第3章 「不可侵のボーダーライン」 ――心というヤツは厄介だ。どこまで踏み込んでいいのか、科学的知識では測れないモノだからだ。 創造者の存在を知ってから一週間程経過したある日。 ベレンの身体を調べていた俺は、ついに妖魔が太陽の光に弱い原因を突き止めた。 彼女らの体細胞は代謝の早さに伴ってエネルギーの消耗も早いため、養分を摂取した際に素早く供給出来るようにある生体物質を生産している。それが栄養素 と結合し、全身に送り届けることで驚異的な身体能力と回復力を実現しているのだ。ただ、その物質は日光を受けると過剰に反応を起こし、熱を放出する。それ も、自身を生み出した細胞が炭化する程の熱だ。 妖魔はその生体物質によって、代謝力の良さ自体が日光に弱い原因になっていたのだ。 恐らく、発見したのは俺が初めてであろう、人間にとっては未知の物質であった。ゆえに俺は、妖魔の種族的特徴になぞらえてその物質を仮に『ヴァンピアシン』と呼ぶことにした。 問題なのは、現状では対処方法が皆目見当つかないということだった。 ここまでの話を聞くと、薬によって代謝力が落ちているベレンが日光に弱いままなのはなぜか、という疑問を口にする者がいるかも知れない。だが、ちょっと 考えてみてもらいたい。薬によって抑えているのは、細胞自体の代謝力であり、『ヴァンピアシン』の産出を抑制しているわけではない。誠に残念だが、代謝を 落とすことが日光に弱いことを改善する手段にはなり得ないのだ。 ならば『ヴァンピアシン』が作られないようにすればいいかと言われると、そう単純にはいかない。試しに産出を抑制する化学物質を合成して投与してみよう かとも考えたが、この生体物質がなければ妖魔は人間と違って、細胞に必要な養分を正しく供給出来ないのだ。下手をすれば、食事を十分にとっても栄養失調に なる可能性が高い。危険過ぎる。実際に実験してみるわけにはいかなかった。 そして、目立った成果が上げられないまま、更に三週間が経過した。 ただ、セレンディピティというヤツだろうか。日光に弱いという弱点を克服する研究とは無関係だが、ひとつ面白いことが分かった。妖魔の細胞内にある性染 色体は人間のものとは異なり、組み合わせが百通りもあるのだが、この中で男になる組み合わせがひとつしか存在しないのだ。 更なる余談ではあるが、この世界は異種族間の交配が可能である。今までに人間と獣人、人間と妖魔、人間と竜人のハーフやクォーターは少数ながら確認され ている。物質生命体だけは交配が出来るか不明なため、ハーフは確認されていないが。まあ、その者達の遺伝子がどうなっているかは、未だ調べた者がいないの で分からない。種族間の見えない壁が、ある種のタブーのようなイメージを作っているためだろう。 ともあれ、妖魔に男が少ないのはその遺伝子自体に理由があったのだ。それをベレンに話すと、その事実に納得した様子だった。 「それで、私達は一夫多妻制になっていったんですね」 その言葉を聞いて俺はハッとした。調停者のシングから聞いた話が思い出された。 この世界には創造主がいる。だとしたら、妖魔に限らず全ての存在は『彼』の思惑通りに生み出されたと考えられる。つまり、今の世界の有様は全て『彼』が決めたことなのだ。人間が科学を発展させたのも。竜人が調停者を組織したのも。妖魔が日光に弱いのも全てだ。 一体、『彼』は何を思いこの世界を創造したのだろう。俺は直接会ったわけではないから、その真意は分からない。だが、何にしろ今の俺には腹立たしかっ た。俺は世の中が不公平なのは当然だと思っていたが、そうならないように出来る立場にいる存在がいるのに、何もしないのは怠慢だと非難したかったのだ。 「どうしたんですか?」 俺はその声を聞くまで、自分が考え込んだままだんまりとしていることに気付かなかった。 「……! すまん。ちょっと考え事をしていた。実はな……」 一瞬、ベレンに話してもいいものか迷ったが、シングは『話せる範囲』で、と断ってから俺に神について語った。他に漏れて困る情報なら、いくら俺がおやっさんの知り合いでも伝えたりはしないハズだ。何より、シングは他言無用とまでは言わなかった。 「……にわかには信じがたいですね」 話を聞き終えると、彼女は頬に手を添えた。 「まあ、そういう反応が普通だろうな」 「でも、エギルは信じてるんですね?」 「俺が実際に見たわけじゃないから断言は出来ないが。ただ、嘘を吹き込むためにわざわざ長い作り話をして聞かせるような人物とも思えなかったしな」 シングの真剣な眼差しを思い返しながら、俺は頭をかいた。創造主がいる、という思わず一笑に付してしまいそうな事実は教えられるのに、他に教えられない事柄があるということに違和感を禁じえなかったのだ。 俺の話を受けて、ベレンはもどかしそうに言った。 「……でも、神様だったらきっと知ってるんでしょうね」 「……だろうな」 彼女の言わんとしていることは分かる。もし、直接聞けたとしたらこんな苦労は必要ない。あるいは、奇跡を起こすかのようにして妖魔族全ての体質そのものを変えてしまうことも出来るだろう。 だが、俺は人間だ。逆立ちしても神様にはなれない。解決策については俺が人間としての力で見つけ出すしかない。 それに、自分で作った世界の成否を自分で判断出来ないような神だ。どうもうさんくさい。仮に会えたとしても、素直にこちらの要求に応じてくれるか分かったものではない。 「まあ、無いものねだりをしても仕方ないさ。いや、この場合はあるけど手が届かない、か?」 わざとらしく、肩をすくめておどけてみせる。 しかし、ベレンはもどかしそうにでも、と呟いた。 通常、楽をして利益を得られると人は味をしめてしまってつけあがるものだが、彼女の場合、俺がタダ同然で衣食住を提供していることに対して負い目を感じてしまうようだ。研究を始めてから何も成果が上がらない日が続くと、まるで全てが自分のせいかのように表情を曇らせる。 お人よしの俺はそんな表情を見るために研究を始めたわけではないのだ。 「心配するな。元々、一ヶ月そこらで結果が出るとは思っていない。それにな、今回みたいに行き詰った場合は何か見落としているケースが多い。ブレイクスルーは必ずある。要はそれに気付けるかだ……。まあ、気長に行こうぜ」 励ましてやると、彼女はやっと表情から影を振り払い、笑顔を作って頷いた。 気長に行くに当たって、彼女から調べたいことは他にもあった。身体の方ではない。心の方だ。彼女が何者なのか。どういうわけで、この都市に来たのか。 実は訊きそびれた翌日、改めておやっさんに尋ねたのだが、彼自身もはっきりと思い出すことが出来ず、ベレンの素性につながる情報は得られなかった。ここ までは出かかってるんだがなあ、とありもしない喉を金属片で形成した指で示したフェルンはもどかしそうな様子で、調停者の時と違って隠そうとしている感じ はしなかった。 早いところ知りたい情報ではある。だが、俺はこれまでの間、自ら彼女に問いただすことはしないでおいた。出来れば彼女自身の口から話して欲しかったのだ。それに、無理に口を割らせれば恐らく心に傷を残す。 「じゃあ、俺はそろそろ君の薬をもらいに行ってくる。留守を頼むよ」 そう言って、デスクから立ち上がるとベレンがぽつりと漏らした。 「……聞かないんですね」 何を、なのかは言うまでもない。彼女の方から話を振ってくれるとはありがたい。いい兆候だ。俺は振り返らずに返答をした。 「俺が尋ねたら、今君は話してくれるのか?」 「いえ……」 「だから聞かなかったのさ。話したくなったら話してくれればいい」 俺はきっと歪んでいるであろう彼女の顔を見ずに、研究所を後にした。 きっかけが欲しい。 ミロット魔法店への道を行く俺はそんな思いを強くしていた。 日常というヤツはきっかけひとつを境に一変してしまうことがある。だが、俺の場合はベレンというきっかけによって変化した日常が、これ以上の変化を未だ見せてはくれない。 前述した通り、強引に聞き出すことはしたくない。だが、このまま待っていても彼女が自ら語るのは難しい気がする。 ベレンは、自分が素性を明らかにしないまま、厄介になっていることには強く負い目を感じている。しかし、それでも話せないのは恐らく何かを守っているからだ。それが自分なのか、他人なのか、あるいは事柄なのか、そこまでは分からない。 彼女の心を傷付けず、真実を聞き出し、研究も完成させる。善人でいるのも楽ではない。それどころか、俺が目指しているのは完璧超人ではないか。 (……ミロットさんに話を聞いてもらうか) 俺も背負ってばかりでは身が持たない。素直に相談してみよう。それに、女性視点の意見をもらえば何かつかめるかも知れない。 店に着くと、扉をくぐってミロットさんの姿を探した。カウンターに座っていた彼女は、俺を見るとすぐさま立ち上がって出迎えてくれた。 いつもの応接間に通され、香りの良い紅茶でもてなしを受けた。 「いつもすいませんね。薬を買いに来ただけなのに」 「いいのよ。丁度暇していたし」 角砂糖をひとつティーカップの中に入れ、スプーンでかき混ぜながら彼女は言った。 「で、ベレンちゃんのことで何かあったの?」 女のカンというヤツだろうか。鋭いねえ。 「いや、何もないんです。何もないのが問題なんですよ」 俺は未だ彼女が口を割らない件を話した。 「……というわけで、どうやったら自然に話してもらえるか、俺も考えあぐねているんですよ。ある意味、研究を完成させることよりも難しいかも知れないですね。だから、きっかけが……」 苦笑しつつ経緯を話し、ミロットさんの顔を見た時だった。俺は先に続く言葉を飲み込んだ。彼女の眉間と鼻筋に少しだが、力が入っていたように見受けられたからだ。 「ミロットさん……?」 「……君は優しいわ。それはとても素晴らしいことだと思う。でも、触れて欲しくない内容を傷付けずに聞き出すなんて、そんなこと出来ると思う?」 無理だ。彼女の視線はそう告げていた。一ヶ月間何も出来なかった俺を咎めているような感じがした。 「エギル君、君は話して欲しいと思っているけど、無理に聞き出すことはしたくないとも思っているのよね?」 首を縦に振る。 「それって、ベレンちゃんもきっと同じだと思う」 いまいちピンと来ない。俺が困惑していると、彼女は言葉を続けた。 「自分から話したくはないけど、誰かに聞いて欲しいとも思ってる。干渉して欲しくはないけど、踏み込んで来て欲しいとも思ってる。これって矛盾してるけど、困ったことに成立するのよ。感情の上ではね」 しかし、だからと言ってどうしろというのか。俺が困惑の色を強めると、彼女はしびれを切らしたようで語気を強めた。 「まだ分からない? 君は問いただすべきよ。たとえ彼女に嫌な顔をされてもね」 「しかし……」 俺が呻くと、彼女はそれを遮ってまくし立てた。 「いい!? 両方同じような考えなのよ! 話してもらいたかったら、君の方から仕掛けるしかないの! きっかけが必要なのは分かるわ! だったら、きっかけを待ってちゃダメ! 君自身がきっかけにならなきゃ!」 自分の喉が音を立てた。その発想はなかった。 いや、違う。俺は彼女に深く関わることを心のどこかで恐れていたのだ。傷付けたくないと言いつつ、自分が傷付くことを避けようとしていた。 「……そうか」 ふうーっ、と息を吐き出す。胸の奥のつかえごとこの息と一緒に出て行ってしまえ。 ミロットさんをまっすぐに見つめ直す。 「ありがとう、ミロットさん。貴女を頼って良かった」 「そう。役に立てたなら、私も良かったわ。そろそろ、薬を取ってくるわね」 親切な魔女は表情をほころばせ、席を立った。だが、俺は席を立って応接間の出口へと振り返った彼女に一瞬、影が差したような気がした。 ほどなくして、ミロットさんから薬を受け取った。その時には彼女の顔に曇りは確認出来なかった。気のせいだったのかも知れない。 俺は薬の入った紙袋を片手に帰路についた。 「俺が仕掛けるしかない、か」 ミロットさんの言葉を反芻する。確かに俺が行動を起こすべきなのだろう。だが、タイミングだけは見計らう必要がある。やはり、今すぐというのはまずい。せめて、彼女が満腹で気分がいい時にさりげなく話題を振るべきだろう。 一時、薬を飲ませずにおいて、本来の食事量で心行くまでごちそうを味わってもらった方がいいかも知れない。 そんなことを考えていた時、不意に後ろから声をかけられた。 「おーい、おにーさん! おにーさんだよね!」 振り返り後方に目をやると、獣耳を生やした少女がこちらへ向かってかけて来るのが見えた。あれはベルだ。まもなく、目の前まで来て足を止めた。 「どうした? またあの藻が足りなくなったのか?」 ミロットさんの店で会ってからしばらくすると、ベルは俺から直接藻を買うようになっていた。いや、藻だけではない。あの店に俺が置いてもらっている品物は、ほぼ全てだ。 「うんうん、そうなの」 金の入った革袋を差し出しつつ、無邪気な笑顔を見せた。 どうやら、仲間に頭のキレるヤツがいるらしい。店に置いてあるモノを買うよりも、仕入れ元から直接買った方が安く済むということに気付いている獣人族がいて彼女に吹き込んだようだ。 「でもさー、なんで同じ物なのにおにーさんとミロットとで値段が違うのさ?」 だが、残念ながら当の本人は人間社会における経済の仕組みを理解していないようだ。 「人間にはサービスを売るという考え方がある」 「うんうん」 俺が解説を始めると、ベルは相槌を打つ。自分達の種族には無いモノだから、興味津津としている。元々、好奇心が強いのだろう。 「例えば……そうだな、君は三度の食事を毎回自分で用意しているのか?」 「うん。アタシ達は基本、自分の食事は自分で確保してるよ。川で魚獲ったり、山でキノコ採ったり」 「人間の場合、他人に飯を用意してもらって、その代わりに金を払うというサービスがあるんだ。この場合、当然用意された食事自体にも金を払う価値はあるが、人に飯を作ってもらうという行動自体にも金を払う価値が発生する。ここまでは分かるか?」 彼女が首を縦に振ったのを確認して話を続ける。 「だから、君が俺から直接品物を買った方が安いのも、似たような理屈だ。こっちは物流って考え方があるから、厳密にはちょっと違うがな」 「あ、おにーさんが藻を作るのと、ミロットの店に藻を運ぶのと、二つ手間があるってことなんだね」 お、理解したか。 「でもでも、それなら藻が欲しければ皆おにーさんから直接買えばいいじゃん」 前言撤回、やっぱり分かってねえ。 「ところがそうはいかんのだ。それじゃあ、店が何のためにあるのか分からなくなる。君は俺の研究所の場所を知っている人間がどれだけいると思っているんだ?」 そっか、とベルは手を打った。 「その点、店は初めからモノを売る場所だと多くの人が知っている。だから、そこに行けば欲しいモノが手に入るということが分かっているんだ。自分で直接探す手間を省く、と考えればいい。だから、値段が少々高くてもそこで買うのさ」 それに、仕入れ元に客が殺到したら店の存在意義はおろか、生産自体がままならない。俺は収入のための副業として藻や化学薬品を作っているが、ベルの考えが通ったら研究どころではない。 「まあ、経済について楽しく知りたければネット発のノベルがあるからおススメしておく。寒冷地の村でイモを栽培するところから始まる物語なのだが」 「うん。何となくは分かったよ。でも、それにはパソコンと電気がいるなあ……」 そこからか。どうにも種族の壁が厚い。共存が最善の道だというのに、どうして他種族はこうも隔たりがある進化をしてきたのか。全部『神』のせいならまず問い正したいことのひとつだ。 「……うまくいかないな」 「……うん。極端だよねえ、おにーさん達も、アタシ達も」 ベルも俺と同じような結論に至ったらしい。俺はそうだな、とだけ答えた。現状を嘆いたところでどうしようもない。今ある力でどうにかしようともがくのが生命というモノではなかったか。 後に続く言葉を考えているうちに、俺達は研究所に到着してしまった。 「ちょっと待っていてくれ」 俺はベルを入口に待たせると、ベレンをかくまうべく中に急いだ。主な取引先はミロットさんだけだから、人が訪ねて来ることは多くないが、ベレンの存在は知られないようにしておくべきだ。 「……ベレン? どこだ?」 研究室にベレンの姿が見当たらない。ソファに寝ているでもなく、キッチンで火を使っているでもない。 (トイレか?) 俺が化粧室に入るのと、奥にあるバスルームの扉が開いたのがほぼ同時であった。 「あ……エギル」 どうやら、シャワーを浴びていたらしい。彼女の髪は水滴に濡れ、しっとりと肩に張り付いている。それだけではない。水滴は幾重にも彼女の身体から滴り落ちていく。二つの丘の間を、細くくびれた腰を、太股を伝って、床に引いてあったマットにしみこんでいく。 ベレンは前を隠そうともせず、静かにこちらを見つめている。その視線がこちらを捉えていることをややあって自覚した時、俺はやっと声を出した。 「――ウワアアアアアアォ!?」 驚きのあまり意味不明な奇声を発してしまった。俺は慌ててしまって腕をグルグルと振り回しながら壁にかかっていたタオルをつかむと、ベレンに向かって投げつけた。彼女の頭にタオルが広がるのとほぼ同時か、全速力で化粧室を飛び出し、叩きつけるように扉を閉めた。 ああ、見てしまった。何もかも。脳裏にベレンの柔肌が浮かぶ。本当に綺麗な身体だ。黒髪は艶があって美しい。柔らかそうな肌。というかきっと柔らかいん だろう。触れてみたい。あれで全く興奮しない男がいたら、だらしねえなと叱責されつつ後ろから掘られても文句は言えまい。 おい、俺は一体何を考えているのだ。落ち着け、落ち着くんだ。呼吸を整えろ。いつも通りの俺でいるんだ。 「す、すまん! バスルームにいたのか」 「いえ……ごめんなさい。勝手に借りてしまって」 謝ることはないが、タイミングが悪い。これで彼女に話を切り出すタイミングも大幅に狂うこと間違いなしだ。しかし、彼女はここで安定しかけた俺の思考を再び狂わせる一言を放った。 「あの……何も……しないんですね?」 つまり、どういうことだってばよ。シャワーを浴びて待ち構えていれば、色っぽさが二倍になるだろ。 俺の脳内で二人の忍者が掛け合いを始めたが、構ってる場合ではなかった。 「……貴方は本当に紳士なんですね。妖魔の間では、考えられない辛抱強さというか」 ついに俺は恥ずかしさが抑えきれなくなり、怒号に近い声でベレンをしかりつけた。 「自分を安売りするんじゃない! 俺はそれが目的で君をここに置いているわけじゃない! 人間の恋愛を妖魔の恋愛と同じレベルで考えるな!」 「す、すいません」 ベレンの声が小さくなった。流石に気圧されたらしい。 「……今、俺は君に何もしない。だから早く服を着てくれ」 大切にしたいと思うからこそ、踏みとどまるという行動に出る。人間にはそういう考え方がある。それに、直接触れるならば、もっと互いのことを知ってからでも遅くはないハズだ。 「はい」 ベレンがごそごそと音を立て始めた。ようやく着替えてくれたか。胸をなでおろした瞬間だった。 「おにーさん大丈夫? 今の叫び声どうしたの?」 またもイレギュラーなタイミングだった。獣耳娘が研究室の中に入ってきてしまった。 「あれ、誰か来てるんですか?」 「バカ! 出てくるな!」 言った時には既に遅く、下着姿の彼女が顔を出してしまっていた。 一瞥したベルは満面の笑みを浮かべると、手を振ってその場を去ろうとした。 俺が全力で引き止めたのは言うまでもないだろう。 「……というわけだ。黙っててくれるな?」 いきさつを話し終えた俺は、最後に釘を刺した。 俺がベレンにと用意したソファには、ベルが我が物顔で寝転がっている。 ベレンは俺から薬を受け取ると、部屋の隅から落ち着かない様子でこちらをうかがっている。 「いいよ」 彼女は終始ニヤニヤとしていたが、どうにか口止めは成功したらしい。ただ、間違いなく何か対価を要求してくるだろうな。 「でもさー、何か黙ってる見返りが欲しーなー」 ほらな。俺は話を始めた時から考えていたプランを告げた。 「あの藻を君にだけ、相場の半分の価格で提供しよう」 「マジで! 分かった! 黙ってるよ!」 予想通りの反応だったので、ほっとすると同時に少々イラッとした。だが、止むを得まい。 「しかし、ずいぶんあの藻を使うようだな。いくら身体が頑丈でも、アレは使い過ぎると少々危険なんだが……」 苦言を呈すると、ベルはここで初めて自身に関する情報を俺に漏らした。 「いやー、勿論アタシだけが使ってるわけじゃないよ。アタシ達は仕事柄、苦しい時でもテンション上げないといけない場合が多いからさー」 仕事柄、か。どうやらただ狩猟生活をして暮らしている一般の獣人ではないようだ。 「闘争心が必要なのか? まるで格闘家だな」 ベルは推察を始めた俺を見て、教えといた方がいいか、と呟いて自分の職業を語った。 「いやー、実はアタシ、傭兵なんだよね」 そう言えば、初めて会った時自分を戦士だと言っていたな。なるほど、合点がいった。 「『狼の爪団』って知ってる? 今はこの都市の近くにキャンプを張ってる。アタシの親父が団長なんだよ」 名前は聞いたことがある。メンバー全員が獣人で構成された私設傭兵団だ。特定の都市や思想に属さず、報酬次第で敵にも味方にもなると言われている。練度の高い戦士が揃っており、その戦闘力は都市の守備隊に匹敵するとまで言われている。 「……ミロットさんは知っているのか?」 警戒心が俺にそう言わせたが、ベルはすっきりとした表情だった。 「うん、一応ね」 「俺に教えても良かったのか?」 「おにーさん、流石に用心深いね。それともただのビビリ?」 「両方だ」 正直に言うと、ベルはケタケタと笑いながら言った。 「あははっ! 大丈夫だよ。知られて困ることじゃないしね。それに、仕事の依頼を増やすにはまず知ってもらわなきゃだし。おにーさんは親切だし、これでも信用してるんだよ?」 打算あってのものかは分からないが、彼女なりの営業活動というわけか。まあ、傭兵団内部の情報を漏らしたりしているわけではない。そう警戒することはないか。 「分かった。そういうことなら、いつか傭兵のベル・バイターに仕事を依頼することがあるかもな」 ベルは機嫌を良くしたようで、胸をポンと叩いた。 「まーかせてよ。あ、でも正式に依頼する時は親父に相談することになると思うんでよろしく」 そうして、口止め料と引き換えにベルの素性を知ったわけだが、彼女は去り際に俺に告げ口をした。俺達の話が終わるのをじっと待っているベレンを目で示しながら、だ。 「……彼女、自分のことを話さない、って言ってたけど、気を付けた方がいいかも知れないよ。あんまり詳しくは言えないけど、アタシらがこの都市の近くに張ってるのって、妖魔がらみなんだよ」 それを聞いた俺は、狼の爪団がこの都市近辺にいる理由が予測出来た。恐らく、都市ηが警備隊以外の戦力として彼らを雇ったのだろう。きっと、妖魔の過激 派に備えて哨戒に当たらせているのだ。本来の規模以上の戦力を求めているところを見ると、大規模な襲撃を警戒しているらしい。 どうやら、俺が考えている以上に人間と妖魔の状況は緊迫しているようだ。 もう、タイミングをうかがっている余裕はあまりないかも知れない。ベレン・ヘーナという妖魔族の少女が何者なのか、早く聞き出さねばなるまい。 俺はベルを玄関口に送りつつ、今晩聞き出そう、と意志を固めた。 たとえ、その結果が彼女を苦しめることになるとしても。 女性というヤツは時にカンが良い。それとも、俺の表情に出ているのか。 「エギル、今日の夕飯は玄米を使ったんですよ」 彼女が来てからというもの、食事の用意はほとんど任せている。幸い、彼女の料理スキルはかなりのもので、バリエーションに富んだメニューが味わえるようになった。 「それにほら、卵が残っていたからオムレツにしました」 薬で彼女の体質も調整しているので、今は大食らいということもない。 「結構、うまく出来たと思いますよ」 俺は黙って一口箸を付ける。 必要以上に彼女が俺に語りかけて来ているのがありありと分かった。ベルと会ってから俺の雰囲気が変わったのを感じ取ったのだろう。自分から会話をして、話題を誘導しようとしているのだ。 「感想を聞かせてください。ここに来てから前よりも料理の腕前上がってるみたいですから」 そう言ってから、彼女は一瞬しまった、とでも言いたげな表情をした。 主導権を取ろうと焦り過ぎたな。俺はまだ何も言っていないのに。 だからこそ、ここで口を開いた。彼女が聞いて欲しくないことを聞くために。 「俺は今、料理の腕前が上がる前の話を聞きたいな」 「それは……」 とたんに顔をしかめ、口を閉ざした。 いつもならここで引き下がるが、今日はそうはいかない。ベルからもたらされた情報で、彼女に関して知らないということの不安要素が今までより大きくなっ てしまった。悪いが、君の心に踏み込ませてもらうぞ。ちゃんと知らなければ、この不安定な状況がいずれ君をもっと傷付けるだろうから。 「話してくれ。俺は君がたとえテロリストでも覚悟は出来てる」 彼女は下を向いてふるふると首を振る。 なぜだ。一ヶ月ともに過ごした俺が信用出来ないのか。 「ベレン……」 目を合わせようとすると、彼女は意図的に視線を外した。 悲しい。何をそこまで頑なに守る必要があるのか。 「なあ……」 俺が再び問いかけようとした時だった。ベレンが視線を外した方に徐々に顔を向けていく。顔が完全にその方向に向けられると、今度は妖魔特有のルビーのよ うに紅い瞳がゆっくりと見開かれていった。そして、完全に開ききると同時にさーっと血の気が失せて、しまいにはガタガタと震えだした。 何事か、と俺が彼女の視線を追うと、その先にはダンボールの上に乗ったテレビがあった。下に置いているダンボールとは不釣り合いに小さいサイズのテレビだ。食事開始前から電源をつけたままの状態であった。 恐らく、夕方の報道番組であろう。キャスターが真剣な顔で、新たに入った速報を読み上げていた。 『……繰り返します。妖魔族の過激派グループ、《ブルートローゼ》が声明を発表しました。間もなく映像が届きます』 映像が切り替わり、妖魔らしき人物が二人映った。男と女だ。 俺は思わずベレンの顔を見てしまった。 似ているのだ。テレビの画面に映る男女に、あまりにも。特に女の方は、ベレンがそのまま大人になったのではないかと思う程、顔のつくりがそっくりだった。 『エサ共に告げる。即刻、我が娘ベレンを解放せよ。期限は一ヶ月だ。これを過ぎた場合は、我ら《ブルートローゼ》は全勢力をもって都市へと侵攻を開始する』 決定的だった。この男女がベレンの両親というわけだ。 「……そんな……どうして……もういや……いや……いや」 ベレンは顔面蒼白で、絶望と嫌悪に満ちた声でぶつぶつと呟き出した。 『……この声明に対し、都市η市長のメルダ・メルギス氏は次のようにコメントを発表しています』 再び映像が切り替わり、別の女性が現れた。やや丸顔で、赤いふちの眼鏡をかけている。 俺はその女性を知っていた。と、言っても直接面識があるわけでもないし、ミロットさんのように親しい間柄でもない。ただ、この都市の市長ということを知っているだけだ。 周囲の話では、若干28歳の若さで都市ηの市長に当選した有能な人物だそうだ。確か、彼女が当選したのが丁度俺がミロットさんと知り合った頃だったハズ だ。つまり、現在30歳ということになるが、2年間大きな問題も起こさずに都市ηをまとめ上げているのは大したものだと思う。 現在、アイスターにはα〜ωまで24の都市が存在するが、それぞれ個別にその都市の市長が統率している。ゆえに都市ごとにその特色や方向性はバラバラである。工業に優れた都市、農業が栄えた都市などが挙げられる。 その中でも、俺達の住む都市ηは平均的な都市であり、特別秀でている部分はない。問題なのは妖魔の集落と近く、前述してきた通りいざこざが絶えないことか。 『……彼らの娘がこの都市に拘束されているという事実はありません。我々は不当な要求には断固として抵抗します。手始めに防衛隊の戦力を拡張するため、追加予算の申請を行います』 ベレンは凍りつき、身動きひとつしない。この都市は彼女がここにいる事実は知らないらしい。しかしながら、自分自身はその事実から目のそむけようがない。 「ベレン。もう逃げ場はないぞ。話してくれ」 俺は彼女の肩にそっと手を置く。一瞬、びくっと身を震わせたが、はねのけられるようなことはなかった。 「……ここには俺しかいないんだ。ここに隠れるにしても、ここを出て行くにしても、俺に話だけはしていってくれないか」 ついにベレンは精気の失せた顔でうなだれながらも首を縦に振った。 「……さっきの放送にあった通り、私は貴方達人間が過激派と呼ぶ組織の長の娘です。でも、私はほんの一ヶ月前までその事実を知りませんでした。貴族の家系 に生まれて、何の不自由もなく、両親から全てを与えられて生きていました。……食事も。でも、20歳になったその日、両親は私をある場所に連れて行きまし た。そこで私は初めて知ったのです。自分が何を口にして生きていたのかを」 ここでベレンは一度言葉を詰まらせた。唇をかみしめ、焦点の定まらない視線を床に落としている。 俺は催促せずに、続きを待った。やがて、彼女は意を決したように口を開いた。 「そこは過激派組織の集会所でした。両親を始めとして、そこに集まった妖魔は皆一様に人間をエサだと発していました。私はその異様さに初めて父と母を恐ろ しいと思いました。でも、それ以上に恐ろしかったのが、その集会所の地下施設でした。そこは、血液の栽培所だったのです。さらってきた人間を拘束し、必要 な養分だけを与え、私達にとって効率のいい血液を死なない程度に搾取する……凄惨な場所でした」 ベレンは真っ青だった。以前見た光景が脳裏によみがえってきているのだ。 「私は信じられませんでした。私達と同じく知性を獲得し、言葉を交わせる生命をエサとして家畜のように扱っているんですよ。だって、そこに縛り付けられた 人達は皆意志があって『帰りたい』、『家族に会いたい』って言うんですよ。私、そんな人達を踏み台にして生きて行くのは嫌。それなのに、それなのに、あ あ、ああっ……」 途中で、ついに顔を両手で覆い泣き出してしまった。 「……ありがとう。よく話してくれたな」 頭に手をそっと置こうとすると、駄々っ子のように振り回した彼女の腕に叩き落とされた。 「なんでありがとうなんて言えるんですか! 私は貴方達人間をずっと食料にしてきたんですよ! そんな簡単に私が許せるんですか!」 涙で赤くなった目をぬぐいながら、自身の罪を許すなと言っていた。 思えば彼女がここにいる条件に自身の身体を差し出そうとしていたのは、そういうことだったのかも知れない。罪に対する罰を望んでいたのだろう。 俺は彼女を許すつもりなどなかった。なぜなら。 「……許すも許さないもない。君に罪などない」 知ってなお目をそむけることは罪なのかも知れない。だが、知らないことは罪ではない。それを責めるのはお門違いというものだ。 非のない者を許すことなど出来ない。そこには罪人など、どこにもいない。許す罪など存在しないのだから。 「君がこの都市に逃げてきた理由は分かった。だから、もう独りで抱えるな。辛かったんだろう? だったら、ちゃんと辛いと声に出せ。言ってくれなきゃ、分からないじゃないか」 自責の念で流す涙を指でそっと拭いてやる。 「確かに、妖魔のことを人間は偏見の目で見てるし、人間を食らって生きてる妖魔もいる。けどな、人間を餌にするのが嫌な妖魔もいれば、妖魔を日の下で歩かせてやりたいと思ってる人間だっているんだ」 俺は彼女の後ろ頭を手でなでつつ、抱きしめた。 「妖魔だから、とかじゃない。俺は君を助ける。人間だから、とかじゃない。君も俺を信じろ」 ベレンが身を震わせ、再び泣き出した。俺は彼女が泣き止むまで、そのままそっと待ち続けた。 やがて、俺の白衣の肩部分には大きな大陸の模様が浮き出ることになったが、ベレンの辛さが全て流れ落ちてくれるなら、全く大したことではなかった。 その手にあったのは根拠の無い希望だった。ベレンが初めて自分をさらしてくれたことが嬉しくて仕方なかったのだ。 浅はかにも俺はまだ、この時彼女を守れると思っていた。だが、集団の意志や時代のうねりというものは、はるかに強大で一介の研究者一人飲み込むなどわけのないことだったのだ。 実際は身近で問題が起きていても、テレビのスクリーン一枚隔ててしまうと、どこか遠くの場所での出来事に感じてしまう。自身の危機感の無さを呪うのは、これからまもなくのことだった。 |
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