到着する。背後のドア(詰まる所の右側のドア)が開き、数人の人間が乗って来た。その中で特に元気なのが、いつもこの車輌に乗ってくる三人組の女子高生だった。
 聖は、ちらりと背後を見やる。色素の薄い鮮やかな茶色をした髪の毛に水色のカチューシャが映える、可愛らしい、みみっちい感じの少女。高めの身長に三つ編みの黒髪とオシャレな縁取りの眼鏡が印象的な少女。漆黒の長髪にグレーのヘアバンド、冷たい印象を与える涼やかな瞳を持つ少女。この、一見なんの関わりもなさそうな三人は、いつもこの時間のこの車輌に乗ってくる。
 個性豊かと言うか、豊かすぎる印象の三人組である。全員、あの有名な私立青葉女子校の夏服を着ているので、優秀かつお嬢様なのだろう。自分のような、平凡な公立高校に通うような人間とは全く関係の無い人間なのだ。
 笛が鳴る。車掌が電車を発進させ、同じように乗客全員に加重が来た。
 ガタタン、ゴトトン。
 車内には少し前とは打って変わって様々な声が錯綜していた。人々は喋る事に悦楽を憶える。意思を伝え合う事は最大の娯楽だと言えた。
 それは聖も重々承知している。事実、話をすると言う事は面白い事だ。会話と言う概念そのものが不思議であり、人間の全ての感情を見て取れるものの一つである。
 だから面白い。自分で会話をするのも、人の会話を聞くのも。
 しかし、今は続きが読みたいので、活字の並べられている、薄っぺらい紙に神経を集中する事にした。やろうと思えば全ての雑音など簡単に頭の中から排除できる。
 集中するとは、そういう事なのだから。
 そして――
『霧阿波〜、霧阿波〜です。御出口はぁ、左側〜です』
 目の前のドアが、音を立てて開いた。
 聖は、はっとして文庫を閉じる。どうやら、現在の日本が抱えるテロリズムの脅威の所で雑念を払いのけすぎたらしい。まさか、自分が降りる駅が近づいている事にすら気がつかないとは。
 とりあえず車内から降りる。ふと、ごく小さな殺気を――自分に向けられた物ではないと思う――感知して、振り返った。そこでは、先程の三人の内の小さい少女が、眼鏡を掛けた相方に腕を掴まれて、こちらを向いて何かをしている所のようだ。体の自由を奪われた少女は泣きそうな顔をしていた。潤んだ瞳が一瞬こちらを向いて――目が合った。聖は苦笑する。すると少女は顔を真っ赤にして、相方の少女――その少女の瞳には一瞬、悪戯の輝きが過ぎっていた――の腹部に肘を叩き込んだ。眼鏡を掛けた少女が腹を押さえて前屈みに倒れ込むのと、電車のドアが閉まるのはほぼ同時。ドアは乗り遅れた人間の為に一度開いて、完全に閉まる。そのまま電車は速度を上げて遠ざかって行った。



 聖は静かに正門へと向って歩いた。それは既に、すぐ近くに存在する。
 校門の目の前に到達する。目の前の巨大な建物――あくまで周辺の建造物に比べての話だ――に付いている時計は、授業開始まであと十分ほどである事を伝えていた。
 この時刻になると、流石に行く手にもちらほらと生徒が見えるようになる。が、大体の生徒はギリギリに来る為に、混雑などしているはずが無い。
 聖は正門を潜ると、玄関へと急いだ。
 途中、横にある校庭には、部活の朝練をやっている生徒は少ない。大抵は、この時刻は部室で着替えながらだべっているのだろう。
 歩きながら、横に向けていた顔を正面に戻す。その間に彼は、欠伸を一つ噛み殺した。
 眠い。
 別に、睡眠時間が不足しているのは、今に始まった事ではない。あそこに呼ばれた時から、それは毎日続いていたのだ。いや、ただの睡眠不足ならば、この世界に来た時からなのかもしれない。
 聖は、苦笑してから、不意に感じた殺気に背後を振り返った。すると、目の前にバイクが一台、肉薄している。当然、彼にはこの五月蝿い乗り物のエンジンが吐き出す騒音に気付いていた。
 すっ、と体を横にすると、勢いそのままに突っ切っていくバイクの運転手の喉元に腕を差し出した。そして待つ事コンマ何秒。
「ぐえっ!?」
 ドガシャーン!
 ドライバーが呻き声を残してバイクごと地面に倒れ込んだ。
「うっし……!」
 聖は完全に決まったラリアットもどきに感動していた。
 ドライバーは制服を着た男子生徒である。顔はヘルメットを被っているので分からないが、こんな阿呆な事をする人間は、聖の記憶にある限り一人しかいない。そいつは暫く地面の上でのた打ち回っていたが、すぐに体勢を立て直してヘルメットを脱ぐと、聖に顔面をつきつけて来た。
「何すんじゃこんの鬼畜生!」
 男は、サラサラの黒髪が乱れるのも気にせずに、凄い剣幕で怒鳴っていた。
「うるさいよ。とっととそれ、置いて来い」
「……ま、それもそうさね」
 男は美形の顔に張り付かせていた怒りを瞬時に下ろした。その後に、間抜けな声で、
「でもよ、さっきのは酷すぎないかしら?」
「お前もこっちに突っ込んできてただろうに」
「そりゃあんた。御茶目と言うかなんかですよ、旦那」
「誰に向っていってんの?」
「お前に決まってらぁ」
 男はそういって、転がったバイクに手を伸ばした。
「傷とかついてそうでやだなぁ。高かったんだぜ、これ」
「お前が悪い」
「いや、弁償しろとはいわんが、せめて謝って欲しいんだよなぁ」
「どうせ経費で買ったんだろ? 修理もそっちに頼めば良い」
「いや、話噛み合ってねぇし」
「ああもう! うるせぇこの野郎! てめぇも電車でここまで来い!」
「あれぇ、もしかして嫉妬? 悪いねぇ。俺ばっかり免許なんか取っちゃってさ」
 聖は口論するのが馬鹿らしくなって来た。同時に時刻を気にする。そろそろ、本格的に込んでくる時間帯だった。
 だから、たった一言呟いただけで終わらせる事にした。つまり、
「この野郎」と、ぼそり。
 そうして彼は玄関に向って歩き始める。
「あ、おい、待てよ」
「宮、お前も早く来い。とりあえずそれ置いてな」
「……あっ」
 そういうと、高井 宮都は、いま気付いたようにバイクを起き上がらせた。



 霧阿波高校は、とりあえず平凡な学校であった。
 取り立てて優秀なクラブも無く、学校の偏差値はむしろ下の方。近所の評判は、多少なりとも悪い方向に傾いてはいるが、それは一部のイレギュラーの暴走でしかない。なので校風も至って普通。生徒会に力を入れているかと問われると首を横に振り、出来の良い生徒はいるかと問われても首を振る。どちらかと言うと『出来損ない』の集まる学校ではあった。
 とにかく、それなりに近所にある青葉女子校とは、全く接点が無いのだ。ここの男子が威張れる事は、世の男性を魅了して止まない、そんな憧れの花園の近くだと言うだけだろう。
 公立なので当然学費もそれなりに安いし、中くらいの学力でもまぁ入学できるし卒業もできる。留年・中退者もそれなりにいるのだが、それは他の学校と比べるとまだ良い方なのである。落ちぶれる奴も、そんなに多くはない。
 そんな平凡な学校なのだ。
 聖が教室に入ると、そこはそれなりに人数が入っていた。
 とりあえず、ドアを潜ってから、顔見知りの何人かに、ういっ、と挨拶する。
「よいっす」
「オリエント」
「マグロダイブ」
 後半は本当に訳がわからなくなっている。これが彼ら変人の挨拶のようであった。
「マグロダイブってなんだよ」
 聖が問い掛けると、学級委員長の楠はいとも簡単に答えてのけた。
「秘密の暗号さ」
「いや、挨拶に使っちまったら秘密も何もないんじゃないの?」
「いいや、これは我が元に集いし英雄達にしか分からない、伝説の暗号なのだ」
「どんな伝説だよ」
「そんなの、これから作るに決まってんだろ」
「雑すぎないか、それ」
「ちなみにお前と宮都はうちの伝説グループの期待のエースだ。しっかり精進してくれたまえ」
「いつのまに俺がそんな変人の集まりの中に組み込まれてたんだ?」
「宮都に付いては反論しない様だな」
「だって、アイツは変人なんだからな」
「それはないんじゃないのかな。マリー」
 聖は、唐突に聞こえて来た声に首を巡らせる。入口に変態エースの高井 宮都が立っていた。
「誰がマリーだ?」
「ていうよりも、マリーってのが何なのかの方が気になるな」
 楠の隣にいる大隈の言葉だ。彼は、この変態集団の中では、一番まともだと思える少年である。もちろん先程の挨拶では「よいっす」を担当した若者だ。
「マリーに意味なんざねぇさ」
 宮都が吐き捨てるようにいって、鞄を机に置いた。
「む、それはいかんぞ。人間、自分の言葉にゃあ責任をもたにゃなるまいて」
 楠の取り巻きその二である島邦が、良い事言ってるなぁ俺、と自分の世界に浸りながら注意する。この変態集団は、楠から言わせると、
「ここに集いし英雄達は、世界の総統となりうるこの俺の思想に共感を示した全宇宙の革命家達よ。さぁ、俺達の前に全ての人間を奴隷並にひれ伏させようじゃないか!」
 と、言う事らしい。聖は去年の夏頃に唐突に声を掛けて来た近隣一の変態を直視した。
「おい、変態集団」
「変態集団ではない! 『世界総督府日本連合司書研究連邦政府』、略して『JAP(ジャップ)』だ!」
「いつのまに更に変な名前に改称したんだよ」
 略の意味も良く分からん、と宮都が付け加える。大隈がつい先日、急に呼び出されて宣言された、と教えてくれた。
 聖は、こんな所にいるべきでない大隈少年に哀れみの感情を持ちつつ、
「『JAP』って差別用語じゃん」
「貴様、元々は『JAP』って良い意味で創られたんだぞ。ヨーロッパ人の善意が分からんのか!」
「まぁ、何でも良いさ。とにかく、お前等が好き勝手やんのは構わんけど、俺を巻きこまんでくれ」
「君は既に我らが組織に組み込まれているのだよ。ジュテーム」
「俺に拒否権はないんかい」
「その通りさ、オードリー」
「ヘプバーン違うがな。宮をやるから勘弁してくれ」
「宮都は我々の組織に、快く入隊してくれたよ」
 聖は宮都を振り返った。
 ブンブンと勢い良く横に振られる首。
「……どうやら違うみたいだぞ」
「そんなはずはないさ。あの時、俺達と共に交わした契約を忘れたのか、宮都?」
 楠の言葉に、島邦が紙を広げてみせる。『契約書』と書かれたその藁半紙には、高井 宮都の名前と親指の指紋が押されてあった。
「……どういう事だ? 宮都」
「いや、俺、知らないしさ。説明して?」
「なーに、俺の友達に催眠術の得意な子がいてね」
「ばか、バラすな!」
 楠が島邦の頭をぶったたいた。
「こういうのってなんて言うんだろう。……業務上過失致死?」
 大隈がぽつねんと呟く。
「業務?」
「ていうか死?」
「ま、まぁとにかくだ」
 現在の空気を察した楠が、咳払いしながら大仰に手を広げる。
「こうして、我ら五人の同士が集まったんだ、嬉しいとは思わんかね!」
 空々しく話の方向を反らして来た。楠の顔には冷や汗タラリ。
「話を戻せ。どういう事なんだ、これは?」
 宮都が詰め寄る。
「いや、ほんの、遊び心でさ、ほら、あるだろ、皆にも一度くらいは……、ははは。」
 島邦が後ずさりながら抗弁する。
 何だか良い訳クサイ。
 その横では、楠が未だに演説中であった。
「まぁいいや。とにかく俺を巻き込むなよ」
 聖はそういうと背中を向けた。クラス担任の大禿先生がこめかみに青筋を立てているのが目に入ったからであった。
「そんじゃ、また後でな」
 宮都が椅子に腰掛けて、聖に向って中指を立ててみせた。
 聖は親指を下に向けてから椅子を引いて、そこに座る。
「楠 一哉ぁ、いい加減にせんかぁ!」
 大禿先生がぶちぎれて手に持っていたノートを投げる。それが、遂に演説が『人生の尊さ』に入ろうとしていた楠の頭にジャストヒットするのと、日直の、起立、という掛け声が重なったのは面白かった。



 放課後。さっさと帰宅しようとした時に宮都に言われた言葉が聖の耳に蘇る。
『どうせ来るだろ。なら、爺さんもついでに連れてきてくれねぇか』
 その言葉通りに事を実行している自分が、何だか情けない。別段、断わる理由もない、それだけで引き受けたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。なぜ自分がこんな所まで遠出せにゃならんのか。
 夕暮れ時の、茜色の空が目に眩しい。黄金の雲がその中をゆったりと漂い、直接の原因である夕陽は、眩しいぐらいの金を無償で提供してくれた。痛くなった首を下ろして、辺りを見回す。目映い黄金の残光が、この世界を照らしていた。
 自分が今いる、この狭い公園を。
 公園としてはそこは広いだろう。いや、むしろ広い。あくまで日本の基準に合わせた場合ではあるが、この『コウリガシ公園』は、日本でも有数の広さを誇るのではないか。
 そこまで考えて、聖は溜息を吐いた。
 『コウリガシ公園』。つまらない名前だ。わざわざ自分達の嫌な思い出をこの地に託すなどとは。実に馬鹿げている事ではないか。なぜ、前向きに生きようとはしないのか。それが自分達の無知の象徴なのだ。ああ、これだからくだらないのだ、人間と言う生き物は。
 彼は、わざわざ駅二つ分の距離を歩かされた事に対しての怒りを、全く違う事に対してぶつけていた。これはただの八つ当たりで、彼はとりあえず不満をぶちまけたいだけだ。しかしながらそんな物はぶちまけられるはずも無く。
 彼は再び溜息を吐いた。ようやく自分の思考が意味のない方向へと突き進んでいる事に気が付いたのである。素直に認めよう。ここまで来るのが面倒くさかったのだ。そりゃ、宮都と自分を比べたら、自分の方が移動力はある。しっかりと能力まで使用しているのだから、そこはしょうがないだろう。だが――
 彼の持ち合わせる、地球と言う天体全てを見渡す限りでも希に見る怠惰精神が、不満を呼びかけてくるのであった。
 だから、再び溜息を吐く。それはつまり、樹木が切り倒されている今日に置いて貴重な物となってしまった酸素を無駄遣いすると言う事であり、更には通常より多くの息を吐き出す為に使った体力がモッタイナイ――もう一つ、彼の個性の一つであるドケチ根性によって脳がそう考えてしまうものの、酸素が消え失せるのはもっと先の話だろうし、現在は植林によってそれなりに消える分を減らしてもいる。そこそこ心配はないだろう。体力については、普段からそれなりに余ってもいたので、じつはいい機会かもしれない。と、とりあえず前向きに考える。
 それに、彼でなければ、学校からここまでの距離をこんな短時間で縮める事は出来まい。バイク、もしくは自動車も、公用道路という難点があるのだ。
「にしても……」
 何処行ったんだ、あのじじい。聖は何処までも続きそうな並木道を歩きながら一人ごちた。いつもならそこにいるはずの、指定のベンチにはあの老人の姿がないのだ。
 よもや独りで帰ったのではあるまいな……?
 聖が本気でそう考えた頃に、ゆっくりと歩く巨大な黒犬を連れたカップルが目に入った。
(……変な組み合わせだな)
 何とはなしにそのカップルを観察する。老人の後ろ姿には微妙に見覚えがある。聖はすぐに思い至った。自分が探してるあのじじいだ。連れている犬も、恐らくあの阿呆犬だろう。が、少女には見覚えがない。
 そう、驚く事に少女であった。あの制服には見覚えがある。そういえば、青葉女子校はこの近くだと聞いた事があった。
(あの髪の毛……)
 夕日を受けてキラキラと輝く、肩まで届くくらいのおかっぱヘア。老人と比べても違和感の無い、ちまっこい背丈。聖の記憶に寄れば、朝の電車で見かけるあの少女ではなかろうか。
 と、二人と一匹は立ち止まってベンチに座った。間違い無い、あの少女だ。
 二人は仲良さそうに話しをしている。あそこに入るのは気が引けるので、聖は屑篭が近くにある場所の木にもたれ掛かって、そのグループを観察する事にした。その姿が不審者っぽいのを少し気にしながらも、まさか通報される事はないだろうとタカをくくって、静かに見守る。もちろん自然と風景に溶け込むように気を使いながらだ。
 暫くして、少女が慌てた様にして立ち上がったので、聖はゆっくりと老人に近づいて行った。
 少女は、犬の頭を撫でてから出口へと駆け出して行った。その背中に手を振っていた老人は、その姿が見えなくなると寂しそうに、同じような表情をした犬と視線を交差させていた。
 正直に気色悪い。聖はその一人と一匹に声を掛ける。
「おーい、静爺。迎えに来させられたぞ」
 その声に老人が視線をこちらに向ける。弛んだ瞼の下から瞳を光らせると、なんじゃお前さんか、という風に首を左右に振った。
「何だとは、言ってくれるじゃねぇか」
「五月蝿いわい。結花ちゃんの後ろ姿をもっと堪能していたかったんじゃい」
 旗本 静十郎は、やれやれと言う風に、再び首を横に振った。
 聖は、このエロじじいが、と言って、そのエロじじいの足元で自分を見ている巨大犬に視線を転じた。
「よ〜う、ジョォ〜ン」
《ジョンではない! 俺はジョージだ!》
 犬からの返答。傍目には、バウア! と一声吠えただけに映っただろう。
「はは。その名前、気にいってんの?」
《当たり前だ。かの、結花さんが付けてくださった名前だぞ!》
「誰だよ」
《さっきのお嬢様だ!》
 そういって、ジョン改めジョージは頬を赤く染めた。
「惚れてんのかい?」
 ジョージは、照れくさそうにバウ、と言っただけだった。
「そうじゃ。ワシとこやつは、ライバルなんじゃ」
「ブルアウ!」
 静十郎は笑いながらジョージの首を引き寄せた。それを嫌そうな目で見る犬。
「まぁ良いや。行くぞ」
 ジョージの首輪に繋がれている鎖をもつと、聖は歩き出した。
「一応、車は手配しておいた」
「そうか。悪いな」
「いや、こっからあそこまで歩けなんて言われたら、この仕事止めるから」
「まぁ。そうじゃろうな」
 そうして、二人と一匹は笑い出す。
 先程、小柄な少女が走り去って行った方角。その少女の姿はもう見えない。でもまぁベンチの方で油を売っていた自分達と、大急ぎでこの道を駆け抜けて行った少女とを比べるのはおかしい事だ、と聖は心の中で苦笑い。
「そういえば、おぬしも随分と偉そうになったもんじゃの」
「いや、俺は元々こんな感じだったぞ」
「それなら余計に悪いわ。もう少し、年寄りをいたわる気持ちを持たんか」
「どういう意味だ?」
「目上の物は敬えという事だ」
「いや、実際は俺の方が歳重ねてんだぜ?」
「身体年齢に差がありすぎるじゃろうに」
 静十郎は、如何にもといった感じの溜息を露骨に吐き出した。その横で、ジョージが、そうだそうだと頷いている。
「おい、犬。何でお前はそんなに偉そうなんよ」
《イカンのか?》
「俺の方が階級は随分上なんだけどな」
《知った事か》
「……今日の夕飯は犬の丸焼きかな」
 ジョージが、キャイン、と鳴いた。
 出口はもうすぐそこまで迫っている。そこに来て、静十郎は再び聖の顔を覗き込んでは溜息を吐いた。
「なぜにおぬしのような奴がワシの迎えなのか……」
「迎えは運転手じゃねぇかな」
「そういう意味ではないわい。ええい、幕末維新志士の思想が分からん奴じゃ!」
「なにを? こうみえても、人生で最も尊敬する方は、幕末日本を打倒し明治新政府を打ち立てるのに一役かっている維新志士の板垣 退助様だぞ!」
「ええい! 貴様に板垣先生の何が判るというのじゃ! あの御方は、大久保らによって政府を追い出された、可哀相な御方じゃ。それでも、西郷のように蜂起せずに自身の信念を生涯貫き通された、素晴らしい御方なのじゃぞ!」
「わかっとるわい」
 公園の出口だった。そこから少し離れた道路に横付けされている乗用車。運転席の男が、こっちを手招きしている。
 聖は、静十郎に早く行くように言ってから、自分もジョージの首に繋がれている鎖を持って車に歩み寄って行った。
「遅いぞ。早く乗れ」
「悪かったよ。……俺は助首席か?」
「爺さんが助首席だ。てか、鎖を持ってる方が後部座席」
「ごもっともで」
 静十郎が助首席のドアを開ける。聖もドアを開けて、ジョージを先に乗せた後に自分も座る。
 車は、ドアを閉める前に発車した。
「あぶないなぁ……」
「気にするか。お前は落ちたとしても死にはせんだろうに」
「死ぬよ」
「それよりも、お前は帰ったら早速任務だってよ。宮都と一緒にな。詳しくは課長に聞いてくれよ」
「うへぇ。着替えの時間くらいは取れるんだろうな?」
「聞いてみなきゃわからんさ」
 車は信号を右に曲がった。聖は、ふうっ、と溜息を吐く。
 これからの自分の仕事にうんざりしながらジョージの方を見ると、巨大犬は聖の膝を枕代わりにして、スヤスヤと寝息を立てていたのであった。



 東京都内にある、某高級ホテルが目の前にある。
 同じような柄の服に身を包んだ聖と宮都が、その大きな建物を見上げながら、そこに立っていた。
 青と黒のスーツ姿が、聖。
 赤と黒のスーツ姿が、宮都。
 迎えの車の運転手、藤五郎の言ったように、職場に帰って来た聖は、着替えたら来る様にとの課長の言葉を受けた。そこで、どの様な仕事をするかという具体的な指示を貰い、わざわざここまで足を運んだのである。
 目的は、現在このホテルの一室で行われている犯罪行為の取り締まり。実は、彼らは立派な特殊公務員なのだ。
 聖は、クラウンの運転席のドアを閉めると、反対側の宮都に近づいた。
「ほら、行くぞ」
「わかってる」
 妙な格好をした二人が正面玄関の方に歩いていくというのに、それに注意する人間はいない。それはやはり、昨今の都会では変な格好の人間なぞ注視する必要すらないという事だろうか。それは、危険な兆候だ。少なくとも、聖はそう思っている。
 正面玄関の目前。階段を上るその時になって、聖は隣を歩く宮都の顔を見た。宮都も聖の顔を見返すと、一つだけ頷く。
 その一瞬後の事だった。聖が階段に足を掛けた時には、宮都の姿はそこには無い。何処に行ったのかを気にする必要もまた、無い事である。
 数人の人間が驚きを表情にだしていた。が、聖にとっては、それは至極当然の出来事なのだ。周囲の視線を省みる事無く、彼は自動ドアを潜ると、フロントの方へと歩を進めていった。
 フロントの係りは、聖の格好を見て、少しいぶかしんだ。まだ若い男だ。
「お客様、何か御用で御座いましょうか?」
 露骨に嫌な顔をする。聖は呆れながらも、
「ここに佐藤 元禄氏がチェックインしている筈だ。その部屋の鍵をくれ」
 そう声をかけるが、若造は、ただ顔をしかめ、
「はっ?」
 と言うだけ。
 聖は舌打ちした。
 この男は状況を全く把握できていない。連絡は行き届いている筈だというのに。
 聖が少しいらついて来た時だった。奥から年配の男が慌てたようにこちらに駆け寄ってくる。その顔は少し引き攣っていたようだ。
 青白い顔色で聖の前の男を下がらせると、黙って暗証番号の入ったカードを差し出した。マスターキーなのだろう。
「悪いな」
 それだけを言う。
「……いえ。申し訳御座いません」
 壁の大きな時計を見る。もうすぐ午後の七時。エレベーターの方を見ると、最上階を差していた。
 余計な時間を食ったおかげで少し急がねばならなくなった。聖は再び舌打ちする。もしかしたら、宮都はすでに攻撃態勢に入ってしまったかもしれない。しょうがない、自分も能力を使わざるをえないだろう。
 そう思った瞬間には、聖の体はそこには存在しなかった。どんな人間が、どのようにしても実現できない速度で、聖は目的地に移動する。地上十二階。目指す部屋は1203号室。時計を見る。秒針があと十五秒で七時になる事を告げていた。いや、あと十三――!
 カードをスリットに差し込む。ピッ、と電子音がして、ガチャリと鍵が開く。スーツを少し捲ると、そこに硬く、冷たい感触。
 左手でドアノブを捻る。押し開くと同時に、右腕で、腰のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。
「全員、止まってろ!」
 後ろ手にドアを閉める。自動ロックによって、カチャリと鍵が掛かったのが分かった。
 部屋の中には四人の人影があった。それと同居するように、異臭が密室を満たしている。
 その異臭の源。それは、ベットの上にあった。
 すでに干乾びたような、変わり果てた姿になった男の死体が二つ。それにまたがる様にして、全裸の女――いや、女ではない。背中に生えた漆黒の翼。長い髪の奥に埋もれるように、悲しみに彩られた瞳が驚愕に見開かれ、涙が溢れている。
 淫魔サキュバス。男の精を絞り取る、下級悪魔である。
 そのサキュバスを見張るかのように男が三人。そのうちの、真ん中の恰幅のいい男は、驚愕の瞳でこちらを見ていた。残りの二人はさして感心もなさそうな無表情でこちらに首を向けているだけ。
「佐藤 元禄さんですね? できれば抵抗しないでください」
 手の中にある自動拳銃を高級ブランド服を着飾った真ん中の男の禿げ上がった頭に向ける。一瞬、それに怯んだ元禄だったが、すぐに気を取り直したのだろう。さっきまで事態を把握できずにいたマヌケ面を、とたんに茹で上がったタコのように真っ赤にして怒鳴った。
「どういうつもりだ、貴様!」
 このわしが誰なのか心得ているのか――と、続く。
「了解しているつもりですよ。元禄さん」
 落ち着いた声でそう返す。すると元禄氏は、ふざけおって、と怒鳴って、右隣の方の男の肩を叩いた。
「貴様が誰だろうが知った事じゃあない。なぜなら、お前はこいつに八つ裂きにされるんじゃからな!」
 唾を飛ばし、大きく突き出た腹を揺すって怒鳴る。それは、とても惨めであった。
「わざわざ解説、有難う御座います」
 余裕のある声でそう答え、問題の男を見る。そいつは、ゆっくりと体を振り向かせると、瞬時に黒い影となった。
「おおっ……!?」
 一瞬で翼を生やし、山羊の頭に変化した男が、いつのまにやら剣を振りかざして突撃してくる。なるほど、元禄の自身はこれだったのか、と納得した。
 レッサー・デーモン!
 口の中でそいつの種族名を呟く。普通の人間なら、銃を構えていたとしても、悪魔の突撃は避けられまい。元禄の頭の中では瞬時に八つ裂きにされる予定である聖は、それでも怖じ気づくことはない。
 下級悪魔の剣が迫る中、聖は悠然とヘッケラー&コック――ドイツの銃器会社――製の自動拳銃の引き金を引く。パン、と乾いた火薬の炸裂音が狭い室内に木霊し、山羊頭の眉間に40S&W弾が突き刺さる。レッサー・デーモンは、脳味噌に鉛弾を埋め込まれて絶命した。
 弾丸の反動でエビゾリになる山羊頭が、絨毯の敷き詰められた床に背をつく。同時に、遊低が後ろにスライドしたときにボルトが引き下がり、エジェクション・ポートから飛び出した薬莢が、音も無く毛の長い絨毯に埋もれた。
「下等魔族が、この俺に逆らってくれるなよ……」
 吐き捨てるように、その下等魔族の死体に言葉を投げる。そのままレッサー・デーモンの肉塊の横を通りすぎ、聖は元禄の元にゆっくりと歩を進めた。
「さて、どうします?」
 元禄の顔は、青白く変化していた。その横で、レッサー・デーモンに変化していたもう一人の男が山羊の目を大きく見開いている。
「そいつらは俺には通用しませんよ。大人しく捕まってくれますよね?」
 元禄は、ゆっくりと首を横に振った。それは質問の答えではなさそうだ。その証拠に、近づいてみると、彼の呟きが耳に入った。
「馬鹿な……、そんな筈はない、あれは、わしの目の前でアメリカの特殊部隊をも全滅させたんだぞ? それが、こんな得体の知れない奴に、こんな奴なんかに……!」
 さっきの事が信じられない様だった。聖は、元禄の脇を通りぬけて、窓を開いた。
 吹き込んでくる風が、内側にカーテンを揺らした。
「一緒に来てくれますよね?」
 聖が向き直ると、元禄はビクリと肩を震わせた。振り向いたその瞳には明らかな恐怖が存在している。
「馬鹿な! こんな奴が、どうして……!?」
 次の瞬間に元禄の心に生まれた恐怖と絶望が爆発する。それが聖には分かった。瞳が完全に淀んだ――だから、そいつは、抵抗するん。
「何かの間違いだ!」
 声と同時に脇に控えていたもう一匹の悪魔が飛び出した。瞬時に聖との間合いを詰め――
 ザシュッ――
「哀れだな……。抵抗なぞするからこうなる」
 それは、聖の言葉ではなかった。
 声がした方向。それは、聖の背後――つまり窓の外だ。
 その窓から生えた、真紅の薙刀。聖のすぐ脇を通ったそれが、目前で、悪魔の胸板を軽々と貫いていた。
「お前の人生はつまらない者のせいで終焉を迎えてしまった。ならば、せめて簡単に死んでくれ」
 その言葉が、窓の外から部屋の中へと進入した。同時に薙刀が一瞬にして炎を発し、レッサー・デーモンの肉体を完全に蒸発させた。
「遅いよ、お前は」
 聖は背後に声をかける。
「お前のタイミングが悪かったの」
 引き抜かれた薙刀。いつのまにそこにいたのか、長大な刃を引き戻す高井 宮都は、窓の縁に足を引っかけた姿で存在した。

 佐藤 元禄の身柄は、外に控えていた警察に引き渡された。
 同時に、四つの死体(悪魔含む)も、見えない様にビニールシートに包まれて運ばれていく。
 その後、担当の警察官に状況を説明し、専用の清掃業者が問題の部屋を清めれば、物事は何事も無かったかのように終了するはずだ。
 警察官に背中を小突かれながらパトカーの中に入っていく元禄の顔は放心状態であった。
 一度だけ、御自慢のボディガードを葬った謎の男二人に目をむけたが、そこには何の感情も浮かんではいなかった。
 それが、聖の憶えている佐藤 元禄の最後の表情である。
 今までに、幾度もの召喚儀を行い、下位の魔族を手に入れては好き勝手して来た男だった。
 気に入らない人間は片っ端から殺害し、悪魔を売り買いしては儲けて来た男。
 その、ある意味では伝説的な闇ブローカーの最後は、本当に呆気ないものであった。
「さて、帰るか」
 宮都が助首席のドアを開けながら、聖に言った。見ると、元禄を乗せたパトカーはすでに見えなくなっていた。
 死体を回収した車も同様である。
「ああ。ただその前にだな」
 言いながら、聖は後部座席のドアを開けた。
 保護したサキュバスを見る。彼女は、怯えていた。
 当たり前だろう、と思う。今までどれだけ過酷な事をされて来たのか。
「おい、少女」
 聖は、わざわざおどけてみせた。サキュバス――名をレリスと言ったか――が、びくりと肩を大きく震わせてから振り向いた。明らかな恐怖。それが彼女の体を縛っているかのように、彼女は聖の顔を凝視する。
「こっちに来なさい。大丈夫、酷い事はしないから」
 優しく笑うが、それでも動こうとしないので、聖はレリスの腕を取った。
 一瞬、その細い腕からは想像できないような力が加えられる。それでも、聖はびくともしない。
「…………!?」
 レリスは眉根を寄せた。いかにも苦しそうな表情が浮かぶ。
 聖は、これは不味い、と思った。そろそろ周囲の人が怪訝な顔で見てくるようになったのだ。
 怯える美女に無理矢理絡まる、不審な男。
 多分、そう見られているだろう。自分でもそう思う。仕方なく、聖は腕に力を込めた。
 それであっさりと片がついた。決して軽いとは言えない、肉感的な女性の体が簡単に浮き上がり、そして気がついた時には聖の胸が彼女の顔のすぐ横にある。
 お姫様抱っこの要領で、抱えると、聖は彼女の体を車の中に押し込んで、手早く運転席に滑り込んだ。
「早く行けや」
 宮都が面倒くさそうに行ってくる。聖はキーを回すと、道路に出た。
 念のために後部座席の鍵は掛けておく。
「あなた達は――」
 暫く呆然としたような表情をしていたサキュバスは、信じられないといった感情をそう言葉に表した。
「何者なのです……?」
「ああ、そういえば言ってなかったっけな」
 宮都が、ニヤリ、と笑ってみせた。
「俺達はな、お前と同種だよ」
 怪訝な顔をするレリス。その言葉の意味を図りかねているのだ。
 そして、ようやく飲み込めた言葉は、彼女に驚愕を与える。
「ようこそ、特務庁へ――って、とこかな」
 いつの間にやら、車は目的地を視認できる距離まで走向していた。
 彼らの目の前に佇む、巨大な敷地をもつ建物。それが、特務庁である。



 『特務庁』とは、つい七・八年前に新設された特殊事件の為の機関である。
 その主な仕事は、おおよそ国の一大事全てであった。公安から自衛までの全てを管轄に持っているのだ。
 特別任務を帯びたその国家機関の主な任務は、最近多発して来た異世界生物を使用した犯罪に関る事である。もちろん先ほども言ったように、国の一大事全てが特務庁の管轄になるのだが、主だった仕事は大抵が異世界生物の犯罪行為になる。
 先程のような、闇ブローカーの取り締まりから、個人で活動している異能種の発見、保護もしくは殲滅する事が、その機関を必要とした最大の理由であった。
 実際、現代に関らず代々の歴史から見れば、地球上には存在しない異種族の影がちらついているのである。
 それらは、主に悪魔と呼ばれ、危害を加える者の象徴となっていった。
 最大の理由に、人の動物としての本能が挙げられる。
 動物は自分が知らない物に対して怯えを見せるのだ。それが例え大した事ではないとしても、恐怖は完全に物事が理解されるまで消え去る事はない。
 だから、特殊な能力を持つ『悪魔』は、禍々しい姿で語り継がれて来た。
 が、この『世界』がその様な一兆一反の物ではない事はすでに承知の通りである。人々の中にも異能者は出現するようになるのは当然のことであったろう。
 魔力と呼ばれる特殊能力の保持者もまた、差別の対象でしかなかった。
 それを根絶やしにするのが、中世のヨーロッパで起こった『魔女狩り』運動であり、魔法によって富を奪うとされてきたユダヤ人への国家的な迫害、そして大規模なホロコーストに繋がっていったことは、簡単に予想できることだろう。
 今でこそ平穏を取り戻してはいる。しかしそれらが完全に消える事はない。元より異世界からの来訪者である『悪魔』達が、魔力の原因なのだから。
 そして、『悪魔』を倒す事が出来る能力を、人間は持ち合わせていないのだ。
 だからという訳でもないだろう。人は、魔力の代わりに文明を持ちよった。
 それが兵器を造る事となる。兵器は破壊を呼ぶ。
 破壊が、『悪魔』の能力の一つである事は否めない。人は、『悪魔』の力を見て、破壊の為の兵器を創り出したといっても過言ではないだろう。
 それから何世紀もの歳月を掛け、人は『悪魔』を知らなくなった。兵器は純粋な破壊力として、人々の知恵によって拡大化された。幾年もの戦いを潜り抜けた人類の文明は発展し、豊かな生活を営む余裕が出て来た。
 繰り返す事となるが、そんな近年に増加する異世界生物犯罪を取り締まるのが、主に特務庁の役目ある。

 特務庁には三つの部署が存在する。
 攻撃部
 情報部
 医療部
 の三つである。
 三つの全ての働きは文字から充分に推測できるだろう。
 攻撃部が前線で取り締まり。
 情報部がその対象に対する情報を集めて攻撃部の任務をアシスト。
 そして、医療部がいざという時の負傷者の看護・医療である。
 各部署は、さらに幾つかの課に別れる。
 聖や宮都は、攻撃部の特殊任務課に所属していた。
 それは、二人が戦闘的な能力を持つ『悪魔』だからである。
 渡 聖の本当の姿は、魔界公爵バルバトス。
 高井 宮都の本当の姿は、地獄の大総督アミィ。
 バルバトスは、神出鬼没の狩人であり、地獄の三十の軍団を率いる大公である。
 アミィは、炎に全身を包まれる巨人であり、単体で町一つを焼き払う荒ぶれ者である。
 他にも、特務庁の中には数多くの魔族が存在している。それらは、時には特殊能力を持った人間に召喚され、時には捕獲された者が庁の中で一般生活を学び、社会に適応して暮らすからだ。二人は前者である。
 そんな連れてこられた派の聖は、もぬけの殻となった室内を見回した。彼と宮都以外には、誰の姿も無い。しかし、机の上に散らばった書類や、まだ暖かい煙草の吸い殻など、少し前までそこに人がいた事は容易に想像できる。
 ならば何処に行ったのか。
 答えは簡単、先程二人が保護して来たサキュバスの送還準備に奔走しているのだ。
 捕獲した魔族は、本人の意思で魔界に帰る事が出来るのだ。ほとんどの魔族の場合は、上級下級問わずにたまたま出来た次元の穴を潜ってこちらに来ている。それが故意の場合もあれば、事故の場合だって当然あるのだ。さらには、個人的に召喚法を身につけた者が下級魔族を現世に呼び寄せる事もある。
 それらは、高い金額で売買される場合がほとんどだ。また、偶然逃げ出せても次元の穴が発生する確率は、非常に低い。なので、帰るに帰れず犯罪に走ったり暴力を行使する者も少なくはないのである。
 もっとも、その行為自体が魔界の掟なのだから、犯罪行為だという意識はないだろう。
 現在、この国だけではなく地球という星そのものの中でも、社会に適応し、なりを潜めている魔族は沢山いる。そのほとんどが上位魔族なのは、彼らの初期形態が人間に近いからだろう。
 ただ、それらが幾ら社会に適応していようと、危険な能力を持っている事に変わりはない。だから、特務のような特殊省庁も必要になっている、とは長官が言っていた事だ。ちなみに世界の各先進国でも特殊省庁を置いているケースは少なくないそうだ。
 ただ、その全てが名前さえも一般に浸透していない極秘組織なのである。
「な〜。聖坊」
「何だよ宮坊」
 二人とも、むっ、と来たので顔を見合わせる。一瞬の睨み合いの後、同時に吹き出して話しを再開した。
「なんだよ一体?」
「ああ。あいつら、遅くないかね?」
「そうさなぁ。意外と手間取ってんのかね」
「サキュバスの送還に、そんなに時間がかかるもんかい?」
「レイさん、疲れてるみたいだったからな」
「なに!? じゃあ、俺が癒してやらなけりゃ」
「何でそうなる?」
 と、聖が呆れた時だった。
「何の話かしら?」
 いきなり降って来た言葉に、二人は同時に肩をびくつかせて、入口を見る。そこには、肩口まで切り揃えられた蒼い髪の毛を揺らす、魅力的な女性がいた。
 身長は――余り高い方ではない。胸も余り大きいという訳ではなかったが、すっ、と引き締まったウエストがそれをバランスのあるように見せる。スカートから見ても形の良い尻房に、その下の綺麗な太腿、すらっとした美脚。身体的な美しさは、並みのモデルの非ではない。また、バランスの良い顔立ちはその下に続く体をより魅力的にさせるほど端正で美しかった。
 この女性が、特殊任務課課長である七海 麗華その人である。
 二十二歳という若さで課長というポストにいるのはその特異能力にあった。
 彼女は、召喚術を扱える数少ない人間である。その強力な魔力により、かなり高位の魔王さえも召喚・服従を可能とする。
 彼女が召喚した魔族は、レッサー・デーモンや悪霊ホーント、ホブゴブリンなど下位魔族に始まり、バルバトスやアミィ――つまり、聖や宮都までをも支配するほどなのだ。
 召喚術は、どんなに下級の者を呼び出すにしてもかなりの魔力が要求される。それは、時空その物を破らなければならないからである。それを破った魔力だけで通常の下級魔族の実に二倍以上の魔力を要する。また、召喚魔族が高位に成れば成る程、それに見合った魔力が必要とされるのだ。彼女のように、公爵階級の魔族を呼び出せる程の魔力を保持する場合、魔族だったらかなりの高位に位置する事となるだろう。
「彼女、帰ったんすか?」
 聖はとりあえず身近な話題から返す事にした。
「私が失敗するとでも思った?」
「思いませんね」
「でしょう? でも疲れちゃった。片づけはあの子達に任せる事にしたの」
 麗華は肩をコキコキと鳴らして二人の脇を通る。一つだけ独立した『課長専用デスク』に向けてを歩を進めた。
 『課長専用デスク』は、色々と気苦労の多い中間管理職専用に、医療部と情報部が総力を挙げて仕上げた、対ストレス・対肉体疲労を目的とした机と椅子である。情報部は物理的に、どのような形状が疲労を溜め難いかを考え抜き、医療部はそれぞれの能力者が椅子・机に疲労発散用の微弱魔術をかけるのである。これの評判はたちまちちうなぎ登り、今では何かと気苦労の多い特務庁の管理職だけでなく内閣閣僚や総理大臣、しいては皇室ご一家まで使用しているという優れものである。
 ただ、やはり生産性が悪い為に量産・一般売買はされていない物なので、これを知っている人間はかなり限られているという代物だ。ちなみに聖達一般隊員はその様な高価な物を使う事は許されておらず、いつもストレスが溜まるような硬い椅子に尻を乗っけなければならなかった。
 麗華がデスクに座る前に、宮都がバネ仕掛けのように立ち上がると、彼女の肩に手を添えた。
「いやぁ、お疲れでやんしょ。わてが揉んであげまっせ」
 グフフフッ、と怪しい笑い声を上げると、卑らしい顔でにんまりと笑って麗華の肩を撫で回すように揉む。聖はうわぁ、キショ、と内心でドン引き。
「あら、ありがとう宮君。でもね、そんな心配は要らないのよ?」
「ヌフフフッ、それにしちゃ嫌そうには見えな――ぎゃあ!?」
(うわっ!)
 叫び声のコンマ何秒前に、麗華の足の爪先が宮都の脛に滑り込むように蹴りを見舞うのが見えた。宮都が飛び上がる姿を見て、聖は同情した。
「まだまだ、これからよ!」
 額に怒りマークをつけた麗華が、宮都の軸足に向って足を振り上げる。そのまま、ハイヒールの踵が足の小指に減り込んだ。
「ハーギュッ!?」
 宮都は、そのまま椅子を撒き散らして倒れ込む。両の足を押さえて悶える姿は、なんだかとても間抜けであった。
(哀れ、だな。可愛そうに……)
 聖は空に十字を斬った。
「まったく、すぐに付け上がるんだから」
 麗華は余裕の表情で椅子に腰掛ける。優雅に髪を掻き揚げると、机の上の報告書を書き始めた。
 暫く悶えていた宮都は、ようやっとという感じで起き上がると、散乱した椅子を元の位置に戻すと、
「好意でやっただけじゃねぇか!」
 と、文句を言った。
「好意的に見えなかったからああやっただけよ」
「何とぉ!? 酷すぎる!」
「そんな事より報告書を書いちゃいなさい。それで今日の仕事は終りだから」
 聖は、それは正論だと思ったので、宮都を椅子に引き摺り下ろした。
「あーん、、駄目よ貴方。皆が見てるわ」
「えーい、気色悪い声を出すな! 皆居ないし!」
 宮都は綺麗な顔で気色悪いから手におえなかった。
「あら、二人はそんな関係だったの?」
 横から麗華の声が聞こえて来た。明らかにからかっている声だ。
「そうなんよ。だから二人っきりの時は邪魔しないでね」
「私としては、二人が愛し合っている姿を見てみたいわ」
「どうぞどうぞ、何なら今お見せして差し上げても……」
「ええいっ、変な話しをするな!」
 本格的に変な話しになって来たので、聖は自分の評判が下がらない様にするので精一杯だった。
 聖の必死の説得に麗華も茶化すのは止めてくれたようだ。ひとつ、悪戯っぽい笑みを浮かべると自分の仕事に戻ってくれた。
 すると、宮都が声を潜めて話し掛けてくる。
「それより、さっきのは酷すぎると思わね?」
 宮都は足の小指をさすりながら言う。
「圧倒的にお前の方が悪かったんじゃねぇか。いいから早く書け」
 宮都も、渋々と言った表情で机に向き直る。聖も、ようやく三分の一ほどが埋まった報告書に目を落とした。

 その後、宮都との幾らかの漫才があった為に、聖が解放されたのは深夜の一時を廻ってからだった。



 それでも、朝は平凡に過ぎ去っていく。昼になってもそれは変わる事が無く、変態集団の中で聖は学校生活を終わらせねばならないのかと、今日も絶望していた。
 だがそれはそれで良いかもしれないと思う。変な人間ばかりの集団だが、それなりに面白いとも思えるのだから。
 そう思えてしまう自分の行く末に不安を覚えないでもない。
 学校が終わると、清十郎を迎えに行ってから特務庁へと足を運ぶ。
 ただ、特務庁に来たのは良いのだが、今日は思った以上に仕事が無かった。結局、その日はすぐに帰宅できた。
 と、言っても課題はそれなりにある。最近噂になっている、『駅前に馬のような動物が出現する』や、『深夜に、黒馬に乗った謎の甲冑男が出現する』などについて、もしかしたら魔族の仕業かもしれないから見回りをしろ、という事であった。
 とりあえず、聖は先の『馬が出る駅前の公園』を調べようと思い、車を走らせる。特務庁の隊員は、大抵のの免許は取らされるし、その国際資格まであった。
 辺りはすっかり夜である。
 車は、目的地まですぐに走ってくれた。問題の駅前には、アパートが乱立している場所がある。確か『刈縞ニュータウン』とかいったか。
 その屋上から見れば、下の事は一目瞭然である。聖は、とりあえず一番背の高いアパートの屋上に辿り着こうと階段を上り始めた。
 見上げた非常階段に見える星空。しかし行く手が闇に支配されたこの場所に、聖は少し苦笑を漏らした。
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