第九章 「朱雀!」


 音も、風も感じなかった。ただ、一瞬麻衣の姿がブレたかと思った瞬間、視界が反転していた。身体が床に叩き付けられた衝撃で、攻撃されたのだと悟る。
(な――っ!)
 受け身も取れずに右肩から床に叩き付けられ、反動で身体がバウンドする。
「デバイスの準備はもう直ぐ終わるわ」
 聖司が空中で体勢を整える暇を与えずに追い討ちはできただろうに、麻衣はそれをしない。
 両足を地面に着け、身体を屈ませて慣性によるベクトルを押し殺す。視線は麻衣へ向けられていたが、自分の表情が強張っているのが、聖司にも解った。
 麻衣の動きが見えないどころの話ではない。動きは見えずとも、そこに生命体が存在すれば、聖司はその存在を気配として認知できる。例え、身体の反応が追いつかずとも、攻撃を受けるであろう事は感じる事ができるのだ。しかし、それがなかった。
 まるで、その場から瞬間的に位置を転移させたかのように、気配の動きがない。
 だが、アフェクト・クリスタルを使ったようには見えなかった。
「どうして、そのエニグマに『神薙』のコードが付けられたか知ってる?」
 瞬間、麻衣の姿が残像を残して動く。
 聖司の真正面に、コンマ一秒もの時間もなく肉薄した麻衣が、攻撃を繰り出す。その軌道が見えない。防御する暇もなく、脇腹に衝撃を感じ、聖司は吹き飛ばされた。蹴られたのだと、建物の壁を貫いた後で理解する。
 屋上へ上がる階段のある部屋の壁の一枚を突き破り、反対側の壁に背中が埋まっていた。
「言葉の通り、神を薙ぎ払える力があると考えられたからよ」
 麻衣が、正面の壁に空いた穴から歩いてきているのが見える。
 衝撃による痛みはエニグマによって治癒していた。しかし、麻衣の動きを捉えられなかった事で、戦闘能力の差ははっきりとしている。翼を畳み、通常のエニグマ発動状態になっているとは言え、その能力差は聖司を動揺させた。
「でも、本当に神を薙ぎ払えるのかしらね?」
(――どういう事だ……?)
 白虎の言葉が思い返される。白虎は、麻衣には『神薙』のエニグマでは敵わないと言った。
 それはつまり、麻衣がエニグマに対抗する何かを持っているという事だ。だが、今、目の前にいる麻衣がそれを使っているのだろうか。外見上の変化は全くないというのに。
「……どうして、これだけの力があるのか、不思議に思うでしょ?」
 麻衣が明るい笑みを浮かべて言う。
 自分の優位を確信しているのだ。
「――私も、エニグマ持ってるのよ」
 瞬間、麻衣の身体に筋が浮かび上がった。
 しかし、その筋は聖司達のエニグマと違い、白い筋だった。その白い筋に、プラチナの光が流れている。確かに、目には見えるが、高速で移動する麻衣の身体にその光を見るのは難しい。移動を始める瞬間にエニグマを発動させ、攻撃を終えた時にはエニグマの力を抑制させていたのだ。
「私のエニグマは『天神』のコードを持つ『神薙』の敵よ」
 挑戦的な視線を麻衣が聖司へと向ける。
「エニグマは意志の力で、その力を増幅させる」
 麻衣が呟き、攻撃へと転じる。その場に残像が残るほどの速度で、麻衣が移動していた。
 気配がないのは、その速度がこの空間の物理法則を超えているからだ。空気の流れも起こさず、音も立てずに移動するという事は、この空間の性質に囚われずに、エニグマがその力を発揮しているためだ。
「そして、エニグマは全ての空間の性質に左右されずに力を発揮する」
 麻衣の声が真横から聞こえた。
 対処しようと、壁から身を離すほどの時間もなく、麻衣が聖司と壁の隙間に足を差し込み、聖司を壁から引き剥がすかのように蹴る。瞬間、聖司は屋上床に身体の前面を打ち付けていた。
(――くっ……!)
 腕で身体を跳ね上げて身を起こし、麻衣へと身体を向ける。
 それと同時に、背に翼を生み出し、羽を開いた。両腕にブレードが形成され、エニグマの発動が第二形態へと移行する。知覚の拡大と自身の素早さの大きな上昇を認識し、麻衣に対して身構えた。
「つまり、エニグマには空間の『枠』を超える力がある」
 麻衣の速度を辛うじて知覚し、聖司はブレードで麻衣の蹴りを受け止めた。
「第二形態、ね」
 呟き、麻衣が後方へとステップを踏んで距離を取る。
 瞬間、その存在がブレた。プラチナの燐光に包まれて、麻衣が聖司の背後に回りこもうとするのが分かる。反射的にブレードを振るい、麻衣の手刀を受け止め、回し蹴りをもう一方のブレードで力の向きを逸らして捌いた。そして、その直後には既に反撃へと身体が動いている。
 ブレードを引き戻しながら回し蹴りを放ち、後方へと逃れた麻衣にブレードを突き出す。それをかわした麻衣に、もう一方のブレードを薙ぎ、屈んでかわす麻衣に更に蹴りを放った。
 蹴りの向きを逸らし、それと同時に足を掬い上げる麻衣に、聖司は背中の翼を使う事で体勢を保った。ブレードを振るって麻衣に足を放させると、もう一方のブレードから閃光の刃を打ち出し、牽制する。牽制のための朱色の刃を掌で打ち払い、麻衣が踏み込んだ。
 速度は聖司を上回っていたが、対応できない程ではない。攻撃を受け止め、聖司が反撃できているのがその証拠だ。だが、聖司は自分が不利だと感じていた。
 聖司や白虎達のように、エニグマの発動状態に第二形態があるように、恐らくは麻衣のエニグマ『天神』にも第二形態が存在すると見て間違いない。そして、その時の戦闘能力は今戦っている麻衣を大きく上回るだろう。現状で、辛うじて戦闘能力が拮抗しているのだから、第二形態同士となれば、戦局は麻衣に傾く。
 それを避けるためには、第二形態に移行させる暇を与えない他には手段が存在しない。攻撃を繰り出し続けるしかなかった。
 視線を刃のように鋭く細め、意識を研ぎ澄ます。聖司の意志によって拡大した知覚が、麻衣の動きを捉え、それに身体の反応が追いつく。
 瞬間、麻衣の表情が変化した。今までの表情から余裕が消え失せ、鋭さと冷たさを併せ持つ視線が聖司に向けられる。その視線と、聖司の視線が交錯した。
 朱色の光を帯びたブレードが打ち払われる。突き出された手刀を腕で弾き、回し蹴りを放つ。それを下方から持ち上げた腕が打ち払い、蹴りが繰り出される。ブレードの突きがかわされ、繰り出される掌底をかわし、回し蹴りを放ってはかわされ、反撃の手刀をもう一方のブレードが打ち払う。
 流れるように攻撃を繰り出し、その流れに逆らわぬかのようにかわしてゆく。朱色の光とプラチナの光が尾を引き、攻撃の流れの軌跡を描いていた。
 鋭さを増していく視線に、冷徹さの増していく視線がぶつけられる。研ぎ澄まされた意識が、感情の消え失せた意識が反射的に身体を動かしていた。
 聖司の背の翼が光を放った。四本の光が聖司と麻衣を迂回するように曲線を描き、その先端を麻衣へと向けて収束する。
 瞬間、麻衣の両手にプラチナの光でできた剣が生成された。それを振るい、聖司はかわすために後方へと飛び退く。両手を左右に向けた麻衣は剣を回転させ、四つの閃光を防ぐと、身体の前面で交差させるようにして振るい、剣から手を放す。凄まじい速度で交差させて投げつけられた閃光を、避けられないと判断を下した聖司は意識を集中させ、身体の前面でブレードを交差させ、受け止めた瞬間に左右に切り開いた。凄まじいまでのエネルギーのぶつかり合いが閃光となって周囲に撒き散らされる中、聖司は麻衣へと突撃する。麻衣も聖司へ向けて踏み込んでいた。
 その麻衣の口元に笑みが浮かんだのを、聖司は見た。刹那、麻衣の姿がブレ、視界から消え失せる。横へと逃れ、聖司の脇へ、背後へと回り込む麻衣へ振り返ると同時にブレードを振るう。だが、そこに麻衣の姿はなく、背後に気配を感じてブレードを振るえば、そこに屈んだ体勢で右手首に左手を添えた麻衣がいた。
「――!」
 瞬間、爆発的な衝撃が腹部に打ち込まれ、聖司は大きく吹き飛ばされた。
 建物の屋上から吹き飛ばされ、背中から後方にあった建物に叩き付けられる。そのままその建物の壁を貫き、ビルそのものを貫いてようやく失速する。
 エニグマを発動していない、ただの人間ならば腹に穴が開いていてもおかしくない程の衝撃だった。
 奥歯を噛み締め、焦点のずれた視界を元に戻す。全身に感覚があるのを認識し、背後の翼を広げて落下速度を打ち消すと、身体を起こす。麻衣の追撃を警戒し、高度を下げて地面に足を着けた。
「甘いっ!」
 瞬間、真上から頭を下に、麻衣が突撃してくる。
 迎撃のためにブレードを振るった瞬間、そのブレードを掴み、麻衣が身体の上下を入れ替えると同時に上方からの蹴りを繰り出した。それを受け止めるために構えたもう一方のブレードを麻衣は空けた片手で掴み、身体を捻って回し蹴りに転じる。
 脇腹に直撃を受け、聖司は弾き飛ばされた。その方向にあった建物の壁を何枚も貫き、反対側の道まで吹き飛ばされていた。
「――聖司っ!」
「――!」
 聞こえた声に、聖司は自分のダメージが吹き飛んだような気がした。それと同時に、驚愕と共に声の方向へ振り返る。
 そこには藍璃がいた。
 ――どうしてここに……!
 倒れた状態から飛び起き、周囲に警戒しながら藍璃の前へと移動する。
「……何もできないのは解ってるけど、じっとしてられなかったの」
 藍璃は視線を逸らさず、聖司を見つめていた。
 身体中に光の走る黒い筋を浮かび上がらせ、ところどころにプロテクターを、腕には朱色の刃、そして背には朱色の燐光を帯びた翼を持つ聖司を。エニグマの筋は無論、顔にも浮かび上がっている。それが視覚や聴覚を拡大させているのだから。
 ――!
 藍璃に意思を伝えようとするよりも前に、聖司は麻衣の気配を察知していた。聖司が穴を開けた建物の方から高速で接近してくる麻衣に、聖司はブレードを振るう。麻衣の跳び蹴りを受け止め、弾き飛ばす。
 藍璃の目の前で戦う事への抵抗感よりも、この状況を打破しなければならないという意志が勝った。目の前の藍璃に背を向け、聖司は吹き飛ばした麻衣へと突撃する。繰り出される手刀をブレードで下方から打ち上げて捌き、回し蹴りを叩き込み、もう一方のブレードに纏わせたエネルギーを放って追撃を行った。
「……!」
 麻衣が一瞬だが驚き、目を見開くのが見えた。

 *

 目の前で繰り広げられる戦いは、藍璃の想像を超えていた。目で追えず、空気の動きもほとんどないというのに、二人は高速で戦っている。
 聖司の敵となっているのは、前に一度だけ見た聖司のパートナーであるはずの女性だった。その女性と、聖司が戦っているという事に、藍璃は漠然とした疑問を抱きながらも、繰り広げられる戦いに言葉を失っていた。
 攻撃がぶつかり合う時に生じる閃光だけが、戦闘の軌跡を描いている。
 聖司が藍璃に荷物を渡して、街中へと向かってから、しばらくは様子を見ていた。ホテルの上層で爆発のようなものが見えたりした後、少しの間は何も起きなかった。しかし、しばらく経つと、周囲の建物に何かがぶつかるような変化が起き始め、その後で朱色の光と蒼い光、黄色の光が建物の合間を飛び交っているのが見えた。
 聖司が赤い光である事は、麻衣はエニグマの説明を受けた時に、聖司の腕に浮かび上がる筋を実際に見ていたため、判った。
 そして、龍のようなものに変化した蒼い光が周囲の建物を大きく破壊し始める。黄色の光と朱色の光が建物の中に飛び込んだが、出てきたのは赤い光のみだった。そして、蒼い龍も朱色の光が叩き落した。
 そこまで見た所で、藍璃は街の中へと向かって歩き出していた事に気付いた。
「聖司……」
 目の前で戦いを繰り広げる聖司は、エニグマの力を使っている。
 その戦闘能力の凄まじさは、藍璃の足を止めていた。身動きが取れない。目で追えないというのに、視線が戦場から離れない。
「……見えてきたわ」
 女性の呟きが聞こえた瞬間、聖司が目の前のコンクリートに背中から激突した。
 小さく悲鳴が漏れた。大きくバウンドした聖司が空中で身体を捻ると同時に左右に翼を大きく開き、体勢を整える。朱色の燐光を周囲に振り撒いて翼を広げたその姿に、藍璃は一瞬、見惚れていた。
 その身体に一瞬、朱色の光が駆け巡るのが見えた気がした。

 *

 麻衣のエニグマが第二形態に変化するのを、エニグマが認識した。大きな共鳴が、その戦闘能力の上昇を物語る。こめかみから頬へと、汗が伝う。
 麻衣の背中に一対のプラチナの翼が生成される。身体にはエニグマが薄っすらと布生地のようなものを作り出し、さながらドレスのように鎧を作り出していた。
 その表情には静けさと余裕が浮かんでいる。
 聖司はアフェクト・クリスタルを取り出し、麻衣の周囲の空間を隔離した。隔離した後でその空間の内部をアフェクト・クリスタルで操作する事で、致命傷を与えられるかもしれないからだ。
「無駄よ……」
 そう、麻衣が呟いた瞬間、隔離空間が打ち壊された。
(――!)
「言ったはずよ。エニグマは全ての空間の枠を超えた力を持つ、と」
 麻衣が掌を持ち上げ、聖司へと向ける。
「良い事を教えてあげるわ。アフェクト・クリスタルも、リンケージ・デバイスも、勿論、ユニオン・デバイスも、空間に干渉する道具には全てエニグマが使われているのよ」
 空間を移動するための道を作るリンケージ・デバイスや、空間に影響を及ぼすアフェクト・クリスタルにエニグマが使用されているというのだ。
「勿論、最初のリンケージ・デバイスは違うわ。超巨大なエネルギー発生装置が空間を歪ませたのが、一番最初に空間に干渉したものよ。その際に、その空間と繋がった空間の二つでエニグマが得られたの。それを研究してできたのが、リンケージ・デバイスで、その応用がアフェクト・クリスタル」
 凄まじいまでのエネルギーが空間そのものを捻じ曲げた。それが最初期のリンケージ・デバイスだと言われている。その後に、空間が捻じ曲げられた事で生じた、虚無の領域との接続によって、エニグマが空間の中に残された。エニグマには空間の枠を超える力があるというのは、枠の上を飛び越える力であると共に、枠の力そのものを超える力をも持つという二重の意味を持つ。
「だからこそ、空間の枠が消えたとしても、エニグマを持つ者は影響を遮断できる」
 エニグマを高度なレベルまで発動させれば、それだけ枠を超える力は強くなる。呼吸をせずとも、食事をせずとも、存在し続ける事が可能となるのだ。
 聖司達が、風を起こさずに行動していられたのも、エニグマの力によるものなのだ。
「でも、デバイスのエニグマには、足りないものがあるのよ」
 聖司は、麻衣の言葉にそれが何なのかを理解した。
「意志によるスイッチのないエニグマは、力を発揮しない」
 アフェクト・クリスタルも、リンケージ・デバイスも、生命体が指示させる事でその能力を発揮させている。操作する者が必要なのだ。
「ユニオン・デバイスに必要な準備は、その起爆剤となる意志の注入」
 エニグマを持つ者が、エニグマを媒介にしてユニオン・デバイスへと、どう力を発揮させるのかを入力するのである。だが、それをするだけの意志はかなりの集中させた意識を必要とした。
「だから、私達はあまり説得しようともせずにあなたと戦ったのよ」
 麻衣が告げる。
 元々、麻衣や白虎、玄武、青龍が聖司と戦うのは予定されていたのだ。ユニオン・デバイスのエネルギーを貯めるために。その激化するであろう戦闘で高められた白虎や青龍、玄武の意志を何らかの形で麻衣がユニオン・デバイスへと流し込んでいく。そして、足りない分は麻衣自身が戦う事でも補う。
「あなたが仲間になった場合は、別の方法を使うつもりだったけれどね」
 残念そうに麻衣は言った。
「けど、あなたがデバイス本体を攻撃しようとしなくて助かったわ。デバイスが攻撃されたら、起爆してしまうから」
 聖司がユニオン・デバイスに攻撃をしなかったのは、下手に扱った場合の時に起こるであろう事態を恐れたからだ。恐らく、起爆剤となる意志力がなくとも、この空間の枠ぐらいは破壊できるだけのエネルギーは蓄えられていると考えていい。
「そうそう、止める方法だけど、私は知らないわ。元々、止める事は考慮されてないから」
 聖司が問おうとするよりも早く、麻衣は告げた。
「アフェクト・クリスタルで空間を隔離しても無駄だし、それ以前にアフェクト・クリスタル程度なら、私でも……」
 言い、麻衣が手をかざした瞬間、聖司の手に握られていたアフェクト・クリスタルに罅が入った。
(――!)
 罅から砕け、崩れ落ちていくクリスタルを聖司は呆然と見つめていた。
「さて、どうするのかしら?」
 麻衣が聖司に笑みを向ける。
「――何で……?」
 問うたのは、藍璃だった。
「どうして、空間を壊そうとするの?」
 横から見ていた藍璃にも、話の意図するところは掴めたらしい。麻衣が何故、空間を統一させようとしているのかを問い質しているのだ。
「……私はね、エニグマの力がそのためにあるようにしか思えないのよ」
 麻衣が軽く目を細め、語りだす。
「エニグマは、どの空間にも属さない、虚無の領域に存在し、空間の枠に影響されず、逆に枠に影響を与える程の力を持つ……不自然だと思わない?」
 何もないはずの虚無の領域に存在する、どの空間においても解析不能な物質。この空間で『謎のもの』を意味する名を与えられたその物質の存在は、物質そのものと同様にまともな推測すら立てられていない。
「特性が枠に影響を与えるというのなら、そのために存在しているとは思えないかしら」
「理由もなく存在するのがおかしい事なの……? 空間の存在に何かの意味があるの? 私には、分からない」
 麻衣の言葉に、藍璃が反論した。
 この空間が存在しているというのは事実だが、それに理由があるとは考えられない。それが藍璃の考えなのだろう。空間の存在や、その内部に住む生命体の発生や存在には理由というものを見い出す事ができるのかは不明だ。この空間の地球という惑星に対して、生命体が存在するというのは、度重なる偶然であると説明付けられている。その考えには、理由も意味もなく、ただ存在するという事実だけがある。
「そうね。私にも分からない。だから、動かすのよ、『世界』を」
 全ての空間の事を、麻衣は『世界』と呼んだ。
 虚無の領域に存在するエニグマが何故、枠に影響を及ぼす特性を備えたのかは分からない。だが、枠に影響を及ぼす特性を持つからには、枠に何かしら関係があると考えられている。麻衣は、それを『枠を破壊するため』と捉えたという事だろう。
「この空間も、他の空間も、異空間との接触によって変わりつつある」
 十三ある全ての空間は、麻衣の指摘通り変化が起きつつあった。
 異空間との接触、交流により、その空間の内部に異空間というものの存在の認識が拡大しつつある空間がほとんどなのだ。この空間にしても、今までは国や政府の上層部にしか知られていなかった委員会が、少しずつだが下層へも情報が広がりつつある。やがては、どの空間にも異空間の存在は認知される事となるだろう。
「でも、このままだと全ての空間が崩壊してしまう事を、誰も知らない」
「――え……?」
 麻衣のその言葉に、藍璃と聖司は疑問を返した。
「委員会の上層部は知っているけれど、枠をエニグマ技術の応用によって捻じ曲げて、別の空間と繋げたりする事で、空間の枠そのものの強度が減り始めているのよ」
 枠による、空間内部を抑え付ける力が減りつつあるのだと言う。
「もし、枠の強度がなくなったら、きっと空間はそこで消滅してしまうわ」
 空間の性質の強制力がゼロとなり、空間そのものが崩壊してしまうという事なのだろうか。その後で空間がどうなるのかは予測の仕様がない。
 その危機があったとしても、もう異空間との交流はどの空間にとっても有益な事となってしまっている。今更全ての空間が異空間との関わりを絶つ事などできない。既にその空間内部の社会のシステムとして浸透してしまっているとこともあるのだから。
「局は、それに対処するために、空間の枠を意図的に破壊する事で、その反動で全ての空間の枠を一つに混ぜ合うという案を考えたのよ」
 枠の力が残っているうちに、枠が空間をその空間として留めておくための強制力を内側から強引に吹き飛ばし、元に戻ろうとする力を利用して一つの空間に統合させようとするのだと、麻衣が語った。
「そんな事が、できるの……?」
「勿論、リスクはあるわ。まず、ほとんどの生命体は一時的でも枠の消滅には耐えられないでしょうし、運良く生き残れても、新たな枠に適応できないかもしれない」
 藍璃の疑問に、麻衣は答える。
「空間が崩壊するのは、いつかは判らない。けれど、異空間との不正干渉の際の『たわみ』の発生量や発生時間に影響が出始めているのよ」
 通常、『たわみ』は一回の不正干渉に対して一度か二度、その影響を及ぼす。そして、その時間は不正干渉が起きた後、そう時間の経たない間に起きるのが普通だった。膨らませた風船を手で押して歪ませても、それが元に戻るのはあっという間なのだから。だが、最近の『たわみ』は、三度や四度影響を及ぼしたり、発生時間に数日かかったりと、変化してきているのだ。
 それを兆候と見た、局が、この計画を思いついたというのだ。
「私は、それに乗ったわ。私を助けてくれた局のために」
「助けた……?」
「ええ、私が幼かった頃、両親と共に空間干渉に関係した事故に遭って、瀕死の重症を負ったのよ。両親は死んでしまったけれど、私は運良く局に拾われてエニグマを移植された事で助かったの。だから、その仮を返すためにも、局の構成員として動いて来たし、高い地位まで上り詰めた」
 藍璃の疑問に、麻衣は語った。
「だから、私はこの計画を実行したのよ」
 麻衣の表情が真剣なものとなる。
「他に方法はないの? 今生きている人達の事を全て無視するなんて――!」
「どの道こうなるなら、いつやっても変わらないわ。なら、早いうちにやるべきよ」
 聖司の言葉を藍璃が代弁していた。
「朱雀!」
 声に、聖司は麻衣を見た。
「あなたは、どうするの?」
 麻衣が問う。
 聖司は藍璃へと視線を向け、藍璃が見返してくるのを見て、麻衣へと視線を戻した。その時には、既に身構えている。
「それでいいの?」
 瞬間、麻衣の姿が消えた。
 背後に気配を感じた時には、脇腹に衝撃を受けて吹き飛ばされていた。
「私は、あなたを殺したくない」
 声だけが響く。建物の壁に身体がぶつかるよりも早く、麻衣が聖司を下方から打ち上げる。瞬間移動をしたとしか思えなかった。空中に跳ね上げられた聖司の真正面に転移した麻衣が、その手にプラチナの光を生み出す。それが叩き付けられた瞬間、聖司はコンクリートに激突していた。
 凄まじい轟音が響き、コンクリートが吹き飛び、クレーターができる。
 藍璃の悲鳴が聞こえた。
「――!」
 吐血する。腹部に深い傷を負い、出血しているのが自分でも解った。全身が衝撃で麻痺し、身体を動かす事ができない。エニグマによる凄まじいまでの防御力があるというのに、無事だったのは意識だけだ。
「……私はあなたが好きだから」
 降り立った麻衣が言い、聖司へとゆっくりと近付いてくる。
 顔を上げるので精一杯だった。強く噛み締めた奥歯が、ぎりっ、という音を鳴らす。第二形態ですら、凄まじいまでの力に打ちのめされた。今の聖司では、麻衣には勝てない。
(――!)
 瞬間、歩み寄ってくる麻衣の前に藍璃が立ち塞がった。
「どきなさい。あなたでは相手にもならない」
 麻衣は止まらずに歩いてくる。身体を起こそうとして、聖司は腕が上手く動かせない事に苛立った。まだ麻痺が取れていない。
(……動け…!)
 意志がエニグマの回復力を早める。しかし、それも追いつきはしないだろう。現時点でもかなりの能力を使用しているのだから、上昇しても微々たるものなのだ。
「私は――!」
「いいわ。そんなに死にたいのなら」
「――!」
 瞬間、麻衣の掌底が藍璃の腹部に叩き込まれるのが見えた。
 衝撃に吹き飛ばされ、打ち込まれた攻撃力の凄まじさに身体が抉れる。腹部を衝撃が貫通し、明らかに致命傷に見える穴が開いた。その藍璃が聖司の真上を吹き飛ばされて行く。
 刹那、全身のエニグマが脈動した。血流が逆流するかのような錯覚と、体内のエニグマから膨大な力が溢れ出すのを感じる。何も考えられなくなった思考に、衝動だけが流れ込む。
 今まで麻痺して動かなかった腕が動いた。腹部の傷も既に塞がり全身のダメージが消え失せている。
 瞬間的に跳ね起き、聖司は麻衣に飛び掛っていた。
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