第4章 「無知のディザイア」


 ――無知とは恐ろしい。だが、既知であると錯覚してしまうことはそれ以上に危険である。俺はこの時、一を知っただけで十を知った気になっていたのだ。

 ベレンの正体を知った翌日の朝、俺はデスクでパソコンに向かっていた。
 彼女は俺達人間が過激派と呼ぶ組織『ブルートローゼ』のリーダーの娘だった。だが、彼女自身は二ヶ月前までそれを知らず育った。人間をエサとして扱って いた事実を知った彼女は、恐怖と反発から両親の元から逃げ出し、この都市にたどり着いた。そして、倒れていた彼女を俺が保護するに至ったわけだ。
 それが分かった俺は、彼女を本当の意味で助けようと決めた。そのために、情報を集めていたのだ。
 テレビなどのメディアを通じて発信される情報は、それが正しいと一方的に受け取るのは好ましくない。マスコミは政治的な理由でいくらでも報道の方針を変 えるからだ。天気予報やイベントに関するお知らせ、一般的な事件程度は問題ないが、都市間や種族間の問題となるとえらい人のフィルターにかかる場合が多 く、鵜呑みには出来ない。それよりも、むしろインターネットにおけるチャットやコメントのような井戸端会議的なモノの方が明るみに出ていない真実や重要な 情報を得られるケースがある。情報の信憑性はまちまちで、嘘を嘘と見抜けないと、思わぬ被害を被ることもあるため決して効率的とは言えないが。
「……どうですか? 何か分かりましたか?」
 ベレンが缶コーヒーを二つ持ってそばまできた。差し出された片方を受け取り、俺はふたを開けながら答えた。
「とりあえず、ネットの反応を見る限り、君がこの都市に入った可能性はかなり高いと見られてるようだな」
「そんな……。じゃあ、昨日のニュースで否定していたのは……」
 彼女の表情に怯えが浮かぶ。
 俺はうなづき、彼女が言わんとしていたことを告げた。
「ああ。君がこの都市にいると宣言してしまったら、君のご両親は何が何でも取り戻そうとするだろう。」
 恐らく、ブルートローゼ側も、ベレンがこの都市に逃げ込んだことに薄々感づいてはいるのだろう。だが、今すぐ攻め込むには確証も準備も無い。だから、期限を切ったのだ。
 しかし、期限を切ったということはタイムリミットが怖い。一ヶ月後、ここは戦場になるからだ。今日は水の月三日。つまり、翌月である雷の月三日がエックスデーとなる。
 確証も準備も、と記したが、準備はともかく確証はなくともいいのだ。仲間を奪還するという正義のために。理由はそれで十分なのだ。
 そして、何よりブルートローゼという組織にとっては『人間は食料である』という前提が崩れるのが最も恐ろしいハズだ。あの手の組織は共通の認識、もしく は共通の敵が無くなってしまうとうまく機能しなくなる。なのに、その組織のトップの娘が自分達の常識を目の当たりにした際、逃げ出してしまった。象徴的存 在に自身を否定される。これは非常にまずいだろう。何としても自分達の手元に戻ってもらわねばならない。それが叶わなければ、共通の敵、つまり人間に攻撃 を加えることで結束を固めなおすしかない。
 もし可能なら、どこかの潜入工作員ばりに、こっそり都市内に忍び込んで彼女を奪還出来れば理想的だろう。
 だが、そう簡単にはいかない。妖魔に限らず、忍び込むに当たっては問題があるのだ。ベレンはどうやってそれを解決したのか、ふと気になった。
「そうだ。そう言えば、君はどうやって都市η内部に入った? 外壁を破壊するのはまず不可能だし、ゲートを通過しないと中と外は行き来出来ないから、普通は検問所で目に付く可能性が高いのだが」
 都市は多くの場合、防衛のため外周を防壁で囲っており、この防壁は『アダマント』と呼ばれる金属で作られている。この『アダマント』は、アイスターで発 見された金属の中で、史上最高の硬度とエレメント耐性を合わせ持つ。その性能は驚異的で、竜人族でさえ破壊するのは困難とされる。ゆえに、この防壁やシェ ルターの扉など、強度が必要な場所に用いられるのだ。ただし、硬い上に重量もかなりのものであるため、武器として加工・利用するのは難しい。
「私、闇のエレメントを自分の周囲に使っていたんです」
 なるほど、そういうことか。俺は納得した。
 エレメントは六つの力に分類されている。火、水、雷、風、光、そして闇。
 火は熱量をプラス方向に、水はマイナス方向に操作することが出来る。雷は電気を操り、風は大気や摩擦を操る。光は光の持つ性質を自身を含めた物質に適用可能で、闇は重力を操る。
 どの属性をどれだけ扱えるかは本人の才能に強く依存する。また、使用者の精神状態も強く影響を与えるため、その効果は一定ではない。鍛錬によって能力を伸ばすことも出来るが、全く才能の無い者が後天的に能力を獲得することは稀である。
 だが、エレメントの最大の特徴にして摩訶不思議な点は、その事象が本来の物理法則を無視して起こり得る点である。前述した通り、素質にもよるが、かなり自由にエレメントによる現象を発生させることが出来るのだ。
 例えば、火のエレメントを操りこの場に一兆度の火球を発生させたとしよう。もし、実際にそんなことをしたら、発生させた瞬間にこのアイスターは蒸発し、 この惑星系は燃え尽き、宇宙を滅ぼしてもまだお釣りが来てしまう。だが、エレメントを利用して熱量を操作した場合、宇宙はおろか周囲に被害を出さずに、そ れが可能だ。使用者の意志で局所的に事象を操作することが出来てしまうのだ。無論、理論上可能なだけで、実際に一兆度の熱量を発生させられる程の才能を持 つ者は現れていないが。
 かつて、星を半分破壊したと云われる覇王竜アルゴサクスが、最もそれに近い存在かもしれない。
 それはともかく、ベレンは自分の周囲に張り巡らせた重力の膜によって可視光を捻じ曲げ、あたかもステルス迷彩のように自身の姿を隠していたのだ。この方法ならば、監視カメラにも映らない。
「でも、警戒を解ける場所がなかなか見つからなくて、無理をしているうちに消耗してしまって……」
 やはり、光を捻じ曲げる程の強力な重力を操るとなると、長時間は厳しかったのだろう。
「ふむ……」
 もうひとつ、内部に入るには問題があるハズなのだが、こちらはベレンが入ってきた時には運良く機能していなかったらしい。
 ならば、同じ手段で出られるだろうか。
 どうしたものか。
 ぐっ、と缶コーヒーを飲み干し、思考を巡らせる。
 どちらにせよ、まずベレンがここにいるのを知っている人物に釘を刺しておかなければ。
 そう思っていた矢先、ポケットに入っていた携帯電話が鳴った。相手は……ミロットさんだ。
「エギルです」
 名乗り終えると同時に、焦った声が耳に響いた。
「エギル君! ニュース見たわよね?」
「ええ」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ! ベレンちゃんは……!」
「分かっています」
 少し強い口調でその先の言葉を遮る。俺はもう知っているのだ。その上で彼女を守ると決めた。
「そう……。君ならそう言うと思ったわ……」
 ミロットさんは少し沈んだ声を漏らしたが、すぐに次の言葉を紡いだ。
「今から研究所に行くわ。君はそこから動きにくいでしょ? そちらで詳しい話をしましょう」
「助かります」
 電話を切って、ふうと一息ついた。良かった、この状況でも彼女はやはり頼りになる。
「ベレン、ひとまず安心してくれ。今から助っ人が来てくれるぜ」
 ポケットに携帯を戻しながら歯を見せると、不安げだったベレンの表情が少し和らいだようだった。

 ミロットさんが到着すると、俺達は相談を始めた。
 現在、考えられる道はひとつだ。
 一ヶ月が経過する前に、この都市を脱出するのだ。
「この都市を出るしかないか……」
「ねえ、エギル君。プランだったら、もうひとつあるんじゃないかしら」
 俺が頭をひねっていると、ミロットさんが新たな道をひとつ提示した。
「……市長舎にこちらから出向いて、ベレンちゃんを保護してもらうっていう選択肢もあるんじゃないかしら? 事情を話せばきっと便宜を図ってくれるハズよ」
 確かに、その選択肢は最も安全なプランだ。だが、それを選ぶわけにはいかなかった。
 ベレンを保護してもらえば、当面の安全は保障されるハズだ。だが、話がついたら彼女は妖魔側に強制送還させられるだろう。それは、彼女が恐れる両親の元に戻されることを意味する。後の生活が望むものになるとは考えにくい。
「……そう。だったらこれは選択肢には含められないわね」
 ベレンが逃げてきたいきさつを語ると、ミロットさんは渋い顔で自らの提案を却下した。
「本来頼るべき組織を頼れないのが苦しいですね」
 俺も苦々しい思いだった。もはや、選択肢は無かった。
「すみません。私のために……」
 ベレンが言葉を濁したので、俺はかぶりを振った。
「いや、それは言いっこなしだ。俺は好きで手を貸しているんだからな」
 そうして、脱出のために必要な段取りを話し合うことになった。
 一刻も早く彼女を逃がしたいが、入ってきた時の手段は使えない。代謝を落とす薬の効果がまだ続いているからだ。ベレンは俺がベルに口止めしている時、渡した薬を律儀に服用してしまっていた。
「三日も待つのはまずいな」
 一般に報道があったということは、都市の防衛はリアルタイムで厳しくなっていると見るべきだろう。時間が経過すればするほど脱出は困難になってしまう。
「エレメントだったら私が何とか出来ると思うわ」
「……お願い出来ますか?」
 そうとも、ミロットさんは魔女だ。今、エレメントの扱いで頼れるのは彼女だけだ。
「いいわ。どのみち私も共犯だし」
「いえ、共犯にはさせませんよ」
 苦笑してみせた彼女に俺は毅然と言った。
「俺にいい考えがあります」
 そう宣言すると、俺は床に置かれているダンボールをあさった。ほどなくその中から目的の品を発見した。その品物はふたつある。
 ひとつは親指の頭くらいの小さなひし形のケースで、もうひとつは腕輪のような形状をした機械装置だ。腕輪の方には輪のちょうど中間にひし形のケースが入るくらいのくぼみがある。
 ミロットさんの申し出を受けて思いついたのだが、彼女にはエレメントだけを提供してもらえればいいのだ。人間が作り出した文明の利器を利用すればいい。
 その道具の名はそれぞれ『エナジークレスト』、『エレメントアブソーバー』という。
 『エナジークレスト』は生物の組織を利用して作った透明のケースで、この内部にエレメントの力を蓄積することが出来る。コンパクトにエレメントを携帯し、持ち運べるため、様々な局面で重宝する。
 『エレメントアブソーバー』は『エナジークレスト』からエレメントパワーを取り込み、あらかじめ組み込んでおいたプログラム通りに能力を発現するツール だ。装着者の周囲の空間を情報として捉え、取り込んだエレメントを作用させることで、能力を持たない人間でも、力の行使が可能となる。プログラムを書き換 えることで、様々な用途に対応することも可能である。
 俺はエナジークレストをミロットさんに手渡し、告げた。
「貴女は俺達の共犯者じゃない。俺からの注文を受けて闇のエレメントを込めたエナジークレストを渡しただけ、ということですよ」
 黙っていてもらえるだけでも、こちらは十分過ぎるほど迷惑をかけている。これ以上は危険を強いるわけにはいかない。
「エギル君、君はどこまで……」
 ミロットさんは悲しげな目をしてそう言いかけたが、続きは飲み込んでしまったらしく、すぐに表情を崩して違う言葉を紡いだ。
「分かったわ。私もこの都市をいきなり離れるわけにもいかないしね。後は二人で頑張ってちょうだい」
 こうして、彼女にはエレメントを込めてもらうため、一度帰ってもらうことにした。

 ミロットさんが帰ると、俺は次の問題に取り掛かった。
 エレメントアブソーバーのプログラムを書き換えなければならないからだ。現在、このアブソーバーは単純な防御用のプログラムデータしか入っていない。取 り込んだエレメントを正面に防壁として展開するだけのものだ。元々、以前市販されている旧型の最安値を護身用に買っただけなので、これは仕方ない。
 だが、俺は生物学者だ。プログラミングはド素人なのだ。ゆえに、俺はある人物を頼ることにした。顔を知らない、パソコンの向こうにいるであろう友を。
 『シュトローム』を掲示板に呼び出すと、彼は快く応じてくれた。安全を考慮して、彼にもベレンに関することは伏せて依頼した。
 一時間も経たないうちに、闇のエレメントを用いて周囲の空間を通過した可視光を湾曲させるためのデータが送られてきた。旧型でも動作するようにプログラムを組んで欲しいと頼んだので、手間取るかも知れないと懸念していたが、余計な心配だったようだ。
 しかも、ただ仕事が早いだけではない。元々あった防御機能を維持したまま新たなデータを組んでよこしたのだ。アブソーバーは旧型だし、容量的にも厳しい ハズなのだが。どうも返信を読む限り、旧型は容量が小さいが、あらかじめ入っているデータも無駄が多いとのことで、彼にとっては全く問題にならないらし い。
 彼は議論の上でも、勝負の上でも必ず想定していた二段上を行く。勝ちにおいても、勝者が更に得をするプラスアルファを常に考えているようなのだ。だか ら、俺が彼に討論やゲームで勝てた試しが無い。ネットワークを利用したボードゲームの類は、俺の駒を取りつくされた上で敗北したことはざらにある。むし ろ、駒が残っている状態で負けたことの方が少ないかも知れない。
 それゆえ、彼との会話は最近の社会情勢や、新しい技術への見解など正しい答えの無い話題が主となっていったのだ。
 なぜ、俺がそんな彼と友人でいられるのか、疑問に思う者もいるだろう。確かに、『シュトローム』は付き合いづらい男だ。賢過ぎる彼は非の打ちどころが無 い、という欠陥を持っている。正論過ぎる意見や完璧過ぎる回答は、時として人の神経を逆なでする。その上、彼は決して妥協しない。俺自身も不愉快に思った ことは一度や二度ではない。彼の話をまともに聴くことが出来る者はほとんどいなかった。
 しかし、だからこそ俺は彼の相手をしているのだ。俺は周囲から理解されないことの辛さをよく知っている。『シュトローム』を独りにしてはいけない。俺も 彼の才能には助けてもらっているわけだし、最近はようやく冗談が引き出せるようになった。天才ゆえの苦悩を出来る限り吐き出させてやらねばならない。
「大した奴だ……」
 感謝の念を抱くと共に、こいつは一体何者なのだろうか、という疑問が頭をよぎった。だが、今はそれに時間を費やしているわけにはいかないし、プライバ シーに関わることはやはり本人の口から聞きたい。もっとも、今までの付き合いを顧みると、ベレンと同様に自分のことはあまり語りたがらないような印象を受 けたため、突っ込んで聞くのはまずいかも知れないが。
 アブソーバーを専用のケーブルでパソコンに接続させ、データを書き換える。数分かかったが、パソコンには正常に書き換えが終了したとのメッセージが出た。ひとまず、道具に関してはいいだろう。
 次は『ヴァンダー』に向かわねばならない。口止めが必要な人物はもう一人いる。正しくは人ではないが。

 研究室を出る際、あの装置には、シュルトケスナーに代わってマンドレイクという植物を増殖させるようにしておいた。元々、マンドレイクは根に毒性を持つ 植物で、体内に入り込むと嘔吐や下痢、幻覚を引き起こす。近年になって、マンドレイクには強力な催眠成分を有する亜種が発見された。俺が増やしているのは この亜種の方だ。
 用途は言わずもがな。都市の門番にはそれでしばらく眠ってもらう。
 闇のエレメントを使えば、視覚的には問題ないだろう。
 しかし、姿は見えなくとも、レーダーには反応するハズだ。ここでいうレーダーとは『エレメントレーダー』のことで、エレメントの反応を検出可能な機器を 指す。都市の守備隊では偵察兵が携帯しており、門自体にも埋め込まれている。ベレンが入ってきた時は門番の仕事が雑だったのか、レーダーは反応しなかった と言っていた。故障していたのか、単純に電源を入れ忘れていたのかは定かではないが、とにかく運が良かったのだ。
 流石に、再びこの幸運を頼るのは虫がよすぎる。だから、眠り薬で人間を黙らせ、闇のエレメントで監視カメラをスルーする、という方法で行くことにしたのだ。
 頭の中で計画を反芻していると、ヴァンダーの店前まで到着した。
 ところが、店に入るなり俺は面食らってしまった。息をのんで固まった俺の目に映っているのは、昨晩テレビに出ていた人物だったからだ。
「市長が、なぜこんな場所に……」
 呻き声を上げると、メルダ市長と思しき女性は少し困ったような顔をして言った。
「あらあら、やっぱりそういう反応をするのね。市長がこんな店に来るのは一般の人から見れば意外なのかしら?」
 返答が出来ずに口を開けたり閉めたりしていると、彼女は笑った。
「ふふっ、意外なのね。別に私はセレブってわけじゃないの。安い物は嬉しいし、静かな場所が好きなの」
「いや……! 俺は別に変に思ったわけじゃなくてですね……!」
 やっとのことで弁解するも本音を語るわけにはいかず、再び口をつぐむと彼女は柔らかに微笑んだ。
「分かっているわ。それより、貴方も食事に来たのでしょう? いつまでも入口をふさいでないで、こちらにどうぞ」
 その言葉に導かれるまま、俺は彼女が座っているカウンター席の隣に腰を下ろした。こんな都市から逃げ出そうとしている心境で隣に座るのはためらわれたが、抗うのは不自然だ。やむを得なかった。
 店が狭く、立地条件も人口が集中する中央から外れた僻地にある。それゆえ、来客自体は少ないのだが、今は誰か先客がいた場合は半ば強制的に相席になってしまうこの店の構造を呪う他無かった。
 見ればこの忌々しい店の忌々しい店主の姿が見えない。市長の座るテーブルに何も置かれていないところを見ると、キッチンで料理中のようだ。嗅覚を頼ってみれば、店の奥からは食欲をそそる香りが漂ってきていた。
「……しかし、驚きましたよ。こんな場所で市長に会うなんて」
 黙っていては間が持たない。何か話をした方がいいと思って考えたが、結局何も思い浮かばず、先程の話題を掘り返すことしか出来なかった。
「こういう場所だから、ゆっくり出来るのよ。息抜きするにはぴったりよ。ところで、私は名乗るまでもないみたいだけど、貴方はどちら様? 白衣を来ているところを見るとドクターなのかしら?」
「ああ、これは失礼。俺はエギル・トーチライトといいます。この都市の外れで、しがない研究者をやってます」
 そう言いつつ、改めて彼女を見る。
 金髪のショートヘアに紅いふちの眼鏡をかけたその顔はやや丸顔で、とここまではテレビでも確認出来たが、首から下は初めてまともに見た気がする。巨乳で 腰が細く、そのスタイルはとても三十路とは思えない。恐らく、胸に関してはミロットさんよりあるんじゃなかろうか。そのグッドなプロポーションの上半身は 清潔感のあるパリッとしたシャツで包み、下半身はショートスカートをバックルで二本が交差する形のベルトで留めている。
 テレビで見せた時の緊張した面持ちは見受けられず、本来は柔らかで落ち着いた物腰の人物だと印象を受けた。
「へえ、研究者。何を研究しているのかしら?」
 そう問われて俺はちょっとバツが悪かった。祖父が下手に有名なせいで、それを引き合いに出すと、俺自身が目立った成果を出していないことがより強調されてしまう。実際のところ、俺は薬品の材料を培養して近場の店に卸しているだけのなんちゃって研究者なのだから。
「そいつは名ばかりのなんちゃって研究者だから、あまり相手にせん方がいいですぞ、市長殿」
 フェルンが奥からうまそうな油の香りを漂わせながら現れた。空中にはチャーハンの盛られた皿を、金属の粒子を固めた腕を形成して浮かべていた。
 出たなぼったくり店主め。どうしてこういうタイミングで的確に茶々を入れてくるのか。空気を読んで、それをあえて逆手に取ってるとしか思えん。
「あら、出来たのね。早速いただこうかしら」
 目の前に差し出された料理に目を輝かせるメルダ市長を見て、その姿がベレンにかぶった。やっぱり、うまいものを食うというのは手っ取り早く幸福感を得る方法なのだろうな。
 しかし、俺はそのチャーハンを良く見てぎょっとした。色が真っ赤ではないか。
「市長、これ辛いんじゃ……」
「ああ、大丈夫よ。私、辛い物好きなの」
 そう告げると、上品な手つきでレンゲですくって口に運んだ。
「んんー、コレよコレ。やっぱり辛い物食べるとすっきりするわねー!」
 そう歓喜しつつ、料理を平らげていく彼女の額には汗が一滴も浮かんでいない。元々、体質的に強いのだろうが、今まで抱いていたイメージとギャップがあり過ぎて、なんだか俺の中にある人の上に立つタイプの人物像がガラガラと崩れて行くような気がした。
「で、オメーは何食うのよ。おんなじ、『腹痛確定! 脂汗必死の猛烈激辛チャーハン』いっとくか?」
「丁重にお断りします」
 そんな危険性が分かり切った名称が付けられたメニューを頼むわけにはいかない。もし、頼んでしまったら戦闘開始直後に回避スペースが無いにも関わらず、 爆弾をうっかり設置してしまって前後不覚に陥ったサイボーグよりも間抜けな結果になることは目に見えている。そもそも、そんなメニュー、あったっけか?
「残念だな、せっかく市長が来た時の裏メニューだったのに……」
 だったら、なおのこと他の人間に出すなよ。心底残念そうな目つきを見せたフェルンに心の中で激しくツッコミを入れつつ、オーダーをした。
「普通のチャーハンでいい。あんたに料理人としての誇りがあるなら、俺がまともに食える物を出せ!」
 そう言って、再び店主を店の奥に追いやると、それを横で見ていたメルダ市長がケラケラと声を上げて笑っていた。
「ごめんなさいね、私のせいでもめたみたいで」
「いえ、気にしないでください。あの店主がイカレてるだけです!」
 わざと店の奥に聞こえるように大きな声で言ってやった。
「ふふ、だとしたら私の判断は間違いだったかしらね?」
 どういう意味だろう。俺がその言葉の意味を思案していると彼女が答えた。
「彼をこの都市に招いたのは私なのよ」
 そう言えば、俺はフェルンとは研究所を引き継いだ頃に知り合って今では常連になったが、彼がこの都市に来た経緯は訊いたことが無かった。
 物質生命体は、他種族とはあまり積極的に関わろうとしない種族だ。だから、本来の物質生命体のスタンスから見たら、明らかにイレギュラーであろうフェルンの過去を詮索するのはまずいのではないか、と警戒半分気遣い半分で尋ねることはしないでいたのだ。
「元々、彼は物質生命体の仲間うちじゃ、異端児だったらしいのよ。考え方が合わなくて、故郷を捨てたって言っていたわ。さまよっていたところを私が見つけてねえ。市長になる前だったけど、土地はいくつか持っていたから、ここを譲ってあげたのよ」
「どうして、そこまでしてあげたんですか?」
 見ず知らずの相手になぜ土地まで与えたのか。見返りを求めていないのなら、俺以上のお人よしだ。
「……なんか、他人のような気がしなかったのよね。私も、子供の頃身内で浮いてて孤独だったのよ。だからかな……」
 遠い目をしてそう言った彼女は悲しげに呟いた。しかし、すぐに沈んだ雰囲気を振り払い、彼は人じゃないけどね、と付け加えた。
 彼女の体験した孤独はフェルンのそれとは別物であろう。だが、これだけは分かった。彼女は過去に苦痛を知った人間だ。形は違えど、他者の苦悩に気付き、手を差し伸べられる人物ということだ。
 そんなメルダ市長に、ベレンのことを隠しておかねばならないのはいささか気が咎めた。いっそ相談してみようか、という考えも脳裏をよぎったが、彼女は市長だ。立場上、強制送還という選択をせざるを得ないだろう。ここはこらえるしかない。
「出来たぞー」
 気の抜けた声と共にフェルンが戻ってきた。眼前にチャーハンが出された。色は普通か。
「そうそう、こういうのでいいんだよ。こういうので」
 なんだかんだ言って、俺も腹が減っていたので、レンゲを手に取り米の塊をすくうと口に運んだ。
 幾度となく食べたメニューだが、フェルンの料理の腕自体はかなりのものだ。ここに来てから独学で学んだというのだから驚きだが、それ以前に仕組みの違う 人間の舌に合わせて料理を作ること自体が困難を極めたハズだ。物質生命体にある五感が人間のそれとどう違うのかは分からない。だが、彼にそれを知りたいと いう意志が無ければ、この店も無かっただろう。
 そんなことを考えていた俺の脳に、別の感覚が突然割り込んできた。それは無思慮で、暴力的で、野蛮で、しかし極めて直線的で迷いが無く、俺の脳細胞を猛烈に刺激した。
 辛い。
 いや、辛いというより痛い。
 熱い。辛い。痛い。
 全身の毛穴が開き、汗が吹き出してくる。
 前を見れば、フェルンが目を細めてニコニコとしている。
「き……さま……!」
 舌が痺れてうまくしゃべれない。呼吸をするたびに喉が痛む。
 コップの水を一気に飲み干し、ようやく一息ついた。
「……ぷはあっ! 何をしやがった!」
 やっとのことでそう言うと、フェルンは突然神妙な面持ちになった。
「……世の中には赤くない香辛料というものが存在する。油断したなエギル。その程度の警戒心ではこの先、生き延びられんぞ」
「この野郎ーッ!」
 カウンター越しにつかみかかろうとしたが、今度は別の感覚がその手を止めさせた。
 腹が音を立てた。空腹の音ではない。
 腸が悶えていた。辛過ぎる香辛料が俺の器官に予想外のダメージを与えたらしい。明らかに下っている。
「あが……が」
 止まった手は自分の腹を押さえつけるのに使用されることになった。
(待て、まだ途中下車には早いぞ。早まるな。ヤツに一撃入れるまでは……)
 何とか制しようとしたが、不可能だった。自然の摂理の前には人間の意志など無に等しいのだ。
「だ、駄目か」
 俺は見切りを付けて、カウンター奥にあるトイレに駆け込んだ。
 そこから先は、語るのも不愉快だし文字通り汚いだけなので、省かせてもらうことにする。

 俺がトイレから出て来ると、メルダ市長は既に帰ったようだった。大分長い間、下り線が運航しっぱなしだったので、仕方あるまい。
(尻が……熱い……)
 痔になったらどうしてくれる。研究所に戻ったら、まず軟膏を探さねばなるまい。
「一体どういうつもりだ……」
「お前の方こそ、どういうつもりなんだ」
 フェルンをにらみつけると、逆ににらみ返された。
「……お前、あれがもし毒だったらとは考えなかったのか?」
 違う。軽口を叩いているいつものおやっさんではない。俺を見据える視線は真剣だった。
「……お前、これからこの都市を出るんだろう? そんなんで、大丈夫なのか? お前も、あの娘も……」
 その言葉を聞いて、俺は気付いた。フェルンは俺がここに来た理由を既に理解していたのだ。
 あの激辛チャーハンは戒めだ。都市を出るならもっと注意を払え、というメッセージであると同時に、市長が帰るまでの時間稼ぎだったということか。
「昨日のテレビを見て、俺もようやく思い出した。あの娘の素性をな」
「おやっさん……」
「お前があの娘を担ぎこんだ時に気付けていれば、もっと別の手段も考えられたかも知れん。だが、今となっては俺はお前に行くなとは言えん。お前はあの娘を助けるつもりなんだろ?」
 首を縦に振る。
「だったら、警戒は怠るな。あの無防備な娘を守ってやれるのは、お前だけなんだぞ」
「すまない、おやっさん。心配してもらって」
 警戒はしていたつもりだったが、いざ攻撃を受けてみると俺は甘かったのだ。今回はこの程度で済んだが、実際に追手がかかればこうはいくまい。
「……都市を出たら、どうするつもりだ?」
「一か所に留まるのは危険でしょう。ほとぼりが冷めるまでは色々な都市を移動しようと思っています。銀行で蓄えを下ろせば、何とか半年はもつと思います。」
「……これを渡しておく。」
 フェルンは一枚の地図を俺に手渡した。
「これは?」
「都市δ(デルタ)の場所は知っているな? これはその周辺の地図だ。地図に印を付けておいた場所があるから、都市を出たらここを目指せ」
 都市δと言えば、工業で発展した都市だ。近辺にある山岳地帯にレアメタルの鉱脈が多数発見されて栄えたのだ。
 この地では、希少金属『オリハルコン』が産出することもあるという。『オリハルコン』は『ミスリル』以上にエレメントとの反応効率が良いため、強力な武 具を生み出す材料となる。『オリハルコン』で造られた装備があれば、人間族でも獣人族と互角に戦えると言われるほどである。
「この印の場所は……もしかして!」
「そうだ。この山岳地帯には竜人族の集落がある。ここの長老は昔、俺にちょっとした借りがあってな。俺の名を出せば寝床くらいは用意してくれるハズだ。」
 都市δの鉱山は本来、竜人族の土地であった。人間族は彼らと交渉し、山を開拓する代わりに竜人族の要求である全種族共存の方針を受け入れた。ゆえに、この都市は現時点では数少ない、全ての種族が生活出来る場所となっているのだ。
「ありがとう、おやっさん。これで俺も借りが出来ちまったな」
「……生きてる間に返しに来いよ」
 これで、この都市ηを出る準備は整った。だが、最後にもうひとつだけフェルンに頼むことがあった。
「……おやっさん、借りついでにもうひとつ頼む。最後にアンタの飯をちゃんと食っておきたい。メニューはまかせるぜ」
 俺はこの都市を離れる。ミロットさんとも、フェルンともしばらくは会えなくなる。それでも、俺はベレンを助けたかった。歪んだ環境で成長し、真実を知っ てそこから必死に逃れようとしている女の子がいるのだ。俺が見捨てるわけにはいかない。俺には彼女を助けた責任がある。だから、助けきらなければいけな い。
 そう決心してしまっている以上、フェルンの料理の味はこの先当分味わえない。
「……あい分かった!」
 フェルンが厨房へと飛び込んでいった。
 先ほどの激辛チャーハンのせいで腹はかなりの打撃を受けていたが、これから出される料理はいくらでも入っていきそうな気がした。

 次の日、俺は日が沈むまでの間に、脱出に必要な道具や持っていく荷物を準備した。
 マンドラゴラから抽出した催眠成分は、特殊なカプセルの中に詰めた。これは表面のスイッチを押すと数秒後に中の液体を霧状に放出するギミックになっている。手製のスモークグレネードというわけだ。予備を含めて三つ程作った。
 『シュトローム』にプログラムを書き換えてもらった『エレメントアブソーバー』は利き腕である右腕に装着し、エネルギー源である『エナジークレスト』はミロットさんに闇のエレメントをチャージしてもらってある。
 他には、必要最低限の衣類や資金に、フェルンが用意してくれた非常食が入っている。これは缶に入っているタイプの食料で、中身は肉、魚、米など様々だ。栄養価が高くなるよう成分が調整されている上、何より保存がきくのが助かる。
 出来るだけ準備は念入りにしておきたかったが、あまり重装備になってしまえば二人で動くのには邪魔になってしまう。機動力を落とさないためには詰め込み過ぎるのも良くない。この辺で区切りを付けて夜を待った。

「行こう、ベレン」
 完全に日が落ちてから、俺はベレンを連れて出発した。
 『カシュオーン研究所』の設備は全て停止し、厳重に戸締りをした。当然、冷蔵庫の中身も持っていけない物は全て食べるなり、廃棄するなりして処分してある。
 彼女は日光対策用のロープを頭からすっぽりかぶって付いてきた。
 ゲートの前に到着し、一番近い人家の壁から様子をうかがうと当然門番がいる。エレメント耐性を持つ防護服に身を包んだ男の二人組が周囲をしきりに見まわしていた。手には銃に近い形状をしたエレメントアブソーバーが握られていた。
 やはり、警戒は厳しくなっている。神経が張り詰めている上に、こんな時間に不用意に近づけば誤射されてしまう可能性もある。いくらなんでも、旧型の護身用と最新型の防衛用では性能の差は歴然だ。無理に正面突破しようとしても結果は火を見るよりも明らかである。
 そこで、例のカプセルのボタンをカチッと押して、わざと二、三秒待ってから門番の足元へ転がした。
「なんだ? ……いかん! 離れろ!」
 素早く近づいてきた門番達はカプセルに気付くなり、慌てて飛びのこうとしたが間に合わなかった。周囲には強い眠気を起こす霧が立ち込め、二人は間もなく昏倒した。
 俺達は霧が完全に晴れるのを待ってから、倒れている門番に近づいた。懐を改め、所持していたエレメントレーダーのバッテリーを抜いておいた。ゲートに埋 め込まれているレーダーには反応してしまうだろうが、人間が所持していた物が使用不能ならば、後々多少は混乱させられるかも知れない。
「これでいい。次は……」
 エレメントアブソーバーを作動させる。このツールは装着者の意識や感情の微細な変化を、神経を流れる生体電流や心臓の拍動などからかなり正確に感知する。端的に言えば、使いたいと念じれば作動させられるのだ。
「ベレン、俺のそばに」
 彼女を近くに招き寄せると、闇のエレメントを発動させた。なお、発生している重力の膜は、外側から入ってくる光は湾曲させるが、内側から出る光は曲げな いように設定してある。つまり、俺達の姿を外側から確認することは出来ないが、俺達が外側を見ることは可能なのだ。このあたり、融通が利くのがエレメント の便利な点であり、都合のいい点である。前にも述べたが、エレメントによって引き起こされる現象は物理法則を完全に無視して発生する。つまり、使用者の才 能と発想力によって、かなり自由に多種多様な効果を得られるのだ。
「……何とかなりそうですね」
 ゲートを通過している途中、ベレンが小声で言った。
「ああ」
 ゲートに埋め込まれたエレメントレーダーは警報を発していたが、別の衛兵が来るには時間がかかる。監視カメラには映らないのだ。無視して突っ切った。
「よし、ここまで来れば大丈夫だろう!」
 ゲートから大分離れた野道の真ん中で、俺はエレメントアブソーバーを切った。もう、都市ηは後方に遠ざかり、夜の明かりで照らされたアダマントの外壁がかすかに見える程度だった。
「エギル、ありがとう。私、初めて自由になれるんですね!」
 歓喜の声を上げたベレンが俺に抱きついてきた。彼女の身体の柔らかな感触に一瞬硬直してしまったが、ここはそっと彼女の肩に手を置き、身体を少し離した。
「ふふ。まだ、喜ぶのは少し早いぞ。まずはとなりの都市ι(イオタ)を目指そう。そこで宿を取ってから、初めて祝おう」
 そうは言ったが、俺自身も喜びを抑えられず、笑みをこぼしていた。
「はい……!」
 彼女もそんな俺を見て、素直に俺から離れた。
 その時だった。
 周囲に風が吹いた。その風に混じって、砂利が音を立てている。少しずつ近づいてくるそれはやがて足音だと分かったが、分かった時には既に、眼前にひとつの影が浮かび上がっていた。二メートルを超える巨大な影だった。
「……自由とは他者の秩序を侵さない時、初めて保障されるものだ」
 影がそう声を発した時、俺は歯を噛みしめた。声に聞き覚えがあったからだ。
(なんてこった……!)
 正体を理解した俺は、全身に鳥肌が立っていた。冷や汗が吹き出し、足が震えだす。
 畜生、なぜだ。なぜ、彼がここに現れた。
「残念だ。君とこんな形で再会することになろうとはな……」
 声には明らかに憂いが含まれていた。彼自身も望んでここに現れたわけではないようだ。
 ゆっくりと雲が晴れてゆく。月光が差し込み、竜人族の姿が浮かび上がった。
 調停者、シング・バランサイト。フェルンの店でわずかながら心を通わせたと思えた相手が、眼前で道をふさいでいるのだ。
「まさか、地上最強の生物を敵に回すことになるとは……」
 俺は怯えて右腕にしがみつくベレンを前に出てかばいつつも、跳ね上がる心臓の鼓動を抑えつけることは出来なかった。

 ついに、最大の障壁が俺の前に立ちはだかった。乗り越えるにはあまりにも高く、回り込むには長大過ぎるそれは、いとも簡単に俺から光を遮断した。
 秩序を守る調停者の天秤はこの時、決して俺に傾かなかった。
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