エピローグ 「悪魔と少女の現在」




 『コウリガシ公園』、と彫られた塀を見て爆笑していた栞と佐緒里だが、中に入ると感嘆してくれたのは、やはりこの公園は魅力的だからだろう。
 結花は一人納得し、嬉しそうに微笑んでいる。
 それぞれに魅力的な三人が、並んで美しい緑葉を眺めているのは、一見して立ち止まるほどに素晴らしい光景であった。
 それぞれが全く違うタイプの少女達であるが、それが瑞々しい梅雨の緑葉に映え、それぞれの魅力を引き立ててくれる。この世の物とは思えない光景――と言っては言い過ぎかもしれないが、その様子は、まさに天使を見ている気分になる。
「良い所ね」
 栞の呟いた一言に、結花は更に顔を綻ばせるのだ。
「そうでしょ? 私も良く、ここに来るんだ」
「でもさ。なんで教えてくれなかったのかなぁ? そこが私としては一番引っ掛かるんですけど?」
「……だって佐緒ちゃん、お腹抱えて大笑いしてたじゃない」
「そんな疑った目をするな、と言いたいわね。良いじゃないの。愛嬌って事でさ」
「良くないから疑った目をしてるんだけど」
「ぬぐぅ、減らず口を叩きおって……!」
 そんなこんなで歩いていると、結花はある人物を発見した。
 いつものようにベンチに腰掛けた、巨大犬を連れた老人。ボーッ、として正面を見詰める静十だ。
「静十さん、ジョージ!」
 結花が声を張り上げると、はっ、とした感じで振り返る一人と一匹。その瞳が結花に焦点を合わせた瞬間に、彼らは顔を綻ばせる。
「おお、結花ちゃんではないか! そこのお嬢さん方は、お友達かの?」
「そうです。紹介します、栞ちゃんと佐緒ちゃんでーす!」
 バウア、と駆け寄ってくるジョージを受け止め、結花が二人を差す。その二人は一回お辞儀した後に、何とも巨大で珍しいジョージをしげしげと眺め始めた。
「何を食べたらこんなに大きくなるのかしら?」
「見た事無いな〜。どんな種類だろうね?」
「結構狂暴そうだけど、可愛くも見えるわねぇ。不思議な子だわ」
「心なしかスンゴイ嬉しそうだよね。何で尻尾振ってんだろ。初対面なのに」
 撫でたり触ったり色々しながら、二人はジョージの観察を続けている。なので、結花は老人に向き直った。
 何だか険しい目付きでジョージの方を睨んでいた老人だが、結花の視線に気付くと柔和な微笑で、自分の隣を叩いた。座らないか、と言う事だ。
 結花はしばらく老人と雑談する。二人は相変わらず犬と戯れていた。時々結花も交えながら、穏やかな雰囲気が流れて行く。
 そんな時、静十がふと結花の顔を見て、
「いま、幸せかい?」
 と聞いた。
 その疑問に対して少し首を傾げながら、
「はい、幸せです!」
 その気持ちに、嘘偽りはない。少女は、その答えに自信があったのだ。
「そうか……」
 静十老人は、少し顔を曇らせ、遠くを見るような目をした。
 それを見た結花は、何で最近はこういう質問が多いのだろう、と思う。そう言えば、と今日の事も思い出していた。

 それは、放課後だった。三人で話しながら昇降口を出ると、柱にもたれるようにして、二年生の佐伯先輩が少し険しい表情で立っていたのだ。
 その、背の高い少女は、結花を直視していた。
 切れ長の双眸が結花の姿を映している。長い黒髪を揺らし、彼女は思いつめたような表情で結花に近づいた。
 結花はこの佐伯先輩が嫌いではない。入学してすぐに結花を体育館裏に呼び出した人だが、その後は結花に良くしてくれる、優しい先輩だ。低く、また良く通るハスキーな声は、彼女の容貌にぴったり当て嵌まるのである。全体的にカッコイイ雰囲気を出す佐伯先輩を、結花は羨ましく思ったりもしている。
 それはさて置き。
 佐伯先輩は結花の目の前で立ち止まった。複雑な、そして戸惑いの色を持つ瞳で結花を見詰めている。
 その時の空気は、何だか凄く重かった。気の弱い結花は、一体どうしたのだろうかと、あたふたあたふたするだけ。何か気に障る事をしたのかと思ってビクビクしていると、佐伯先輩は意を決したように、その唇を開いた。
「結花ちゃん」
 その後、再び戸惑い、口を噤む。その間は短い時間だったが、最もプレッシャーが大きかった。と、結花はそう感じた。
「――いま、幸せ?」
 佐伯先輩が紡いだ言葉。それに、結花は酷く狼狽する。
「え? えっと、その、い、今ですか?」
 再びあたふたしながら、佐伯先輩の真意を必死に考える。が、それは一向に判らなかった。なので結花は、やはり狼狽した後で、正直に答える。
「し、幸せですけど……」
 結花が言った瞬間、佐伯先輩は口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。その後で。
「そう……。それなら良いの。また明日、ね」
 くるり、と背を向けて、昇降口から正門へ歩き出したのである。結花はその時、どうかしたのかな、と佐伯先輩の背中を見送ったのである。
 それだけの、話。

「結ー花っ!」
 ポスッ、と頭に手を置かれ、結花は現実に戻る。
「ボーッとしてないの。そろそろ帰る時間だよ」
 気が付くと、目の前には佐緒里のドアップ。それに少し驚きながら、
「もうそんな時間なの?」
「そうよ。早くしないと電車来ちゃうよ」
 それを聞いて、左腕の時計を見る。確かに時間が迫っていた。
 結花は、よいしょ、と立ち上がると、
「それじゃあ静十さん、ジョージ、さよなら!」
 そう言ったら、一人と一匹は、一瞬だけ寂しそうな表情を見せる。が、すぐに気を取り直したように、
「三人とも。また来ておくれよ。多分わしらは、毎日この時間に居ると思うから」
「分かりました!」
「じゃあね、ジョージ」
「お体に気を付けて」
 三者三様の挨拶を残し、三人は駆け出した。少し時間が押してるからだ。
 走りながら、結花は静十と佐伯先輩の質問の意図を探す。
 『幸せ』――
 考える。今、充実した生活を送れているのか、と言う意味だと思う。それだったら、結花は間違い無く、幸せだった。大好きな友達に急かされたりからかわれたりしながら楽しい毎日を送り、大好きなおじいちゃんおばあちゃんやメイドさんたちに囲まれて、一生懸命勉強している。ずっと前から変わっていない毎日。
 でも、何よりも幸せな事がもう一つ。ずっと前と比べて、一つだけ変わった、その『毎日』の様相。
 それを考えると、結花の顔が綻ぶ。にっこりとして、結花は危うく転びそうになった。
「こらっ!」
 転びそうになった所を、隣の栞が支えてくれる。佐緒里が、しっかりしなさい、と言った。
「今日は彼氏におべんと作ってあげるんでしょ? しっかりしなさい!」
「ごめんなさぁい!」
「佐緒里、しっかりしなさい、が二回目よ」
「気にしないの! 今のはそれぞれ別の意味で使ったんだから!」
『別の意味?』
 二人の声が揃う。そこで佐緒里は、ニヤリとして、
「『初めてのおべんと』、の分もあわせたの」
「ああ、なるほど」
「えっ? えっ?」
 困惑。それを表に出すと、気付いてないよ、と言う風な諦めにも似た表情で結花を見る二人の視線。
「夜遅くまで働く彼氏に対して、健気にもお弁当を作ってあげる幼女……」
「ちょっと待って佐緒ちゃん。『幼女』って何?」
「気にしないの。んで、初めて作ってもらったお弁当を嬉しそうな顔で開ける彼氏。しかし、そのお弁当の中身は何か乾いた赤いものがこびり付いてたり、いびつな形に歪んだ物体が整然と並んでいましたとさ、なんて事になったら洒落にならないでしょが。だから、あんたがしっかりしなくちゃ駄目よ、ていうこと」
「あー、なるほど」
「ね。だから、ちゃんと美味しそうなもの作るのよ」
「私達も応援してるから、ね」
 そういう二人の言葉に素直に感激して、結花は元気良く頷いた。
「うん! ありがとう、二人とも!」
 その後で、初めて作ってあげるお弁当を思い浮かべる。上手にできるかな、美味しいって言ってくれるかな、と結花の心は浮かれたり。心配よりも先に期待が来る。結花が得意な前向き思考は、こういう時に役立つのだ。
 そんな事を思い浮かべていた為だろう。結花は再び、石ころに躓いた。

 因みにこの時、結花は運動服の入った鞄を忘れていたのだが、それに気付くのはずっと後の事である。



 ヘコヘコと猫背気味な前傾姿勢で。
 聖は放課後の喧騒に紛れるように、教室の出口へと歩いていく。途中、楠達に挨拶をする事は忘れない。
「じゃあな」
 そういって手を振ると、
「うーっす」
「オーシャンブルー」
「サーモンフライ」
 訳の分からん返事が帰ってくるだけ。
「……鮭飛翔?」
「ふふ、マグロダイブに対抗してみたのさ」
「マグロダイブって『鮪降下』って意味だったのか……」
「中々お洒落だろう?」
「いや、訳解らん」
 そういって話を打ち切ろうとした時に。
 隣に宮都がやってきた。
「マグロダイブに対抗した、てそれなら『鮭飛翔』じゃなくて『鮭上昇』になる筈じゃないのか?」
「ふむ。上昇に見合う単語が瞬時に検索できなくてな」
「アップでいいじゃん」
「『サーモンアップ』……。何だか納得いかん」
「変な拘り持ちやがって……」
 ジトーッ、と四人ほどの視線が集中した楠は、
「な、何だ!? 良いじゃないか、インスピレーションの問題だ、閃きだ! ピキーン、と来るのを使わないと変な蟠りが残るだろう!?」
「ピキーン、てお前……」
 この電波野郎が、と呟いて。
 聖は深々と溜息を吐かせてもらった。
「ふん、気にするほどの事かね? 英雄達にしか理解できない暗号は、我々にしか解読できない物なのだよ」
「だったら俺は英雄じゃねぇよな」
「何っ!? 何故そうなるのだ」
「えっ? だって訳わかんないもん」
「貴様はさっき、サーモンフライの意味を見事に言い当てただろうが」
「いや、単語繋げただけだし」
「ふふん、自覚が無いのは英雄の証拠だ」
「何故にそうなる?」
「わははははっ、これから先が楽しみだな、諸君!」
 振り返る楠。
 それに対して二人が首を縦に振った。
「えっ!?」
 驚愕の聖。
「ま、待て! 島邦、宮都まで! お前等何言ってんだか判ってんのか!?」
「いやー、俺は楠の思考が面白くってなぁ」
「聖の将来が楽しみ。なんてな。ガハハハハッ」
 コノヤロウ……。
 聖は宮都に対して本当に殺意を抱きそうになった。
 が。
「うるせぇ馬鹿野郎!」
 ガンッ!
 絶叫と同時に後頭部に衝撃がくる。振り返れば凶器となった鞄を片手に大隈が肩をイカらせていた。
「早百合ちゃんをフリやがった貴様に、何が判る!?」
「何ぃ!? ちょっと待て、今それ関係ないよな?」
「五月蝿い黙れそして地獄に堕ちろ! あの子の純粋な気持ちを無下にし、尚且つ更に可愛い彼女といちゃつくだぁ!? この幸福野郎が!」
 ガンガンと振り下ろされる教科書の入った鞄。
 聖はそれを、ぬああおおっ、と絶叫しながら受けるしかなかった。
 大隈 康志(16)、普段は一般人として通っているが、一度火が点いたら力の限り暴走する危険な少年。今はまだ小規模な爆発しか起こしていないが、最大規模の暴発で過去に銀行強盗犯三人をのしたという経歴の持ち主である。その時に警察から感謝状が贈られたとかそうでないとか。
 実は、変態軍団の中では、一番の危険人物として名が通っていた。
 いつのまにか床にノック・ダウンされた聖。その時彼は、少し前に見た少女を思い出した。
 小城 早百合は、髪の毛を切っていたのだ。
 艶やかな黒髪を、肩くらいの高さまでばっさりと。サッパリとした表情で聖に向けて頭を下げ、ニコリと微笑む。それは、少女の笑みであった。微かに頬を赤くしてはいたが、彼女は大丈夫なのだろうと、そう思える笑みだったのだ。ああ、強い子だな、と聖が感嘆したのは、言うまでもない。
 早百合は聖と交錯した時、小さな声で、こういった。
『頑張ってくださいね』
 ――結花ちゃんの事、大切にしてあげてくださいね。
 そう言っているのが解って、思わず振り向いた聖に向けられたのは、一転して含みのある様な、まるで悪戯した後の子供のような表情であったのを憶えている。あの時は何だか微妙に悔しかった。
 結花の事を思い出して、思わず会いたくなってしまった聖はとりあえず立ち上がる。
「俺、帰るわ」
 白のワイシャツに付いた埃を払いながらそういう。今までピクリとも動かなかった男が、まるでキ○ンシーみたいに唐突に起き上がったのに怯んだ大隈が、攻撃の手を緩めた。ちゃーんす。
「そうか。では手土産にこれを持って行くが良い」
 餞別だ、といって楠が手前の机に何かを置いた。A4紙の束であるそれには活字で、「音楽家素晴らしい髭大全」とある。ご丁寧にも左上隅がホッチキスで止められているではないか。
「こ、これは!?」
 聖はそれを受け取り、早速中を見る。すると驚愕の事実が!
 一ページ目は、リムスキー・コルサコフであった。彼の肖像画が、素晴らしいまでの白く美しい髭と共に紙一杯に印刷されている。次を捲ると、サン・サーンス。次はスメタナ、次はチャイコフスキー……
「す、素晴らしい!」
 思わず叫んでしまう聖。驚嘆すべき美しい『髭』の数々に打ちのめされたかのように、恍惚の表情でそれら先達の偉人たちを見詰めていた。
「ふふっ、ネットから引っ張り出してくるのには少し梃子摺ったがな。中々の品だろう? 御注文には堪えられたと思うが」
「ああ、ありがとう。こんなに素晴らしい物をくれるのならば、五百円くらい安い物だ」
 未だ震える声で、そう絞り出す聖。何とも言い難いくらいの眩しく、そして素晴らしい髭を凝視し、感極まったかのような逝っちゃった目付きでとりあえず髭を凝視するのみ。
 楠が弁当を忘れたからと聖に金をたかって来たのはつい三日ほど前だ。その時、聖は条件を出した。
 『素晴らしい髭を見付けてこい』
 楠は、見事に任務を果たしたのだ。
「ふふふ。苦労したぜ。満足頂けたかな?」
「ああ、有難う。これでまた俺のコレクションが増えたぜ……」
 くくくくっ、と忍び笑いを漏らし、怪しい雰囲気を作る二人に周りの人間はたじたじだ。

 『髭マニア』渡 聖。その、異常なまでに髭の美しさに固執し、またそれを探求しようとする変人は、間違いなく楠 一哉と同列とみなされる、学校屈指の変態であった――



 特殊任務課のドアを景気良く開いて聖が発した最初の一言が、
「疲れた……」
 で、あった。そんな彼の顔には真新しい引っ掻き傷が一本。
「どうかしたんですか?」
 聞こえてきた、高く澄んだ声。しかしそれは絶妙な低さを兼ね備え、聞いている者に心地良さを与えるような、そんな声であった。
「ジョージの野郎が攻撃してきたんだよ」
 頬に付いた赤い線をなぞり、くそっ、と毒づく。多分、あれはあの犬なりのスキンシップのつもりだったのだろうが、それでも迎えに来た人間に唐突に襲い掛かって爪で一撃を食らわせるとは、どういう事なのか。だが、それを見事な体捌きで引っ掻き傷一本で抑えたのは、素直に自分に乾杯。とりあえず静十郎の躾がキチンとなっていないのではないのか、と思えたのだが、元来あの犬に躾など無い事を思い出して一人どんよりとする。
 そんな事はとっとと忘れよう、と思って聖は先ほど声を掛けてきた青年を見やった。
「どうだエル、少しは慣れたか?」
「ええ、お蔭様で」
 そう答えたのは、金髪碧眼で、如何にもなよなよしい印象を与える青年であった。男気無さそうな優男的な顔立ちはしかし、端正で美しい。全体的に線の細い彼は、その美形な顔立ちと相俟って間違いなく美青年の類いに分類されるであろう男である。
 が、その外見に騙されてはいけない。一見して気の弱そうな彼だが、本当に押しに弱い。女性に対しての免疫も余り無いらしく、始めに麗華に会った時は緊張のあまり貧血を起こして医療部に運ばれ、香美に迎えられて再び失神したようなダメ男であった。
 いや、つまり何が言いたいのかと言うと、ではなんでそんな弱い青年が文字通りに特殊任務を全うする最も危険な課に居るのかと言う疑問が先に立つ訳だが、それは彼が弾原組の部署一つを任されていたエルディ・フォールこと魔界騎士エリゴールだからである。
 エリゴールの他にも、弾原組の第21部署(だったらしい)の人員約二十名は、特務庁情報部の諜報員となった。本人達が望んだ事らしいが、こんな薄給で扱いの悪い所にわざわざ就職せんでも良いだろうと説得した所、皆を代表したのかサブと言う男がこう言ったのだ。
『俺ら、堅気の仕事をする為に兄貴達の所で更正させてもらえれば一番なんす!』
 その心意気のままに、彼らは労働条件劣悪で給料も薄い情報部諜報員として、今日もえっちらおっちら働いているらしい。
 とりあえず聖は自分の席に付いた。左手にしっかり確保した「髭大全」を机の上に置き、一番最後のページに厳然として(しかしどこかお茶目な雰囲気で)載っているヴェルディーの髭を眺めて思わずニヤリとしながら頬の傷を消毒する。
 犬や猫などの獣の爪は、結構バイ菌が付いている物だ。放っておいたらヤバイことになり兼ねないので、消毒は欠かせない。
 ジョージの世話をやるようになってから、聖には必需品となったこの消毒液は、彼の『彼女』がくれた物だ。
 思わずにへーっ、と情けない笑みを浮かべた彼に、宮都のチョップが入った。
 ドゴス。
「ぬおっ!?」
 頭を押さえる聖。それを隣から見ながら、宮都が一言。
「いまエロい事を考えていただろう?」
「な、何故にそうなる?」
「表情が卑らしかったからだ。この変態!」
「ぬぅ、貴様と一緒にするな!」
「何ぃ!? 貴様、なぜ俺がレイのヌードを妄想してニヘニヘしていた事を知っているのだ!?」
「そ、そんな事を考えていたのか……」
 思わずたじろぐ聖と宮都。そんな宮都の肩に、白く細く繊細な指が掛かった。
「そう。そんな事を考えていたのね、宮君」
「な、レイ? 情報部の方に行ってたんじゃ……ごふっ!」
 七海 麗華の左拳が固められ、宮都の顎に見事なアッパー・カットが決まる。仰け反り床にその後頭部を叩き付けた宮都。見事なまでのK,Oだったのは言うまでもない。
「今さっき帰ってきた所よ」
 ふうっ、と頬に指を当てながら、さも困ったという風にハイヒールで宮都の股間を踏みつける麗華。
(恐ろしい……!)
 青い顔でその惨状を見ているのは聖だけではないようだった。エルも同様に顔色を悪くしながら宮都を凝視していたのである。
「最近……少し暴力的になったんじゃあ――はぁぎゅっ!?」
 三人の意見を代表して呟いた宮都は、ハイヒールの靴底で一番大事な所をぐりぐりされて、土気色になった。
「………」
 言わなくて良かった、と聖は心底から思う。
 泡を吹いて白目を剥いた宮都を脚で除けて、麗華はもう一度溜息を吐いた。
「全く、レディに対しての礼儀がなってないわ。そうよね、聖君?」
 いきなり振られて、とりあえず慌てる。が、無難に話を逸らす事にした。
「それより何で情報部に行ってたのさ」
「ちょっとね。資料集めに」
「資料持ってないよね」
「後で真紀ちゃんに持ってきてもらうのよ」
「あ、そう」
 横ではノロノロと嫌な所を押さえながら立ち上がる宮都の姿。見た所は大丈夫そうで何よりだ。――端正な顔が未だに土気色なのは除いて。
 と、その時。
 とてとてとて、と廊下を走る音が聞こえた。聖が振り返ると、その足音はドアの前で停止した。それから一拍おいて、
「こんにちは! 聖くん居ますか?」
 元気良く、という感じで入ってきたのは結花である。少女は小さな包みを持って居た。
「ういーっす!」
 聖が手を挙げると、パッと笑顔になってこちらによって来る。麗華やエルや宮都にお辞儀をして、聖の前までやってきた。そして、少し真顔になって深呼吸をし出す。
(何だ……?)
 と思いつつも、既にスーハースーハーと深く呼吸を繰り返す結花の姿が何だか面白い。
 するとまたもドアが開く。そこから真紀がひょっこりと顔を出し、結花を見付けて小さく手を振ってから中に入ってきた。紙の束を持っている。
「失礼します。レイちゃん。頼まれてた物を持って来たよ」
「あら、ありがとう」
「いーえ。どう致しまして」
 にっこりと明るい笑みを浮かべながら、真紀は麗華と応対する。実はこの二人は仲が良かったりする。
 その後で、真紀は結花に振り向いた。同時、
「いよいよなの? 結花ちゃん」
「う、うん」
「うふふっ。じゃあ、頑張ったんだから、早く渡さんに渡さなきゃ」
 シャレなのだろうか、と聖は一瞬だけ思ったが、何だか口を挟む空気ではないようなので止めておいた。
 彼は意外と臆病者なのだ。
「う、うん。頑張るよ」
 そういって、結花は再び深呼吸をしてから、真紀の応援を背中に受けて、聖に手に持った包みを差し出してきた。
「あの、聖くん。これお弁当です。良かったら食べて……!」
 えーっと……
 真っ赤になった結花を見て、聖はそのお弁当を受け取る。何だか酷く恐いが、とりあえず机に置いておこうとして――
 じとーっ
 周りの視線が異様なまでに痛い。結花を盗み見ると、不安そうに、しかし半分は期待に満ちた目で聖を見ていた。因みに真紀は、偉いよと結花の頭を撫でながらも、やはり聖の方を凝視している。
 えーっと……
「あ、ありがと……」
 とりあえずお礼を言うと、どういたしまして、と結花が恥じらいながらも笑顔で答えた。
 これで良いかな、と聖は安心しかけた。あの、超弩級の不器用娘が作った食べ物は、流石のバルバトスも不安を隠せないのである。
 が――
 そんな希望的観測は許されなかった。
「それじゃあ食べなさい」
 悪魔の宣告を発したのは高井 宮都。
 総督命令が、アミィの口から発せられたのである。
「え〜っと……」
 真面目に困って周囲を見ると、全員(課の他の者達までも)が聖のこれからの動向を見守っているようであった。
 この……
 死んでたんじゃなかったのか、と宮都を一瞬だけ睨み付けると、結花の顔を盗み見る。やはり不安そうで――しかし、どこか期待を帯びた眼差しが聖を捉えて離さない。
 彼は、完全に追いつめられていたのだ。こうなると、机の上に未だに広がるオペラの巨匠、G・ヴェルディーの肖像画さえも、聖の反応を期待しているかのように見える。
 ………。
 聖は覚悟を決めた。弁当を手に取り、包みのナフキンを解く。中くらい程度の、結花らしい可愛いお弁当箱の蓋に手をかけ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
(えいや! これも愛の試練だ!)
 一気に蓋を開け、恐る恐る中身を覗いて見る。
「およっ……?」
 そこには、中々美味しそうなおべんとがあった。
 ホウッ、と息を吐き、
「凄く上出来だなぁ」
 と言って、箸を持った。一口食べてみるが、味に特に問題は無い。
「聖くん。それって、凄く失礼だと思うの」
 頬を膨らませて、少し拗ねた感じの結花が言う。
「ん〜。でも期待以上だったのは確かだしなぁ」
 聖は心の中で、ヴェルディー様に感謝した。貴方の御陰で、私は愛の試練を乗り越える事が出来ました、と。
「むむむっ。でも、ちゃんとコックさんやおばあちゃんに見てもらって作ったんだからね」
「ああ、それ聞いたら余計に安心できた……」
「こら〜っ!」
 ほんわかとした痴話喧嘩が始まり、課の中に和やかな雰囲気が流れ出す。宮都は、なんだつまらん、と席に付き、エルは机に向き直る。麗華と真紀は、結花と聖の幸せそうな会話を笑顔で見守っていた。
 だが――
 そんな、素晴らしくほのぼのした雰囲気は長く続かなかった。
「うっ……!?」
 お弁当を食べていた聖の様子が急変したのだ。
 彼は胃に急な激痛を憶えて腹を押さえてうずくまり、同時に食道を伝って込み上げてくる熱い感覚に口元を押さえた。その感覚はすぐに口腔に達し、唇を割って掌に排出される。
 べっとりとした赤い液体に顔を青白く変化させ、同時に身体全体に痺れを覚えて動けなくなった。呼吸器系が脈打ち、息が出来なくなる。目の前がグルングルンと回転を始め、聖は苦しさに悶えながらも、意識を闇に引き摺られていった。
「しょ、聖くん?  聖くん!  聖くん!」
 結花が聖の体を揺さ振る。ほとんど泣き声を上げながら、死んじゃやだよ、と繰り返しているのが聞こえた。
 周りが俄かに騒がしくなるが、そのほとんどが笑い声のような気がして無性に腹が立った。宮都だ。奴が笑っているんだ、と思い、何とか顔を上げる。相変わらずもグルングルンと視界が廻った。
「うわぁぁぁ、た、大変だ! すぐに医者を!」
「渡さん、しっかりしてください! 血を吐くなんて、一体どんなストレスを……?」
「がははははっ、日頃の行いが悪いなぁ聖。ぬははははっ」
「お前は笑ってる場合かい!」
「そうだ、すぐにでも手当を……!」
「こういう時って110番で良いんでしたっけ?」
「急いでCIAに連絡だ! 何ぃ? KGBでも構わん、急げ!」
「違うよ。こういう時はWHOに」
「ASEANとEUに……いや、国連軍か?」
「ICPOだ! 国際警察に問い合せだ!」
 根性でハッキリさせた聴覚には、正に十人十色の反応が聞こえてくる。やいやい、何を錯乱していやがるんだコイツ等は、と呆れながら、聖はとりあえず急な腹痛に苦しむだけしか出来ない。ああ、俺の人生はここで幕を閉じるのか。んん? 何だか人生っておかしいような気が……でも、悪魔生ってのも違ってるのではないのか? よし、ここは今度の学会で発表しよう――
 聖も相当錯乱している模様である。
 そして騒ぎ出した特任課。その中で一人、聖の様子を冷静に観察している女性が一言。
「これ、砒素の症状よね?」
 明瞭に響いた麗華の一言によって、一瞬にしてその場の空気が固まったのは言うまでもない。
「砒素ぉ!?」
 全員が驚愕の声を上げる中、聖はひっそりと呆気なく、落ちた。

 こうして、渡 聖(戸籍上は十六)の生涯が幕を閉じた――(嘘)



 十年前。

 ――起きたら俺は、もう居ないだろうけど。
 そう口にした青年の顔を見上げ、少女は瞳を潤ませる。その視線を真っ正面から受け止め、しかし青年は続く言葉を口にした。
 ――大丈夫だよね。
 言葉の中に隠された意味は確認だった。それを明確に受け取ったからこそ、少女は顔を俯かせたのだ。
 山小屋の中、たった二人で過ごしてきた三日間。幼い少女が明確に抱いているのは、初恋と言う甘酸っぱい感情であった。しかし、その幼さ故に、彼女はそれを認知していない。
 ただ、寂しかった。
 でも、それを口に出す事は、できない。青年の言葉には少女への信頼が含まれているのだから。
 だから少女が答えられるのは、肯定しかないのだ。
 ―う、ん……。
 短い沈黙の中で、ようやく言えた小さな声。こくりと頷いた拍子に、少女の目に溜まった涙が、一筋零れた。
 ふえっ、と呟いて、少女は頬を伝う液体を拭った。その後を、再び液体が伝ってくる。ゆっくりと、しかし次第に勢いを増し、ぽろぽろと拭いても拭いても零れてくる涙を一生懸命に拭っていく。
 ポン、と少女の頭に大きな物が覆い被さった。涙を拭く手を止めて上を見上げると、青年の優しい微笑。その微笑みにほだされ、少女はしゃくりあげながらも、顔に笑みを取り戻す。
 ――悪魔さん。
 少し掠れた声が、少女の喉を震わせた。
 ――わたし、悪魔さんの所に行くよ。いつかは判らないけど、絶対に悪魔さんの所に行くよ。
 つっかえつっかえ、少女の朱唇が言葉を紡ぐ。それを聞いた青年は、少女の頭に置いた掌を、ゆっくりと動かした。
 優しく撫でられて、少女の表情は笑顔になる。が、どこか寂しそうなその顔は、この後の別れを辛く思っているからだろうか。
 それでも少女は、瞳に涙を溜めながらも、更に言葉を紡いだ。
 ――だから、待っててね。わたしは悪魔さんの所に、絶対に行くから。
 そっ、と青年が少女の頭を抱いた。その胸に頭を擦り付けて、少女は嗚咽を漏らす。
 でも大丈夫だ。わたしはこの人の所に、きっと行けるから――
 少女が青年の温もりの中で誓った事。それを胸に刻んで、次第に心地良い温もりの中に飲まれていく意識を、幸せに思った。
 ――強いね。
 『悪魔さん』の声。そう聞こえた気がした。毛布の中で、二人一緒に暖め合いながら、少女はその気持ち良い感触を忘れない。
 次の朝、気付いたら沢山の人が少女の周りに居た。しかしその中に『悪魔さん』の姿はなく。ただ、ああ、やっぱりなのかぁ、と少女は一人納得しただけ。
 それでも大丈夫。彼女は、これからずっと、あの誓いを忘れる事はないのだから。

 ようやく、貴方の所に来れました――

 それは、結花が聖と、そして自らとの約束を果たした瞬間だったのだ。

END
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