第五章 「いつもの(?)日常」




 月曜日という曜日はとにかく面倒臭い日でありまして。
 特に日曜日に何かあったのならば、登校だろうが出社だろうがとことんまでに面倒になるものだ。
 昨日遊園地に行った聖は、学校が面倒で面倒でしょうがなかった。結局は放課後までを呆けて過ごすことになる。
 彼はとっとと帰る準備をして、生徒昇降口で下駄箱を開けた。
 それに気が付いたのは、その時が始めてである。
「これは……?」
 下駄箱の中に何かが入っていた。紙――と言うか、封筒だろう。下足の上に無地の白い封筒が置いてあったのだ。
 手にとって見る。裏には『渡 聖様へ』と書かれていた。ならば自分当ての手紙なのだろう。
(何故にこんな所に……?)
 下駄箱に手紙が入っている事など、初めての経験だ。
(何故にハート……?)
 封筒はハートのシールでしっかりと閉じられていた。疑問に思って良いんだか悪いんだか判断に困るなぁ、と聖は思った。
 読んでみようと思って封筒を開けかけた所で、ふと周りの喧騒に気付く。良く考えればここは下駄箱だ。そして今は放課後だ。帰り支度を済ませた生徒達が各々帰宅している頃合いである。
 何だか、ここで読むのは気が進まない。
 なので彼は、落ち着ける所を探して校内へと戻る事にした。
 どうでも良い事だが、どうして玄関に入った後で玄関から出ると少し恥ずかしくなるのだろう。そこらへんはかなりの謎である。
 とりあえず、図書室へと行ってみる。
 適当に空いている席を見つけ、聖は椅子に座って封筒を開けてみた。中には便箋が一枚入っていて、可愛らしい丸文字で文章が連ねてあった。
「え〜……っと、何々?」
 サーッ、と流して読んでみる。その内容は要約すると、『放課後に化学実験室に来い』という物だった。
 果たし状か、と怪しんだのだが、文全体の流れから行くと、そんな雰囲気は全く無い。また、文章中に「好きです」と言う言葉が見受けられるし、言い回しも丁寧だ。よって、そんな物騒な物ではないのだろうと結論づける事ができる。
 では、これは一体何なのか。答えは簡単。
 これは世に言う「ラブレター」と言う物なのだろう。
 日本語訳すると「恋文」である。だが、直訳すると「愛手紙」ないし「愛文」になるのではないのか、と聖はどうでも良い事を考えた。
 もう一度、今度は少し用心深く要点を絞って読んでみる。誤字を発見した。が、全体的には誠意のこもった文章である。
 もう少し用心深くチェックしてみる。先の誤字を抜けば完璧な文体だ。文の構成自体が女の子らしさを滲ませている。
 中々良くできているな、と聖は思った。が、俺の目は誤魔化せんぞ、とも続く。
(これは誰の陰謀だ……?)
 この思いである。かなり良くできた代物で、文章内では敵を暴く事ができるような要素はない。かなり入念に練られた計画なのだろう。もしかしたら本当の女の子に書かせたのかもしれない。そこまで周到に準備をして悪戯しようなどとは、かなりの性悪だ。
 そして、聖はその性悪に心当たりがある。
 騙される物か。奴等の陰謀、確実に打ち砕いてくれる!
 とりあえず、呼び出されたからには化学実験室に行こう。そして、誰が犯人なのかを突き止めた上で、逆にそいつらをビビらせて、奴等の悔しがる顔を、嘲笑と侮蔑の色を滲ませた視線を投げかけながらとくと眺めてやろうではないか。何とも面白い見世物だ。この俺を騙すなぞ十五年飛んで二百八十五日程早いと言う事を思い知らせてやらねばなるまい。
 聖は便箋を戻すと、不敵な笑みを浮かべて図書室を出た。

 化学実験室は北側の最上階右端と言う、とてつもなく面倒くさい位置にある。
 聖は図書室から来た訳で、問題の図書室は渡り廊下のど真ん中。左側階段から上るのでとかく実験室には遠い。何故に俺はあんな所にいたんだと聖は早くもダラダラした気持ちになった。
 何だか昨日はハシャギ過ぎた感がある。体全体がとてつもなくだるい。てか、どっちかってと脱力感と言うか倦怠感の方が強いだろうと、聖は思った。
 とことんやる気が出てこない。何故だ、何故なんだ! なんて自問自答しても始まらないのだが、とりあえずは昨日の結花ちゃんの笑顔は可愛かったなぁ、と言う結論に至る。
 とか何とか言ってる間に実験室に着いた。とりあえずはドアの覗き窓から中の様子を窺う。狭い視野の中で、教室内は夕日を浴びてきらきらと輝き、沈む寸前の黄金の陽光が支配していた。
 中々荘厳な雰囲気である。
 次に左右に視線を走らせてみる。視野が狭すぎて全く中の状況が分からない。だが、見渡す限りは人の気配はないようだ。
 が、油断はできない。聖は薄く扉を開けると、素早い身のこなしで教室内に潜入する。同時に最も近い机に音も無く潜伏し、隙間から中の様子を窺った。
 特に何も無い様だ。
 が、やはり油断はできない。
 聖は次に、教員が使う巨大机に目をつけた。あそこならば潜伏も容易だ。それにあれだけ一つ独立しているので、室内の様子を探る事も可能ではないか。
 頭を少しだけ出して軽く左右に振る。怪しい人影は発見できず。ならば、好機!
 トン、と軽く床を蹴ると、 低い姿勢のまま机に向う。音は余り漏れてはいないだろう。同時に裏側へ回ると、人影が三つ!
 ビンゴ、と思いつつも、聖は驚愕の眼差しを向ける楠・島邦・大隈の三人を冷やかな眼差しで見つめた。
「何やってんの、お前ら」
「何ってお前、俺ら見ちゃったんだよ!」
 突然飛び込んできた怪しい影が聖だと察したのだろう。島邦はやや興奮気味に、そして早口にのたまった。
「見たって何を」
「早百合ちゃんさ。一年三組の小城 早百合ちゃんが誰かの下駄箱にラブレター入れるとこ!」
「……へ?」
「んでさ、楠が告白するなら此処しかないってんで皆で敵状視察に来たのさ」
「て、敵状視察?」
「そ、敵状視察。もしもろくでなし野郎だったら俺達で伸しちまえ、て魂胆さ」
「そしてあわよくばカッコイイとこ見せて彼女のハートをゲットしちまえ、て魂胆でもあるらしい」
 大隈があまり気乗りしてない様子で言う。欠伸を噛み殺した所を見ると、島邦に無理に付き合わされたと言う実情が良く垣間見れた。大変だなぁ、と聖は同情する。
 でもまぁ、小城 早百合か。彼女の名前ならば聖も知っている。なんでも、新入生の中では一番に可愛くて、月対抗校内美少女ランキングで三ヶ月連続bPだとか。成る程それは、校内の情報収集屋を自称する島邦には是非とも押さえたい現場であろう。
 だが、情報収集屋が好奇心旺盛に首を突っ込みたがるのはどうかと思う聖であった。
「これで早百合ちゃんに彼氏ができてしまったら大変な事になる。我が部としては何としても阻止したいのだ」
 因みに、島邦は諜報部という謎の部活を立てて部長をやっている人間である。お前は相当の暇人だな、と聖が呆れ果てながら言うと、世の中ギブ・アンド・テイクよ! とか謎の哄笑を残しながら去っていくような変な奴だ。変態集団の中でも広報担当として活躍しているらしい。
「で、お前はこんな所でどうしたんだ?」
 楠が言う。彼も校内トップの美少女が告白される現場を是非とも押さえたいのだろう。聖がここへ来た理由も知りたいらしく、瞳は好奇心に爛々と輝いていた。
 聖はここに来た目的を思い出す。何やら悪戯の現場を押さえようと思ったのだが、犯人と思える三人はここにいる。ならば一体誰が――
(まっ、良いか)
 ここで待ってれば来るだろう。そう思い、聖は面倒臭そうに欠伸を一つ。
「俺はここに呼び出されたんだよ」
「呼び出された?」
「そ」
「ふーん、何の用で」
「果たし状みたいなもんだと思うぞ。多分だがな」
「そうか。でも、それじゃあ早百合ちゃんに迷惑だろう」
「つっても、相手もまだ来てないみたいだから良いんだよ」
 何故か場の雰囲気に任せて小声で喋りつつも、そう言えば何故にこんな所で身を潜ませてなければいかんのか、と疑問に思い始める。手紙の相手を待つのも面倒になったので、聖は帰ろうと膝を伸ばした。途端に、
「待てい!」
 ガッ、と島邦に腕を押さえられる。何だよ、と目で訴えると、
「何故立ち上がろうとする。もうすぐ早百合ちゃんがくるんだぞ!」
「へ? いや、だからどうした」
「馬鹿者! 早百合ちゃんを間近で見る機会は少ないんだ! 少なくとも今は中に人影があったら彼女が入ってこれないだろうが! もう少し頭を働かせろ!」
「うぅ …何故か正論に聞こえる」
 聖の狼狽。
「それよりも、もう少しボリューム下げろよお前らよぉ。周りの様子が把握できないだろうが」
 楠の呆れたような声が聞こえる。聖は仕方なく、膝を曲げた。
 途端に実験室は静寂に包まれる。
 何て、そんな事はまずなかった。六月も下旬に近い昨今、湿気を含んだ空気はまだ暖かく、日は傾いたとはいっても沈むにはそれなりに間がある。従って、運動部や文化部の掛け声は元気に響いていた。
 それを遠くに聞きながら暫くボーッとしていると、たったっ、と廊下を走る音が聞こえる。歩幅が小さいし間隔も短い事から、かなり急いでいる少女だと言う事が分かった。
 それが近づいてくる。限界まで高まった所で、教室のドアがガラリと開け放たれた。
 聖は素早く教壇の中へと滑り込む。四人が入るには流石に小さかったが、かなり慌てた風のある少女は気付かずに教室の真ん中の方へと歩いていった。
 肩で息しているらしい激しい息遣いが聞こえる。聖はそっと覗いてみた。
 先ず目に付いたのは、黒。純真な黒に彩られた艶やかな髪の毛を肘の辺りまで伸ばした少女が、慌てた様にして左右に目を走らせている。
 首を振っている為に、髪の毛は左右に揺れる。その度にほっそりとした白いうなじが見え隠れして、中々素晴らしい景色であった。
 霧阿波高校の制服に身を包んだ、ほっそりとした美少女が辺りを見回す。相当差し迫った用事なのだろう、彼女は形の良い眉を心配そうに歪めている。
『おおっ!』
 男共から小さな歓声が上がる。その中には勿論、聖の声も混じっていた。
「おいおい、こんなに可愛い子だったのかよ!」
 とは大隈の声。彼も一端の男だ。可愛い女の子が出てきた途端に、さっきまでやる気の全く無かった瞳を爛々と輝かせていた。
「だから言っただろ! あの子はこの学校のbP美少女なんだよ!」
 島邦は興奮しまくりだった。
「成る程。こいつぁ、頷けるな」
 楠は一人で首を縦に揺らしていた。
「何を頷いてんだよ」
 聖だけは一人、楠にツッコミを入れる。
 ただ、ヒソヒソ声なので大したツッコミができないのが難点だった。
「帰っちゃったのかな……」
 少女らしい、細い声が聞こえた。見ると、問題の美少女・小城 早百合は溜息を吐きながら、それでも実験室の真ん中を動こうとしない。きっと、一縷の望みをかけて彼女は相手を待っているのだろう。
「相手はもう来たのか?」
 聖は聞く。が、三人は一斉に首を横に振った。
「まだだ。そいつがここに来る気配すらなかったよ」
「そうか」
「ったく、あんな美少女を待たせるなんて一体どいつだ! このまま来ないようだったら俺らが探し出してタコ殴って袋に詰めて砂にしてやらなきゃな」
「何だか訳わかんねぇな」
「その時はお前も付き合えよ」
「あぁ、結局は付き合わされるんだろうなぁ……」
 聖は既に諦めモードに入っていた。彼は既に自分の用事が何なのかを憶えてはいない。
 頭の中にあるのは、そう言えば何故に俺はこんな所に潜んでなきゃいかんのだ、という思いだけである。
「でもな。お前がここに来た時はびびったぜ」
「ん〜、何で?」
「だってよ、問題の男が来たのかと思っちまったもんだからよ」
「あ、そ」
「でもま、お前じゃねぇよな!」
「そうだよな。わははははは」
「わははははははははははっ」
 とりあえず笑っとけ、と聖が自暴自棄になりかけた時である。
『馬鹿、黙れ!』
 大隈と楠が同時に、聖と島邦を殴った。
「気付かれたらどうすんだ!」
「俺らはもうここから動くに動けないんだぞ!」
 楠にしては珍しく、正論である。聖は素直に黙った。
 が、もう遅い。あんな大きな声で笑ってたら、そりゃもうバレバレだ。当たり前だろうと言うくらいに気付かれているのは明白である。それでも気付かれてないと思い込む四人はただの馬鹿であった。
 案の定、美少女は不思議そうな顔をしてこちらの方へと歩み寄ってきた。ピーンチ! とか思いつつも再び息を殺す。無駄だと言うのに。
「誰か居るの……?」
 不安そうな少女の声が聞こえた。
 やっぱりな、と思いつつも、どうやって切り抜けようかと脳味噌をフル活用して必死に解決策を模索する。この場合、逃走ルートは無い。少しでも机から出てしまったが最後、その姿はもろばれである。それに人目があるから粒子化はできない。ならばどうするか?
(ま、しょうがないよな……)
 聖は自分が犠牲になる事も止む無しと考えた。と言うよりもとっとと帰りたかった。自分から姿を現わせば、或いは見逃してくれるかもしれない。
 そう結論を出すと、行動は早い。聖は立ち上がると、
「ごめんなさい!」
 と言って手を挙げる。降参のポーズ。
 聖は自分に向けられる四つの視線を感じた。どれも驚きの視線だが、一つだけ微妙に違うような――
 そんな事はどうでも良い。聖は第二声を放とうとした。
「――渡先輩!」
 放てなかった。早百合が驚きから喜びへと表情を変えて、嬉しそうにそう言ったからだ。
 ――って、へ?
 何故に嬉しそうなのだ?
 聖は判断に困った。なのでマヌケ面。
 そんな事は意に介さず、早百合は小走りで聖の前まで来る。
「先輩、あの、待ちました?」
「へ? え〜…っと……?」
 更なる困惑。待ちました、って言われても……
 気付いたら、ザクリ! 聖は自分の背中に突き刺さる、殺気にも似た強烈な視線を感じた。しかも三つ。
(うっ……?)
 ちらりと伺ってみると、今にも殺してやろうと言わんばかりの強烈な視線が、彼を射抜いていた。その邪悪なまでの殺気に、聖は慌てて正面に戻る。
 正面に戻ったら戻ったで、瞳をうるると潤ませた少女の視線があった。聖は更に困惑して、何がどうなったのかの状況判断が追いつかない。
「あの、先輩。遅くなってすいませんでした」
「いや、あの、えっと、そのって、ん〜……」
「言い訳になっちゃうんですけど、あの、臨時委員会で呼び出されてしまったんです。頑張って走ってきたんですけど先輩は何処にも居なくて、あの、心配になって……ああ、何言ってるんだろう!」
「え〜、その、何だ? てか、はい?」
「それより先輩。あの、手紙、読んでくれましたか?」
「て、手紙?」
 と聞かれて思い当たる節は一つしかない。下駄箱に入っていたあれだ。
 が、どういう事だ。あれは悪戯ではなかったのだろうか。そもそも、下駄箱に恋文は少々ネタが古いのではなかろうか――
 いや、それは流石に失礼だろう、と聖はどうでも良い事を考える。複雑にこんがらがった思考の中で、それでも独立した部分があるのは凄いなぁ、と自分の事を感心してみたり。
「あれは、君のだったの?」
「そ、そうです!」
 早百合は耳まで真っ赤になった。
 聖は脳味噌まで真っ青になった。
 おまけに目眩まで起きた。世界が見事なまでに回転し、続いて純白の閃光が視界を覆い、更には耳に残る甲高い高周波が頭を揺らした。
 むしろ、世界が崩壊した。
 ただ、それでも崩壊した世界は一瞬で、次のコマに進んでいる時には元通りに戻っている。そして時間は嫌だと言っても進んでいくのはしょうがない事である。聖は黙示録から再生までの一部始終を脳内に展開しながらも、目の前の現実に目をむける。
 だが、現実は厳しかった。残酷だった。冷酷だった。鉄仮面だった。
(……鉄仮面?)
 などと疑問に思いつつ、聖は何とか意識を現実に引き戻す事に成功した。同時に、あの恋文の最後には確かに、『小城 早百合』の名前が載っていた事を思い出していた。
 つまり、あれは悪戯などではなく正真正銘、本当のラブレターと呼ばれる代物なのだ。
 聖は追い討ちをかけられたかのようにして沈んだ。
 が、そんな聖の様子など、勇気を振り絞っている早百合が気付く訳はない。彼女は一生懸命に自分の言いたい事を喋っている様子であった。
「そ、それでですね。あの、良ければ私と、その、お、お付き合いして欲しいなぁ、なんて思って、それでですね、あの、その、……!」
 良く喋れてはいない様だ。何だか、こういう所は結花に似ているのではないのか、と聖は思った。そして思わず顔を緩めるが、そんな事は本人は気付かない。
「渡先輩!」
「は、はい!」
 さっきまで俯いていた早百合が、意を決したように顔を上げる。その表情が余りにも真剣であった為に、聖もまた顔を引き締めた。
「ご返事を聞かせて下さい!」
「へ、返事……?」
 聖は狼狽した。その拍子にまた顔が崩れる。
 返事と言うと、やはり告白の返事だろう。だが、どうしろと言うのか。今さっき顔を知ったばかりの少女と付き合うと言っても、どうしようもあるまい。同時に、聖はこの世界に来てから、女の子と付き合った事など無いので、付き合うと言う事がイマイチ良く分からない。そして、こういう時の返事も往々にして、どう言えば良いのかが分からない。
 聖とてこれまでに幾つか告白された事例はある。だが、そのどれもが泣きながら走り去られてしまった記憶しかないのである。何だかどう言っても傷つきそうで、こういうのは慣れない。
 結局、どう言っても同じだと割り切るしかないのだろうか。
 と、断わる事を前提に考えてみたのだが、ふとここでOKを出したらどうなるだろうか、と考える。
 別に聖はこの子の事が好きでも嫌いでもない。会ってから数分しか立っていないのだからそれは自然な事であろう。それに、こんなに可愛い彼女が居ると言うのは悪い事ではない。いや、むしろこれはラッキーなのでは――?
 そこまで考えて、聖の頭の中には結花の顔が浮かんだ。何故か、浮かんでしまった。心に小さく痛みが走る。聖には何故痛く感じたのかが分からなかったが、それは間違いなく痛覚であった。
「――ごめんなさい」
 言葉はすんなりと出てきた。それは不安定だった心の揺れを完全に押え込んだ何かが言わせた言葉だ。聖は断わった事に――いや、それを言えた事に微かな狼狽を憶えつつも、これで良いのだろうと言う確信があるのを感じていた。
 きっと、これで良いのだ。
 そう結論が出せた事で、彼は心の迷いが消えたのを感じた。こういうのを、重石が消えたかのような感覚と言うのだろうか。
「そうですか……」
 早百合は寂しそうな表情でそれだけを言った。それは諦めの表情だ。聖は、彼女がこうなる事を既に分かっていたのではないのか、と感じられた。
「先輩。あの、結花ちゃんとは付き合ってるんですか?」
「へ!?」
 ビックリ――吃驚――驚愕――仰天。
 どれで言っても差し支えなさそうな感情が聖の心にストン、と落ちた。
 何で結花ちゃんの事を知ってるの?
 簡単に言うとこの感情であるが、もちろん、もっと他の複雑な心境も交じり合っている。
「昨日、可愛い女の子と一緒にテリーズランドに居ましたよね?」
「いっ!」
 何故それを!
 と、聖の顔には堂々と書かれていた。
「私、見ちゃったんです。だから、渡先輩はあの子と付き合ってるのかな、と気になって……」
「えっ、てっ、とっ、へっ?」
「先輩、付き合ってるんですか?」
「いや、付き合ってはいないけど……」
「そうなんですか? じゃあ、なんで一緒に遊園地に……」
「一応、誘われたんですが……」
「あの子にですか?」
「そうです。はい」
 すると早百合は何故か少し眉の端を上げた。ただ、その端正な顔が崩れる事はない。あくまで表情の一環として、その動作は美しかった。
「でも、先輩はあの子の事が好きなんですよね?」
「えぃっ!?」
「昨日、凄く楽しそうでした」
「そ、そうでしたか?」
「確かに見ました」
「断言しちゃったよ……」
 聖は少し途方に暮れた。同時に、自分の心と言う物を少し整理してみる。自分は結花の事をどう考えているのだろうか、と言う事から考えてみた。
 先ず、結花の表情が思い出された。楽しそうに笑う可愛らしい笑顔が浮かぶと、聖の顔は思わず緩んでしまう。
 思えば、この様にして結花の事を考えたのは始めてであろう。その思いを必死に処理していくと、聖はやがて結論に達した。
 少し長い沈黙の後に、
「多分……、ね」
 聖は言った。それは、自分に対する確認。自分の純粋な思いではなかろうか。
 そこまで考えて、聖は急に気恥ずかしくなって、窓の外に視線を向けた。顔が火照っているのではないだろうか。
「……そうですか」
 早百合の声が聞こえた。少し寂しさを含んだ声。それが微妙に掠れているのを耳にし、聖はもう一回、視線を早百合に戻す。
「安心しました。結花ちゃんを幸せにして上げて下さいね……」
 それだけ言うと、少女は顔を伏せた。同時に、脱兎の如く駆け出す。
「あっ! ちょっと待っ……!」
 聖が呼び止めようと振り向くが、既に無駄。彼女はドアを潜って、廊下を駆けていた。
 しまったな、と思う。走り去る寸前の早百合の瞳から、涙が溢れているのが見えた。
 また泣かしちゃったな、と思いつつ、聖は早百合の走っていった方向を見る。床には涙の痕らしき水滴が零れていた。
 はぁっ、と聖が溜息を吐く。同時に背後に物凄い殺気を感じたのだが――いや、感じたのではない。感じていたのだが、聖がその存在を忘れていたのだ!
 思い出した時には、彼は床に張り倒されていた。三人の野郎に押さえつけられ、身動きが取れなくなる。
「この野郎! 早百合ちゃんを振るとは何事だ!」
「しかも、更に可愛い彼女は居るだと!? 地獄に落ちろ!」
「死ね、死んでしまえ!」
 口々に叫ぶ島邦・楠・大隈。そのまま聖はタコ殴りにあった。
「うわー、止めろ! まだ付き合ってさえ居ない!」
「だが、さっきの話を総合すると両思いなんだろうが!? この幸せや野郎め!」
「この! こいつ!」
「五千回ぐらい死んでこの俺に詫びろ!」
 更に激しさを増す攻撃。聖の悲痛な叫びはまだ続く。
「てか、なんでお前達に詫びなきゃならんのだ―――――――――!」
 少年の濁った断末魔が放課後の北校舎最上階右端に響き渡った。その声は、放課後に残っていた全員に聞こえたとか聞こえなかったとか。



 会議室の中は、暗かった。
 が、決して陽は沈んではいない。事実、窓に引かれた暗幕の隙間からは黄金の陽光が煌いていた。
 いや、それよりもまず、何故に会議室に暗幕が引かれているのか。そして何故に、蛍光燈を沈黙させたまま、裸電球を室内の真ん中にぶら下げているのか。まずはその疑問の方が先に立つ物であろう。
 会議室内には、十数人の人影があった。裸電球の弱々しい光に照らされた人影は、全てが女性特有の柔らかな曲線のあるシルエットだ。
 女性達は――いや、柔らかな曲線に固さを持たせた未発達な少女達は、会議室の真ん中に下がる電球を囲む様にして、会議用机を目の前にパイプ椅子に座っている。彼女たちの視線はすべて、下に向いていた。
 別に俯いている訳ではない。彼女たちは、共通の物を各自の目の前において、それを凝視しているのである。
 それとは、写真であった。拡大コピーされて人数分に刷られた写真の中には、男女のカップルが楽しそうに笑っている風景を焦点に撮影されていた。
 聖と結花の二人である。彼らがテリーズランド内を歩く姿が、写真として一枚の紙の中に存在した。
 それを眺める室内の人間の瞳は、色々な感情が渦巻いている。嫉妬、羨望、憎悪。それらが全て聖に向けられているのは何故なのだろうか。
 シン、と静まり返る室内の空気が、微かに揺れた。一人の少女が立ち上がったのだ。今までが沈黙していただけに、空気の揺れは酷く大きく感じたのだろう。その場に居た全員の視線が立ち上がった少女に向けられる。
 私立青葉女子校指定の夏服を来た少女は、その場に居合わせた全員の表情を見るように首を巡らせる。背が高く、少し吊り上った印象の瞳と相俟って、少女は何処か毅然とした雰囲気を纏っていた。身長と同じく長い黒髪は、少女が左右に顔を向ける度に美しく、サラサラと流れる。
 それはやはり、電球の弱々しい光のもとに、長い髪が照らされているからだろう。
「私は――」
 少女が徐に口を開いた。少し低い、ハスキーな声が室内に反響する。
「ある情報筋により、この写真を入手しました」
 そう話す少女の後ろで、ある情報筋としてここに付いてきた喜代子がVサインをするが、誰もそれには気付かなかった。彼女は少しむくれる。
 そんな喜代子の様子に全く気付かず、少女は更に話を続ける。
「皆さんもお気付きの通り、結花ちゃんが大変危険な状況にあります」
 少女はそういうと、もう一度室内を見回した。ほぼ全員の表情が引き攣っている。多分自分もそうなんだろうな、と少女は思った。だが、そんなに冷静で居られているのは一部分だけで、心の中では様々な葛藤が渦巻いている。
 そんな胸中を悟られない様に、少女は更に押さえた調子で言った。
「この男は霧阿波高校の二年生で、かなり名の通った悪だと言う事です。今、結花ちゃんに悪い虫が付いているのです。私は、この男の即時削除を提案いたします」
 淡々と、言う。しかし、その胸中は苦々しい思いで一杯だった。このままでは、愛しい少女が穢されてしまうのではないか。その不安と、彼女を誘惑しやがった男への憤りが、少女の心の中でどす黒い憎しみとして、混沌とした闇を形成していた。
「会長。許可をください」
 少女は一礼した。そこには、少し納まりの悪い猫毛を一本に束ねて右肩から下ろしている、キリリとした相貌の美しい女性がいる。
 水葉 結花ファン倶楽部会長の柊 香美が、室内の沈黙とは似つかわしくない、落ち着いた態度で少女の瞳を直視する。少女はその黒瞳を受け止める事ができずに、視線を逸らした。
 香美の溜息が聞こえる。少女は、もう一度、焦点を香美に戻した。
 彼女は眼鏡を外す。すると、慈愛に満ちたような大きな瞳が露となった。
「……彼は、私の知り会いなの」
 香美は、まるで息子夫婦を眺めるかのように写真を見る。が、少女は――いや、この場に居合わせた全員が香美の言葉に唖然とする。
「私は聖君と親しいから、知ってる。彼は誠実で優しい子よ」
 ふと、香美は少女の瞳を覗き込むように、視線を上げた。それから、ゆっくりと、紡ぎ出す様に言葉を続ける。
「私は結花ちゃんと聖君の両方が好き。だから、二人には幸せになってもらいたいな、ていう願望がある」
 そこで、クスリと、笑みを零す香美。思い出し笑いのようなそれは、嬉しそうに見えた。
「だから、私はこの二人を応援するつもり」
 静かに、落ち着いて出された言葉。それに全員が驚愕の眼差しを向ける。が、香美はそんな物をまるで気にしていないかのように、優しい笑顔を浮かべていた。
「そっ……!」
 少女の喉が引き攣る様にして言葉を吐き出そうとする。が、
「でも、ここまで進んでたなんて知らなかったんだけれどね」
 香美は、今度は陽気にそう言った。
「こんな現場を押さえるなんて、喜代子ちゃんは優秀ね」
「いやぁ、それほどでも……」
 満更でもない様子の声。それは少女の怒りを外に漏らす鍵となった。
「私は反対です! 何処の馬の骨とも知れないような男に、彼女を預ける事などできません!」
 その剣幕に、少し驚いたような表情になる香美。
「一応、私は彼の事を知ってるんだけど……」
「そんな事は関係ありません! 私は、自分の目で結花ちゃんとつりあうほどの男かどうかを確かめます!」
 その声に、先程まで呆然としていた女性達が俄然やる気を出した。皆が皆、口々にそうだそうだと騒ぎ出す。
 困ったわね、と言う風に腕を組んだ香美を見て、少女は勝利を確信する。だが、その香美の口から予想だにしない言葉が飛び出してきた。
「ページ数が足りないから、この巻では収録できないと思うわよ?」
 えっ――――?
 その場の空気が瞬時に凍り付いたのは、言うまでもない。



 都心を少し離れただけで、人気はめっきりと減るものだ。
 ここも、そうだった。決して遠くはないが、近くも無い郊外の山間に存在する、大き目の屋敷。広い駐車場に、これでもかというくらいに敷き詰められたのは、黒塗りのベンツ。
 関東地方を中心として悪名を轟かす大規模暴力団、「弾原組」の拠点として、そこらへんの土地を丸ごと買い占められて建てられたそれは、確かに大きな建物であった。
 そこを目の前にして、しかし建物自体は結花の家ほど大きくはないかな、と思うのは、何故かプリウスに乗ってここまでやってきた聖である。
 一応、それにも理由があった。この時期は結構忙しいので、特務庁でも車の需要が増えてくる。だから、余りがこれしかなかったのである。
 でも、幾らなんでもこれは浮き過ぎだろう?
 聖は思いながら、車を門の前で止めた。黒のスーツに身を固めた、少し細身と思われる男がこちらに近づいてきたからだ。
「失礼……」
 窓を開けてやると、男がこちらに顔を突っ込んできた。細身だと思ったが、見てみるとやつれた感が在る。憔悴の色の浮かぶ顔は、血の気も少ない。が、ギラギラとした意思を湛える瞳は、疲れたという雰囲気ではなかった。
 薬か――
 おそらくは、組織の末端構成員であろう。少しだけのつもりで手を出した事で、本格的に堕ちた、くらいの事情か。まぁ、どの道、聖には関係ない事だ。
「貴方は?」
「政府関係者だ」
 即答。その間に、聖は周りの状況を観察した。目の前の男以外に、彼が居た反対側にももう一人の男の姿。
 たったそれだけだ。なんとも不用心な事である。
「政府関係者? それがここに何の御用ですか」
「少し、そっちの親方に注意してやらなきゃいけない事が出来たんでな。わざわざ出向いてやったまでだ」
「ほう…何です?」
「それはお楽しみだよ」
 言ってやると、男はクスリッ、と笑んだ。唇の端だけを上げる、皮肉に歪んだ笑顔だ。
「分かりました。どうぞ、お通り下さい」
 皮肉な笑顔だけでは足りないのか、クックックッ、と皮肉な笑い声を残して、男は門を開ける。それには別段取り合わず、聖は車を進めた。
《おい》
 後部座席から声がする。が、それは人語ではなかった。
《良いのか? 嘗められていたぞ》
 ムクリ、と影が立ち上がった。それは普通よりも少し大き目の犬。四足歩行型の、ただの犬だ。
「良いんだよ」
 聖は返した。酷く酷薄な笑みを少しだけ浮かべて、
「どうせアイツ等には関係ないんだからな」
 それから、フッ、と自嘲気味なそれに変える。
「ほら、着いたぞ」
 鮮やかな水色のプリウスを黒塗りの高級車の中に埋めて、聖はシートベルトを外した。ドアを開けて外に出ると、その車だけがやけに浮いているのが解る。
 まぁ良いか。
 次に後部座席を開けてやると、すぐに先程の犬が飛び出してきた。
 夜の漆黒を映したかのような黒い毛並みが、屋敷から漏れる照明に照らされる。普通に見えて少しだけ違うその犬は、この間、結花と共に戯れていた巨犬、ジョージだ。
 ジョージは今回の聖のパートナーである。宮都は他の所に貸し出されているという事で、聖はジョージを連れてここまで来たのだ。
《では、参るか!》
 ウォォォォッ、と雄叫びを上げ、ジョージが前に出る。他のものが聞いたら、それはただの犬の鳴き声でしかない。だが、聖は違った。バルバトスとして、彼は「生き物全ての声を理解する」のだから。
 地獄の大公として、彼が有する力の一つである。だから聖はジョージと会話する事が出来た。
「まぁ落ち着けよ」
 そういうと、聖は急ごうとするジョージと並んで歩き出す。が、それはゆっくりとした歩みだった。
「世の中、焦っても良い事無いぞぉ」
くあっ、と欠伸を噛み殺しながら、猫背気味に前のめりで屋敷の扉へと向う。その様子に更なる苛立ちを覚えたのか、ジョージはウルルルッ、と唸った。
《そう言えば貴様、結花さんと遊園地に行ってきたそうだな》
「ぬぐっ!?」
 よもや、こんな所でこの話題が出てくるとは思ってもいなかった聖は、少し言葉に詰まる。その後で、何とか口を開いた。
「な、何故それを……?」
 何だか、夕方にも同じ事を言ったような気がする。
《情報部の静琉に教えてもらったのだ。貴様、この俺に黙って抜け抜けと……!》
 心底恨めしそうな瞳で見上げてくるジョージ。聖は既に冷や汗物だ。
(静琉さん……)
 何やってんの、と思いつつも、まぁしょうがないか、と半ば諦める。とりあえずは、目の前の犬の殺気を自分から逸らさねばならない。
「良いから入るぞ」
 言いながら、目の前の扉を開けた。巨大な木製の扉が、キィッ、と音を立てる。手動だ。
 聖は少し落胆する。何だか自動だったら面白かったのになぁ、と。
《奴らは何処に?》
「多分、地下だろうよ。恐いお兄さん達の会議ってのは、地下で行ってるって暗黙の了解があるんだ」
《そうなのか》
 ジョージは、納得した、という様に首を数回縦に振る。器用な奴だ。
 つうか、疑えよ。聖は内心慌てつつも、目の前に黒いスーツで黒のサングラスを掛けた厳つい男が現れたので、その男の先導に従う事にした。
 因みに、聖が本当に慌てたのは、その男が本当に地下に向って歩き出した時だった。

 箱型のちゃんとしたエレベーターで下に降りながら、聖は一人、疑問に思う。
(地下、十階……?)
 後の九階は一体、何に使っているというのか。
 どうでも良い疑問である。だが、それぐらいしか考える事が無かった。
 隣には欠伸を噛み殺すジョージ。手前には薄笑いを浮かべたスキンヘッドのコワモテ兄さん。目的地の十階までは、まだ三階分の余裕がある。
 結構長い間、彼はこの密室の中にいた。それから察するに、一部屋、一部屋が大きな造りになっているのだろうか。ならば一体、何故にその様な構造で地下に十階分も造ったのか。
 同じ事をグルグルと考えながら、益々分からん、という感じで眉を顰める。現在位置の表示がB,7からB,8へと移行した頃に、ようやくそれが結論を出せない疑問である事に気付く。
 また後で調べれば良い事だろう、と思えたので、彼はこの事柄に関する疑問を後回しにする事にした。
 とりあえず、何か眠い。
 思考がいきなりこんな所に飛んだのも、いつもの事だった。晩年寝不足と言いきるような彼は、とっとと家に帰って熟睡したい気分なのだ。
 だが、そうもいかない。この任務を達成する事で、ようやく半年分の生活費が確保できるのだ。任務が来なければバイトみたいな事でもやらなければ生活できない攻撃部要員は、一つでも多くの仕事をやらなければ生活が成り立たない。この間の任務も合わせて、ようやっと生活が保証出来るだろう。
 『眠る』と言えば、昨日の結花は何故にあんなに唐突に熟睡し始めたのだろうか。つまらなかったのか? いや、それにしては楽しんでたみたいだし、凄く安らかな(そして可愛い)寝顔であった。劣情を掻き乱されまくった末に、何とか彼女の家まで届ける事が出来たが、あの後彼女は大丈夫だったのだろうか。今日は寝坊して電車に乗れていなかったので、その事を確認する事が出来なかったのが悔やまれる。やはり、悶々としたまま起きてないで、とっとと寝ておけば良かっ――
 ピンポーン。
 間抜けな音がして、エレベーターが停止する。慣性の法則で、一瞬だけ重力が増したような錯覚を覚えながらも、聖は思考が中断された事に対して少しだけ不機嫌になる。
「着きましたよ」
 目の前のドアがスムーズに開いて、男が聖達を再び先導する。行き着く先は、会議室とかそんな感じの少し立派なドア。ここに来るまでが一本道(しかも部屋などは一切なし)だったので、先導してきたこの男の意味が無いんじゃないのか、と聖は思ったが、何でも良いか、と思い直す。どうせ考えてもしょうも無い事だ。
 男が会議室のドアを開けた。正に至れり尽くせりだ――そいつの表情に浮かぶ嘲りとも侮蔑とも取れるような酷薄な笑み意外は。
 聖はジョージを伴って、室内に一歩を踏み入れた。そこは広い。学校の剣道場くらいの大きさはあるかもしれない。
 その中には、結構な人影が存在している。ざっと見渡した限り、二十人くらいだろうか。そして、彼らは全員が、壁際に立ってこちらを見ていた。
 左右に十人ずつの男達。それらが全員で黒いスーツを着ているのは、弾原組の構成員だからだろう。あそこは何故か黒を好む。
 聖はそんな事を考えながら、正面を見た。一番奥には机が一つ。そこに座るのは、彫りの深い顔に余裕の笑みを浮かべる、壮年の男性だ。
 彼こそは、関東一帯に勢力を持つ弾原組現組長、弾原 幹雄その人である。
「政府関係者、だそうだな?」
 幹雄が口を開いた。低い、威厳のある声だ。渋いな、と聖は思った。白くなった髪の毛がまた似合っている。特に、同色の髭が格好良さをも醸し出しているのだろう。
「そうだ」
 素晴らしい、と心の中で頷きながら、しかし彼はそれを表情には出さない。
「何の用だ?」
「修正、さ」
「修正?」
 はて、と言う顔をする幹雄。聖は嘲るような笑みを浮かべ、
「佐藤 元禄が捕まったのは知っているだろう?」
「ああ、有名な話だ。ま、こっちの筋で、だがな」
「アンタはその元禄と一緒に悪魔を商売してたんだよな」
 その言葉に幹雄は一瞬だけきょとんとして、
「はっ! 悪魔、ねぇ」
 大袈裟に笑うと、幹雄は自分の人差し指で頭を小突いた。他の者も、一斉に嘲笑を浮かべたようだ。
「お前さん、頭は確かか? この時代に悪魔も糞もあったもんじゃ……」
 グルルルルッ――
 幹雄の言葉は、唐突に響いてきた唸り声に掻き消された。それは、彼の声に比べると遥かに小さな音である。だが、それはこの場にいる何者にも聞き取れる、深淵から響いてくるかのような唸り声であった。
 同時、聖の傍らで変化が起きる。メキリ、と言う生々しい音に、同じ音がどんどんと重なっていく。骨格が改変され、肉が増幅する、その余りにもグロテスクな音が室内の空気を緊張へと誘う。
 音源は、聖の足元。今まで大人しくしていた黒犬の様子が変わる。唸り声が空気を震わし、体が膨れ上がっていくのだ。それに付随するかのように、メキ……ミシミシ、という音が聞こえてくる。
 その音を聞きながら、聖は余裕のある笑みを浮かべた。幹雄を始めとする男達の驚愕の度合が想像以上であった事が結構嬉しいのだ。
 グルァァァァァァ―――――――――――!
 音が止むと同時に、咆哮が上がる。相手を恫喝するかのような雄叫びを上げ、ジョージの変身は完了した。
 より大きく、より恐怖を与える姿。普通より少し大きいくらいの体躯が、今や聖と同等の高さまである。体積を増した犬は、その瞳に肉食獣らしい歓喜の色を浮かべ、威圧を周囲に撒き散らしていた。
 体から、微かに炎を立ち上らせながら、再び咆哮を上げるジョージ。今や、冥界より出しその姿を隠そうともせずに、彼は本来の体に心酔した。
 ヘル・ハウンド――ジョージ本来の姿である。地獄に数多く存在するこの狼は、体の各所に炎を燻らせながら獲物を見つめていた。
 擬態を――この場合の擬態とは正に他人の目を欺く為の物だ――解いたジョージは、久しぶりの開放感に幾らか興奮している節がある。どちらかと言うと本能で動き出し易いこの形態だ、少し落ち着けてやらねば。
 そう思って聖がジョージに視線を移すと、唐突に笑い声が木霊した。
 ガハハハハッ、と言う豪快な笑い声は、似合っていたのかもしれない。長身で引き締まった肢体に、豊かな白髪と、同色の髭。男らしさとでも言おうか、それの中にある暗さと、その裏の豪気さを巧く醸し出した笑い声だ。それは、酷く陰気で、酷く明るいのだから。
 そちらに視線を移した聖は、密かに感心した。一瞬ですべてを理解した弾原 幹雄の、その割きりの良さに。これは想定外の好印象だ。
「成る程、お前等もその類いか! 道理で、こんなとこまでノコノコと来る訳だ!」
 顔を掌で押さえて、呼吸困難にでもなるのではないか、と疑いたくなるほど笑い転げる。その様を見て、室内も活気を取り戻してきた。
 呆然としていた黒スーツの男達が、陰気な笑い声を上げてきたのだ。
(ふう、ん……)
 脅しは失敗、か――。
 聖は少し残念な気持ちになった。ジョージの少しグロテスクな変身音を聞けば、相手が萎縮するだろうと踏んでいたからだ。それを証明するかのように、今までの者はみな、ジョージに恐怖心を集めてきたと言うのに、この男達はよほど魔族に慣れているのだろうか。
 だが、まぁ良いだろう。聖は思う。まだ交渉の初期段階なのだから。
「さて、悪魔が云々はそっちも承知の通りだ。だからまぁ、元禄との繋がりも概ね明かされてるって事だけは憶えとけ。だから、今回はその修正をしに来た」
 ニヤリ、と聖は笑む。今度は相手を恫喝する為の、凄惨な笑みを。
「ふ、ん……!」
 先程の笑顔とは一転して、面白くなさそうに鼻を鳴らす幹雄。彼は机の上にある筆立ての中から、一本のボールペンを取り出した。
「………?」
 何の変哲も無いボールペンに見える。中のインクは黒で、持ち易さや使いやすさよりも安価な事を重視して作られたのであろう、ちょっとだけ使い込まれたような擦り切れた感じのゴム。違和感があるとすれば、何故にそんな物を弾原組のボスが持つのかと言う事だけだ。
 カチリ、と幹雄がボールペンをノックする。すると、部屋の奥に一つだけ拵えられていた、入口に比べるとちんまりとした印象を受けるドアが開く。そこから一人の男が顔を出した。
 顔を出した――が、何かが可笑しい。聖はその違和感にすぐに思い当たった。小さな造作の男の顔が、ドアのギリギリまでの高さにある。しかも、微妙に丸まったかのような首の出し方は、更に背が高い事を意味しているのではないのか。
「仕事だ、アヌン。コイツらを片付けろ」
 幹雄が聖を指差す。それに、アヌンと言う名らしい男が頭を縦に振る。その後で短めの金髪を揺らしながらもドアから出てきた。その時に、聖の疑問も解消される。
(ああ、馬か)
 アヌンは馬に乗って現れた。えらく顔色の悪い馬ではあるが、その動きには乱れが無い。それはつまり、その馬が冥界の魔力に浸されていると言う事の証明だ。
 アヌンはまず、ジョージを見る。次に聖を見て、クスリと笑った。意地の悪そうな笑みだ。
「魔犬使い、ですか。ただ、ヘル・ハウンドごときでは、私には勝てませんよ」
 笑み同様に意地の悪い言葉。
「そうかい。そうは見えないな」
 聖も横柄な態度を取る事にした。だが、自慢の身長も馬の背に乗る男には敵わない。高圧性では、目線が高い方が圧倒的に有利だ。
「私が相手にするのではないんですよ」
 アヌンはそう言った。口元に張り付く笑みは、依然として消えない。いや、むしろ深くなったかのような印象さえ与える。
「――いや、それにも語弊があるのかもしれません。正確には、私も相手をします、と言った方が良いのでしょうね」
 そういってから右手を翳し、
「私達がお相手致しましょう!」
 宣言と同時に、瞬時に室内に魔力が満ちた。アヌンが放った魔力が室内に拡散し、次には四つの塊となっている。
 これは――!
 四つに分かれた膨大な魔力が瞬時に空間を飛び越え、穴を開けた。そこだけが深淵となり、次の瞬間には獣の咆哮が上がる。ヘル・ハウンドのそれよりも更に威圧的に、強大に。
 四つの穴から獣のシルエットが飛び出した。それがアヌンの前に並び、聖を威圧するかのように赤い瞳をぎらつかせる。
 ガルム。地獄の猟犬が、四匹。ヘル・ハウンドよりも数段は上の実力を持ったそれは正しく狼と呼ぶに相応しいのかもしれない。
 それを見て、聖は相手の正体を理解する。
「アラウンか……」
 ポツリ、と呟く。冷静に、沈着に。今の状況を正確に理解した上で、この巨大狼を手懐けることの出来る悪魔の名前を呼んだ。
「おや、私の事を御存知でしたか」
 馬上のアヌンが言った。いや、ケルト神話に登場するデーモン。ガルムを引き連れる狩猟家・アラウンが。
 道理で幹雄があそこまで余裕たっぷりだった訳だ。魔族としては珍しい、召喚能力を持ち合わせたアラウンをボディガードとしているのならば、当然の驕りであろう。しかも、相手はガルムよりも非力なヘル・ハウンドくらいしか連れていないと来た。
 ジリッ……。
 聖の横で、ジョージが気圧されたかのように後ろに下がる。いや、実際に気圧されているのだろう。ガルム相手にヘル・ハウンドでは勝ち目が薄すぎる。
 それが、四体。同時に、アラウン自身も実力を備えていると聞く。ならば、ヘル・ハウンド一体を連れた『魔犬使い』程度では敵う訳も無い。そして、彼らは逃してもくれないだろう。今、この室内にいる弾原組の人間は全員、見せしめとして切り裂かれる聖とジョージの姿を想像しているのではないか。
 聖はさり気無く右手を腰に回す。だが、そのホンの小さな一動作さえも、相手は見逃してくれなかった。
 ガルァッ!
 吠え、飛び掛かる。良く見てるな、と感心しながら、聖は左足をジョージに触れる。瞬時に埋められた距離にガルムの紅い口腔が見えたが、ギリギリまで体を躱すと同時に、擬態化。光粒子として不可視の存在となったその次には、聖は目的地に辿り着いている。
 能力解除してから先ず見えたのは、敵の後ろ姿。全員が入口手前――つまりは先程まで聖の居た所に注目している。が、それは驚愕と疑問を持った背中。
 余裕があるだろうと悟り、目の前に存在する弾原 幹雄の首を掴んだついでに左足のジョージを見る。彼もきょとんとした瞳で、自分に何が起こったのかを理解していない様子だ。
 まぁ、しょうがない。ジョージを同時擬態化した事なんて今まではなかった事だ。
「さて――」
 一連の動作を一瞬でやって、聖は声を発する。その前に気配に気付いていたであろうアラウンと視線を合わせた。同時に全ての視線が聖に集まる。手の中にある幹雄の心中も伝わってきた。緊張と驚愕、だ。
「どうする?」
 今度は無邪気な笑顔を見せ、聖は言う。予想通りに、全員の顔に緊張が差した。多分、全員がこう思ったであろう。
『こいつはヤバイ!』、と。それさえ完了すれば、後はこちらのペースで戦闘が出来る筈だ。
 案の定、アラウンが焦ったような表情を浮かべる。同時に異変も起きた。
 忽然と出現した違和感。その正体はすぐに理解できた。ガルムが一匹、足りない。
 くっ、と息を漏らし、聖は前方位に注意を配った。ただ気配を探るのではない。光粒子を三百六十度全方向に発射し、それが帰ってくる時の時間差で障害物やその形状を把握するレーダー能力。通常のレーダーと違うのは、放出するのが電波ではなく光だと言う事だろうか。
 異常はすぐに探知した。右斜め方向に何かが出来る予感がある。そこに向って右手を、次に視線を。
 そこには既に、ガルムの巨大な体躯が形成されかけていた。壊れた空間の中にガルムを見る。おそらく、あと一秒弱でここまで到達するであろう牙と爪を聖に向けて。
 ガァァァッ――! 咆哮が上がる。獲物の死を目前とした獣の、勝利の雄叫び。普通の人間ならば絶対に反応できない方向、距離、速度。そう、普通の人間ならば。
 すんでに近づいたガルムは、しかし聖を仕留める事が出来ない。眉間の部分に鉛弾を撃ち込まれ、何が起きたのかをすら把握できなかったのではないか。勝利の――歓喜への、期待。それに満ちたままの瞳が、無機質な物に変わる瞬間を見届けながら、聖は銃声を聞いた。
 チィン、と遅れて薬莢がコンクリートを跳ねる。唐突に、抜く手すら見せずに現れたヘッケラー&コックUSP。それが、確かに聖の右掌に存在している。それは信じられない光景であった。
 一瞬の自失が、アラウンにはあったのだろう。その呆然とした顔を見て、聖は更に一発、弾丸を弾き出す。今度はアラウンに狙いを定めて。
 パアン、という音と共に来た光景は、しかしアラウンが吹き飛ぶ所ではなかった。その眼前に飛び出したもう一頭のガルムが灼熱の弾丸を受け、続けざまに聖が放った三発に絶命する。それが契機となった。アラウンの瞳に生気が、そして怒りが宿る。同時に他の二頭もその場から消えた。
(来るか……!)
 今、アラウンには二匹の愛犬を失ったと言う事実しかないだろう。正直言って、幹雄の事は頭にない。ならば、目の前の白髪で頭を染めた男を使った所で得なことはない。
「ジョージ!」
 言うが早いか、アクティブ。光粒子が全方向に放たれ、空間の歪みを感知。真上と左斜め。正面には、馬に乗って突撃を掛けるアラウン本人。逆上してはいるようだが、戦闘に対する冷静さが失われていないのは感心すべき事だ。新たに魔犬を補充しようとはせず、既存の二体で相手を葬る。一見、それは判断のミスと思われるだろう。だが、実際には、新たに入ってきた所で邪魔になるだけだ。この場の緊張感と、それにより生み出される体内の興奮が体を動き易くさせるのだから。同じ位に動けない者に、どのようにして共同作戦など出来ようか。正直に、足手まといでしかなくなるだろう。ならば、目の前で同胞を殺された怒りを滾らせる既存の者達を使う方が都合が良い。特に、彼の手懐けた中でも最優秀であった筈の四体でなければ聖は倒せない。彼はそう考えたのかもしれない。
 聖が右親指を後方に向ける。それだけでジョージは理解したのだろう。巨大犬が幹雄を引っ掴み、跳躍。それを見届けながら、右手でしっかりとグリップを保持する。どれに対処しようかと迷って、まずは二匹のガルムをどうするか、を考えなければならない事に気付く。アラウンの方が到着が遅い。
 時間差攻撃、という訳ではなさそうだ。少なくとも、ガルムは隙が無い様に見えるのだから。
 真上の一頭が眼前に降り立ち、牙を向けた。が、これはフェイクだ。リアル・タイムで放出し続けていた光が、斜め後方のもう一頭を確実に捉えている。その攻撃をステップして避け、間髪入れずに近づいてきた眼前の奴にはUSPを向ける。
 間に合うか――?
 聖は、無理だな、と踏んだ。距離が近すぎる。ならば引き金を絞る時間はないかもしれない。
 計算は早い。右腕を上げながら、少しだけ自制を掛ける。ほんの少しだけ遅れた右腕が、当初予定されていた場所を通ると、そこにはガルムの巨大な顎。そこに小型自動拳銃の体をぶつけ、無理矢理に上に弾いた。
 同時に発砲。銃口に閃光が満ち、黒い毛が鉛弾を受ける。炎を噴き上げる巨体が後ろに仰け反り、倒れ伏した。追い討ちを掛けるように、弾丸を発射。二発目が喉首を完全に裂いた事を確認し、余裕の出来た一瞬の間に擬態化。アラウンの放つ三撃目を避け、一瞬の内に馬上の人物の背後に回り込んだ。
 アラウンが振り向く。気配を読むのは流石だが、遅い。召喚も不可能であろう。彼の賢明な判断はしかし、地獄の公爵には敵わなかったのだ。
 撃つ。その瞬間にはアラウンの脳には鉛弾が減り込んでいた。くすんだ金髪が揺れ、奥にある瞳が生気を失う。確実に殺した事を確認し、聖は着地。が、次には主人を失ったガルムが突進してきていた。
(やばっ!)
 失敗した、と思う。反対側には、主人の魔力が停まった事によって絶命した馬の巨体。強大な魔力が無ければ動く事のない、死馬の姿。出口は塞がれた。
 ガルムの顎が開く。狙うは首だろうか。喉笛を噛み千切られたら終りだ。ならば、どうするか?
 聖は光を放った。魔力によって質量を得られた光が、ガルムの巨体を掠る。精密射撃が出来ないのが辛い。あの、少しイカしたポーズが無ければ全く違う方向へと飛んでいく光は、目標であったガルムの顔面を、完全に逸れた。だが、有り難い事に牽制の役割を果たしてくれる。それがガルムを失速させ、その隙に、接近していたジョージが一気に噛み付いた!
 グルァァァァァ!
 ガルムの口から悲鳴が漏れる。ヘル・ハウンドの一撃は致命傷ではなかった。だが、動きを止める事は――少なくとも、攻撃目標を聖から外す一瞬の隙を作ってくれたジョージには感謝する。聖は冷静に足を蹴り上げ、ガルムの喉を潰した。怯んだ相手にS&W弾を叩き込み、絶命させる。
 ふうっ、と息を付き、聖は顔を上げる。この場に居る、幹雄の切り札を全滅させる事に成功。こちらに被害はない。あるとしても、弾倉内の銃弾と自分達の体力を消費したくらいか。
 実は、一番辛い事かもしれない。
 そう思いつつも、聖の視線は幹雄へと注がれた。汗を流しながらもまだ、威厳を損なわない男へと。
 その根性は表彰物だ。聖はそう思いながら、口を開いた。室内の重苦しい雰囲気を破りながら、それを絶望へと返る言葉。
「――さて、どうする?」



 豚箱、とは良く言った物だ。
 佐藤 元禄が叩き込まれた部屋は、確かに汚かった。特権を使って無理に作った一人部屋なので、混雑はしていない。だが、今まで贅の限りを尽くした生活に慣れきってきた元禄には、留置場の狭苦しく臭い場所は、我慢のならない物である。
 あの、特務庁の男達が来てから、彼の人生は変わり果てた。まだ数日しか経っていないと言うのに、五十年は閉じ込められたかのような疲労を、元禄は感じている。でっぷりと肥え太った贅肉は、しかし彼の体からは余り落ちていない。当り前だ。ダイエットをした事のない元禄は知らないが、痩せると言うのは生半可な事ではないのだから。
 元禄は今夜も寝苦しい夜を過ごした。汚い布団の上で、汚い毛布を引っ被る生活。もう嫌だ。
 コンコン――
 元禄は音を聞いた。ドアをノックする音。いや、少し違うか? ドアと言うよりも、窓を叩く少し反響するような音。
 コンコン――
 身を起こして、ドアまで近寄る。覗き窓に、誰かの瞳が存在した。
「佐藤 元禄さんですね?」
 それは、少し神秘性のある様な声だった。高めだが、耳障りではない。男らしい絶妙な低さを兼ね備えた声が、伝わる。元禄も覗き窓に目線を合わせた。覗いてくる瞳の色が日本人の黒でない事が分かった。
 碧、だろう。良く見れば、長めの金髪も見える。ヨーロッパ系の外人だ。
「迎えに上がりました」
 声は更に言葉を紡ぐ。元禄本人である事を確認したのだろう。
「迎え、じゃと?」
「ええ。それとも、まだここに居ますか?」
 元禄は激しく首を振る。こんな所はもういやだ。
「出してくれ。……ここから、出してくれ!」
 その絶叫に、クスリと笑みが聞こえた。同時に瞳も細められる。
「分かってます。その為に来たんですよ」
 言って、声の主は覗き窓から離れた。
「少し乱暴になります。離れていて下さい」
 元禄が離れると、轟音と共にドアが吹き飛ぶ。鋼鉄で出来ていた筈のそれはしかし、簡単に拉げ、簡単に粉砕された。
「ぬおっ……!?」
 目を見張る元禄に、更なる驚愕が襲う。ドアから出てきたのは、ブロンドの外人ではなく、漆黒の鎧に身を包んだ誰かであった。
「では、行くぞ」
 声が宣言する。低い――しかし繊細な声で。

 その日、何者かによって佐藤 元禄が留置場より連れ去られた。轟音を聞いた見回りが見たのは、無数に走った壁の亀裂と、元禄の居た部屋に空いた大穴であった。
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