第三章 「……良かった」 目を覚ました麻衣は、隣のベッドが空になっているのを見た。 どうやら朱雀は昨日会った女性に会いに行ったらしい。 ただ単に外出しているだけだとも考えられなくはないが、朱雀に限って意味もなく外をぶらつく事はしないだろう。 朱雀は喋れないのだ。敢えて人のいる場所へ向かうような事はしない。目的がない限り、朱雀は動こうとしない性格なのだ。それは今まで組んできた麻衣が一番知っている。 「私も休暇を楽しまないとね」 一人呟き、麻衣は身支度を整えるとホテルから出た。 ある程度長い休暇でなければ、委員会の施設を離れて動く事はできない。非常事態が起こる可能性を考慮して、いつでも対処要員を残しているのだ。 施設内では衣食住の全てが供給されているが、それは最低限のラインを超える程度のものだ。様々なニーズがあるため、食事は十分だが、住む場所は簡素な一人部屋が与えられる程度だし、服に関しても基本的には数えるぐらいしかない。とはいえ、給料は出ているため、任務に赴いた現地で調達している者は少なくない。 「ん〜、いい天気ねぇ……」 見上げた空に、麻衣は小さく笑みを浮かべた。 都会と言える規模の街から見上げる空は、いくつかの建物に囲まれていても青く、広く見える。小さな雲が散り散りに、ゆっくりと流れているのを見つもて、麻衣は背伸びをした。 (……休みが終わるまで、後十日か……) もう四日も経ってしまったのだと、小さく嘆息する。 初日は本部からの移動に費やし、二日目は新幹線の事故の関係で書類を用意した。三日目になってようやく落ち着いたかと思えば、初日の不正空間干渉によるたわみが生じ、やむなく対処する事となった。 (……この間に何ができるかしらね…?) 街並みを眺めながら、麻衣は小さく息を吐く。 買い物をする事も考えてはいるが、それだけで休暇を過ごすわけにはいかない。 「――おっと」 不意に、歩いて来た大柄な男と肩がぶつかった。 「あら、ごめんなさいね」 立ち止まり、一瞥して謝る。 見れば、大柄な男の隣には別に数人の男がいた。どれも柄が悪そうである。 それに麻衣は嫌悪感を感じたが、顔には出さなかった。もっとも、それはそれで無感情さが出てしまったが。 「……ふん」 値踏みするかのように、大柄な男が麻衣を見つめる。 歩き出そうとした麻衣の前に、二人の男が立ち塞がった。 「はぁ、やっぱりそういう系?」 大仰にため息をつき、麻衣は周囲を見回した。 周囲の人通りは多くないが、全くいないわけではない。ただ、そのどれもが麻衣と周囲の男達に視線を向けようとはしない。周辺では札付き、という事なのだろう。 「全く、ワンパターン過ぎだわ……」 半眼で告げた麻衣の言葉に、男達が不審な視線を向ける。 (――もうちょっと、マシな事考えられないのかしら) 心底つまらなさそうに、麻衣はため息をついた。 「……おい、姉ちゃん、立場わかってんだろうな?」 背後から肩に手を置かれる。 「立場ぁ? わかってるわよ……」 口元に笑みを浮かべ、麻衣は小さく答えた。 そして、肩に置かれた手を素早く払う。 「相手が悪かったわねぇ、あんたらも……」 唇を舐めた麻衣の目がすっと細められる。 「何を言って……」 怪訝な顔をしながらも歩み寄って来る男に、麻衣は笑顔を見せ、口を開いた。 「私、正義の味方だから」 瞬間、その男の後頭部が地面に激突していた。 足払いと同時に、首を下辺りを手の平で突き、押し倒したのである。 「な――!」 仲間が一瞬で昏倒させられた事に、周囲の男達の顔から血の気が引いた。 背後から飛び掛って来た男に回し蹴りを放ち、頬に踵を叩き付ける。頬骨に罅が入ったのが、解った。口から血と二、三の歯を吐き出し、男が吹き飛ぶ。 左右からの時間差の攻撃を避け切り、順に攻撃を返す。首筋に手刀を叩き付け、まず一人。すぐさま足払いを仕掛け、体制の崩れたところで腕を掴み、肩の関節を外しつつ、地面に押し倒して、二人目。正面から加勢のために突撃して来たのであろう男の鼻頭に手首を叩き付け、同時に足を払う。鼻血が放物線を描いた。 背後から襲い掛かって来た大柄な男のベアハッグを屈んで避け、手の平を鳩尾へと突き出した。 「――はっ!」 呼気と共に突きに乗せた勢いを衝撃に変え、男の鳩尾から身体の内部へと流し込む。 突き抜けた衝撃に、大男の身体がくの字に傾いだ。そこへ下方から突き上げるようにして手の平を顎へと叩き付ける。先程同様に衝撃を打ち抜いた。 大男の脳が揺さぶられ、意思とは関係なく身体から力が抜け、終いには気絶する。 「……呆気ないわねぇ」 全滅した男達を見て、麻衣は呟いた。 仮にも異空間の生命体と対峙しなければならない立場にいるのだ。麻衣の戦闘能力は、並ではない。 (――こんなんじゃ訓練にもならないわ……) ため息を一つつき、携帯電話を取り出す。 「あ、警察ですか? 集団暴行と強制猥褻を受けました。正当防衛したので引き取って下さい。場所は――」 すらすらと通報しつつ、男達を見やれば、鼻を押さえた一人の男が逃げ出そうとしていた。 電話を終えた麻衣と視線があった男が、小さく悲鳴を上げる。 「ば、化け物だ……!」 「女性に向かって失礼ね!」 手加減しつつも気持ちだけは思い切りの勢いをつけて男の顔面を蹴りつける。 昏倒したのを確認し、麻衣はその場から何事もなかったかのように歩き出した。 (――ま、襲われるってのは美人の特権よね。そう考えると悪くはないけれど) 小さく笑みを浮かべ、そんな事を考える。 (それに、普段は朱雀が戦ってくれるから、腕が鈍っちゃうのよね……) 基本的に、異空間からの不正干渉には特殊対処員である朱雀が戦う事の方が多い。突発的な不正干渉ならまだしも、計画的な不正干渉であった場合には、戦闘能力の高い、訓練を積んだ高等生命体が現れる事が多くなるのだ。その場合、たとえ人間としてはかなりの戦闘能力や戦闘術を覚えていても太刀打ちできない事の方が多いのである。 もっとも、朱雀はその中でも一際戦闘力が高いわけではあるが。 (……そういえば、あの娘……朱雀の何なのかしら……?) 昨夜出会った、朱雀の知り合いらしい女性。 朱雀自身も、何か彼女に負い目があるような態度を取っていた。幼馴染みなのだろうか。それとも、昔の恋人なのかもしれない。 (どちらにしても、酷よね……) 朱雀は喋れない。 麻衣と朱雀が組むようになった時には、既に朱雀の声帯は破壊されていた。そのため、麻衣は朱雀の生の声を聞いた事がない。もっとも、その頃から朱雀はひたすら訓練に打ち込むような生活を送っていたし、麻衣に対して何らかのコミュニケーションを取ろうともしなかった。 委員会から下された指令と、麻衣の指示に従って、不正干渉者を葬るばかりだった。 当初は筆談をしていた時も会ったが、しばらくしてそれもなくなった。一年ほど経てば、麻衣にも朱雀の意思がなんとなくでも分かるようにもなったからだ。 (……実らぬ恋、かぁ……) 儚いなぁ、と小さく嘆息する。 たとえ今の朱雀の事を受け入れられたとしても、朱雀は委員会には必須の人材だ。休暇が終わればこの街を去らなければならないし、次にいつこの街に来る事ができるかも、判らない。来れない、という可能性の方が高いとすら言える。 結局のところ、朱雀とあの女性が結ばれる事はないのだ。 同じ委員会にでも所属していない限り、朱雀と会えるのは今の間だけになってしまうだろう。 (……朱雀、どうするのかしらね……) 恐らく、今日中に朱雀は結論を出すだろう。 どうやっても二人が結ばれる可能性は皆無だが、それでも会える間の付き合い方は自由だ。 (でも、朱雀の感情ってのも……) ふと、感情を前面に出して人と向かい合う朱雀を、麻衣は見た事がないのに気がついた。 普通に会うとしても、その場面が想像できない。黙ったままで、少しだけ驚いたり怒ったりする目つきしか、麻衣は知らない。身にまとっている雰囲気から、だいたい言いたい事はわかるようになったが、朱雀が笑った顔など、見た事がなかった。 (――想像できないわね) 無理に想像し、その不自然さに口元を綻ばせる。 「――いたいた、おい、麻衣!」 不意に、横合いから声をかけられ、麻衣はその方向へ顔を向けた。 「あら、白虎?」 建物と建物の隙間から手招きをしている青年の方へと向かう。 活動的なラフな服装に、どこか野性的な顔立ちの青年と共に、麻衣は路地裏へと入った。周囲に誰もいない事は彼が既に確認済みだろう。 「どうしたの?」 「――『局』の準備が終わるぜ」 表情を真剣なものに変え、白虎が告げる。 その言葉に、麻衣は一瞬驚いた表情を見せ、すぐに消した。 「……そろそろだとは思ってたわ……」 この場では二人にしか通じない言葉を用いて会話する。 周囲に誰もいないのは気配でも分かるが、仮に声が漏れたとしても、関係者以外には何の事か見当もつかないはずだ。 「委員会の対応は?」 「ああ、ちゃんと動いているみたいだ。ただ、局がどこで行動を起こすかはまだ判ってないようだぜ」 白虎の言葉に、麻衣は頷いた。 「……朱雀は、知ってるのか?」 「……ええ、局の存在自体は知っているはずよ」 「そうか、話さなくていいのか?」 「喋れないから、話し辛くてね……」 苦笑を浮かべた麻衣に同意するように、白虎も肩をすくめる。 「玄武や青龍には?」 「もう伝わってる」 「解ったわ、そろそろ頃合でしょうしね」 白虎と頷き合い、麻衣は言うと、周囲を警戒しながら路地裏から出た。 何もなかったかのように歩き出し、今後の事を考え始める。この後の買い物の事、食事の事、そして、ホテルに帰ってからの事。朱雀には伝えなければならない事がある。 局がいつ行動を起こすかは、判明次第、白虎が伝えてくれるはずだ。会話の内容から判断するに、今日や明日といった程に急ではなさそうだ。しかし、白虎が直接連絡に来たという事は、麻衣と朱雀がここに滞在している間に事が起きる可能性が高い、という事に他ならない。 (……急じゃないんだからもう少し気を抜いてもいいわよね) 一人納得させるように心の中で呟き、麻衣は考え込むのを止めた。 また、ホテルに戻ってから考える事に決めて。 * 切り出したのは、聖司だった。 「俺、引っ越すんだ」 その言葉に、目の前に立つ少女、藍璃が目を見開く。 「多分、もう会えない」 視線を逸らし、聖司は告げた。 活動的な印象を与えるショートカットの黒髪の少年。四年前の聖司は、髪が短かった。 「え……?」 藍璃は四年前も今も、あまり変わらない。 「もう、今日中に行かなくちゃならないんだ」 聖司の言葉には、藍璃への気遣いがある。しかし、その『引っ越し』への迷いはなかった。 「そんな……」 「一緒に高校行けなくて、ごめん」 藍璃の言葉を遮るように言い、聖司は背を向けた。 「聖司――」 「――さよなら、藍璃」 背を向けたまま、聖司は告げると走り出した。彼女が何かを言う前に、留まりたいと思う心を強引に突き動かして。 藍璃は、追って来なかった。いや、追って来れなかったのだろう。 聖司と別れてから、藍璃の身に起きた事を聖司は一通り聞かされた。 「あの後、私呆然としちゃってね……一時間ぐらいしてから、急に哀しくなったわ」 藍璃はそう言って紅茶を一口飲んだ。 ――多分、気付いてるよな? 聖司の書いた文字を見て、藍璃は頷いた。 四年前、聖司が藍璃の前から去ったのは、ただの引っ越しではない。あの日の数日前、聖司は委員会からの勧誘を受けたのだ。 異空間から現れる生命体の前に、人類の兵器はほとんど通用しなかった。そのため、新たな対策が必要となったである。その際、特殊な適正を持つ者が必要となったのだ。その一人として、聖司が選ばれた。 最初、聖司はその勧誘を拒否したのだが、勧誘を受けた翌日、聖司の両親が異空間から現れた生命体によって重傷を負った。現存の技術では治療不能な傷を受けた両親を治療する、という交換条件で、聖司は委員会に入る事を受け入れた。 本来、関係者以外の者に干渉してはならない委員会は、治療技術を提供する事ができない。たとえ、異空間から現れた生命体によって傷付けられたとしても、委員会関係者との戦闘に巻き込まれて怪我を負った場合以外は、委員会は干渉できないのだ。 聖司の両親は一命を取り留めたものの、未だに意識が戻らない。既に一般の病院には移されているものの、両親の意識が回復したという知らせは受けていないのだ。 「……そう、だったの……」 差し出されたメモを読んだ藍璃の言葉に、聖司は頷いた。 「じゃあ、聖司は他の組織の人とは違うって事よね?」 藍璃の言葉に、聖司は一瞬躊躇したが、頷いた。 メモ帳にペンを走らせる朱雀を、藍璃はただ眺めている。 聖司は、委員会内ではただの対処員ではない。特殊対処員とでも呼ぶべき立場にあるのだ。 異空間に存在する生命体の中でも人間は戦闘能力が極めて低く、この空間の性質では強力な兵器も、異空間ではあまり効果のないものになってしまう事も多かった。そのままでは、異空間からの生命体がこの空間に強い影響を及ぼそうとする時に対処し切れないと判断した委員会は、一つの手段を取る事となった。 エニグマという、未知の物質を全身に埋め込む事で、身体能力を飛躍的に高めると同時に、特殊な力を操れるようにしたのである。 その際、聖司に埋め込まれたエニグマのコードは、『朱雀』だった。 神薙朱雀という名前は、委員会の特殊対処員となる時に、エニグマの存在もあって改名されたものなのである。 「……エニ……グマ……?」 メモ帳を見て、藍璃が呟いた。 ――俺の手を見ててくれ。 聖司はメモ帳で藍璃にそう告げると、右手を藍璃の前に差し出した。 意識するだけでエニグマは操る事ができる。眠っている状態ではエニグマが使用できない事を考えると、エニグマを扱うにはそれなりに目が覚めている状態での心構えが必要なのだろう。 聖司の手の平に脈打つように赤い光を流す黒い筋が浮かび上がった。 藍璃が息を呑む。 全身に血管のように埋め込まれたエニグマは持ち主の身体に擬態するかのように同化し、持ち主の意思に応じてその力を解放する。そうでなくとも、エニグマは埋め込まれた者の身体能力を向上させる特性を持ち、力の使用時にはその上昇値すらも凌ぐ戦闘能力を発揮するのだ。 更には、この空間の性質では原理が解明不可能なエネルギーを操る事が可能となる。 ――それが、エニグマだ。 どの空間にも自然には存在しないエニグマに対抗できる生命体は存在しない。 空間と空間の狭間、本来は何も存在しないはずの虚無の領域にエニグマは存在しているのだ。その生成原理も、エネルギー源も、全てが不明な物質として。 加工技術も制御技術も明確には確立されておらず、聖司のようにエニグマを埋め込まれた者も、まだプロトタイプとしか言えない。適正がなければ扱えないのである。しかも、その適正を持つ者も非常に少なく、適正そのものについてもほとんど解明されていない。エニグマが何らかの反応を示す者が適正があると判断されるのだが、その適正の基準も、適正の高さも測定する事が出来ないのだ。 「……そんな事、話しちゃってもいいの?」 恐る恐るというふうに訊いてくる藍璃に、聖司は小さく首を振る。 ――本来は禁止されている。 「……解ったわ。誰にも言わない」 聖司の書いた文字を読み、藍璃は言った。 言わずとも、エニグマの存在は委員会でも重要なものだ。特に、この空間が他の空間に対応するためには必要不可欠な要素でもある。迂闊に外部に洩らしてはならない。 「でも、どうして私に教えたの?」 藍璃にそれを話したのは、彼女が信頼できると聖司が判断したからだ。 それに―― ――声も失くし、普通の人間でもなくなった俺を、避けようとしないからな。 エニグマを浮かび上がらせた手の平を見ても、藍璃は驚きはしたものの、表面的には脅えたり恐れたりしなかった。むしろ、エニグマの説明をした事に対して心配している。 「だって、聖司は、聖司のままでしょ?」 藍璃が小さく微笑む。 その笑みに、聖司は胸が微かに痛んだ。 言葉では説明した。しかし、エニグマの真価を発揮して戦う聖司を見ても、同じ事が言えるのかは判らない。それほどまでに、エニグマの持つ力は強大なのだ。 訓練を重ねた聖司自身、エニグマを完全に制御しているかどうか怪しい。エニグマの力は扱っている聖司ですら未だに底が見えず、どれだけの力を扱う事ができるのか解っていない。 まだ、藍璃はエニグマを前面に押し出して行使する聖司を見ていない。 聖司は小さく苦笑した。 (……結局、俺は逃げたかったのかもな……) 藍璃と会い、声を出せない事やエニグマの事を話したのも、本当は藍璃に突き放されたかったからなのかもしれない。藍璃に突き放されるという形で関わりを断とうと、無意識に考えていたのかもしれない。 彼女に突き放される事で、自分自身の未練を強引に捨て去ろうとしていたのだろう。 四年前、彼女の前から姿を消した事を、心の底で聖司は後悔していたのだろう。そして、それを認めたくないが故に、ひたすら訓練に打ち込み、任務を生きる目標としてきたのだ。 「それで、聖司はどのくらいここにいるの?」 ――二週間の予定で来ている。もう四日目だが。 藍璃の言葉に、聖司は文字で返した。 「……休暇、したい事あったりする?」 少し俯いた藍璃の言葉に、聖司は気づいた。 未練があったのは聖司だけではないのだ。藍璃も、聖司の事を引き摺っていたのかもしれない。 「もし、良かったら、また……」 一言一言と言葉を紡ぐ藍璃に、聖司は知らず顔を背けていた。 (――いいのか……それで……?) 恐らく、聖司も藍璃も考えている事は同じだ。 昔のように、会いたいのだ。 だが、そうなれば辛いのはその後だ。どう行動したとしても、聖司は休暇の期間が過ぎればこの街を離れなければならない。そうなれば、次に会えるかどうか判らないのだ。 「……私と……」 言葉が紡がれていく。 心が傾いているのははっきりと解った。 「――付き合って!」 顔を上げ、藍璃が告げる。 ――昔のようには行かない。解ってるな? 文字を読んで、藍璃が頷いた。 大学に落ちたと言っていたが、藍璃は決して頭が悪いわけではない。休暇が終われば聖司は委員会に戻らなければならない事ぐらいの予測はできているはずだ。委員会にはエニグマを扱える者が必要なのだから。今の休暇は、この四年間の聖司の働きに対するささやかな謝礼なのだ。エニグマを持つ者は、いついかなる時でも不慮の事態に対応できるよう、できる限り委員会の手元においておく必要があるのだ。そのうちの一人を二週間も不在にさせるだけでも大変なことなのである。 ――それでもいいなら。 文字を見た藍璃の表情が明るくなっていくのが判った。 「……良かった」 目の端に薄っすらと涙を浮かべ、藍璃が呟く。 (――いいんだな、それで……) 聖司は自分自身に、問う。 エニグマを用いて戦う聖司も、藍璃が受け止めてくれるとは限らない。それを藍璃の目の前で使う事を聖司は望んではいないが、行使するしないを問わず、聖司は自分の置かれている状況を藍璃に知っていて欲しかった。今、目の前でエニグマの真価を藍璃に見せる事はできない。少なからず周囲に影響が及んでしまうだろうし、対処すべき時以外で部外者にエニグマを見せるのは委員会の掟に反する。 既に一度、エニグマを埋め込まれている事を教えるために、藍璃に見せてしまっている。委員会に知られれば、厳重注意ぐらいは受けるはずだ。 あからさまに処罰をしないのは、委員会がエニグマの戦闘能力を良く知っているためだ。この空間に存在する特殊対処員が全員で委員会に対して反抗すれば、委員会に勝ち目はないだろう。対処のために埋め込んだエニグマを外部から制御する技術は、今は存在しない。そのために、委員会としては特殊対処員を優遇するほかに手がないのである。 もっとも、エニグマの存在そのものもほとんどの人間には異様なものにしか見えない。それを見せるという行為にも、それなりの勇気が必要だ。 ――今日は、もうホテルに戻る。明日、また会おう。 書き記し、藍璃に見せる。 一度、麻衣とは連絡を取っておく必要があった。何をするにせよ、この街の付近で異空間関連で何か起きた時には、聖司と麻衣が対処しなければならない。 不慮の事態はいつ生じるかわからないものだし、異空間関連の事象は、委員会に所属している者でなければ治める事はできないのだ。特殊対処員だからといっても、できない事はある。対処する際には麻衣と合流する必要があるし、互いに何をしているのかぐらいは把握しておかなければならない。 「わかったわ」 微笑む藍璃に、聖司は腰を上げた。 藍璃に見送られながら、部屋のドアを開けようとして、聖司はメモ帳を取り出した。 「……どうしたの?」 それに首を傾げる藍璃に、聖司はメモ帳に書いた文字を見せる。 ――昨日は、すまなかった。 「ううん、いいの。もう気にしてないから」 藍璃が微笑んで言うのに、聖司も自然と笑みを返していた。 「じゃあ、明日ね。またバイトしてると思うけど」 頷き、聖司は藍璃の部屋を出た。 ホテルへの帰路に着きながら、自分が笑みを見せた事に聖司はようやく気付いた。 (――笑ったのも、久しぶりだな……) 嬉しい、という感情を抱いたのも四年ぶりかもしれない。 明日というものを楽しみに感じたのも、聖司には久しぶりであった。 |
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