第11章 「絶望のマリス」


 ――知らないという危険性と、知り過ぎる危険性。天秤にかけられるものなら、どんなに良かっただろうか。

 俺は急ぎ都市εの地下施設に戻らねばならなかった。
 メルダ市長がベレン返還の交渉日を一日繰り上げたせいだ。二日あった余裕は半分になり、急ピッチで最終決戦のための準備を余儀なくされた。
 茫然自失とするシングを地下闘技場に残し、その場を去る俺の胸には静かに想いが駆け巡っていた。
 目の前でおやっさんが死んでしまった。今なら、かつてのシメオンの気持ちが理解出来る。
 だが、だとしても。いや、だからこそ、俺は違う選択をする。憎悪で心を塗りつぶしてしまってはいけない。まだ、俺には助けなければいけない者がいる。
 おやっさんは崩壊しかけた身体を引きずりながらも、俺にベレンを救えと言った。そのために必要な情報を、生命と引き換えに届けてくれた。
 ベレン。君を前にしたなら、選択肢など存在しない。何をおいても、俺が今すべきなのは、君を護ること。
 狂気に支配された脳ではそれは叶わないだろう。
 だから、よろけそうになる足に力を込める。緩みかけた拳を握りしめる。失意に沈まんとするこの身体に喝を入れる。激情に溺れ、楽になりたいとわめく精神を必死に抑え込む。
 嘆き悲しむことは後でも出来る。
 今は。

 今、戦う時――!

「皆、最終確認だ」
 レイの機械的な声がモニタールームに響き渡る。
 そこには俺とミロットさんを含めた、組織にいる人間全員が集結していた。
 雷の月一日午後三時。エックスデーを目前にして、何とか準備は完了したのだ。
「想定外の事態になったが、準備は全て完了した。皆本当によくやってくれた」
 整然と並んだ研究員達は、静かにレイの言葉を聴いている。
「ここまで完璧に対処出来た諸君のことだ。今回の作戦も完璧にこなして、最高の祝杯を上げられるものと信じている」
 ねぎらいつつも、プレッシャーのかかる言い方だ。ここで緊張をほぐすようなセリフを言えないのが、実に彼らしい。横で聞いていた俺は思わず苦笑いをしてしまった。
 とはいえ、俺はまだ笑える。苦笑いでも、心に余裕がある。レイを始めとした、大勢の仲間達がいる。たとえ、苦境にあっても物怖じせず、立ち向かう意志を保っていられる。
 俺は幸運だ。
「さて、僕からは以上だが……作戦開始前に何か連絡のある者はいるか?」
 その言葉を耳にして、俺は手を上げて一歩踏み出した。
「……俺からも礼を言わせてくれ」
 並んでいる研究員達の顔を順に眺めながら、俺は感謝の気持ちを述べた。
「厄介事を持ち込んだにも関わらず、力を貸してくれて本当にありがとう。まあ、そのきっかけ自体は彼が作ったものでもあるが」
 そう言ってレイに視線を送ると、彼は決まりが悪そうに口を結んだ。仲間達がクスクスと笑ったのが聞こえた。
「俺達の【最適】が【最強】を制することが出来たのはここにいる全員のお陰だ。だが……」
 俺は一呼吸置き、想いを告げる。
「未だに、【最適】じゃない場所に閉じ込められている者が、いる。俺が好きになった女だ。絶対に助けたい。ここまでつきあってくれた最高のお人よしの皆! 最後まで、よろしく頼む!」
 次の瞬間、壁が破れんばかりの勢いで、肯定の意志を伝える声が部屋の中に満ちた。
「……けじめはつける。そして、君は僕の友達だ。それは始めから変わらないさ」
 レイ。
「私が好きになった君が好きになった娘だもの、必ず取り返すわよ!」
 ミロットさん。
「もし、選択肢を選ぶ時間が不足したら私を頼りたまえ。君を停滞させるその時間ごと破壊して見せよう!」
 シメオン。
「アタシも睡眠時間を削りまくったんです。これでうまくいかねーわけねーですって!」
 パイル。
「調停者さえ止められたんです。きっと、うまくいきます」
 リコ。
「イイ感じに盛り上がっているナ! こっちも準備はオーケーだゼェ!」
 背後の巨大なスクリーンに映し出されたのはキュウタロウ。
「おにーさん、アタシと親父は動けないけど、頑張って!」
 彼の横から顔を出したのはベル。
「……お前ならやれる。自分の筋を通してこい」
 スクリーンの端に映るガロン。
 ベルとガロンは身体に巻かれた包帯が痛々しかったが、瞳に宿る光は依然として強い。
 いや、ここに集った者全員が確固たる信念を持ち、戦いの勝利を確信している。
 素晴らしき戦友達。
 ならば、行こう。
「よし! やるぞ! 総員戦闘配備! これより、作戦を開始する!」
 ――応ッ!
 レイの宣言に、全員が弾かれたようにそれぞれの持ち場に散っていく。
 俺もトランクを開け、『レッドソウル』を取り出した。
 竜をも下した怪物を操り、挑むは妖魔の姫の奪回か。
 ――あと少しだけ待っててくれ、ベレン! 今度こそ君を檻の外へ連れ出してみせる!

 日が沈み始めていた。
 まもなく都市ηの外壁が見えて来る頃だ。
 地下施設から出撃した俺は、装備している『レッドソウル』に風のエレメントを蓄積しておいたエナジークレストをチャージさせ、疾風の如く都市ηを目指していた。
 アダマントで構成され、都市を護るあの壁。史上最高度の硬度とエレメント耐性を併せ持つ、あの金属。
 思い返せば、ベレンを連れて都市を抜けだそうとした際、あの壁は最初の関門だった。守備隊員を黙らせ、監視カメラを欺き、外へ出たのも束の間、調停者によって逃避行は阻まれた。
 俺は再び、あの門をくぐる。今度は逃げるためではない。戦い、救うためだ。
 みなぎる闘志に武者震いをしていたその時、レイが低い声で警告した。
「……エギル、気をつけろ。どうもおかしい」
「どうした?」
 俺の問いに、彼は不穏な返答をした。
「君が侵入しやすいよう、以前のようにゲートのセキュリティをハッキングしたんだが……。プロテクトが全く強化されてない。いくらなんでも無防備過ぎる」
 通常ならば、一度破られたセキュリティプログラムをそのまま放置しておくことなど、あり得ない。破られることを前提に、放置していたとしたら。
「……誘ってる、ということか?」
「十中八九そうだろう。君の携帯にウィルスまで仕込んでいた狡猾な女だ。まず間違いなく罠がある。油断するな」
 注意を喚起され、目に力を込めているとその視界にうっすらと壁が見えてきた。
「レイ、問題の壁が見えたぞ。ひとまずは手筈通りに行く」
「分かった。妙な動きがあればすぐ知らせる」
 計画ではゲートを突破した後、都市の中央に位置する市庁舎の隣の施設を目指す。ベレンのいた地下牢がある、あの施設だ。そこは恐らく守備隊によって固め られている。ゆえに、先に都市ηに潜入していた『狼の爪団』に行動を起こしてもらう。襲撃者である俺を前にすれば、前衛に就いている者達の意識はこちらに 向く。その隙を背後から突き、拘束してもらうのだ。
 隊員とて、組織人であり仕事である以上は上の者の命令に従わざるを得ない。望んで殺し合いをしたい者など、そうそういるものではないと思いたい。可能な限り助けられればいいのだが。
 そんな想いが後押しして、俺はスピードを落とさず、ゲートを一気にくぐる。
 土がむき出しになっている個所が多い外縁部を抜け、中心部へのルートを疾走する。都市の中心に近づくにつれ、道路は整備され建築物も高くなっていく。
「レイ、そろそろ市庁舎に到達する。キュウタロウ、準備はいいか?」
「オウ、お前が現れたら俺達が後ろから一斉に抑え込むゼ。オ……? なんだ……おいィ?」
 調子の良かったキュウタロウの声が途中で小さくなった。
「レイ! 緊急事態だッ!」
 次の瞬間、大声が通信を通して耳に突き刺さった。普段のひょうひょうとした態度からは想像出来ない、緊張に満ちた声だった。
「何があった?」
 レイが彼に問いかけたが、俺の眼にはその答えがまもなく飛び込んでくることになった。
 大勢の市民が悲鳴を上げながら、こちらに向かって押し寄せて来たのだ。皆、恐怖に満ち、必死の形相で走っている。怪我をしている者もいた。つまずき、倒れる者もいた。だが、人の波はそんなことなどお構いなしに押し寄せ、波に乗り損ねた弱者を呑みこんでしまう。
 エレメントを作用させる向きを変え、建造物の外壁を蹴り、屋根の上に飛び乗る。人が逃げて来た方向を見る。
「何が……起きてる……?」
 爆音が響き、建物が倒壊していくのが見えた。
「バカなッ……!」
 俺は呻くしかなかった。
「やられた……! またしても……!」
 レイのギリリッ、と歯を食いしばる音が聞こえた。
 この都市の市民ならば、見慣れているであろう防護服と、防衛用に開発された銃型のアブソーバー。それらを身に付けた者達が、火炎を、冷気を、電撃を放ち、本来護るべき市民達を、整備された道を、人々の住まう住居を、次々と破壊していくのだ。
 そう、人々が逃げ惑う原因は他でもない。
 守備隊員達だったのだ。
「あの女ッ……! 自分の兵隊を『人質』にしやがった……!」
 レイが怒りをあらわにしていた。冷静であること、冷徹であることを自らに課し、過去の後悔をその仮面の下に隠していた彼でも、この目の前の有様には我慢がならなかったのだろう。
 それは急ピッチでようやく間に合わせた計画が、いとも簡単に狂わされたからではない。基地をひとつ潰すハメになったことも彼が怒る理由としては不十分 だ。自分を慕って配下についたであろう人々を、あろうことか捨て石にしたその卑劣さが、自身を利用しようとした者たちに向けられた浅ましさとシンクロした のだ。
 俺がベレンを救出するためにここへ乗り込んで来るのは、日時が前後しようときっと変わりはしなかった。目的はベレンを助けることであり、必要以上に戦闘をする理由は無い。守備隊とは可能な限り交戦を避ける。
 それは相手にとっても予測済みだった。それを逆手に取られた。守備隊と戦わざるを得ないシチュエーションを用意していたのだ。
 見れば、守備隊員は奇声を発しながら武器を乱射している。女子供だろうと容赦なく、視界に入る者全てに対して無差別攻撃を行っているようだった。明らかに正気ではない。
 まるで、俺を襲ったあの男のようだった。思えば、アレはこの時のためのテストケースだったのだろうか。
「レイ、これは厄介ですよ」
 通信にシメオンが割り込んできた。
「今ので判かりました。メルダ市長の目的は私達に勝つことではない」
「シメオン……?」
 レイが戸惑った声を上げる。シメオンは怒りをにじませながらも、静かな口調で続けた。
「彼女のゴールは支配ではない。恐らくは、破壊。何に対するかまでは分かりませんが、かつての私と似たモノを感じる。我々が相手にしているのは戦争に勝ちたい策略家ではありません。レイ、君が最も苦手とする、理屈の通じないケダモノだ」
 それを聞いていた俺も、メルダ市長には部下や市民を護る気が微塵も無いのだということが判っていた。
 利益を上げることが目的の行動ならば、レイが予測を外すことはまず無い。しかし、いくら犠牲が出ようが、お構いなしに暴走する狂気に対してはいささか分が悪い。
「レイ! こうなっちまったら仕方ねェ! あいつらは俺達だけで何とかするゼ! エギル、行けィ! お前がここで余計に消耗すると後がきついゼ!」
 後ろで怒号と悲鳴が飛び交う中、キュウタロウが叫んだ。
 見ていると、傭兵達が後ろから追いついてきて錯乱している隊員達と交戦し始めた。
 不幸中の幸いだったのは、傭兵達が味方であったことだ。彼らが敵のままならば、俺は市庁舎に辿り着くまでに多勢を相手に大立ち回りをしなければならなかっただろう。
「分かった……! レイ、いいな?」
「ああ」
 俺が了解し、レイに同意を求めると静かな声が返ってきた。
「……目的が変わったわけじゃない。ベレンは何としても助けるぞ」
 レイはすぐに気持ちを切り替えていた。逆上したところで、それは狂気に対抗する意志足り得ない。たとえ、理詰めだろうとそれが解っていた彼は即座に怒りを呑み込んだのだ。彼の長所はその冷静さにこそある。
「君に言われるまでもないさ!」
 軽口をたたく。彼が冷静な司令塔であるからこそ、軽口を叩いていられる。
 俺を支えてくれる仲間達は強い。気圧されることは無いのだ。
 傭兵達にこの場を任せ、再び移動を開始する。市街地をすり抜け、市庁舎への距離を詰めていく。ここまで来れば、牢へ辿り着くのはすぐだ。
 問題の施設に到達した俺は足を止めた。ゲートの前を、一人うろついている人物がいたのだ。守備隊員だ。
 だが、様子がおかしい。ふらふらと力なくゲート横の壁に寄りかかると、そのままずるずると座り込んでしまった。こうべを垂れ、打ちひしがれているようだ。
(コイツは……他の隊員とは違う?)
 慎重に歩み寄ると、俺はそっと声をかけた。
「……アンタ、無事なのか?」
 隊員が顔を上げた。ハの字に曲がった眉毛と失意に満ちた瞳がこちらを見上げている。
「君は……?」
「お尋ね者と言えば分かるか? 俺がさらっているハズの女を、さらいに来た」
 あまりに覇気が無かったので、あえて挑発する文句を投げかけたが、彼は怒る気力も失っていた。
「そうか……君がエギル・トーチライトか。言われてみれば、映像の通りの顔だな……」
 かすれた声が彼の内面を物語っている。どうやら、精神的にショックを受けているようだ。原因は彼だけが正気であることを考えれば、自明の理である。
 良く見てみればこの隊員、俺達が牢から帰ろうとした時に飛び込んできた人物ではないか。先輩が犯罪を犯すとは思えない、と市長に食ってかかっていたあの青年だ。鼻が高く、戦意喪失さえしていなければ格好のいい男であっただろうに。
「……あの妖魔の娘を助けに来たのなら、ここにはいない。あの女が市庁舎へ連れ出した」
 彼はもうメルダのことを市長とは呼んでいなかった。
「一体、この都市はどうなってる? 市長は何をするつもりだ?」
 彼を問いただすと、守備隊員達がおかしくなった原因が明らかになった。
 メルダ市長はこの都市ηにある研究機関を利用し、あるモノを造っていた。それは、雷と光のエレメントを使った通信端末で、一ヶ月ほど前に都市の守備隊員 達に配布されていたらしい。このツールは音声通信以外にも、搭載されたカメラを介して周囲の映像を他の端末へ瞬時に送信することが可能で、受信側はホログ ラフで映し出される映像を見られる。
 しかし、この通信端末には恐るべき罠が仕込まれていた。メルダ市長は、俺が市庁舎へ接近することを見計らって、ある映像を一斉送信した。それは、一見ノ イズ以外は何も映っていない不可解なものだったらしい。だが、これを見た者は破壊衝動にとらわれ、隊員以外の目につく者を攻撃し始める。光のエレメントに よって映像に仕込まれた情報が、視覚を介して神経に、もっと言えば意識に侵入してくる。脳に到達したそれは雷のエレメントによって記憶や意志を改竄し、破 壊衝動を喚起させるのだという。実態は電子ドラッグとでも呼べる洗脳装置だったのだ。
「酷いものね……。貴重な都市のエレメントをそんなことに使っていたなんて……」
 ミロットさんの呟きを受けて、俺はあの時彼女が違和感を訴えていたことを思い出した。あの時、地下牢で俺達の姿を捉えていた監視カメラの映像は、エレメ ントを用いて歪められていた。おぼろげながらも、彼女は後に俺が指名手配される原因となる、あの映像の気配を感知していたのであろう。
「俺は生まれつきエレメントの扱いには心得があってな。幸い、映像を見ても狂乱することは無かった。お陰で、先輩が凶暴化した理由も今しがた見当がついたってわけさ」
「そうか……何はともあれアンタが無事で良かった」
 そう声をかけると、青年は更に沈んだ表情になった。
「良かった、か。俺はそう手放しでは喜べない。一人無事だっただけだ。周りの仲間が発狂していくのに、何も出来なかった。おかしいと思いつつも、市長を止 められなかった。洗脳が不完全だった先輩は記憶が戻り始めていたせいで、口封じのため始末されてしまっていた。そして、そのことを誰も覚えていない……!  知らなかったんじゃない! 俺以外の誰も、同僚であるハズの先輩の存在をまるごと忘れていたんだ! 俺は……一体何のために守備隊員になったのか――」
「『狼の爪団』は俺の味方だ」
 後悔の言葉を、俺は途中で遮った。青年が眼を見開き、俺を見上げた。
 そんな言葉は聞きたくない。この都市の守備隊員であるならば、アンタがやるべきことはここでうずくまっていることじゃない。
「今、暴走した隊員の鎮圧に当たっている。動けるならアンタもそこに加わってくれ。キツネ顔の男がリーダー格だ」
「だ、だが、俺が行ったところで……」
 彼の瞳は揺れていた。俺は彼の肩をがっちりと掴み、なおも訴える。
「いいか? 俺達にとって、アンタ一人が無事だったということが、この狂った状況では大きな希望なんだ。部隊の展開規模を知っている人間がいれば、傭兵達 も絶対にやりやすくなるハズだ。確かに行動を起こしたからといって、必ずうまくいく保証なんか無い。だが、アンタだけは自らが動くことで変えられる可能性 を決して疑ってはいけないんだ! 俺はアンタを信じるぞ!」
 まくしたてる俺の言葉を受け、彼は葛藤を始めた。
「俺は……!」
 未だ、逃げ惑う人々の声や、建造物の倒壊音が響く市街地をその揺らぐ眼に捉え、わなないている。
 あまり、ココに長居は出来ない。ベレンが連れ出されたのならば、ここから市庁舎に向かわねば。
「俺は、俺が助けるべき者を助けに行く。市民のことは任せたぜ、この都市に残った、ただ一人のヒーロー!」
 励ますようにそう告げると、俺は踵を返してその場を後にした。

 市庁舎に辿り着いた俺は、慎重に入口に接近した。どんな罠があるか分からない。
「……エギル、市庁舎のセキュリティが機能を停止している。逃げも隠れもしないということだろう」
 レイの分析を受けて俺は意を決した。
「分かった。踏み込むぞ!」
 風をまとい、正面からゲートを突き破り中へと飛び込んだ。
「……来たのね」
 静かな声がエントランスホールに響いた。
「貴方が大人しく調停者に掴まってくれれば楽だったのだけれど……」
「メルダ市長……!」
 この都市の市長、であったハズの女がそこにはいた。
 金髪のショートヘア。やや丸いその顔には落ち着き払った笑みが張り付いている。
 だが、赤い縁の眼鏡の奥にある目が全く笑っていない。氷のように冷たい雰囲気が漂っている。見てくれは何一つ変わっていないのに、ヴァンダーで顔を合わ せた時とは何もかも違っていた。そのせいで、三十路とは思えぬ豊満なバストも、細くくびれたウェストも魅力的には見えなかった。
 この場所には似つかわしくない長テーブルがホールの真ん中に設置され、そこにただひとりメルダ市長が椅子に腰かけているのだ。テーブルには彼女の前にだけ、真っ赤な色をしたスープがひとつ置かれていた。
「ベレンを帰してもらいます」
 毅然と言い放つ。
「……困ったわねえ。彼女にはこれから外交上、重要な使命を果たしてもらわないといけないのよ」
 言葉の上ではあくまでも市長を気取るつもりのようだ。俺が彼女の目的を既に知っていることを分かって、そう振舞っている。
「彼女をどうするつもりですか?」
「どうもしないわ。彼女にはただしばらくじっとしていてもらえばいいの」
 俺の質問に対する返答としては妙だ。思わず眉をひそめると彼女はふふっ、と笑って言葉を続けた。
「ベレンは今、最上階の市長室にいるわ。妖魔である彼女にふさわしい、十字架の椅子を用意したの。ねえ、覚えているかしら。あの部屋、とても日当たりがいいのよ」
 全身の血液が沸騰したような錯覚を覚えた。
 一連の事件が全てメルダ市長によって仕組まれたものだということは分かっていた。だが、心のどこかではそれが真実であっては欲しくないと願っていた。何か、そうせざるを得ない理由があって彼女が望まぬ悪事を行っていたのなら、どれだけ良かったか。
 今、はっきりと分かった。理屈ではなく、感情がそれを受け入れた。メルダ・メルギスは明確な悪意を持って、今までの計画を遂行してきたのだ。実際に顔を合わせ、言葉を交わしたことで、それが確定してしまった。
 歪んだ顔をしたであろう俺を前に、彼女は更に饒舌になった。
「くつろいでもらえるように、たっぷりごちそうをしたの。翌朝、日が昇り切るまでは普通のロープひとつちぎる力もないでしょうね。でも大丈夫よ。交渉の席 になっても、彼女の仕事は簡単だから。ご両親を始めとしたブルートローゼの方々の目の前で、塵になってもらえばそれで万事解決というわけ」
 俺は言葉が出なかった。
 怒りと失望が入り混じり、ドス黒い衝動が湧きあがって来る。それを必死に抑え込み、俺は何とか声を絞り出した。
「なぜだ……? 何が貴女をその狂気に駆り立てた……?」
「知ってどうするの?」
 彼女の表情から笑みが消えた。
「私について知って、今更それが変えられるとでも? 過去の傷を、君が私なら否定できるの?」
 分かったところで彼女の苦痛を取り除くことは出来ない。俺が手を差し伸べたところで、それは無駄だと突っぱねようとしている。
 何と言えば、彼女の心に届くだろうか。
 俺は答えに窮していた。
「……まあいいわ。これが何か判るかしら?」
 彼女は溜め息をつくと、右手で自分の首筋を指した。そこには傷があった。
 だが、それは刃物でつけられたような傷ではない。二ヶ所に穴が開けられ、それが塞がったような形の傷だった。
 そう、まるで、牙を突き立てられたかのような――。
「その傷は……まさか」
 俺はピン、ときた。彼女がベレンを捕らえ、それを戦争のきっかけにしようとしていることを考えれば予測は出来た。
「私が幼い頃、妖魔の男に付けられたものよ」
 彼女は語り始めた。希望に満ちていた少女が、絶望に落ちるまでの顛末を。
 メルダ・メルギスは、とある人間族の村で生まれた。今現在、その村は都市ηに取り込まれており、端の方にその名残があるという。当時はまだ都市の規模が 現在よりも小さく、都市ηに属さない集落がこの周辺にもいくつかあったのだ。生活水準は都市よりも低く、貧しい暮らしだったらしい。とはいえ、餓死者が出 るようなことはなく、不自由ながらも穏やかな毎日を送っていたそうだ。
 しかし、この村にはある言い伝えがあった。
【妖魔に血を吸われた者は、やがて妖魔となって人間の血を求める】
 異種族に対する無理解が残した、根も葉もない迷信だった。それが問題だったのだ。
 都市η内の学校へ通っていた彼女はその帰り道、吸血を好む妖魔の男に襲われた。
 今まで居心地の良い場所だった家庭は血を吸われたことで一変した。穏やかだった村人たちの視線が突き刺さるようになった。父と母も表面上は優しかったが、内心明らかに怯えているのが伝わってきた。
「貴方は知るハズもないことね。二十年も前のことですもの」
 そんなこと知る由も無かった俺を蔑むように、彼女は醜悪な笑みを向けた。
 今俺に向けられている視線こそが、かつて彼女が浴びた視線と同種のものなのだろう。
「私は耐えたわ。噛まれても、私が変わらず人のままなら、いずれ疑いが晴れる。まだ幼かった私はそう自分に言い聞かせたの」
 寂しそうに語る彼女は視線を落とし、自嘲気味にぽつりと呟いた。
「そんな未来なんて無いのにね……」
 耐え続けた彼女が迎えたのはあまりにも残酷な未来だった。
 彼女を恐れた、同年代の男の子達がいじめを始めたのだ。我慢し続けた彼女だが、どんなものにも許容量というものがある。ある時、無数の腕が、彼女をがん じがらめにした。何もしなければ、その身体は村の外まで引きずられてしまう。手足の自由が奪われていたメルダは思わず、自分を掴んでいた腕の一本に噛みつ いてしまった。
 それが少女が村を出る決定打となった。あのまま村に居続ければ、腕を噛んだ少年の親に殺されるところだったのだから。
 何も持たず、彼女はその身ひとつで村から逃げ出した。
 誰も頼れず、向かうべき場所も知らない彼女はさまよい、やがてある水場の近くで力尽きた。
「その時はようやくこの世のしがらみから解放されると思った。でもね……」
 彼女はそこまで語って、言葉を止めた。
 くすくす。
 クスクス。
 突然、少女のように彼女は笑い始めた。
 不気味だった。ひたすらに気味が悪かった。
 憎しみに満ちた彼女が、まるで友達に楽しい秘密を打ち明ける時のような、軽快な笑い声を響かせたのだから。
「……でも、何です?」
 笑い声が耳触りで、俺は先を促した。
「ねえ、知ってる?」
 おかしくてたまらないというように彼女は口元を押さえ、小声で囁いた。
「この世界って、神様が作ったんですって」
「……貴女もシングから聞いたんですか?」
 神がいるという事実は俺も知っていた。だが、驚いたのは彼女が次に語ったことだった。
「いいえ。私が死にかけていた時に【それ】は現れたの」
「……神に直接会ったと?」
 俺の推測を彼女は一笑に付して否定した。
「それもいいえ、ね。でも、神様が遣わせたのだから、【天使】と呼ぶべきかしら? 貴方から見れば【悪魔】でもよさそうね? ともかく、【それ】は教えて くれたわ。神様がこの世界を創った理由。そして、【それ】が現れたわけを。聞いてみたら、バカバカしくてトサカにきたわ。だって、私はこの世界のせいで不 幸になったんだから。神様がいるなら、大成功とまではいかなくても、人並みの幸せがある人生をくれても良かったと思わない?」
 矢継ぎ早に話す彼女の口調は少しずつ荒くなっていった。
 なるほど、言いたいことは解る。
 俺も神がいることを知った時、万人が幸福な一生を送れる世界を創って欲しいと思ったことがあった。だが、それはきっと不可能だ。無理矢理そうすれば、そ れはとても歪な世界になってしまう。何の脅威も存在せず、誰もが安定したままだったとしたら、何が幸福で何が不幸なのか自体が判らなくなる。俺がもし神 だったなら、いずれそう考えるだろう。
「だから、私は【それ】と契約……いえ、取引をしたの。目的を達成する手助けをする代わりに、生きながらえさせて欲しいと」
 そういえば、シングは神がこの世界の成否を計っていると言っていた。仮に、メルダ市長の前に現れた【それ】とやらが成否を計る手段なのだとしたら。
「目的……何をするつもりですか?」
 俺の問いに、彼女は待っていたとばかりに語った。
「この世界は失敗よ。だってそうでしょう? 私がこんなに不幸になる世界だもの。だから、【天使】様のお手伝いをすることにしたの。この都市とブルートローゼはその手始めに過ぎないわ。いずれはこの世界全てを、ね?」
「……貴女はかわいそうな人だ」
 俺は憐憫を込めて言った。
「なんですって……?」
 俺の言葉に彼女は眉をひそめ、怒りをあらわにした。
 だが、俺の心はその怒りにはもう呑まれなかった。
 全てを壊さんとする彼女に対して怒りや憎しみを感じていないわけではない。だが、それ以上に彼女が哀れだった。
 確かにメルダは壮絶な人生を送ってきた。俺やレイ、シメオンのように誰も手を差し伸べる者がいなかった。それは不幸だ。
 だとしても。いや、だからこそ。
「どうして貴女は他者に自分と同じような苦痛を強いたんだ……? 貴女はその苦しみを、嘆きを誰よりもよく知っていたのに!」
 メルダの口元に歯が覗く。噛みしめられた、歯が。
 指摘されて腹が立つなら、自覚しているということだ。だから、なおのこと哀れなのだ。
「俺は知っている。自分が持って生まれた才能のせいで、自らを破滅させた者を。愛する者を失い、復讐に溺れた悲しい男を。だが、そいつらは俺に言ってくれ たんだ。俺を『友達』だと! 俺に、道を誤るなと! 知っているからこそ、そいつらは立ち向かったんだ! 自分を苛む苦しみと戦っている! 世界のせいに して自分の不幸を他人になすりつけようとする貴女を、俺は断じて認めない!」
「黙りなさいッ!」
 ヒステリックを起こしたか、金切り声がホールに響いた。
「いいや、俺は黙らない!」
 俺はそれ以上の大声を張り上げた。これだけは言っておかねばならない。
「この世界が失敗だと……? その歳になるまで、一体何を見てきたんだ……! 俺より十年も長く生きてる人間が出した答えがその程度なのかよ! これだけは声を大にして言わせてもらうぞ! それを決めるのは貴女ではない!」
 ビシッ、と指先をメルダへと向け、俺は己の意志を叩きつける。たとえ、それが彼女が生きる原動力を否定する言葉だとしても。
 目の前の救える者に手を差し伸べることも無く、この社会を動かす大勢の人々を切り捨てる。選択肢を模索することはおろか、二者択一に迷うことすらせず、破滅を望む。その歪なる思想だけは絶対に砕かなければならないのだ。
「不愉快だわ……! 殺す……!」
 彼女はわなわなとふるえていた。次の瞬間、弾かれたように椅子から立ち上がると眼鏡を外し、床に落とすと力任せに踏み砕いた。
「……貴女はもうひとりじゃ止まれないんだな」
 凄まじい形相でにらみつけてくる彼女を、俺は真っすぐ受け止めた。
 俺が壁になろう。決して破れぬ障壁となろう。シングがかつての俺に立ちはだかったように。
「来い! メルダ・メルギス! 今、俺達が助けてやる!」
 身構え、『レッドソウル』に戦闘モードへ移行する意志を伝える。人の手で生み出された大いなる怪物よ、今一度俺に力を。そして、眼前の女が放つ狂気をどうか残らず喰らい尽くしてくれ。
「ファースト・フェイズ、スタンバイ!」
 レイが宣言し、システムが起動した。
 だが、その直後だった。出力が一気に低下したのだ。この低下の仕方で思い当たる理由はひとつしかない。
「レイ! セカンド・フェイズが起動している!」
 『レッドソウル』が勝手にセカンド・フェイズを起動したのだ。アブソーバーの外周が展開し、冷却機関が露出している。各部が少しずつ熱を帯び始めた。
「これは……! エギル、『時間停滞』が来るぞ!」
 レイが語るに、『レッドソウル』は万が一自身以外で同種の機能が起動した際、カウンターでセカンド・フェイズが自動的に起動するようになっているという。理由は勿論、相手の『時間停滞』による一方的な攻撃を受けないためだ。
 つまり、メルダはこちらと同種のアブソーバーを所有していて、既に起動状態にあるということになる。
 俺は目を見張った。彼女の着ていた服が、形を変えていく。彼女は普段着の姿を、自分の身体にエレメントを用いて投影していたらしい。
 実際は彼女の首から下を、黒いラバースーツが包んでいた。ボディラインがはっきりと表れるその姿は艶めかしいが、危険だった。なぜなら、両肩、両腕、両膝の六ケ所にそれぞれエナジークレストがはまったくぼみがある。
 疑いようがなかった。彼女のスーツに搭載されているアブソーバーは『レッドソウル』と同型のものだったのだ。
「やはり、『レッドソウル』のシステムをコピーしたのか……!」
 レイの呻きに、俺は携帯電話がウィルスに汚染されていた時のことを思い出した。確か、施設の地下研究室に入った時も俺の携帯は電源が入っていた。あの 時、データをコピーされ、プログラムを持ち出されたとしか考えられない。人間の意識を改竄する程のツールを作った彼女だ。位置さえ特定出来れば、データを 持ち出すことは不可能ではあるまい。
「何を驚いているの? あの時キチンとお礼は言ったじゃない?」
 俺の驚く姿に、早くも溜飲が下がったようだ。薄笑いを浮かべ、両手を広げて挑発している。
「そう言えば、調停者じゃなくて貴方がここに来たということは貴方、竜に対抗する手段を見つけたということよね? いいわあ、竜殺しの武器なんて最高の発明じゃない! 私と独占契約を結びましょ! 報酬はこの世界からの解放よっ!」
 赤いスープが置かれていたテーブルが、俺に向かって軽々と投げ付けられた。しかし、テーブルもスープの入った皿も、俺の眼前で空中に静止している。
 ――『時間停滞』だ!
 テーブルは俺の視界を奪うためのものか。即座に、俺はテーブルを飛び越えたがそこに彼女の姿は無い。
「上よぉ!」
 天井に張り付いていた彼女が、一直線に落下してくる。不意を突かれ、回避出来なかった俺は、『遮断防壁』の発動で事なきを得た。
「くそっ!」
 防御面に足を突き立てたままの彼女に、俺は炎弾を投げつける。
 メルダの側にも防御が出現し、俺の攻撃に押される形で間合いが離れた。
 時が動き出す。背後でテーブルが入口付近へと叩きつけられガラガラと音を立てた。赤いスープが血のように床にぶちまけられ、皿が割れる音が響き渡った。
 どうする。これでは互いに決定打に欠けている。同じ能力では決着がつかない。装着者の差が明暗を分けると言いたいところだが、互いにエレメント能力を持たない人間である以上、あまり大きな差は生まれないだろう。
 俺の脳裏にふと不安がよぎった。彼女は俺を殺すと息巻いたが、最悪朝日が昇るまで待っても問題は無いのだ。
「このまま、朝日が昇るまでダンスに付き合ってもらうのもいいけど、明日はお客様が来るのよね。準備もあるし、早めに終わらせなきゃ。この都市のエネルギー機関全てから供給を受けてる私に対して、さあ、貴方はいつまで踊れるかしら?」
 そうだ。この場合、明暗を分けるのはエネルギーの総量だ。何度も言うが、『レッドソウル』は燃費が悪い。『時間停滞』はエネルギー補給無しでは二回が限界だ。
 それを見越して、今回はレイの研究施設から専用の回線を通じて供給を受けられるようシステムを改善した。元々、供給プログラム自体は存在していたのだ が、やり取りを想定していた施設は自爆せざるを得なくなった。そのため、移動先の施設で再構築する必要があり、シングとの戦いには間に合わなかったのだ。
 ただし、レイが計算するにそれでも十回程度が限界だという話だ。それ以上使えば、バックアップを受けている地下施設自体がダウンしてしまう。
「……エギル、構わない。ダンスに付き合ってやれ」
 レイの言葉に、俺は一瞬耳を疑った。だが、彼の声は静かなままだ。『レッドソウル』の性質に関して、レイは俺以上に良く把握している。必ず何か考えがある。俺は即座に確信し、行動を開始した。
 ホールを走り、俺は二階への階段を目指す。エレベーターはダメだ。時間を稼ぐには縦穴の空間は不向きだ。ベレンのいる市長室を目指すふりをしながら、戦いを長引かせる。それでいいハズだ。
「あら、ダメよぉ。目の前の相手をほおっておくなんて」
 急ぐ様子もなく、メルダは気味の悪い微笑みを浮かべながらゆっくりと追いかけて来る。
 ベレンがいるから、俺は逃げない。だから、慌てる必要も無い。じわじわと消耗させるつもりなのは、彼女も同じのようだ。
「悪いな。俺は好きな女と踊ることにするぜ」
 二階へ向かう階段の中腹に差し掛かった俺は、側面の壁に向かって引力を発生させた。闇のエレメントで引っ張られた壁は崩れ、瓦礫が階段をふさぐ……ハズだった。瓦礫は落下せず、空中でピクリとも動かない。
「それもダメよぉ。通れなくなっちゃう」
 時間が止まった空間をメルダが駆けて来る。道が埋まる前に通り過ぎる気だ。
 俺は階段を駆け上り、二階へ上がる。無人と化したオフィスの中、背後に迫るメルダとつかず離れずの距離を保つ。時折、攻撃の応酬をしつつ、『時間停滞』が再使用出来るまで待つ。
 チャージが完了したら、上の階を目指す。再び階段を崩し、道を潰そうとすると彼女がそれを止める。
 それを繰り返す。合計九回もの『時間停滞』が行われた。
 俺達はついに最上階である十階まで辿りついてしまった。眼前には立ちはだかるメルダが、張り付けたような笑みを浮かべている。
「もう追いかけっこはおしまい?」
 背後の市長室の扉の前に立つ彼女は意地悪く首をかしげてみせる。
 確かにこれ以上、上の階層は存在しない。エネルギーの総量で負けているこちらとしては、力任せに攻めてこられるとまずい。かといって、再び降りて追いかけっこを続けようにも階段は瓦礫で潰れている。撤去などしていたら隙だらけになってしまう。
 何より、この扉の向こうにはベレンがいる。ここまで来て、逃げるわけにはいかない。
 どうやって活路を開くか思案しかけた時だった。
「……そろそろだ」
 レイが呟いた。
「さあ、残念だけどそろそろお開きにしましょ!」
 メルダが十度目の『時間停滞』を発動し、襲いかかろうと駆け出した。
 しかし。
 俺の『レッドソウル』はカウンターで『時間停滞』を発動させることは無かった。
 なぜならば。
 メルダは『時間停滞』を発動出来なかったからだ。
 それどころか、彼女のスピードは普通の人間が走るそれと大差なかった。身体能力を強化していた基本機能すら消失している。
「これは……? 一体どういうこと……? システムクリティカルエラー……何よコレ!」
 違和感を覚えたのだろう、足を止めた彼女から一転して動揺の声が上がった。ラバースーツに覆われた身体をかきむしるようにして取り乱している。
「僕から説明させてもらおう」
 レイが通信音声を俺の周囲に解放して、彼女に語りかけた。
「その声は……? 誰?」
「そのアブソーバーの開発責任者だ」
 レイの自己紹介に彼女は思わず固まった。
「なぜ機能停止したのか教えよう。そのアブソーバーはオーバーフローを起こしている」
「オーバーフロー……? そんなハズ無いわ! いくら大量のエネルギー供給が受けられるとは言っても、供給システムは最適化してあるわ!」
 レイが大きな溜め息をついた。
「……君は実にバカだな。もっと根本的な問題が別にあるだろ。アブソーバーの基本原理すら忘れたのか?」
 アブソーバーはどれも装着者の周囲の空間を情報として捉え、あらかじめ組んでおいたプログラム通りに空間内の事象を書き換えることで能力を行使出来るよ うになっている。つまり、情報として認識した空間の外へ出た場合は、即能力を作用させることは出来ない。もう一度、空間を掌握する必要があるのだ。それは 『時間停滞』とて、例外ではない。
「結論から言うとだね、セカンド・フェイズにはキャッシュを消す機能をつけてないんだよ」
 なんとセカンド・フェイズでは、一度情報として認識した空間はアブソーバーの記憶領域に残り続けるというのだ。
 解りやすい例を説明するなら、パソコンでインターネットのページを開いた時を思い浮かべるとよい。サイトを閲覧する際、一度開いたページであるなら再度見たい時にすぐ開けるよう、データの一部をメモリに格納する機能がある。これがキャッシュだ。
 普通に使用する分には何の問題も無いのだが、いくつもページを開いたりしてキャッシュの量が増大し過ぎるとかえって動作が重くなってしまうことがある。
 『レッドソウル』でもそれと同様のことが起こった。『時間停滞』使用の為に、いくつも空間を掌握した結果、残留したキャッシュがシステムを圧迫してしまったのだ。短時間に実空間の物理現象を書き換える程の情報量を扱うのだ。その量は尋常ではあるまい。
「そんな……! だったらなぜそっちのアブソーバーは平気なのよ!」
「決まってるだろ。僕が全て手動でキャッシュを削除しているんだ」
 金切り声を上げるメルダに、レイは冷めた声で返答する。ミロットさんに苦言を呈していた時以上に、彼女を見下しているようだった。
 『レッドソウル』は設計の段階からデータが流出した際の対策がなされていたのだ。
 エネルギーの供給システムを増設したメルダ市長と言えど、プログラムを端から端までチェックしてはいなかったのだ。まさか、わざわざ欠陥を残してあるなど、思いもよらなかったのだろう。
 始めから自分独りで戦っていた彼女には、『レッドソウル』のシステムが二人以上で運用するものだという発想自体が無かったのだ。
「……まあ、他人を利用することしか考えていないヤツなんてその程度さ。模倣っていうのは外から技術を学ぶ際にはいいが、所詮は真似なんだよ。並ぶことは 出来ても超えることは出来ない。この場合は並べてすらいないがね。袋小路に向かって突き進むだけの人間が、常に壁を越えようと挑む人間に敵う道理などな い」
 機械のように冷たい口調だったが、俺には内にこもった怒りを吐き出しているように思えた。
「レイ、君が友達で良かった。そして、君が敵でなかったことに心底安心している」
 勝利を確信し、ひりつくような笑みが浮かぶ。
「エギル、それは僕も同じさ。これで、君の友情にようやく報いることが出来る。さあ、終わらせてくれ」
 顔は見えないが、きっと口角を上げているであろう。彼の軽快な言葉がそれを物語っていた。
「うゥゥゥッ――!」
 憤怒の表情を浮かべるメルダ。だが、もうどうしようもあるまい。
 再度戦闘態勢を整えるには、アブソーバーを再起動させるしかない。
 もっとも、俺はそんな『時間』など与えるつもりはない。
 醜悪な表情のまま、身をよじらんばかりの姿のまま、彼女は停止する。
 時間にして、約十三秒。十分過ぎる時間だった。
 接近する。一秒経過。
 炎弾が右腕を包む。三秒経過。
 氷塊が左腕を砕く。五秒経過。
 電撃が右肩を覆う。七秒経過。
 衝撃が左肩を貫く。九秒経過。
 閃光が右膝を削る。十一秒経過。
 重力が左膝を潰す。十三秒経過。
「――ぎィ!」
 時間が本来の流れを取り戻し、俺が呼び起こした現象が実空間に作用する。
 六基のアブソーバーを全て破壊され、声にならない叫びと共にメルダは床へと崩れ落ちた。
「終わりだ。ベレンは帰してもらう」
 俺は再び宣言する。
 メルダは仰向けに転がると、壊れたオルゴールのように笑い始めた。
「そうね……終わりね。あはッ、は、はは、ははは。ふっ、ふふ、あは、ははは――」
 もう全てがどうでもよくなったとでも言わんばかりの、みじめな姿だった。
 彼女を打ち捨て、俺は市長室の扉を開けた。

 市長が俺達を欺いたあの部屋の中。
 広い部屋の手前側には俺達が座った来客用の机と椅子がある。奥側には市長用の大きなデスクと豪勢な椅子が変わらずある。更にその背後はガラス張りだ。空が夜になりつつあるのが見えた。
 しかし、都市を一望出来るパノラマのその前に、この場には似つかわしくないモノが配置されていた。
 違和感だらけの十字架を模した椅子。本来、神聖なものであるハズの十字架がこの上なく邪悪に思える。理由は、決まりきっている。
「ベレン!」
 罪無き妖魔の娘。俺が好きになった女。
 彼女を縛る十字架など、聖なるものであってたまるか。
 すぐさま駆け寄る。彼女はその細腕両方に太い縄を食い込むほどきつく縛りつけられ、座らされていた。ぐったりと力なく、目は閉じたままだ。
「大丈夫か! しっかりしてくれ!」
 身体をゆすると、やがて彼女はゆっくりと目を開いた。
「……あ。エギル。来て、くれたんですね」
 半分だけ開いた瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
「約束通り、助けに来たぞ! 今度こそ、必ず助けるッ!」
 強化された腕力で拘束する縄を引きちぎり、彼女を解放すると腕に抱きしめた。
「さあ、ココを出よう」
 どうやら、大量に代謝抑制剤を投与されたらしい。まともに動けないようだった。俺の身体にすがりついてきた彼女を、抱き上げる。
 初めて君を助けた時とは違う。あの時、道に倒れていた君を運んで行くのは実に骨が折れた。君の実情を知ってからも、俺ひとりの手には余る案件だった。
 けれど、今君を支える腕は俺のひとつだけじゃない。大勢の仲間がいるんだ。だから、君を抱えられる。しっかりと受け止められる。
 たった独りで、その身に背負いきれぬしがらみを抱えていたベレン。
 君はもう、独りじゃない。
 市長室を出ると、メルダは変わらず仰向けに倒れたままだ。ただ、笑い声は止まり、恍惚とも茫然とも受け取れる奇妙な微笑をたたえていた。
 ベレンを抱えたまま、俺は階段を埋めている瓦礫の撤去を始めた。戦闘中ではなかったので、エレメントを作用させればそれほど苦労ではなかった。
「……私を殺さないのね?」
 背中に声が投げかけられた。
「……死んで逃げるな」
 俺は振り向かず、口だけ動かした。
「優しいのね。そして、残酷だわ。貴方は私に地獄で生きろと言うのね……」
「地獄にしたのは貴女だ。今度は違うモノに変えてみせろ」
「違うわ……。私がしたんじゃない。私じゃ変えようがない。元から地獄なのよ……」
 一番大きな瓦礫をどかすと、落下の際に壁面を崩したのだろう。大きな穴が口を開き、夜の闇が落ち始めた街並みが見えた。
「本当のことを知った貴方が、それでも今と変わらずいられるか。それを見れないのは残念だけど――」
 言葉が途切れた。何を語るのか、気になった俺は階段をすぐに下りなかった。
「いいのよ。もう。だって私、あの時、死んでるハズだったんですもの――」
 声が近くで聞こえた。おかしいと思った時にはもう遅かった。後ろを振り返りかけた俺の横をメルダが通り過ぎて行った。
 止める間など無かった。俺があっ、と声を上げた時にはメルダの身体が穴の向こうに舞っていた。
 やがて、鈍く小さな音が、下から聞こえた。
「こんのバカヤロウが……!」
 悔しかった。俺では、彼女を救えなかった。助けると啖呵を切ったが、止めただけだった。絶望しきった心まではすくい上げることが出来なかった。
「エギル……」
 そんな俺を慰めるように、ベレンが俺の頬に手を伸ばした。
 そうだよな。
 俺はベレンを助け出したのだ。そのために、こうなる可能性はあった。高かった。
 だから、ここで俺まで絶望するな。後悔してはいけない。
「行こう……」
 自分に言い聞かせながら足を動かした。
 崩した階段の瓦礫撤去を繰り返し、俺達は下の階へと戻って行く。
 五階から四階への階段に差し掛かった時、通信が耳に届いた。
「レイ、エギル、聞こえるカ? 俺だよ、キュウタロウだヨ! 鎮圧が完了したゼ! 今、拘束出来た隊員達を移動用の車に積みこんでいるッ!」
 朗報だった。双方に犠牲はあったが、それがこの戦いの終わりを告げるものであったからだ。
「そうか! よくやってくれた! 追加の報酬は間違いなくその手に渡そう!」
 レイも歓喜の声を上げていた。
「運良く、助っ人が現れてくれたんでナ。おかげで民間への被害は大分減ったゼ!」
 アイツ、やってくれた。本物のヒーローに、なってくれたんだ。ヘコんでいたところにこの情報は視界が潤んでくるほど、嬉しかった。
 残りの階を下りる俺の脚は弾んだ。瓦礫をどける時も早く道を開けねばと、気持ちがはやった。
「エギル、合流ポイントを記したマップデータを送る。確認してくれ」
 一階のホールまで戻ってこれた時、レイが通信をよこした。目の前にこの都市ηの地図がホログラフとして浮かび上がった。合流ポイントは守備隊が暴徒と化 したのを目にした場所の近くだった。キュウタロウ達もここへ向かっているだろう。合流して速やかに都市から出るのだ。それで、このミッションは完了だ。
「分かった。可能な限り急ぐ」
 軋んだ市庁舎を出た俺は、ふとその右側面の曲がり角に目がいった。あそこを曲がれば、メルダが落下した場所が見えるだろう。
 意識してしまうと、苦々しさがにじみ出て来る。
 もう死ぬことでしか、彼女は解放されなかったのだろう。生きていくことの方が苦痛だと感じてしまう傷が、メルダにはあったのだ。傷が深すぎた。
 既に物言わぬ死体となってしまった今、どうしようもない。治しようなどないのだ。
 死はこれほどまでに重い。死んでいると思っただけで、こんなにも心をえぐるのだ。ましてや、その姿を見ようものなら俺の足は再び止まってしまうだろう。
(さよなら……)
 断腸の想いだったが、それを振り切って目指すべき場所へと走り出した。

 夜となった街並み。
 その中を俺はベレンと共に疾走する。
 都市のエネルギー機関を押さえられていたとはいえ、短期決着出来たお陰で都市内を照らす街灯などの照明は、まだそのほとんどが活きていた。日光と違い、ベレンの肌を焼くことは無い。
「こんな風に……光の下で一緒にいられたらいいのに」
 ポツリ、と想いをこぼしたベレン。
 彼女を抱く腕に力が入った。
「実現させるよ。そう遠くない未来で、きっと」
 正面を見据え、力強く告げる。
 大気を裂き、傷跡の残る通路を急ぐ。
 合流ポイントに辿り着くと、キュウタロウを筆頭とした傭兵団員が待機してくれていた。
 少々団員の数が減っているようだったが、あの乱戦では全滅しなかった彼らの戦闘力を賞賛すべきだろう。今は作戦の成功を喜び、生き残った者達をねぎらおう。
「……やったんだな」
 獣人達の中から、人間が一人歩み出て声をかけてくれた。
「代謝抑制剤の中和剤だ。必要になるかも知れないと思って、合流する途中で病院から拝借して来た」
 彼はそう説明して、抱きかかえていたベレンを床に下ろさせると、腕に注射を一本打った。
 見れば砂にまみれ、強靭なスーツのあちこちが裂けている。ヘルメットにも衝撃を受けた跡があった。獅子奮迅の大立ち回りをしたに違いない。しかし、割れたバイザーの奥に輝く目は、ひたすらに気持ちのいい青色が満ちていた。その血のにじむ頬には爽やかな微笑みがあった。
 ただひとり、狂気に犯されなかった者。ただひとり、守備隊員としての責務を全うした戦士。ただひとり、市民のために戦った本物の英雄。
「ありがとう。やはりアンタも戦ってくれたんだな」
「礼を言うのはこちらの方だ、エギル・トーチライト。君が俺を奮い立たせてくれたからだ。自分が何者なのか、思い出すことが出来た」
 自分の名前を呼ばれて、ここで彼の名前を聞いていなかったことに気付いた。
「都市ηのヒーロー、アンタの名前を教えてくれ」
 尋ねると、彼は手を差し出した。
「ウェイン・ランナーだ」
 がっちりと掴み、固い握手を交わした。
「お嬢さん、具合はどうだ?」
 俺の手を握ったまま、ウェインはベレンに問う。
「ありがとう、大分楽になりました。でも、何だかエレメントがうまく使えないみたいなんです」
 彼女はゆっくりと立ち上がり返答した。妖魔族の持つ種族的特徴ゆえか、中和剤はすぐに効果が出たようだ。普通に歩く程度なら問題なさそうだった。
 だが、代謝抑制剤の効果が薄れても、エレメント能力が戻らないのはおかしい。
 どうやら、彼女が投与されたのは代謝抑制剤だけではなかったらしい。エレメントの使用を阻害する厄介な薬も同時に盛られたようだ。製品名や詳しい成分などは分からないが、意識の伝達を妨害するような神経系に作用する類の薬だろう。
「そうか……。他の薬も片っ端から持って来れれば良かったんだが、病院自体も被害が大きくてな。破損しているものも多かった。いずれにしろ、ここで出来る処置は限られている。他の団員が合流したら早くこの場を離れよう」
 頷き、残りのメンバーの到着を待った。
 やがて、応答のあった仲間が集結すると、キュウタロウの指揮で移動が始まった。俺とウェインは彼の横に付いた。
 負傷者や疲弊している者を囲う形でカバーしながら、移動を再開した。運良く生き残れた守備隊員達もこの移動には含まれ、荷物の如く荷台付きの車両などに載せられている。ベレンも荷台の上に腰を下ろし、行軍に身を任せた。
 最短距離で都市ηのゲートへと至る道を行く。急ぎたいのはやまやまだが、負傷者に合わせたために、エレメントでひとっ飛びとはいかなかった。
「……しかし、分からないな」
「どうした?」
 道中、ウェインがこぼした一言に、俺はすかさず尋ねた。
「いや、彼女が平穏をかなぐり捨ててまで都市ひとつを壊滅させようとするだけの理由が、さ」
 今、ウェインは何の話をしている?
 彼女?
「……ウェイン、誰のことを話している?」
「な、に……!」
 俺の疑問に対して、ウェインが瞠目していた。
 なぜ、そんな顔をする?
「……バカな! 記憶の忘却はあの通信端末のせいじゃなかったのか!」
 明らかに動揺している彼を見て、俺も何かがおかしいと思い始めた。だが、何がおかしいのかが分からない。
「……エギル、君はメルダ市長の元からベレンを奪回してきたんじゃないのか?」
 聞き覚えの無い名前に頭をひねっていると、キュウタロウがきょとんとした顔で口を挟んだ。
「なあ、メルダって誰だヨ?」

 まだ、戦いは――。

 オ ワ ラ ナ イ
BACK     目次     NEXT
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送