第二章 「――聖司?」


 背後にいたのは、コンビニで出会った女性だった。その女性が、朱雀の顔を見て小さく声をあげる。
 視線を前へと戻せば、三体の生命体は動きを止めていた。攻撃の影響圏に入った事と、朱雀に対して注意を向けているのだろう。
 下位生命体が三体。恐らく、先日の事故の際の干渉によるたわみによって移動してしまったものだろう。身構え、軋むような音を出した生命体が、一歩後ずさった。
 直後、一体が朱雀へ飛び掛って来た。
 右足を引いて体勢を低くし、突き出された腕をかわすとその腹へと左肘を叩き込み、そのまま力任せに吹き飛ばす。
 見た目以上に硬く、それでいて硬い甲殻で全身が覆われた生命体。
 同族が攻撃を受けた事で刺激された二体の生命体が朱雀へと飛び掛る。
「――!」
 背後の女性が息を呑むのが判った。
 普通の人間では避け切れない速度で振られる爪を、朱雀は視認している。そうして、その直後には身体が動いていた。
 高さを変え、挟み込むように横合いから振るわれる爪を、上下に払う。下腹部を狙っての腕を足で踏み付けるようにして地面に叩き付け、首を狙っての爪を下方から振り上げた掌で押し上げるようにして打ち払った。そして、踏み付けた足を軸に身体を捻り、首を狙ってきた生命体に回し蹴りを放つ。そのままの勢いを消さずに回転を続け、光の筋を浮かばせた右の掌を下腹部を狙ってきた生命体の首の付け根辺りへと叩き付けた。
 回し蹴りを叩き込んだ生命体は弾き飛ばされ、壁に激突した。腕を踏み付けられた事で身体を固定され、避けられずに首の付け根に強烈な衝撃を叩き付けられた生命体が、その衝撃の強さによって腕が千切れ、後方へと弾き倒される。
 最初に吹き飛ばした生命体が起き上がろうとしているのを見て、距離を詰めると共に、後方に引いた掌に力を込める。懐に踏み込み、突き出した掌が生命体に触れる瞬間、その衝撃だけを生命体に叩き込んだ。掌に集約していたエネルギーが全て生命体に伝えられ、その身体を一直線に突き抜ける。硬い甲殻を貫き、体内にあるであろうその生命体の中枢部が破壊される。打ち抜かれた衝撃とエネルギーによって背中が破裂したように裂けた。生命体の体液が背後の壁を汚した。
 脇に倒れている二体目が起き上がるよりも早くその背中に掌を叩き付け、先程と同様に衝撃とエネルギーで甲殻の内部を貫く。その威力によって打ち抜かれた腹から体液が噴き出し、地面に奇妙な水溜りを作る。
 その直後、腕を引き千切られた三体目が飛び掛って来るのを、寸前で交わした朱雀は、交錯する瞬間に手刀で腹部を切り裂いた。手刀で切り裂かれた方向へと撒き散らされる体液を避けるようにして、朱雀はその場から身を退いた。
「はい、ご苦労様。後は任せて」
 言い、麻衣が朱雀の肩を叩いて前に出る。
 アフェクト・クリスタルを使い、生命体を消去して行く様を尻目に、朱雀は女性へと振り返った。恐らく、朱雀が使った光の筋を、彼女には見られていない。衝撃と共に、それとは違う視覚効果があったのは判るだろうが、朱雀がそれを放ったようには見えていないはずだ。
「……あ、あなたは――?」
 驚きを隠せない様子でも、それでも状況を把握しようとしている。
「私達はこういう仕事をしてる業者ってところよ」
 生命体を処理し終えた麻衣が朱雀の横に並ぶようにして、答えた。
「え……?」
「巻き込まれちゃったわけだし、あなたには二つ選択肢があるわよ」
 麻衣が言い、指を二本立てて見せる。
「一つは、この事を全て忘れて帰る。もう一つは、話を聞く。……まぁ、大抵は二つ目でしょうけどねぇ」
 乾いた笑みを浮かべ、麻衣が肩を竦めた。
 朱雀はただ、巻き込まれた女性に視線を向けていた。見覚えがあるどころの話ではない。彼女とは、昔知り合いだったし、名前が堤藍璃という事も憶えている。
(……まさか、こんな事で再開するなんてな……)
 表情に出さずに苦笑する。
 昼間、コンビニエンスストアで知り合いか、と問われた時には、気付かれなかった事に安堵した。コンビニは喋らずとも食料や物品が調達できるため、朱雀は重宝している。だが、そこで働いているとは思わなかった。
 昔とはだいぶ見た目も雰囲気も変わったものになっているために、思い出せなかったのだろう。
 元々、朱雀や麻衣は実際には存在しない機関に属している人間なのだ。組織の外部に、朱雀や麻衣を知る人物がいたとして、それと接触する事は好ましくない。いつ、どのような時に空間の不正干渉が行われるのか判らないのだ。兆候は察知でき、その場所も特定できるとしても、そこへ関係者以外の知り合いを連れて行く事は許されていない。
 偶然巻き込まれたという以外の理由で、外部の者が異空間の存在に触れる事はあってはならないのだ。
「あなたも、聞くでしょ?」
 確認を取るかのように問いかける麻衣に、藍璃が頷く。
「信じられないでしょうけど、まずは先に話を聞いて。まず、異空間ってものがあるの」
 その麻衣の言葉に、驚愕や疑問の表情を浮かべながらも、藍璃は口出しをしようとはしない。
「この世界とは異なる世界、異なる宇宙で構成された、全く別の世界。その異空間にはそれぞれの性質があって、それぞれの空間の中はその空間が持つ性質によって形作られているの。だから、この世界にはいないような生物がいたりするわけね。勿論、この世界の人間みたいに知能の高い生命体もいる空間があるわ。ここまではいいかしら?」
「……ええ、それで?」
「異空間同士は本来、交差しない平行線みたいなものだったんだけど、とある異空間に住む高等生命体が異空間同士を繋げる装置を開発してしまったの。その装置は、空間を歪ませて別の空間に歪みを捻じ込ませる事で空間同士を繋げる、という強引な荒業なのよ。で、この世界で異空間の存在をいち早く知ったのが、政府関係者だったから、世間の混乱を防ぐために公にせずに今までやってきたわけ。異空間同士を繋げるのも、色々と手続きや処理をして行えば影響のないうちに対処できるんだけど、不正にやると弊害が出るのよ。強引に歪ませて空間を繋げるもんだから、接続を解除した時にたわみが生じるの。そのたわみが元に戻ろうとする時にまた歪むから、異空間同士が一時的に繋がっちゃうわけ。それで繋がった場所から、繋げられた異空間にいた生命体が紛れ込んだって事よ」
「そんな事が……?」
「あるのよ。でね、それが問題なの。例えば、人間はこの空間が持つ性質として、空気中に存在する酸素と、身体を保つために約一気圧の圧力の二つが必要となんだけど、この空間とは別の空間が持つ性質の中には、酸素がなかったり、圧力が存在しなかったりってのもあるわけ。つまり、人間が入ったら即死っていう空間もあるの。これは全ての空間に存在する、あらゆる生命、物質にも言えるから、異空間の性質が代行できない要素を持つものは、その空間での存在はすごく難しいわけ。さっきの生命体があなたを襲ったのも、異空間に紛れ込んだパニックによるところが大きいわね」
 麻衣の言葉を、藍璃は相槌を打ちながら聞いていた。時折質問を返していたが、朱雀はそれを聞き流していた。
「で、そういった事に対処するための組織に、私達が所属してるのよ。世間的には実在しない組織として、ね」
 口元に笑みを浮かべ、麻衣が言葉を区切った。
「勿論、この話は世間的には秘密って事でお願いね。納得していただけたかしら?」
 麻衣の言葉がなくとも、それは藍璃にも解るだろう。
 異空間というものの存在は世間的には全く知られていない。一般の人や警察機関にそれを話したところで、妄想だと言われて笑われるだけだ。政府に話したとしても、軽くあしらわれ、揉み消されて終わる。
 それが世間に影響を及ぼした場合でも、異空間の存在が明るみに出ぬように政府や委員会が処理をするのだ。そう、先日の新幹線の事故のように。
「あの……そちらの方は……?」
 藍璃が朱雀へと視線を向け、口を開いた。
「組織内でもトップレベルの戦闘能力を持つ、私のパートナーよ」
 心持ち胸を張り、麻衣が言う。
「人間、ですよね……?」
「勿論。彼は組織内で厳しい訓練をこなしているし、人間の力で手に終えない生命体を倒す術も得ているの」
 麻衣の説明を聞く藍璃から、朱雀は視線を外した。
 恐らく、藍璃はまだ朱雀に対して何かしら見覚えがあるのだ。
「とりあえず、私達ほんとは休暇中だったし、そろそろ帰るけど、いいかしら?」
「……」
 麻衣の言葉に、藍璃は朱雀へ視線を向けたまま黙っている。
「何、朱雀に人目惚れでもしたの? 残念だけど、世間的には彼は存在しないし、忙しいから付き合えないわよ?」
 その藍璃へと告げる麻衣が、朱雀へも視線を向ける。
「……もしかして――」
 藍璃がゆっくりと口を開いた。
 その先の言葉が放たれる前に、朱雀は藍璃に背を向けた。
「――聖司?」
 藍璃の口から紡がれた言葉は、まるで何かに縋るかのような声だった。
「聖司でしょ? 神代、聖司……」
 その、藍璃の言葉を肯定も否定もせず、朱雀はただ、その場で目を閉じる。
「何言ってるの? 彼は神薙朱雀っていう名前があるのよ?」
 麻衣が口を挟んだ。
「聖司……!」
 藍璃の気配が朱雀へと動くのを察知し、朱雀は歩き出した。
「あっ、朱雀! 待ちなさいよ!」
 背を向けたまま、振り返ろうともせずに、朱雀はその場から離れて行く。まるで、忌々しいものから逃げるように。
 それを追って、麻衣が走り出す。
 藍璃をその場に一人残し、朱雀は泊まっているホテルへと向かった。麻衣は何も聞かず、ただ何か疑問を持っているのだと主張している表情を朱雀へと向けているだけだ。
 朱雀の足は速かった。朱雀自信は早めに歩いているようにしか見えないが、麻衣は軽く走らなければ引き離されていく程の速度だ。
「……あんた、あの娘の事、知ってるのね?」
 ホテルの部屋に入った直後、麻衣が言った。
 ガラス張りになっている正面の壁から、街の景色が見渡せる。朱雀は否定も肯定もせず、そのガラスへと歩み寄り、そこから街を見下ろした。
 あの中に、藍璃がいたのだと、言い聞かせるように目を鋭く細める。
「……別に詮索するつもりはないのよ?」
 ――そうじゃない。
 麻衣の言葉に、朱雀は首を左右に振る。
 彼女に藍璃の事を知られるのを恐れているわけではない。
 鋭く細めた視線は、夜景を映す。様々な種類の光がそこにあり、それでも消して拭えない闇もある。月明かりだけでは足りないとでも言うように地上に広がっている光。
「……聖司、って言うんだ……?」
 小さく溜め息を吐き、麻衣が呟いた。
 黒に近い赤色のカーテンに手をかけると、朱雀は一度夜景へと視線を向けてからそれを片手で閉ざす。その動作には、忌々しさも、羨みもない。ただ、朱雀がそこにいるべきではないと判断したかのような動作だった。
「……朱雀、あんた、明日あの娘のところに行ってきなよ」
 麻衣の言葉に、朱雀は無言でベッドに腰を下ろした。
「あれじゃあ流石に失礼すぎ。その後どうするかは別として、一度誤ってきなさいよ」
 怒ったような声が背後からかけられる。
 それにも朱雀は反応を返さなかった。返答に迷っていた、という事もある。
 首を曲げ、横目で麻衣へ視線を向けると、麻衣はいつになく真剣な視線を送ってきていた。
「朱雀にも色々事情があるのは解るけど、あんな再開は納得できない。決別するにしたって、あれじゃああの娘は朱雀に未練を残したままになるのよ?」
 真剣な目で、真剣な口調で、語る麻衣の言葉に、朱雀は視線を戻した。
 正面には閉ざされたカーテンがある。それは、自分の心なのかもしれない。
「折角の休暇なんだから、知り合いと会うのもいいじゃない」
 麻衣が口を尖らせて言った。
 元々、朱雀は休暇が欲しくなかった。したい事もなければ、趣味もない。委員会の本部とも言える施設にいる非番の時はひたすら訓練を続けていた。
 そのためにしか、朱雀は今を生きていない。
 まだ活動的で色々とやりたい事のありそうな麻衣はともかくとしても、朱雀としては任務続きの方が気が楽だった。仕事は、それをこなす事を考えていればいいのだから。
 休暇を貰っても、朱雀は何を考えていればいいのか分からない。考える事も、ゆっくり考えたい事もない。
 ただひたすらに訓練を続けた結果、朱雀は委員会でもトップレベルの戦闘能力を獲得した。その力は、仕事のために、朱雀が生きる目的として振るう。世界のためと言えなくもないが、朱雀にとってはそれが生きるための最後の綱なのだ。力がなければ、朱雀が生きている意味がなくなってしまうのだから。
「明日、私が起きた時にこの部屋にいたら無理にでも外に引き摺り出すからね」
 冷たい声で宣言し、麻衣がベッドの中に潜り込んだ。
 どうやら電気は朱雀が消せ、という事らしい。
 麻衣の起床時刻は別段遅いというわけではない。また、だからといって早いともいえない。微妙な時刻だ。
 それでも、朱雀は大抵の場合、麻衣よりも早く起床する。前に、極限まで訓練して疲労していたために、麻衣よりも遅く起きた時は顔に落書きをされた事があった。麻衣としては、朱雀の無表情を崩したかったらしいのだが、朱雀は鏡を見て眉を顰めただけで全て洗い流した。
 ベッドを立ち、部屋の電気を消してから、朱雀もベッドに入った。
 頭に過ぎったのは、藍璃の顔。彼女は確かに成長していた。彼女らしさを残したままで。
 ――だが、俺は……。
 形の良い眉を歪め、小さく歯噛みする。
 恐らく、朱雀は藍璃に会うべきではないのだろう。
 様々な思いが胸中に渦巻く。久しく感じていなかった感情だ。考える事も懐かしいとすら感じる。
 ゆっくりと眠りに落ちて行く中で、朱雀は一つの決断を下した。

 朝、目が覚めた朱雀は麻衣を起こさぬようにホテルを出た。用意されていた朱雀の分の朝食を食べ、外へ出た朱雀は小さく息を吐く。
 八時半を過ぎた頃の今の時間帯はまだ快適な気温だ。初夏を過ぎた辺りの時期では、その程度の気温が肌には心地良い。
 この街は朱雀の故郷ではない。生まれ育った土地は確かに近くだが、ここに来た記憶はほとんどなかった。もっとも、一人暮らしをするには丁度良いとも言えるであろう場所である事は確かだ。
 恐らく、藍璃もそういった理由でこの街に住んでいるのだろう。
 街の中を進み、昨夜、戦った場所を探した。麻衣の処理は完璧なはずだが、する事が特にない朱雀は、それを目で見て確認しておく事にした。
 夜のように、街の建物の上を移動できない状態でその場所を探すのには思ったよりも時間がかかった。
 狭く、人気の少ない路地に入り、その左右にある建物の隙間の通路から空き地に出る。
 戦闘の痕跡はない。あの、生命体の体液が飛び散ったはずの壁も、体液が水溜りを作った地面も、その跡すら見えない。ただ、朱雀が生命体を吹き飛ばした時に激突した壁が微妙にへこんでいるだけだ。それぐらい何の問題もないだろう。何より、人気のない場所なのだ。
 誰かがその場を通りがかったとしても、変化に気付く事はないだろう。
 状況を確認し終え、朱雀は来た道を引き返した。
 処理後の確認など、本来は不要な行為だ。しかし、何もする事のない朱雀には手近な時間潰しだった。
 時間を確認し、昨日も行ったコンビニへ向かう。コンビニのドアを開け、中へ入ると、藍璃がいるのが直ぐに判った。藍璃も朱雀が入って来た事に驚いた様子で、こちらの様子を伺っている。
 メモ帳とペン、それに昼食を持ってレジの前に、藍璃の前に立つ。
 代金を支払った朱雀は、メモ帳にペンを走らせた。
 ――夜、昨日の場所で待つ。
 そう書き記した紙を一枚破って藍璃の前に起き、朱雀は品物を受け取り、コンビニを出た。
(……つまらないものだな)
 公園らしい場所のベンチに腰を下ろし、朱雀は空を見上げた。
 何もする事がないという状態に対し、思う。非番で施設にいるというわけでもない今の状況では、訓練も出来ない。
 コンビニで買った昼食を取り、朱雀はゴミを公園に置かれているかごの中に捨てると、公園を後にした。
 まだ明るい街中では人が多く見受けられる。異空間という存在を全く知らず、その世界を保つために幾多の人が戦っている事も知らず、平穏に過ごしている人々。
 それが羨ましいわけでも、憎いわけでもない。ましてや、この空間を守っているのが自分だと自慢するつもりもない。
 自分とは生きている場所が違うのだと、ただ思い知らされるだけだ。
 自身に課せられた力を使いこなすため、訓練を積んでは、任務へと赴き、その力を振るう。朱雀が請け負う任務はそのどれもが厳しく、何度訓練を積み重ねても、無傷で終わらせる事は困難だった。
 傷付いては委員会の治療を受け、訓練を積み重ねる。
(――俺は、何を考えているんだろう……)
 思考が整理できない。
 過去の事を思い出しては、今へと意識を戻す。考えたい事も、考える事もないというのに、何かを強引にでも考えようとしているかのようだった。
 まとまらない思考は、動揺の現われなのか、それとも――
(……過去を振り返りたいのか……?)
 今まで振り返らずにただ駆け抜けてきた過去。
 小さく首を振り、朱雀は思考を振り払った。
 適当に街中をぶらついて時間を潰し、夕方になった辺りで、朱雀は昨夜、藍璃を置き去りにした場所へと向かった。昼間もそうだったが、その周辺は人気が少ない。
 朱雀が辿り着いた時には、まだ藍璃はいなかった。昨夜の時間帯を考えれば、想像できていた事だったため、それに対してさほど感想はない。
 手近な瓦礫の上に腰を下ろし朱雀は目を閉じ、ただその場に佇んでいた。
「――聖司……」
 その言葉と気配に、朱雀は閉じていた目を開けた。辺りは既に暗く、月が出ている。
 月明かりだけがあるその空き地のほぼ中央に、藍璃は立っていた。
「……聖司なんだよね……?」
 藍璃の言葉に、朱雀はゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
 神代聖司。委員会の構成員となる際に捨てる事になった名前だ。
「……色々、聞きたい事があるの、解るよね?」
 何から話せばいいか判らない、そんな意味合いの込められた言葉に、朱雀、いや、聖司は頷いた。
「とりあえず、家に来ない?」
 周囲を見回して尋ねる藍璃に、聖司はゆっくりと立ち上がる。それだけで肯定の意が伝わったのだろう、藍璃は聖司を誘導するように歩き出した。
 藍璃に連れられてやって来たのは、良くも悪くもない、アパートだった。
「髪、伸ばしたんだね」
 部屋の中へ聖司を案内しながら、藍璃が小さく呟いた。
 藍璃の部屋は、思っていたよりも物が少なかった。多少、藍璃の趣味でカーテンやベッドに手が加えられているが、基本的に用のないものが置いていないように見える。
 テーブルに座らせた聖司に、藍璃は紅茶を差し出した。
「聖司がいなくなってから、四年も経ったんだよね……」
 一口飲み、藍璃が呟く。
 出された紅茶のカップを持ち、聖司は口へ運んだ。飲みやすい熱さの紅茶で喉を一度湿らせると、カップを置く。
「色々あったんだよ、私には……」
 藍璃が語るのを、聖司は黙って聞いていた。
 両親が事故死した事、何度もトラブルに巻き込まれた事、大学受験に全て失敗した事、就職もできずに、アルバイトで生活している事。それらを話す藍璃の表情に、聖司に対する敵意はない。ただ、哀しさを感じた。
 彼女も、聖司と同じなのかもしれない。ただ、今を生きているだけなのかもしれない。
「聖司は……どうして、ここへ?」
 少し躊躇いながらも、藍璃は尋ねてくる。
 ――仕事の休暇。
 昼に購入したメモ帳にペンで文字を走らせ、それを藍璃の前に置いた。
「……もしかして、私と話したくないの……?」
 藍璃が聖司へ視線を向ける。
 恐らく、聖司が喋らないからだろう。口を利きたくないと思われたのかもしれない。面と向かって筆談で返答を返されれば普通はそう思うだろう。
 ――俺は、今、喋れない。声帯が潰されている。
 見せたメモ帳に記された文字に、藍璃が目を見開いた。
「――喋れない、の……?」
 半ば愕然としながらも放たれたその問いに、聖司は頷く。
 潰された声帯は委員会の治療技術でも再生させる事ができず、表面的な傷は消してくれたが、聖司は声を発する事は出来ないままとなった。
 無理に声を出そうとしても、息を吐くぐらいにしかならない。
「ごめんなさい……」
 ――気にするな。
 藍璃の謝罪に、聖司はメモ帳で返事を返した。
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