第六章 「ようやく思い出した事」




 太陽はまだ昇ってはいなかったと思う。
 ただ、目が冴えてしまったので、結花は時間潰しの為に散歩に出たのだ。
 日の光が完全ではないにしろ、空は群青色に染まり、美しい蒼へと変わろうとしている。東から薄っすらと見える明かりは、今が夜明けである事を認知させていた。
 清々しい朝、とはこの事を言うのだろう。
 結花は一人、綺麗な空気を堪能する。
 ここは、水葉邸の裏手に繋がる森から少し出た所にある、遊歩道だ。今ではすっかり梅雨らしい緑の葉をつけた桜の木。それが朝露に濡れた姿は美しい物だ。
 ここ最近は天気が良い。梅雨なのにおかしいような気もするが、小雨がぱらつく事もしばしば起こるので、余り気にしなくても大丈夫だろう。
 とりあえず、ここで朝の空気を満喫できる事は、良い事なのだ。
 結花は笑顔で、桜並木を歩く。朝食まで一時間ほどの余裕があるのだから、もう少し位なら遠出しても気にならないかもしれない。
 時間的な柵から解放された心は、そうなると悩み事へと突入していく。それはやはり、結花が思春期真っ只中の少女だからだ。特に気になる事は、
(今日は聖さん、居るかな?)
 で、ある。緊張しながら乗車したのに、聖は昨日は電車に乗っていなかった。どうしたんだろうか。もしかしたら風邪でも惹いたのかもしれない。それならば自分の責任もあるだろう。連絡先を知らないのが悔やまれる。
(今日も居なかったら……)
 ――その時は、お見舞いに行こう。喜代子ちゃんなら、或いは住所を知っているかもしれない。
 結花は一人、そう決意して頷いていた。
 それにしても良い天気だ。頭上には濃い藍空が広がり、真っ白な雲がゆっくりと流れていく。それを見るだけで、今日一日は元気に過ごせそうな気がする。
 綺麗な雲の流れを見詰めながら前を歩く。朝一番の道路は人が通らないから、こんな事も可能だ。それが真昼間だったら、きっと自転車にぶつかっておでこかなんかに擦り傷を残しているに違いない。
「……え〜っとぉ――て、へっ?」
 ふと、結花は異変に気付いた。それは異音である。それに思考を中断された事で、始めてその音に気付いた。
 それはまるで、テレビで良く聞く馬の蹄が奏でる少し間抜けな音に似ている。気のせいだろうか?
「な、何……?」
 恐い――と、そう思う。瞬時に、結花の敏感すぎる自己防衛機能が警告を発する。が、逆に過剰な恐怖が筋肉を硬直させる。それはつまり、動けずに、じっとしているしかなくなったと言う事。
 え――?
 気付けば、全身に震えが走っていた。先の清々しさが微塵も無くなり、一転して淀んだ空気が漂い始める。息苦しさが先行し、言い知れぬ予感に全身に鳥肌が立った。
 それは、アムドゥスキアスに襲われた時以上の悪寒なのである。
 いや、違う。あの時は恐怖に硬直せず、逃げる事が出来たのだ。だが、まるで世界が陰気になったようなこの空気は、あの時には感じなかった物である。
「あ、う……!?」
 息苦しさに喉が詰まる。言葉が出てこない。それは、恐怖と同時に、もう一つの感覚がある事を物語っていた。
 嫌悪感――その表現が最も当てはまるであろう、それ。結花の鋭敏な感覚が、完全なる『負』の魔力を感じ取った。
 音は近づいている。気が付けば、結花は並木道の出口に差しかかっていたのだ。そして、その左側から、音が響いていた。
 朝日が昇り始め、周囲に影を運ぶ。光が所々に反射し、周りをより一層、見え易くしていた。
 だから、結花は視認することができた。並木の中に、うっすらと漂い始めた『黒』を。ボンヤリとした闇の中に飲み込まれている事に気付いた結花は、それが嫌悪感の正体である事を知る。
 何なのかは、分からない。だが、それは確かに存在するものであった。
 同時に、それの根本的な物を前にも感じたような覚えもある。既視感――とも違う。確かに感じた事のある、だからこその違和感。
(あっ……)
 トン、トン、と規則的な心音が増幅され、速さを増す中、結花はそれを思い出す。『光』を視認した――聖が初めて能力を見せたその時の物と似ているのだ、と。
 ドクン――
 ――痛い。
 頭に重く圧し掛かる鈍痛。心臓が跳ねる時、動脈を伝った血液が痛みをも運んでくるかのように、唐突な、そして規則的な頭痛が現れる。一瞬だけ目を瞑ると、キィィィィッ、と甲高い音が耳の奥で響いた。
 カクン、と軽い衝撃。目を開くと、そこには一面の、白。何だろうか、と思っていると、網膜に焼き付いた光が晴れ、コンクリートで舗装された地面が見えた。それも、二・三十cm手前に。
 えっ? と疑問に思ってから、始めて自分が膝を突いている事に気付く。頭を押さえながらも、目眩に襲われたのだ、という事実に思い至った。
 結花は全身に圧し掛かる倦怠感に抗って、何とか顔を上げた。無理に動く事によって、甲高い高音が少しだけ晴れる。意識を無理に戻した時に、カッ、と目の前に黒い足が出現した。
 足、だろう。それも、細くて逞しい、馬のそれ。ポーッ、とした意識の中、もう少し視線を上げる。
「少女、か……」
 声。低く、しかし何処か繊細な声が、頭上から降ってくる。結花もそれに合わせて視線を上げて行く。そうして見えるのは、闇の色。目の前の馬と、騎乗している男も、その全身を濃暗色の黒で塗り潰していた。そして、暗黒の甲冑の下も当然のように、闇。
 ふと、全身にかかる重圧が増した。再び耳の奥に高音が響き、視界が純白の光に覆われ始める。頭が割れるのではないか、というくらいに増幅された頭痛が意識を拡散させ、少女の意識は風前の灯火となった。
 倦怠感の中で結花が思ったのは、今日は学校にいけないかもしれないな、という直感だけだった。



 無事に仕事を終え、弾原組の管理を情報部の方に引継がせた聖は、重大な事に気付いた。
 それ即ち、
「あ、朝日……!?」
 完全に徹夜である。
 目元に薄っすらと浮き出た隈が、聖の疲れを代弁していた。
 そして今日は、火曜日。
 つまり、平日。
 だから、登校日。
 だから、寝れない。
「あは、あはははははは……」
 そこまで考えて、乾いた笑い声を上げる聖。この状態で授業に臨むのは辛い。
 いや、辛すぎる。
 てか、本気で止めてくれ。
「わはははは、わ〜はははははは……」
 とりあえず笑っといた。
《五月蝿いぞ……》
 不機嫌な声が聞こえる。聖が振り返ると、プリウスの後部座席でノウノウと仮眠を取っていたジョージが、這い出してきた。
 ――この野郎
 正直に殺意を覚える。別にこいつ居なくても良かったじゃねえか、と。
 今、彼らは帰宅途中だ。幹雄を屈服させた後、すぐに情報部の保安課に来てもらって、弾原組を丸ごと特務庁の管轄下に置いた。屋敷の中に残っていた組員の全てを降伏させるのに少し手間取り、業務引継ぎの机仕事に更に時間を取られてしまったので、聖は始めて不眠不休で仕事をする羽目になったのである。
 その間、ジョージはご機嫌で熟睡していた。
 今も、車に乗った途端に、すやすやと寝息を立て始めた。
 目の前でそんな事をされて、怒るどころか少しだけ錯乱しただけで済ませてやったのに、あまつさえ五月蝿いとは、なんて態度のでっかい犬か。
 コンチクショウ、とブチ切れかける。が、理性で何とか押し留めた。
 こんな所で切れてたら、今日一日の身が持たない。ぶっ倒れて保健室にでも運ばれた日には、恥ずかしくて登校する事もかなわん。
 とりあえず授業中の居眠りで少しずつ体力を回復して行こう。幸い、今日の一限目は英語だったか。
(寝れねぇな……)
 聖は一人、絶望する。英語の里中先生はチョークの代わりに黒板消しを投げつけてくる強者だ。頭上を炭酸カルシウムの粉が飛び交う環境で、スヤスヤと寝られる訳がない。
 髪の毛が白とか黄色とか赤とかその他色々な色の粉で大変な事になる自分を想像して、でもまぁ良いか、と思い直す。大した損害でもあるまい。
 クアッ、と欠伸を一つ。国道を走り続けるプリウスの、その美しい水色が朝日に煌く。どうでも良いけど、後ろの犬の幸せそうな寝息がウザイ、と思う聖であった。



 それから、まとめておいた報告書を麗華に提出した聖は、大急ぎで着替えて、朝飯を食らい、ギリギリの時刻で電車に飛び乗る事に成功した。刈縞駅で乗ってきた津山 栞と滝野 佐緒里に結花が高熱を出して休んでいると言う事を聞いた。
 彼は午前中の授業を寝て過ごすと、放課後になって結花のお見舞いに行くことにした。
 聖はとりあえず、花屋で繕ってもらった花束を持って、あのどでかい正門の前まで来ているのだ。
 頭に付着したチョークの粉を気にしながら、インターフォンのスイッチを押す。ピンポーン、と音がして、すぐに出迎えの声が聞こえてきた。
『はい……』
 沈んだような声は、静琉 真紀だ。受け答えは親切・丁寧・冷静と三拍子揃った彼女がこんな声を出すのを、聖は聞いた事がない。どうしたのかな、と思いつつ、
「あの、渡です。結花ちゃんの容体は――」
 そこまで言いかけた所で、真紀が唐突に叫んだ。
『渡さぁぁん!』
 抑え切れない思いが出てきたのか、既に涙声である。少しビックリしながらも、聖はインターフォンに向って問い掛けた。
「ど、どうしたんですか?」
『結花ちゃんが、結花ちゃんが居ないんです!』
「えっ!?」
 予想だにしない返答。
『あの、結花ちゃんが居なくなっちゃって、それであの、いま全力で探してるんですけど見付からなくて、あの、あの、――た、助けて下さい!』
 そう言うが早いか、正門が開く。聖は、ただ事ではないと直感し、急いで屋敷の方へと入った。
 庭を駆け、屋敷の門へと辿り着く。そこには涙で目を赤くした真紀が待っていた。
「どういう事です?」
 開口一番に、問う。すると真紀は必死の形相で、
「朝、結花ちゃんがお散歩に出たんです。でも、いつまで経っても帰ってこなくて、学校に行く時間になっても戻ってこないから大騒ぎになって、それであの、いま全力で捜索していて――」
 相当焦っているのだろう、時々つっかえながらも、必死に事態を伝えてくれる。涙に掠れた声が更に悲壮感を煽り、聖に衝撃をもたらした。
「捜索願いは?」
「情報部に頼んでいます。でも、手掛かりが全然掴めてないんです。もう十時間も探してるのに全く見付からないから、皆が心配してて、もしかしたら何かあったのかもしれないって――」
 真紀がそこまで言った所で、奥の方から足音が響いてきた。バタバタと忙しく、スリッパで廊下を走る音。それも複数だ。
「渡君!」
 現れたのは憲三氏を始めとする屋敷内のほとんどの人達。皆が焦燥の表情を浮かべながら、玄関へと走ってくる。
 中でも、憲三氏は最も心配そうな形相である。彼は聖の肩を掴むと、開口一番に言い放った。
「結花を、結花を助けてくれ!」
 唐突な言葉に、一瞬だけ迷う。が、憲三氏はそんな事は構わずに、言った。
「お願いだ。結花を助けてやってくれ! きっとあいつがあの子を攫ったんだ!」
「あいつ……?」
 この単語に引っ掛かる。聖は肩に食い込んだ、憲三氏の皺だらけの手を掴んだ。
「あいつ、て何の事ですか? 結花ちゃんについて、何か心当たりがあるんですか」
 真剣な目で憲三氏のそれを覗く。彼は始め、落ち着なく、「助けてあげてくれ、お願いだ」を繰り返していたが、やがて項垂れた。
 全身の力が抜けたかのような憲三氏を支え、聖は問い詰める。
「何が解ってるんですか? お願いです、教えて下さい」
 真剣な声色。憲三氏はその声に顔を上げて、しかし正視に耐え切れぬというように視線を俯けた。
「実は、結花が『悪魔』と会うのは、あれが始めてじゃないんだ……」
「どういう事です?」
「あの子は昔、山でそいつと会った事があるといっていた。両親の遺体を目の前にしながらも、何とか生きていられたのは、そいつの御陰だと言うんだ……」
「……事情は良くはわかりませんが、それと今回の事との関連は?」
「実は情報部の諜報課から、結花の散歩コースをなぞっていたら魔力が検出された、と言われたんだ。だから悪魔の仕業だろう、と言う事で捜査されてるんだが、依然として見付かっていない。それなら、唐突に現れては唐突に居なくなっていた、という結花の出会った『悪魔』であるんじゃないかと思う。奴が、美しく成長したあの子を攫いに来たんだと思って、恐ろしくなった。あの子が今、そいつに酷い事をされていると想像すると、恐ろしいんだ。だから、あの子を救ってくれ。頼む、お願いだ……」
 焦ったかのような早口で懇願する。憲三氏は、沈んだように、呆然としながら言った。それが悲壮な雰囲気を更に重い物にし、聖の耳に入った言葉がより辛い物になる。
 不思議と、そうか、という感覚しかなかった。結花の、聖の正体を知った時の落ち着き払った態度の理由を知り、納得する。だからあの子は驚く事をしなかったのだろう。
 だが、と思う。本当にそうならば、彼女を攫ったのは、その『悪魔』であると言うのもあながち否定は出来ない。ならば、相手は魔王クラスの可能性もあるのだ。居るだけでたち込める程の魔力を有し、それを散布できるほどの悪魔は少ない。用心してかかった方が良いのだろう。
 冷静に話を分析しながら、平行して最悪の事態を想定する。居なくなってから十時間以上の時を越えているのならば、急がねばなるまい。こちらも全力を挙げて彼女を救出しなければ。
 ただ聖はまだその話の信憑性を信じきれないで居る。それだけで断定できる事ではないので、何らかの事件・事故に巻き込まれたと考えるのが妥当だろう。だが、今までの人生で三度も魔族と関わりを持つとは、結花も相当に凄い人生を送っているな、と思った。
 そこまで考えて、聖は憲三氏を引き離した。次に真紀に顔を向ける。
「静琉さん!」
「は、はい!」
 近づいてきた真紀に、手に持った花束を預ける。その時始めて、少し花びらが散ってしまった事に気付いた。恐らく正門からここまで来るのに走った為だろう。それをみて悲しくなりながらも、
「静琉さんはレイさんに連絡とってください。攻撃部の方も手伝います。あと、科乃さんに連絡とって、俺の後を付けさせといて下さい。そうすれば結花ちゃんの居場所も分かると思います」
「えっ、あの、どういう――」
「すいません、急ぎます。とりあえずは任せて下さい」
 言うが早いか、聖は能力を起動した。魔力が一瞬だけ彼の体を包み込み、同時に中の細胞その物を刺激する。細胞内の核が固く護っている遺伝子が配列を変換され、聖の身体は粒子と化し、その時には質量を無くして消えていた。
 そのまま彼は、特務庁へと向った。まずは実戦装備を揃えねばならないのだから。



「ん、んうぅぅ……!」
 と言う呟きが漏れ、結花の意識が、ようやく現実に戻ってくる。目を開けるとそこは、薄暗い部屋であった。沈みかけているであろう西日が、小さな明かり取り用の窓から、可視光線を差し入れてくれる。その光に照らされた眩しさで起きる事が出来たのだ、と結花は気付いた。
「みゅうぅ〜……」
 ふあっ、と大きく欠伸をして、同時に両腕を上げる。重力に逆らって伸ばした身体の節々が、痛みを伝えてきた。
 無理な態勢で寝てたからかな、と思いつつ、涙が浮かんだ瞼を擦る。再び瞳を外界に露出して、少女は始めて疑問を抱いた。
「ここ、どこぉ……?」
 先程も言った通り、薄暗い部屋の中。荷物みたいな物が雑多においてあり、その中の一角に結花は寝かされていたようだ。布団などはなく、汚い布が床に敷いてあるだけ。その上に乗りながら、更なる疑問が少女を混乱させる。
「何で私、ここにいるの? あれ? 私は何してるのかな? どうしてお布団で寝てないの?」
 次々と出てくる疑問は、全てが的外れな物ばかり。それから結花は延々と疑問を並べ続け、根本的なそれに近づくのに十分近くを要した。
「あれ、お日様傾いてる……という事は学校は!?」
 まだまだ根本的な原因は遠かった。
 更に五分を費やして頑張って考えて、ようやく彼女は一番大きな疑問を口にする事が出来た。
「私、どうしたの?」
 これである。結花は一生懸命に記憶を辿り、そして思い出した。朝の散歩中に、唐突に湧き起こった嫌悪感と、そこに現れた黒甲冑の騎士。そして、意識が沈み逝く自分……。
 その時の感覚が蘇ってきて、少女は両腕で身体を抱いた。唐突な寒気に全身に鳥肌が立つ。
「んっ……!」
 きゅっ、と強く、自身を抱きしめる。寂しくて、また不安でもあった。
 あれは一体、何だったんだろう。今は何とも無いけれど、あの時、確かに身体の全てから異常が伝えられてきた。どう考えても有り得ないほどに、一瞬にして全身に行き渡った不快感。その原因となったのは、あの時に結花の目の前に現れた、黒の『闇』。それが周囲を漂い、同時に少女の体に異変が起こったのだ。
 そして何より気掛かりなのは、あの黒騎士。薄ボンヤリとして分かり難かったけれど、凄い威圧感を放っていた。兜の中の暗黒に見据えられた時が、最も頭痛が激しかったような気がする。
 ふるっ、と小さく、震えが起きる。それはこれからの事への不安か、恐怖か。それらが混じった物が少女の体を震わせたのだ。
「どうなっちゃうんだろう……」
 不安そうに呟き、もう一度、腕に力を込める。自身の身体を強く抱きしめた後に、ギィィッ、と錆付いた音が届いてきた。
「どうかしたのですか?」
 涼しい声が、聞こえてきた。高めでありながら、しかし男性特有の低さを兼ね備えた美しい声。それが扉の方から響いて、室内に男が一人、入ってきた。
(わぁっ……!)
 先ず始めに見えたのは、癖の無いサラサラの金髪。次に目を見張るほどに白い肌と、紺碧の瞳。高めの身長に端整な顔立ちの白人が、そこにはいた。
「こんにちは、お嬢さん」
 ニコリ、と柔和な笑顔で、男性が言う。結花が呆然としていると、後ろから十人以上の男達が入ってきた。
 その内の一人が結花に近づいてくる。彼の手にはお盆。お味噌汁とご飯と焼き魚が乗った、お盆だ。それを結花の前において、傷のある顔を奇妙に歪める。笑顔なんだな、と結花は直感した。
 その男は、どうぞと言う風に身を引いた。それを見た男性が少し前に進み出て、
「こんにちは。僕はエルディ・フォールと言います。エルと呼んでください」
 差し出されたのは大きな掌。完璧なイントネーションで紡がれる日本語は、エルの神秘的な声と合わせて、美しかった。
「あの、み、水葉 結花です」
 結花も慌てて自己紹介し、手を握る。意外と大きな掌だ。
「結花ちゃん、ですね」
 ニコリと、更に笑むエル。その後ろでは男達が、結花ちゃんかぁ、と繰り返して頷いていた。随分と和気藹々とした空気が流れているような気がする。
 その雰囲気に押されて、結花は早速、疑問を口にする。
「あの、ここは何処ですか?」
 私は何で此処に――?
 そう聞く結花に、少し困ったような表情を浮かべるエル。
「ここはとある港の倉庫です。結花ちゃんは、荷物置場に使わせてもらってるこの部屋に寝かせておかせてもらいました」
 言って、今度は申し訳無さそうな顔になる。
「実は、少し込み入った用事がありまして、急いでここに向っていたんですが、その時に結花ちゃんが倒れているのを発見したので、こちらで保護させてもらいました。ですので安心しても大丈夫です」
「そ、そうなんですか? ご迷惑をおかけしています」
「いえ、元はといえばこちらが悪いんですから」
 エルはそういって、頭を下げる。結花はそれに手を振って、良いんですよ、と言った。
「そう言ってもらえると助かります。もう少しでここの用事も終わりますから、その時は家まで送ります」
「あの、どうもすいません」
「大丈夫ですよ」
 エルはそれだけ言うと立ち上がった。
「ほら皆、持ち場につけ。この子の事はヨウ・ヒロ・コウに任せておけば良いだろう」
 その言葉に従い、男達は名残惜しそうに結花に手を振ったりしながら部屋を出ていった。残ったのは、ヨウ・ヒロ・コウと言うらしい三人組。その三人はニコニコしながら結花を見て、
「お腹空いてるでやんしょ? どうぞ遠慮なく食べてくだせぇ」
 と言った。結花はその好意に甘えてご飯を食べながら、三人と世間話などで盛り上がった。



 それから暫くして。
 結花はもう一度まどろんでいた。日は沈んでしまったので、パジャマだけじゃ少し肌寒い。でも、夕飯をご馳走になって体温が少し上がっているので、大丈夫だろう。
 そんな調子で床に直接敷かれた布の上でウトウトしていると、唐突に部屋の扉が開いた。
「ひゃっ……?」
 バタン、の後に錆が擦れる耳障りな音が響き、頭が冴える。何なのかと思って目を開くと、そこから明かりが照らされていた。
「止めて下さい、元禄さん!」
 そんな声が響く。ヒロの声だ。
 結花は立ち上がって、扉の方を見る。すると、そこに見知らぬ男が立っていた。ドア番として立っていたヒロが慌てながら、その男を止めようとしている様子である。
 何だろう、と思う。見事なまでに禿げ上がった額に、デップリ肥えた腹が、仕立ての良さそうな服の上から存在を誇示している。身長は余り大きくない。結花と比べても、少ししか違わないのかもしれない。
 そんな男が、こちらを凝視している。逆光なので顔は分からないが、下卑た笑みを浮かべたのが結花には分かった。
 えっ――?
 と思う。何がなんだから分からず、ただ怯えが全身を駆け巡っている内に、その男はヒロを振りきってこちらに近づいてきた。
「確か、水葉の孫娘だとか言ったな。あの爺さんがこんなベッピンを生んだとは……」
 元禄と言うらしい男が、ブツブツと呟く。その後ろを再びヒロが押さえた。
「止めて下さい、元禄さん! 一体、何をしようと言うんですか!?」
「五月蝿いわ! あの小生意気な爺さんが一番大事にしてる物を嬲るんじゃ!」
「そんなことして良い訳無いじゃないですか!」
「邪魔をするな! 細切れにされたいのか!」
 言い様、元禄はヒロを突き飛ばす。ガン、と硬質の音を響かせ、彼は木箱にぶつかって、力無くくず折れた。
 ズズッ、と床に伸びるヒロを凝視しながら、結花は恐怖に身を竦ませる。元禄が顔を寄せてきて、そこで始めて彼の顔が蔓延の喜びに満ちているのを認識した。
 卑らしく、そして汚らしい笑み。それを見て全身が竦んで、動けなくなる。硬直した身体が同時に脳を停止させ、全てが理解不能な現象に見えた。
「貴様の爺さんがいかんのだぞ。国会議員だか何だか知らんが、人の事を嗅ぎ回して来やがって。だからワシはその報復をするだけじゃ。どうせ、あの二人組も貴様の爺が呼んだんじゃろうて……」
 ブツブツ言いながら、脂ぎった太い指を結花に近づける。そのままパジャマを掴んで、一気に開いた。
 バリッ、と布の裂ける音。開いた胸元に、幼い双丘。そこにある白い肌が外の空気に晒される。その時になって、結花は自分の状況を宣告されたような気がした。
「いやぁ、嫌ぁぁぁぁ――――!」
 叫んで、元禄の腕を叩く。パジャマの前を押さえて、飛び退った。が、すぐに元禄は怒りの形相で駆け寄り、結花をむりやり押し倒した。
「こやつ、大人しくせんか!」
 力ずくで結花の口を塞ぎ、再び服に手を描ける。その時、また下卑た笑みを浮かべ、ふうふうと鼻息荒く指を結花の柔肌へと近づけていった。
(ヤダヤダヤダ、嫌ぁ! お母さんお父さん、私を助けて!)
 少女の目頭が濡れる。恐怖と嫌悪感に暴れるが、男の腕力には到底敵わない。自分のその後に絶望し、諦めの心が頭を擡げてくる。だが、それは到底受け入れる事など出来ない。体力の限界を超えてでも抗おうと身体を動かしながら、少女は願った。
(助けて助けて助けて! こんなの嫌、誰か助けて!)
 強い意志が心に浸透しながら、必死に男に抗う。助けを求めて、塞がれた唇を必死に動かすが、声は出てこない。それでも少女は抵抗した。一縷の望みを繋いで。
(助けて聖さん、助けて『悪魔さん』――)
 強く願う。絶望に心を侵食されながらも、少女は助けを求めた。それが、今できる事だと、ただ信じて。
 その時、結花は光を見た。閉じた瞼の裏側に、しかし流れるように美しい閃光。一本の白線が瞳に焼き付き、同時にあの感覚を思い出す。
(聖さん――)
 結花は瞼を開いた。薄闇の中に立つ、脚。霧阿波高校のスラックスに包まれた脚が目の前に出現し、そこに実在する。
 同時に、元禄の首根っこを掴む腕が現れた。力強く掴み、持ち上げる。途端に離れた元禄。自由になった身体を持ち上げ、嫌悪感に全身を震えさせながらも、結花は顔を上げた。
 そこに、渡 聖が居た。元禄の肥え太った体を片手で軽々と持ち上げ、冷めた目でそいつの顔を見詰めている。
「なんじゃ、お――」
 そういう元禄の言葉が途切れ、代わりに、ベキャッ、と生々しい音が響いた。聖の拳が元禄の顔面に減り込み、鼻骨を砕いている。赤黒い液体を飛び散らせながら元禄の身体が吹き飛び、床に寝そべった。全身をピクピク痙攣させながら、無様な姿で意識を失う巨体。
 聖は元禄の血が結花にも飛び散らない様に、腕で少女を庇ってくれると、結花の方へと顔を向けた。
「……大丈夫?」
 冷めた、酷く冷たい声。今まで聞いた事のあるどの声よりも寒く、恐ろしい響きの声が、聖の口から発せられる。
 しかし、結花はそれを恐いとは思わない。来てくれたんだ、と言う信頼感と、解放された事による安心感だけが、今の結花に必要な物なのだから。
 小さく頷いた結花を見詰め、聖は顔を寄せてきてくれる。そのまま、一回だけキュッと抱きしめて、彼はすぐに背後を向いた。
「安心して――」
 短く、言う。
「すぐに終わらせてくるから」
 そういうと聖は、扉へと向って歩き出した。
 結花はただその後ろ姿を見送る。聖に抱きしめられた身体が熱くて、何も反応できないから。



 錆びた鉄独特の、黒ずんで剥げた塗装が浮かぶ扉。それに向けて思いっきり脚を振り上げる。
 ガァンッ、と大音響で鉄扉が吹き飛び、その一瞬で倉庫内の空気が緊張した。
 明るく照らされた広い空間の中に、十数人の男達が居る。彼らの視線は全てが上を向いていた。
 上――つまり、聖へと。
 驚きに満ちた視線の中で、二階通路から男達を見る聖の瞳は、冷たい物であった。その、余りにも冷たい視線は、静かに滾らせたその怒りの大きさを語る。
 下に居る男達が戦闘の態勢に移った。上に居る聖にのみ視線を合わせ、彼の一挙手一投足を逃すまいと目を吊り上げる。同時、各自がエモノを取り易い様に、腰を低く構えた。いつでも動けるように。
 それは、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた者のみがとる事の出来る、条件反射だ。そこは百戦錬磨の弾原組最前線構成員、経験は有り余っているといって言い。正直に、流石と言うべきであろう。
 普段の聖ならば感嘆していたかもしれない事柄である。が、彼にそんな余裕はなかった。あるのは、怒りに掻き回される思考の中で厳然と存在している、その信念のみ。
 結花をあんな目に合わせた――ただそれだけの、感情。それだけの為に、彼は虐殺を行う。今までどんな時でも冷静に、そして確実に対処してきた男が始めてみせる、激昂であった。
 殺気を多分に含んだ視線。その源である男達を見て、ゆっくりと、手摺りを乗り越える。トン、と軽く足を踏み出し、五メートル近い高さを越え、剥き出しのコンクリートに着地。全身のバネをフル活用し、体に掛かる筈の負荷を殺す。その、常人では考える事すら出来ない芸当に、男達からざわめきが起こった。
 それを耳にしながら、ゆっくりと上半身を上げ、下半身を伸ばす。その動作だけで、その場の空気が圧迫感に満ちる。
 恐ろしいまでの、威圧感。一見した限りでは冷静のようではあるが、しかし煮え滾る感情を胸に、聖は男達に向けて一歩を踏み出した。
 途端に増すのは、圧力。息苦しいほどのプレッシャーが、聖の前方――つまり、男達へと襲い掛かる。
 スッ――
 もう一歩を、踏み出す。静かに、しかし確実に。
「ひぃっ……!」
 誰かの喉が引き攣った。圧倒的な実力差を感じ取り、その恐怖を抑える事の出来ない者の悲鳴。確実な死を読み取り、それを振り払おうとする為の現実逃避。
 怯えに顔を歪めた者達が聖を凝視している。限界まで開かれた瞼と、絶望の色を浮かべた瞳が、彼らの恐怖を如実に物語っていた。
 カチャッ
 と、金属音。見ると、一人の男が、こちらに銃を向けていた。だがその表情に余裕はない。それは、彼の防衛本能がさせてしまった、反射行動なのだから。
 聖はその男を正視する。そいつの体が、ビクリと震えた。
 大丈夫だな、と悟る。男の怯えが、手に取るように分かったからだ。
 定まらない照準、揺れる銃口、重ならない照星と照門――
 銃を向けられた時に一番重要な事は、その銃口を観察する事だ。冷静に、真剣に、そして確実に。それを失敗させる事は決して許されない。目測を誤ったら、その時点で回避は不能であり、ほとんどの可能性で死を迎える事になる。
 だから、聖が焦る事は、ない。銃を向けられる事には慣れている。同時に、相手から放たれた弾丸が脅威になる事はないであろう、と言う事も知っているのだ。
 だから彼は、歩みを止めない。冷静な表情でありながら、その身から放たれる膨大な量の殺気を抑えようともせずに。
 だからそいつ等は怯えていた。聖の姿に完全な恐怖を見て、ほとんど錯乱状態に陥った脳が、彼の姿だけを捉えているのだ。
 それは、絶望そのものなのだから。
 カチカチと、断続的に響く音。銃を構えたその男は、全身を震わせていた。それが銃に伝わり、小刻みに揺れているのだ。怖いのだろう。恐ろしいのだろう。見開かれた瞳に涙を浮かべ、首を小刻みに揺らしながら聖を凝視する、男。
(こいつらが――)
 聖は、思う。本物の殺気が、彼の胸中で、渦巻き続けているのだから。
(こいつらが……!)
 今の聖には、この場に居る全員を殺すだけの力がある。そのつもりで居る。戦意を喪失させ、深い絶望の中で人生の終焉を迎えさせ、結花に手を出した事を心底から後悔させる。
 そうでなければいけない。あの時の、脅えた結花の瞳を見た時、彼はそう直感していた。
(こいつらがこいつらがこいつらが!)
 結花の、あの恐怖に満ちた表情。それをさせてしまったコイツ等が、憎い。醜い屍をこの地に晒し、穢れた血液を思いっきりぶちまけさせ、それでも足りない。奴等を完全な『死』に陥れ、一瞬であり永遠でもある、最高級の絶望を見せたまま魂を狩る。あの子にあんな思いをさせた事に対して、最も重い責任を取ってもらわねば気が済まぬ――
 完全に沸騰した脳味噌。それを冷静な仮面で表に出さず、ただ黙々と前進する。それを受けて、男も何かがキレた様に見えた。
「ひぃぁぁぁぁぁぁ――――――!?」
 トリガーを押さえていた人差し指が引かれる。パァン、と銃口に光が灯り、超音速の弾丸が聖に向けて発射される。――が、その軌道には既に、彼は居ない。予測される命中箇所は、腕。それを避ける為の最低限の動きで、7.62mmP・トカレフ弾を躱し、同時に下半身に力を入れた。脚の筋力に全力を注いで、地面を蹴る。信じられない速さで男に肉薄し、右腕を伸ばした。
 まるで一本の槍のように真っ直ぐな、腕。それを背に下げると同時、肘を曲げる。勢いをつけて肩を回転させ、腕を突き出す。それだけで、貫手の一撃だけで、この男の生命は終焉を迎える
 そのはずだった。
 が、実際はそうはならない。聖は瞬時に背後に飛び退り、自分が何故そうしたのかを悟る。
 強烈なまでの、プレッシャー。彼の戦闘に対する経験がそれを捉えていたのだ。
 聖がその場を離れた瞬間に、一陣の疾風が駆けた。突如として出現した、厳然たる存在。それが漆黒の突撃槍の一撃として聖であった場所を貫く。
 その直後に、走音。馬の蹄がコンクリートを叩く硬質の音が聞こえ、聖の存在した空間を、漆黒が通り過ぎた。が、聖は驚かない。驚くほどの余裕は未だ存在しない。
 カッ、と再び、硬質な音が響いた。その発生源を見る前に、風が聖の頬を冷やし、髪をなびかせる。大気の流動が今になって吹き付けてきた。しかも、先程の勢いとは裏腹に、実に小さな風である。
 が、それも聖の頭に上った血を下げてはくれなかった。彼はつと、漆黒を見る。光を吸収してしまったかのように、そこだけが黒く、また暗い。ヒヒン、と馬の嘶きを制し、その上で冷酷な視線を投げてくる、異容の騎士。漆黒の甲冑と兜には黄金が縦横無尽に走っている。彼の持つ盾と槍もまた同様。そして、そいつの乗っている馬は、全身が黒。主人と同様の、漆黒に覆われているのだ。防具の中に埋もれた顔の中で、しかし瞳だけは光りを跳ね返して、赤く輝いていた。
 その風体はとても、音速を超えて駆けてきた者とは思えない、全く息切れ無く、堂々とした物だった。これもまた、普段なら感服する所である。だが、聖はただ相手の顔を睨むだけ。
 何故、人の搭乗した馬が音速を突破したのか。それは、あの馬が魔界の馬であると言うだけではない。その馬が強力な魔力を秘めているからである。
 そいつは走行中、四方に対して魔力を拡散させたのだ。そうする事で、大気の干渉を消去する。だから音速の壁を突破した時のスーパー・ソニックも、微風程度に軽減される。攻撃能力は皆無に等しいが、これだけの機動力は並みではない。恐らく、先のアムドゥスキアスと同等の、それ程の力を秘めた魔馬。
 ならば、それを回避した聖はどうか。完全に頭に血を上らせて、周囲に対して全く気を配っていなかったにも関らず、彼は不意を突く第一撃を見事に躱してみせた。もちろん、冷静でない頭では、それを意識してやる事は不可能である。
 ならば、何故――?
 それは簡単である。聖が敵の攻撃を避ける事が出来たのは、偶然ではない。頭に上った血が思考力を低下させていたとしても、彼の脳には、決して熱さず、また冷め過ぎる事の無い部分がある。
 戦士としての、勘。今まで数々の戦いを経験し、なおかつその全てを生き延びてきた者が有する、戦場の空気を読む力。優秀な戦士であればある程、それはただの心理的な要因では無くなる。第六感は、他の五感全てと同様に信じる事が出来る、『必然』となっていくのである。
 だから聖が迷う事はない。彼は、自身の脳が発した警告に素直に従い、それは正解したのだから。
 隣でガチャンと音がした。一瞬だけ、そちらに視線を移動する。先の男が銃を取り落とし、崩れるように尻を床につけていた。その股間から液体が水溜まりを作り、スラックスの染みは大きく広がっている。
 その、無様な失禁シーンを見て、すぐに焦点から外す。今はそんな事に構うつもりもないし、構っている暇も無い。目の前に厳然として存在する新たな『脅威』に全神経を集中させねばならないのだ。
 漆黒を、見据える。全身を暗黒の鎧で固めた騎士もまた、聖を見据えてくる。睨み合いの最中、室内の緊張は、ギリギリまで高まっていた。騎士が現れた事で先の男達の恐怖も幾分和らいでいる。が、だから安心していいと言う訳でもない。それは彼らも重々承知しているだろう。何より、聖の重圧を肌で感じてしまったのだから、彼らはその恐怖を忘れられはしない。
 だからこその、沈黙。重苦しい空気の中で、異常に大きな割合を占めているのは、期待と不安である。それが緊張となって、広い倉庫内を圧迫していた。
 その緊張は、聖もまた同じ。目前に現れた敵は、油断できる相手ではない。暗黒の――即ち魔界の騎士は、時として魔王をも越えるほどの実力を持つ。それを理解しているからこそ、頭に上った血を下げようとしているのだ。
 魔界騎士は依然として、聖を睨んでいる。暗黒のナイト、エリゴールが、聖と対峙していた。
 エリゴール――それが、黒騎士の正体。全身を黒の鎧で護り、漆黒の愛馬を駆る者。魔界の騎士の中でもトップクラスの実力を秘めた悪魔。彼の魔力は『気』となって周囲を漂い、天界の者達を苦しめる能力を持つ。
 恐らく、結花を攫ったのはこいつだろう。現場に残っていた魔力とは、エリゴールが支配する『特殊空間』の名残と言う所か。
 小さく金属の擦れ合う音が響いた。エリゴールが、その愛馬から降りたのだ。
 彼の足が接地する。再び、カチャリ、と音がした。彼が降りたのはつまり、戦闘方法の変更を意味する。馬の機動力を活かした一撃離脱では聖は倒せないと、そう直感したのだろう。白兵戦による体力の削り合いを選んだのは、躱された時に隙の多い馬上よりも、全神経を敵に集中させられる斬り合い・殴り合いの方が都合が良いと踏んだのだ。
 戦い慣れている、と思った。より戦い易い条件を揃えるのは、当り前のようでいて実は意外と難しい。大体の者は判断を見誤り、自滅していくだけ。アムドゥスキアスの様な傲慢さが、戦術に綻びを生むと言う事は、歴史が証明している。
 だからこそ、聖も慎重に相手の出方を伺う事にしたのだ。過去にエリゴールとの対戦記憶は無い。どのような戦法で、どれほどの実力が在るのかは、不明。
「我が名は――」
 声が、宣言する。地の底から湧き起こるかのように低く、しかし決して聞き苦しくはない。異容の騎士から発せられたそれは、しかし神秘性すら感じるほどの、魔の美しさを含んだ声だった。
「我が名は、魔界騎士エリゴール。汝の名を尋ねよう」
 聖はエリゴールを凝視する。兜の中の暗黒は、彼の答えを待っていた。
「バルバトス」
 静かに、言う。これは真剣な一騎打ち。煮え滾るような激昂を無理矢理にでも抑え付け、彼は自身の『名前』を口に出す。
「爵位第一位、魔界公爵バルバトス」
 聖が名乗った時に、エリゴールの雰囲気が変わった。それは喜びであり、歓び。相手として何の不足も無い、と言う事か。魔族の位階第一位を目の前にして、怯みや狼狽は全く無い。漆黒の兜の中で、奴は確かに笑みを浮かべていたのであり、それは『バルバトス』と言う大魔王を相手にし、尚且つそれを倒すチャンスを得たからに他ならない。
 尊敬に値するほどの自信だった。過信ではなく、自信。自分が負ける事を考えず、それによって何時如何なる時・相手でも全力で立ち向かい、破壊する。その為の重要な条件を、エリゴールは持っていた。
 だが、それは、聖とても同じ。特に今回は負けられない。これはつまり、結花を救う為の戦いなのだから。
 二人の間に、戦いの緊張が走る。結花の事を思い浮かべて、また少し頭に血が上った。だが、冷静さは失ってはいない。むしろその興奮が身体を軽くしたかのようにも感じる。
 自己満足でも良い。聖は今、確かに使命感と言う言葉を実感していた。
 カシャン、と三度、金属音が空気を震わせた。見ると、エリゴールがこちらに向けて攻撃の姿勢をとっている。盾を前に出し、槍を持つ右手は後方へ。膝を曲げ、突撃の体勢を取る。が、その姿勢は一瞬。瞬時に、曲げられていた膝が、伸ばされる。同時、足が地を蹴った。思い切りの良い踏み込みで、信じられないくらいの速度で迫ってくる。金属がそのまま固まったような装備は、エリゴールには関係ないのかもしれない。まるで布を纏っているかのような身軽さで、一気に距離を詰めて、聖に攻撃を仕掛けてきた。
 先手を取られた事に軽く舌打ちしつつも、左手を腰に回す。指先に当たる固い感触を探り当て、柄を握った。人差し指で固定を解いて、鞘から引き抜く。掌中にあるのは刃渡り二十cm程度のコンバット・ナイフ。抜き身の鉄刃が蛍光灯の明かりで白く輝き、エリゴールの漆黒と正反対の光を見せた。
 だが、右利きの聖が何故、ナイフを左手に持ったのか。答えは簡単、逆手に握ったそれは、あくまで防御用。
 攻撃の基点は、右。
 詰められた間合い。突き出される槍をナイフの刃で滑らせ、躱す。キィン、と甲高い音が空気を震わせ、腕の筋肉が、ミシミシと悲鳴を上げた。押さえる左手の血管が、破れそうになるほど膨張し、骨が軋む。余りの威力に腕が後方に飛ばされそうになった。
 それでも、躱す。
 横を抜ける槍先が起こす風圧が、髪やシャツを波立たせる。ワイシャツの袖がパックリと裂け、聖の腕が露になる。が、本人は無傷。
 そのまま、エリゴールを後方へと弾く。自身は身体を回転させる様にして、相手の背後へ。同時、右手を上げる。その時にナイフの鞘に並べられる様にしてベルトに固定してあったホルスターに念を集中。魔力を付加し、中の自動拳銃を擬態化。光粒子とした瞬間には掌へと移動させ、エリゴールに照準を合わせる。それに合わせて擬態化を解除し、ヘッケラー&コックUSPを掌中へと出現させ、発砲。瞬間移動と呼ぶに相応しいほどの速さで抜いて、撃つ。一秒足らずの早撃ちは、誰にも見えない速度で進行した。
 がら空きの背中に、スミス&ウェッソン弾が吸い込まれる。超音速の弾丸はしかし、チュイン、と音を立てて弾かれていた。
 着弾時の閃光は確認できた。エリゴールの漆黒の鎧に煌いた火花は、確かにそこに弾丸が当たった事を示しているし、それを見逃すほど聖は愚かではない。
 つまり、エリゴールに拳銃は効かないと言う事。拳銃弾では破れぬほどの強固な装甲。もしかしたら、徹甲弾や炸薬弾でも破れないのではないか。
 エリゴールがあそこまで素直に突撃してきた理由が、理解できた。百戦錬磨の魔界騎士が、聖でも読めるスピードで攻撃を仕掛けてくるのは、リスクが大きすぎる。特に、エリゴールは聖の階級を知り、その実力をある程度予想できていた筈だ。なのにあそこまで猪突猛進な攻勢に出る裏には、絶対的な自信が存在したのだろう。
 装甲の強固さ、である。並みの攻撃では通用しない、絶対的な防御力。銃弾を跳ね返すほどの堅牢さを持っていると言う事は、普通に戦った場合では誰も歯が立たないと言う事と同義。どんな熟練工の造った刃ですら、彼の装甲は弾き返す事であろう。
 そこまで考えて、普通なら戦慄する筈であった。が、完全に下がりきっていない血液が、聖の頭に余裕を与えてはいない。正直、だからどうした、と思う。
 もう一度、撃つ。今度は相手の顔面に向けて。恐ろしいほどのバランス感覚で、流れる体を無視して、照星と照門を固定。腕のブレを最小限に押さえ、その時には頭の中で敵の動きを予想している。それに従って射線を修正し、発砲。火薬の炸裂音と同時、再び金属音。S&W弾は完全に防がれていた。
 つ、と目を細める。一瞬の思案。それはほとんど反射的な行動であったが、その為に反応が遅れた事も事実だ。
 ギャイン、と今度は今までとは異なる金属音が響いた。余りにも特異な破壊音を聞き取り、聖の右腕にも衝撃が伝わる。くそっ、と心の中で舌打ち。
 目の前に在るのは、エリゴールの闇色。分かっているのは、そいつの攻撃を避けた、と言う事。同時、犠牲もあると言う事も、理解している。
 先の破壊音は、エリゴールの槍がUSPを砕く時に発生したもの。聖も右掌中のエモノが異常に軽くなったのを感じていた。
 この野郎、と思った時に、第二撃が来る。横に振るわれた槍が聖の顔面を急襲。体を倒し、何とか凌ぐ。が、体は浮いていた。その隙を逃すまいと襲い掛かる盾の打撃に、今度は擬態へと変化して回避。距離をとった所に出現し、間合いを開ける。
 これで迂闊に攻撃をしてくる事もないであろう、と思う。だから、右手の中の残骸を、見た。
 スライドが完全に消えた、なれの果て。くそっ、と毒づく。幸運なのは、薬室に入っていた弾丸が、暴発しなかった事だ。
 黒色のグリップを放り捨て、左手をエリゴールの方へと向ける。カラン、と硬質な音が響く。グリップが床の上に転がったのだ。
 それを受けて、今度は聖が突撃した。先手を取られてばかりもいられない。
 床を抉らんばかりの気合で駆け出し、瞬時に相手の目の前へ。リーチの長い槍を掻い潜り、ナイフを振る。エリゴールが槍の柄でそれを弾くが――フェイク!
 右腕を、振る。二本指を立て、そこに神経を集中。光粒子を集めてレーザーを形成。摂氏数千度の超高熱を刃状にし、突き立てる。
 確実に殺れると、思った。だが、それも不可。前面に出されたエリゴールの盾にレーザーを突き立てると、強烈なまでの火花が散る。一瞬だけ目の前が白色で満たされるが、構わずに腕を前に突き出して、違和感に気付く。
 指先に当たる、硬質な感触。それが何かを瞬時に理解し、同時に飛び退る。目の前を掠めるのは、槍の先端部だ。前髪が二本ほど持ってかれたが、何とか大丈夫。
 ザッ、と足の裏を床に接地。まだ視界に残る白色は、さっきの火花の影響である。それを無視して、エリゴールの方を見る。が、敵は無傷。鎧はおろか、直接、数千度の刃を突き立てられた漆黒の盾にすら、外傷はない様に見える。
 掠り傷一つ、とはこの事を言うのだろう。そう思い、聖は歯噛みした。あの盾、魔力耐性が半端ではない。聖のレーザーが通じないとすれば、宮都の炎もあれを破る事はできないだろう。
 だとしたら、特務庁ではあの絶対防御を破れる者はいない事になる。いや、特務だけではない。全悪魔・天使を合わせても、あれほどの対魔力性を持つ者は無いのではないか。
 冷静な分析である。ようやく、普段の思考力が戻ってきた事を感じて、だったら、と思う。盾の魔力は凄いが、だからと言って鎧その物がそれと同様の対魔力性を有しているとは考え難い。鎧も同等の防御力を持っているのならば、わざわざ盾を装備する必要性が無いからだ。
 本体にはレーザーが通用するのではないか、と考える事ができる。だったら、あの盾をどうにかしなければいけない。
 思考の一部を独立させながら、しかし聖はエリゴールの監視を忘れない。それを分かっているのだろう、敵もむやみに攻撃を仕掛けようとはしなかった。再び室内に緊張感が満ちて、空気が重くなる。
 そんな中――
 聖は、一つの気配を察した。冷たく冴えた頭が、光粒子を全方向へと飛ばしていたのだ。それによって相手の奇襲を防ごうと思っていたからこそ、彼は光が捉えた影を捕捉していた。
 パァン、と銃声。聖は首を逸らす一動作だけで、その弾丸を避ける。
「エル!」
 同時、濁った声が空気を震わせた。極度の緊張感を一気に萎えさせる、空気を読む事のできない成り金上がりの、豚声。鼻骨が拉げた為か、その声は上擦っていて、ヒューヒューと荒い鼻息が混じっていた。
 佐藤 元禄の濁声だ。しつこい男だ、と思う。しっかりと殺しておけば良かった、とも後悔した。この空間にいる全員が注視する人物に向けて、聖もゆっくりと目を向けた。
 丁度、真後ろ。聖が飛び降りた所に、元禄の気配がある。倉庫から出てすぐの所だ。
「こっちには人質がいる! そいつを殺してしまえ!」
 元禄の声。人質と言う言葉に引っ掛かりを覚えつつ、聖は振り返った。そして、元禄の肥え太った体躯を見た時に、再び冷静さが消え去った。
 コノ――
 聖がキレたのは、別にこちらを凝視し驚愕に瞳を見開く元禄を見たからではない。問題は、そいつの右腕に抱えられた小柄な人影。
 目を閉じ、ぐったりとした結花の姿だった。
「おま――」
 元禄が、震えたような声を出す。同時に、聖は元禄の隣に移動していた。
 脂ぎった身体、汗臭い匂い、はぁはぁと五月蝿い鼻息。
 全てが、目障り。そんな奴が聖の大切な少女に触れている事が、何よりも、許せない。
 コノ――
 聖が掴んだのは、元禄の喉。右腕で喉を掴み、結花を持った元禄の左腕を、ナイフで裂く。
 二の腕をパックリと割られ、元禄の口が開いた。が、掴まれた喉が振動する事はない。カハァッ、と短く吐き出された息と、パクパクと開閉する口。
 そのまま、即座に元禄の身体を放る。結花を抱き、返り血が飛ばない様に自身を使って全力で庇い、同時に生死を確かめる。規則的な呼吸音が聖の耳朶を震わせ、少女がただ気を失っているだけだと言う事を確認した。
 結花をそっと寝かせ、起き上がる。振り返れば、ジタバタと床の上を暴れまわる元禄の姿。左腕をダランとさせ、そこを覆う右腕は血に塗れていた。無様な醜態を晒しながら、しかし叫び声を上げる事はできない。潰れた喉は、もう震える事はないであろう。
 コノ――野郎!
 ゆっくりとそこに近づき、拳を握る。頭部に合わせた照準。忌々しい、醜悪な顔面を脂汗と涙と鼻水と涎、その他あらゆる体液で汚した、グロテスクな元禄の顔。その中にある、恐怖に怯え、必死にすがろうとする瞳を、異様に冷たい視線で跳ね除ける。そのまま、拳を振り下ろそうとして――
 頭を下げ、弾丸を避ける。チュイン、と壁に鉛が弾け、火花が散った。聖は下を見る。そこには、拳銃を持ったエリゴールの姿があった。
 ゴッ、と無造作に、元禄の腹に足の裏を減り込ませる。ぐえっ、と逆流した胃液を吐き出した元禄は、そのまま白目を剥いて気を失った。
 何のつもりだ、と目で問い掛ける。それに対し、エリゴールは銃を捨てて応じた。
 この時、二人は互いを『障害』と認め合ったのだ。相手は自分がこれから成そうとする目的の邪魔になるであろう、『障害』。
 直感が、告げる。今、ここでこいつを殺さねばならぬ、と。だからエリゴールは身構えたのだし、聖は全身から吹き出す殺気を抑えようともしない。
 完全に、キレていた。あの渡 聖が、あの『バルバトス』が、たった一人の少女の為に二度も激昂を顕わにする。それは、彼を知っている人物が見たら、自身の目を疑うであろう光景だった。
 それ程までに、水葉 結花と言う少女は特別なのだ。
 特別に、なってしまったのだ。
 だから、その特別な少女に手を出した者達が、許せない。
 佐藤 元禄だけではない。その下衆を庇うエリゴールを始め、この倉庫内にいる全員を許す事ができない、聖はそう判断し、その者達の処分を決める。
 無論、八つ裂き
 自身の決定に従って、擬態化。瞬時にエリゴールの目の前に出現する。反射的に前面に押し出されたのであろう盾が、聖の視界を塞ぐ。聖とエリゴールとの間に挟まれたそれを、右腕を上に弾いて視界から消す。振り上げられたエリゴールの左腕。瞬時にかかった負荷が、信じられない程の力でそいつの腕を上方向に飛ばし、盾は手元を離れる。恐ろしいほどの筋力が、エリゴールのそれを上回っていた。アムドゥスキアスの突撃にすら耐えた怪力が、漆黒の騎士すらも圧倒する。
 エリゴールの兜に焦点を合わせる。その暗黒の中で、確かに視線が交錯したのを感じた。エリゴールは、その瞳の冷たさに気圧されたかのように一歩を下がる。下がってしまう。今、聖のプレッシャーは百戦錬磨のナイトすらも怖じ気づく強烈な物であった。それはつまり、現状の聖はどんな敵と戦ったとしても、その恐怖を味あわせる事ができると言う事だ。
 左腕を振り、レーザー展開。ナイフの刃渡りから、更に三十cm近く伸びた刃がエリゴールに襲い掛かる。
 完全に捉えた、と言う確信を持って、逆手の刃を振り下ろす。
 確かに、聖の攻撃は回避不能な物であった。現状で、予測可能な範囲での退避路は存在しないと思われた。
 だが。
 左掌中の、ナイフ。そこから迸る不可視の刃が一・ニ秒後にはエリゴールに達するであろうと思われたその時に聖が感じ取ったのは、プレッシャー。
 左側から恐ろしいほどの圧力が来る感触を受ける。その発生源は、彼の脳髄。そこから来る直感が、自身への危険を感じ、警告を全身へと行き渡らせる。
 灼熱化していた思考を一瞬だけクール・ダウン。狭まっていた視界を、瞬時に広げる。刹那の瞬きの中、聖は円運動を描いて横に振るわれたエリゴールの肩を捕捉していた。
 それを見て、考える余裕はない。視覚として捉えられた情報は、反射的に筋肉を動かしていた。
 脊髄反射で身体を稼動させる。それに従って左腕に急制動がかかった。同時、上方向への急転換。跳ねるように飛び上がった腕が、突撃槍の軌道に割り込む。それまでの一瞬の内に聖が考えられた事は、ナイフでの防御は不可能、と言う事だった。
 槍の漆黒が聖の腕と接触した。その瞬間に、接触部位に恐ろしいほどの圧力がかかる。聖のそれがミシミシと悲鳴を上げる。その一刹那後には、ベキャリと腕が撓んだ。折れた骨が、更なる圧力で外側に押し出され、それを包む肌を引き裂く。
 カラァン、と乾いた音を立て、左手からナイフが滑り落ち、床に接触した。
 同時、接触部の反対側には、薄い皮膚を突き破り、ポッキリと折れた骨が切断面を覗かせていた。外界に晒された真に白いそれが確認できると、次に吹き出すのは、空気に触れた鮮血。鮮やかなまでの真紅が、蛍光灯の無機質な白色光に輝き、聖の方へと飛び散った。
 瞬時に痛覚神経を伝わった激痛が、聖の眉を顰めさせる。だが、激昂に支配された彼の頭がそれを受け入れるだけのスペースは、無い。寧ろ、自身の鮮血の鮮やかさと暖かみを感じ、更なる怒りが込み上げてきた。
(結花――)
 浮かんだのは、少女の笑顔。同時に、それを下卑た笑みで踏みにじろうとする、無数の男の姿も浮かぶ。佐藤元禄を始め、この倉庫内にいる男達の厭らしい笑い声が想像される。その中には、自身の悦びの為だけに結花を辱めようとする目前の騎士の姿さえも想像していた。
(結花を――)
 ふと、思考が冴える。それは歪んだ冷たさ。
(結花を苦しませるのなら――)
 この時、彼の心に痛みを受け入れる余裕はなかった。当然、皮膚から突き出た撓骨も、気にしない。破れた皮膚から次々と流れ出る血液にさえも、気付かない。こんな時に動かない左腕が邪魔に思える。
 だから彼は、意識の中で、左腕を斬り捨てた。初めから攻撃・防御に使えないとしたら、今は必要ないものなのだから。
(結花を苦しませるような者がいるのなら――)
 酷く冷めた気分であった。恐ろしいほどの圧力が、防御の要となった左腕を襲い、一m近い距離をずれる。完全に使い物になら無くなった腕がダランと垂れ下がるが、彼はそんな事を気にしない。気にする事ができない。
 体中に響く衝撃が、全身を痺れさせた。だが、それでも聖は倒れない。殺気を失う事も無い。より細く、より鋭利な殺意を立ち上らせ、聖は敵を睨んだ。
(俺はそいつを許さない!)
 願望を決意に変える。胸に固く誓って、聖は脚部の筋肉に神経を集中し、即座に一歩を踏み出す。繰り出した蹴りが地を駆け、誰も追いつけないような瞬発力でエリゴールの懐へと飛び込んだ。辛うじて視線だけを聖の方へと向けたそいつは、しかし抵抗できはしないであろう。
 拳を、握る。固く、そしてしっかりと。食い込んだ爪が薄皮を破いても、何も感じない。限界まで右腕を下げ、一瞬のタメを置いて肩を回転させた。固定した足の裏がしっかりと地を踏み締め、身体の各部を使った最高の拳打をエリゴールのどてっ腹へと打ち込んだ。その強靭な鎧がゴキャッ、と生々しい音を響かせる。聖の拳を中心に無数の罅が漆黒を裂き、その奥にある肉体に衝撃が達した。恐ろしいほどの圧力が加わり、エリゴールの体が吹き飛ぶ。兜の中から血液が吐き出されて暗黒を汚した。右手の槍を放り、重い鎧を着たまま、その体躯が数メートルの距離を飛ばされて倉庫の壁に激突した。
 倉庫全体が振動する。蛍光灯の瞬きが一瞬だけ消え、耐えられなかった数本が十メートル近い高さを落下し、粉砕された。それ程のパワーが、聖の拳一つに宿っていたのだ。
 その攻撃を繰り出した聖とて、無事ではない。砕けた拳からは血が滲み、全身に急激な負荷を掛ける踏み込みと打撃に、ボロボロの左腕に走る激痛は、並みの物ではない。
 しかし、そんな物は気にもならなかった。いや、気付きもしなかった。怒りと憎悪に支配された聖の頭は、痛覚を完全に遮断している。痛みによる行動の制限など、今の彼には関係ない事だった。
(俺は結花を護る……!)
 冷たい思考が、その思いを起こす。一方でエリゴールは、異常なまでのダメージに一歩も動けないのであろう、沈黙していた。
 いや、意識はあるのだ。流石に頑強だが、ギリギリで保った意識はボロボロの筈だ。カハッ、と吐血し、黒に赤が散った。が、それを拭取る体力も無い。
 聖は止めを刺すべく、エリゴールの元へと近づいていく。右人差し指と中指を立て、レーザー刃を展開。
(絶対に!)
 振り上げた右腕。その先にあるのは、全てを溶かし斬る灼熱の刃。後は一刀の元に、この男を斬り裂けば良い。そうすればここにいる全員は、聖に対抗できる術を失うのだ。
 だから、こいつを殺す。
 エリゴールが、伏せていた顔を上げた。暗黒の兜の中でその瞳が聖のそれと交錯する。が、聖は冷やかに跳ね返すだけ。
「それもまた良しと、するか……」
 疲れ果てたような、力無い声が聞こえる。ふん、と侮蔑の嘲笑を唇の端に残し、しかし瞳に鈍い光を湛えて、聖は右腕を振り下ろした。
 それは見せしめだ。
(だから……結花を苦しめた奴は――)
「――死んでくれ」
 その言葉を放った。彼女に手を出した愚民を粛正する為に――

 が、
「駄目ぇ!」
 悲痛な叫びが聖の鼓膜を震わせた。その声を聞き、ハッ、と我に帰る。慌てて腕の振りを止め、今度もまた大慌てで振り返ると、そこには鉄柵から上半身を乗り出した結花がいた。
「結花ちゃん……」
 気が付いたんだ――
 この時の聖の心の安心ぶりと来たらもう、今までの悪魔人生の中で最も安心した瞬間であっただろう。
 胸を撫で下ろし、全身を覆っていた緊張を解いた。
「駄目です、聖さん! その人達は何も悪いことしてなくて、元はといえば私が悪くて、その、だから、聖さんはその人達と戦う事無いから、あの、その、えっと、あの―――――」
 一生懸命に何かを話そうとしている結花を見て、良かった、と先の嘲笑とは正反対の優しい微笑を漏らした。いつもの結花ちゃんだ、と言う安心が、その表情に込められている。
 そんな、どこか抜けた一生懸命さを発する結花の視線が、何かに気付いたかのようにある一点に止まる。サー、と血の気が引いて青くなった結花の顔を見て、何事か、と思う。
 その視線を追い、自分も顔をそこに向けた。するとそこには、左腕の惨状があった。
 血に塗れて真っ赤に染まった、腕。破けた皮膚から垂れ流れる赤い筋に、贅肉の中核を成す黄色い脂肪層が、赤の中に薄く見えた。さらにそれを突き破った張本人がくっきりと外に突き出している。真っ白な骨が深紅に塗れて、よりグロテスクな様相を呈していた。
 ポタポタと血が流れる。切り裂かれた袖は、その傷口を全く隠さずに、外の空気に身を晒していた。
「はひゅぅ〜……」
 小さく漏れた声に、聖は再び顔を上げた。すると、ふらふらと揺れる結花の姿が見える。真っ青な顔で目を回した結花が、ぐらりと後ろ向きに倒れた。
 一瞬のタメ。その後に、ゆっくりと重力に引かれる結花の体。
 ドサリ、と音がする。結花は再び失神してしまったのだ。
「……結花ちゃん!?」
 聖は大慌てで結花の元へと走る。自分の能力をも忘れて階段を駆け上がろうとするその姿は、何とも滑稽な物があった。



 ビキリッ――
 と言う生々しい音の後に、
「くぁ……っ!」
 と、呻きが漏れた。左腕に空いた穴から、依然として流れ出る血液が、パタパタと床に跳ねる。滴る雫は手の甲までをも真紅に染めていた。聖は、ダランとした腕を、そっ、と置いた。
 その小さな衝撃にも、ビックリする程の痛みが走る。指先を少しずらすだけでも、同様。その激痛は、ポッカリ空いた傷口のせいだけではない。夥しい量の血液を失って、青白くなった腕の中で、最も痛い所は、折れた骨。先の呻きも、骨折した撓骨を正常な位置に直した時の物だ。
 無理矢理に伸ばして、元の位置に戻す。その時に腕部から酷い激痛が走った。痛覚神経から電気信号が脳髄へと駆け、それが全身に苦痛として行き渡る。その源である、異常なまでに熱を帯びた骨折部位が、正直に辛い。
 だが、骨は、戻した。
 後は傷口の固定だ。止血の為に上腕部にきつく巻いてあったワイシャツの袖を、解く。余り効果はなかったと思っていたが、外してみると結構、血が流れて来る。
 乾いて濃く変色していた紅の道を覆い隠すように、再び紅が腕を伝う。それを止める為に、深紅に染まった皮膚の上に、布を押し当てた。瞬時に赤が染み込んで、数少ない白い部分をも染めていく。その光景を眺めながら、気にもせずに腕に巻いていった。どうせ血塗れだったのだ。
 二重三重に巻いて流血を防ごうとするが、少しきつくするだけでも激痛が脳髄にスパークした。折れた腕が敏感に反応して、苦痛が脈打っているかのようにさえ感じる。更に、脈打つ度に伸縮を繰り返す血管が、破れた皮膚を刺激してきた。それらによって連続する激痛だが、何とか呻き声を抑える。
 本当は絶叫を発したいほどの痛みだ。だが、そんな事をしたら休息の邪魔をするだけだ。聖は彼女を、ゆっくりと休ませてあげたかったのだ。
 彼は激痛を無視して、視線を移した。彼の横には可愛い寝顔がある。それを見るだけで彼の表情は緩み、綻んだ口元が微笑を浮かべた。それだけで、凝縮されていた激痛すらも薄れていく様な、不思議な錯覚を覚える。
 スウスウ、と気持ち良さそうな寝息が室内の空気を小さく震わせていた。その、耳に心地良い分子振動が、薄暗く狭苦しい物置の中ですら、暖かな空気を供給してくれているかのようだ。
 顔色も戻って、健康体そのものとなった結花の寝顔が、愛くるしい。明かり取りの窓はその役目をしっかりと果たして、月光を室内に運んでいた。
 その、蒼く澄んだ光が結花の体を淡く照らし、神秘的とも言える光景を具現させている。ペッタンコな胸元だが、こうしてみると少しだけ盛り上がった乳房が見える。確かに小さいが、何とも触り心地が良さそうだ。
 そう思えたのは、パジャマの胸元がはだけているからである。透き通るような白い肌が蒼光に照らされ、輝いていた。少し上気したような、うっすらと赤身を帯びた胸が上下するのは、彼女が無事であると言う事の証。
 優しい微笑を浮かべ、聖は左腕を床に置く。今はとりあえず、これくらいの応急処置しかできないであろうと、思えたからだ。
 さて、と思う。とりあえず、これで弾原組は押さえる事ができただろう。
 エリゴールを始めとする彼らは、弾原組の最前線構成員だ。決して低くはない地位にいるのは、エリゴールが指揮する部署だからだろう。
 佐藤 元禄も一応それなりの手当は済ませておいた。止血は充分だし、意識もしっかりある。ゴキブリ並みの生命力を持ってるらしいので心配は要らないだろう。
 その元禄と一緒に倉庫に待機させているのは、ここの部署員全員だ。驚く事に、彼らは聖が結花の看病をしている最中、誰一人逃げ出そうとしなかった。その理由はエリゴールの容態である。聖が本気で繰り出した拳打をまともに受けた彼は、未だに立つ事すらままならないらしく、ずっと壁に寄りかかったままだ。聖が弾原組の事実上の壊滅を教えた時も、その姿勢でじっ、と話を聞いていた。その後で、短く言う。
「そうか」、と――
 呆気ないものだな、と言うニュアンスが含まれていたであろう言葉を思い出し、今度は苦笑を浮かべる。元々、彼は弾原組に入れ込んでいたと言う訳でもなかったらしく、随分と素っ気無い態度だった。
 鎧に入った亀裂と、その発生源を手で押さえながらも、彼は決して聖を責めようとはしない。例え勘違いの攻撃であろうと、自身の敗北を理解しているのだ。
 その時のエリゴールを見て、聖は素直に敬服の念を抱いていた。それは、一筋縄ではいかない、彼の絶対の信念を見たからである。
 そんな事をボーッ、と考えていると、そっ、と肌が重なる感触が生まれた。
 左手の、甲。ズキズキと逐一入る激痛に神経は破裂寸前だと言うのに、何故かその温もりは感じ取れた。
 何よりも明瞭に、その感触が聖の脳へと到達する。それを受けて、彼は、横を向いた。
 重ねられていたのは、小さな掌だった。そこから伸びるのは、緑色のカフスと、黄色い袖。細く華奢な腕がその布に包まれているはずだ。更に目を上げると、ほっそりした肩が、そして鮮やかなブラウンの髪の毛がある。月光を受けてキラキラと輝く、細く美しい髪の毛に見惚れた。粒子を纏ったかのような美が、そこにはあるのだ。
 サラサラとした髪の毛。その下にあるのは、可愛らしい結花の顔。大きな瞳を心配そうに潤ませ、聖を見詰める少女の可憐さが眩しくて、彼は目を細めた。
 大丈夫? と問い掛ける視線。それに対して、にこりと微笑んで答えた。結花も少しはにかんだ笑顔を浮かべてくれる。
 その後で視線が下げられた。合わせて自分も目を落とすと、そこには真っ赤に染まった左腕があった。結花の白い掌が重ねられた事で、よりその赤さが、見目に強調される。
「……痛いですか?」
「……うん」
 ポツリ、と呟かれた声に、答える。確かに痛いし、痛そうに見える。先程巻いた、包帯代わりのワイシャツはすでに当然のように血に染まり、染み出る血液に湿ってさえいた。
 流れ、腕を伝う、液体。それが結花の掌をも赤く染めていくが、彼女はそんな事を気にしていない。それどころか、結花は聖のそれを、浮かした。
「っ痛――!」と、呻く。が、それはすぐに温かい熱に覆われた。
 え――?
 そう疑問に思い、反射的に閉じていた瞼を、開ける。すると、聖の左腕は結花の胸に抱かれているではないか。開かれたパジャマの胸元。そこから覗く白い柔肌に、直接当てられた聖の肌。止まる気配の無い流血によって自身の身体が汚れる事をまったく気にも留めずに、少女は愛しそうに、そして優しく、聖の腕を抱きしめていた。
 抱きしめてくれていた、と言う表現の方が良いのかもしれない。まるで自分が痛みを感じているかのように、薄く閉じた瞼を震わせている。長い睫毛が小刻みに揺れ、しっかりと閉じられた口は固く結ばれていた。
 その光景を神秘的と思えたのは、何故だろう。空に映る月は上弦。しかしその明かりは眩しくて。直接それに輝いている結花の姿を、何よりも美しく見せてくれているのだろうか。
 赤に染まる少女の柔肌だが、月光を浴びて輝く少女は、まるで聖水を纏った天使のようであった。少なくとも、聖はそう感じた。
 神々しい輝きが、月の銀から発せられる蒼を受けて、仄かに結花を包み込む。纏った燐光が美しく、その輝きは彼女の胸へと吸い寄せられているかのよう。
 いや――
 吸い寄せられて、いた。温かな光が、結花の胸へと集まってくる。薄蒼に輝く粒子は細かく、しかし力強く聖の腕をも包み込んだ。
 すうっ、と光が傷口を撫でる。それだけなのに、物理的な感触を覚えた。くすぐったいような、こそばゆいような。決して不愉快ではない、むしろ気持ちの良い感覚。それが痛みを中和し、それまで嫌と言うほどに激痛を送ってきた電気信号が小さくなった。
 それと同時に、夥しい程の量で流れていた血液に、勢いが無くなる。じわじわと染み出ていた鮮血は、白布の中で確実に流れを止めていた。
 それを見たからこそ――感じたからこそ、聖は混乱する。
「なに、が……?」
 光に覆われた左腕。その神秘的な光景の中で、『温かさ』が染み渡っていく。体内へと入り込んだ燐光が、聖に心地良さを与えてくれていた。
 その光が在るからであろう。大きく開いた傷口に、歓迎すべき異変が起こったのだ。
 血に塗れた腕。しかし流血は、既に止まっている。和らいでいく痛みに、血の気を取り戻しつつある肌。それはとても気持ち良く、彼に安らぎをくれた。
 完治、と言う訳ではない。痺れの残る腕は、まだ痛みがある。が、明らかに軽減された苦痛は、聖にとって酷くありがたいものである。
 結花の起こした美しい奇跡に、唖然としたマヌケ面で口を開け放す。一種信じ難いその光景に、彼は心底驚いているのだ。
 優しい光が傷を包み込み、それを少しずつ治癒してくれる。傷口がほとんど塞がれたと思われたその時、頂点に達していた発光が明滅を小さくしていった。
 淡い燐光が消えていく。少しずつ勢いを無くす蒼の魔力光が、結花の中へと吸い込まれていくのだ。綺麗な軌跡を残しながら、少女は魔力を収めていった。
 俯き気味な結花の顔は美しく、普段と異なる、凛とした表情であった。その美麗さに心奪われ、聖は結花に魅入る。
 血の気を取り戻した腕は、結花の肌の温かみを伝えてくれた。少女の魔力は、失ったはずの血液さえも再生させていたのだ。だから、聖は左腕にほとんど違和感を覚えない。今、彼の脳へと優先的に送られるのは、結花の肌の感触である。
 それが余りにも気持ち良くて――
 しばしの間、彼の思考は完全なフリーズ状態に在った。
 そんな中、少女は静かに瞼を開く。治った腕を抱きしめて、結花は静かにそれに頬擦りした。
 大切そうに。愛しそうに。
 そっと、結花が顔を上げる。呆然とした表情の聖を見て、結花は口を開いた。
「……もう、痛くないですか?」
「う、うん……」
 そう答えはしたが、今はそんな事はどうでも良かった。彼は、熱に浮かされてボウッ、とした思考の中で、ただただ混乱しているだけ。
 ぷにぷにとした柔らかい頬っぺたが心地良く、温かく、またハリのある少女の肌は極上である。可愛らしい朱唇は、肉付き良くぷっくらとしていて、聖の視覚をも惑わせた。
「良かった……」
 結花は心底から安心した表情で聖の手を撫でて、更に彼の劣情を煽るのである。

 疲れたような弱々しい笑みだが、それでも結花の笑顔は、愛らしい。
 所々に冷や汗のようなものをかいているのは、先の魔力集中による負傷部治癒の精神疲労が原因だろうか。
 それでも少女は、一生懸命に説明してくれた。一生懸命の中に時々笑顔が混じるのは、実は聖が近くにいるからなのだが、本人はその笑顔に魅入られるだけで、気が付いている節はなく。
 結花が話を終えた時、聖が引っ掛かりを覚えたのも事実である。
(黒い、霧……?)
 以前、聖が自分の能力を話した時に、結花は、「光が見えた」と言った。それに、聖がここに来た時も、結花は光を見たと言っている。
 が、これは不自然な事である。聖は確かに擬態として『光』となるが、これは人が感知できる類いの物ではない。ましてや、光速移動しているその瞬間に視認するなどと言う芸当は、普通は不可能である。
 つまり、だ。
 結花は、魔力を『見る』事が、できるのではないか。
 聖はそう仮定した。それを裏付けるのがエリゴールの『黒い霧』である。
 エリゴールの特殊能力として、天使を弱らせる力がある。それは、彼の放つ魔力が空間に作用して、特殊な『場』を作り上げるからなのだが、これも当然のように視認できる性質の物ではない。
 なのに、少女は黒い霧を見たと言った。
 この事から、結花が魔力を感じる事ができるのは確実だ、と結論付けた。それに合わせて、先の治癒能力である。完全な魔力能力保持者。特務庁の特別保護指定を受けるに充分な資格を持っていると言う事だ。
 と、言う事はである。保護指定を受けた人物は、自動的に特務庁内の人間から護衛が付く決まりになっているのだが。それに立候補すれば、聖はこの少女に何の負い目も無く毎日接する事ができるかもしれない。
 そうすれば、気兼ねなく結花と一緒にいれる訳だから、むさ苦しい男だらけの学校生活やらから抜け出せ、あまつさえ薔薇色の人生が――
 そこまで考えて、はっ、となる。俺は一体何を考えているのか、いかんいかん。もっと真面目に事を進めねば。
 ていうか、ただの親父と化してきている自分が情けな――
(いやいや違う!)
 頭を振って、自身の思考を冷静に戻した。聖が引っ掛かったのは、そこではないからだ。
 結花はこう言っていた。
『霧に包まれた時に突然具合が悪くなって、地面がぐらぐら揺れたような感じになって、気が付いたらここで寝てたんです』
 余り要領を得ない説明ではあったが、それでも大体の症状は分かる。
 それは、エリゴールの空間に入った『天使』が起こす拒絶反応であるからだ。
 だからこそ、腑に落ちない。それは、結花が天界の、いや、『神』の魔力によって守護を受けている者である事を示すからである。
 が、しかし。
 聖はここで、結花の顔を見た。色々と(一人で)変な反応をしたからだろうか、結花は少しきょとんとした表情を浮かべていた。それをみて、凄く可愛いと思う。
 思う――のだが、どう考えても普通の少女にしか見えない。少し発育の遅いだけの、普通の女の子だ。その子が魔力を持っていたと言うだけでも驚きなのに、『天使』だなんてとても思えない。
 何より、結花の魔力程度では『天使』には及ばないのである。魔力を見ると言うのは確かに凄い事だ。が、そんな力を天使が持っている訳ではないし、そんな能力を持っている天使がいるとも聞いた事が無い。
 それに、先の治癒能力。あれは、月からの魔力を借りていたと思える事から、魔力その物で言えば例外である。自分の魔力で治せないと言う事は、それだけの魔力が無いと言う事だ。そんな天使は、いない。
 ならば一体、何故なのか。
 聖は余計に混乱していた。
 混乱してはいた。
 が。
 考えれば考えるほどに判らなくなってくる。一体、この少女は何者なのか。
 もう一度、結花の顔を見る。今度はじっくりと、凝視。
 その視線が恥ずかしいのか、結花は少し頬を赤らめた。そのまま少し落ち着きなく目線をキョロキョロとさせたり、俯いたりする。揺れ動く少女の小さな顔に合わせ、髪の毛も揺れる。それが月光を反射して、きらきらと美しく輝いていた。
 その可愛らしい仕草を見詰めながら、やはり普通の女の子にしか見えない、と思う。本当に、可愛くておっちょこちょいだけれど、人間の女の子だ。
 だったら、何故――
「えへへー」
 不意に結花が笑った。クスクスクス、とリスの様に小さい笑みは、本当に楽しそうと言うか、幸せそうな笑みであった。
 結花の笑顔の意味する所が理解できず、聖はきょとんとした。思考が一瞬だけ停止される。
 そんな聖を見て、結花は面白そうに笑いながら、一言。
「どうしたんですか?」
 どうして私の顔を真剣に見てるんですか――
 その様なニュアンスの含まれた言葉。それを聞いて、少し焦った。
(どうしてって言われてもな……)
 そこまで考えて、ふと気付く。
 自分が今、答えの出ない疑問を思考しているのだ、と。
 今、ここで判らないんじゃしょうがないんだ、と。
「ははっ……!」
 少し笑った。良いじゃないか、と思える。今、ここで好きな女の子がいる――それが、俺の全てだ。
 だから彼は考えるのを止めた。現在の状態で答えが出ないのならば、それはどうしようもない事なのだから。
「どうしてだろうね?」
 あははっ、と弱々しく笑いながら、ふざけ半分に言う。
「もう、『悪魔さん』ってば……!」
 それに対して結花は、少し怒ったような、そんな含みのある言葉。聖はそれを聞いてまた少し笑って――
(んっ?)
 と、疑問に思う。
『悪魔さん』――
 その名称が、酷く懐かしいものを思い起こしてくれたような気がするからだ。
(懐かしい……?)
 何故だろうか、と自分に問う。
 確か、その言葉を聞いたのは、つい最近のことだ。聖が結花に自分の能力を話した時に、結花がいった言葉。まだ五日も経っていないのに、「酷く」と付くくらいに懐かしく感じるのはどうしてか。
「あの、『悪魔さん』って……?」
 困惑してそう聞くと、結花の表情が変わった。
 悲しそうに、寂しそうに、少女の顔が曇ったのだ。
「……忘れちゃったんですか?」
 酷く落ち込んだ様な声だった。落胆の色合いを示す光を湛える瞳。全身から、寂しいと言う空気を漂わせたその身体は、普段よりももっと小さく映るかのような印象。
 その、一人ぼっちの兎のような雰囲気を感じて、聖は何かを思い出す。
 ――山小屋の中で寂しそうに目の前の小さな火を見る幼女。膝を抱いて、そこに頭を埋めている。ちょうどそこへ帰ってくる自分。気配を感じて頭を上げた女の子が、聖の顔を見た途端に放つ明るい笑顔。
 その記憶が瞬時に脳内を駆け、いま現在の『時』と一致する。映像が重なり、大きく、また美しく成長した少女が、彼の眼前で悲しそうな表情をしていた。
「ユカ、ちゃん……?」
 聖は彼女の名を呼んだ。途端に、結花の表情がパッと明るくなる。ああ、この子なんだ、と聖は確信した。
「ユカちゃんだったんだ……」
 聖は笑った。それは優しい微笑である。十年の時を重ねた事に改めて驚き、そして喜んでいる自分を感じ、それは幸せな事なのだ、と思ったのだ。
 小さかった『ユカちゃん』は、こんなに綺麗な『結花ちゃん』になっていたのだから。
 ポフン、と聖の胸に軽い衝撃があった。結花が、彼の胸に抱き着いたのだ。自分の胸にかかる心地良い重さに、聖は彼女の頭を抱き返す。
「遅いです……」
 聖の胸の中で、結花は静かに言う。
「うん……」
 彼もまた、そう返した。それしか言う事が見付からなかったからだし、それしか言う事が無いであろうと思ったからでもある。
 だから、結花を抱く腕に少し力を込めた。サラサラとした髪の毛が指の間を通っていく感触を心地良く思い、それを感じる事ができる事を嬉しく思う。
「遅いですよ……」
 もう一度、結花が言う。ギュッ、と聖の背に回された少女の腕に力が篭もる。今度は、聖は答えなかった。ただ結花を抱くその腕に力を加え、しっかりとその存在を噛み締めるだけ。
「忘れるなんて、――酷いよ!」
 ギュッ――
 声と同時に、今度は結花が、聖の背中を抓った。
(―――――――――――――っい!?)
 背中に走った強烈な痛みは、生涯忘れる事はないであろう、そんな痛覚。
 だから声にすらできなかった。聖は一人、顔を歪ませて背中の痛みを何とかしようとする。が、彼の腕は無残にも空を切るばかり。指が届いても肝心の手は届かなかった。
 だからこその悶絶。しかし胸の中には結花がいて、彼は身動きが取れない。
 ある意味それは地獄であった。心底から対応に困るその状況は、やはり彼が生きている間でもっとも困った出来事である。
 その間に結花は聖の胸から離れ、プンスカ頬を膨らませた。
「私の事を忘れるなんて酷いことしてたバツだよ!」
 ――んなこと言われたってなぁ。
 聖は近くにあった木箱をバンバン叩きながら思った。相変わらず、患部に手が届かない。痛くて痛くて、目の前の少しむくれた少女を見る。一体、この子の何処にそんな局所集中型破壊能力(?)があると言うのだろうか。
 ただ、その様はまるきり十年前の頃の物で、懐かしい感覚が聖の中にあったのは確かだ。
 それは感動である。微笑ましく、また甘酸っぱいような感触が胸に広がる。彼の中では、始めて起こった青春の『心』と思っても良いであろう。
 とりあえず痛みが退いてきたので、聖は結花に向き直る。未だにプンスカしている少女が、聖の顔色を窺うように視線を彼に向けた。その瞬間に、彼は結花を抱きしめる。
「ひゃっ!?」
 再び聖の胸に納まった結花が、少しビックリした表情で聖を見上げた。後ろから抱きすくめるような態勢は、結花が膝の上にくる。だからその愛らしい上目遣いが可愛くて。
 聖は結花の頭を撫でながら、
「気付かなかったんだよ」
 綺麗になったから――
 そう、付け足した。それは本心であるが、目の前の結花は相変わらず「綺麗」よりも「可愛い」の方がしっくり来る容姿をしている。それがまた何とも言えない、と聖は思った。
 結花はその言葉に微かに頬を染める。いじらしい、乙女の仕草だ。もう思春期なんだ、と改めて感慨に耽るのは、聖。
 少しだけ、外の騒がしさが増した。車の行き交う排気音。それが小さく鼓膜を震わせる。そんな事を気にせず、聖は結花の細く美しい髪の毛の、サラサラとした感触を楽しむ。
「髪の毛触るの、好き?」
 結花が聞く。それは殆ど、照れ隠しであったろう。
「うん」
 聖は素直に答えた。
「結花の髪の毛だから、大好きなんだよ」
 率直に言われ、逆に照れを増す結花。気にせず、結花の髪の毛を掬っては、掌から零れ落ちていくその感触を楽しんだ。弱々しい月光に晒され、美しい輝きを見せる髪の毛。光の粒子を直に見る様な錯覚は、キラキラと反射される美麗な茶色の魅惑。その幻想に見惚れて、聖はもっと見たい、と思った。
 何より、髪の毛が流れる度にちらりと覗く、結花の透き通るかのように白く美しい肌が、聖を視覚から魅了していくのだ。
 そんな、次第に男の欲望に満たされていく聖の事など全く気付かず、
「女の人の髪の毛が好きな人って、その、エッチだって聞いた事があるよ」
 そこまで言って、聖の顔色を窺うように、ちらりとこちらを盗み見る。その時に、頬が少し赤い様に見えた。
「だから、あの、『悪魔さん』も凄いエッチなのかなって……」
 その後が続かないのは、聖が結花の身体を強く抱きしめたからだ。
 ギュッ、と抱いて、少女の体温を感じる。華奢な、細すぎると言っても良いほど華奢な身体は温かく、ちぎれ飛んだボタンのせいで外界に晒された結花の胸元はしかし、そこまでほんのり桜色に染まっていた。
 それに気付いて、聖は少し頭が冷めた。
「新しいパジャマ買わなきゃね」
「えっ?」
 振り向いた結花は、やっぱり真っ赤だった。
「汚れちゃったでしょ?」
 言って、薄い乳房を撫でる。小さい小さいと思っていたが、そこは柔らかく、弾力があった。
 そこに付いた赤い血は、聖の左腕から流れ出ていたものである。乾いて赤黒くなったそれは、完全に落としきる事は不可能に思えるのだ。
 ひゃっ、と声を上げた後、結花は言う。
「そ、そだね。どどど、どんなのが良いか考えなきゃい、いけないもんね!」
 耳まで赤く血を上らせ、廻らない舌で早口に言う結花。その顔は動転したようで、慌てている少女が可愛かった。
「明日、買いに行こう」
 耳元に唇を近づけ、そっと、囁く。すると、結花の動きが止まった。
「……買って、くれるの?」
 ゆっくりと振り向き、少女は聖の顔を見た。その瞳に向って頷いてやると、結花は途端に笑顔を見せる。
 ありがと――
 結花の唇が、そう動いた。
 その瞬間に、少女は彼の胸に飛び込んでいた。
 何度目かの、抱擁。今度は聖は、優しく包み込んであげる。クゥン、と結花が小犬の様に鳴いた気がした。
 外のざわめきが増しているように思えた。でもそれは気にならない。それは、今二人が同じ時間を共有できていると言う事の幸福を知ったから。
 だから、彼らは互いの存在価値を、確かめ合ったのだ。その結果は既に承知している。
 『何よりも大切なもの』
 それが理解できていた。離したくはない。聖はそう思い、だからこそ彼は胸の中の小さな少女を感じている。
 それが、幸せ。
 結花が、聖の胸の中で、顔を上げた。聖もその瞳を真っ正面から受け止め、彼女を見詰める。
 お互いの間にある空気が、密度を増した。
 その様に感じたのは何故なのか。しかしそれは、一種当然の事のように思える。何故なら、見詰め合う聖と結花の間には、確かにそれぞれの胸の思いが交錯し、そして共有されたのだから。
 そっと、結花が目を閉じた。頬を薄っすらと染めてはいるが、少女の白い肌は月光の蒼に照らされ、神秘的とも言える幻想を具現化する。聖は結花の意思を瞬時に理解し、それに添う行動を取る。
 ゆっくりと、結花の顔に聖の顔を近づける。ぷっくらとして可愛い少女の唇が近づいた。濡れた朱唇が艶めかしく、それに誘われてお互いの唇の距離を縮めていく。聖は目を閉じる寸前に、震える結花の、長い睫毛を視界にいれた。
 キュッ、と抱きしめて、聖は結花の存在その物を『抱い』た。少女の小柄を身体全体が感じ、その存在を欲する。二人の間にある距離は、ほとんど存在していなかった。
 今まさに、二人が重なり合う寸前に――

 ピピィ、ガガッガ――
『やーい、聖坊ぉ――――――――――――――――――――――――!!』

 大音響で響いたのは、聞き慣れた相棒の声。
 キーン、と耳が響き、聖は瞼を開けた。
 その彼の瞳に映ったのは、目を瞑った結花の顔。先程までの、ゆったりとした瞑り方ではなく、固く瞼を閉じているのは、音が鼓膜を必要以上に揺さぶったからであろう。
 結花の可愛い顔が、ドアップで聖の網膜に焼き付いていた。その最中、少女はゆっくりと瞳を解放する。その焦点が聖のそれと交差すると、彼女は固まった。
「………」
「………」
「………」
「………」
 お互い、暫し呆然とした顔で、止まっていた。そのままずっと、双方の視線を交錯させる。
 一秒。
 二秒。
 三秒。
 先に反応したのは結花だった。
 蒼光の中、少女の顔が朱に染まっていく。耳まで真っ赤になった結花は、その後で行動する。
 固まった表情のまま、肌を桜色に染め、ゆっくりと身を引いていく少女。そのまま唇を震わせ――
 ボンッ!
 爆発した。
 真っ赤――と言う表現すらも超越し、結花は全身の血流の行き交いを活発にし、自身の体温を上昇させていた。思考回路は完全に停止しているのか、同じ表情のまま、しかし彼女は貧血を起こした事などまるで嘘であったかのように、血の流れを良好にして行くのだ。
 ほわっ、と湯気が立ち昇り、脳に送られる血液を増やしていく結花。そのまま脳の温度を臨界まで近づけ、そして瞳がどんどん潤んでいった。
 結花の状態の変化を見ていて、聖は、本当に面白い子だなぁ、と思っていた。いつも、こちらの予想外でいて、なおかつ予想以上の反応を見せてくれる。この子の事が心底から好きだと思える自分を、彼は確信していたのだ。
 ふらりっ
 結花の様子がおかしい。小刻みに身体を揺らし始めた。観察していた聖は、それに気付いて身を乗り出す。その直後には、
「きゅうぅぅぅ〜…………」
「結花ちゃん!?」
 ぐらりと傾いだ結花の身体を何とか受け止め、聖は結花の顔を見る。限界まで真っ赤になった顔は、脳がオーバー・ヒートしたせいか。まさか少女が一日で三回も倒れるとは思わなかった。そっと、結花の前髪を開けてやると、そこに覗くのは小さなバンソウコウ。聖が結花を助けた、約一週間ほど前からずっと額にくっつけている、小さなバンソウコウだ。
 外では依然として、聖を呼ぶ声が聞こえていた。が、それは耳に入らないかのように振る舞い、結花の寝顔を見る。可愛い少女は、すぐに瞼を震わせた。
「くぅぅ〜ん……」
 そう言って瞼を開ける。すると彼女は、とろんとした瞳で聖を見た。
「悪魔さん……」
 ニコリ、と微笑んで、少女は言った。先程の、熱暴走した様子は完全に消え去っている。十五歳の幼い少女が見せる微笑はしかし、酷く落ち着いて見えた。
 そっ、と聖の頬に優しい感触。結花の繊細な指がそこに触れていた。同時に、彼女の唇が、動く。
『好きです』――
 聖の見間違いでないのならば、それは確かにそう動いていたのだ。
 だから彼は、年甲斐にも無く赤面し。
 それが見られたくなかったから、勢い良く顔を逸らした。
「気が付いたなら、外に行こう。迎えがいるはずだから、ね――」
 内心では、惜しい所だった、と思いつつも、彼は宮都を胸中で恨んだ。あの野郎、良い所で邪魔しやがって。そう思いながらも大急ぎで立ち上がり、そそくさとドアへと向おうとする。
 そこへ――
「悪魔さん!」
 真後ろで、結花の声がした。
「はい!」
 反射的に振り返る。すると、首に回された華奢な腕。それに反応する間もなく、次の瞬間には少女の朱唇が彼の頬へと、軽く接触した。
(えっ?)
 呆然となった時には、既に結花は身を放していた。そして恥ずかしそうに一回だけ目を伏せ、しかし勢い良く顔を上げる。
 その表情は晴々として、聖は、薄く美しい月明かりの中で輝ける幻想を見た。
 にこり、と微笑んだ結花。えへへー、と笑った後に、その喉が振動し、可憐な唇から言葉が紡がれる。
「ようやく、貴方の所に来れました!」
 宜しくお願いします、と結花が頭を下げる。それでも聖は、呆然となっているばかりであった。
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