第8章 「深淵のワイズマン」


 ――深淵を覗く者は、向こう側からも見られているということを自覚せねばならない。潜んでいた悪意に対するは、同じく秘められた者達だった。

「……ハメられた?」
 俺の口からもれた気の抜けた声は、この広い部屋では設置された機械類の稼働音にかき消されてしまいそうだった。
 誰にハメられたのかは、流石に俺でも目星がついている。だが、それを受け入れるには少し時間が必要だった。とっさに思考を何か別のことに割いていたのだ。
(……そう言えば、あのグラスを呑んでからどれだけ時間が経っているんだ?)
 俺は時間を見ようと、ポケットの携帯電話を取り出し、電源を入れた。
「エギル。今は、水の月十五日だ。君が『マティウス』で酒を飲んで眠った翌日だよ」
 『シュトローム』と思しき少年は俺の行動から思考を先読みして告げた。
 ということは、俺は一夜明けたら犯罪者として指名手配されていたことになる。あのまま、都市ηにいたら間違いなく逮捕されて犯人に仕立て上げられていただろう。冗談ではない。
 こんなバカげたことがこれほど短期間に進行している心当たりは、いくら考えたところでひとつしかないのだ。
「メルダ市長……!」
 口に出すことでようやく結論を受け入れることが出来た。
「なぜだ……! どうして彼女が俺を……!」
 しかし、それは同時に激しい動揺を生んだ。彼女は善良な人間だと思っていた俺には、市長が一市民を陥れたというのは大きなショックだったのだ。
「エギル、焦ってはいけない。焦る必要はない」
 狼狽する俺を見て、少年がそう発した。歪んだ顔だったであろう俺を、静かな視線が見つめていた。
「焦りは不安を生み、不安は恐怖に変わる。エギル、その恐怖は今、この問題解決の為に必要か?」
 彼が投げかけた問いを俺は心で反芻した。
 そうだ。怯えたところで、事態は好転しない。まずは揺るがぬ事実を素直に受け入れるしかない。その上で、行動方針を考える。
「……この恐怖は不要だな。ありがとう。君のお陰でパニックにならずに済んだ」
 冷静さを取り戻した俺を見る彼の視線は変わらずクールだったが、口角をわずかに上げたところを見るに、この少年は味方だという確信が持てた。
 彼の言葉はどこまでも理詰めだったが、俺に考えさせることで動揺する機会を奪ってくれたのだ。
 考えついでに、もう一度メルダ市長が元凶である点を洗い出す。
 思い返せば、彼女が俺をベレンに面会させたのはこれが目的だったのかも知れない。俺が牢に入ったという事実。招き入れたのがメルダ市長であること。何らかの方法で加工された監視カメラの映像。証拠は無くとも、犯人を推理するには十分過ぎる判断材料だ。
 ミロットさんも帰り際に違和感を感じる、と言っていた。
 そう言えば、彼女の姿が見えない。
「ミロットさん……。シュトローム、俺の他にもうひとり連れがいたハズなんだが、どこにいる?」
「ああ、あの魔女か。てっきりここに来るのは君だけだと思っていたものでね。君とは別の部屋で待機してもらっているよ。さっきのニュースもその部屋のモニターで流したから、大方事情は呑みこめていると思うけどね」
 彼はなんだそんなことか、とでも言いたげに俺から視線を外してしまった。クールな視線に俺を見ていた時とは別の冷たさが混じった気がした。
「無事を確認したい。ここに呼んでもらえないか?」
「……分かった」
 言葉とは裏腹に、彼は不満そうだった。しぶしぶとかいやいやとかいった表現が適しているだろう。表情はやはり変わらなかったが、声色が明らかに曇っていた。
 もしかすると、初めて直接顔を合わせた俺ともっと喋りたかったのだろうか。とはいえ、同行を頼んだ手前、ミロットさんを放置しておくわけにもいくまい。こんな状況でなければ落ち着いて会話が出来たものを。
 やがて、顔を真っ赤にしたミロットさんが部屋の中に飛び込んできた。
「ちょっと貴方どういうつもりよ! 人を個室に閉じ込めた挙句、あんな映像を見せるなんて!」
 少年が大きな溜め息をついた。
「……せっかく情報を与えたのにまるで呑みこもうとしないんだな。これだから考えることをしない人間は嫌いなんだ」
 まるで吐き捨てるかのようなその口調は、俺の時と百八十度うって変わって嫌悪を隠そうとすらしていなかった。
「なッ! 何よその言い草……! こんなところまで呼びつけておいて……!」
「君まで呼んだ覚えはないんだが……」
「なんですって……!」
「ミロットさん、落ち着いて! やり方はどうあれ、彼は俺を助けてくれたんです! 今揉めてる場合じゃないですよ!」
 怒りにまかせて彼を攻撃しかねないと思った俺は彼女の前に割って入った。
「……君はいいの?」
 肩をいからせている彼女に対して、俺は静かにうなずく。
 今言った通り、少なくとも彼は俺を助けるためにここへ導いたのだ。面倒な過程を辿ったとはいえ、それは確かだろう。それに、現状からすると、彼と対立し てもいいことはひとつもない。今の俺にはミロットさんしか味方がいないのだ。そんな状況で、せっかく助けてくれた相手の手を振り払うのは愚劣極まりない。
「……そう。君がそう言うならここは抑えましょう。ていうかあの映像、マジなのね……」
 ミロットさんも大きな溜め息をつき、心底不満そうにしながらも敵意を解いた。
「シュトローム、それでこれからのことなんだが……」
 胸をなでおろしつつ、後ろに向き直ると彼は再びコンソールを操作していた。
「ああ、分かってる。食事を用意させたから、食べながら話そう。ついてきたまえ」
 そう言うと、彼は手を止め、ここで出会ってから初めて椅子から立ち上がった。

 彼の後について行くと、廊下の途中の部屋に通された。外側からだと判別がしにくかったが、中は食堂のようにテーブルが並んでおり、奥にはカウンターで仕切られたキッチンが見受けられた。しかし、料理人らしき人物は既に見受けられなかった。
「空腹は人間から論理的思考能力を奪うからな。さあ、食欲を満たしてくれ」
 彼が手で示したテーブルの上には様々な料理が既に並べられていた。パンに肉料理、魚料理など、とてもこの三人で食べきれない量があった。
「なんかデジャヴを感じるんだが……」
 俺が呻くと、彼はふふっ、と笑った。
「大食らいの彼女がいないと困る量かい?」
 こいつ、それが分かっていてわざとこの量を用意したのか。そもそも、彼はどこまで俺のことを知っているのか。顔をしかめると彼はすぐに謝罪した。
「悪い。今の君に向けて言う言葉じゃなかったな。食べるだけ食べて残してもらって構わない。残りはうちのスタッフでおいしくいただくからさ」
 やはり、彼以外にもこの施設で生活している者がいるようだ。施設の広さからしてかなり大所帯の組織を持っているようだが、人が一人も見当たらないのはどういうことなのか。
「エギル君、食べましょ。食事くらいまともじゃなきゃ、割に合わないもの」
 ミロットさんは先程の怒りが収まりきらないようで、ドスンと椅子に腰かけると猛然と食べ始めた。
「……別に君に振舞うためじゃないんだが」
 シュトロームもシュトロームで彼女に対しては依然として不快感を抑えようとしない。俺に対してだけやけに親愛の情を感じるが、これも一体なぜなのか。
「……とりあえずいただくか」
 俺が食べ始めないと話も出来なさそうなので、ミロットさんの隣に腰かけてフォークを取った。目の前の麺料理、スパゲッティーに手を伸ばす。
 フェルンの店で同じような料理をベレンが頬張っていた情景が思い出される。今、彼女はどうしているのだろう。
「……シュトローム。とりあえず、俺がかなりまずい状況に置かれていることについては先程の映像で大体把握出来た。だが、俺が次の行動に移る為にはまだ情 報が少なすぎる。それに、そもそも君は一体何者で、どこまで俺のことを知っていて、どうして俺を助けた? 俺が知りたい情報と、俺にとって必要な情報を何 もかも話してくれ」
「勿論だ。僕はそのために君をここへと呼んだのだから」
 続いて俺と反対側に向き合うように彼は座った。
「……順番に説明しよう。最初に君が置かれている状況について、僕の知っている情報を加えてもう一度整理しよう」
 頷くと彼は語り始めた。
「エギル・トーチライト。君は都市ηから妖魔の過激派組織《ブルートローゼ》の組織の長、グロム・ヘーナとエルマ・ヘーナの娘であり、連中との交渉に当 たっても重要人物であるベレン・ヘーナを強奪して逃げた狂気の科学者として、全都市で指名手配されている。証拠になる映像は恐らく捏造されたもので、犯人 は市長であるメルダ・メルギス。そして、ベレンの身柄は依然として都市ηに拘束されたままだ。ここまではいいか?」
 再び頷く。
「そもそも、なぜ君が犯罪者に仕立て上げられたかだけど、これは恐らく単純に都合が良かったからだ。彼女と親しい人間なら、多分誰でも良かったんだろう。 問題なのは、彼女を連れ去ったのが君にされたことよりも、彼女の身柄が都市ηのもとから離れた、ということにされてしまったことの方だ」
「……そうだよ! よく考えたらおかしいぞ……!」
 俺は彼の言葉を聞いて、今の状況にある大きな矛盾に気付いた。
「おかしいって、そりゃ君が陥れられたのはおかしいけれど」
 ミロットさんが魚料理を口に運びながら、口をはさんだ。
「違う、そっちじゃない! ベレンが都市ηから離れた方だ!」
「そうなんだよ。ベレンが都市ηの管理下から離れるということは都市ηにとっては何のメリットもないんだ。むしろ、デメリットしかない」
「……どういうこと?」
 ミロットさんが首をかしげる。
「……まだ分からないかな? このままベレンがエギルにさらわれたまま、過激派組織の告げた返還交渉日を迎えてしまったらどうなると思う?」
 シュトロームはあきれた様子で、溜め息をついた。
 ミロットさんはあっ、と声を上げた。彼女も気付いたようだ。フォークに刺さっていた魚の切り身が皿へと落下した。
「返還に応じられなかったと見なされれば、《ブルートローゼ》は都市ηに対して攻撃を始めるハズだ」
 市長がそれを見越してこの事件を仕組んだとすれば、その目的はますます分からなくなる。一体、なぜなのか。何のためにこんな大勢に不幸が広がるような真似をしたのか。
「……まさか」
 そこまで考えた俺の脳裏に戦慄が走った。
 もし、初めから都市ηを戦争の被害に巻き込むことが目的だったとしたら……!
「うん。エギルも僕と同じ推察に行き当たったようだね。あまり論理的な答えじゃないから科学者としては喜ばしくはないんだが、初めから都市ηを攻撃させることが目的だと考えればつじつまは合うんだよ」
 恐ろしい。市長は今の冷戦状態を崩し、灼熱の闘争を始めるつもりなのか。他人を助けられる人だと思っていのに、それは仮面で悪意に満ちた本性を隠していたというのなら、脅威と言う他はない。
 先に攻撃してもらえれば反撃を躊躇する必要もなくなる、ということか。だが、もし妖魔側が期限を延長してベレンの捜索と返還を要求してきた場合はどうだろうか。人間側から見れば寛大で喜ばしいことだが、メルダ市長に限ってはそうではないらしい。
「万一、期限が延長されたらどうなる?」
 俺の疑問に対するシュトロームの返答は、俺が最も恐れるものであった。
「……そうさせないために手元にベレンがいる。交渉の場で彼女を殺せば、もう戦争をするしかなくなる」
 怒りで全身が震えた。食いしばった歯から鈍い音が漏れる。もはや、料理が喉を通る心持ではなくなってしまった。
 俺は戦争になること覚悟でベレンを解放しようとしたが、市長はベレンを火種にして戦争を起こそうとしているというのだ。たった一人すら救う気が無い破滅的思考。そう形容するしか彼女の脳内を計る物差しは存在しないような気がした。
「彼女を助け出さなければ……!」
 それも妖魔側が指定した期限までに、だ。雷の月三日が期限だから、あと二週間しか猶予は残されていないことになる。
「でも、警備が厳重になってしまった都市ηに潜入して彼女を助け出すなんて真似、出来るかしら……」
 ミロットさんも食べるどころではなくなってしまったらしく、フォークを皿の上にコトリ、と置いた。
「……君は実にバカだな。都市の警備なんかよりもはるかに厄介な問題が別にあるだろ」
 シュトロームが心底うんざりしたように言った。いちいち彼女の言葉に食ってかかるところを見ると、どうあってもミロットさんを排斥したいらしい。
「……どうしてこの子はいちいち人に突っかかるの? 君、友達いないでしょ?」
 ミロットさんが再び彼に敵意を持つ前に話を進めなければ。俺は取り急ぎ頭を回転させた。都市の守備隊よりも厄介な問題としたら、真っ先に思い当たる節がひとつあった。
 俺自身が対峙した、最強の生物だ。
「調停者かッ……!」
「でも、調停者は平和を保つのが目的なんでしょ? 事情を説明すれば……」
 調停者の名詞の登場にミロットさんも焦った様子でそう言いかけると、またしてもシュトロームがそれを遮った。
「事情なら市長から事細かに説明されているだろうさ。多くの人をまとめ上げている彼女と、一介の研究者の言い分と、どちらを信じると思う?」
 冷徹な程に筋が通っている。これにはミロットさんも閉口するしかなかった。
 都市ηの全てが敵になっているだけでも絶望的なのに、竜人族という超大な障壁の攻略を考えると、二週間ではとても不可能だ。だが、不可能だろうとここで何もしなければほぼ確実にベレンは殺されてしまう。
 何かうまい手は無いのか。
「シュトローム、現状で俺達が調停者を下し、都市の守りをかいくぐってベレンを助け出せる見込みはどのくらいある?」
 帰って来る答えは容易に予想出来たが、それでも口に出さずにはいられなかった。
「……ゼロ以下だ。僕達が全滅した上で、親類縁者を皆殺しにされてもまだお釣りが来る」
 やはり、ダメなのか。流石に気が遠くなりかけたその時、少年が続けた言葉が再び俺を引き戻した。
「……竜人族さえどうにか出来れば、五分五分なんだがな」
「何か方法があるのか?」
 すがるような思いだった。わずかでも光明があるならば、それに賭けるしかないのだ。
 そんな俺の心中を察してか、シュトロームが席を立った。
「……食事は後回しにした方が良かったな。エギル、ついて来たまえ。君に見せたいものがある」
 俺とミロットさんは彼の言葉に従い、再び施設内の移動を開始した。

 シュトロームに案内されるままに通路を行くと、エレベーターがあった。促されて乗り込むと、それは地下に向けて動き出した。
 到着を待ったが、なかなかエレベーターは停止しない。
「……ずいぶん降りるのね?」
 待ちかねたミロットさんが尋ねると、彼は振り向きもせず告げた。
「着くまで十分くらいかかる。先程の質問の続きを答えよう」
 続きと言えば、まだ彼が何者なのか明らかになっていなかった。いよいよ彼の口から語ってくれるらしい。
「……僕自身について、話そう」
 そう言った彼の表情には深い影がさしていた。声色にもミロットさんを呼んでくれ、と頼んだ時以上に重苦しいものを感じる。
 彼は何か重いものを背負っているのだ。俺は心して話を待った。
「今の僕は戸籍が存在しない。もっと言えば、この施設にいる百名弱の人間全てがそういう存在なんだ」
 本来、人間族ならば二十四あるいずれかの都市に戸籍を持ち、住民としてのデータが管理システムに登録されている。だが、それが無いということは既に死んでいるハズの人間ということか。
「……僕は元々、都市λ(ラムダ)で生活していた。当時の市長が信頼を寄せていた、とある技術者の息子として生まれた。自分で言うのもなんだが、僕は頭が 良かった。十歳になる頃には既に都市のセキュリティシステムの仕組みなんかも理解し始めていて、父が話す仕事の話にも対等に付き合うことが出来た。そんな 僕を父は誇ってくれたし、母もそんな様子を見て大いに喜んでいたよ」
 だが、そこまで話した彼は一度言葉を切った。
「……話しにくいなら無理に話すことはないんだぞ」
 俺は助け舟のつもりでそう言ったが、少年の表情は更なる憂いを帯びた。
「……エギル、僕は最後まで話さねばならない。特に君にだけは絶対に。僕は今まで君のことは知りつつも自分の正体を隠していたんだ。けじめだけはつけなければならない」
「……分かったよ。続きを聞かせてくれ」
 悲しみの中に強い意志を感じる。俺も何が彼を形作ったのか知りたくないわけではない。次の言葉を待った。
「ある時、僕は自作で都市のセキュリティシステムを試作してみたんだ。これが当時は画期的な代物でね。父の仕事の助けになると思って、僕は無償でこれを都 市に提供したんだ。でも、これを境に父は僕に頼るようになった。都市で稼働する機械類のシステムは八割方僕が構築したものになっていった。最初は僕もよか れと思っていたんだが、あまりにも僕に依存する父がうっとうしくなっていったんだ。」
 彼は生まれついての天才だったということだろう。しかし、俺は知ることは必ずしも幸せなことではない、という祖父の言葉を思い出していた。
「だから、僕はある時、父に渡すハズだった新しいシステムのデータを紛失したと嘘をついて、隠したんだ。依存を続けるなら、こういうケースもあり得るとい う父への戒めと警告のつもりでね。それに、父だって優秀なスタッフと言われていたのだから、その気になればこの程度自分でも作れると思っていたんだ。だ が、現実は違っていた。僕の能力は父をとっくに超えてしまっていたんだ。父は僕のシステムを発表までに自力で再現しようと躍起になったけれど、ついにそれ は間に合わなかった。……父は都市での信頼を失った」
 天才ゆえ、という表現がしっくりくる事柄だろう。彼はその自身の賢さに呑まれ、取り巻く周囲の状況を、特に他人の感情を正しく把握出来なかったのだ。
 気付けば、ミロットさんも黙って彼の話を聞いていた。
「……居場所を失った父はすっかり憔悴しきってしまった。けれど、僕はそれを分かっていながら自業自得だと思って何もしなかった。ある朝、父が死んでいる のを発見したよ。周囲の目に耐えられなかったんだろう。床に落ちていたビンは睡眠薬だった。散乱した錠剤の中に倒れていた父の姿をきっと僕は生涯忘れらな い。僕が父を殺したんだ」
 なるほど、彼がしたことは間違っていない。自分に依存しようとする者を突き放すことは、正しい対応だと言ってもいい。だが、正し過ぎるその行動は、時に暴力となり、時に軋轢を生む。彼は正義を刃として振るってしまったのだ。
 渋い顔で押し出すような語り方をする彼に、エレベーターに乗る前のような冷たさは無かった。心底後悔していると思えるその様子に、俺は彼が感情を表に出していなかった理由を見た気がした。
「……父を失って、母も精神的に弱ってしまってね。一年後、後を追うように亡くなった。僕は独りになった」
 まさに悲劇的な生い立ちだ。
「……貴方、ずいぶん辛い目にあってきたのね」
 今まで彼に対して怒ってばかりだったミロットさんも流石に憐れんでいた。
「同情するのはよしてくれ。身から出たサビだ」
 先程のように彼女を一蹴しようとしているようだったが、声に力が無い。それを察してだろう、ミロットさんも再び食ってかかるようなことはしなかった。
「……それで、たった独りでどう生きてきたんだ?」
 一緒に嘆いてやりたかったが、彼の性格を省みると自責の念で古傷を掘り返してしまいそうだ。それは酷な気がして、続きを促した。
「最初は市長が僕を憐れんでくれてね。市長が生活費を工面してくれていたんだ。だけど、市長も次第に僕を利用するようになっていった。人の役に立つのは悪 い気はしない。だけど、自分で新しいものを創り出そうとしない人間が僕の周囲には多過ぎた。そのせいで他人が頭の悪い生き物にしか見えなくなっていった。 僕は自身の才能を呪ったよ。次第に自分がこの世界にとって、早すぎる存在なんじゃないかと思うようになった。ネットを介して他の都市の人間と話しても、僕 の話について来れる者はいなかった」
 そこまで話して、不意に少年は俺を見つめた。
「そんな自分が不要なんじゃないかと思っていた時だったよ。エギル、君に出会ったのは」
「……あの掲示板にあった君の書き込みに、俺が初めて返信をした時のことか」
 俺自身、別段意識して書き込んだわけではない。ただ、飛躍していて面白いことを言うヤツがいるな、と思っただけだ。
「君は僕の言葉を途中で遮ったり、内容が理解出来ないからと言って逃げ出したりすることは絶対にしなかった。最後まで聞いたうえで、分からない、興味が無 い、とはっきり述べてくれた。それがどれだけ救いになったことか。君と話すうちに分かったんだよ。僕は世界にとって不要な存在だとか、もっともらしい理由 をつけて逃げていただけだった。結局のところ、僕は自分を誰かに認めてもらいたかっただけだ。肯定が欲しかった、ただの人間だとね」
 俺の何気ない言葉が知らず知らずのうちに彼を救っていたということか。何かひとつ間違っていたら、彼は死を選んでいたかもしれないのだ。ここで会うことが出来たのは、本当に良かった。
「だから、僕は君のことが知りたくなった。無礼を承知で君のことをひそかに調べ尽くした。名前や住所から生い立ちまで可能な限り全てを調査したんだ。だか ら、先程の質問にあったどこまで知っているかという疑問の答えは、君が今頭で考えていること以外はほぼ全て知っている、ということになる」
「……直接俺に会いに来なかったのは、この組織を立ち上げたせいか?」
 死んだハズの人間を集めて形成した組織だ。秘密結社と考えてもいいだろう。自分の存在を外部に漏らしてまずいのは当然である。
「……それもある。だが、自分のことを知らせずに相手のことを嗅ぎまわるようなヤツを信頼出来ると思うか? 僕にだって恥を感じる心はある」
 目をそらした彼の顔からは嫌悪の色が見て取れた。恐らく、この嫌悪は自身に向けられたものだろう。
 実に人間的な返答だった。これを聞いて、俺はむしろ安心した。彼は決して血の通わぬ機械のような男ではない。人より、頭が良くて冷静なだけの人間に相違なかった。その度合いが平均から大きく逸脱しているはいるが。
「……僕の力を君の為に役立てたいと思った。だから、僕はまず自分の性能をフルで発揮できる環境を作り上げることにした。都市λのシステムはウィルスを使って全て徹底的に破壊して、都市を出たんだ」
 そう言えば、俺が十六歳くらいの頃だったか。どこかの都市の管理システムが一夜にして破壊され、大混乱が起きているという記事を見た覚えがある。あれは彼の仕業だったのか。
「それから僕はある人に助けられて、個人の研究室を与えられた。そのある人というのが……」
 そらしていた視線を再び俺に戻すと、彼は驚くべきことを告げた。
「君のおじいさんだ」
「なんだって……!」
 なんと、彼と俺のじいさんは面識があったというのだ。
「君のおじいさんには脳が無い自分のクローンを作ってもらった。エレメントや物理、コンピューターシステムについては得意な僕も、生物学の知識と技術は無かったからね。このクローンをバラバラにして事故現場に放り出すことで、僕は都市λの追手を断った」
 この少年が死人となった経緯が判明した。まさか、そこまでしていたとは。しかし、それに祖父が手を貸していたことはさらなる驚きであった。
 驚きを隠せない俺を前に、彼はバツが悪そうに話した。
「……黙っていてすまなかった。ともあれ、自由になった僕は自分と同じように追い詰められた人間を集めて回って、今に至るというわけさ」
「……面識があるなら、じいさんがなぜ死んだかは知っているか?」
 彼ならば死の真相を知っているかも知れないと思い、尋ねてみた。
「いや。残念だが、半年経たないうちに僕は彼のくれた研究室を離れてる。僕も詳しくは知らない」
 俺よりもじいさんに近い位置にいたならば、もしかしたらと思ったのだが。しかし、彼は次に少し気になることを言った。
「ただ、どうもエレメントに関する実験をしていたような気配はあったな……。生物学者がなんで別の畑に手を出したかまでは分からないが……。今となっては何か別の痕跡が出てこないと確かめようがないな」
「……そうか」
 何だかじいさんが彼に引き合わせてくれたような気がした。死の真相が分からなかったのは残念だが、今は目の前の問題を片づけることに注力した方がよさそうだ。
「……それとエギル、もうひとつ言わねばならないことがある」
 まだ何かあるのか。
「僕はこんな状況にならなければ、君とは直接会う必要は無いと思っていた。陰ながら君の手助けが出来ればそれで十分だとね。でも、僕はある時、暇つぶしに都市ηのセキュリティをハッキングしたんだ。だから……」
「おい、それじゃあ……!」
 ベレンが都市のゲートをくぐった時にセンサーが作動しなかった理由が今分かった。
「……言っただろ、けじめはつけると」
 なるほど、ここまでの流れのきっかけは図らずも彼が作ったことになる。しかし、もし彼がハッキングを行わなかったら俺はベレンに出会うことはなかったのだ。
「どうやら、俺は君に感謝しなければならないな」
「エギル……?」
 笑みを浮かべた俺を少年が怪訝そうな顔で覗き込む。
「俺はベレンに会えて良かったと思ってる。勿論、君もだ」
「エギル!」
 驚きの表情に、徐々に安堵の色が浮かんでくる。
 その時、下降し続けていたエレベーターがついに停止した。扉が開く。
 少年が開いた通路へと一歩踏み出すと、こちらに振り返り告げた。
「最後に僕の本名を教えておくよ。僕は、レイ。レイ・オオバだ。よろしく頼むよ」
「レイ……。こちらこそよろしく頼む」
「ああ、行こう!」
 俺達三人は長く続く通路を歩き出した。

 やがて、通路の奥に辿り着くと巨大なシャッターが待ち構えていた。このシャッターはレイのいた部屋の時のように自動では開かず、彼が備え付けのコンソールにパスコードを入力して開けていた。
 少しずつシャッターが上昇し、向こう側の光が差し込んできた。
「ここは……!」
 完全に開ききったシャッターの向こう側には広大な空間が開けていた。
「ここが、この施設の中央研究室だ」
 その空間は今俺達がいる通路を境に、ガラス張りになった部屋が左右にいくつも並んでいた。その中には部屋ごとに異なる機材や器具が整然と置かれ、様々な分野の研究をしていることが予測出来た。
 そして、ついにこの施設に来てから初めて、レイ以外の人間を目にしたのだ。各研究室の中で、数人がそれぞれ何かの作業を行っているようだ。
(彼らが、皆死人扱いだという人達か……)
 理由は各々だろうが、レイに助けられたという人々だ。目にすることで、ようやくこの組織がレイ独りでないことが実感出来た。
「こっちだ」
 周囲の様子を見まわしていると、レイが催促した。
 言葉のままに後ろをついて行く。真っすぐに通路を進むと、一枚の扉に突き当たった。だが、この扉は上下左右から飛び出た何本もの金属製棒が固定しており、先程のシャッター以上に厳重なロックが施されているようだった。
「ずいぶん物々しい扉だな……」
「……ここがこの施設では最重要エリアだからね」
 俺の呟きに返答しつつも、レイは壁のコンソールにパスコードを素早く打ちこんでいく。今度は一度では開かず、三回も認証を行っていた。
 轟々と音を立てて、金属棒がその身を引いて行く。完全にロックが外れた扉をレイが押し開ける。彼の後に続いて中に入ると部屋の中央に巨大なシリンダーが設置されていた。そのシリンダーは天井から床までつながっている巨大なものだった。
「あ、来たんですねぇ、リーダー」
「うわっ!」
 真横から不意に声がしたので、思わず飛び退くと何やらもさもさしたモノが目に入った。
「……脅かすなよ、パイル」
 そう言いつつもレイは全然驚いた様子も無く、その藻のような物体に返答していた。
 良く見るとそれは海草の類ではなく、人間だった。髪の毛のせいで一瞬そう見えてしまったが、視点を下に下ろしていくと次第にそれが分かった。ボサボサの 髪は伸び放題の上ほとんど手入れされていないらしく、後頭部に安っぽいゴムでまとめられている。目にはクマが出来ていて、明らかな睡眠不足が見て取れた。 タンクトップにデニム製の作業ズボンを着ていたが、ススと油とホコリで全身がまんべんなく汚れている。片手に工具箱を下げているところを見ると何か機械類 をいじった後のようだ。しかし何より驚いたのは、どうやらこの人間が女性であることだった。判別がついたのは、タンクトップに山が出来る程度には胸があっ たからだ。やや猫背で気だるげなその佇まいは、何ともズボラな印象を受ける。
「だ、誰よ……」
 ミロットさんも驚いたらしく、一歩後ずさっていた。
「彼女はパイル・サイプレス。この施設のエンジニアだ。腕前はいいんだが、見ての通り機械以外には興味の無い女でね。御覧の通りの人物だよ」
「やだなあ、リーダー。集中力があるって言ってくれればいーじゃねーですかぁ」
 レイが肩をすくめて言うと、パイルと呼ばれた女性は口角を上げて歯を見せた。どうも笑顔を見せたつもりのようだが、汚れているお陰で非常に滑稽に見えた。
「で、『アレ』は完成したのかい?」
 レイが今度は真面目な表情で尋ねると、彼女はボリボリと頭をかきながら返答した。
「……ああ、概ね問題ねーです」
「その割にはずいぶん機械いじりをしていたように見えるが?」
「作業シリンダーの内部回路が調整ミスって過電流で破損したんで、修繕にちぃーとばかし時間いただいただけです。後はシメオン様とリコちゃんにバトンタッチですねえ」
 そう言い終わると、パイルは大あくびをした。
「そうか、良くやってくれた。上の階に料理があるから食事を取りたまえ」
 笑みをこぼし、そう勧めると彼女は目を輝かせた。
「んは! マジですか! 気付けば腹減りまくりですよぉ!」
 空腹を忘れる程作業に没頭出来るとは……。彼女は一度始めると周りが見えなくなるタイプだということだけは分かった。
「ただし、料理が出来たのは僕らが降りて来る前だ。もう十五分以上経過してる。急いだ方がいいぞ」
 レイの笑顔に意地の悪いモノが混じる。ああ、残ったらスタッフがおいしくいただくって、そういうことか。
「んぎぃ! リーダーの外道!」
 奇声を発すると彼女は飛び上がって駆け出した。
「それから、服を洗濯してシャワーを浴びたら、少しは休息を取って来るんだぞー!」
 走る彼女の背にそう投げかけたが、返答無く扉をくぐると再びロックが施されてしまった。料理よりも、こちらを先に勧めた方が賢かったかも知れない。
「変わった人ね……」
 ミロットさんが唖然として言うと、レイの笑顔が今度は苦笑いになっていた。
「……ここは変わり者だらけさ。僕のように社会から弾かれた者達が集っているからな。あまり気にしないでくれ」
「……それでレイ、彼女にはここで何をさせていたんだ?」
 波が過ぎ去ったことを確認した俺は、この部屋について改めて尋ねることにした。
「『アレ』さ」
 顎で示す方を見ると、再び部屋中央のシリンダーへと視線が導かれる。よく見ると、シリンダーの中に何かが浮かんでいる。シリンダーの内壁から伸びた無数 のケーブルでつながれ、空中に静止していたのだ。光を反射して輝くのは、どうやら金属光沢らしい。少し近づくと、俺も良く見知ったひし形のくぼみが表面に あることが分かった。
「……あれはまさか、エレメントアブソーバーか?」
「その通り。ただし、性能はケタ違いだ。正式名称『マルチエレメントアブソーバー』、開発コードは『レッドソウル』。君を守る為に造った、とっておきだ」
 レイの苦笑いが不敵な笑みへと変貌していく。どうやら、相当強力な自信作らしい。
「どういう代物なんだ?」
「それに関しては私が説明しよう!」
 尋ねたそばから、部屋に大音量の声がこだました。
「……操作室にいたんだなシメオン。そこにリコもいるんだろ? 彼らに紹介したいからそこで待て」
 レイが少々面倒そうに天に向けて呼びかけた。
「私達も食事にありつけると思っていたのだが、致し方ないね」
 そう返事が返って来ると、レイがシリンダーの側面に回り込むように移動した。彼について歩き出すと、そこには中に入る扉があった。ここが操作室らしい。
 扉をくぐると二つの人影が待ち構えていた。
 一人は、白衣をまとった研究者然とした男であった。顔立ちの整った美形で、俺と同い年くらいの青年だ。紫色の髪はしっかりと手入れされており、整髪料で固めているのか柳のように垂れ下がって片目側だけ隠している。うすら笑いを浮かべ、自信に満ちた雰囲気を漂わせている。
 もう一人は、ここにいるのは似つかわしくない少女だった。となりの青年と比べると頭一つ分くらい低く、そのあどけない表情にはまだ幼さが残る。ロングヘ アーで背中にかかるくらいまでさらっとした金髪が伸びていた。上半身と下半身の区別が無い、頭からすっぽりかぶる作りの服を着ていて、袖からはかろうじて 指が出ているのが見えた。その身なりから、飾り立てられた人形のようなかわいらしさをまとっていた。
「はじめまして、ですね。私はシメオン・ムラサメ。そうか、貴方がレイのお気に入りですか」
 男の方が手を差し出して握手を求めてきたが、顎を突き出した彼の態度は他人を見下したような印象を受ける。何となく気に食わないモノを感じながらも、俺は黄色をしたそいつの目を正面から受け止め、手を握った。
「……よろしく頼む。『レッドソウル』の詳細、ご教授願おうか」
 不快感を抑えつつ、そう言うとミロットさんが横で黙って立っている少女を凝視していた。
「ちょっと待って、こちらのお嬢さんは?」
「彼女はリコ・アロー。事故で家族を失ってね。身寄りが無かったんで、僕達が保護したんだ」
 そうレイが説明すると、リコと呼ばれた少女はぺこりと頭を下げた。
「あの……もしかしてだけど、この娘、ひょっとして……」
「……やはり、魔女には判るんだな。そうだよ。リコも能力者だ。それも、かなり強力な」
 それでこんな小さな娘がここにいるのか。魔女ならば、エレメントの研究をする際には必須だ。人間族が人工的にエレメントを操作する技術を完成させたとは いえ、大元になるエネルギーの発現元自体は能力者を頼るしかない。つまり、人間族が扱っているエレメントを利用した製品は全て、二割程しかいない能力者達 の働きによるものなのだ。
「彼女は実によく働いてくれましたよ。レイ、修理も終わり、『レッドソウル』の最後のピースは揃った。早速、試験起動始めたいのだが」
 リコの頭をなでつつ、シメオンがレイに視線を送る。
「もう少し待て、と本来なら言いたいところだが、時間的な余裕もあまり無いしな。どうせ最終調整も必要になる。装着者本人もいることだし、行うなら早い方がいいだろう」
 レイが口角を吊り上げ、俺に呼びかけた。
「エギル、君を守護する怪物の操り方を教えよう!」

 レイとシメオンに促され、俺は試験起動という名のチュートリアルを受けることになった。作業用シリンダーの地下には試験起動用に強化タイルで周囲を覆った実験室が用意されており、そこで実際に使用してみることにしたのだ。
 彼が怪物と例えたそれは、六機のエレメントアブソーバーからなるツールで、それぞれのパーツをケーブルで連結した形状をしていた。右肩、左肩、右腕、左腕、腰、背中の六ケ所にそれぞれのパーツを装備して使用するのだ。
 本来は装着者の身体を保護するために鎧のような形状になる予定だったらしいが、時間が無くなってしまったことから必要最低限の条件を満たす形にシフトし たらしい。ガワの部分が省略されたために、白衣の上からそれを装備した俺の姿は、いかにも急造の新兵器をまとったマッドサイエンティストに見えた。
「……『レッドソウル』システム起動完了。ファースト・フェイズ、スタンバイ。これより、実験を開始する。エギル、準備はいいか?」
「ああ」
 耳に直接レイの声が届く。これは装備したツールを利用し、離れていても通信が可能な機能があらかじめ搭載されているためだ。
「今からターゲットを出現させる。自由に破壊してみてくれ」
 床や壁が開き、黒い板状の的が計六枚現れた。
「分かった」
 俺が攻撃の意志をツールへと伝えると、即座に実空間へとその効果が作用していく。
 火炎弾が、氷塊が、電流が、衝撃波が、重力球が、閃光が、次々と六つの的を貫いた。
「……こいつは驚いた! まさかとは思っていたが」
 初撃で思わず口角が上がってしまった。必要最低限に削ったとはいえ、性能に関してはとても急造したとは思えない出来になっている。このツールは六属性ある各エレメント全てを同時にチャージ出来るという画期的な機能を有しているのだ。
 通常、エレメントアブソーバーというものは異なる属性のエレメントを二つ以上同時にチャージすることが出来ない。理由はチャージに使用するエナジークレ ストが複数の属性を同時に内包出来ないことに起因する。いかに生物の組織を利用したとはいえ、それは生きた生物では無い。エレメントは能力を発現させる際 に使用者の意志の影響を強く受けるため、意志を持たないエナジークレストでは発生したエレメントの性質を維持することは出来ても、変化させることは不可能 なのだ。
 そこでレイはエナジークレストに複数のエレメントを同時に入れるのではなく、各属性のエレメントを込めたエナジークレストをそれぞれ別々のアブソーバーでチャージする方式を選んだ。
 方法自体は以前から考えられていたことだったが、実現出来なかったのは制御する演算プログラムがとてつもなく複雑になるからだ。なにせ、二つの属性を同 時使用出来るアブソーバーを開発していた、とある都市の公共機関が、不完全なプログラムを用いて実験を強行したために制御不能に陥ったエレメントが暴走 し、施設がひとつ壊滅したという記録がある。火と水のエレメントを同時に使用出来るという夢のツールは、それが起こした水蒸気爆発によって露と消えたの だ。
 しかし、彼が作り上げた『レッドソウル』はそんなかつての夢をも凌駕していた。六属性を同時に使用出来るだけでも、通常のアブソーバーの六倍の性能を持 つと考えてもいいが、それを発現するアブソーバーも六機ある。単純計算で三十六倍もの出力を持つのだ。これでは、一般に出回っている護身用のアブソーバー だろうと、守備隊に配備されている戦闘用のアブソーバーだろうと関係無い。
 普通ならば出力に二倍以上開きがあれば、一対一の戦いでまず負けることは無い。この膨大な出力は明らかに多対一を想定したものだ。こんな危険な代物を一般社会で開発出来るわけがない。何の訓練もしていない素人に渡しても、都市の守備隊員約三十六人分のパワーがあるのだ。
 まさに『マルチエレメントアブソーバー』の名を冠するにふさわしい性能である。
「エギル、今の攻撃は属性こそ複数使っているが、攻撃自体は通常のアブソーバーでも可能なものだ。そのツールの真価は六属性の持つ性質を複数同時に適用出来ることにある。今度はこいつを破壊してみてくれ」
 レイがそう言うや否や、開いた壁から猛スピードで的が飛び出て来た。慌てて攻撃動作に移ろうとするが、その的は高速を保ったまま縦に横にと不規則に動き回り、単純にエレメントを放出する方法ではうまく狙えない。
「なんだこれは! どうすればいいのだ!」
 俺は思わず声を上げてしまった。
「落ち着けよ。そのツールの特性を発揮出来ればわけないさ。身体能力や感覚を上げるイメージでツールを作用させるんだ」
 そうか、エレメントを用いて五感と肉体を強化し、スピードに対抗すればいい。光のエレメントによる光に近い速度まで物質を加速出来る性質を適用し、高速 移動を行う。更に、雷のエレメントで神経の伝達速度など知覚を強化し、加速した肉体に感覚がついて来れるようにするのだ。
 強化によるスピードで的の後を追う。
 当然、光と同等以上に物質を加速することは不可能だし、仮にやったとするとエネルギーが無限大となるため、宇宙が崩壊してしまう。だから、この高速移動 は人間の肉体がダメージを受けない程度のスピードということになる。それも、風のエレメントで空気抵抗や摩擦熱を軽減し、その上で火と氷のエレメントで移 動時に発生する摩擦熱を抑えつつ、だ。
 それでも、体感ではベルが正気を失った男と戦った時とほぼ同等の速度が出ていたし、何より的が目で追えている。
「……見える! そこだッ!」
 動き回る的を捉え、闇のエレメントで下方向へ重力を発生させる。的は床へと落下し、細かく震えながらも地面から離れられずにいる。今ので壊れなかったと いうことは、この的は若干強度が高く作られているようだ。だが、もう高速移動する必要はあるまい。俺は地にへばりついたままの的に歩み寄ると、強化された パワーで的を踏み砕いた。
「いいぞ。なかなか使いこなせているね」
 今のコメントを聞く限り、まだこのツールには発揮されていない性能がありそうだ。
「これでスペックをフルに発揮しているわけじゃないんだろ?」
「当然さ。この程度で終わりと思われては困る」
 今度はシメオンのコメントが耳に響いた。
「単純な多対一の戦闘ではあれでも十分だが、これより先の機能は人間以外を想定したものになる。例えば……」
 彼は最後まで述べず、その代わりにいきなり正面の壁が開いて的が向かってきた。
「うおッ!」
 突然のことに俺は対応出来ず、とっさに顔の前を両手でかばっただけだった。的の直撃を覚悟したが、すぐにその覚悟は不要であったと知ることになった。
 的は俺に到達する二、三メートルくらいの位置で静止していた。目を凝らして見ると、正面にエネルギーの膜のようなものが発生し、食い止めていたのだ。
「……この『遮断防壁』かな。装着者の危険を感知すると本人の意志に関係無く、自動的に発動する。たとえ強化された装着者が対応出来ない状況で攻撃を受け ても、これなら確実に防御してくれる。でも、何よりこいつが優れている点は各属性のエレメントを単純なエネルギーに換算して展開している点さ。エネルギー の総量さえ勝っていれば、絶対に破ることは出来ないからね」
「脅かすな……。心臓が止まるかと思ったぞ……」
 俺が呻くと、レイが渋い声で文句を言い始めた。
「シメオン、自分が設計した機能に自信を持つのはいいが、いくらなんでも予告くらいしろ」
「この程度で驚いていたら心臓がいくつあっても足りませんよ。我々はこれから竜と戦うのだから」
「今は試験起動だぞ」
 同じ施設で研究してきたスタッフ同士とはいえ、この二人はあまり相性が良くないようだ。
「……ちょっと待て、レイ。まだ機能があるんだろ。俺は大丈夫だ。続けてくれ」
 口論になると先が長くなりそうだったので、俺は先を促した。
「……分かった」
「ふっ、そうこなくてはね」
 真逆のテンションで帰ってきた二人の返答を境に試験起動は再開され、レッドソウルの持つ能力を確認していった。

 能力を一通り確認し終えた俺達は、再度エレベーターを使い、居住区のある上の階層へ戻った。休憩を取ることにしたのだ。
 全くレイはとんでもないツールを開発したものだ。複数の属性を扱えるという利便性。多対一を想定した圧倒的な出力。装着者を守るために自動発動する機能。エレメントに関しては十年は先を行っているんじゃなかろうか。俺はその性能に素直に驚いていた。
 だが、すぐそれ以上に、別の絶望的な驚きが浮上してくる。
 隣に座ったレイから水の入ったボトルを受け取るが、すぐに口を付ける気になれなかった。
「レイ、試験起動の段階でも分かったが、『レッドソウル』は凄まじいツールだ。だが……」
 考えれば考える程、声が暗くなってしまう。
「アレを以ってしても勝てないというのか……?」
 先程、彼は調停者がいなければ勝算は五分五分だと言った。確かに都市の守備隊には十分勝ち目がある。しかし、それでも竜人族一人を倒せないというのはどういうことだ。
「……ああ」
 俺がそう質問したせいで、レイも紹介して見せる前とは打って変わって沈んだ表情になってしまった。
「現段階では人間族が扱えるエレメントパワーはアレが最高クラスだろう。だが、この【最高】では、【最強】を超えることは出来ない」
 なぜなのか。理由を聞くと、俺は更なる驚きを禁じえなかった。なんと竜人族にとっては、『レッドソウル』が操作するエレメント量がおおよその平均値だというのだ。
 俺はまだ、竜人族との力量差を正しく認識出来ていなかったらしい。以前、ベレンを逃がそうとシングと対峙したが、あれは喧嘩にすらなっていなかったとい うことだ。『赤子の手をひねる』ということわざがあるが、泣きわめく赤子の機嫌が治るまで待ってもらったと言っても決して大げさではなかったのだ。
「『レッドソウル』を用いれば、彼らと戦うことは出来るだろう。だが、それだけだ。戦うことは出来ても倒すことは実質的にはほぼ不可能なんだよ。エレメン トで相手と同等まで自分を強化したとしても、それを維持していられる持久力には大きな開きがある。ある程度粘ることは出来るだろうが、最後は結局ジリ貧に 陥って、負ける」
 彼の調べた話では、とある竜人族の戦士が、災害でライフラインが寸断され、孤立してしまった都市内の集落を救うために三日間もの間不眠不休で雷のエレメ ントを放出し続けたという記録があるという。生活するのに必要な電力を供給するために、発電機の代わりになったというのだ。その集落は百人にも満たない小 規模なものだったが、全員が三日も必要最低限の電気を確保出来たというのは驚くべき事実である。
「だから、現状で彼らに対抗するのは無理だ。僕達に必要なのは【最高】じゃない。【最適】なんだ」 
「【最適】……?」
 俺がいぶかしげにすると、彼が頷いた。
「そうだ。僕たちだけでは【最適】を見つけられなかった。――だが、エギル」
 彼の人差し指が眼前に突きつけられる。
「君が加われば見つけられるかも知れない。いや、彼女を助けたいならば君は見つけなければならないんだ。竜人族に対する【最適】を!」
 レイの言葉がずしり、と俺の心にのしかかって来る。
 後二週間……いや、彼女を助け出す準備も考えればもう後二週間も無いだろう。迫りくるタイムリミットの中で、難題を解かねばならない。俺の生物学者として今まで培ってきた力が、問われる時がやって来たのだ。
 そう思った矢先のことだった。
 ポケットに入っていた携帯電話からメールの着信音が鳴った。

 障壁を超えるための研究が今、まさに始まりを告げたのだ。
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