第四章 「遊園地でデート」 * 夢が完全に記憶として残る事はない。それは、夢という物が、脳が記憶を整理する時に見られる現象だからである。 もちろん結花も、目覚めた時には、いま彼女の脳内で展開されている『夢』を憶えてはいないだろう。 だが、彼女は今、大切な記憶を見ていた。 山小屋の中にいて、煌々と照る薪の上の炎。幼い少女の向かい側には渡 聖がいる。記憶の中の彼は、今と全く変わってはいなかった。違う所といえば、服装と、あと当時は名前が無かった、という事くらいなものであろうか。青年の身を包む蒼い外套が小さな炎の明かりの中で美しく映える。その蒼は、不思議な色であった。 それは、確かに蒼であった。どちらかというと、くたびれた感じのある蒼のマントは、しかしオレンジに近い炎の赤色の照り返しで美しく輝いているように感じられた。その鮮やかな蒼の上に、非日本人的な端正な顔がある。その顔の中で、彼の瞳は真剣に、目の前の小さな光源をジッ、と睨んでいた。 結花は彼の表情を凝視していた。その美しい顔立ちを、ポーッとした目で見つめる。その、夢を見るような、そんな目付きに対して、現実の彼女の意識は、その深い所で苦笑を漏らした。自分はこんな間抜けな顔で、この青年の顔を見詰めていたのか、という呆れである。 そんな少女の視線に気が付いたのだろう。彼はこちらに顔を向ける。黒の瞳が、彼女のそれと繋がった。青年は、こちらに向けて優しく微笑んでくれる。それは、本当に柔らかく、優しい物だった。少女はその笑みに魅了された。 彼の微笑は、結花を安心させる。それが、『悪魔』の微笑みである。何と暖かい笑みなのか。少女もつられて笑みを浮かべる。その時は本当に幸せな時間であったのかもしれない。今まで少女が過ごしてきたどんな時間よりも、それは安らかであった。慌ただしい時間の動きが存在せず、その時間という物がゆったりと、そして確実に流れていくのを感じる事が出来る。その感覚は、結花の、今までの人生の中で初めての体験であった。その体験の心地良さも始めて感じるものである。例えすぐ近くに両親の遺体があったとしても、その魂は青年によって葬ってある。両親の安らかな寝顔が二つ並んでいる。二人の身体には毛布が掛けられていたが、両親が結花の満ち足りた気持ちを感じて、喜んでくれているような気がした。 青年が、結花に向けて手を伸ばしてくれる。そのまま頭の上に大きな掌を乗せ、クシャクシャとした。彼の暖かな体温が結花の頭皮を通じて全身に広がる。くすぐったいような、こそばゆいような気持ちが少女の心を満たした。彼女は間違いなく幸せであった。 それは、両親の魂と、彼女の初恋の青年が小屋の中にいる、という暖かい感覚である。 結花は、夢の中で最後まで『悪魔さん』の体温を感じていた。そのまま、急速に現実に戻る意識の中で、しかし彼女の心は幸せのままであった。 1 結花さま、結花さま、と自分を呼ぶ声がする。 その声につられる様にして、二・三度と体が揺さ振られると、聴覚と触覚の両方から攻められた少女の脳は覚醒せざるを得なかった。 まず、夢が唐突に途切れる。結花の脳内に映っていたVTRが消え、代わりに彼女の視覚が光を捉えた。 「だぁれ……?」 薄ぼんやりとした視界の中に人影を認め、結花は小さく呟いた。 が、少女が先ず感じたのはその疑問ではない。 眩しい―― その思いが、結花の心を満たしたのである。 「ようやく起きて下さいましたね」 それは、女性の声であった。聞き覚えのある、少し低い感のある凛とした声。 開いた瞼から視認できる外界は、光に満たされていた。その粒子が室内を満たし、少女の大きな瞳はその光を捉えて、映像を確認する。 視界の一瞬のホワイト・アウト。少女の網膜が光で埋め尽くされ、視界を奪う。刹那の間の盲目に、慣れたように首を振って正常に戻そうとすると同時に、 (ヒカリ――) 結花の脳内に、先の夢が一瞬だけ蘇った。 それは、渡 聖の映像である。彼の微笑む顔が、現在の彼と重なる。 (――変わってないなぁ) 改めて、そう納得。それは安堵の気持ちであった。 瞳が正常な機能を取り戻してくれた。結花は先程の声の主を見上げると、 「浅生さん、いつ帰ってきたんですか?」 結花のベットの脇には、一人の女性が立っていた。 妙にフリルやらリボンやらが多用されたメイド服で解り難いが、すらっとした長い足に見合うように背丈も高いこの女性。水葉家のメイド長を務める浅生 芽衣と言う。 「つい先程、帰って参りましたわ。長い間を留守にしまして、大変申し訳御座いませんでした」 「いえいえ。浅生さんも、楽しかったですか?」 「はい、大変楽しい旅行になりましたわ。これを発案して下さった結花さまの御陰です」 「それは良かった。旅先では、何か問題はありませんでした?」 「大丈夫ですわ。旅行に参加した十二人全員、傷一つありませんでした」 「安心しました」 「でも、変な集団に絡まれた時はこの世の終りかと思いましたわ」 「変な集団……ですか?」 「はい。男性が三人ばかり、わたくし達に話し掛けてきたんですよ。あんまりシツコイので、駆け付けた龍司さんに助けてもらったのですわ」 「大変だったんですね。無事で何よりです」 笑顔で応待した後に、ゆっくりとベットから降りる。その時、芽衣に先に下に降りているようにと言ってから、結花は部屋の隅に存在する鏡の前に立った。 部屋のドアが開く気配がする。芽衣が、失礼しますと言って退室してくれたのだ。 「よし!」 少女は気合いを入れた。この日の為に、一生懸命になって選んだ一張羅をクローゼットから大事に引っ張り出す。それを自分の体の前に掲げてみせ、思わず笑顔。 (聖さん、可愛いって言ってくれるかな?) 少女の頭の中はそのことで一杯だった。それは、何も今日に限った事ではない。ここ数日、この様にして試着したり、似合ってるかどうかを周りの人に聞いたり、自分で変な所が無いかを事細かにチェックしたり。とにかく、その落ち着きの無さぶりは、一生の内でも希に見る緊張度だっただろう。そんな苦労も、今日はその成果が試される時なのである。 今日は、日曜日だ。 * 「エゴだよ、それは――!」 叫ぶと同時に、ばちり、と凄い勢いで瞼を開け、聖の意識は覚醒した。 瞼を開けたはいいが、頭の中は未だに夢の中。暫く布団の中で冷や汗をかいていた彼は、これまた唐突に掛け布団を剥いで上半身を起こした。 そのまま荒い息遣いで、額に浮いた脂汗を拭う。そこでようやく、落ち着きを取り戻す事が出来た。 夢を見たのは、久しぶりの事だ。 最初は、とても良い夢だった。それは昔の記憶だ。 聖がまだ『聖』じゃなかった頃。彼が雪山で助けた、幼い少女と一緒にいた短い日々。その断片を、彼は夢の中で見ていた。 いま思い出しても心が温まる様な、可愛らしい微笑み。それが聖の脳内に蘇る。幸せな時間に、思わず微笑を返す聖がいる。その和やかな雰囲気が、聖の心の中に余韻として残っていた。 が、その後の夢の展開は大変な事になった。 どうなったのか? とにかく変な方向へと向ったのである。 どんな風に変な方向に向ったのか? ここで言う『変』は、一般常識的に考えられない変な方向に向ったのである。 どのような展開になったのか? この様な展開になったのである。 場面は唐突に山小屋から都心に移り、しかもそこは火の海。見上げれば良く分からない怪獣がオギャーと奇声を発しながら暴れており、その目の前の背の高いビルから、どっかで見たような五人組が怪獣と対峙していた。赤、青、緑、黄色、ピンクのヒーロー戦隊風の五人組が怪獣に向って変な事を言ってはいるのだが、その声は当然のように聞きとれな。そこに突然、ミグ戦闘機が突っ込んできて、パイロットが『金○成将軍万歳!』と叫びながら(何故かこの声は聞こえた。結構渋い感じの声だった)、五人組に突っ込んで来たのだ。しかも、都内であるにもかかわらず、なぜかそこには北の将軍様の銅像まで立っていた。その後で唐突に轟音が耳をつんざき、何かと思って空を見上げてみると、轟々と燃え盛る巨大隕石が空から降ってきて、都心に直撃したのである。その衝撃波に飲み込まれて蒸発すると言う、とてつもない嫌で訳のわからない展開だったのだ。 「うわっ……!」 思い出すだけでもおぞましい。 何なんだよ、と思う。 色々とおかしいだろ、と思う。 ていうか何なんだよこの展開、と思う。 つか、こんなの経験した憶えが無いぞ、と思う。 あーもー、他にもつっこむ所が多すぎてどこからつっこんで良いんだか解らん! と思う。 とにかく記憶に無い事だけは確かだ。というよりもそんなことが以前にあって堪るか! と思う。 「はぁぁ……」 朝っぱらから嫌な思いに悩まされながらも、聖は布団から起き上がる事を決意した。 のそのそと立ち上がって、溜息を吐く。 改めて意識してみると、全身汗だくだった。全身の皮膚が塩分を含んだ水に浸されており、気持ちの悪い感覚が五感の一つを通じて脳に運び込まれてくる。 とりあえず、Tシャツを脱ごう。そう決断すると早い。ベチョベチョの布切れを剥いで、上半身を露出する。上は気持ちよくなったが、下半身は依然としてベチョベチョのままだ。 「………」 部屋の中で素っ裸になるのは、道徳観念上いけない気がするので、流石にそれは止めておいた。 シャワーを浴びようかな、と考えたが、朝からシャンプーするのは頭皮に良くないので止めておいた。流石に、今頃になって髪の毛が薄くなったら悲しすぎる。 とりあえず聖は洗面所へと向う。ガラガラと戸を開くと、目の前に鏡。上半身が裸の、寝癖をつけた男が映っていて、何とも嫌な雰囲気である。 水を出して手で掬い、勢い良く顔にぶつける。冷たい液体が寝惚け眼に気持ちよい。サッパリとした雰囲気で、聖はタオルを取って顔を拭いた。 ついでに歯も磨いてしまおう。そう思って歯ブラシに手を伸ばす。そのまま、シャカシャカと歯ブラシを往復させながら、歯磨き粉を握ったらうどんが出たらやだなぁ、と思った。 「流石に無いか」 ――ていうか、他人のネタだなぁ。 そう呟いて、聖は体を起こした。頭はすっかり覚醒している。今日も中々良い調子みたいだ。 「ん〜……」 軽く伸びをして、そのまま身体を左右に振る。その後で今日の予定を考えて―― 「―――――――――――――あっ!」 大事な事を思い出した。 「あー、あー、ああー!」 二・三度頷きながら、聖は浴室の扉を開けて服を脱ぎ始めた。先程の考えを打ち消して、シャワーを浴びる事に決定したのだ。 何を今さら、という感じもするが、今日は特別な日だ。さり気無く聖はこの日を胸躍らせながら待ちわびていたのである。 今日は、日曜日。結花と遊園地へ行く日なのだ。 2 頑張って、頑張って、おめかしした。 普段は全然しないお化粧だって、七五三以来、始めてやった。 お爺ちゃんやお婆ちゃん、メイドさんたちだって、可愛いって言ってくれた。 あとは、聖さん本人が可愛いって言ってくれれば―― 結花はその様子を想像して、赤面しながら小さく、「きゃっ!」と言った。 実は普段から着慣れていない服を着たり、し慣れない格好をしたりでかなり恥ずかしいのである。それに結構、緊張もしてる。 そのせいだけという訳ではないと思うが、頬が熱い。 結花は今、落ち着かない様子で、廊下を行ったり来たりしていた。 (もうすぐ聖さんが来るんだ――) そう思うと、どうしても落ち着かない気分になってしまうのだ。 結花は再び部屋に入り、鏡の前に立ってみた。 フリルやらが多用されたスカートの裾をつまんでみる。別段変な所は無し。 胸のリボンを触ってみる。別段変わった所は無し。 背中の巨大リボンに触れてみる。別段おかしな所は無し。 この日の為に発注してもらった帽子をかぶってみる。結構可愛い。 どの角度が一番可愛く見えるのか研究してみる。余り変わらない事に気がついて止めた。 帽子を取って、胸の前に翳して見る。白に水色のリボンが映えた帽子は、やっぱり可愛い。 暫くそうやってポーズを決めていると、コンコン。扉をノックする音が響いた。続いて、「失礼します」と言う声。 カチャッ、と扉が開き、メイド服の美しい女性が入ってきた。その人は何故か扉の前で左右を確認するように二・三度首を振ると、にんまりとした笑顔で部屋の中に入ってくる。 「結花ちゃん!」 「真紀ちゃん!?」 結花は女性に――水葉家のメイドの中で最も年下の静琉 真紀に抱き着かれた。 結花が、真紀の唐突な来訪に一瞬だけ呆然とした所に、駆け寄ってきた真紀が結花を抱きしめたのだ。結花も、身長が五cmくらいしか違わない小柄な女性を抱きしめた。 女性、とは言っても、実際は真紀も少女くらいの年齢である。但し、メイド服を着ている彼女は実年齢よりも落ち着いた雰囲気に見える――少なくとも見掛けだけは。 美しい亜麻色の髪、少し小さい印象を受ける顔立ち、スッと通った鼻筋、優しそうな瞳。黙っている時でも常に浮かぶ微笑は天使の微笑みの如く。少し内向的で人見知りしがちな性格なのも相俟って、初対面の人は彼女を物静かな女性と思うだろう。外観的な雰囲気は、微笑を浮かべた柊先生のようだ、と結花は思っている。 だがしかし、本当の真紀は明るく元気で、少し子供っぽい所がある少女であった。水葉家のメイドとして始めてこの屋敷を訪れた時、彼女と結花は歳が近い事もあってすぐに打ち解けた物だ。その際、真紀は結花を本当の妹のように可愛がってくれた。流石に、規律の厳しいメイド界では主人に対しては服従の姿勢を見せるように教えられているようで、人前では「お嬢様」と呼び、結花も「静琉さん」と言うのだが、二人きりの時はお互いを「ちゃん」付けで呼ぶほど仲が良い。 「真紀ちゃん、どう?」 結花はくるり、と(ぎこちなく)一回転して、スカートの裾を摘まんで一礼してみた。少し恥ずかしい。 「きゃ――――――――――!」 という絶叫の後に、可愛い! と真紀が興奮したように言う。 「やっぱり、結花ちゃんは可愛い服が似合うわよね」 そういって、真紀は結花の背中の巨大リボンを摘まんだ。 「えへへ。真紀ちゃんが可愛く作ってくれたからだよ」 照れたように笑う。それに対して、 「うん。結花ちゃんに似合うように頑張ったからね」 と、真紀は少し胸を張った。 結花の今回のおしゃれ着は、過去に真紀が作ってくれた物だった。真紀は手先が器用で何でも出来るので、時々結花の為にこういう服を作ってくれる。それらを引っ張り出して、佐緒里と栞が二時間かけて品定めした結果、この服が選ばれたのだ。 なので、今回の『お出かけ』はかなり気合いが入っているといっても良い。何と言っても、今日は結花の人生で始めてのデートなのだ。 結花は、再びガッツポーズを取る。それを見て真紀は微笑み、 「でも、結花ちゃんが男の人とお出かけするなんて、ねぇ……」 「え?」 「だって、あの結花ちゃんがだよ? 時が経つのって早いよね」 真紀はしみじみといった後に、 「でも、結花ちゃんも本気なんでしょ? 頑張ってね」 と、ガッツポーズを取ってくれた。 「うん!」 結花は元気良く答えて、再び気合いを入れ直す。 * 本日はまた、一段と賑やかで。 あの、どでかい門で聖を迎えたのは、聞き覚えの無い女性の声だった。 そのまま屋敷の入口まで来ると、十人くらいの、揃いのメイド服を着た女性達が聖を出迎えた。彼女たちが聖の姿を確認すると、申し合わせたかのようなタイミングで揃って一礼。 思わず返礼する。その後で、長身の女性が一歩前に進み出た。 「お待ちしておりました。渡 聖様ですね?」 「そ、そうです」 何となく気圧されてしまう聖。女性の聖を見る目が、何故か厳しい様に感じたのだ。 (気のせいだよな?) そうであって欲しいと願う。 「結花さまはもうすぐこちらに来られると思います。暫しお待ち下さい」 「は、はぁ……」 メイドさんたちの好奇な視線が聖に突き刺さる。それを受けながら、聖は屋敷の内部に足を踏み入れた。 「おお、渡君」 早速、憲三氏が出迎えてくれる。聖は胸を撫で下ろした。流石に、知り合いの家で知り合いが居ないという状況は辛すぎる。 「どうも、お久しぶりです」 「いやいや、こちらこそ。この間の和菓子は美味しく頂いたよ」 「何よりです」 と、軽い挨拶を済ませてリビングへ。そこには静香さんも居た。 「ごめんなさいね、待たせちゃって」 軽い挨拶を済ませた後、静香さんが口にした言葉である。 「でも、あの子も女の子だから。許してあげてね」 「いやいや、そんな……」 などと言っている間にも紅茶が出される。聖はソファに座って、世間話を開始した。 ――いや、開始しようとした。その直後にバタバタと足音がして、 「結花さま、そんなに走っては見っとも無いですよ!」 「ごめんなさぁ〜い! でも、急いでるの!」 なんて言う声と共にドアがバタンと開いた。 「きゃふ!」 開いた直後に、結花が転ぶ。スリッパが片方だけ吹き飛んだ。 「……だ、大丈夫?」 「え、あ、はいぃ……」 手を差し出してやる。結花はそれを見、次に聖を見てから固まった。 「………?」 聖が怪訝顔で、どうしたの、尋ねる。すると、 「え!? あ、はい!」 時間が動き出した。 結花がバネ仕掛けのように立ち上がり、赤い顔で服を叩いて埃を落とし、スリッパを拾う。その後で、少しだけ顔を上げ、上目遣いに聖を見てから、 「あの、転んだ所、見ました?」 「うん。バッチシ」 「じゃ、じゃあ、あの……、パンツとかは?」 「ああっ。……流石に見えなかったね。こっち向きに倒れてたでしょ?」 結花は、安心したように胸を撫で下ろした。それでも顔は赤い。 それにしても―― 聖は、改めて結花の服装を見た。全体的に、白を基調にした清潔な印象を受ける服装だ。その様子を詳細に伝えたいのだが、ファッションに疎い聖には何が何やら、名称などが全く分からないので表現のしようも無い。ただ、リボンやらフリルやらが多用された子供っぽい服は、顔から体から雰囲気から、おおよそ全てが子供っぽい結花には大変似合っている。中でも一際目を引くのは、背中の薄青色の巨大リボンだ。 可愛いな、と素直に思った。 「さて、結花も来たことだし。そろそろ行っておいで」 憲三氏がそう言って立ち上がった。 「結花、今日は沢山楽しんでくるのよ」 静香さんが結花の側まで来て、微笑みながら言う。結花がそれに頷いたのを見ると、今度は聖の方へと向き直った。 「それじゃあ、この子を宜しくお願いします」 「いえいえ、こちらこそお願いされます」 そうして、二人は玄関を出た。玄関にはメイドさんたちが勢揃いで、二人を見送る。左右をメイドさんたちに挟まれて。聖は何だか気恥ずかしくなった。通っている時も、彼女たちの好奇な視線が突き刺さるのだ。 と、聖の目に見知った顔が飛び込んできた。目を擦ってからもう一度見直しても、やはり同じ。聖は驚いた表情を、その女性に向ける。 聖の顔を驚愕の表情で見詰めるのは、特務庁情報部外部窓口担当の静琉 真紀であった。彼女は、暫く口を開けてビックリしていたのだが、気を取り直したように一礼してくる。聖も礼をした。 ただ、真紀の顔が少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか――? 「行ってきます!」 扉を抜けると、結花が元気良く、皆に向って言った。それに応じて、 「行ってらっしゃいませ」 「楽しんでくるんだよ」 と、メイドさんたちと老夫婦が返してくる。聖は全員に向って会釈すると、さっきの疑問を頭から振り払って、結花を見た。 結花もその視線に気がついて、微笑んでくれる。 「じゃ、早く行こうか?」 「はい!」 例のどでかい門を潜って、車に乗り込む。結花の為に助首席の扉を開けてやって、 「どうぞお乗り下さい、プリンセス」 「うふふ。じゃあ、お言葉に甘えて」 聖がふざけた調子で言うと、結花は微笑して席に座った。 「それじゃあ、発車します」 運転席についた聖が、キーを回してエンジンをかける。すると、隣で結花が、 「今日はいっぱい、楽しみましょうね!」 と、言った。その微笑みに、聖はただ魅了されるだけ。 3 東京テリーズランド。 ほんの一週間と少し前に出来たばかりの、新設遊園地である。その大元はイギリスの資本家、ジョン・テリーズが五十年前に母国に建設した大型遊園地で、噂によると、このテリーズランドは千葉との県境にあるアメリカが元のネズミ型マスコットキャラクターで有名な某テーマパークに対抗して、反対側に建設したとの事。 中々に信憑性の薄い話である。 で、開演記念に少数発行された一日無料遊園券を携えて、聖と結花はそこに来ていた。 ただ、来たは良いが、どうしたら良いのかが分からずに呆然としている所である。 日曜日。休日のこの日、新設の遊園地は、これでもかと言うくらいに混んでいた。その余りの人手に時間が止まっているのが、今の二人の状態である。 どうしよう、と言うのが聖の素直な気持ちであった。 この世界に来てから十年と少し。特務庁に入ったのはその少し後なのだが、その両方の期間を合わせても、聖は遊園地と言う場所に来た事が無い。なので具体的にどうしたら良いのかが全く分からない状態なのだ。 「え〜っ…と」 困り果てたので、とりあえず隣の結花を見る。情けないながらに、どうしたら良いのかが分からないので、ここは経験者(と思われる)結花に指示を仰いだ方が良いだろう。 すると、結花も困ったように聖の瞳を見上げていた。 「ど、どうしましょう?」 いや、聞かれても。 などと言う内心の動揺を隠す為に、さり気無く結花に探りを入れてみる。 「結花さんは――」 途端に、結花の頬が膨れた。 (はい?) 何でだ、と思う。何かいけない事を言ったのだろうか? などと思っていると、 「そんな儀礼的な呼び方じゃなくていいよ」 と、結花が口を尖らせながら言う。 「へ?」 「そう言ったじゃないですか」 「言ったっけ?」 「確かに耳にしました」 拗ねた子供のように頬を膨らませる結花を見て、ならどう呼べば良い? と考える。 「……結花ちゃんは――」 結局これに納まった。 「はい!」 さっきまでの膨れっ面は何処へやら。結花は途端に笑顔になって元気良く答えた。 「遊園地って来た事ある?」 「あの、そのえっと……一回だけなら」 「一回だけ?」 「……はい。友達と一緒に」 「そっか……」 じゃあ、とりあえずあんまり変わらないんだな、と少し安心。だったら自分がリードしても良かろう。 「じゃあ、とりあえず中に入ろうか?」 「はい。それはそうと、聖さんは……?」 「さー、行こう! ハモン、行ってくる!」 誤魔化しの為に妙なハイテンションとなって結花を引っ張る。そのまま大股でズンズンと入口にまで進んで行った。 「あの、聖さんは来た事無いんですか!?」 なんて言う結花の問いかけはとりあえず聞かなかった事にして、ひとまず入園を果たす事に専念するのであった。 とりあえず入園は完了。片手に握った遊園券の効果がここまで高いとは思いもしなかった聖なので、流石に驚きを隠せない。 (こんなにすんなり入れる物なのか……?) などと言う疑問を持ったりもしたのだが、どの道、答えは出ないような気がするので考えるのは中断する。 「まずは何処に行こうか?」 隣の結花に声をかけると、少女は一生懸命に手元にあるパンフレットを見ていた。 「そうですねぇ……」 どれどれ、とパンフレット覗いてみると、楽しそうな物が大量に並んでいる。 が、やはり説明だけでは良く分からない。聖は何だかとても興味を引かれた。 (どんな物なのだろうか……?) と言う思いだ。疑問は興味を持たせ、大いなる好奇心を刺激した。 「とりあえず、定番でジェットコースターでも……」 「じぇっとこーすたーぁ?」 「あれ、知らないんですか?」 「……いや、そんな事はありえないでしょう。さぁ、ジェットだろーがゼータだろーがどんと来い!」 ここで無知を晒すのは得策ではないような気がしたので、とりあえず知ったかぶりを決める事にする。 「やっぱり聖さん、来た事ないんですね」 「うっ! な、何故それを!?」 「何だか余所余所しかったじゃないですか」 あっさり見破られてしまった。やはり、知ったかぶりするには経験と努力、そして嘘吐き度が足りなかったようだ。 なので、聖は結花に主導権を明け渡す事にした。初心者が下手に手を出すと大変な事になるような気がしたのだ。 「遊園地で大変な事って何なんでしょうね?」 結花は笑いながら、先頭に立って歩き出す。何だかとても張り切っているので、聖は少し首を傾げた。が。 「早くいきましょうよ!」 数メートル先に立って手を振る結花を見て、何だかどうでも良くなった。とりあえず駆け足で追いつくと、 「で、どれがジェットクラスターなの?」 「壊してどうするんですか?」 コースターですよ、と言いながら、結花はある一点を指差した。中々高い所にあるらしく、聖も首を上に向ける。ある物を見つめてから、今度は結花を見た。 「………」 「? あれですよ?」 「……そ、そうですか」 いきなりでっかいのに当たったなぁ、と思いつつ。 聖は首が痛くなるほど高いレールを見つめた。 そして、レールの上を縦横無尽に走りまわる、阿鼻叫喚の絶叫を迸らせるコースターを見た。 ギャアアアア! だの。 キャアアアア! だの。 お母ぁさあん! だの。 スンゴイ絶叫を耳にした。 ていうか耳にした事で鼓膜が痛い。 すぐ側を、高速で、唸りを上げながら通りすぎるコースターがうるさいんですが。 「聖さん、どうしたんですか?」 「へっ?」 結花を見ると、悪戯をする子供のような笑みを顔に浮かべている。心なしか、瞳もそんな感じの輝きを放っていた。 「恐くなったんですか?」 その質問に、聖は少し間を置く。 「いや、恐くなったと言うかね――」 そこで顔を上げ、再びジェットコースターを見上げる。 「ただ、呆れてただけなんですが」 「呆れてた、んですか」 「そ、良くもまぁこんなもん作ったなぁ、と」 「そういう物ですか?」 「そういう物なのです。んじゃ、行きますか」 微笑みながら結花の肩を叩き、聖はジェットコースター乗り場まで歩く。 「あっ!」 と、乗り場までついた所で、結花が声を上げた。 「どしたの?」 「いえ、あの、これ……」 結花が帽子の鍔を少し摘まんだ。 「ああ……!」 さっき見た限りでは、ジェットコースターとは高速移動する乗り物である。ならばそれ相応のGがかかるのだろう。こんな帽子ならばすぐさま吹き飛んでしまうに違いない。 「どうしましょう……」 困ったように言う結花。 「ちょっと貸して」 聖のその言葉に、結花は帽子を渡してくれた。 (そんじゃま、ちょっくら……!) 能力起動―― 帽子に魔力を付与し、『自分の体の一部』と言う錯覚を持たせる。それにより帽子が光粒子と化し、実質上その場から消えた。 「わぁっ……!」 結花が感嘆の声を上げる。聖は得意になって、 「凄いっしょ?」 と、胸を張った。 「凄いですね! どうして消えちゃったんですか?」 「前に、俺の能力は光になる事だって教えたよね」 「はい。聞きました」 「だから、帽子を光にしたんだ」 「光に?」 「そ。俺の能力だから、出し入れも簡単」 そういうと、今度は帽子を出現させた。 「わぁっ!」 結花は手を合わせて喜んでくれた。そのまま、凄い凄いと言う言葉に聖自身が何だか照れくさくなってくる。でもまぁ、悪い気はしない物だ。 「それじゃあ、乗ろうか」 再び帽子を粒子化すると、聖は結花を促した。結花もそれに、はい、と頷いてコースターに乗る。 どうでもいいが、荷物を持つ、と言う係員の役割を完全に無視する二人であった。 それから少しして。 「う〜…んぅ……」 と唸りながらベンチに横たわる結花を介抱すべく、聖は缶ジュースを持って戻ってきた。 「大丈夫?」 と聖が聞くと、 「駄目ですぅ〜……」 真面目にそう返されて、どう言えばいいのかと返答に困る聖。 「あぅぅぅ…目が廻るぅ……気持ち悪いですうぅ〜………」 真っ青な顔でそういう結花。聖は疑問に思いつつ、 「とりあえず、スポーツドリンクでも飲んで。こういう時は水分補給した方が良いんだよ」 結花にジュースを渡してやると、少女はよろよろしながら体を起こした。 「うぅ…あんなに速いなんて、聞いてないですよぉ」 額に良く冷えた缶を当てながら、結花は呟く。 「乗った事ないの?」 頬っぺたにレモンティーの缶を当ててやりながら、聖は聞いた。 「乗った事無いです。五年前に来た時は身長制限でアウトされたんですけど、佐緒ちゃん達は凄く楽しそうに乗ってたので、面白そうだなぁ、て思ったんです……」 けど、こんなに恐いだなんて―― 結花は恐怖を思い出したのか、再び青ざめて肩を震わせた。 (身長制限で弾かれたって……) ある意味で本当に凄い子だなぁ、と感心して良いんだか呆れて良いんだか迷った目で結花を見つめた。 少女は依然、震えている。小動物みたいで何だか可愛い。 聖は大丈夫大丈夫、と背中を擦ってやりながら、確かに中々面白い物だった、と思い出した。 楽しかったのは、その乗り物ではない。そんなに速いとは思わなかったが、恐がった結花が必死に聖の腕に抱きついて(ていうかしがみ付いて)きたのだ。その時の甘い香りと言ったら、それはもう何とも……。 「あの、聖さん……?」 結花の甘い体臭を思い出していた聖も、結花の言葉に我に返る。 「ん? なに?」 見ると、結花は上目遣いに聖を見上げていた。そのまま少し困ったような表情で、 「もう大丈夫ですよ? 大分落ち着きました」 「そっか」 良かった、と言いながら、聖はさっきから幼子を慰めるかのように結花の背中を擦っていた左手を引っ込めた。続いて、レモンティーのタブを引く。そのまま喉を潤した。 「今日は少し暑いですね」 タブを開くのに手間取っている結花が、照れ隠しなのかさり気無く言った。 「そうだね。もう初夏も良い所だもんな」 聖も空を仰ぎ見る。次いで、結花の手の中の缶を取って、タブを開けてやった。 「結花ちゃん、深爪し過ぎでしょ……」 「そ、そうですか?」 缶に口をつけようとしていた結花は、そのままの姿勢で硬直した。自分の手を見つめて、動かない。 聖も結花の細くて綺麗な指を見つめた。こじんまりとした可愛い、それでも綺麗な爪は、まるで幼児の様に生真面目に深く切ってある。 「……確かに、気合入れすぎたかもしれません」 ボソリ、と一言。 「へ?」 聖は微妙にしか聞こえなかったので耳を寄せると、結花は真っ赤になって手を振った。 「こ、こっちの話です! こっちの話! はい!」 「あ、そう……?」 何をそんなに慌ててるのか、と疑問に思いながらも、結花の体調が大分良くなったと見計らって、少女の頭に手を乗せた。 「じゃ、そろそろ行こうか」 同時に擬態化解除。聖の掌で粒子として散っていた帽子が集結し、魔力を発散する。それにより元の形に戻り、結花の頭に静かに乗っかった。 結花は驚いて、ひゃっ、と声を上げる。だが、すぐに笑顔になって、えへへっ、と笑った。 「結花ちゃんの綺麗な肌に染みがついたら嫌だものね」 帽子をポンポンと叩いてから、聖は腰を上げた。どっこいしょ、と親父クサイ掛け声で伸びをすると、結花に振り向く。 少女の、木目細かく色素の薄い、綺麗な肌を見た。この肌に日焼けは似合わないだろうと思う。 結花もベンチから立つと、聖の隣に寄り添った。 「今日は目一杯楽しみましょうね!」 結花が輝ける笑顔を浮かべた。それが眩しくて、聖は目を細める。それでも少女の顔を見ていたくて、その笑顔が余りにも美しいと感じたので、聖は結花の頭を撫でた。 その甘い匂いを鼻孔に感じながら、自分はこうしてドンドン変態になっていくのだろう、という恐ろしい実感に肌を粟立てつつ。 香美さんの言っている事は本当だったのだなぁ、と彼は情けない気持ちになったりならなかったり。 * その少し前。 結花がぐったりしながらベンチにもたれ、聖が心配そうに気配りしている様子を、草叢からじっ、と見つめる三つの気配があった。 栞、佐緒里、喜代子の三人である。 「これはまた、ベスト・ショット……!」 随分とごついカメラを構えながら、喜代子はニヤリとした。 「へへへ、兄貴。例の報酬、頼みましたよぉ」 江戸時代中期(伝承によると田沼治世の時代)に流行った越後屋並みの悪徳商人よろしく、佐緒里は役人のようにニギニギしながら喜代子に詰め寄る。 「うむ。分かっておるぞ、越後屋。それにしても、おぬしも悪よのう……」 「いえいえ、御代官様ほどでは」 「何、貴様! 私を愚弄するのか!?」 「いえ、決してそんなつもりは!」 「破門じゃぁ!」 「破門だけはぁぁ、それだけはお許し下さいぃぃぃ! 破門だけはぁぁ!」 「何をカノッサなんてやってるのよ……」 地面にひれ伏す佐緒里を見て、栞は溜息を吐いた。 因みにカノッサというのは、十一世紀のヨーロッパで、時のキリスト教皇グレゴリウス七世が聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に取り戻して教皇権を強化しようとしたのだが、皇帝ハインリヒ四世がこれに反発して教皇の改革を無視しようとした為に、ハインリヒ四世を破門したという話である。これに対してハインリヒは、1077年にイタリアのカノッサで、教皇に三日三晩も裸足で謝罪し続けてようやく許されたという、世に有名なカノッサの屈辱事件だ。 何故、彼女たちがここでこのネタを出してくるのか。それは、彼女たちが世界史でこの部分を習った時に、教諭から配られたプリントに漫画が載っていて、その中でグレゴリウス七世はハインリヒ四世に対して、 『破門じゃー!』 と指を突きつけていた事から派生したのだ。今では、彼女たちが良くやるネタにまでなっている。 それはさて置き。 「にしても結花ちゃん、面食いだったのねぇ」 喜代子は溜息混じりに呟いた。 「そうなのよねぇ。でも、性格も結構良さそうよ?」 「甘い甘い。男なんてのは、この後の事しか頭になんて入ってないよ。特に付き合ってもいないのに『送るよ』なんて爽やかに言う野郎は、大体そのあとホテルに無理矢理連れてくのよね。結花ちゃんの純潔が大ピンチ!」 「そこまで話を飛躍させなくても良いんじゃなくて?」 「とりあえず、無理矢理連れ込むその現場を押さえて裁判沙汰にまで持ち込めば、後はもうドッロドロの修羅場が……!」 「だから、飛躍させすぎだっての!」 「うっ!?」 佐緒里の見事なつっこみが鳩尾に決まり、喜代子は暫し悶える。その内に、佐緒里と栞は再びターゲットの監視についた。 何故、彼女たちがここにいるのか。理由は簡単、結花の様子を見守る事も出来れば、金儲けも出来ると言う一石二鳥の作戦だからだ。 実は、佐緒里と栞がチケットを手に入れた時からこの作戦は計画されていた。結花がそれに飛びついたのを見計らって喜代子に連絡を取り、そのスクープ写真を結花のファン倶楽部の方へと高値で売買するのだ。喜代子はあそこの専属情報収集班として活躍しているらしく、極希情報は中々良い値段で取引きされると言う事だ。 同時に、親友としては結花の恋の行方も気になる所である。ろくでもない男ならば闇討ちしてそこらへんの海にでも沈める予定であったが、今の所はそうはなっていない。結構良い雰囲気なので、むしろこっちが笑顔になってくるほどだ。 そうして二人が(喜代子は証拠写真集めに余念が無い)実質上監視していると、男の方――渡 聖と言ったか――が立った。そのままこちらに向けて歩いてくる。 「ヤバイ、隠れろ!」 同時に三人が伏せる。少しばかり植え込みの低木がガサリと揺れたが、幸い気付いていないのだろう。そのまま手前の自販機でジュースを購入する音が聞こえた。 『危なかったわ〜』 と佐緒里が額の汗を拭う動作をする。 『でも、間近で見たらカッコイイかも〜』 喜代子が好奇心に瞳を輝かせながら、隙間から聖の様子を観察する。 『どうでも良いけど、何でこんな所に隠れてるのよ……』 ただ一人、栞が冷静な指摘をするも、誰も聞いてはいなかった。 そのまま、渡 聖は何事も無く去っていく。栞以外の二人が緊張を解き、脂汗を拭う仕草をした 「危なかったわ……」 「そうね。気付かれてない筈」 「でも、こっち見てたわよ。不審そうに」 「え、マジ!?」 「でも何も言ってこないって事は、問題なしって事よね?」 「じゃ、作戦継続!」 「おぉー!」 盛り上がる。佐緒里と喜代子が一頻りはしゃいだ後で、栞が一言。 「あの二人、もうベンチから離れちゃったわよ」 『えっ……?』 声をハモらせて、同時に二人の居た方向を見る佐緒里と喜代子。確かにベンチはもぬけの殻である。 「……………………どうしよう」 三人は、目標を完全に見失ったのであった。 4 午後一時二十八分三十五秒を少し廻った辺り。 完全に回復した結花と一緒に、少し遅めの昼食をとった。 どうでも良いけど、何でこんなに半端な時間を正確に記そうとするのか。しかも漢字で。 そんな疑問を胸中に抱きながらも、出されたステーキを平らげた聖は、食後の紅茶タイムである。 何故紅茶なのかと言うと、コーヒーが苦手だからだ。どうも後味が残って好きになれん。なので、とりあえず砂糖を大量にぶち込んだ紅茶にした。 聖は問題の、それなりに甘くしてある紅茶で口内を湿らせながらも、結花の方を見た。 「――美味しい?」 すると、デザートの巨大パフェを頬張っていた結花が蔓延の笑顔で答える。 「ほひひいへふ(美味しいです)!」 聖は一人、汗をかく。 「でも、本当に良いんですか?」 結花が口の中の物(甘ったるい生クリームやらアイスクリームやら)を飲み込んで、再度確認する。何が本当に良いのかと言うと、結花が財布を忘れたと言う事で、聖が大見栄切って精算をすべて持つ事にしたのだ。 「ん、ダイジョブ」 生クリームついてるよ、と言って、結花の鼻頭を拭いてやる。その時に、おちょくる様に鼻頭をつんと突ついて、指先のクリームを少し舐めてみた。とりあえず甘い。 「でも……!」 尚も言い募ろうとする結花を制するように、聖は腕を上げた。 「でももへったくれも無いさ。大体、パフェ頬張って言っても説得力無いし、忘れたもんはしょうがないの。ね?」 言って、カップに口をつける。 「ま、まぁ、そうかもしれませんけど……」 結花はそう言いながらも、再びスプーンを口の中に入れた。とりあえず消化作業は進めてるようだ。 「でも、帰ったらお財布ありますから、お返ししますよ」 「いや、良いよ。わざわざそんなことしてもしょうがないって」 それに、と人差し指を立てる。 「デート費用ぐらい捻出できなきゃ、男として情けない」 デート―― その言葉を出した瞬間に、結花の顔が真っ赤になった。 「で、でで、デートってあの、その、えっと、その………!」 顔面から湯気を吹きながら大慌てで手を振る。呂律が全く回らない様子で、結花はとにかく焦っていた。 (なんで『デート』に過敏な反応を示すのだろうか……?) 聖は疑問に思った。そう言えば、この間の静琉さんもこの単語に焦ってたなぁ、と。 でもまぁ、デート費用ぐらい男が持って当然だと思う。――と言うのは偏見か。 偏見でも構わない。幾らなんでも、食事代くらいは出さなければ、情けない事この上ない。それにまぁ、特務の仕事は結構給料も良いのだ。大きな依頼が来れば、それこそ三年は遊んで暮らせるような額が入る事もある。その代わりに依頼が無ければ、フリーターでもマシだと言うくらいの少ない費用を生活費に当てて月を過ごさねばならなくなるのも事実ではあるのだが。 何より、鞄を覗いて財布が無い事に気付いた時の結花が余りにも悲しいオーラを出していたので放って置けなかったと言う面もある。それはそれは寂しい背中だった。あれは、それこそ捨て猫のつぶらな瞳に相当する護ってオーラだろう、などと一人納得する。 「それにね。今日は思いっきり楽しむんでしょ?」 聖は結花に微笑んで、言った。 「だったら、こんな細かい事は気にしちゃいけない。とにかく、今を楽しみなさい」 「そうです。……そうですよね! 今を楽しみましょう!」 結花は再びにっこりと笑顔になって、目の前のパフェを消化するのに取り掛かった。異様にデッカイこのパフェの名は、『フェンリス』。北欧神話に登場した、魔術師ロキの巨大なデーモン狼。ラグナロクの時に太陽を呑み込む怪物の名である。「優しい妖精の乙女」と言う意味を持つ、この『シビリア喫茶』の名物らしい。何だか、訳の分からん物が好きなんだなぁ、と聖は思ったとか思わなかったとか。 「とりあえず、早くそれ食べちゃいな。まだまだ乗ってないアトラクションはいっぱいあるんだから」 聖がそういうと、 「はい!」 太陽の如く輝ける笑顔で、結花は頬っぺたにクリームをつけるのであった。 因みに、会計を済ませた聖は、パフェ一つに五千円はやり過ぎだろう、と財布を覗きながら嘆いたとか。 5 その後は、とても楽しい時間が流れた。 結花が空飛ぶブランコに乗ってみたいと言った所、聖は結花がスカートであるとして却下。メリーゴーランドは何だか気恥ずかしかったので結花一人で乗せたりした。 ただ、コーヒーカップには乗ろうと無理矢理誘われたのでそこまで言った所、紳士風の素晴らしい老人が一回お辞儀をして、 「ようこそ紅茶カップへ」 と言ったのは中々鮮烈な光景であった。流石イギリス、コーヒーではなく紅茶なのか。 だが、聖はそんな事よりも老紳士に気を取られていた。彼の口髭が余りにも素晴らしい芸術性に満ちていたからだ。 なので紅茶カップは思う存分楽しませてもらった。 他にもお化け屋敷にもいったが、これがまた大正解。普段から強烈なほど怖がりの結花が必要以上にくっついてくれるので、かなり美味しい思いをさせてもらった。ただ、廃校舎をイメージしたそこには大量の本物が混じってたりして、少々喧しいのは勘弁してほしかった。噂によると、ここは本当に火事が起こって大量の生徒が死んだ、本物の幽霊スポットだとか。今の所は悪さをしようとするような者はいないが、万が一幽霊達がキレたら大変な事になるだろう。そう思って厳重に注意しておいた。 他にも色々やって、すっかり日が暮れてしまった頃。そろそろ帰ろうと結花にいったら、最後に観覧車に乗ろうと誘われた。 「遊園地では、最後に観覧車に乗るのが一番良いんですよ」 との事。聖も特に異論が無かったので(たった三分間だし)、了承して観覧車乗り場へ向った。 そして、その大きさに感嘆する。 「近くで見たら、こんなにデカイのか……」 日が沈んでしまったにもかかわらず、嫌と言うほどライトアップされた遊園地内で、観覧車だけが綺麗に電球で装飾されている。その頂点がよもや、真下に居ると良く見えない。それ程高いのが観覧車と言う奴であった。 聖とて、お台場の巨大観覧車ぐらい目にした事はある。あれほど目に付く物も結構無いので当り前と言えば当たり前だが、遠巻きにしか見た事が無いので実際の観覧車がどんな物か、間近で見たのは始めてだ。 「さ、行きましょう!」 結花は笑顔で聖を促した。それにようやく正気を取り戻した聖は、少し並んでゴンドラに乗る。 ふとその中を見て、そこが狭い密室である事に気付いて気恥ずかしくなったのは聖だけだろうか。 ゴンドラで空の旅を楽しむ二人。 「綺麗……!」 結花が酔いしれたように、溜息混じりに呟いた。 聖もつられる様にして外を見る。ゴンドラは現在、十時の辺りにある。そこから都心の明かりが見えた。まるで宝石を散りばめたかのようだ――そう表現するのは月並みすぎるだろう。ならば、宇宙遊泳を楽しむ宇宙飛行士のような心境と言っても通るのかもしれない。 (遊園地、か……) 結構楽しかった。でも、それは結花と一緒だったからだろう。聖はその確信があった。 (なんか、……安心するなぁ) そういう気持ちである。 聖は向かい側の席に居る結花を見た。子供のように目を輝かせて、一心不乱に外を覗いている。 可愛いな―― 正直にそう思った。彼女の横顔は聖を魅了する。 「今日は――」 聖が声を発した。結花は顔をこちらに向ける。 「楽しかった?」 途端に結花は笑顔になる。 「はい!」 元気な声が聖の鼓膜を震わせた。結花の笑顔は、外に見える神秘的な輝きと相俟って、更に魅力的な、美しい物となった。 「良かった」 聖も微笑んだ。女神のような神々しい笑みが余りにも眩しく、少し目を細めてもいた。 ――自分は所詮、堕天使なのだから。 聖にはその思いもあった。 「聖さんは楽しかったですか?」 今度は結花が聞いてくる。 「ああ、凄く楽しかったよ」 聖は笑んだ。それは本心である。 「そうですか。良かったです」 二人は暫し笑みを浮かべていた。 ゴンドラが一時を少し回った頃。結花は思い付いたように顔を上げると、聖の隣に腰を下ろした。 「結花ちゃん?」 「向かいの席で一人って、何だか寂しいです……」 そういって、結花は聖に身を寄せる。彼女の体温が服越しに伝わって、聖は緊張した。 「……聖さん、温かい」 「そ、そう……?」 困ったような声で、曖昧に答える。実は恋愛経験と言う物があんまり無いので、こういうのは苦手だ。 「あはっ、聖さんも緊張してるんですか?」 「へ?」 「心臓がトクトクって、早くなってます」 「よ、よく分かるね……?」 結花は少し上を向いた。その視線は、聖の瞳とかち合う。 「私の心臓も、早くなってるんですよ」 結花は再び笑んだ。さり気無くロマンチックなムードに、聖は既にタジタジである。 「今日はいっぱい楽しんだから。少し疲れました……」 「そうか……」 言いながら、結花の肩に手を回してみる。かなり勇気のいる行動だ、と聖は実感した。 「今日は良く眠れそう……」 「そ、そうか……て、へ?」 聖が見ると、結花は既に寝息を立てていた。スウスウと、ゆっくりと胸が上下している。 「あららっ……」 結花は聖の胸の中で熟睡していた。ゴンドラは現在、四時を回っている。終着ももうすぐ。ならば、起こした方が良いのだろうか。 (駄目だよなぁ、やっぱ) すっかり機嫌良く眠っているのだから、起こしてはいけないだろう。それに、可愛い寝顔はまだ見ていたい。このままおぶって車まで運ぶか、と聖は決意した。 きっと、恥ずかしいんだろうなぁ、と決意したはずの信念が揺らぎ始めつつも、ゴンドラは粛々と地面に近づく。聖はとりあえず、お姫様抱っことおんぶのどっちが良いのかを真剣に検討し始める事にした。 |
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