第5章 「強奪のドラグーン」


 ――勧善懲悪。至極残念だが、この世の問題は全てをその四文字熟語で片づけてしまうことが出来ない。対立とは多くの場合、双方が正義であるから起こるのだ。

「……そこをどいてくれないか」
 内心、緊張を抑えることは出来なかったが、俺は努めて冷静にまずは会話をしようと試みた。
「……彼女の身柄を私に預けてくれるなら、すぐにでもそうしよう」
「ベレンをどうするつもりだ!」
 やはり、ベレンか。俺は早くも冷静でいようとした意志の大半を失ってしまった。
 声を荒げる俺に対して、シングは憂うような顔色を変えず、諭すような口調で返答した。
「私の手から、市長に彼女の身柄を引き渡す。調停者である私が保護したと報道してもらえば、妖魔族も一方的に人間族を非難は出来まい。そして、人間の手で彼女を家族の下へ戻してやれば、対立の火種も無くなるだろう」
「……アンタは知っているのか? ベレンがどんな環境で生活してきたのか」
「無論」
 その一言を聞いた瞬間、怒りが恐怖に勝った。俺は大声でシングを非難していた。
「ふざけるな! ベレンをあんな両親の所へ戻すわけにはいかない! 調停者ってのは一個人の自由を踏みにじるのが仕事なのかよ!」
「では聞くが、一個人の自由のためだけに、その他大勢の平和を破壊するのは果たして正義なのか?」
 今度はこちらが、質問を質問で返すな、と言い返したかったが、俺はそれをぐっとこらえた。どちらの言い分も正しいからだ。
 目の前の困っている一人を救う。名も知らぬ多数の民を守る。これは間違いなく正しいことなのだ。
 しかし、今俺達はどちらかを取らねばならない状況にある。両方取ることは不可能。二項対立だ。
 ベレンの存在は多数を守るための『かすがい』として必要なのだとは分かる。だが、そのためには彼女自身は自由をあきらめなければならない。ダメだ。俺は納得できない。
「……それに、このままでは君は犯罪者になってしまうぞ」
 シングへの批判を繰り出そうとした矢先、今度は自分のことを出されて怒りが急速にしぼんでいった。
「君はベレンをさらって戦争のきっかけを作った人間として、妖魔はおろか、人間からも憎悪を受けることになってしまう。分かっているのか? 君は自らを犠牲にしてまで、彼女の為に大勢を戦火に巻き込もうとしているのだぞ」
 分かっていた。分かっていたことだったが、いざそれを他者から指摘されると、漠然とした恐怖が頭をもたげてきた。
 俺は今、全てを犠牲にしてベレンを逃がそうとしている。戦火に巻き込まれる人間や妖魔、戦いに駆り出されるであろう傭兵の獣人達、それらを全く考慮しな い行動を取っている。生活の基盤のある都市を簡単に離れられないミロットさんやフェルン、傭兵として戦わねばならないベル、そして自分自身の平穏な生活す らも。
「俺は……」
 ここにきて揺らいでしまった。我ながらなんと脆いのだろう。予想はしていたハズだ。なのに。
 迷い始めてしまった俺の右腕が強く引かれた。ベレンが俺の腕にしがみついて震えていた。ベレンには頼れる者が俺しかいないのだ。それに、自分の力で抵抗しようにも薬の効果は続いていて、エレメントも普段通りに操れない状態だ。戦うにも逃げるにも危険だ。
(……そうだ。俺は選んだんだよな)
 それを見て俺は覚悟を決めた。
 なるほど、俺の行為は世間的に見れば間違いなくクロだ。他種族の娘を親元から引き離し、戦争のきっかけを作った狂気の科学者。それが後の俺の肩書だろう。だが、それでもいい。
 ベレンはずっと真実を知らず、深い闇の中で生きてきた。籠の鳥と言ってもいい。また籠の中に戻ってしまったら、厳重に鍵がかけられて二度と出られなくな るだろう。そして、異常な思想の苗床としてその身を捧げ続けなければならない。何より、ベレン自身がそのことを知ってしまっているのだ。俺ならば耐えられ まい。
 かたや俺は、平凡ながら他人の暖かさや善意に守られてここまでやってこれた。苦しんでいる者に手を差し伸べられる者になりたい。不幸の中にいる者にも、救いはあるということを彼女に信じさせてやりたい。
「……ベレン、先に行っていてくれないか?」
 俺は彼女の手を右腕から離させた。彼女の表情がこわばる。
「エギル……」
 後ろ髪を引かれる思いをしながらも、俺は視線をベレンからシングに移し叫んだ。
「ベレンは渡さない……! 俺が悪だというのなら、止めてみろ! 調停者!」
「……ッ! エギル・トーチライト……!」
 俺が考えを変えなかったことに面食らったのか、それとも変えさせられなかった自分に対して失望したのか、シングの眉は下がりきっていた。
「力ずくでどかす! 押し通らせてもらうぞ!」
「やめろ……。やめるんだ……」
 身構える俺とは対照的に、シングは奥歯を噛みしめ、呻くように言い聞かせながら首を左右に振っていた。
 しかし、俺はもう応じない。目を見開き、自分が使える武器に関して思考を巡らせる。
 『エレメントアブソーバー』にはまだ半分以上チャージしたエレメントが残っている。可視光湾曲と防御障壁は使用可能だ。
 ポケットの中にはマンドラゴラの亜種から抽出して作った催眠煙幕弾が二つ残っている。
 これらをうまく使えば彼を沈黙させることが出来るかも知れない。
 俺が使える武器でシングにダメージを与えられそうなものはひとつしかない。それは防御障壁だ。本来は防御用の機能なのだが、至近距離で発動すればそれは 凶器となる。チャージしておいた闇のエレメントで発生させる重力の壁が、展開する位置まで相手を押し退け衝撃を与えることが出来るのだ。
 しかしながら、この方法はシングに大打撃を与えられるものではないだろうし、不用意に近づくのは何より危険だ。俺は体術の心得など皆無である。俺が殴りかかったところで無意味であろうし、あの丸太のように太い腕の一撃に耐えられる自信は無い。リスクが高過ぎる。
 ゆえに、俺は戦術を催涙煙幕弾を主軸にすることにした。可視光湾曲によって姿を隠し、催涙煙幕弾で昏倒させる。これなら、接近戦をやる必要はないので、リスクはかなり低くなる。何より、相手に傷を負わせず倒すことが出来る。これしかない。そう思った。
「行くぞ!」
 俺はそう宣言して大地を蹴った。シングに向かって走り、間合いを詰めるふりをしたのだ。半分ほど距離を縮めたところで、可視光湾曲を起動させて相手の視覚から逃れた。
「やめろ……君に怪我をさせたくない……」
 そうシングは絞り出すように言ったが、その視線はあちこちをさまよい、俺の姿を探しているらしかった。チャンス、とばかりに俺は背後に回り込み、ポケットの中で催涙煙幕弾のスイッチを静かに押した。
 門番に使った時と同様に、わざと二、三秒待ってから彼の足元へと放り投げた。
「……む?」
 シングはそれに気付いたが、避ける前に霧が彼を包みこんだ。
「……やったか?」
 そう言ってから俺はしまった、と思った。このセリフが出る場合、大抵やれてない。
 案の定、霧が消えた後にはシングの姿は無かった。
「やめるんだ……!」
 そして、彼の声が背後から聞こえた。一瞬のうちに回り込まれたらしい。
「ッ……!」
 俺は振り向くと同時に、アブソーバーの防壁を展開させていた。視界に入った情報から、手の届く位置にシングが立っていることが分かった。防壁をぶつけられる位置だ。だが。
 シングが横に手を払った。
 防壁は彼に到達せず、彼の手がなぞった軌道の近くからかき消されていった。
 俺は反射的に一歩後ずさったが、その時にはすでに、腕に装着していたエレメントラウザーに剣が突き立てられていた。俺の腕を傷付けることなく、制御ユニットのみを正確に破壊していた。
「ううッ!」
 一瞬で武器を失ってしまったことに俺は焦ったが、シングは既に次の行動に移っていた。別の剣をマテリアライズで生み出し、それを右手で握りしめ、切っ先を俺の喉元につきつけていた。
「決着だ……」
 寂しげな表情でシングが俺の敗北を告げた。
「……くッ」
 もうどうしようもなかった。俺が歯の奥から絞り出したのは情けない呻き声だけだった。
 どうする。もう武器が無い。催涙煙幕弾がひとつだけでは対抗するのは不可能だろう。捨て身で突撃をかけたとて、万に一つも勝ち目はあるまい。
 だが、ここで俺が折れたらベレンはどうなる。
 選べない。どっちも。
 答えの出せない堂々巡りを始めた時、ベレンの声がそれを打ち砕いた。
「待って下さい!」
 ベレンが俺とシングの間に割って入ったのだ。
 シングはすぐに剣をひっこめた。
「私が行けばエギルは助けてもらえますか?」
「ベレン、何を……」
 俺は慌てて制しようとしたが、ベレンは首を振って言った。
「エギル、私もう十分です。貴方は私を助けようとしてくれたわ。人間だからとか、妖魔だからとかじゃなくて、ただ私のために行動してくれた。その気持ちがあれば、私これからもきっと大丈夫です」
「ベレン……何を言ってる」
 ダメだ。ダメだ、そんなこと。俺のために自分の未来をあきらめるなんて。
「どうなんですか、調停者の方……」
 ベレンは俺の声には応じす、シングをまっすぐ見つめて問うた。
「……それに勝る答えは無い。彼の安全は保障しよう」
 シングが手を差し出した。ベレンがそれを握ろうと手を伸ばす。
「ダメだ! ベレン!」
 俺が上げた大声にベレンはびくり、と手を震わせたが、ゆっくりこちらに向き直った。俺は彼女の表情を見て息を呑んだ。
「……エギル、行かせてください。私、これから多くの人間を犠牲にすることになったとしても、ここで貴方の血が流れるのだけは耐えられそうにないから……」
 下がった眉に、うっすらと涙がにじんだ目元、力の無い笑みを浮かべた口元。とても悲しい笑顔だった。
 どう頑張っても、今の俺には彼女を助けられる力が無い。それどころか、自分の身を守る術すら持ち合わせていない。
 そもそも、シングと対峙した時点で俺の敗北は確定してしまっていたのだ。勝ち目が無いことが分かっていながら、俺は愚かにも戦いを挑んだ。あの場面では 何とか対話による交渉で妥協点を見つけ出すのが、ベストとまではいかなくともベターだったのではないか。それももう今更だ。
 俺は彼女を助けられないことを悟った。全身から力が抜けていった。
 膝がガクン、と折れた。それと同時に、俺の心の中にあった芯も折れてしまったようだった。
「……お願いします」
 ベレンがシングの手を握ってしまった。
「……分かった」
 シングは剣を分解し、戦闘態勢を完全に解いた。ベレンの手をそっと引き寄せると、うなだれた俺に背を向けた。
「エギル……さようなら。今までのこと、感謝しています」
 俺はシングに手を引かれ去っていくベレンを見送ることしか出来なかった。
 立ち上がることが出来ずにいる俺に、シングは去り際こう言った。
「……エギル、君の彼女を守ろうとする姿勢は決して間違いではない。私にも妻がいる。だから、君の想いも少しは分かるつもりだ。私が君だったとしたら、 きっと同じことをしただろう。だが、だからこそ私を信じてくれ。彼女の処遇には最大限の配慮をする。調停者としての誇りにかけて誓う」
 敵わない。肉体においても、精神においても完全に敗北した。そう思ってしまった。もう俺には反論はおろか、頷く気力すら失せてしまっていた。
 やがて、月明かりに照らされた原野の元には俺だけが残された。

 それから、どうやって自分の研究室に戻ったのかよく覚えていない。
 気付いた時には研究室のソファへ、まるで打ち捨てられたゴミ袋のようにその身を埋まらせていた。
 酒を大量に呑んだ後のように、思考には霞がかかり、自分が夢でも見ているような感覚だった。
 何もやる気が起きなかった。
 俺は何をしていたのか。何を守り、何を失ったのか。
 もう無意味だ。考えることを一刻も早くやめたくて目を閉じた。
 疲労からか、すぐに意識はまどろみの中に溶けていった。

 目が覚めた時、いつもと変わらぬ研究所の天井があった。
 だから、つい二ヶ月前に転がり込んできたあの妖魔の娘も変わらずいるような気がした。
 が、そんな甘い幻想が実現するはずもなく。この研究所にいるのは俺独りだけだった。
 何都合のいい妄想をしているんだ、俺は。自嘲的な笑みが口元に浮かぶ。
「……ははっ」
 ため息にも似た力の無い笑い声が、独りの部屋に静かに響いた。
 俺はソファからのろのろと立ち上がり、冷蔵庫まで足を運んだ。いかに気落ちしていても、空腹は感じるものだ。携帯で時計を確認すればもう昼過ぎだった。
 冷蔵庫を開けてみると、中はすっかり片づけてあり、脱臭剤以外は入っていなかった。
 そうだ。ここを出る時に処分したんだった。そもそも、食材があっても料理してくれる奴はいないじゃないか。
「……はあ」
 今度は本当に溜め息が出た。
 フェルンのところに行こう。覚悟を決めたにしては、あまりにも早過ぎる結果報告になってしまうが。世話になった手前、無事ならば早く伝えた方がいいだろう。もう結果は揺るがないのだ。恥は承知だ。
 力の入らない身体を立ち上がらせ、歩き出す。
 幾度となく出入りしているハズの玄関がやけに遠く感じた。

 『ヴァンダー』に入ると、フェルンの姿はカウンターに見受けられなかった。調理器具の音が店の奥から聞こえたので、どうやら仕込みをしているらしい。
「……おやっさん」
 俺のその声は仕込みの音にもかき消されてしまいそうな小さなものだったが、フェルンはそれを聞き逃さずこちらに飛び出すように現れた。
「エギル!」
 俺のうつろな視界の中に、驚き目を見開いた彼の姿が映った。
「……まあ、とにかく座れ」
 フェルンはすぐに目をいつものサイズに戻し、俺を招き入れてくれた。まるで鉛を置くかの如く、俺は重い身体を椅子に落とした。
「おやっさん……俺は……」
「……みなまで言うな。お前の顔を見りゃ、何があったかは大体分かる。とりあえず食え」
 震える声で語ろうとした俺を制し、フェルンは料理を差し出した。茶色いスープにキノコや野菜が浮き沈みしている。俺はそれを一気に胃に流し込んだ。うまかった。身体が温まり、少しだけ筋肉のこわばりが取れた気がした。
「……そうか。それは……残念だったな」
 いきさつを語るとフェルンは俺を慰めてくれた。
「しかし、エギルよ。考え方によっちゃあ、これはこれで良かったんじゃないか?」
「え……?」
 予期していなかった言葉に俺が府抜けた声を上げると、フェルンは続けた。
「だってそうだろう? もっとも、お前が想定していた結末じゃなかったかも知れないがよ。お前は罪人にならずに済んだし、あの娘だって死ぬわけじゃない。種族間の軍事衝突だって回避できるし、万々歳じゃねえか?」
 言われてみれば、なるほど確かにその通りだ。俺は今まで通り研究を続けられる。ベレンだって、自由ではないが身の安全は保障されている。何より、戦争の 口実が無くなるというのは大きい。何もかもが平穏無事に終わる。完璧とまではいかないが、妥協点としては十分過ぎるのではないか。
「……確かにそうだな」
 ようやく少し落ち着いてきたらしい。俺はひとまず空腹を満たそうと、追加で料理を頼んだ。すぐに運ばれてきたのはピラフだ。レンゲで口の中にかき込みながら、俺は自分を納得させようとした。
 確かに、俺は元の生活に戻れる。確かに、ベレンは生きている。確かに、大勢が不幸になるようなことはない。
 俺はベレンのために動いたが、シングとてベレンを一切考慮せず動いたわけではない。彼はベレンを不自由にするために立ちはだかったわけではないのだ。彼 は最大限の配慮をすると言ってくれた。調停者の誇りにかけて誓う、とまで言ってのけた。信頼してもいいと思う。交流したのはわずかだが、彼が誇り高い竜人 族であることは信じてもいい。ならば、彼女についてのことも信じていいだろう。いや、信じるべきなのだ。
 これでいいじゃないか。

(本当にそうか……?)

 フェルンの言うことは筋が通っている。むしろ、俺の行動こそが社会的に見れば悪だったのだから。
 しかし、それが分かっていてもなぜか完全に納得することが出来なかった。
 九分九厘、腑に落ちているのだが、残りの一厘がどうしても引っ掛かって仕方なかった。
 出された料理も同様で、間違いなくうまかったのだが、大事な何かがわずかにかけているような歯切れの悪さを感じた。

 不要になった地図をフェルンに返却した帰り道。自分の研究所に近くなるにつれ、次第に足取りは重くなっていった。フェルンと話して若干回復したと思っていたのだが、自分の中で決着を付けられなかった『何か』が毒のように蓄積し、回復量を上回ってしまったのだ。
 俺は悪にでもなる覚悟を固め、行動を起こした。しかしながら、俺は悪にもなりきれず、かといってシングの正義を完全に受け入れてもいないまま敗北し、妥協をやむなしとした。
 それがいけなかったのか。
 だとすれば、俺のこの不快感はただの八つ当たりだ。欲しいものが手に入らなくて、ダダをこねているだけの子供と同じだ。俺はそんなに小さい男だったのか。
 自問するたびに黒々としたモノが心に広がり、収拾がつかなくなっていく。
 そんなことを考えて前を見ていなかったのがいけなかった。ドン、と何かにぶつかった。
「……痛てえな、兄ちゃんよお」
 ぶつかったモノがさもタチの悪そうな音を発した。
 顔を起してみれば、頭を丸刈りにした目つきの悪い男がこちらを見下ろしていた。タンクトップにジーンズで、首からシルバーアクセサリをいくつも下げている。身体が細く、いかにも不良の下っ端といった格好のいでたちであった。
 珍しいな。こういう連中は都市の中心部の路地裏にたむろしているものなのだが。
「すまないな。ちょっと考えごとをしていたものでな。失礼」
 スマートにやり過ごそうとしたが、当然この手の相手がそれを許すハズもなく。がしっ、と肩を掴まれた。
「待ちな、ぶつかっておいてそりゃないだろ? 何の謝礼もナシか?」
 俺は心底うんざりしながら、白衣のポケットに手を突っ込み、ひとつだけ残っていたモノのスイッチを入れた。
「ああ、それは悪かったよ。これを差し上げよう。換金すれば少しは足しになるだろ」
 未使用の状態ならばな。意地の悪い笑みが浮かびそうになるのをこらえながら、手渡す。
「あ? なんだこりゃ?」
 男が気を取られている隙に俺は全力で駆け出した。後ろで男が呼び止める大声が響いたが、すぐにそれも聞こえなくなった。
「はははっ、愚か者め!」
 後ろを見れば男は立ちこめた霧の中だ。
 浅ましいことに気分は爽快だった。結局、八つ当たりがしたいだけだったのか。俺もあの男と大差ないな。
 そうやってよそ見をしていたのがこれまたまずかった。不幸というのは重なるもので、先程と同じシチュエーションに陥ったのだ。
 しかし、今度ぶつかった相手は先程よりもガタイが良く、引き締まった肉体の壮年男性であった。地味なジャージを着ている。
 今度はまともそうだ。そう思う一方、この男の顔をどこかで見かけたようなような気がした。
「あっ、これは失礼」
 今度は明るく謝罪した。
「……今、俺を笑ったか?」
「え?」
 全くつながりのない言葉が飛んできてあっけにとられてしまった。
「アーッ!」
 刹那、男が奇声を上げて殴りかかってきた。避ける間もなく、俺のボディに男の拳がめり込んだ。衝撃が走り、俺の身体が宙を舞った。大きく吹き飛ばされて、地面に背中から叩きつけられた。
「ごはッ!」
 いきなりのことに何が起きたのか混乱しかけたが、次の瞬間こみあげてきた激しい腹部の痛みに攻撃を受けたのだと理解した。けれども、理解したところで痛みを抑えることは出来ない。横に倒れた姿勢になり、腹を抱えて悶えるしかなかった。
 まずい。力が入らない。
 痛覚を紛らわそうと、思考を必死に巡らせる。なぜ殴られた。いや、これは考えても分からない。今のパンチは何だ。一発殴られただけなのに、腹に当たった瞬間と、その後にもう一度衝撃があった。恐らく、俺を吹き飛ばしたのは二度目の衝撃の方だ。
(……この男、風のエレメントの使い手か!)
 インパクトの瞬間に風のエレメントで生み出した衝撃を打ちこまれたのだろう。
 答えは割と早く出た。しかし、俺にはどうしようもない。対抗手段が何もない。護身用の道具は肝心の時に使用不可だ。アブソーバーを破壊されていなければ話は違ったものを。
「……どうした? 笑えよ?」
 うつろな目つきで男が見下ろしてくる。
「いっ……一体……何を……笑うと言うんだ?」
 途切れ途切れながらも、やっとのことでそう尋ねる。すると、男は驚くべきことを喋った。
「……俺はなあ……昨日門番の仕事をクビになったんだよ……。滑稽だろう? 笑えよ?」
 そうか! 俺はこの男をどこで見たのか思い出した。この男、都市を脱出しようとした際、ゲートの前にいた門番のひとりだ。きっと、俺達が通った際の責任をとらされたのだ。
 そういうことなら、殴りかかってきた理由も説明できる。彼は俺の姿を見ていないハズだ。とどのつまり、八つ当たりである。
(こいつも……八つ当たりか……)
 何か因果めいたものを感じながらも、あまりの理不尽さに気持ちが沈んでいった。
「……あっそ」
 投げやりに吐き捨てた。俺に身を守る術は無い。誰かの助けを待つか、この男の気が変わる以外に解放されることはないだろう。もう好きにしろよ。
 そんな俺の態度に怒りを増幅させた男は目を血走らせ、足を振りおろそうとかかとを天に向けた。
「ウェェェェェェーイ!」
 更なる奇声と共にかかと落としが放たれた。俺は回避をあきらめ、身を守るべく冬眠中の虫のように身体を丸めた。
 しかし、かかとは俺に到達せず、脇から突き出された別の足に止められていた。
「おにーさん、大丈夫?」
 その引き締まった足を辿ってみるとスパッツをはいていることが確認出来た。露出した肌のところどころにある無数の傷。上に着たタンクトップから伸びる腕の片方には黄色のスカーフが見受けられた。ボサボサのショートカット頭に生えた猫耳。細い針のような瞳。
 傭兵の少女ベル・バイターが現れてくれたのだった。
「なんか変なのに絡まれてるみたいだったから手の代わりに足を出したんだけど……。余計なお世話だった?」
 ベルは口元から牙を覗かせた。
「いや……助かった」
 内心、安堵で一杯でそれだけ言うのがやっとだった。
「良かった。ちょーっと待っててね。この変なのどうにかするから」
 ベルは笑みを浮かべたまま眉だけ吊り上げると、食い止めていた足を上に振り上げた。バランスを崩した男がよろめく。その隙を逃さず、ベルは頭に蹴りを入れていた。
 今度は男が大きく吹き飛ばされ、背中から倒れた。エレメントは使っていない。単純な脚力だけで、男は俺にあわせたのと同じ目を見たのだ。
 やはり、不公平だ。
 危険が過ぎ去ったと確信した俺の脳は、卑しくも現状への不満を嘆いていた。以前、ベルと共に嘆いたのと同じ事柄だが、前よりも何倍も強く感じられた。人 間の力は弱い。知性を持った五種族の中では最も劣っている。それを補うために知能を発達させたというが、それが今何の役に立つのか。小手先の知恵など、圧 倒的な暴力の前では無に等しい。蹂躙される。
 現実、俺は自分より力の強い者に二度も救われている。
 のろのろと上半身を起こし、自分の身から離れた喧騒を見つめる俺の眼は濁っていた。
 その濁った眼が違和感を捉えた。倒れたハズの男の背中が、完全に地面に着いていない。げんこつ一個分くらい浮かんでいるのだ。なんと男はその状態から逆再生でもするかのように起き上がるではないか。
 またしても、風のエレメント。自分の背後に大気を集め、文字通りの空気椅子を作って転倒を防いだのか。
 起き上がった男の形相は先程からまだ悪化していた。血走った目はすっかり正気を失い、口から泡を吹きながらも全身に力をみなぎらせ、戦闘態勢を取っている。足元からは気流が吹き出し、砂煙が上がっている。
「げっ、気持悪っ! 何かヤバいもんでも食ったんじゃないの?」
 ベルが苦笑いをしながら、半身をずらして構えた。
「もー意識落とすしかなさそうだね……!」
 そう告げたベルの身体から、パチパチと音が聞こえ始めた。火花が散り、電光が彼女の身体を駆け巡り始めた。
 雷のエレメント。電気を操る能力だ。本人の才能次第なのはこのエレメントに限ったことではないが、応用の幅が非常に広く、攻めて良し、守って良しのエレ メントだ。落雷クラスの力を操れる者は稀だが、静電気や磁力を発生させられるだけでも有用だ。とりわけ、人間社会の中においては電子機器を直接手を触れず に操作出来るため、情報戦においては特に驚異的な能力なのだ。
「うばしゃあああー!」
 男は既に奇声の域を超えた音を発しながら、両腕を振り上げた。すると男の足元から地面がめくれあがるようにしてはがれ、無数の土の塊が飛び散った。
 俺は地を転がるようにして距離を取り、この戦いを見守るしかなかった。
 ベルは器用に飛来する土の合間をかわし、徐々に距離を詰めていく。
 どうやら、彼女はこの力を自身を強化するのに用いているようだ。
 生物の神経は電気刺激によって情報を伝えている。電気を操れるということは、この伝達速度を変化させることも可能なのだ。伝達速度を早くすれば、当然反応も早く取れる。感覚を強化し、素早く動作を行えるのだ。
 彼女がそこまで理屈を理解しているとは思えなかったが、獣人族は経験を重視する種族だ。彼女の場合は日々の研鑽の中で身に付けた力なのだろう。
 やはり、ただ知っているだけでは無意味なのだ。実際にどうすればいいのか。誰かを助ける際、たとえ助ける方法が分かっていても、実行できるだけの力量無くして、目的達成は不可能だ。
 俺の失意が勝手に広がる中、十分に距離を詰めたベルが男の額に手を置いた。男は反射的に手をなぎ払った。前方を突風が吹き抜けたが、ベルの姿はその中には無い。
 上だ。ベルの小柄な体が天に踊った。くるん、と一回転して男の背後に着地すると、ポンと肩に手をかけた。
「これでおしまい」
 ベルが宣言すると、男の身体がガクガクと震えだした。振動はどんどん大きくなり、次第に身体から煙が上がり始めた。
 身体に直接電気を流しこんでいるのだ。感電した経験がある者でなくても分かるだろうが、電気を流しこまれている状態というのは身体の自由が利かない。固まってしまって自分で振りほどくことが出来ないのだ。こうなると相手が解除するまで、感電地獄を味わうことになる。
 やがて、男の身体からちらちらと火の粉が散り始めた。
「あっ、いけね」
 ベルはその様子を見てようやく手を離した。少し間があったが、男は糸を切られた人形のように卒倒した。あのまま、数分続けていたら男は身体の内側から焼かれていただろう。
「済んだよ、おにーさん。立てる?」
 ニコニコしながらこちらにやって来る彼女を恐ろしいと思う反面、羨ましかった。
「よし、骨は折れてないっぽいね」
 ベルは俺の身体に触れて怪我の具合を手早く確認した。流石に傭兵、手慣れている。
「えげつないことをするなあ……」
 肩を借りて立ち上がる。あちこち痛むが、何とか歩けそうだ。あの男相手に致命傷を受けなくて幸いだった。
「いやー、なんか中途半端に強かったんでちょっと加減しそこなっちゃって……」
 ベルが頭をかく。竜人族とまではいかなくても、俺にも彼女並の身体能力があったなら。
 俺は続きを考えるのをやめた。むなしくなるだけだ。
「でも、アレどうしよう?」
 彼女が倒れたままの男を見て渋い顔をした。
「どうするって……守備隊にまかせるしか……。あっ」
 言いかけて、思い出した。この都市から逃げ出そうとして考えが及ばなくなっていたが、こういう時こそ都市の警察組織を頼ればいいではないか。
 携帯を取り出して、通報するとまもなく男は気絶したまま連行されていった。元々、守備隊の人間が犯罪者になってしまったためか、俺への事情聴取は短時間 で済んだ。助けに来た守備隊員が申し訳なさそうな顔で口外無用、と金を掴ませてきた時は思わず吹き出してしまった。都市を出ようとしていた後ろめたさもあ り、軽蔑たっぷりのふりをしてそれを受け取った。いいとも、黙っておこう。こちらにも言えないことがあるからな。
 余談だが、ベルにも報奨金が出るとのことで彼女は瞳を輝かせていた。
 念のため、病院に行って医者に診てもらったが、ベルの見立て通り骨に異常は無く、打撲と打ち身だけで済んでいたため、その日のうちに帰路につくことが出来た。

 夕方。俺はベルに付き添ってもらい、研究所への帰還を果たした。
「しっかし、災難だったね、おにーさんも」
 ベルが頭についた水滴を拭きながら言った。戦闘でホコリまみれになったので、シャワールームを貸したためだ。断っておくが、彼女は既にあらかじめ持っていた新しい服に着替え済みだ。
「ああ」
 一方で、俺は着替えもせずにソファに埋まっていた。
 普段ならば、いくら比較的色気が無いとはいえ、ベルの身体に目が行きそうなものだが、今はとてもそんな気分ではなかった。
「しかし、流石は傭兵。君は強いな」
「えっ? まあね。でもアタシなんかまだまだだよ。親父みたいにはいかないし」
 我ながら、言葉に嫌みな響きが混じっているのが分かった。ベルにもそれが分かったのかどうかは定かではないが、彼女は明るい調子を崩さずにいる。
 そんな彼女が妬ましくて、俺はよせばいいのに余計なことを口走った。
「……なあ、君は竜人を倒せるか?」
「え?」
 ベルの表情が一時凍りついた。
「……何言ってんの? ……おにーさん?」
「どうなんだ? 君は勝てるのか?」
 高圧的な態度に、彼女もいよいよ異質なものを感じ取ったらしい。やや焦りの色を見せた。
「やっ、やだなあ。アタシだってタイマンで勝てるような連中じゃないよ。まさか……ムリムリムリ! アタシの方が死んじゃうよ!」
 君でも無理か。俺が溜め息をつくと、ついに彼女は取り乱し始めた。
「以前、依頼があって一度だけ三人がかりでかかったことがあるけど……。撤退に追い込むのがやっとだったよ。なんていうか、彼らは別格だよ。でもなんで急にそんなこと……」
 言いかけてベルは部屋を見回した。ようやく気付いたか。
「ねえ……! おにーさん、あの娘の姿が見えないけど……何があったの?」
 俺は吐き捨てるようにして、いきさつを語った。ベレンを自由にするため、都市を脱出する計画を立てたこと。彼女がシングによって強奪されたこと。そして、今こうして腐っていること。
 聞き終えたベルは困っているようだった。何か言おうとしているらしかったが、言葉をまとめられず口を開けたり閉じたりしている。
「結局、俺は何も出来なかった! もっと、いい方法が何かあったハズなんだ! 俺は勝ち目のない喧嘩を売って、大損だ! バカらしいよな! 俺はどうしようもないバカだ!」
 こうなるともう止められない。激情が洪水のようにあふれて、何の非も無い少女に怒号にも似た声を浴びせていた。
 一度口に出してしまうと、言葉というものは思いのほか自分を縛る。それが今は厄介だった。
「……やっ、やだ、やめてよ、おにーさん」
 そんな有様を見て、ベルは必死に俺をなだめようとしてくれた。
 それなのに。
 俺はそんな彼女を見て、身勝手な思いつきをしてしまった。
「……そうだ。方法ならあるじゃないか」
 この時の俺は、感情が完全に流れ落ちるまで自分を抑えることが出来なかった。タガが外れたかの如く、荒れ狂う想いは俺に言ってはならない言葉を言わせてしまったのだ。
「ベル……! 君を雇いたい……! 俺に力を貸してくれ……!」
 ベルの口がぽっかりと空いた。眉がへの字に曲がり、針のような瞳が入った目はかわいそうなものを見るそれに変わっていく。
「おにーさん、落ち着いて……! 正気じゃないよ……!」
 その声色には、あきれとかすかな怒りがにじむも、俺は愚かにもそれを無視してなおも狂気を告げる。
「倒すとまではいかなくても、注意を引くことくらいは出来るだろ? 君が手を貸してくれれば、彼女を助け出すチャンスはあるハズだ!」
 苛立ったように首を左右に振った彼女に対して、俺も更に狂気を増幅させてしまう。
「なぜだ? もしかして依頼料の心配をしてるのか? それなら必ず何とかしてみせる! ……だから!」
「……そうじゃない!」
 彼女の鋭い声に俺は気圧されてようやく口をつぐんだ。
「違うよ……。お金のことじゃないよ。うまく言えないけど、今のおにーさん、怖いよ……! ものすごく危険な感じがする……! ……ごめんね。きっと、ア タシのせいだ。アタシが中途半端に腕が立つとこなんか見せたから……。アタシ、もう帰るよ。おにーさん、ちゃんと休んだ方がいいよ」
 ベルはバスタオルを俺が座っているソファにかけると、背を向けてしまった。
「ま、待ってくれ!」
 慌てて立ち上がり、俺は彼女の肩を掴んだ。が、次の瞬間俺は背中を地面に打ち付けていた。ベルに足払いをかけられたのだ。
「ぐあっ!」
 あまり強い力をかけて倒されたわけではなかったが、先程負った打ち身のせいで身体が痛みに対して鋭敏になっており、すぐに立ち上がれない。
「……今のおにーさんみたいな目をしてる人、アタシの経験上、早死にするよ。お願いだから、おかしな気を起こさないで。……アタシ、おにーさんみたいに頭 が良くないから、なんて言えば伝わるのかよく分かんないけど……おにーさんはもっと冷静で優しい人だったハズだよ。そりゃ、おにーさん腕力は無いけど、お にーさんみたいな人間の強さって『それ』とは別のところにあるような気がするんだよね」
 ならば、どうすればいい。この腹の中にある焼けるような想いはどうすれば鎮められる。そんなことを言われたら、君にはこれ以上何も望めないではないか。
「くッ……!」
 俺は鈍い痛みと身を焼くような憤りを抱えながら、ベルが視界から消えるまでそれを目で追うことしか出来なかった。

 一日が終わろうとしていた。日は暮れて、月が輝く時間だ。
 だが、俺はいつも通り寝る気にはなれなかった。ソファにもたれて、自責の念に溺れていた。電気も付けず、暗闇の中で無情に過ぎる時間に身を任せていた。
 そんな時でも、生理現象というのは容赦してくれない。溜め息をついて立ち上がり、トイレに向かおうとすると何かにぶつかった。すぐに何かがカラン、と落ちる音がした。
 どうやらテーブルにぶつかったらしい。落ちたのは音からして、テレビのリモコンだろうか。しゃがみ込んで、月明かりを頼りに落ちた物に手を伸ばす。どうやら予想はアタリらしい。指でこちらに引き寄せて取り上げる。
 ダンボールの上に設置していたテレビがついた。暗闇で拾い上げたため、指が電源ボタンに当たったようだ。
『……その元守備隊員の男は、つじつまの合わない供述を続けており、引き続き追及していく方針です』
 どうやら、深夜のニュースだ。
(ははっ、あの男、もうニュースになってら)
 自分を襲った男について報道されていた。乾いた笑みが浮かぶ。
 だが、その乾いた笑みは次の報道内容に打ち砕かれた。
『次のニュースです。妖魔過激派組織《ブルートローゼ》のリーダー、グロム・ヘーナ氏とエルマ・ヘーナ氏の娘、ベレン・ヘーナ氏が都市η近隣の荒野で保護されました』
 俺はそのニュースを食い入るように見つめた。動くことが出来なかった。この時ばかりは生理現象を一時的に脳の片隅に追いやることに成功したのだ。
『竜人族の調停者シング・バランサイト氏が発見し保護したとのことで、市長舎で事情聴取の後、妖魔側へ送還される形になるとのことで……』
 やがて、画面が切り替わり、俺は目を見開いた。目玉がまぶたの内側からこぼれて落ちてしまいそうな程に。
 ベレンが映っていたのだ。穏やかな表情にうっすらと微笑みを浮かべて彼女は語った。
『私自身は人間族との争いを望んではいません。プライバシーがあるので名前は伏せますが、私シングさんに助けられる前に、人間の方に助けていただいたんで す。とても感謝しているんです。ですから、私は両親を説得するつもりです。今すぐ、何かを変えられるとは思いませんが、出来る限りのことはしたいのです。 私を救ってくれた人のためにも』
 俺の中で何かが爆発した。
 違う。俺は君を救えてなんていない。感謝に値するような人間なんかじゃない。何も出来なかった。中途半端で、結局君を檻に戻すしかなかった。守れなかった。
「おお……あああああああああああああああッ……!」
 嗚咽が漏れた。頬を熱いモノが伝う。せき止められぬ奔流が荒れ狂う。膝を折り、行き場を求めて暴れる手で顔面をもみくちゃにしながら声を上げて泣いた。研究者となってから、久しく流したことのなかった涙があふれた。
 もう、ごまかせない。どんな言い訳も意味を成さない。
 彼女を助けたから、助け切る義務がある? 違うだろ。
 最初はただ単純な善意からだったかも知れない。でも、彼女と生活するうちに彼女のいない以前の生活がどんなものだったか、思い出すことが出来なくなっていった。いや、思い出そうともしなくなっていた。
 彼女の手料理がもっと食べたかった。
 日の当たる下で彼女と共に歩きたかった。
 彼女の笑顔を見たかった。
 認めよう。
「俺はベレンのことが好きだった……!」
 もう、ベレンはそばにはいない。
「ちくしょおおおおおッ……! ああああああああああッ……!」
 床を転がりながら、声が枯れる程わめき、目玉が溶ける程泣きまくった。

 疲れ果て、床で眠ってしまったことに気付いたのは翌朝だった。
 余談だが、情けないことに床に大きな世界地図を描いてしまった。これまた、研究者生活始まって以来初のことだった。

 根拠の無い希望は確たる絶望にとって代わり、失意の海に俺を呑みこんだ。
 守れなかったことによって、皮肉にも俺は自分の心を知った。
 誰の目が見ても手遅れは明らか。
 未だ、理想は現実に届かない。

 自らの中にある原動力を全て失った時、再び心を奮い立たせることは出来るのか。
 答えは今より先にある。
 俺はこれからそれを知るのだ。

 まだ、何も終わってはいない。
 俺が本当に立ち向かうべきはここからだった。
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