第7章 「隠匿のヘイト」


 ――『やぶをつついてヘビを出す』。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』。事前にやぶか虎穴が分かってさえいれば。俺はこの時ほどそう強く思ったことはない。

 シュトロームから受け取った暗号の解読に成功した俺は、ルージェス魔法店へ向かって全力疾走していた。肩にはフェルンに用意してもらった食料や衣類が入った袋が揺れている。ベレンと脱出しようとしていた時に用意していた荷物がこんな形で役立つとは思わなかった。
 彼が俺に託したのは、カルダングリルと呼ばれる形式の暗号だった。一見すると普通の文章だが、解読用のグリルと呼ばれる穴のあいたシートをかぶせること で、特定のメッセージを浮かび上がらせるというものだ。今回の場合は、封筒に入っていた紙がグリルに相当し、そこに記されていた数字が穴に当たる。改行の 位置がおかしかったのは、このグリルに合わせたためだろう。
 肝心の答えだが、グリルに記された番号の順に、掲示板に書かれた文章の文字を拾って読めばいい。すると、『きけんだはやくとしえーたをでろ、』というメッセージになる。
 だが、これだけではまだ半分だ。グリルには番号の他にひらがなも散りばめられている。それに、文章の最後がわざわざ句読点にしてあることからも、続きが あることが推測出来る。しかし、だからといって先程と同様に、ひらがなを単純にあいうえお順に追っても完成する答えは意味不明なものになってしまう。そこ で最後の手がかりになるのが、掲示板のメッセージの最後に書かれた追伸の部分である。『きっとまたあえる きみがのぞむなら』の文字をグリルから拾うの だ。『き』が二つあるが、正しい方を先にしないと意味が通らないので、どちらを最初の『き』にするかはすぐ分かった。したがって、残り半分の答えは『とし しーたのまてぃうすにむかえ。』となる。
 『まてぃうす』というのは恐らく地名か施設の名称だろう。そう思った俺はパソコンでワード検索をかけようとしたのだが、すんでのところで踏み止まった。 なぜなら、導き出された答えによって、俺は彼がなぜメッセージを暗号と解読キーの二つに分けたのか推察することが出来たからだ。
 単体で解読出来る暗号にしなかったのは、彼は恐らくネット回線を介して身元がバレることを危惧したからだろう。勿論俺に、ではない。都市ηの公共機関に、だ。
 いくらネットワーク上のプライベートが守られているとはいえ、何らかの事件によって捜査が行われれば、データは公共機関に開示せざるを得ない。それは専用掲示板だろうが、ネットワークに接続している以上例外ではない。
 少なくとも掲示板の内容だけならば、調べられても単なる絶縁状だと言い張れる。しかし、俺がワード検索をかけた痕跡が残ってしまったら、彼がわざわざ手 間をかけた意味が無くなってしまう。同じ理由で、携帯電話を使うこともためらわれたため、俺は店まで直接走ることを余儀なくされたのだ。節約のため、電源 を切った携帯は今現在、俺のズボンのポケットの中で揺られている。多分、都市ηに知られては困る理由があるのだ。調べることは都市θについてからでも問題 あるまい。
 今まで必要以上に自分の素性に踏み込まれることを避けていたきらいがあったシュトロームが、こんなまとわりくどい手段を取ってまで俺とコンタクトを取ろ うとしていることが気にかかる。彼は無駄や面倒は徹底して省く主義だった。自分の安全を守りたいだけならば、俺のことなど無視すればいい。顔も知らない相 手だ。にもかかわらず、彼は手を差し伸べようとしてくれている。自分にも、俺にも極力危険が及ばぬ方法で、それを伝えようとしている気がするのだ。
 そんなわけで、導き出した答えに従って走り続けたが、いくら気がはやっても俺の身体能力が上がるわけではない。ルージェス魔法店に到着した時には完全に日が暮れてしまった。俺が扉を開けて駆け込んだ時には、ミロットさんが既に店じまいをしている途中だった。
 息を切らして飛び込んできた俺の姿にミロットさんは呆気にとられていた。しかし、事の顛末を説明するとすぐに支度を始めてくれた。
「都市θに向かうなら、チューブトレインを使うのが一番早いわね」
 都市ηと都市θ間にはチューブトレインが開通している。これは、二つの都市間を管でつなげ、その管の中を人を乗せて走る箱を移動させるという設計の乗り 物だ。雷のエレメントで電気エネルギーを得て加速し、風のエレメントで衝撃を緩和することで減速と停止を行うのだ。様々な都市間で建設の予定はあるもの の、開発コストや建設ルートの面で問題があり、今のところ全ての都市間に開通しているわけではない。都市ηでも、可能なのは都市θとの往復だけだ。
 だが、それでも目的地に行ける手段があるのは助かる。最終の発車までにステーションに行かねば。
「最終の発車まであまり時間が無いわ。エギル君、掴まって!」
 外に出ると、ミロットさんが手を差し出す。その手を取った瞬間、俺達の身体が加速した。風のエレメントを使い、地面を滑るように移動したのだ。ものの数分で、チューブトレインのある地下口前へと到着した。
 階段を駆け下り、天井からぶら下がっている運行予定の記されたスクリーンを確認する。良かった、どうやらまだ十数分ほどの余裕がある。窓口で都市θまで の料金を二人分支払ってホームへと降りる。すると丁度そこに巨大な透明の管の中を、左右が流線型に尖った客車がこちらへと移動してくるのが見えた。
「丁度いいタイミングね」
 停車すると、透明な管の側面の一部がスライドして開いた。そのまま、中に乗り込み座席へと並んで座る。時間が時間だけに、客は俺達以外に居なかった。まもなくして、チューブトレインが発進した。
「それでミロットさん、『まてぃうす』という名前に心当たりはありますか?」
 加速を開始したことを確認した俺は、彼が指定した場所について尋ねた。
「……君の友達が、そこに行けって言ったのよね?」
 首を縦に振った俺に対して、ミロットさんは少し困惑した顔をしていた。
「何か気になることでも?」
 その表情の持つ意味が分からず聞き返したが、俺は彼女が次に発した言葉でそれを理解することになった。
「……私が知る限りだけど、都市θには確かにその名前を持つ店がひとつだけあるわ。でも、そこ会員制の高級クラブよ。その……特別なサービスありの」

 時間的には日付変更の一歩手前か。都市θに到着した俺達は目的の店『マティウス』の眼前までやってきた。が、二人ともネオン瞬く看板と豪勢で煌びやかな装飾のついた店舗の有様に圧倒され、踏み込むことが出来ずにいた。
 店の前ではスーツで固めた強面の男性がボード上の端末を片手に、客の列をさばいていた。高級な衣装で身を包んだ客達がカードを差し出すと、その端末で読 み込ませて確認してから入店を許している。その周囲ではカードの確認を待つ客たちに飲み物を振舞う女性従業員の姿が三人見受けられた。が、見ればこの従業 員は獣人族の女の子達で、バニーガールとしか形容しようのない格好をしている。
(弱ったな……二重の意味で)
 店は会員制のため、会員証が無ければ入れない。客が端末にかざしているカードがそれなのだろう。が、たとえ入れたとしても問題がある。こんな場所に来る経験など皆無だった俺には、振舞い方が分からないのだ。
 頭を痛めていると、店の奥から別の女性従業員が現れた。視界に入ったので、目で追ってみると彼女はどうやら妖魔族だった。なぜすぐに判別がついたのかと いうと、特徴的なボンテージ姿だったからである。それに加えて、ベレンのことを考えていたからというのもあるだろう。彼女は飲み物を渡している他の女の子 達とは違い、誰かを探すように周囲を見回したり、列に並ぶ者の顔をチェックしている。目当ての人物はなかなか見当たらないようで首をかしげていたが、少し 離れたところで自分を見ていた俺とミロットさんの存在に気付くとこちらに近づいてきた。
 俺は近づいてくる彼女を見て、身体を強張らせた。こんな場所で働いている女性と話したことなど無い俺は、何を話したらいいやらで思考がこんがらがりつつ あった。しかし、それでも次第に接近して来る彼女から視線をそらせず見てみると、他のバニーガール達と比べると身長が低く、かなり幼い印象を受けた。ベレ ンも童顔だったが、彼女の顔立ちは正真正銘少女のものだ。この店で働くには年齢的にギリギリなんじゃなかろうか。そんなことを思っていると、目の前まで 迫った彼女がこちらを見上げて尋ねてきた。
「……あの……もしかして、貴方様は『カシュオーン』様でいらっしゃいますか?」
 俺はその言葉を聞いた瞬間、シュトロームがここに行けと指示したことが間違いないと確信した。彼は俺がこのハンドルを用いていることを知っている。そもそも、彼以外がこのハンドルで俺をここに行かせる理由が無い。
「あ、ああ。そうだが」
 戸惑いながらも、確信に基づいて答えると少女はルビーのように紅い妖魔特有の瞳を輝かせた。
「良かった! そろそろご到着する頃だと思っていたんです! オーナーよりお話は伺っていますので、ご案内します。こちらへどうぞ」
 そう言って、彼女は店の入り口へとスタスタと歩いて行ってしまった。俺達は後を付いていく他になく、肌色面積の多いその背中を追うしかなかった。入口で チェックしていた男性がこちらをじろり、とこちらを見たが、妖魔の少女が耳打ちするとすぐに満面の笑顔を作り、どうぞ、とおじぎをしつつ店の中を手で示し た。
 店の中に入ると、そこは予想以上の世界が広がっていた。七色の光がサーチライトの如く店内を駆け巡り、その明るさは店の外側以上のようだ。大音量で流れ る店内BGMが全身に突き刺さり、落ち着きを保つには困難な雰囲気だ。現実、扇動されたかのように客達は豪勢な料理や酒を食らい、ギャンブルに打ち興じて いる。分かりやすい御曹司風の若者が女の子達の真ん中で自慢げに語っている姿や、いかにも社長風の男が侍らせている獣人族の女の子の開けた胸元に紙幣をね じ込むの見た時は思わず口をへの字に曲げるしかなかった。
『快楽こそが真実! 快楽こそが人生の全て! 快楽無き人生など死んだも同然!』
 突然、天井から声が響いた。驚き見上げると、店内のほぼ中心と思われる位置の天井付近に巨大なスクリーンがあった。その画面には支配人と思しき人物が映 し出されていた。面長で鼻筋が通っており、細く鋭い目が黒い縁の眼鏡の奥に輝いている。髪は長い白髪で、美しいがどこか危険な感じのする男だった。
『本日は当クラブにご来店いただき、誠にありがとうございます。さて、本日は特別な趣向を用意させていただきました。今宵はこのナイトクラブはファイトクラブに変化致します。かねてより計画していた対戦カードがようやく実現致しました』
 どうやら、このクラブでは賭け試合も行っているらしい。
『ルール無用のデスマッチが間もなく始まります! 負けを認めるか戦闘不能になるまで闘争は終わりません! 第一試合は獣人族の剣士キョウジロウ・ギンガ と、物質生命体族の壊し屋ゴラス・タイタニア! 審美眼に覚えがある方は手元の端末で是非ともベットにご参加を! では試合開始までの十分間をベットタイ ムとします!』
 まくしたてる男の言葉を聞いているしか無かった俺の袖を誰かが引っ張った。
「……エギル君」
 ミロットさんが困った顔をしている。恐らく俺も同じような表情をしていたようで、こちらを見たミロットさんはすぐに視線を床へと落としてしまった。
「カシュオーン様ぁ! どうしたんです? こちらへどうぞ!」
 二人で固まっていると、先程の妖魔の娘が店の奥から戻ってきてくれた。店に入った瞬間、雰囲気に圧倒されて足を止めたせいで彼女を見失っていたのだ。
 助け舟、とばかりに彼女の方へと小走りで歩み寄ると店内の隅にある扉の中へと案内された。
「む、音が……?」
 扉を閉めた途端、店内でガンガン響いていた音楽がぱったりと聞こえなくなってしまった。
「こちらの部屋は壁に風のエレメントを使用されていて完全に防音されています。……静かに語らうにはもってこいの場所ですよ」
「……そ、そうか」
 彼女が頬を染めているところを見ると、この個室がどういう部屋なのかは予測出来た。やはり、妖魔族というのは人間族とは倫理観がズレているようで、男女 のことに関しては抵抗がほとんどないようだ。男が少ないということが影響しているのかも知れないが、今俺達はそんなことを詮索している場合ではない。
 彼女の視線から逃れようと、部屋の中央にある応接用のテーブルを目指す。しかし、その高級な椅子に腰を下ろすと、今度は部屋の隅にある白いベッドが目についてしまった。
「……ところで、君は何者なんだ。誰の指示で俺をここに?」
 彼女を見てから大分間があったがようやく本題に入る。
「あ、申し遅れました。私、ここの従業員でノース・フェミーといいます。オーナーから『カシュオーン』というお客様が来たら、特別にこの部屋に通すようにと言付かったものですから」
 どうやら、彼女は『シュトローム』ではないらしい。
「オーナーにはすでに知らせてあるので、まもなくこちらにいらっしゃると思いますが……」
 ノースがそう言っているまさにその途中、俺達が入ってきた扉が再び開き、騒がしい音が飛び込んでくる。
「すいません。お待たせ致しました」
 音が掻き消え、扉を閉めた人物が頭を下げた。先程モニターに映っていた男だった。煌びやかな毛皮のコートをまとい、金のパイプを片手にしているところを見れば、金持ちであることは一目瞭然である。
「この『マティウス』の支配人、イズマ・エルザードと申します」
 不敵な笑みを浮かべ、俺の向かい側へと座った。
「……貴方が『シュトローム』なのか?」
 俺がいぶかしげに尋ねると、彼は小さく鼻で笑った。
「ふっ、私が? 私はあの方の数ある手足の一本に過ぎない」
「彼にここに来いと言われたが?」
 彼がシュトロームでない以上、長く会話のキャッチボールをする気は無かった。しかし、相手はそれを知ってか知らずか、こちらに酒が入ったグラスを二つ差し出してきた。
「これを呑んでいただければ、すぐに彼のもとへとご案内しましょう」
 うすら笑いを浮かべたイズマの表情から、俺は即座に酒に細工があるであろうことを感じ取った。
「……生きたまま彼のところへいけるならな」
 相手に圧力をかけようと声を低くしたが、彼は表情を変えない。
「まあ、私の顔を見れば気付きますよね。ええ、入っていますよ。意識を奪うのにもってこいの成分がね。貴方も研究していたことのあるモノだ」
 どうやら、最初から隠す気も無かったようだ。むしろ、気付かないまま口にしていたら、シュトロームに会うには不適格だと判断されたかも知れない。
「分かっていてそれを私達に呑ませるというの? 私達を試すつもり?」
 ミロットさんが顔をしかめて言う。勿論、自分を信頼出来るか試す、というのもあるだろう。
「……それだけじゃない。多分、自分の所在を俺達から漏れることを恐れているんだ」
 前述したが、彼はきっと自分にも俺達にも極力危険が少ない方法を取ろうとしている。俺達が彼の居場所を知ってしまえば、俺達から彼の所在が漏えいする場 合があり得る。どれだけ強く秘密を守ろうとしても、心というのは脆いものだ。誘惑や脅迫、拷問を受けた際、百パーセント黙っていられる確証は無いのだ。 知ってしまっている以上、話せば楽になれる、という逃げ道が常にちらつく。逃げ道自体を前もって潰しておくつもりなのだろう。
「それって、彼が私達を信じていないってことじゃないの?」
 不快感をあらわにするミロットさんだったが、そうやって横で感情を吐き出してくれたおかげで俺は驚くほど冷静になれていた。
「……当然ですよ、ミロットさん。俺が『シュトローム』だったら、まず信じない」
 そう言って、二つのグラスのうちのひとつを手に取った。
 ほう、とイズマが目を見張った。
「俺は彼に直接会ったことは無いが、ネットでのやりとりを通じて分かってきている部分はある。それは……」
 俺は覚悟を決め、グラスの中身を一気に喉に流し込んだ。あっ、と叫ぶミロットさんの声が聞こえた。
「彼が疑うのは信じたいからだ。そもそも……他者を疑うような状況に陥ること自体が……嫌いなんだよ……」
 ほどなくして、強烈な眠気が襲ってきた。頭が揺れ始める。すぐに意識を保つことは困難になってきた。
「……分かったわよ。私はエギル君を信じるわ」
 ミロットさんもグラスを手に取ったのを確認すると、俺はこの猛烈な睡魔に対して抵抗するのをやめた。
「素晴らしい……。あの方が必要とされただけのことはありそうだ……。ご安心ください。私が責任を持って彼のもとへとご案内しますよ」
 意識が途切れる直前、イズマがそう言ったことだけが何とか認識出来た。
 暗闇が思考を覆い、感覚がぷつりと途切れた。

「エギル、これを見てみろ」
 しわだらけの手につままれた試験管が俺の目の前に差し出された。
「じいさん、コレ何だ?」
 試験管の中にある粉末状のモノを指差して俺は尋ねた。
「何だと思う?」
 試験管を静かに揺らしながら祖父ユコバック・トーチライトは笑みを浮かべた。じいさんはいつもすぐに答えを教えず、必ず俺に考える時間を与えた。
「ヒントは『精神を高ぶらせる植物』だ」
「……! 分かった! シュルトケスナーだ!」
 すぐにピンときた俺は即座に答えた。
「その通りだ」
 こちらもまたしわだらけな祖父の顔は、笑ったことで更にしわが深くなった。
 答えを的中させた俺も自慢げな顔をしてみせたが、すぐに次の疑問が生まれて笑みを消した。
「……でも、何に使うんだよ?」
「ちょっとな」
 はっきりと答えなかった祖父の態度に不穏な何かを感じた俺は、語気を強めてこう言った。
「……まさか自分で使うとかじゃないよな。人間には成分が強すぎて危険だし」
 それを聞いた祖父は驚き目を見開いた。まさかこっちも俺の答えが正解なのか。
「副作用まで知っておったか。やはり、アグニよりもお前の方が研究者には向いとるな……」
 アグニというのは祖父の息子の名前である。つまり、俺にとっては父親に当たるわけだが、そのアグニ・トーチライトは祖父の後を継がず、商人の道を選ん だ。なんでも、研究に没頭するとロクに家に戻らない祖父に反発して、後を継がず自分で商売をすると宣言していたらしい。今ではレアメタルなどの金属を仕入 れて顧客に販売するという仲介的な仕事を行っている。しかしながら、いざ仕事が軌道に乗ると忙しくなってしまい『帰りたくても帰れなくなってしまった』と ぼやいていたのを聞いた時は皮肉な話だと思ったものだ。
 だが、今は父に関してはどうでもいい。祖父の態度の理由を追求せねば。
「……なあ、エギル。知らないことを知ろうとすることには危険が付きまとうものだな」
 露骨に話を変えようとしている。そこまで言いたくないのか。
「箱の中身を知らないうちは気になって仕方ないが……危険かも知れないと分かっていても、それでも気になるのが人間なんだろうなあ……」
 一体何の話だ。
 口を開こうとしたが、なぜか声が出ない。次第に視界が揺らぎだし、頭をかいている祖父の姿が消えていく。
「お前は知らん方がいい。知らずに済むならそれはそれで良し。まあ、もし知ってしまったら、一度しっかりと立ち止まってから立ち向かえばいいだけの話だ」
 慌てる俺の心中を知ってか知らずか、祖父は穏やかな口調で続けた。
「箱の中身が何だろうが、お前はお前だ。それだけ分かっていればいい。……じゃあ、わしはこいつで実験せにゃならんことがあるからまた後でな」
 祖父が背を向けて歩いて行ってしまう。
 一連の物言いに祖父が遠くに行ってしまうような漠然とした焦燥感が湧き上がってくる。
(……じいさん!)
 やっとのことで、手を伸ばしたつもりだが腕は視界に入らず、次の瞬間一気に暗転した。

「……夢か」
 上体を起こしつつ、周囲を確認する。
 目覚めたのはどうやら小部屋のようだ。白塗りで、テーブルとベッドがあるだけの簡素で無機質な部屋だ。俺はそこでベッドに寝かされていた。毛布がかけられていたところを見ると、運んだ者が配慮してくれたらしい。
(……なんで今になってこんなことを思い出すんだ)
 子供の頃、先程夢で見たようなやり取りをした記憶がある。
 祖父が遠くに行ってしまうかもしれないという予感は的中した。その一週間ほど後、俺は祖父の遺言を読むことになったのだから。
 祖父は実験中の事故が原因で死んだ。だが、何の実験をしていたのかは俺はおろか、父にすら話していなかった。一体、祖父はなぜ死んだのか。なぜ、危険だと分かっている実験を敢行していたのか。
『……目が覚めたかい?』
 頭を回転させようとした矢先、頭上から降ってきた声がそれを妨げた。ハッ、として顔を上げると左隅の天井付近に小さなスピーカーとカメラが確認出来た。
『悪いけど、ちょっと手が離せないのでね。僕のいるところまで来てくれないか。その部屋を出て通路を左に真っすぐ行けばいい。待ってるよ』
 それだけ告げると、スピーカーはぷつりという音を最後に沈黙してしまった。
 抑揚があまりなく、落ち着いているというよりはどこか機械的な印象を受ける声だった。
 声の主が『シュトローム』なのか。どっちにせよ、彼のいる場所まで行ってみるしかあるまい。
 近づくと部屋の扉は自動で開いた。俺は通路を言われた通り、左に真っすぐ進んで行った。長い通路の左右にはいくつも同じような部屋が並んでいて、かなりの人数が生活している施設だと推測出来た。
 数分ほど歩き続けて奥まで辿り着くと、一際大きな扉が待ち構えていた。こちらの扉も前に立つと、自ら口を開けた。
 警戒しつつも中に足を踏み入れると、内部は先程とは全く異なる様相の大広間だった。俺の研究室よりもはるかに広い。だが、巨大な機材が何台も左右に並 び、無数のケーブルが床を駆け巡っているため、広さの割には人が動き回れるスペースは少なかった。どうやら部屋の中心に向かってケーブルは伸びていて、接 続された先にはいくつものコンソールパネルがあり、その上には天井から床まで多数のスクリーンがホログラフのように映し出されていた。
「来たね」
 コンソールの前にひとつだけ配置された椅子に腰かけた人物が振り返りもせず言った。両手はせわしなくコンソールを叩き続けており、スクリーンのひとつに は文字列が凄まじい早さで並んでいく。恐らく何かのプログラムなのだろうが、その内容がどんなものなのかは到底理解出来そうになかった。
「……君が『シュトローム』なのか?」
 問うても、すぐに返答はなかった。十数秒ほど更に素早くタッチタイピングをすると、『よし』と頷き、音高らかにキーのひとつを弾いた。
 プログラムの記述がひと段落ついたらしく、その人物はくるりと椅子を回転させてこちらに向き直った。
「その通り。僕が『シュトローム』だ。『カシュオーン』、いやエギル・トーチライト」
 その人物は少年だった。髪は俺と正反対の白髪で、針のように尖っていてまるでヤマアラシのように見える。年齢は俺よりも若く見えるので、白髪なのは元か らなのだろう。顔は上側がフレームのない黒い眼鏡をかけていたが、やや頬がこけており、体格も線が細くかなり痩せている。白いトレーナーにグレーのチノパ ンという俺に匹敵する地味さ加減から、インドア派であろうことは容易に想像出来た。とはいえ、痩せ形であること以外は、顔立ちは整っており、美少年と言っ ても差し支えない。だが、眼鏡の奥に輝く目は眼光鋭く、目元に深く刻まれたしわはかつて何度も顔をしかめたことがあると暗に告げていた。
 しかし、直接会ったことのない彼が、なぜ俺の本名を知っているのか。そもそも、住所を知っていた時点で知られているとは思っていたが、目の前でじかに声を聞くと聞き返さないわけにはいかない気分だった。
「……どうして俺の名前を知っている?」
「細かいことは後で食事でも取りながら話すよ。エギル、君はまず自分が置かれている状況の方から正確に把握するべきだ」
 彼は俺の質問には答えず、背後に広がるスクリーンのうちひとつを指差した。そのスクリーンだけ他のものとは違い、テレビのニュース番組が映っていた。いつの間にか音量も調節されていて、報道内容ははっきり聞き取れる。
 だが。
『……テロリストとは不愉快で下劣で嫌悪すべき存在だと考えています』
 そのニュース番組は俺が都市ηで生活している時によく流し見していた長寿番組で、十五年間、一度も休んだことがないという壮年の名物司会者が毒舌をふるっていた。
 だが。
『……エギル・トーチライトはその最たる人物です。彼は本当にひどい!』
 俺はこの偽悪的な振舞いをする司会者の男が嫌いではなかった。むしろ、色々と暗部に突っ込んでいくような姿勢がすがすがしいとすら思っていた。彼の口から自分の名前が吐き出された、この瞬間までは。
 だが。
『ヤツは最低のクズ野郎です。そのクズっぷりを市庁舎から提供された監視カメラの映像でご覧いただきましょう』
 俺は目を見開き固まってしまった。ほとんど間をおかず、冷や汗が額にあふれた。
 まずい。嫌な予感がする。
 覚悟を固める間もなく、その予感は的中した。
 映っていた場所は昨日、メルダ市長に案内されて入った地下牢の映像だった。それだけなら何も問題無かったのだが、次の瞬間映し出された光景には我が目を疑う他なかった。
 牢のドアが爆散して、轟音と共にもうもうと煙が上がる。その煙の合間を抜けて、二つの影が監視カメラの映像フレームの外へと移動していった。中にいたベレンを何者かが手を引いて連れ去ったのだ。
 だが。
『いいか、エギル。いや、狂気の科学者。都市の守備隊はお前を逃がさない。どこに逃れようとも必ず見つけ出す。覚悟しておくことだ!』
 その何者かの顔は紛れも無く俺自身だったのだ。
「……なんだこれは」
 取り乱しそうになる心を必死に抑えつけながら、やっとのことでそれだけ呻くと、『シュトローム』が冷徹な声で言い放った。
「もう理解出来ただろ? 君はハメられたんだよ」

 深淵に潜んでいた悪意がついに牙をむいた。後少し遅れていたら俺はこの牙の餌食になっていただろう。
 未だ底の知れない、初めて顔を合わせたばかりの友と、最大の障壁に挑む時は刻一刻と迫っていた。
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