序章 「生物学者のモーニング」 ――生物とは、生命とは一体何なのか。俺が研究者なのはそれが知りたいからなのかも知れない。 ……いけない。どうやら眠りこけていたらしい。 俺は自分のデスクに顔を突っ伏していたことに気づいた。 霞む目の前には、小休止状態になってしまったノートパソコンのモニターが映った。 昨夜は科学関連の掲示板で珍しく熱く議論を展開してしまい、徹夜をしてしまっていた。それがたたったようだ。 まだはっきりとしない頭を起こそうと、ボサボサの頭をかいた。次に、目をこする。 視界がはっきりしてきたところで、周囲をぐるりと見回す。 今自分が座っているデスクは白い壁で四方を囲まれた部屋の隅にあり、部屋自体の広さはそこそこある。まあ、テニスコート1面分くらいか。床には様々な薬 品や資料の入ったダンボールが無秩序に置かれており、そのうちのひとつに32インチのテレビが載っている。デスクから反対側の隅にある冷蔵庫の隣にはあま り使わないキッチンが設置されている。そして、この部屋の中央にはとある大がかりな装置が置かれている。 そう、これが俺の自宅兼研究室だ。生物学の研究者だった祖父が残したものを俺がそのまま使っている。博識だった祖父にあこがれて俺自身も研究者を目指したのだ。 しかしながら、俺がこの設備を当時の祖父のように全て使いこなせているかと聞かれるとそうではない。特に中央の大がかりな装置、これは様々な成分を様々 な状態で様々な反応をさせ、それを観測、分析出来る『生体活性反応装置』と呼ばれる代物なのだが、最近は専らとある植物の培養にばかり使われてしまってい る。祖父にもっと有意義な使用法を聞ければいいのだが、もうすでに故人である。 「あ……」 そんな装置に目をやって、情けない声をあげてしまった。 装置のつながったシリンダーの中では、緑色をした藻が大量に増殖していた。人ひとりがすっぽり入れるシリンダーの上部から、ふたを押し退け、おぞましい程の量に膨れ上がった緑色がはみ出していた。 「いかん! 増やしすぎたか!」 慌ててスイッチを切り、増殖を停止させる。今回はシュルトケスナーと呼ばれる藻を知り合いからの注文を受けて増やしていたのだが、どうもやりすぎたらしい。 「まずいなあ。在庫を抱えておく余裕はこの部屋にはないぞ」 苦々しい顔をしつつ、デスクの上の紙を眺めた。依頼人からの注文書だ。しかしながら、それは注文書と呼ぶにはあまりにも古めかしく、羊皮紙にインクで書かれている。内容は以下の通り。 ―――カシュオーン研究所所長 エギル・トーチライト様 以下の品物の発注を依頼致します。 シュルトケスナー藻 1キロ 取引価格は100グラム 200Nとさせていただきます。 今回納期は火の月の末までとしますので、それまでに配送をお願いいたします。 ―――ルージェス魔法店 ミロット・ルージェス 連絡先 XXZ‐666‐6666 1行目に書かれているのは我が研究所名と俺の名前である。これについてはそれ以上説明は必要あるまい。 3行目にあるのが、依頼された品物の名前と量だ。依頼された量は1キロなのだが、装置の中を見ると甘く見積もっても4、5キロはある。 4行目は取引価格についてだ。この世界のお金の単位はN(ネメア)だ。 最後の行に記されているのが、依頼主である。彼女とは俺が研究所を引き継いだ頃、およそ2年ほど前に知りあった。それ以来、何かと俺に仕事をくれるありがたい相手だ。 「仕方ない。交渉といくか」 俺は着ていた白衣のポケットから携帯電話を取り出すと、依頼人の連絡先に電波を飛ばした。電話はすぐにつながった。 「はい、ルージェス魔法店です」 落ち着いた声が耳に届いた。 「ミロットさん。エギルです。依頼された商品の件で相談が……」 「エギル君、どうしたの? 納期はまだだいぶ先だけど……」 「実はですね……」 俺は現在の商品の状態を簡潔に説明した。 「……そういうわけで申し訳ないんですが、まとめて買い取ってもらえませんかね? 金額については俺が出向きますんで、店の方で直接交渉ということで……」 「いいわよ。最近はよく買ってくれる常連さんがいるし、追加注文しようか考えてたところだったのよ。金額は前向きに検討してあげるから店にいらっしゃい。世間話もしたかったしね」 「すいません、助かります。では、すぐに向かいます」 礼を言って電話を切る。 さて、これで余った商品を捨てずに済むが、店には出向かねばなるまい。 携帯電話を再び白衣のポケットに戻すと、部屋の右側中央にある扉を開ける。扉の向こうは化粧室だ。化粧室には洗面台の他、バスルームとトイレへそれぞれ続く扉がある。二つは分かれた造りになっているのだ。 女性に会うのだから、とりあえず顔だけは整えておきたい。洗面台の鏡の前に立ち顔を洗う。タオルで水滴をふき取ると、見慣れた顔が映った。 ボサボサの髪は前髪が何本かはねており、先が実った稲穂のように垂れ下がっている。視界を遮るようなことは無いし、なにぶん癖っ毛なので、髪を整えるの はすでにあきらめている。だったら切ればいいのだろうが、トレードマークとしての自負はあるので、短くし過ぎないようにしている。一方、眉は髪とは違い細 めだ。その下にある目は若干切れ長でここも細めだ。鼻は高くないが、やや顔に対して少し長いか。顔の輪郭もやや面長であごはとがっている。取りたててイケ メンでもないが、ブサイクでもない。うむ、いつもと変わらぬ我が顔だ。 服装は研究者たる者、白衣を着用している。が、下に着ているのはグレーのトレーナーにくたびれた黒のスラックスという何とも残念な感じである。服装には無頓着なので、衣類はこれと似たような物が数種類しかない。 売り込みの営業マンを装うならスーツで正装すべきだが、相手は顔なじみである。いちいち取り繕うのも不自然だろう。 ホコリだけ払うと、勝手に納得して研究室を後にすることにした。 この時点では、俺はこれから先に起こる事態を全く予期していなかった。 当然だろう。過去は自身が振り返ることができるが、未来はたとえ予測を立てられても到達するまでは事実にはならないものだから。 俺の人生において、最も困難で、最も重要な期間の入口であった。 |
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